一人の青年がいる。背が高くハンサムで、さわやかな笑顔に性格もよく、卓越した野球の実力まで兼ね備えた青年だ。ドラマや映画でなく実際にこのような青年が存在すれば、どの娘の親もときめくのではないだろうか。

大谷翔平のことだ。ホームランを打ってベースを回る彼の姿は見ている人を微笑ましくする。ある日は打者が全く反応できない速球で、ある日はフェンスをはるかに越える本塁打でスポーツニュースに顔を見せる大谷は、いつの間にかいかなる抵抗感もなく私たちの警戒心を取り払って入ってきた。

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最近の言葉で、非現実的に完璧な人物が現実の中に登場した時には「マンチンナム」と呼ぶ。「漫画を破って出てきた男」の略語と理解できるが、大谷は誰が見てもこの言葉のために存在する。容姿、性格、人格、努力、誠実、自己管理、実力など野球選手としてだけでなく、人間が備えるべき徳性を見せる完璧さは「マンチンナム」そのものだ。

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大谷にあふれる関心と愛情は孫興慜(ソン・フンミン)とは異なる。孫興慜を眺める私たちの視線に民族主義のプリズムが入っているのなら、大谷には美学的な賛辞が隠れている。言い換えれば、孫興慜には愛国のにおいがするなら、大谷には美しい青年を眺める美学の楽しみがある。

では、なぜ私たちは大谷を美しい青年として眺めるのだろうか。そこには私たちの現実の中の青年の美しくない現実の陰画があるからだ。韓国の青年は自分の人生を美学的に生きていくことができない。大谷が高校1年でマンダラートを完成した時、韓国の青年は言語と数理の領域の正解を見つける技術を習得する。大学生になっても美学的な生き方は自身のものにはならない。スペックを積み上げたり、裕福でない親を恨んだり、アルバイトで学費を稼いだりする。こういう息が詰まる回路のような生活は社会人になってからも変わらない。その姿を青年でないすべての国民が共に見守る。低い出生率は青年たちがそれなりに美学的に暮らしてみようとする最後の選択の結果なのかもしれない。

大谷が美しく見えるのは、暗い私たちの青年の肖像が最も華麗で完璧な異国の青年の姿に投影されたからだ。大谷に対する視線は、逆転ホームランを期待できない定められた結果に敗北するのを望まず、非現実的な「マンチンナム」にしばらく自分を重ねてみるものと言ってもよい。大谷がパンデミックの憂鬱な時間に私たちを訪ねてきたという事実はこのような心証に可能性を付与する。

卓越した個人が共同体を引っ張っていく時代は過ぎた。率いる英雄もなく、率いられる大衆も存在しない。それでアベンジャーズとマーベルシリーズに夢中になる。この時代の英雄は歴史の救援者でなく、日常のつらさを慰やしてくれる「マンチンナム」に存在する。

来年3月にその「マンチンナム」が韓国に来る。その時まで青年たちが元気を出して過ごすことを望む。打席に入った大谷のように注目される青春ではないとしても、自分の暮らしに下を向かず堂々と生きることを3月に高尺(コチョク)ドームの打席で感じ取ってほしい。

キム・ジョンヒョ/ソウル大研究教授・体育哲学
https://news.yahoo.co.jp/articles/2c49a00b75f0ccd45495cc351b5daf2da0ff7c7f