夏目漱石を読む・小説・その思想 [転載禁止]©2ch.net
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主な著書(小説)
「坊ちゃん」
「吾輩は猫である」
(前期三部作)
「三四郎」
「それから」
「門」
(後期三部作)
「彼岸過迄」
「行人」
「こころ」
「道草」
「草枕」
「虞美人草」
「明暗」
「夏目漱石論」蓮實重彦
「夏目漱石」江藤淳
「夏目漱石を読む」吉本隆明
「漱石論集成」柄谷行人
「 漱石名言集
女には大きな人道の立場から来る愛情よりも、多少義理をはずれても自分だけに集注される親切を嬉しがる性質が、男よりも強いように思われます。
もし人格のないものが無闇に個性を発展させようとすると、他を妨害する。権力を用いようとすると、
濫用に流れる。金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。随分危険な現象を呈するに至るのです。
世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから、他にも自分にも解らなくなるだけの事さ。
のどかな春の日を鳴き尽くし、鳴きあかし、また鳴き暮らさなければ気が済まんと見える。
その上どこまでも登って行く、いつまでも登って行く。雲雀はきっと雲の中で死ぬに相違ない。
登り詰めた揚句は、流れて雲に入って、漂うているうちに形は消えてなくなって、ただ声だけが空の裡に残るのかもしれない。
考えてみると世間の大部分の人は悪くなることを奨励しているように思う
。悪くならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。たまに正直な純粋な人を見ると、坊ちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。
離れればいくら親しくってもそれきりになる代わりに、いっしょにいさえすれば、たとい敵同士でもどうにかこうにかなるものだ。つまりそれが人間なんだろう。 漱石名言集
運命は神の考えることだ。人間は人間らしく働けばそれで結構だ。
人間はね、自分が困らない程度内で、なるべく人に親切がしてみたいものだ
嫌な女も好きな女もあり、その好きな女にも嫌なところがあって、その興味を持っている全ての女の中で、
一番あなたが好きだと云われてこそ、あなたは本当に愛されているんじゃありませんか?
色を見るものは形を見ず、形を見るものは質を見ず。
自己を捨てて神に走るものは神の奴隷である。
真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。
真面目に考えよ。誠実に語れ。摯実に行え。汝の現今に播く種はやがて汝の収むべき未来となって現わるべし。
恐れてはいけません。暗いものをじっと見つめて、その中から、あなたの参考になるものをおつかみなさい。
自分の好きなものは必ずえらい人物になって、きらいなひとはきっと落ちぶれるものと信じている。
道徳に加勢する者は一時の勝利者には違いないが、永久の敗北者だ。
自然に従う者は一時の敗北者だが、永久の勝利者だ。
表面を作る者を世人は偽善者という。偽善者でも何でもよい。表面を作るという事は内部を改良する一種の方法である。
わざわざ人の嫌がるようなことを云ったり、したりするんです。
そうでもしなければ僕の存在を人に認めさせる事が出来ないんです。僕は無能です。
仕方がないからせめて人に嫌われてでもみようと思うのです
前後を切断せよ、みだりに過去に執着するなかれ、いたずらに将来に未来を属するなかれ、満身の力を込めて現在に働け。 何年前の名言をひきづっているんだろうね。
今の道徳観は昔のそれとは違うでしょ。
体制に逆らう事が自己証明だと思っている愚か者達。
巨大な力を乗りこなせない永遠の反抗期だよ君らは。 >>4
> 何年前の名言をひきづっているんだろうね。
>
> 今の道徳観は昔のそれとは違うでしょ。
>
> 体制に逆らう事が自己証明だと思っている愚か者達。
>
> 巨大な力を乗りこなせない永遠の反抗期だよ君らは。
ナンセンスなレスですね
漱石の作品は明治期から大正にかけての社会が舞台になっていますが、
主人公は専ら、社会に組み込まれた一般的な社会人ばかりです。
初期の「それから」の主人公代助などは、高等遊民として生きていますが、最後に兄貴に怒られて仕送りを止められて、
就職しています。
社会道徳なども今と重なっている部分が多く、世間などの人や問題も今とさほど変わりません 社会に組み込まれた一般的な社会人、そういう表現を使ってしまう。
高収入サラリーマンと高等遊民(笑)
どちらが良いという事ではない。その内面は同列ということだ。
社会に組み込まれてしまった。などという表現が「上から目線」
現実的敗者の嫉妬をにじませている。 代助君の家庭は裕福だったようだが、そうではない人達は漱石の前にまずハローワーク。
年収がひとつのステータスシンボル(能力の高さの証明)になる事実に変わりはない。 所属不安がアジテーションに引っかかるというのはないと思う。
そうじゃなくて、そういう警鐘が人を荒廃させる。 >>6
何を仰りたいのかよくわかりませんね。
社会に組み込まれたという表現が上から目線なのですか?
まったく不全感ですよこの人は 煽られた側に忍耐と節度を求めるのはちと厳しいですよ。 その煽り方が何とも人の節度がキャンセルされてしまうような種類のものに感じられる。 全てがどうでも良くなるような煽り方なんだよね。
俺こんなじゃないのに。
良いスレなのに荒らして申し訳ない。 受動的、奴隷化とも別視点によってはとれる。
年収=定期的にあるであろう収入は人間にとっての最重要課題「子育て」
におけるひとつの保証となる。
婚活において年収がひとつの目安になる。それは合理的判断だと言えるし当然の判断。 別収入は重要じゃないとは誰も言ってないじゃないですか。 社会に組み込まれていようがそうでなかろうが関係ない。
「年収」を上昇させる手段として社会を利用しているのであれば
そして「結果を出している」のであればとやかく言われる(内面のありかたに対する諸問題)筋合いはないってこと。 逆に「それから」はいかに収入というものが何を意味するのかという事を、高等遊民を主人公にする事によって、テーマにして描いてる気もしますよ。 代助君は読めば読むほどダメ人間すぎるね。裕福な家庭出なかった場合の彼を想像すると恐ろしくなるね。 裕福な家庭でなければ普通の社会人をやってるんじゃないかな。
冒頭だけしか読んだ事ないけど。 代助の軌跡。
自由気ままに親の金で生活する。友人の妻に好意を抱く。告白する。親父に感動させる。
「俺、これからがんばる」 代助は社会的欲望が希薄な人なんじゃないかと思う。
高等教育は受けたけども、それを使って社会において何かをしようという欲望がない、幸か不幸か実家が裕福なので特に何もせずにも差し当たり暮らしていける。
そこに女性が出てきて全てが換わるようだけど。 名誉も社会正義への興味もないが、なぜか人の妻に執着してしまう。
そこから色々変わりだすと。 この女性は当然人の妻でないといけない。
社会通念に抵触しない普通の女性であれば、仮に代介がそれに執着し社会的に行動する事を余儀なくされたとしても、社会との間に亀裂は生じず、調和を取ったまますんなり社会に移行できる。
親の会社に就職するとか。 代介は平穏な生活が望みのエピキュリアンかもしれない。
しかし何故か他人の妻を奪ってしまう訳だけど。 漱石の初期三部作は主人公や登場人物、舞台装置は違いますが、
基本的には繋がっています。「それから」に次ぐ「門」で代助のその後がわかります。
主人公の名前は代助から宗助になり、代助が告白した女性はお米と名を変えて一緒になって暮らしてます。
宗助は親友の安いを裏切りお米と一緒になった社会道徳の罪人として、それを心に秘めて生きております。
宗助は迷いの境地に立ち最後に禅寺にいって、自分の迷妄や煩悩を振り払おうとしますが・・・ そこから初めて彼における平穏が破られて外力が自己の領域に侵入してくる。 「それから」というのは近代社会におけるエピキュリアン的生活の不可能性を描いてるのかもしれない。 他人の所有物を欲する。そういった下衆野郎の心理を巧みに描いてるってこと。
どんなに理由をつけようが不倫は不倫。
主人公の内面は再犯防止の為に役に立つがそれを美化すべきではない。 俺にもそういう所はある。
他人に自分を認めさせたい、他人の評価するものを手に入れてそれを見せたい。
ネットだとそういう部分が出てくる、 ネットを見ると名誉が欲しくなるし出世したくなる。
代介が、他人から奪って妻にした三千代をそういう風に見ていたかどうかは、読んでないので分からない。 冒頭だけ覚えてる。
起きてすぐ自分の心臓の鼓動を確認して安心する。それから鏡で自分の顔を見てまた安心する。
代介は劣等感が無かった人だと思う。 しかしネットを見ると教養を武器に名誉を得てそれで自由に振舞う人を目にする。
そういう時に劣等感が出て来て、それに反抗したい、あるいは凌駕したいそういう欲望が出てくる。 代介は縁側でぼうっとしててもなんの焦りも感じないそういう人なんだと思う。 反知性主義とかヤンキーとかあったけど、教養がないと言われっぱなしじゃないですか。 >>35
にちょっといやらしさを感じるね。劣等感だけではないでしょう。
自己顕示欲を刺激され購買意欲を呼び起こされる。
そこまで思考すれば「金のなる種を撒く」という発想に到達する。
>>30
手前あたりにフランスかぶれ、ポストモダン的印象を受ける。
いまどきその手法は流行らないんじゃないか? 自分の場合は、劣等感から自己顕示欲が出るという事ですね。 劣等感からそのままボケーッと縁側でオナニーしてたのが代助君でしょ。
自己顕示欲とは逆ですね。 すまん、しかし言うけど、漱石と評論てこんな感じかとやったら失敗した。 >>47
堅いこと言うなって。in哲板では重複してないし、2ちゃん全体で専用が一つなんて誰が決めたよ?
漱石の場合、思想的にも哲学的にも意義がある作家だし、論評も非常に多い。面白いやん >>2
>女には大きな人道の立場から来る愛情よりも、多少義理をはずれても自分だけに集注される親切を嬉しがる性質が、男よりも強いように思われます。
私に優しい人がいい人で、私に厳しい人は悪い人か・・よくいるね オタクの考えるルールで細かいんだけど機能的でない場合が多々あるな。
2ちゃんのルールなんかも、そんなこといったら全部規制になるとか、そういった感じの不機能なものが多い 川崎寿彦を読む、もこの仲間に入れてもらえぬかな
川崎も英文学者としては屈指だぞ >>51
どうぞ。なんか書いてみてください。
僕も実を言うと「行人」「虞美人草」「明暗」は読んでないのです。面白い場面があれば誰か書いてみてくださいね^ ^ 英文学者というと夏目漱石や斎藤勇が先ず思い浮かぶ。
漱石は批評の足場を東洋(日本文化や中国文化)に置いて、日英の文化を批判摂取しようとした人物、
斎藤勇、初代日本英文学会会長、はキリスト教という足場から英文学を理解しようとした人物、
川崎寿彦は英国人の考え方を貫くギリシャ古典とキリスト教思想を足場に、イギリス人の物の味方
日本人の物の見方を批評しようとした人物である、と大雑把にまとめることができるのではなかろうか。
いきなり大上段に振りかざすような論調になったが、多分正しいと思う。 漱石の文明批判を見ておりますと、自分としてはその批判、批評が実際に正しいかどうかを私が理解したり納得したりできる器量を
持ち合わせていませんが、漱石の言う時代の病理というものも現在の社会が抱えているものとそんなに違わないように思います。
世間の見方というものや社会に生きる人々の問題も文明というよりは人間社会そのものの病理のような気がしてなりません。
それは普遍的というか西洋文化を受け入れた結果がどうなっているとか言うことはわかりませんし
封建社会と自由主義社会の違いは感覚として全然わからないのですが言葉をあやつる人間の病理として
私は受け取っています。 吉本隆明が言うには、時代の病理を言う漱石にはパラノイアの傾向があって、それが文明批判に影響を与えていて
実際に言う漱石の時代の病理は実は、漱石自身の病理に置き換えられるということを仰っておりました。
だから、時代の病理はないとまで仰っられています。
柄谷行人は大真面目に時代の病理について論じていたような記憶があります(違ったかな?)
まあ、実際僕にはまったくわからないのですが、漱石の神経質な傾向についてはわかるような気はします >>49
女は人類愛があります。それは自分の子供や子供の種に対しての人類愛です。
万人に愛を注ぐという人類愛はないように思います。子供を持つ女性は世間に対して
子供を持つ自分が一番偉いという自負があるように思います。この自負は女としての生理的傾向が
出始めた時から始まります。
そういう女性ですから自分への特別扱いは男の義務だと考えております
漱石の小説は一貫して、2人の男がいて主人公が1人の女性を巡ってもう1人の親しい友人や肉親を出し抜いたり裏切ったりします。
それに対して主人公は神経症的に思い悩むという物語ばかりです。
例えば「こころ」のKと先生。例えば「門」の安井と宗介。「行人」の長井一郎と二郎 >>56
長らく文学について考えたことがなかったが、漱石の問題の一つにはエゴいうものがあった。
明治の日本人は封建の主従から抜け出して、いわば西洋的な一個の独立した存在としての個を確立
する必要に迫られていたが、個が主従から抜け出ようとしたとたん、今度は個と個の安定した関係
を破る要素としてエゴというものが前面にでてしまう、ということがあったんだと思う。 >>57
まあ、あんまりうまくは掴み取れませんが、近代のエゴイズムがあったとして
「こころ」の先生のような人のエゴイズムが近代のエゴイズムと関係していたということでしょうか?
先生がKに対して抱いた狡猾で残酷な感情が時代の病理となるのかどうかわかりませんが、
あのような感情を抱くことは日常に何度かありました。好きな女を友人と取り合いになった時に
ああいう風な人を出し抜くようなことをしようとしたこともある気がします。
これが西洋文化を取り入れた日本の病理になりうるか?あれ?そんなこと誰も言ってなかったかな?
夏目漱石に習って文学作品を一つ書けそうな気がするなあ。うーん。どうだろうな。
太宰治や三島由紀夫の文学は重いんだよな。理解しきれない部分がある。
人間にというか自分にはないなあと思うのですよ。ああいう文学は。わかんないなあ。あるのかなあ。
夏目漱石の人間は僕にもある。谷崎潤一郎の悪魔主義も僕にはあります。
中上健次も理解はできるけど僕にはないところが多いんだよな。そういった意味で夏目漱石て好きなんですよ しのちゃんも「行人」読むんじゃよ
みんなでBOOKshortだそうよ。賞金100万円
http://bookshorts.jp/ 社会学者が嫌いとか我慢できないとか言ってしまったが全然そんな事は無かった 漱石と病気
漱石は、歳を重ねるごとに病気がちとなり、肺結核、トラホーム、神経衰弱、痔、糖尿病、
命取りとなった胃潰瘍まで、多数の病気を抱えていた。『硝子戸の中』のように直接自身の病気に言及した作品以外にも、
『吾輩は猫である』の苦沙弥先生が胃弱だったり、『明暗』が痔の診察の場面で始まっていたりするなど、
小説にも自身の病気を下敷きにした描写がみられる。「秋風やひびの入りたる胃の袋」など、病気を題材にした句も多数ある。
酒は飲めなかったが、胃弱であるにもかかわらずビーフステーキや中華料理などの脂っこい食事を好んだ
[35]。大の甘党で、療養中には当時貴重品だったアイスクリームを欲しがり周囲を困らせたこともある。
当時出回り始めたジャムもお気に入りで、毎日のように舐め、医師に止められるほどだったという[36]。
また、漱石は天然痘に罹っており、自分の容姿に劣等感を抱いていた。しかし当時は写真家が修正を加えることがよく行われており、
今残っている写真には漱石が気にしていた「あばた」の跡が見受けられない。 漱石と鴎外
望まれぬ末子として江戸の町方名主の家に生まれ、薄幸な少年時代を過した漱石が反官的(国家に反抗する姿勢)な態度を貫いた事に対して、
津和野藩典医の長男として早くから家族中の期待と愛情により育てられた森鴎外は死ぬまで国家官僚の職を歴任し、
官側の人間で在り続けた、という対照が在る(夏目漱石は「低徊派」、森鴎外は「高踏派」と呼ばれた)。
しかし、その一方では二人共、自然主義文学の姿勢≠ニははっきりした距離を保ちながら洋の東西を問わぬ広い知識を以て文学活動を進め、
歪んで行く近代化に於ける価値観の主流に於いても自分達の認識をしっかりと見据え、
後続の文学世代に相応の影響を与えた。 どんな本をお読みですか?と言われた時に、夏目漱石など読んでますというと微妙な空気が流れるな。本当に好きなのに
どんな音楽聴いてますか?と聞かれた時に、ビートルズ聴いてますと言うのと同じ感じ
オーソドックスすぎる名前なのと実際みんな読んでねーからまったく話しにならん。
ピース又吉が太宰太宰と連呼するのが胡散臭いのと同じでもある。
本当にこいつわかってるのかという感じ 古典というのは読んでみると趣深い。
ちなみに太宰治は人間失格だけを読んで感銘を受ける人間はおれはいいとは思わない。
太宰は中期の人間の善徳について書いた作品がある。吉本隆明も言ってたが、
人間失格には中期で突き詰めた人間の本質についての考えが何も書かれていない
人間失格は完全に自分を欺いて破滅へ向かってしまっている。中期の価値を最後の自伝に書かずに
最後まで道化を演じてしまったのは
作家としては物足りない。同じ無頼派に位置づけられる坂口安吾と比べると完全に物足りない 文学作品も学術書や哲学書も大量には読めない。
ああいったものを大量に読める人間は才能だよな。凡人は読み進められない。
実際文学も特別有名なのしか読んでない。そのなかでも夏目漱石はだいぶ読んだ方。
夏目漱石読んだら谷崎潤一郎と三島由紀夫を広く深く読んでみたいんだけど全部読む器量は自分にはないなあ。
横光利一と埴谷雄高も深く読みたいけど、はっきり言って読めない 門に出てくる御米と宗助の夫婦生活について
実にほのぼのとした絶妙な夫婦のやり取りが特徴的だが、宗助は親友の安井から御米を奪った経緯があって、
それについての社会通念や貞操の罪悪をずっと抱えていて世間に対して肩身の狭い生活を送っいる。
深い夫婦生活の描写から安井の影が近づいてくる主人公のパラノイア的な妄想を募らせ、市役所の職を休職して
禅寺に向かう宗助。平生の生活から離れて悟りを得ることで安井と御米の問題を乗り越えようとする。
で、寺でお師匠さんに色々なこと言われるんだが最後まで悟りに至ることなく、何らも答えを見出せぬまま日常に戻ることになる。
鎌倉の禅寺に向かう時に御米に「私も連れて行ってほしい」といって抱えている安井との問題を
密かに隠して言い訳をするシーン
最後に禅寺の門までいった宗助が開かずの門に開けてほしいと懇願するシーン
「叩いても駄目だ。1人で開けて入れ」と禅僧に断られる描写
最後に御米と季節を語り合うシーン
寒い冬が終わって暑い夏が来ますねに対して
「すぐにまた冬が来るよ」とか何とか
だいたいここらが趣深いかな 明暗の冒頭でポワンカレの偶然論が出てくる。
第1章 必然と偶然
なぜ偶然か/西洋哲学と必然性/アリストテレスの偶然論/アリストテレス的伝統/
必然性から確実性へ/アリストテレスの四原因論/デカルトの「懐疑」/デカルトの自然観/
ヒュームの「懐疑」/因果性を考え直す/因果性と時間/必然性と偶然性の本質/科学と因果的必然性/
ポアンカレの偶然論/バタフライ効果
/カオス理論と人生/九鬼偶然論を導きの糸にして/偶然と驚きの情/偶然と縁/偶然と事後的意味付与/偶然の主観性
偶然とは色々な要因が非常に複雑に重なりあっていて、偶然の重なり合いは必然になるとか何とか
この物事の偶然論に対して人間の意志の関与。
明日図書館で明暗をもう一度見てくるが、物語がそれに沿って進んでいく未完の小説 へえー、夏目そんなこと書いてるのか
こころ以外読んでなかったけど読んでみるか 漱石が哲学について書いている記述もいくつかあったように思うけど俄かには思いつかない。
哲学ていうと漱石よりも鴎外が結構書いているように思う。「ウィタセクスアリス」とか。内容はちょっと忘れたけど
哲学の学者先生の話で西洋哲学についてのことが書かれていたような気がする
漱石の場合は思想としたら晩年に至ったという則天去私かな。我を去り天に則り生きる。
あとは漱石の仏教観については「三四郎」「門」「こころ」なんかに面白い記述がある wikiから
『ヰタ・セクスアリス』(ウィタ・セクスアリス[1])は森鴎外の小説である。1909年(明治42年)に発表された。
題名はラテン語で性欲的生活を意味するvita sexualisから。
文芸誌「スバル」7号に掲載された当初は政府から卑猥な小説だと考えられ発禁処分を受けてしまうが[2][3]、
実際には性行為が直接描写されていることは無く、主人公の哲学者・金井湛(かねい・しずか)が、
自らの性的体験について哲学的視点から考える内容となっている。 インターネットから取ってきた
則天去私
自我と自我との対立に悩みながら、心理学や禅を研究しながら、創作を続けていたが、
漱石は、大正四年『硝子戸の中』連載の頃、真に偉大なものに気がついたと思われる。
『道草』五十七章に「金の力で支配出来ない真に偉大なものが彼の眼にはいって来るにはまだ大分間があった。」と書いている。
大正四年の『断片』に「大我」と「技巧」「絶対の境地」などの考察があり、禅の追求するところと同じところを考えていたことが分かる。
偉大なものに気がついてから、自分の過去を振り返って書いたのが『道草』であると思われる。
漱石の晩年の境地は「則天去私」という言葉で表現される。
「不自然は自然には勝てないのである。
技巧は天に負けるのである。策略として最も効力あるものが到底実行できないものだとすると、
つまり策略は役に立たないといふ事になる。自然に任せて置くがいいといふ方針が最上だといふ事に帰着する。」
(大正四年『断片』)という言葉は大正五年『明暗』を書いている頃、十一月九日から言われた
。無私(無我)にて動くとき、天,おおいなる自然の意志の働きが出るということであろう。これは禅に通じる。
『道草』夫婦のようなの我執(漱石はいっていないが、「去天則私」にあたる)の人と「則天去私」の人を対比させて著すのが小説『明暗』であるといわれているが、
未完成のため、残念ながら、「則天去私」の人については十分書かれていない。
体得すればその方がよい 漱石の「こころ」の先生の遺書の中に日蓮の話が出てくるのだが、漱石の仏教観について知れるとても興味深い箇所である。
先生の若い頃、先生にはKという親しい友人がいた。Kは浄土真宗の寺の3男?か何かで医者になることを望まれたが、
Kには自分の考えがあって、医者になるように学問を学ぶフリをして学費を払い続けてくれていた養父?を欺いて自分の道についての哲学を持って
学校生活を送っていた。そして後に養父に欺いていることがバレて学費を止められてしまう。
それで先生は仕送りを止められたKを自分の下宿に住まわせる。下宿には未亡人の奥さんと娘さんがいて、Kも先生も娘さんを好きになってしまう。
物語は三角関係に発展するのだが、そんな折り先生とKは千葉県の房州へ旅にでる 先生とKは銚子に行くのだが、「房州を離れない前」小湊という所に赴くシーンがある。
小湊には日蓮が生まれたと言われる村があり、そこに誕生寺という寺があった。
Kはその寺の住持に会ってみるといいだし乗り気でない先生を尻目に寺に上がり日蓮の話を聞く。
住持の話は日蓮は草書が大変上手で草日蓮と言われていたといった話をしている時に
Kはそんなことではなく深い日蓮を知りたがった。
「彼は寺の境内を出ると、しきりに日蓮の事を云々し出しました。私は暑くて草臥れて、
それどころではありませんでしたから、ただ口の先でいい加減な挨拶をしていました」
二人は宿に着いて寝る前に難しい問題を論じ合う。ここに漱石の思想と問題意識、宗教観がある。
こころ 三十一から 「Kは昨日自分の方から話しかけた日蓮のことについて、私が取り合わなかったのを、
快く思っていなかったのです。精神的に向上心がないものは馬鹿だといって、何だか私をさも軽薄もののように遣り込めるのです。
ところが私の胸にはお嬢さんの事が蟠っていますから、彼の侮蔑に近い言葉をただ
笑って受け取る訳にはいきません。私は私で弁解を始めたのです。」 「その時私はしきりに人間らしいという言葉を使いました。Kはこの人間らしいという言葉のうちに、私が自分の弱点の凡てを隠しているというのです。
なるほど後から考えれば、Kのいう通りでした。しかし人間らしくない意味をKに納得させるためにその言葉を使い出した私には、
出立点が既に反抗的でしたから、それを反省するような余裕はありません。私は尚のこと自説を主張しました。
するとKが彼の何処をつらまえて人間らしくないのかと私に聞くのです。
私は彼に告げました。➖君は人間らしいのだ。あるいは人間らし過ぎるかも知れないのだ。
けれども口の先だけでは人間らしくないような事をいうのだ。
また人間らしくないように振る舞おうとするのだ。
私がこういった時、彼はただ自分の教養が足りないから、他にはそう見えるかも知れないと答えただけで、
一向私を反駁しようとしませんでした。私は張合いが抜けたというよりも、かえって気の毒になりました。
私は議論を其処で切り上げました。彼の調子もだんだん沈んで来ました。
もし私が彼の知っている通り昔の人を知るならば、そんな攻撃はしないだろうといってチョウゼンとしていました。(↓) Kの口にした昔の人とは、無論英雄でもなければ、豪傑でもないのです。
霊のために肉を虐げたり、道のために体を鞭打ったりしたいわゆる難行苦行の人をさすのです。
Kは、私に、彼がどの位そのために苦しんでいるか解らないのが、如何にも残念だと明言しました。
Kと私とはそれぎりねてしまいました。云々」
非常に興味深い宗教観と哲学が書かれています。 「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」Kの哲学は難行苦行によって向上していく高僧のような生き方であり、
それに対して私(先生)は人間らしい、人間らしくないを持ち出して弁解している。人間のおよそそれらしさと言うのは
そんなに向上して人間の肉の温かみみたいなものの冷えた状態なのかを疑問に持っていることがわかる。
しかし、この問答の後に私(先生)はKに残酷な言葉を浴びせて、それがKの自殺の一要因になるところに至る。
一体、この向上というものと人間らしさと言うものの意味について非常に深い洞察と
人間の善悪の綾が物語にうまく組み込まれいて非常に興味深い。日蓮をこの問答の因縁に組み込んでいるのも面白い 矢倉喬士 Takashi YAGURA @yu_ichi_japan · 14時間 14時間前
漱石は自分が知るかぎりの自然科学と文学の繋がりを信じ、無手勝流の文学を展開した。
それをわかった上で読まれるようになったのは「やっと、ここ七、八年」のこと。
しかも漱石が英訳されて逆輸入されて初めて「ひょっとして漱石はデリダ以上ではないか」と知らされた。
「これ、なさけない」(高山宏) 文学繋がりで言うと、埴谷雄高の『死霊』は非常に面白そうなんだけど、本当に読み進められん小説やなあ。
何度も挫折したわ。横光利一の「機械」がおれの小説としては最も理想的なかたちなんだがなかなかあんなには書けないわ。
肌に合うのが梶井基次郎と夏目漱石と志賀直哉だな。憧れは有島武郎と大西巨人あたり。あと谷崎と三島と武田泰淳はまず
ああいうものは書けないわ 吉本隆明が講演で言っていたことなんだが
破局的な三角関係の系譜みたいなものがあるらしい。
夏目漱石→芥川龍之介→小林秀雄と中原中也だそうだ。
一人の女性を巡って親しい友人や兄弟が対立し、やがて三者三様バラバラに道を辿りやがて破局的な局面を迎えるという
系譜。漱石のほとんどの小説の主題になるザ・文学。 ((カンタベリー物語の))序歌(General Prologue)のなかでチョーサーは、巡礼の旅に出発する前夜の旅宿の食卓で浮かれてにぎやかな一行を眺めわたす。
彼の横顔はおだやかな、そしてとても楽しそうな微笑をたたえていたことであろう。その澄んだ目は、すこしおかしく、すこしかなしく、そしてとても愛す
べき人間たちの姿を、じっと見つめている。そして品のよいヒューマーをこめながら、しかも1人ひとりの個性の輪郭をくっきりと際立たせて、巡礼たちの
人間くさい姿を描いている。彼らは、たとえば騎士、女子修道院長、托鉢修道士、宗教裁判召換係・・・というふうに、まさしく中世の職業のオンパレ
ードだが、その1人ひとりの個性のあざやかさは、われわれがふつうルネサンス以後の文学に期待するものに近い。そもそも彼らがおこなう巡礼という行為
が、敬虔な宗教行為というよりは、人間くさい物見遊山だったのだから。
いよいよ馬をつらねて旅に出て、一行のお話がつぎつぎに始まると、それはにぎやかなこと。しかも1人1人のお話は、話し手の個性にぴったりである。
たとえば騎士の語るのは、高貴な騎士道精神にかなった悲恋物語だが、次にしゃしゃり出た卑わいな粉屋の語るのは、ポルノまがいの寝取られた亭主の物語・・・。
おちょぼ口で気どった女子修道院長(the Prioress)が意外におしゃれに身をやつすさまも微苦笑をさそうが、乱杭歯のバースのおかみ(the Wife of Bath)
の自由奔放なセックス談義も、中世の女性のもう1つの側面を堂々と白日の下に引き出してくれた。一読忘れがたい人間造形であるが、これをウーマンズ・
リブの主張のはしりとみるか、そのパロディとみるか・・・。そのどちらとも読めるところにチョーサーの文学の豊かさがあるといえよう。17世紀の大詩
人ドライデン(John Dryden, 1631-1700)が"here is God's plenty"(なんと豊かなことか)と賛嘆したのもむべなるかなである。後世英文学への影響ははかり
しれない。(川崎寿彦「イギリス文学史 pp.9-10」(成美堂版)) ((カンタベリー物語の))序歌(General Prologue)のなかでチョーサーは、巡礼の旅に出発する前夜の旅宿の食卓で浮かれて
にぎやかな一行を眺めわたす。彼の横顔はおだやかな、そしてとても楽しそうな微笑をたたえていたことであろう。その澄んだ
目は、すこしおかしく、すこしかなしく、そしてとても愛すべき人間たちの姿を、じっと見つめている。そして品のよいヒュー
マーをこめながら、しかも1人ひとりの個性の輪郭をくっきりと際立たせて、巡礼たちの人間くさい姿を描いている。彼らは、
たとえば騎士、女子修道院長、托鉢修道士、宗教裁判召換係・・・というふうに、まさしく中世の職業のオンパレードだが、その
1人ひとりの個性のあざやかさは、われわれがふつうルネサンス以後の文学に期待するものに近い。そもそも彼らがおこなう巡礼
という行為が、敬虔な宗教行為というよりは、人間くさい物見遊山だったのだから。
いよいよ馬をつらねて旅に出て、一行のお話がつぎつぎに始まると、それはにぎやかなこと。しかも1人1人のお話は、話し手
の個性にぴったりである。たとえば騎士の語るのは、高貴な騎士道精神にかなった悲恋物語だが、次にしゃしゃり出た卑わいな粉
屋の語るのは、ポルノまがいの寝取られた亭主の物語・・・。
おちょぼ口で気どった女子修道院長(the Prioress)が意外におしゃれに身をやつすさまも微苦笑をさそうが、乱杭歯のバースの
おかみ(the Wife of Bath)の自由奔放なセックス談義も、中世の女性のもう1つの側面を堂々と白日の下に引き出してくれた。一
読忘れがたい人間造形であるが、これをウーマンズ・リブの主張のはしりとみるか、そのパロディとみるか・・・。そのどちらと
も読めるところにチョーサーの文学の豊かさがあるといえよう。17世紀の大詩人ドライデン(John Dryden, 1631-1700)が
"here is God's plenty"(なんと豊かなことか)と賛嘆したのもむべなるかなである。後世英文学への影響ははかり
しれない。(川崎寿彦「イギリス文学史 pp.9-10」(成美堂版)) 川崎には好評を得た研究社版とこの成美堂版の二つのイギリス文学史がある。成美堂版は彼の死の前年に出版されたものだが、
その自在な筆の運び、作家や作品の思想的な背景の簡潔にして的確な解説は他に類を見ない、まさにこの本の「はしがき」にも
あるような作品を読む上での正確な地図となっている。 夏目漱石についてはメレディスとの関連で以下のように触れている。
メレディス(George Meredith, 1828-1909)は、しかし、比較的うまくこの(ダーウィンの進化論)の衝撃を吸収し同化した作家で
あった。彼はダーウィニズムが〈進化〉を説く、そのポジティヴな側面に光を当てて解釈したのである。人間社会はこれまでも進
化してきたし、これからも―――人間が理性的に行動することを学べば―――無限に進歩するだろう。そのためには盲目的な自己
主張の衝動に従わず、理性的な〈利他〉の精神を発揮すべきである、と。
メレディスの文学はヴィクトリア朝人の〈利己主義〉をたびたび取り上げた。それを否定するために取り上げたのである。『リ
チャード・フェヴレルの試練』(The Ordeal of Richard Feverel, 1859)は、父親の身勝手で自己中心的な権威主義が、息子を不幸
におとしいれていく過程の克明な描写。『利己主義者』(The Egoist, 1879)は、完全に利己的動機から結婚相手を探し続ける男が、
相手の女も不幸にするが、結局は自分自身も屈辱的な体験を余儀なくされる物語。どちらの作品も人間の不幸を描いたが、それは
作者の裏返しの真実、すなわち〈利他精神〉が人間の究極の幸福をもたらす可能性を信じていたからである。
かれの文学はその時代には評価が高く、ヴィクトリア朝の最後の時期にロンドンに留学した我が国の夏目漱石も、大きな影響を
受けている。しかし今日から振り返れば、やはりその根底に横たわる楽天性が思想全体のそこの浅さを感じさせるというべきだろ
うか。(川崎寿彦「イギリス文学史 pp.130-131」(成美堂版)) >評論家から作家になったプルーストやジョージ・エリオットという
>超一流の作家がいてだな…
スピノザの翻訳も手がけたという、作家ジョージ・エリオットの根底にある思想って
どんな内容なのかな、だれか教えてくれない。
英文学の川崎寿彦は『ミドルマーチ』に盛り込まれた思想は「絶望しないこと、義務を果たし続けること
------人間の生き方はここにしかない」ということだ、と書いているが。 耳の穴掘つてもらひぬ春の風
菫ほど小さき人に生まれたし
むつとして口を開かぬ桔梗かな 夏目漱石「余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、善かつたと思つた」 夏目漱石「韓満所感」(抜粋)
「昨夜久し振りに寸(すん)閑(かん)を偸(ぬす)んで満洲日日へ何か消息を書かうと思ひ立つて、筆を執りながら二三行認(したた)め出すと、
伊藤公が哈(は)爾(る)浜(ぴん)で狙撃されたと云ふ号外が来た。哈爾浜は余がつい先達て見物(けぶ)に行つた所で、公の狙撃されたと云ふプラツトフオームは、
現に一ケ月前(ぜん)に余の靴の裏を押し付けた所だから、希有(けう)の兇(きょう)変(へん)と云ふ事実以外に、場所の連想からくる強い刺激を頭に受けた」
「満韓を経過して第一に得た楽天観は在外の日本人がみな元気よく働いてゐると云ふ事であつた」
「歴遊の際もう一つ感じた事は、余は幸にして日本人に生れたと云ふ自覚を得た事である。
内地に跼(きょく)蹐(せき)してゐる間は、日本人程(ほど)憐(あわ)れな国民は世界中にたんとあるまいといふ考に始終圧迫されてならなかつたが、
満洲から朝鮮へ渡つて、わが同胞が文明事業の各方面に活躍して大いに優越者となつてゐる状態を目撃して、
日本人も甚だ頼(たの)母(も)しい人種だとの印象を深く頭の中に刻みつけられた 同時に、余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、まあ善かつたと思つた。 夏目漱石の「私の個人主義」から(No.1)
「近頃自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという符徴(ふちょう)
に使うようですが、その中にははなはだ怪しいのがたくさんあります。彼らは自分の自我をあくまで
尊重するような事を云いながら、他人の自我に至っては毫も認めていないのです。いやしくも公平の
眼を具し正義の観念をもつ以上は、自分の幸福のために自分の個性を発展して行くと同時に、その
自由を他にも与えなければすまん事だと私は信じて疑わないのです。我々は他が自己の幸福のために、
己(おの)れの個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害(ぼうがい)
してはならないのであります。私はなぜここに妨害という字を使うかというと、あなたがたは正しく
妨害し得る地位に将来立つ人が多いからです。あなたがたのうちには権力を用い得る人があり、
また金力を用い得る人がたくさんあるからです。」 夏目漱石の「私の個人主義」から(No.2)
「第一に自己の個性の発展を仕遂(しと)げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。
第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。
第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴(ともな)う責任を重(おもん)じなければならないという事。
つまりこの三カ条に帰着するのであります。
これをほかの言葉で言い直すと、いやしくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、
権力を使う価値もなし、また金力を使う価値もないという事になるのです。それをもう一遍(ぺん)云い換(か)えると、
この三者を自由に享(う)け楽しむためには、その三つのものの背後にあるべき人格の支配を受ける必要が起って来るというのです。
もし人格のないものがむやみに個性を発展しようとすると、他(ひと)を妨害する、権力を用いようとすると、濫用(らんよう)に
流れる、金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。ずいぶん危険な現象を呈(てい)するに至るのです。そうしてこの三つの
ものは、あなたがたが将来において最も接近しやすいものであるから、あなたがたはどうしても人格のある立派な人間になって
おかなくてはいけないだろうと思います。」 >>88のメレディスの考え方の背景を知るにはダーウィニズムについてもう少しはっきりさせておく必要がある
【ダーウィン思想とヴィクトリア朝後期の文学】
ヴィクトリア朝期の知識人たちは、ほとんど例外なく、伝統的西欧キリスト教思想の根本的な変質と解体を
体験しなければならなかった。それは個人個人にとって、強弱さまざまの、またいろいろな内容の、思想的
危機をもたらしたといえる。しかし最大の、決定的な打撃は、ダーウィンの進化論(Charles Darwin,
On the Origin of Species, 1859)によって与えられた。それまでの聖書が説いてきた、唯一絶対神による
宇宙・自然・人間の創造という教義は、1片の神話と化した感があった。しかしその教義はじつはかなり以前
から疑われていたこと。(たとえばジョージ・エリオットを懐疑主義に誘った〈聖書高等批評〉を考えるとよい。)
それよりもはるかに強い衝撃は、ダーウィニズムが新たに説いた〈適者生存〉の原理による〈自然淘汰〉という
考え方からきた。自然界全体が完全に無目的な淘汰のメカニズムによって動いており、種としての人間は偶然にも
一つの適者として生存競争に生き残ってきたにすぎないのだとすれば、それまで西欧の思想が絶対視してきた人間
の優位は、完全に相対化される。簡単にいえばサルと親戚ということだろうから。さらに人間社会の内部でもこの
〈適者生存〉の原理が作用し、弱者が淘汰されるのは必然の成り行きということになれば、何の根拠があって善を
教え、愛を説くことができようか。まずしい労働者の子供たちが飢えてしんでゆくのも、当たり前ということにな
ってしまうではないか。
この新しい思想の衝撃は、ヴィクトリア朝後期の思想を暗くする。反論もいろいろなかたちで展開されたが、い
つもダーウィンはの勢いにかなわなかった。(川崎寿彦「イギリス文学史 p.130」(成美堂版)) 川崎寿彦「イギリス文学史」(成美堂版)について
このイギリス文学史は1988年1月10日に初版が印刷されている。そしてぼくの手元にある
版は1995年1月15日の重版の1冊である。ところが今日新たに1冊を取り寄せてみると、
それは2014年8月28日の第35版であった。
文学史の類の本が20年そこそこの間にれほど版を重ねること稀なことであろう。この事実はこの
本の質を十分に物語っていると思う。皆さんも一冊手元に置かれてはいかがでしょうか。 中世の伝聞では石が割れてカエルが出てきたりすることって
けっこうポピュラーなんでしょお かなりよく出来た活字だと思います
・・・・・・ 電波ですね 錬金術というから、ほんの石くれだと思っていたものが純金の塊であったりダイヤの原石であったりすることは
頻繁にあったろうし、現にあるんじゃない
むしろ錬金術という言葉のほうが本質を取り違えて使われてるようだね alchemyのことですね(以下Wikipedia)
Alchemy is an influential tradition whose practitioners have, from antiquity,
claimed it to be the precursor to profound powers. As described by Paul-Jacques
Malouin in The Encyclopedia of Diederot it is the chemistry of the subtlest kind
which allows one to observe extraordinary chemical operations at a more rapid pace;
ones that require a long time for nature to produce.[1] Defining objectives of
alchemy are varied but historically have typically included one or more of the following goals:
the creation of the fabled philosopher's stone; the ability to transmute base metals into
the noble metals (gold or silver); and development of an elixir of life, which would confer
youth and longevity. ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています