https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180123-00054192-gendaibiz-int

改めて中国人にとっての文革とは

 30年ほど前に買った「中国文学館」(黎波著、大修館書店)は、古代から現代までの中国文学の歴史を概括的に学ぶことができる良著だ。その中に、中華人民共和国建国(1949年)後「人民作家」と呼ばれ、文学界の重鎮として活躍した趙樹理(ちょう・じゅり)が文化大革命中(1966〜76年)に紅衛兵らの批判にさらされる場面が出てくる。

 「彼は頭に高い帽子をかぶり、首には数十斤(1斤は500グラム)もする重い鉄板をぶら下げ、机を3つ積み重ねた高い台の上に立っている。机の上に跪かせると思うと、今度は立てと迫る。その立ち上がった瞬間であった。酷い暴徒が後ろから力任せに突き落としたのだ。この一突きで(……略……)腰骨は砕けてしまい、肋骨も折れ、折れた骨が肺を突き刺してしまい…4日もたたないうちに、趙樹理同志は怨みをのんで世を去った……」

 文革の被害を受けたのは、趙樹理だけでない。「実に多くの作家、評論家、文筆家が、殺害され、獄死し、迫害されて病死し、自殺した」(同著より)。

 この他にも、国家主席だった劉少奇や、朝鮮戦争を指導した彭徳懐ら、多くの建国の功臣が文革中に死亡したほか、広西チワン族自治区では粛清の犠牲者の人肉を食べるといったおぞましい事件も報告されている(この事件については最近刊行された『文化大革命 〈造反有理〉の現代的地平』(白水社)が詳述している。)

 文革による犠牲者は公式には死者40万人、被害者1億人だが、一説には死者2000万人とも言われている。

 この「10年の浩劫(中国語で大災害の意味)」の公的評価については、1981年の中国共産党第11期6中総会が採決した「建国以来の党の若干の歴史問題についての決議」(歴史決議)では、「毛沢東が誤って発動し、反革命集団に利用され、党、国家や各族人民に重大な災難をもたらした内乱である」として、完全な誤りであったとされた。

 ところが、最近になり、この文革の災禍を「希薄化」、すなわちなかったことにする動きが大きな議論を呼んでいる。

中略

歴史決議否定に傾く習近平

 ところで、今回、教科書の内容がこのように書き換えられたのは、どのような背景からであろうか。在ドイツの中国人ジャーナリスト、長平氏は、今回の決定は最高指導者、習近平の考え方を反映したものだと、筆者の質問に次のように答えた。

 「これは習近平の『改革開放の30年によってその前の30年を否定しない』の具体的に体現したものだ。ケ小平時代、共産党の執政の合法性は改革開放にあったが、憲政民主による政治改革への要求が常に(共産党政権への)挑戦となった。習近平はこの合法性を『中国の夢』へと変え、この矛盾を解決しようとした。つまり、西側の民主を拒否するのは当然だが、文革の『名誉回復』は、共産党の統治の合法性の障害を減らすためだ」

 「改革開放の30年によってその前の30年を否定しない」とは、正確には「改革開放後の歴史により改革開放前の歴史を否定せず、また改革開放前の歴史により改革開放後の歴史も否定しない」というもので、習近平が2013年1月に行った談話に登場する言葉だ。

 1949年以降の中国の歴史を大別すれば、文革に代表される政治闘争が続いた「革命」の前30年と、ケ小平が指導者として進めた「改革」の後30年となる。

 「革命」が正しいとなれば「改革」は誤りであり、「改革」が正しければ「革命」は誤りとなる。この間政権に居座り続けた共産党の合法性は、いずれにしても問われることになるが、習はこの矛盾を「どちらも否定しない」として巧みに回避しようとしたのだった。

 もちろん、これは習が毛沢東的な個人崇拝を進める中で、毛が神格化された「革命」時代の評価を高めておきたいという意図がある。だが結果として、文革を肯定することになり、前述の「歴史決議」を公然と否定することになる。

 これについて、長平氏は「民間では共産党は『歴史決議』を守れとの声があるが、あてにならない。どのような決議を上げようが、一党独裁政権は簡単に反故にすることができる。当時は文革を否定し、現在は決議を否定できるのだ。結党の自由や報道の自由を実現し、民主政治を行うことで、文革は初めて真に反省が可能となるのだ」と指摘した。

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