本記事は播田 安弘『日本史サイエンス〈弐〉 邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵、日本海海戦の謎を解く 』(ブルーバックス)を抜粋・再編集したものです。
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日清戦争の勝利
 1870年代から1880年代にかけて技術変革が急速に進んだ日本は、軍艦も自国でつくるために英国に技術者を派遣して建造技術を学ぶとともに、20・3cm砲を搭載した装甲艦3隻(扶桑、金剛、比叡)を発注して、海軍の戦力を整えていきました。

 当時の日本をめぐる世界情勢をみれば、朝鮮半島にいつロシアが攻め込んでくるかわからないという懸念がありました。もしもロシアが朝鮮を植民地にすると、豊臣秀吉の時代にスペインが脅威だったのと同様に、日本は深刻な危機に直面することになります。これをなんとか阻止することが、近代化の道を歩みはじめた新興国家にとって最初の国防上の課題でした。

 しかし、朝鮮に影響力をおよぼそうにも、当時の朝鮮は清の属国であり、介入ができません。そこで日本は、鎖国していた朝鮮に開国を迫り、江華島に軍艦による威嚇射撃を行うという強引な手段に出ます。これにより、朝鮮国内では清から自立して開国しようという独立派によるクーデターが起こり、日本はこれを支援しましたが、清軍によって鎮圧されてしまいます。このとき日清両国の間では、互いに断りなく朝鮮に兵を出さないという天津条約が結ばれました。

 日本の朝鮮への野心を感じた清は、日本を仮想敵国として意識し、軍備を整えていきました。日本海軍が英国から装甲艦3隻を購入したのを知ると、清も海軍の整備に着手し、ドイツの造船所に2隻の戦艦を発注します。12インチ(30cm)大砲の回転式砲塔を2基、艦の前後に配置し、堅固な装甲を船体すべてに施した「定遠」と「鎮遠」です。この両艦によって日本海軍を凌駕する陣容となった清国海軍は、日本にとって脅威となりました。

 1894年、朝鮮で反政府勢力による反乱(東学党の乱)が起こると、清は朝鮮の救援要請に応じて派兵しますが、日本はこれを天津条約違反であると糾弾して出兵し、反乱鎮圧後も朝鮮の独立や開国を求めて兵を退きませんでした。こうして両国の緊張は高まり、ついに日清戦争が始まりました。日本にとっては秀吉による文禄・慶長の役以来となる外国との戦争であり、列強のあいだには、見よう見まねの近代化を始めたばかりの小さな国が大国清に勝てるはずがないとの見方もありました。

 同年9月の黄海の海戦では、大型戦艦の「定遠」と「鎮遠」を含む11隻からなる清の北洋艦隊と、11隻の装甲巡洋艦を擁する日本艦隊とが交戦し、世界で初めての近代的な軍艦が激突する海戦になりました。北洋艦隊は合計22門の30cm大口径砲、20門の中口径砲を装備し、日本艦隊は12門の30cm砲と24門の中口径砲、そして66門のアームストロング速射砲を備えていました。

 中心に「定遠」と「鎮遠」を据え、左右の横陣を張って向かってきた清に対し、日本は「吉野」を先頭艦とした高速巡洋艦4隻と、日本三景から名をとった三景艦と呼ばれる「松島」「厳島」「橋立」(図3‐3)を主体とする6隻の戦隊という二つの単縦陣で、相手の右翼を迎え撃ちました。スピードある単縦陣による艦隊単位の速射砲攻撃が功を奏し、取り囲まれた北洋艦隊は数時間ののち、巡洋艦5隻が撃沈されて、黄海の海戦は日本艦隊の勝利となりました。

 北洋艦隊は威海衛の旅順港に逃げ込み、日本は黄海と渤海の制海権を掌握しました。それは清の首都北京が素通しになることを意味しており、また、翌年には北洋艦隊が威海衛の戦いで日本の陸海軍共同作戦により壊滅したことから、清は講和を申し入れ、日清戦争は日本の勝利に終わりました。

 近代国家に生まれ変わって初めての勝利をあげた日本海軍は、黄海海戦での教訓をおよそ次のように分析しました。

(1)速力があり、訓練が行き届いた艦隊による攻撃は有効である。
(2)速射砲は従来の砲よりも有効である。
(3)だが中口径の速射砲は敵艦の装甲を破壊する決定力に欠いていた。一方で大口径の「松島」「厳島」「橋立」は目標に大砲を向けるのが遅れ、有効な砲撃が一発もできなかった。
(4)強固な装甲は砲弾に対して高い耐久力を有する。

 これらの反省から、高速で航行し、発射速度の速い大口径砲をもち、強固な装甲を施された戦艦群をそろえることが重要であると理解されました。日本海軍はこの指針に沿って、次なる戦いに向けて軍備の増強を進めました。想定されていたのは、対ロシア戦でした。

全文はソースで
https://news.yahoo.co.jp/articles/2d78a504231685d11ea23088d752eb769423165b?page=1