★ なぜ、【一神教】はかくも駄目なのか? ★ [無断転載禁止]©2ch.net
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一神教というよりも一神教徒は世界中で殺戮やテロをおこしまくっている。
彼らはなんでこうも頭がおかしいのか?
このままでは、人類は一神教徒によって滅ぼされるかもしれない…。 木田元の「ハイデガーの思想」と轟孝夫の「ハイデガー『存在と時間』入門」を改めて読んだけれど、
現実世界を現状分析した上巻だけで結局、自分の哲学を展開する予定だった下巻は出せなかった。
木田元がいう《プラトン以来の伝統的西欧哲学を乗り越える》と称したものの、結局中味無く挫折した。
轟孝夫先生は10年かけてハイデガーを理解しようと努めたようだ。
それを読んでもハイデガーに大した中味は無いようだな。
《プラトン以来の伝統的西欧哲学を乗り越える》と木田元は言うけれど、
そのプラトン哲学が3学4課となって、
そえが今のリベラル・アーツ&サイエンス(大学教養課程)になっている。
それを乗り越えるとは何だろう。
それに含まれ、或はその上にはそこから分枝した専門的な数学や物理学、天文学がある。
それでこれをどう乗り越えるのか。ポスト・モダンは答えを知っているのか。不可解である。 >>1
そもそも世界標準の一神教が分かってないだろ?
一神教>>>壁>>>多神教>>怨霊・もののけ・たたり オー マイ ゴッドファーザー は一神教で タマランティーノは多神教だよ。
策略の数に手掛かりがあるよ。未解者にいうとね。 固有振動数
ttps://www.youtube.com/watch?v=4ti3d3ls5Zg
メトロノーム同期 (64個)
ttps://www.youtube.com/watch?v=-s8QD3Kna6o&feature=youtu.be&t=346
【木内みどりの小さなラジオ Vol.2】ゲスト:安冨歩さん(東京大学東洋文化研究所教授)
問題をバラバラにして、一個一個かたづけたら全体がかたづくはずだ、っていう考え方。
なんですけど、これは基本的には間違っているんですね。
どうして間違っているかっていうと、あの、ホイヘンスっていう物理学者が居てですね、
…オランダ人ですね。それはあの、ニュートンを批判した人なんですけど。
そのホイヘンスの親友、お友達でスピノザっていう人が居ますね。
でその、ホイヘンスの哲学とスピノザの哲学は私、凄く大事だと思っているんですけど、
ホイヘンスが或るとき大発見をするんですね、
それは何かというと、柱時計を研究してたんですけど、当時本当に最先端技術だったんですけど、
壁に柱時計をこう二つ架けて、病気で臥せってたんですね、ホイヘンスは。 そうしたら或るときふと気づいたら、
柱時計って正確に同じものを作るのは不可能で、両者微妙に違うんですね。
当時の精度で丸一日、大体数秒狂うっていう、特徴が有ったんですが、
その二つの柱時計をですね壁に架けたら、
何日経ってもこう同じチックタックを…振子が…逆方向になるんですけど、
ずーと続いていることに彼は気づいたんです。
…で、全く同じタイミングでずっと二つ同じ…の続けているのでびっくりして、
それで元気になって起きだして、色々調べた結果、
壁の振動を通じて二つの柱時計が、相互作用してて(共振!みたいな)、
一つのシステムみたいになってこう作動しているので、
だからチックタックがこう、変わらないんだっていう、現象を発見したんですね。…大発見ですよね。
つまり何故大発見かっていうと、デカルトは、その、壁から外して壁と時計を調べれば、
何故チックタックがそうなるか判るはずだっていうふうに考えた訳ですけれど、それは間違ってるんですね。
壁と柱時計二つで一つのシステムになって、いるのであって、
それをバラバラにしたらもう、バラバラなんですよw だから、元のシステムはもう、無いんですね。
柱時計が何故、揃うのかっていうことはバラバラにしたらもう分らない。
それでスピノザっていう人はその、デカルトの哲学をそのー、もの凄く深く理解して、
それももっと厳密に表現した人なんだけど、
でも彼はデカルトの哲学は根本的に間違っていると考えていて、そこが…。
そのバラバラにしたらもう世界が無くなってしまうんだ、
一つのものをバラバラにしたらもう全体ではないから。
このデカルト的なバラバラにするという考え方は間違っているんだっていうことを、指摘したんですけど。
それがだからデカルトの同時代です。
でもあの、世界はずっとそのデカルト的に、こう“バラバラに”すればいいんだと。
で、バラバラにしたら一個一個、潰したら全体も解るんだっていう大前提でずっと動いていて、
それが専門分化っていう考え方なんですね。
だから其々の分野に専門特化した人を其々作ればいいんだと。
そうしたら世界全体としては、社会全体としては、色んなことが解決するっていう。 まそこの専門家っていう考え方なんですけど、
でもその専門家が全く役に立たないことをあの原発事故で明らかになりましたよね。
専門に近ければ近いほど頓珍漢なことを言ってたので。
小出さんのような方、は或る意味専門家では無い訳ですね、サークルから排除されていて、
彼は原発というシステム全体として、捉えてそれが原発だけでは無くて
社会の中に原発がどういう風に埋め込まれているかって考えて
差別ってことに密接に結びついているってことを明らかにされたんですけど。
これは分析する考えでは無くて、こう全体として捉えるっていう考え方なんですね。
これは専門家から見たらダメな訳ですね。
そうじゃなくて、原発のパイプの“ここを”研究するとか、(が)専門家なんであって、
そんな小出みたいな適当なことを言っているの、『学者じゃ無い!』みたいな。
…だからこのバラバラにするっていう考え方は、本来成り立たないんだけど、
でもバラバラにするっていうことが、この近代の考え方なので、その専門分野に分かれている訳ですね。
それでその専門分化して行くんですね。 で、私はだからこれがその様々な問題の根源なんだっていうふうに考えるようになって、
だからその、統合しないといけない、と思ったので色んな学問分野を研究してたんですけど、
…色んなことを研究するっていうことによって学問分野の分裂っていうのを、
こう阻止しようっていうふうに考えたんですけど、それだけでは足りなくて、
芸術とか宗教とか、学問とかっていうのをこれをバラバラにするのもそもそも問題なんだって考えていて、
でーその、親鸞の研究とか、したんですけど、
老子とか、親鸞とかを研究したのはまあそういうつもりだった…宗教とか、
キリスト教なんかも少し勉強はしたんですけど。 で、或るとき気づいたのは、結局、そのー物事っていうのは、その、
ビットゲンシュタインっていう哲学者の考え方ですけど、語り得ないものによって支えられているんだと。
語り得ないもので支えられている…。そう、「語り」は。
「語る」ということは、何故「語り」が成り立つのかっていうことを語り続けても、結局分らなくなるんですね。
で、これ凄く分り易い例だと思うんですけど、その、私が言っていることが、
この、聞いている人に伝わるっていうのは何故かと考えたら、結構難し問題で…
私の語っていることが…語り手の語ることが聞き手に伝わって
理解されたりするっていう現象は結構不思議なことなんですね。
例えばだからその、私の考えていることっていうのがあって、それがその何か音声になって、
みどりさんに伝わって、それがまた解読されるみたいに、考えたとしたらですね、
…つまり例えば「原発」っていう言葉、私の思っている原発っていう言葉と、
みどりさんが抱いておられる原発っていう概念は違う訳ですね。
そうしたらその原発について語ったって、通じてない訳なんですね。 (通じたようなふりして話してはいるけれど…)。…だけど通じてるんですよね。
(通じたつもりになっている)。単につもりではないです。通じているんです、現にやっぱり。(ギリギリね)。
何か分らないですけど。でも本来通じるはずがない訳なんですよね。
…これラッセルっていう哲学者が明らかにしたことなんですけど。
だから本来、(じゃあ頼りになるものが何も無いじゃないですか)。そう、何にも無いんですよね。
だからその、語り得る範囲内で言うならば、頼りになるものは無い、
っていうふうに考えたのがビットゲンシュタインっていう哲学者で、
じゃあ何で成り立ってるんだよって言ったら、それはもう神秘の力なんだと。
語り得ないものが支えていると考えないとしょうがないよねって。 (じゃあ誰かがサムシング・グレートっていうような言い方しましたけど)。ああまあそんな感じですよね…
そうそう、何か、その語り得ない何か神秘的なものによって、語りは支えられているっていう。
これを認めようじゃないかっていうのがビットゲンシュタインの考えで、
でラッセルっていうさっきに哲学者はビットゲンシュタインの先生なんですけど、
いやそれは認められんって二人は論争したんですけど。
私はまあその、ビットゲンシュタイン主義者で、認めないとしょうがないよねって。
語り得ないものが在るから語り合えている、みたいな。ふうに考えざるを得なくて… …結局その、伝えるっていうことを正確に伝えようとどんだけ頑張っても、絶対無理なんですね。
伝わるかどうかはもう知らないんだけれども、でも伝わるって信じる。
伝わると信じるしかなくって、信じるって何なのって何の根拠も無くってですね、
神秘みたいなものを語り得ぬものを受け入れるっていうことなんですね。
で、それが無かったら、コミニュケーションとかをする意味が無いと思ってて、
それ抜きにですね、厳密に正確に伝えられるんだって信じてましたけどかつては、
正確に厳密に語れば『伝わる』っていうふうに信じてたんですけど、全く間違いなんですね。
だからその、伝わるか伝わらないか、っていうことは、あの、それは伝わると信じる。
で『以上!』なんですけど。 それで私らが宗教っていうのはそれを信じて、…結局だから語り得ないものを信じるとしたら、
それをだからどういうふうに関わったらいいのかって祈るしかないんですね。
だからその語り得ないものについて祈るのが宗教だし、語り得るものについて語るのが学問なんであって、
それはその両輪みたいなものなんですね。
語り得るものについて語る、っていう行為と語り得ぬものについて祈るっていう行為は、
実は両者が在って、初めて在って支えられるって考えて…。
結局語り得ないものについては、他に祈る以外にですね、その芸術っていうものが在って、
その芸術って行為は語り得ないものについて『触れる』みたいな行為ですよね。 一神教側の理屈は「神のもとに皆平等」を生んだ進んだ宗教だ。
多神教は平等性を生まなかったとして、今でも彼等は一神教の優位性を主張している。 内戦という宗教戦争の形態は新しいものです。奨励しなさい。 自爆テロの本質は、人をだけ気付付けたくない心だと思う。 ゲームのデモ画面がありありと迫っていたら、ゲームをやっていただけの世代ではない
人たちと仲良くできるだろう。 中間層といって上下にかかわるから、中間層が、崩れるのも必然です。下取りが大事。 階層の悪の巣窟、ビルは震災でくずれました。不平等を受いれる下層民
の立場に立ってみなさい。その方がよいとは必ずしも言えない。
上層民にしてみれば、勝手に持ち上げられても、中間層下層民を養っていけない
。 全体主義は既に可能事なのです。が、体がそろったり似たりして現代ではすたれるでしょう。 国家と親戚より、冠婚葬祭の風習から考えてみなさい。まず。 データ上の最下級が、結果として、当たり前に、先んじて最上級だっ(た)てこともあるのです。 殺戮やテロに間違いは多いが、ないと人類は昇華されない。下打ちも大事な面があるわけ。
人生の序盤では。 お金の欲しさに戦争というより、相手を出世で送りたいんだろうね。
暴力を奪うことがつまらない犯罪であること。 一神教の信仰は世界に一人の主人、神系をもつことで、信仰は強固、たびたび
世界最高の予言者を輩出しますが、多神教の雑多な繁殖の方が活力があり、
寝首を書かれることもないでしょう。 声は自然に出るでしょう。意図しないで、それが自然に出るのが幻声幻視
のような幻知覚であるわけ。 昔の神の性格のセクハラ残りより、子供たちに宗教教育をさせて外さない主選び。 戦争に参加しない度胸も隙があり兵を失った。
テロをするなら、戦局を打開したうえで、許可をとれ。声明文がそれだ。 中国ユーラシア以西優先の流れでいい。アメリカとはつるみすぎ。 経営、経済の裏方の学問があって、物理、天文も光り輝く
。おのづからも。 つまんないから学術とかいうやつは書き込まなくていいよ 宗教の形態にも限界があって、自己内圧的にはね、他宗と交流しないと。 時計というフィクションによって時間が遅れ次元を失ったのです。 平等まで戻れない人や平等ではチャンスのない人もいるのです。 喧嘩教徒だよ。仏教徒は。喧嘩なんて才能生まれつきですら平等であるか? 一神教は人類にとって今までにない最大の災害だと私は考えている。
私はユダヤ教、キリスト教、イスラムのどれもが良いとは思っていません
ユージン・ルーサー・ゴア・ビダル 宗教(特に啓示宗教はたちが悪い)は有害なものという認識を世界が持つべきなのだ
ソクラテスの理性主義による普遍的で客観的な知識の対象が実在すると主張する
イデア論を義務教育で世界が徹底して教えるべきなのだ。
哲学上の使命は、倫理的価値判断の基準となる普遍的で客観的な知の対象が、
時空を超えてどこかに存在することを立証することである。
もはや人類は宗教を必要悪として、その存在を黙認するべきではないのだ。 何を以て有害と言う確信を得ているのか理解できないね
世界を正確な物差しに基づいて観測してみろよ
理性的人間のほうが確実に環境破壊や果てしない軍拡競争で世界を破滅に向かわせている訳だが 一人と一人で関わることか。多数と多数で関わることかなら、ミックスさせれば
女性の悩みも減るだろうに。 ニューバビロニアも責任の一端はあると思う。
いやがるユダ国を無理やり50年も捕囚してたんだから
そりゃあることないこと旧約聖書にしたためられてもしょうがない。 / ̄ ̄ ̄ ̄\
/ sh ヽ
/ ______|
L/_/ ̄ ̄ ̄\_〉
ノ|⌒\ /⌒|Z
(ヽ●)ヽ /(●ノ)
| | | フフ―フフ―
| ヽノ |
人(__人__) 人
从\ヽ二二ノ/从
/|\∴∴/|\
| ヽ  ̄ ̄ ノ || 啓示宗教に限らず宗教を信仰する人間のことが理解できんわ。
人を殺したら地獄行きと言われても、なら人間を殺した狼や虎は地獄行きなのか?
神とやらが肉食動物として彼等を作ったなら不当だろう。動物は食べる為だから別なのか
なら人間も人肉を食べればいいのか?そちらのほうが嫌悪感が倍加するんじゃないか
人を殺しても地獄なんか行かない。自然の営みの一部に過ぎない。なら人を殺してもいいのか、
むろんいけない。人間は社会的動物であり、そのような行為を許容できない。
悪人だから彼等は地獄行きだと自らを慰めるのは怠慢に他ならない。人間が裁くべきなのだ。
人間と動物の違いは何か?高度な知性と理性にある。宗教を信じるということは
知的活動と理性を放棄することなのだ。信仰を持つ者はもはや人間とは言えないだろう。 人殺しは地獄行きと諭されて罪を踏みとどまる人間が大勢いた歴史があるなら有益じゃねーか
信仰を持たないだけで知性が備わることもないし、そうやって今の頭でしかモノを考えられないやつのほうが
知性を放棄した愚かな人間 この人が言ってるソクラテスって、本を書かなかったソクラテスではなく、
プラトンの中のソクラテスだよな
したがって、すでにキリスト教化、一神教化されたソクラテス主義=知性主義だ
世界の全ては理性によって解き明かされるという信念は、
世界を数学的・物理学的な宇宙へ還元する科学信仰と同様に、すでに一種の信仰である
こうした信仰世界においては、芸術や、宗教といった人間的世界の価値の重みを測ることはできないだろう いくら世の理が数式で解明できても人間精神がデジタル化する訳じゃないからな
なぜ我々はゴリラに恋することができないのか?そんな単純なことすら人間の自由にはならないんじゃぁね
どんなに時代が進んでもそうした原始的な感覚で生きてる以上、理性に軍配があがることはないだろう 「一神教とは人間の理性と知性を侮辱する為の信仰のことだ。」by俺 じゃんと言われても実際にマルクスと唯物論はセットで扱われてきたんだからしょうがない ttps://twitter.com/hongokucho/status/1089505061674278912
本石町日記? @hongokucho 5:04 - 2019年1月27日
本石町日記さんが閑居をリツイートしました
いろいろと面白いインタビュー。
「―『ニューアカ』をどのようにご覧になっていましたか。
西尾 嫌悪感でしか見ていませんでしたね。あれは偽物です、完璧な」
朝生は初期の数年は見ていたが、当時の西尾さんの印象は確かに直球で何を訴えていた、という感はあった。
まあ、大島、野坂の両氏の存在感が大き過ぎたので、影は薄かったという面も。
一番印象に残る朝生は、坂井三郎氏が登場した回。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) ttp://bunshun.jp/articles/-/10474
論壇の長老・西尾幹二が明かす“つくる会騒動”「朝生で助けてくれた西部邁と決別した理由」
“最後の思想家”西尾幹二83歳インタビュー #2
2019/01/26
「ニューアカ」あれは偽物です、完璧な
80年代に浅田彰、中沢新一らが牽引した「ニューアカ」ブームがありました
ああ、ありましたね。
フーコー、ドゥルーズ、デリダといった
フランス現代思想の最先端を日本の若手研究者らがキャッチアップして展開した
「知のトレンド」とも言うべきものでした。その起源には大きくニーチェの思想もあるかと思いますが、
西尾さんは「ニューアカ」をどのようにご覧になっていましたか。
嫌悪感でしか見ていませんでしたね。あれは偽物です、完璧な。
私はああいう偽物が一番嫌いなんですよ。
ニーチェを理解していないとか、そういう話以前の問題です。
つまりあのブームはただ進歩的なことを言うだけのものでした。
「根っこ」がないことですね。根っこがないから流行って廃れる。 本石町日記のような方が西尾幹二氏を引用するのは不思議じゃないですが、
何で『ニューアカ』の部分を引用したんでしょうね? やっぱり心の中で引っかかっていたんでしょうか?w 日本人自身が美化している戦国武将だとか、武士だとか、
武士による明治維新だとか、明治の近代化だとか、それが本当は何だったのか。
その自己欺瞞を叩き壊し、内省して、『本当はこうだった!』と言えなければ、出口は無い。
今の日本は日本自身が進めてきた
(精神性を伴わない、――先進的な外国をもたぶらかし、利用する、
(極めて暗黒的な)権力者が自己権力の追求、その道具として使用してきた
――只の産業化・工業化=日本的な)『近代化』によって“中毒を”起こしている。
勇気を以って自分たちの歴史や社会の在り方と対決出来る人間
(ナチスに自民族を大虐殺されたフロイトも、『モーセと一神教』
――ユダヤ教とはそもそも何なのか、ユダヤ人とは何なのか、
(ユダヤ教とはそもそもがエジプトの宗教で、ユダヤ人とはエジプトの奴隷であった。
が、モーセというエジプトの高貴な神官(の目を見張る行動力に)よってユダヤ民族自体が救助された)
そのユダヤ人にとっての不都合――を書くことでそれを行った。 その不都合を隠蔽し、『神に選ばれた人種』などと奢っていたから他民族から嫌われて、
大虐殺にまで至っている。また、他民族も一神教を曲解し、本当の価値を理解していない。
理解しないでユダヤを叩いている。だが、一神教は人類社会に不可欠の考え方だ。
ということをフロイトは訴えた。ユダヤ人とその思想が、その他人種と真に和解するために)、
そのような人間が出てこないと変われない。
自分たちの歴史と対決し、異質なものでも取り入れたからエジプトに傭兵に行っていた
(頭の軽い、腕っぷしが強いだけの若造の国だった)古代ギリシャは世界一の文明国になった。
今に至る文明の、範型になった。蛮族だったゲルマン人はキリスト教を取り入れて、
それを批判し、ギリシャ哲学に回帰して文明国になった。
日本文化は途中で止まってそこまで達していないのだ。
ttps://www.youtube.com/watch?v=4AqQYfOw-HI
片山杜秀氏 日本は“束ねられる”ファシズム化が進んでいる F・カプラ「タオ自然学」1979年
物理学の影響はいまや社会全般におよんでいる。
物理学は自然科学(ナチュラル・サイエンス)の基盤となり、
自然科学と技術科学(テクニカル・サイエンス)が結びつくことによって…
われわれの生活はすっかり変わってしまった。
ほとんどの産業が原子物理学の成果をとり入れ、核兵器への応用は、世界政治にも影響を与えている。
さらに、その影響は科学技術にとどまらず、
思想、文化の領域にもおよび、宇宙やそのなかの人間との関係は、
以前とはまったく違った方法でとらえられている。
二十世紀の原子と素粒子の世界の研究によって、古典的な考え方の限界が明らかになり、
数多くの基本概念の根本的修正が必要になってきた。
たとえば、原子物理学の物質概念は、古典物理学の伝統的な物質感とはまったく異なるもので、
空間、時間あるいは因果律といった概念も同じように変わってきている。
このように、周囲の世界をとらえるうえで欠かせない概念がいまや根底から変わってしまったために、
世界観にも変化が生じてきた。 過去数十年にわたり、物理学者と哲学者は現代物理学がひき起こした変化を論じてきたが、
その変化の方向性がすべて同一で、
東洋神秘思想の世界観とひじょうに類似していることはまったくといっていいほど認識されていない。
現代物理学の概念は、東洋の宗教、哲学思想と驚くほど類似している。
この類似が論議の対象となることはまれであったが、講演のためにインドや中国や日本を訪れ、
東洋の文化に接した今世紀の偉大な物理学者たちは、その類似に気づいていた…
本書の目的は、現代物理学の概念と、東洋の哲学や宗教の基本思想との関係を明らかにすることにある。
二十世紀の物理学の基盤である量子論と相対性理論によって、
物理学者はヒンドゥー教徒や仏教徒やタオイストと同じ世界観をもつようになった。
また、すべての物質を構成する粒子の特性と相互作用といった、極微の世界での現象を記述するために、
ふたつの理論を結合させようとする最近の試みに注目すれば、
世界観の類似性はいっそう鮮やかに浮かびあがってくる。 そこでは、現代物理学と東洋の神秘思想は驚くほど似ており、
物理学者と東洋の神秘思想家のどちらが言ったことなのか区別できない発言によくお目にかかる。
わたしのいう『東洋の神秘思想』とは、ヒンドゥー教、仏教、タオイズムの宗教思想をさしている。
その中には、たがいに微妙に関連しあったさまざまな修行や哲学体系が無数に含まれているが、
世界観の根底には共通した性格がある…したがって、現代物理学の世界観は、
あらゆる時代の神秘思想家の世界観とひじょうに似てきていると言うこともできる。 現代科学の誕生と前後して、精神と物質の二元論をさらに強化する哲学が発展した。
その傾向は十七世紀のルネ・デカルトの哲学にあらわれている。
デカルトは心(res cogitans)と物質(res extensa)という分離、
独立したふたつの領域への分割にもとづく自然観をうちたてた。
「デカルト哲学的」分割によって、科学者は物質を自身とはまったく分離した無機質として扱い、
物質界を数多くの異なる物体が集まってできた巨大な機械とみるようになった。
そのような機械論的世界観をもっていたアイザック・ニュートンは、
その世界観にもとづいてかれの力学をうちたて、古典物理学の基礎を築いた。
十七世紀後半から十九世紀末までは、機械論的なニュートンのモデルが科学思想全体を支配していた。
またその時代には、神は神聖な法を課すことによって世界を統治する君主的なイメージでとらえられていた。
科学者の探究する自然の根本的法則は、世界を支配する永遠不変の神の法と考えられていたのである。
デカルトの哲学は古典物理学の発展に寄与したばかりでなく、
今日にいたる西洋の考え方全般にはかりしれない影響を与えてきた。 ”Cogito ergo sum”(われ惟うゆえにわれ在り)というデカルトの有名な言葉に端を発して、
西洋人は有機体としての自身全体では無く、心を自己ととらえるようになった。
現在、大多数の人が、自分自身を外界から独立した身体の「内側」にある自我として自覚しているのは、
デカルト哲学の二元論のもたらした結果である。
身体から分離された心は、身体をコントロールするという不毛な仕事を与えられ、
意志と本能の対立が生れた。
さらに、個人はその行動、才能、感性、信仰などにもとづいて、分離、独立した数多くの部分に分割され、
それらの対立がはてしない形而上学的な混乱と不満の原因となっている。
この人間内部の分割は、
「外の」世界が無数の分離した事象から構成されているとする見方を反映したものである。
自然は、あたかも異なる利害関係にある集団の便宜をはかるため、
分離した部分からなっているかのように思われている。 この見方は、社会へも拡大して適用され、社会は異なる国家、人種、宗教、政治集団に分割される。
個々の部分がすべて分離、独立しているという観念こそが、
現代における社会、文化、生態系の一連の危機をもたらした根本的原因なのである。
われわれは自然からも、仲間たるべき人間からも疎外されている。
資源の不公平な分配、経済や政治秩序の混乱、暴力の続発、みにくく汚染された自然、
こういった環境の中で、心身の健康はそれこそ大幅にそこなわれてしまった。
デカルト哲学の分割と機械論的な世界観は古典物理学と科学技術の発展という効用をもたらしたが、
同時に文明をそこない多大な損失をももたらしたのである。
二十世紀の科学は、デカルト哲学の二元論と機械論的な世界観を源とし、
その世界観に支えられてはじめてここまで発達することができた。
ところが、科学はその分裂を克服し、初期ギリシアや東洋思想にみられた合一の思想へと立ち戻りつつある。
いまや、われわれは、あらたな局面を迎えていると言えよう。 ttps://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1453477774/633-642
>このバラバラにするっていう考え方は、本来成り立たないんだけど、
>でもバラバラにするっていうことが、この近代の考え方なので、その専門分野に分かれている訳です
>私はだからこれがその様々な問題の根源なんだっていうふうに考えるようになって、
>だからその、統合しないといけない、と思った
>学問分野の分裂っていうのを、こう阻止しようっていうふうに考えたんです
>それだけでは足りなくて、芸術とか宗教とか 親鸞の研究とか、したんです
>老子とか、親鸞とかを研究したのはまあそういうつもりだった
>で、或るとき気づいたのは、結局、そのー物事っていうのは、その、
>ビットゲンシュタインっていう哲学者の考え方ですけど、語り得ないものによって支えられているんだと。
>何か、その語り得ない何か神秘的なものによって、語りは支えられているっていう。
>これを認めようじゃないかっていうのがビットゲンシュタインの考えで、
>でラッセルっていうさっきに哲学者はビットゲンシュタインの先生なんですけど、
>いやそれは認められんって二人は論争したんです
>私はまあその、ビットゲンシュタイン主義者で、認めないとしょうがないよねって。
>結局その、伝えるっていうことを正確に伝えようとどんだけ頑張っても、絶対無理なんです
>伝わると信じるしかなくって、信じるって何なのって何の根拠も無くって
>神秘みたいなものを語り得ぬものを受け入れるっていうことなんです .
安冨歩氏の主張は、F・カプラ「タオ自然学」の主張と良く似ている。 >二十世紀の原子と素粒子の世界の研究によって、古典的な考え方の限界が明らかになり、
>数多くの基本概念の根本的修正が必要になってきた
>過去数十年にわたり、物理学者と哲学者は現代物理学がひき起こした変化を論じてきたが、
>その変化の方向性がすべて同一で、東洋神秘思想の世界観とひじょうに類似している
>本書の目的は、現代物理学の概念と、東洋の哲学や宗教の基本思想との関係を明らかにすることにある
>現代物理学と東洋の神秘思想は驚くほど似ており 世界観の類似性はいっそう鮮やかに浮かびあがってくる
>わたしのいう『東洋の神秘思想』とは、ヒンドゥー教、仏教、タオイズムの宗教思想をさしている
>現代物理学の世界観は、あらゆる時代の神秘思想家の世界観とひじょうに似てきている >現在、大多数の人が、自分自身を外界から独立した身体の
>「内側」にある自我として自覚しているのは、デカルト哲学の二元論のもたらした結果である。
>身体から分離された心は、
>身体をコントロールするという不毛な仕事を与えられ、意志と本能の対立が生れた。
>さらに、個人はその行動、才能、感性、信仰などにもとづいて、分離、独立した数多くの部分に分割され、
>それらの対立がはてしない形而上学的な混乱と不満の原因となっている。 >この人間内部の分割は、
>「外の」世界が無数の分離した事象から構成されているとする見方を反映したものである。
>個々の部分がすべて分離、独立しているという観念こそが、
>現代における社会、文化、生態系の一連の危機をもたらした根本的原因なのである。
>われわれは自然からも、仲間たるべき人間からも疎外されている。
>デカルト哲学の分割と機械論的な世界観は古典物理学と科学技術の発展という効用をもたらしたが、
>同時に文明をそこない多大な損失をももたらした
>二十世紀の科学は、デカルト哲学の二元論と機械論的な世界観を源とし、
>その世界観に支えられてはじめてここまで発達することができた。
>ところが、科学はその分裂を克服し、初期ギリシアや東洋思想にみられた合一の思想へと立ち戻りつつある それにしても『タオ自然学』のデカルト批判は果たして正しい論旨と言えるのか?
デカルトの「分割」にしても、「心身二元論」にしても、
その本当の意味が、彼らの説明しているような意味なのだろうか?
デカルトが言う《分析》の内容とは、安富氏が言うような『バラバラにする』という意味なのだろうか?
本来のデカルトの「心身二元論」が、F・カプラ氏が主張する、
《自分の心が自分や他人の身体をツールと見なし》て“搾取する”ことを目的とする話なのだろうか?
多分、とんでもない読み違いだろう。
何で人間社会が原人の呪術祈祷(=独裁者・専制政治)の世界から、
啓蒙思想(=立憲主義・議会制民主主義)の世界に脱することが出来たのか?
モーセの一神教や、プラトン哲学、デカルト哲学の概念が無かったら、脱することは無かっただろう。
それが解ったらデカルトを安易に批判できないはずだ。 ttps://www.youtube.com/watch?v=0R50h2ivBEM&feature=youtu.be&t=175
2017/10/19辻堂駅南口18時〜安冨歩東大教授による立憲民主党あべともこ応援で自論展開
日本は1990年代に発生したバブル以降、非常な困難にずっと陥っています。
その理由は非常に単純なことから始まっていて、
金融危機っていうものが90年代に起きてしまったんですけれども、
それは日本円が物凄く強くなっていったときに、それは必然的に強くなっていったのに、
政策的にそれを何とかしようとする自民党の愚かな政策のために、資金が膨張してしまい、
それを日本の金融機関が土地に投入するっていうことをしたからです。
ここから日本の大きな困難が始まってしまいました。
そこから、失われた十年、失われた二十年、失われた三十年、
どんどん時間が失われていってしまっています。
そのため日本はどんどんずるずると後ろに後退していっているような、
そういう感じがしている人が沢山いると思うんですけれども、
安倍さんの『ジャパン・イズ・バック!!』という言葉は
その感覚を非常に正しく表現していた、というふうに思います。 その間に日本は余りにも混乱しているので、民主党政権に一度、日本人は託したんですけれども、
その政権は大変な混乱のうちに終結してしまいました。理由は簡単です。
官僚組織がその政策の変更を受け入れなかったからですね。
日本国は、戦前の日本は、官僚と海軍と陸軍と元老と財閥という、
ほぼ五つの勢力によって支配されていたんですが、戦後の日本は陸軍も海軍も財閥も宮廷も、
解体して、官僚だけが支配する一極集中国家になってしまいました。
自由民主党は本来は議会の勢力として官僚と対立する側面を持っていたんですけれども、
あまりにも長い間政権に居たために、官僚システムと一体化してしまったんですね。
しかもそれが、1960年代から70年代にかけて出現した政治家たちの二世三世という、
“家業として”政治が使われてい行くという構造を生み出してしまったことによって、
官僚システムとの“癒着が家業”になってしまった。
そういう中枢部分が、このような形で形成されてしまっていることが、
日本国が上手く動かなくなっている大きな理由だと私は思っています。
ですから、民主党に一度政権が託されたときに、
当然ですけれども、国家の中枢的な官僚システムはそれに抵抗したので動かなかったわけですね。
当然動かなかったものを、『動かないから』といって引きずり降ろしてしまったので、
今の安倍政権が成立したわけです。 安倍政権はもはや機能しなくなっている日本国のシステムを無理やり金融的な緩和、
日本銀行は安倍政権ができたときには150兆円の規模しかなかったんですが、
今は500兆円に迫っています。
つまりGDPと同じぐらいの規模の日本銀行を作っちゃったんですね。
それがいわゆるアベノミクスというものの最も重要な特徴です。
それからもう一つ、安倍政権は株価を高めたんですけれども、
どうやって高めたかっていうと、公的基金、
皆さんが年金のために貯めているお金を次々に株式市場に投入することによって値上げしていきました。
やがてこの資金は尽きます。尽いた瞬間に株式操作は止まってしまうんですね。
おそらくこの二つ以外のことは、安倍政権の経済政策としては殆ど機能していない。
そうすると日本銀行は150年かかって150兆円になったものを、
たった三年、五年で三倍にも四倍にもしてしまうというような政策を、行い且つ、
皆さんが老後のために貯めた資金を次々に株式市場に投入して行くという“一回切り”の政策、
この二つの政策によって、あたかも経済が上手く回っているかのように見せかけてきた。
そういう五年間だったと思います。 その結果、大企業、それからお金持ちには、
つまり株式を元々持っていた人の株価の価値は何倍にも膨らみ、
そして財政からの支出にありつくことのできる企業は物凄く潤っていて、内部留保が巨大化しています。
だけど、それに全く係わることのない、
ここを歩いておられる皆さんは基本的に全然関係ない人たちなんですけれども、
その財布からはお金が抜き取られているんですね。
そういう政策が継承されているんだけれども、
あたかも景気が良くなっているかのように見せかけることによって、
経済政策が成功しているかのように思っている。これが安倍政権を支えているんだと私は思いますが、
安倍政権が目指していることは、経済の回復ではないんですね。
そもそも、そのつもりは最初からありません。 経済を回復させようと思ったらそれは“非常に”難しいわけです。
何故かと言うと、日本経済が上手く行かなかった理由は、
官僚システムとそれと癒着した政治システムが、全ての経済活動とか、
色んな意思決定をコントロールしてしまっていて、
必要な所に必要な『お金が流れない』っていうのが、日本経済が停滞している原因ですから、
もしも自民党政権が真面目に経済政策をやろうとすると、
自分たちを解体しないといけなくなってしまうわけですね。
ですからそもそも出来るはずがないし、そんなことをするつもりは無いんです。
だから皆さまのポケットからお金を抜く以外のことをするつもりは最初から無くて、
だけど、どうしてそんなに経済が回っているかのように、見せかける必要があるのかというと、
それは皆さんのお金のポケットを盗みつつ、
しかも憲法を改正して日本を戦争が出来る国にしようという、その大きな目的があるからです。 これは安倍さんが目標にしていることではなくて、
安倍さんのお祖父さんの岸さんという方が総理大臣のときに、
やれなかった仕事をお祖父さんの代から引き継いで、
家業として、することによって目標にしているんですね。 つまり、安倍家という、岸家という、
家が負っている家訓みたいなものを日本国民に押し付けるのが彼の目的だと私は思います。
そのために日本銀行を三倍にするとかいうのはですね、
まあ正常な神経の人間では出来ないと私は思うんですが、
親子三代もやっていると、そういう神経は何処かに飛んで行きますので、
鍛え抜かれた政治家なので出来るわけですね。こういう人たちに政治が今、任されている。
自民党の中枢は政治家の殆どが“家業として”政治を行っている人たちです。
お父さん、お祖父さんの時代から、継いで来た様々な、利権だとかしがらみだとか、
それから支持者を引き継ぐことによって政治を行っている人たちであって、
自分の考えだとか、自分の力で政治をしている人ではないんですね。
そういう人たちが国家権力の中枢の中に“家業として”食い込んでいるっていう状態を維持する限り、
日本経済は間もなく壊滅します。 多神教の時代においてユダヤ教やキリスト教は他の宗教を認めない不寛容な宗教だった。
不寛容な者に対し寛容である必要はない。
ローマ帝国がユダヤ人やキリスト教徒を迫害したことは正しい判断だと思う。
と日本人が本音を言ったらどう反応するかな。 被造物の名の中で何らかの完全性を表示する名称についてまず定義せよ。 ttps://shinsho.kobunsha.com/n/nf7b63d934f28
「いじめの構造そのものを、ぶっ壊す可能性を提示しなければならない」
―――岩田健太郎 教授に聞く 光文社新書 2020/04/14 10:35
本にも書きましたが、ぼく自身、ずっといじめにあっていたというのが一つの理由です。
それから身近にも、いじめにあって苦しんでいる人がいました。
今回ぼくは、日本でいじめについて扱っている本は、ほぼ全部読みました。
それから外国の本も読んだのですが、どれもまあ、全然ピンとこなかった。
それで、やっぱり、自分で書くしかないなと思ったんです。
これも本にも書いたように、
日本は、基本的に社会の構造そのものが「いじめ社会」なので、たぶん、ほぼ全員が関係者なんです。
あらゆる社会構造に、いじめの構造が蔓延している
いじめは構造問題なのですが、その構造を、多くの場合は「仕方がない」と思っている
みんなが「こうしなきゃだめだろ」って言うノーム(norm)、
つまりまさに「規範」みたいなものですが、それがそもそもいじめの構造の正体そのものなんです。
その「常識だろ」って言っているものが、じつは「非常識」かもしれない、
っていうことに、気がつかない。
この日本特有の構造があるので、たぶん、同じ悲劇がずっと繰り返されると思うんです いじめで自殺する子が出る。ニュースで報じられる。また出ました、また出ました、また出ました……
そして今度は、学校がいじめを隠蔽していました、教育委員会も看過していました……
こんなことがずっと繰り返されている
もう、延々と続きますよ。いつまでたってもなくならない。
だってそれは、この「いじめの構造」を壊すっていう、前提をやろうとしていないからです。
いじめが構造化されていて、常識化されていて、
そしてその構造を受け入れないと排除するという、さらにまた二重のいじめが起きる。
だから、構造そのものをぶっ壊すっていう可能性を提示しないとならない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています