【竹島問題】 「鬱陵島東南300里余りに島がある」〜朝鮮の独島領有を証明する史料「鬱陵島史跡」新たに発見[10/24]
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▲「鬱陵島史跡」が載っている「喬桐水使公輓祭録」の内容//ハンギョレ新聞社
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▲「鬱陵島史跡」が載っている「節度公両世実録」の表紙//ハンギョレ新聞社
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▲鬱陵島の捜討活動が書かれている江陵金氏の監察公派「恒吉古宅日記」//ハンギョレ新聞社
朝鮮時代後期の朝鮮の行政力が鬱陵島(ウルルンド)に及んでおり、独島(日本名・竹島)の存在も認知していたことを物語る「鬱陵島史跡」のまた別の筆写本が発見された。
東北アジア歴史財団(理事長キム・ドヒョン)は23日、財団が最近、義城(ウィソン)召文国博物館で新たに発見した「鬱陵島史跡」筆写本2種を公開し、その意味を追求する学術行事を24日に開催すると明らかにした。
「鬱陵島史跡」は、粛宗時代に三陟営将であり鬱陵島の捜討官だった張漢相(1656〜1724)が鬱陵島を「捜討」(管理・守護)した後に残した記録だ。17世紀の鬱陵島の状況と朝鮮の政策をよく語っているだけでなく、「鬱陵島東南300里余りに島がある」という内容があり、「独島領有権の守護」において重要な史料として挙げられる。
最近財団が探し出した史料は、従来知られている筆写本(「節度公両世碑銘」に収録)とは異なる異本2種で、それぞれ「喬桐水使公輓祭録」と「節度公両世実録」に載っていたという。財団側はこの史料が「朝鮮時代の捜討官と張漢相の業績に対して疑問を示す」日本の学界の一部の主張に反ばくする根拠になると明らかにした。
また財団は25日に、江原道三陟(サムチョク)地域の江陵金氏監察公派の宗家「恒吉古宅」に代々伝えられた日記史料を寄贈されることを明らかにした。全部で13冊118本と推定されるこの日記は、19世紀まで2年に1回ずつ、鬱陵島に捜討官が定期的に派遣されたことを示す重要な民間記録に挙げられる。
東北アジア歴史財団のクァク・ジノ独島研究所長は「『恒吉古宅日記』に捜討活動が記されているという事実は知られているが、まだ史料が詳しく研究されていない。今回財団に寄贈された後にさらに踏み込んだ研究が可能になると期待している」と語った。
写真・北東アジア歴史財団提供
チェ・ウォンヒョン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
http://www.hani.co.kr/arti/culture/book/866997.html
韓国語原文入力:2018-10-23 21:58 訳M.C
ソース:ハンギョレ新聞日本語版<“朝鮮の独島領有”を証明する史料「鬱陵島史跡」新たに発見>
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/31940.html >鬱陵島東南300里余りに島がある
もしかしてこれは「鬱陵島 (江原道の江陵から)東南300里余りにある島」と読む漢文だとか?
李氏朝鮮の1里は約420m、300里だと126,000m=126kmだが、鬱陵島は江陵の東南沖130kmほどの距離である。
因みに鬱陵島から竹島までは90kmほどである。 >>720
さすがにそれはない。
この資料は1694年に鬱陵島を調査した朝鮮王朝の役人による報告書だから、鬱陵島から竹島を見た姿を記したもの。
日本が竹島を編入する1905年以前に、朝鮮半島の役人が記した唯一の竹島目撃記録だろうね。 >>721
要するに実際に行ったことはないがそういう伝聞を聞いたってだけの話
支配はしていない 結局、17世紀になっても朝鮮が竹島のこと何も知らなかった証拠でしかない
古代からよく知ってた于山島が独島じゃないの?
距離も違うし、大きさ100倍以上間違うってw 東南にxxxx里に大きな島がある
と、記述されてたら日本列島所有の証拠になるんかい? >>561
日本の一里と中国の一里は違う。万里の長城の万里はたんに長いってわけじゃなく、文字通り万里なんだよ。
朝鮮半島は古来中国の属国だから、その一里は中国式で、つまり0.4km。 >>31
ならないほうがいいわ。
>>40
それ日本語だから、アメリカは日本の領土じゃないの?
>>127
半島じたい侵略してるだろ。 >>147
中国の一理は0.4kmで、属国だった半島はそれを踏襲してる。鬱陵島から竹島は120kmって記載は、現実の92kmとは大きく異なる。
>138は正しいし、それでも連中のいう独島と日本の竹島は別の島。 >>179
水平線の向こうにある120kmは目測できない。測って120kmとはじき出したわけで、92kmしかない竹島ではないということ。
ウリは計測技術がとてつもなく稚拙な劣等種族なので、120と92の区別すらできないゴミくずと言っても許されない誤差。 >>724
古代朝鮮人は我々とは異なる民族だから、面積間違うくらいしょうがないニダ。 歴史的にどこの領土だったとかは意味ない
ロシアやイギリスを見ればわかる
実効支配したもの勝ちw >>1
チョン公『納得できないなら、また新しい資料を作るニダ』 >>1
>【竹島問題】 「鬱陵島東南300里余りに島がある」
>〜朝鮮の独島領有を証明する史料「鬱陵島史跡」新たに発見
【竹島問題】 「鬱陵島東南300里余りに日本の島がある」
〜朝鮮の独島領有を証明する史料「鬱陵島史跡」の新事実 新たに判明 嬉しそうに喜んでいるようだが、
まずその資料の信憑性が無い。 >>1
島がある、だからウリのもの
なら地続きの北にも、その観点で主張してくれよ
中国、ロシアもあるぞ? 自分の領土の島に名前もつけてないのにね
遠くに島が見えるってだけの記述にしか見えない >>1
竹島のことじゃないじゃんw
鬱陵島自体は国際ルールができる前の1600年頃に、日本人が上陸していたら李氏朝鮮から異議申し立てがきて、日本は検討した結果、朝鮮所属を認めているんだよね。
それよりも昨日、5ちゃんで興味深いこと聞いたんだ。
江戸幕府は竹島上陸の許可証を出していたんだけど、李氏朝鮮王も鬱陵島までの海域を渡る許可証を出していたらしい。
海王のいるとされていた海域を渡るには、水宗っていう国家祭祀に関わるから、勝手には渡れなかったんだって。
初めて聞いたし、難しくて解らないこともあったけど面白かった。
で、鬱陵島から先の海域を渡る許可は今のところないらしいよw
ブログにあげていたひとは、鬱陵島までが李氏朝鮮の管理する領海で東海もそこまでなんだろう、って言っていた。
書き換えの痕跡が残る、鬱陵島検察日記っていう資料がソースで載ってた。
古文書や民俗学に関心のあるかたは、わかりやすく教えてください。 >>740
いや史料が本物であるという意味では、信憑性は高いですよ。
内容は従来から知られていたものですし。 >>743
追記
鬱陵島検察日記の書き換えは、李承晩の時代に自分たちに都合の良いように書き換えられていて、書き換え前後の痕跡が見えるようになっているものみたいでした 300里って1200キロ弱だろ、海里の事を言ってるのか? >>745
李承晩のころいじったならチョンの管理状態でいかにも古ぼけてホンモノらしくみえてるのだろうね >>746
昔は2キロちょいが1里
東南と言ってるからおそらくは隠岐 >>746
ここで書かれている一里は、日本の里とは違います。
李氏朝鮮は、古代中国の「周」を理想としました。
で、その距離は405メートルが一里でした。
ただ、李氏朝鮮が、原器としたのは、周代のものより少し大きかったので、
朝鮮の一里は、432メートルから420メートルぐらいでした。
朝鮮の歴史上最高の地図学者であった金正浩は、一里を正確に432メートルとしていました。
しかし、李朝末期に日本から、正確な物差しが入ってきて、一里は420メートルであると
再定義しました。そののち、1910年の日韓併合によって、日本の一里の十分の一である
400メートルないし393メートルと再々定義されています。
今日でも韓国では一里は約400メートルです。
今回のニュースは、1694年の史料なので、ここでいう一里は430メートル程度です。 >>743
訂正
1600年頃→ではないかもしれないです。
海王→海神 島があるっつってるだけでそれが自分のとこの領土だなんて一言も言ってない >>745
>>747
私も、ビーバーズ氏と日韓近代史資料集の二つのブログに詳しく書かれているのを前から
読んでいるからコメントすると、
李奎遠の報告書という史料そのものには、李承晩も李瑄根氏もいじってはいないんでしょ。
改竄したというのは、1882年に、李奎遠という役人が、朝鮮国王に日本人と遭遇した日付
を、本当は、鬱陵島から帰還する前日に偶然出会ったことなので、国王からもしかしたら
出会えなかったかもしれないではないかと咎められるのが怖くて、帰還予定日の五日
前に日本人を発見したと改竄しているということ。それと、
現代の韓国政府があの史料を隠蔽しているのは、上記の李奎遠の改竄がわかる
紙背文書の部分を隠しているということ、それと
もうひとつ、小嶋日向守さんがいうには、「東海龍王祭」という史料に書かれている記述を
李瑄根をはじめとした韓国の学者たちが、ただ「海神祭」とか省略して簡略な判読テキストに
しているということを問題にしているみたいだよ。
つまり、龍王という男の神様ではなく、媽祖という女の神様のように見えるようにインチキして
るらしい。
媽祖ならば、身分低い水夫たちの信仰で、李朝の国家宗教とは無縁。
しかし、龍王ならば、朝鮮国王が直々に祀る大事な国家の四海神となるから。 >>東南300里余りに島がある
島がある
それだけのこと >朝鮮時代後期の朝鮮の行政力が鬱陵島(ウルルンド)に及んでおり、
>独島(日本名・竹島)の存在も認知していたことを物語る「鬱陵島史跡」の
>また別の筆写本が発見された。
つまり、
1.鬱陵島(ウルルンド)までが行政力が及ぶ範囲
2.行政力の及ぶ範囲外に独島(日本名・竹島)があったと知っていた
ということですね >朝鮮時代後期の朝鮮の行政力が鬱陵島(ウルルンド)に及んでおり、独島(日本名・竹島)の存在も認知していた
竹島の存在を認知していたが、行政力が及んでいなかったことを明記してる史料の別バージョンが見つかったわけね。
行政力が及んでいなかったんだから、無主地だったわけで、日本の主張の裏付けにしかならんでしょ。 ウソをつくな
チョン猿には無理か
この人として当然のことが ただ遠くに日本の島が見えったってだけの記述じゃないの?
実際日本人はその島で暮らしてたというのに 家出て北に50m歩いたら自販機あるからその自販機は俺の物って言いたいらしい お前らのところから西に支那が見えるだろ?
「ウリの領土ニダ」って言ってみなw 独島を発見したのは韓国人だから
日本の領有権主張は違法 >>766
何の法律?
何処の法律?
何時の法律? 張漢相が鬱陵島の調査ついでに竹島を見たのは事実
ただ、国際法の発見は未成熟の権原とされており領有の根拠にならない
あと、張漢相は見た竹島を于山島と認識しておらず韓国が主張する于山島=竹島説とも整合しない >>753
ありがとうございます!
では改竄は竹島に係る事象で行われたわけではないんですね…。
レスを読ませていただいて、私は間違ってはいけない海神とレスに記載してしまったことに気づき凹みました。
返信をつけていただいて ありがとうございます。
そういった知識がなく、簡単にまとめられたものがないかと、水宗の祭祀などについてネット検索してみましたが、ほぼ見つからずハードル高いです なあ、貴重(らしい)古書に
こんなにバンバン付箋を貼り付けてもいいのか?
のちのち大変なことになるぞ
まあ、最古のサイコロをオーブンにいれちまう国だしな おまエラの目の前に中間線だか境界線だかってのの北側に土地が見えるだろ?
ウリのものニダつって旗でも建てに行ってこいよwwww 見えるところはすべて自国の領土
半島人の考えは分からんわwww >>764
韓国には
「お前の物は俺の物、俺の物は俺の物」
って、格言があるのさ
友人宅で友人の財布から勝手に金盗るのは当たり前、友人に奢らせるのも当たり前
それを指摘されたら、「友人じゃないのか?」と訳わからない抗議をするw 韓国の島とも書いてないのに、それが証拠になるなら
言わば俺んちにある世界地図を出してきてぜーんぶ領土
と言ってるようなもんじゃん。韓国の学者ってバカじゃね?! 争うのも馬鹿らしいからもう「人類皆兄弟島」に名称変更して、日韓共同で保有すれば良いじゃん!
戦争反対!平和が1番!
お互い冷静になれっ!!! >>773
「所有権」という概念がないんだよ、あの害獣にはね。 300余里=300里よりも多いと言う意味だよ
300里は120qだろ120q以遠と言う意味だ
鬱陵島から竹島までは約90qだ
違う島だろw
そして島があるって書いたからなんだ
そりゃあるだろうさ
それがどう領有権と結びつくんだ? おまえが竹島を発見したとき
竹島もまたおまえを発見しているんだよ >>781
目視だからね。120kmと90kmは誤差範囲と見るべきだろう。
だから、この島は竹島でほぼ間違いない。
もちろん、この資料は「島が見えた」と言っているだけで領有権の証明にはならない。
この後も朝鮮王朝は数年に一回のペースで鬱陵島を巡視しているが、これ以降は竹島の目撃記録はゼロ。
当時の朝鮮人にとって、鬱陵島の東側の海は日本との国境であり、巡視の範囲外だった。 >>783
> この後も朝鮮王朝は数年に一回のペースで鬱陵島を巡視しているが、
> これ以降は竹島の目撃記録はゼロ。
これこそ「竹島が朝鮮領ではない」という確固たる証拠なんだよね。
一度は竹島を発見しておきながら、その後再発見はなし。
さらに見えていないことを気にしてもいない。無論、竹島に行った記録もなし。 300年前の朝鮮半島は中国だろ
さっさと朝鮮半島を中国に返還しろよ 毎年毎年、毎回毎回、「新たに発見」・・・
そんなに必死に史料さがして、歪曲しないと、領土主張も出来ねーのかw
端から、無理ゲーなんだよ。 x月x日 南東300里くらのいの所に島が見えたから行ってみることにしたニダ
x月o日 波が高くてとても航海できる状態じゃ無かったから行くのやめたニダ
って書いてあるんだろ? >「鬱陵島東南300里余りに島がある」という内容があり、「独島領有権の守護」において重要な史料として挙げられる。
アホも大概にしとけや。 「鬱陵島東南300里余りに島がある」という記述は、その島を領有していない事を証明している
領有しているのなら「鬱陵島東南300里余りに○○島がある」等と島の名称を書く 南東の方角に島があるのである。名前はまだ無い。誰のものかとんと見当がつかぬ。 >>791
誰のものであろうとウリのものニダけど? 鬱陵島から見えるから韓国の領土。
ギョンドク先生もそう仰ってた。 対馬から北西に陸地が見える、という文書が残ってたら半島が日本領になるのかと 鬱陵島東南300里にあるのは日本の領土です
悪しからず 疑問なんだが、なぜネトウヨは竹島の領有権に拘るんだ?
なぜ竹島が南朝鮮のものであってはならないと思うのか不可解でならない
ネトウヨは日本が何のために竹島を守るべきだと考えているんだ? >>788
行ってみるなんて考えた形跡すらないよ。 鬱陵島東南300里余りに島がある
名前はまだ知らない
はい、そこは日本領竹島です 嘘は100回言っても嘘。
朝鮮人が言うことは、いつも嘘。
朝鮮人は、その存在が害悪である。 >>800
何処をどう読んだらそんな解釈になるか
勿論説明できるんでしょうねえ?
一行居士のピンポンダッシュ坊やでないなら
やってみ
(。-∀-) >朝鮮時代後期の朝鮮の行政力が鬱陵島(ウルルンド)に及んでおり、独島(日本名・竹島)の存在も認知していたことを物語る「鬱陵島史跡」のまた別の筆写本が発見された。
さすがに
朝鮮時代後期なら竹島の存在くらいは知ってただろw
アホな民族 1692(元禄5) 大谷、村川家らが、「竹島(鬱陵島)」に出漁してきた朝鮮人漁民と遭遇。
1693 日本船が朝鮮漁民2人を連行(安龍福事件)。安の「松島は即ち子山島」虚言がのちに韓国史実化。
安の密漁を機に朝鮮では三年に一回、捜討使を欝陵島に派遣、捜討使が1771年『欝陵島図形』提出
1694 張漢相「蔚陵島事蹟」に「東望海中有一島杳在辰方而其大未滿蔚島三分之一不過三百餘里」
<東南三百餘里以内に鬱陵島の三分の一程度の大きさの島がある>の記述。現・竹島を指してると
思われるが、すぐのちには「登島山峰審望彼國之域則杳茫無眼杓之島 其遠近未知幾許」
<島の山峰を登って彼の国(日本)の域を望んだら、遠近は幾何か知れない(程)遠い「杳茫(遥かに
遠く)眼杓(目立つ・目標となる)島はない>(安龍福事件の翌年)事件で現・竹島の存在を聞き及んで
か、島名も記さず言及しているが、再度見ることはできていない。
1696 幕府「竹島(鬱陵島)」渡航禁止(「竹島一件」1692~)。鬱陵島韓国領で決着、現竹島は論争外。
1697[2/14] 朝鮮政府が安龍福の日本侵犯を謝罪「至於漂風愚民 設有所作爲 亦非朝家所知」
<(安龍福は)漂風の愚民に至りては、設ひ作為する所あるも、朝家(朝鮮政府)の知る所に非ず>
[3] 朝鮮政府、「呈書のことについては誠に妄作の罪あり」と文書で日本に通告し、安龍福を流刑に。
1699 王朝記録「粛宗実録」を基に鬱陵島探査した官製地図「鬱陵島図形」(1699版)が、
「竹嶼」の位置に「大于島」、「観音島」の位置に「小于島」と記載。
1702 「鬱陵島図形」(1702版)、1699版に同じ。朝鮮王朝の認識では鬱陵島の属島は「竹嶼」と「観音島」
1711 鬱陵島検察使の朴錫昌らが鬱陵島に渡った際に作成した地図「鬱陵島圖形」(1711版)では、
陵島の東側に『海長竹田所謂(いわゆる)于山島』と書かれた島が存在。『海長竹田』とは
「海長竹の生えている場所」であり、この地図において、于山島=竹嶼(チクトウ)
その後、『海東地図』、『廣輿図』『輿地図』『八道輿地図』『地乗』等も踏襲、
『東国輿地勝覧』系譜の于山島像は修正され、それが朝鮮の近代にまで及ぶ地理認識に。
宝暦年間1751-1763 「竹島図説」に「隠岐国松島」から40里に「竹島」と記述。現・竹島は隠岐の国に属していた。
1769 「英祖実録」「承政院日記」に、英祖王が提調・元仁孫に鬱陵島絵図の提出を命じたが、
現・竹島を「日本山」と記し、日本領とみなしている。視認不可能のため「日本山」の地図記載を見送る。
「日本山望見者, 亦書標以入, 可也。」「仁孫曰, 鬱陵島地圖入之, 而日本山則無所望見, 故不爲畫矣。」
1770 『旅菴全書』「彊界考」の<按ずるに、輿地志に云う、「一説に于山、鬱陵本一島。」而るに諸図志を
考えるに、二島なり。一つは則ちその所謂松島にして、蓋し二島は倶に是れ于山国なり。>を底本
に、『東国文献備考』「輿地考」が <輿地志に謂う、鬱陵、于山皆于山国の地。于山は即ち倭の
所謂松島なり>安龍福事件(1693)で、<安龍福証言「松島即ち于山島」>の曲解証言(『粛宗実録』)
で知った、「松島」名を古来の『輿地志』の于山に強引に結びつけたものと思われ。もともと松島
(現・竹島)所在が未把握だから「松島」「竹島」名は鬱陵島付属小島(現竹嶼)に収斂され「松竹島」に。
■竹島年表
【国連】竹島不法占領非難決議可決 4【安保理】
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/1291650418/14-29,152,153,418
https://go●o.gl/Hl8C2K
■竹島関連情報
【国連】竹島不法占領非難決議可決 4【安保理】
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/1291650418/1-10,30-71
https://go●o.gl/DRzqpE
2018/09/18
【韓国】日本政府、『竹島は日本の領土』と主張する史料を内閣官房ホームページに掲載・・・執拗な領土挑発[09/18]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1537228037/287-289,368,370,376,377,384,385,390-393 >>1
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蔚陵島事蹟
甲戌九月日江原道三陟營将張某馳報内蔚陵島捜事去九月
十九日巳時量自三陟府南面荘五里津待風所發船漉R曾
已馳報為有在果僉使與別遣譯官安慎徽領卒諸役各人及
沙格并一百五十名騎船各一隻水汲船四隻良中從其大小分
載同日巳時量囬西風開洋是如乎戍時到大洋中波濤險
巇之勢五里許二處是乎所必是水宗而諸船為波浪所觸
一時渙散無適所向是如乎同月二十日子時漸入深洋K雲自
北蔽天而電光閃鑠影K波心狂風猝起驟雨隨至怒涛飜
空海雲相盪所乗船隻若浮若沒危險罔狀船中之人莫不失
粛宗二十年甲戌九月日(1694年10月19日から11月16日)
江原道三陟鎮右営将の張某が報告した鬱陵島捜(討)の事
去る九月十九日の朝十時頃、三陟府の南面荘五里津の待風所から発船した事については
すでに報告したとおりである。
僉使(張漢相)は、別遣の翻譯官である安慎徽と共に諸役の各人および船員(漕手と船頭)
など併せて150人を領率して、二隻の大船の騎船と卜船にそれぞれ乗船した。
四隻の補給船には、大小によって荷を分載させた。
同日朝十時過ぎ頃に西風が吹いたので出港した。
午後八時頃、大洋の真只中で、波濤が危険で潮が激しい所が五里(2.2q)程の幅の内に、
二箇所あった。これはきっと海の境界である水宗というものであろう。高波を避けられず、波
浪のために船団がばらばらになり、それぞれの所在が分からなくなってしまった。
九月二十日(グレゴリオ暦11月7日)の夜の零時頃には、深い外洋にゆっくり入っていった。
黒雲が北からやって来て天を蔽い、電光が閃いて波に影が映っていた。
突然強風が吹き荒れ始め、続いて俄に雨が降り始め、怒涛が空に翻り、雲も海も互いに揺
り動かされて、乗っていた船は、浮くが如く沈むが如く、危険な状態となった。
船中の人々は正気を失わないものはなく......
https://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/58249092.html
小嶋日向守さんによる判読と意味通釈 今風に言うと東京に行くと小笠原諸島に行ってきましたみたいな感じだな >>796
領海の意味もわからずにただ守っているだけの自称大陸国家() >>814
俺は人類学者だが
韓国人は頻繁に嘘をつくよ そんな都合よく異本が存在してる時点で怪しさしか…… >>817
さほど重要な内容がある史料ではないし、一応本物の史料でしょう。
題名は正しくは、『蔚陵島事蹟』と書いて、従来から知られていたもの。
最初に書かれたのは、1694年11月だった。
従来から知られていた写本は、誤字が多いものだった。筆写された年代は、おそらく
1842年にだろう。(1782年の可能性もある)
そして、今回発見された写本は、多分1722年頃までに筆写されたもの。
ところが、題名が異なる別の史料『西渓雑録』にほぼ同じ文章があって、それは1703年
以前に筆写されたもので、内容を細かく読むと、実は日本側に有利な史料であること
が分かっている。 ウリは世界中の大陸を知っているから全部ウリナラの領土ニダ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています