あたかも存在しているような時間という概念について [転載禁止]©2ch.net
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私たちはいわゆる「時間」というものをモノの変化を介せずには捉えることができない
秒針の動き、ヒトの移動、建造。本質をとらえるためには物質的なものをすべて排除しなくてはならない
すると私たちは時間の概念を想像している時のみ「時間」を感じる
人の想像なしに「時間」は現れない
「時間」というのは想像上のまやかしだ。強いて言うなら死への恐れを昇華させたものにすぎない 混沌の中から同一視できるものを見出して「物」とし、それに視点を固定・「静止」する。
静止した視点の中で差異をとらえ、さらにその差異の中から同一視できるものを見出して
「質」とし、その「質」に視点を「静止」する。そしてさらに静止した視点の中で差異を
とらえ、その差異の中から同一視できるものを見出して「単位」とし、それに視点を静止
する。ここから視点の方向を逆にして、「単位」から「質」を見ると「量」が現れてきて、
我々は対象を「把握」したと言います。さらに「質」から「物」を見ると、「物」は複数
の「質」の集まりであり、その並べ方によって仕組み、役割、因果関係などが現れてきて、
我々は対象を「理解」したと言います。「否定」も、その並べ方の一つになるでしょう。 我々の認識・思考のあり方は、上から下へ転がり落ちる一方の急坂のような自然に対して
階段を設置するようなものかもしれません。ある段上に静止することで「今」「自分」が
階段上にいる「状態」を知り、さらに登ったり降りたりの自由度・選択肢が得られます。
移動した段数を数えることで自分の位置を把握することができ、各段の傾斜や曲がる方向
の違いを知ることで坂の姿を理解することができます。しかし実は、曲がっているのでは
なくて幅の広い真っ直ぐな坂の端から端に階段が渡されているのかもしれませんし、傾斜
も階段の傾斜であって坂の傾斜とは一致しないかもしれません。そういう懸念はあります
し、そもそも不連続な階段は、坂の連続した傾斜の否定でもあります。しかし、この平坦
な段による反発・否定・静止がなければ、我々は認識することも思考することもできない、
そのようなものと言えると思います。 >我々の認識・思考のあり方は、上から下へ転がり落ちる一方の急坂のような自然に対して階段を設置するようなものかもしれません。
なるほど
本質への遡っているというか途次なんで
上向法、下向法とかあったような記憶が
対象の自然は無矛盾だが、理由も無くただ在る
論理は矛盾だが、なんて考えています
これもクレタ人的構造なのかな、とも思っているわけです
「わたし」という表現もクレタ人ではあります
意識は自然の自己言及ですが、ここにもクレタ人はいるような
認識対象と認識主体のクレタ人的構造・・・
自己言及とクレタ人
眠くなってきましたので、落ちます
本質論は難しいです >>649
本質という言葉自体がクレタ人的であると言えます。本質はあるものをそう足らしめる
ために必要不可欠な要素、つまりあるものの一部であるわけですが、そうであるならば
本質でない部分を削ぎ落としても、それはそれであり、すなわち、それそのものである
ということ、一部であり且つ全体であるということになります。これはどういうことか
と言うと、その時々の都合に応じて、あるものの一部を選び出し、それを全体と同一視
する、ということを我々が行っているということです。本質とは、あるものに内在する
真の本質ではなく、ある場面で我々の解釈により外部から付属させた本質でないもの、
となるわけです。我々はこのような矛盾をはらんだ同一視、すり替えを普段から無意識
に行っています。パラドックスなどは、こうしたすり替えを使って作られているのです。 わたし、ということ自体がクレタ人、つまり理解そのものがクレタ人だとわたしは考えています
そういう意味では本質という理解もクレタ人ではありますね
自然は無矛盾ではありますが、そこに理由はまったく無い、そこはとても重要なのだと わたしは、現代科学の迷走は天動説の典型だと考えています。
座標原点が必要ではありますが、自然に存在するわけではない。
地球が静止していると仮定する必要はあるが、地球は運動している。
必要があることと存在することは別です。
ビッグバン仮説は、必要はあるが存在しない座標原点、始まりが存在するという、典型的な天動説認識論だということです。
時間も重力も諸力も最小単位説も、理解には必要ですが、自然に存在するわけではないのです。
〜から成るのではなく、〜に成るのであり、〜で理解しているだけです。
現代科学は天動説から未だ脱していない。 逆説自体は、あなたの主張だとこのようなことに成りますが、という相手の前提で展開することによって相手の主張を否定する目的があるということだとわたしは理解しています。
ゼノンの飛ぶ矢の逆説は、存在という理解の前提は運動する自然を静止で理解する、つまりAをAの否定で理解するということを指摘しています。
クレタ人の逆説もまたそのようなものとしてあるわけです。
それで理解できるから、それが自然に在るのではない、それが在ると仮定したらこのようになりますが、ということです。
わたし、と表現した場合、その表現主体は(観念としての)他者ということになります。
典型的なクレタ人です。
クレタ人は形式論理、A=Aということの観念性を自己言及によって指摘したのではないかということです。
存在という規定の「本質」ということです。
もう少し単純に表現できそうですが、いまのところはここまでです。
もっとわかりやすくしなければいけませんね。 ある意味で世界は、自分の問題意識によってしか理解できない気がします。
わたしはわたしの問題意識にひっかかった箇所しか理解できない。
理解できただけでも良しとしなければならないのかもしれませんが。
書物もまたそのようなものの典型としてわたしたちの前に在るのではないかと。 科学者たちの力技には感嘆するしかない。
ただ、それを創りあげた道具をほとんど意識しないのが科学者という種族です。
その問題意識をもっている科学者もいますが中途半端であり、そこが残念です。 吉本隆明さんが主宰していた雑誌に英語の教師が英語の構造についてでだったか論文発表しましたが、彼はその後すぐにガンで亡くなりました。
評価的にはどうなのかはわたしなどにはわかりませんが、とにかく彼は足跡を残したのでしょう。
わたしもまた足跡を残したい一念でやっています。
まだ完成しない、いや完成することはない気がしますが。 わたしの理解をかんたんに言うとこうです。
科学革命の認識論的側面は、認識主体は認識対象に解消されているということです。
認識するのですから、とうぜん主体は「必要」ですが、その自然存在を意味しません。
自然は運動変化する過程としてあり、生成されている。
それを静止で理解する。
粒子も次元も重力も含めて諸力はそれで理解しているが自然に存在しているわけではない。
観測問題も不確定性原理も自然を対象として理解することを考えれば理解可能なのです。
逆説はそれで理解できるからそれが存在するという理解が破綻することを示しています。
わたしたちはまだ天動説的段階から完全に抜け出してはいないという理解です。 シェークスピア映画十本は面白くて、かんたんに踏破できた。
「蓼食ふ蟲」朗読版はもう少し。
「利口な女ぎつね」は四半世紀ほったらかしのDVDを掘り起こして、あと一幕。
三四郎は四十年ぶりに朗読を聴きながら読む予定。
バッハのカンタータ25枚組に取り掛かっているけど、聴くだけ聴かないと。
現在は柳田國男が放送中。
筒井康隆さんが珠玉の短編として推されていたいた「片腕」の朗読CDが手に入ったんで楽しみ。
吉本隆明さんが、歳を食うと悠々となんかしていられず、追い立てられるようになってくると語っているのを実感する。
科学も数学もようやく理解の端緒に辿り着いた気がしてきている。 現代科学は主に数理物理学だから、全ては数式で表される。これは、全てを現象として捉えてると言う事。
ただ、その数式を素人に説明するには、分かり易い言葉で表現してあげないと理解されない。
つまり、運動を静止で理解しようとしているのは科学ではなく、自分だって、一向に気付かないみたいだな。 自然には対立関係としての客体-主体は存在しない。
観念としての主体は必要だけど、自然には存在しない。 自我意識はその個体と時空界との連体存在であり自然存在の部分 自然は運動変化しているだけ。
その過程にわたしたちは生成されて、また他の何かに生成されていく。
生まれることも死ぬことも、物理としてはありえない。
意識は物理の付随現象という枠の中で理解すべきで、薬で変容したり、また様々な手段で脳を破壊すれば亡くなる。
自然存在は矛盾しないし、それは主-客という関係が自然には無いということを意味する。
主はあくまでも観念の中だけの存在。
三浦つとむ「日本語はどういう言語か」には「わたし」という主体の説明がされている。 「わたし」という表現もまたクレタ人。
観念の中で他者が自然存在のわたしを認識し、「わたし」と表現する。
対象Aの否定で対象Aを語ることを自己言及する。
運動自体は矛盾でしか理解できないが、それは理解することそのものが要請する。
運動自体は矛盾でもなんでもない。
ウィルスがそうであるように、分類自体、つまりここでは理解すること自体の問題で矛盾が出てくる。
ウィルスは差異を否定で理解するという分類自体の問題。
運動定義も存在という静止で理解するから矛盾する。
自然という客体は主体というその否定で理解される。
否定も静止も自然には存在しないように「わたし」は差異であり静止であり、自然の否定としての「わたし」は存在しない。 >否定も静止も自然には存在しないように「わたし」は差異であり静止であり、自然の否定としての「わたし」は存在しない。
→否定も静止も自然には存在しないように自然存在としての「わたし」は差異であり運動であり、自然の否定としての「わたし」は存在しない。 けっきょく自然存在としての否定としてのわたしという主体はありえない。
あくまでも差異を否定で理解することが要請するだけで、必要ではあるが、ということになる。 存在が「ありうる」「ありえない」と認識たらしめるのは自然存在の自我 ヒント 自然存在 物理としての主ー客の否定
これでおしまい レッテルだけ貼れば批判だと。
それは単なる野次でしかありません。w 実のある批判は過去に出遭ったこと無いんだよなあ。
そういやキャッチーとかいうレッテルもあったな。 辻褄あわせも出来ないのが現代物理。
科学もまた対象である自然が無矛盾でなければ成立しないというのがわたしの主張。 対案を出せば良いだけ。
自分の自然、科学、認識などの理解を試みてみればそれなりの収穫はあるだろう。
わたしは対話してくれた人たちからけっこう得てきた。
野次飛ばしているだけなら、労力の無駄でしかない。
寝たほうがずっと良い。 ウルトラマンの話で、相手の武器をことごとく吸収して戦闘能力を増大する怪獣がいたよな。
せっかく対話しているんだから、相手の批判を取り込んで成長しないと損じゃないのかな。
ちなみにその怪獣はフルートを吹く少女によって楽器に変えられて、ウルトラマンが宇宙空間に連れて行くという解決。
DVD版はもう一つバッドエンディングがあるとのこと。
ウルトラマンはまったく興味がなかったが、この話で良く出来た話は観てみたいと思うようになった。
他にも大人が観ても面白いのがあると言っている人がいた。
少女は「火垂るの墓」実写版の名子役。 運動とは存在すると同時に存在しないこと
飛ぶ矢の逆説 運動を静止で理解して、存在という規定が運動の静止であることを示す
クレタ人の逆説の本質と同様であるということ
競技場、アキレスと亀、二分の一 一である自然を多で理解するということ
「わたし」という主体を客体にして、他者という客体を主体にして「わたし」と表現する。
観念としての他者は認識主体である。
「わたし」という表現は対象Aをその否定で理解するそのもの
論理の自己言及
自己言及により、自己を表出する・・・ 自然「理解」はヘーゲルが指摘するように観念をいつも伴う。
自然には観念は存在しない。
この場合の「存在しない」も観念を伴っている。
存在は静止であるが、科学によってその静止はその存在を否定される。
静止は観念の中の存在であり、いわば「無」の存在ということになる。
あ、頭痛くなってきた。
やはりクレタ人の逆説の構造なんでしょう。
もっと単純に考えるべきかと。
自然を観念で理解することのクレタ人性。 なぜ自然が在るのか、というのは無意味な問いでしかない 還元主義は「〜で理解する」ということ自体は正当であるが、「〜で自然は構成されている」とするのなら、それは天動説的誤謬でしかない。 対象AをAの否定で理解する。
だからと言ってAはAの否定で出来ているわけではない。
それだけのこと。
自然科学は、その革命において自然に特別なものは何も存在しないことを語る。
自然は無矛盾であることを、認識の立場、有限の否定ー同じことだが、などで語る。
不完全性定理は有限を無限で理解している。
AをAの否定で、ということは変わらない。 《わたし》というクレタ人的認識構造。
わたしの理解が届くのはここまでのような気がします。 天動説の誤りは本質として未だ克服していないことにほとんどの科学者は気がついていない。 正直言うと「存在論」がイマイチわからない。
適切に説明している本でも探してみようかな。 静止は否定された。
有限の否定ということになる。
次元そのものも否定されたということになる。
自然のどこにも出発点は存在しない。
そして時間は次元である。
「現在」、「今」は無で理解される。
AはAの否定で理解される。 厄介なのは、存在というのは運動の否定ということなんだよなあ。
運動する自然を静止で理解する。
存在は静止ということになる。
この意味で存在というのは静止、運動が《無い》ということになる。
静止という無が存在・・・ 時間が実在しないことを端的に示せないかなといろいろ考えている
いまのところ夾雑物があってすっきり説明できないというか
もっと分かりやすくと 三月のライオンのアニメが面白かったが
藤井四段が出てきて将棋熱が高まったそうで
まあリアルの俺は駒の動かし方が幾つかわからなかったりして論外だったりする >>689
まとまったらここで端的に書き込んでおいてください。 無限としての全体
有限としての全体
自然には部分は存在しない
部分の観念性、あるいは有限の観念性
全体という観念は一
一という理解は無限を有限で理解するということ
無限は一であり、かつ一ではない
ということになる
その否定で理解する・・・
無限は理解できない 時間=過去から未来に至る無限の継続。永遠の過去や永遠の未来って想像できる
? 空間は存在しない、つまり時間も存在しない、そのぐらい学べよ 製氷皿で氷を作る。
さて、氷は存在するのか。
存在するように見えるし、掴んでみれば固く冷たい。
しかし、その氷を形作る水分はとどまることなく気体に変わり、
温度が高ければ、溶けていく。一瞬たりとも自らと同一であることはない。
しかし、それでも氷は存在し、存在することが時間である。
昇華によって気化してしまったり、溶けて水となってしまえば、もはや氷は存在しない。 不特定の時間を超えて、その性質が変わらずに反復して現れるという思い込みが、
存在するとされる物体の同一性である。 >>704
存在することが時間というのはそういうことだったのか(о´∀`о)
だからこその諸法無我。 自然に於いて、ということと、それを理解する側である人間を区別しなければならない
静止、次元は理解するのは必要なだけ
対象である自然を理解するこの静止が科学によってその自然存在を否定される
ゼロ次元そのものも、そして三次元そのものも実在しない
それは常に運動が伴う
わたしたちは運動を静止で理解する
理解する対象である自然の事物の大きさ、つまり「ここ」から「ここ」までというのは量子力学を考えてもわかるように存在しないから精確ではない。
次元は、さまざまな対象の大きさを測るために人間が頭の中に作り出した、つまり対象の抽象でしかない
そもそも出発点であるゼロ次元は否定されている
だとしたら一次、二次、三次も同様の存在である
つまりそれらが単体で、つまりこれがゼロ次元、一次元・・・と存在証明はされてはいないし否定されている
時間もまたある定期的な反復運動をする自然の対象によって、個別、つまり地球、人間や車の運動量が捉えられる
次元で理解できるから次元が自然に存在するわけではない
科学自身が次元の存在を否定している
時間の正体は運動量だ
運動とは存在すると同時に存在しないことだ
今、現に在るものをわたしたちは無で理解している
今には幅が無い
在るものが在らないとわたしたちは理解している
存在するものが存在しないと捉えられている
存在とは実は静止である
運動する対象を静止で、つまりAをAの否定で理解している
四次元である時間は今を無限に集めたものである
つまり他次元と同じ規定であることによって自然存在であることを否定される もう少し端的に示せないかなあ
次元の自然存在は否定されている、という一言で終わることではあるんだが 「無限論の教室」読んでいたら、ヒントらしきものがあった
電車の中でいろいろ考えていたが、横の爺さんが倒れそうなんで、目の前の座席が空いたんで譲った
爺さんの前の若いお化粧べったりのスマホに夢中の女性、まったく気がつかず、俺が降りるまで目の前の画面に集中していた
某乗り換え駅では中学生の女の子がスマホに夢中でぶつかりそうになる
七人掛けの四人がスマホでうち年寄りが三人
なんかな、と 某線で丁髷、着物姿の中年発見
月代は本物っぽかったが、鬘だといわれるとそうかもしれないと思ったりする
親父の友だちが四国から上京してきたが
丁髷姿で注目を浴びていたそうだ
親父が四国に行ったおりは二人でバイクにのってあちこち行ったと聞いている 「点から線が作られるのではなく、むしろ線から点が作られる。」(無限論の教室 ) 31P
自然から三次元が作られる。
運動から四次元が作られる。
こちらのほうが端的に示せる可能性があるかな。
模索してみよう。 「点から線が作られるのではなく、むしろ線から点が作られる。」(無限論の教室 ) 31P
自然から三次元が作られる。
運動から四次元が作られる。
時間は運動を量で捉えることから必要なだけ
次元にしても運動を静止で理解するから必要なだけで、現に科学はその自然存在を否定している
それは頭の中にしか存在しないということ
運動を人間は静止で捉えるから量で理解するしかない
ここからここまで、と静止を設定する
その運動量を時間で捉える
その時間という尺度は太陽とか光とかの定期的な運動量の抽象
つまり自然のある特定の何かの運動量を運動量で捉えている
今、現に在るはずなのに幅が無い
在るものを無で理解する
運動は直接に捉えられないから、量にして理解するしかない
時間は他次元同様に目の前の自然から作り出された、自然を理解するための観念的な存在でしかない
科学革命が示すように、次元など無いということになる >>713
問題は、自然においてと人間側を区別することで人間が何を得られるのかなんだが・・・ >>713
結局ね区別しなければならない必要があるのは認識の範囲で
時間はない結論の辻褄あわせに必要なだけであって
言い訳に過ぎないんでは? だから次元を科学が否定しているからの立論です
そこに言及されない限り答える必要を認めません 「科学が否定している」のではなく「科学には肯定する必要がない」であって
「次元を否定する」と科学が立論した事実はないのでは? 今少しずつ書いているんで、そのうちにどこかにアップする予定
というか前に参加してくれた方々に進展具合を報告を兼ねて
・・・たいてい、もともに読んではくれないんで、まともに読んでくれる人にだけと思ったりする
板倉さんが面白いこと書いていたけど、段階を間違えるとこっちも無駄、相手も無駄な時間過ごすんだよな w 問題意識が違うから噛み合わないということは度々経験している
俺も相手の問題意識がわからないから、???と思うことは度々で
それが重なると議論する気が失せる すべて人間が名前を付け概念を与えたもの、そう考えればすべては存在しないということになる
色即是空 万物は夢、幻。 名前か。名前を忘れているから名前も永劫回帰となるわけ。そんな時間が大事。 死への恐れか。死はおそれからやってくるんじゃなく、男だったら飲み込まれていくもん
。若き青き炎だよ。女性については知らないけど、はたしての女性が死ぬのかすらも。
全ての人に訪れるのが死ではない。 >万物は夢、幻。
この認識自体も夢、幻だとしたら・・・ 〜だとしたら、という仮定の話からは仮定の結論しか生じないよ なぜ 男の世界に仮定法過去がいるか、女には 現在 未来完了があるか
ということだろうな。 幻じゃないということでOKか疑問なのはOK
幻じゃないということにするかしないのかはあなたの認識に一任 >万物は流転する
すべては流体力学によって理解できるということですか? 流体力学によって万物を理解する知能が働くっていうなら理解できるだろうね 自然過程説、マジレス、学術は許さない。
清見、しのさんはおっけー。 誰かさんが相当頭にきているみたいだ
くわばらくわばら 実の無い罵倒をたくさん浴びているけど、これも人徳か ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています