フッサールについて語ってくれ [無断転載禁止]©2ch.net
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フッサ−ルは、“現象学的還元”という思考形式を創出した哲学者であり、
西洋哲学の歴史的な流れの中から必然的に生まれてきたものである。つまり、
デカルトを起点として近代哲学は深化してきたが、第一次大戦を境としてヘ−ゲルの一元論的な唯心論
から、マルクスの一元論的な唯物論が創出し、西洋哲学的には認識論と存在論の合一という本来の方向から
それてきた、その哲学の流れを危惧してフッサ−ルは、「デカルト的考察」という思考形式を基底として現象学を
創出した訳である。フッサ−ルの「デカルト的省察」を読むと分かるが、フッサ−ルは、デカルトの「方法的懐疑」
を基として、その思考過程から「現象学的還元」という思考形式を創出している。 だから、フッサ−ルの「現象学」
は、フッサ−ル自身の脈絡のない発案ではなく、デカルトから始まる近代西洋哲学の本流としてのて歴史的流れの中から
創り出されたものである訳です。 >>4
フッサ−ルが創出した「現象学的還元」という思考形式は、
戦後、ハイデガ−、サルトル、メルロ=ポンティ、レヴィナス、デリダ、ガダマ−等々に引き継がれた。
“形式論理思考”と対比する形で、“現象学的思考(現象学的還元)”が、新しい思考形式として現代社会の
各分野に浸透している。 中本裕之(なかもと ひろゆき)元弁護士(新62期)=長文=奈良県について(2016年2月)
性別: 男、未婚
年齢: 36歳以下(昭和54年4月2日以降生れ)
国籍: 日本人?(本人談: 2012/03/26 パスポート取得)
住所: 奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)?
最寄駅: 近鉄・生駒線 竜田川駅?
実家: 不動産を所有する資産家の分家
家族: 実家で母親と同居、兄、弟、妹?、父親と確執?
母親: 世界真光(まひかり)文明教団の信者
宗教: 聖書は半分くらいしか読んでいない
既往症: ノイローゼ(2013/1/15)
常用薬: リスペリドン(2013/1/7)
禁忌: 奈良駅には行けない事情がある
職歴: 元弁護士(新62期、大阪弁護士会、登録番号 41908)、LECでの答案添削、家庭教師
資格: TOEICスコア 680 (2011/10/01現在)
高校: 奈良県 私立帝塚山中学・高等学校卒?
大学: 京都大学法学部 大石眞ゼミ?
大学院: 関西地方の法科大学院修了
受験: 旧司法試験の東京での申込み状況を知っている
勉強: 合格まで10年かかった。『事例本』シリーズ(辰巳1997年〜絶版)を使用
ゼミ: 憲法のゼミに所属(本人談: 右寄りといえば右寄りの方)
奨学金: 毎月1万円返済、返済期間10年以上(2013/10/22現在)
体重: 63.6キロ(2011/12/20現在)
好物: 水炊き、うどん
好きなアニメ: ザンボット3(1977年)、太陽の牙ダグラム(1981年)、聖戦士ダンバイン(1983年)
偏愛: 伊藤かな恵(声優)、明坂聡美(声優)、高倉陽毬(アニメキャラ) 、小・中学生のホモ
憧れ: 大学教授、公務員
常駐先: 緊急自然災害板(原発情報)、哲学板(千葉雅也、東浩紀)、模型板、声優板ほか
2012/09/01 小・中学生の時にホモってフェラするのが最も良い
2012/09/05 わたしはとにかく、奈良駅にはいけないのです。
2013/10/22 中途半端に頭がよかったのが不幸の始まるなのであろう。 「声と現象」 ジャック・デリダ
133位/294作品。翻訳小説SF以外。
デリダの主著である。フッサールへの反駁として書かれた書物であるが、
フッサールの功績を客観の否定としてとらえているぼくにはデリダは良きフッサールの反駁者ではない。
超難解だが、デリダは、プラトンのイデア論を本気で信じていたようである。
デリダは、イデアの存在を確信し、これを客観的な本質としている。
そして、これはまちがっているだろうが、非常に幻想的な哲学であるが、
デリダは、イデアに対して現実存在が反復することによって歴史がつづき、
その差異によって歴史の現象が異なるとしている。
脱構築という単語は出てきたがデリダ哲学の本質ではない。 空海「秘密曼荼羅十住心論」を読んでいたらカント哲学と同じ個所を見つけました。
誰に報告したらよいのでしょうか。
ちくま学芸文庫で読んでます。読んでる途中です。
問題の箇所は、下巻66ページから67ページにかけてです。
引用します。
「成唯識論」にいう、(中略)
暖などの四つの段階は四尋思と四如実智とによって前と後の位によって立てる。
四尋思とは名称と、ことばと、もの自体の本性と、ものの差別とは、
仮の存在で実際には無であるとする。あるがままにあるこの四つは意識を離れており、
まだ有るのではないと知ることを、あるがままにある智(如実智)と名づく。
空海に「物自体」って単語出てきた。
次の箇所で空海が「物自体は認識できない」と同じことをいってる。
「秘密曼荼羅十住心論」下巻67ページ。
「厚厳経」にいう。「菩薩は瞑想の位において、心に映ずる影はただ心そのものであると観じて、
対象の想はすでに滅して、ただ明らかに自分の識だけのすがたであると観ずる。
このような内面の意識に住して、(意識の)対象は有るのではないと知る。
そしてはたらきもまた無いと知り、後には認識されるものも離れているのである」と。
カント哲学の根幹「物自体は認識できない」は正確にはヒュームが独創したものですが、それと同じ内容を仏典に見つけてしまいました。どうしたらいいでしょうか。 >>4
現象学は、現象学的還元を基底として論理展開をしていくが、
現代の哲学者諸氏は、方法論としての現象学的思考が科学と調和することを
もっと前面に打ち出していく啓蒙が求められている。 >>7
普通に、イデア論あったからプラトンまで戻らね? >>9
発狂じいさん、キモAA上げ荒らしを死ぬまで続ける気ですか。
15年間も毎日毎日糞スレ立てて、キモいAAで上げ荒らしして、なにがしたいんですか?
こんなことだから50歳職歴なしの社会不適合者なんじゃないんですか?
あなたの生活保護費はボクやみんなの貴重な税金から支払われているですよ。
みんなに迷惑かけて恥ずかしくないんですか?
あなたほんとにみんなと同じ日本人ですか?
そんなにやりたいならsageて誰にも知られない底で一人勝手にやってください。 >>11
糞スレあげんなジィさん本体、自己紹介しても誰も気にしてくれないから
sageろよ キチガイ フッサールの『幾何学の起源』を読んでいたら、
古代のピラミッド造りだとかへ先祖返りしていきそうなイメージが湧いた。 >>12
発狂じいさん、キモAA上げ荒らしを死ぬまで続ける気ですか。
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l\ ┏-=ニ=-┓/:l 運知饅、いい
ヽ ┃ `ニニ ┃ / 加減にしないか?
人 \┗‐--‐┛/ ノ
┌、. / ヽ ⌒ \.
ヽ.X、- 、 ,ノi ハ
⊂>'">┐ヽノ〃 / ヘ
入 ´// ノ } ,..,.._',.-ァ
/ `ー''"´ ,' c〈〈〈っ<
/ __,,..ノ ,ノヽー'"ノ 発狂さん、上げ荒らしやめましょう。
10年間も毎日毎日糞スレ立てて、キモいAAで上げ荒らしして、なにがしたいんですか?
こんなことだから50歳職歴なしの社会不適合者なんじゃないんですか?
あなたの生活保護費はボクやみんなの貴重な税金から支払われているですよ。
みんなに迷惑かけて恥ずかしくないんですか?
あなたほんとにみんなと同じ日本人ですか?
そんなにやりたいならsageて誰にも知られない底で一人勝手にやってください。 >>1
/ ̄ ̄ ̄\
/ノ / ̄ ̄ ̄\
/ノ / / ヽ
| / | __ /| | |__ |
| | LL/ |__LハL |
\L/ (・ヽ /・) V
/(リ ⌒ (●●)⌒)
| 0| __ ノ 発狂さんは50代です!
| \ ヽ_ノ /ノ
ノ /\__ノ |
(( / | V Y V| V
)ノ | |___| | 質問なんだけど、例えばポナンザよりも遙かによく読めて、感覚も鋭く、
将棋についてはもうこの人間より理解できている人間などだれもいないし、
100人だろうと1000人集まろうと、誰もかなわないという、そういう人間がいるとする。
その人間にとって、将棋に関することは、内的な、自己所与的に的中する対象とはいえないのだろうか。
同じように数学に通じる人間とか、物理学のそれとか、考えていくと、
どこまでが現象学で捉えられるのか、範囲がぶれてこないか? まず始めに確認したいのはフッサールは主観しかない、客観なんかないと言った事はないわけです。
まず始めに意識から始めるのも、そこから逆に意識だけ主観だけでは説明できない外界や客観の存在を証明するためなんですね
視界の中に赤を感じます
それは主観的に何にでも好き勝手に想像できるものではない、赤は自分の意思や願望とは別に確かに存在していて、それを感じることは否定できない
自分だけの主観だけでは説明できないものが確かに意識の中に現れている、この世界には自分の中の内面だけではない外界や客観はある、まず現象学はこのことの確認から始まります
でも信じられない、フッサールは絶対的な客観性とか認めなかったはずだ、フッサールは科学主義は自然的態度を批判したろう?そう言いたくなる人もいると思います
でもフッサールが客観的な人、普遍的絶対的な学問の鬼であることは譲れません、何故科学を否定したか
それもこれから順番で説明していきます
フッサールが書いた著作に当たりながら
フッサールの論理学研究の一巻の中心を占めるのは心理学主義批判です
論理は経験から与えられるか?現象学が始まったのはこの論理学研究からなんですね
現象学は経験では説明できない個人の内的な主観的体験だけでは説明できない経験からは独立したそこには還元できない
万人にとって常に普遍的で客観的なものがあることの確認から確立します
論理学は経験のような無限の果てまで確認できないものでは証明できません
誰にとっても普遍的で客観的です
現象学は主観的なものだ相対的な学問どころか正反対の普遍的で常に客観的、誰がやっても同じ完全に絶対的な物を基礎づけるためにあるわけですフッサールのテキストに書いてあるから動かせません 以下、論理学研究一巻の要約
・イデア的法則と経験などに基づくリアルな法則、論理的必然性とリアルな必然性は橋渡し不可能なことを心理学主義は見落としている
・心理学主義では経験命題は導けても論理法則は導けない、また、心理学主義は相対主義に陥る
・全ては人間が尺度とか、文化毎に真理は違うとかはナンセンスだ、どのような形の心理学主義も相対主義であり、否定される、それはあやふやな主観的判断や経験に基づくから絶対的な普遍とは関係ないからだ
・真理は経験を離れ、イデー理念である。真理は赤のイデアは経験には属さず無時間的で普遍的だから万人に妥当する。普遍的に客観的なものだ。
・論理の持つ法則的必然性も経験離れた無時間的かつ永遠に妥当するイデアである。だから常に正しい
フッサールは相対的なもの、主観的偶然的なものは相手にしていません、永遠で万人にとってもどんな時でも正しい、客観的絶対的なものしか相手にしません
このことはテキストで確認できる揺るがない事実です
では何故科学を否定するのか、それも実は科学が経験主義、心理学主義と同じで経験的偶然的なものを必然的なものと取り違えるからです
以下、中期から後期の著作で フッサール 厳密な学としての哲学から
・いくら実験しても経験からは論理的法則は導けない。経験科学からはフッサールのやるような厳密にイデアとしての論理的必然性を基礎づけることはできない
これはわかりますね、論理学研究と一緒です。真理は経験離れた客観性としてあるわけで自然科学それ自体はそういった客観性は持たないわけです。
ヨーロッパ諸学の危機から
・38節 受動的発生と能動的発生、世界が客観的数理物理的にあるとかは、後から与えられるものだ
・49節 客観的世界は、受動から能動として後から構成される、初めの生活世界ではそんなものはない
→ここから生活世界論へ
要するに現象に基づかないで客観を外から持ち込むのはフッサールは許せないんですね
心理学主義、実験では科学は真理、無時間的な真理を基礎づけられない。客観的世界像は後から作られるもので先にあるのは生活世界である
現象学の最初にエポケーであらゆる自然物を意識から排除したのも生活世界からガリレオ式物理科学的世界像を排除したのも同じことです。
フッサール自体は絶対的、普遍的、万人に妥当する客観的真理を追及しなかったことはありません。
フッサールは数や論理だけではなく赤や経験から構成されるように見える物も、イデア的な普遍的無時間的な物と捉えます
薔薇の赤や郵便ポストの赤、赤が赤であるのは個々の物や体験、知覚を越えてそれが赤だと経験越えて判断できる直観しているからですよね
そうでなければ薔薇も郵便ポストも色合いは全く違う
赤が赤だと判断できるのは赤が論理と同じで経験離れて普遍的客観的だからです
そうでなければあれとこれは赤、あれは赤ではないなどとは判断できません
生活世界から幾何学などを発見し教育され引き継がれといます。そういった共同体な一員として過去からの歴史を引き継ぐことが文明の証であり人類の知的遺産を引き継ぐことです
わけもわからずガリレオ的世界観を押しつけられるのではなく生活世界から一歩一歩人は受動的発生から能動的発生へ知を引き継ぐことができるのです。
幾何学の起源を参照
現象学は理性の普遍的真理の学問です。 人間には、赤のイデアを理解することはできるんだよね。
しかし、フッサールは、それ以上のことは一切できない、といってるように俺は感じる。
もし客観の存在を求めていくとすると、そこでカントがいってるように
数学をなぜ客観として認めないかがわからない。
そんなに詳しいなら、それをちょっと説明してくれる?
結局数学でもそうだけど、客観と思ってるものは、本人の主観だとすると、
主観に従って、真理と思っているものも、人によって異なるよね。
赤のイデアにしても、生まれつき例えばカラーコンタクトみたいに
網膜か、角膜に色がついている人がいれば、その人は赤ですら他人と違う色を認識するわけだ。
そうすると、もう何もかも、客観的に正しいとは言えず、そこには主観しかないんじゃない?
だって、今はパソコンで真っ赤っかという色がどんな色か、すぐわかるけど、
昔なら、真っ赤っかというものを見たことない人すらいるわけだし。
しかし、同じ色を見た時の感じ方のことをいってるんだろうね。多分。
それならわかる。
それでもわからないが、フッサールは結局、赤など色のイデア以外の何を、客観とみなしたんですか? >>21
それに、経験から論理的法則は導けないとすると、簡単に論駁できるような気がするな。
生まれてから真っ暗な部屋に閉じ込められて、何も経験していない人間がいるとする。
その人間は何か論理的法則を、導けるか。当然導けない。
結局カントのいう経験からの綜合によって、人間は何かを認識するんだと思うんだがね。
いったい、フッサールは、それについてなんと説明してるんだ? 赤が客観なように数も客観だよ
論理や数学の正しさは経験から独立だ
認識が成立するのは何らかの客観的真理があるから
郵便ポストと薔薇をまとめるのは恣意的な主観でも取り決めでもない
まとめたほうが良いと感じる客観があるから
見たことのないものでも赤と誰もが了解するからそれは恣意でも取り決めでもない
主観にはどうにもできない客観が厳然としてあるから認識が成立する
ただフッサールは現象以外の自然物を持ち込むのは嫌う
科学を嫌うのも客観的ではなく経験からは法則は導けないのに勘違いしているからで
より徹底した客観的な現象学を通じて世界を把握する 網膜がカラーコンタクトの人はその背後が違っているわけで、
赤のイデアとは別な物を感じているとの処理になるね
フッサール的には 経験からは数や論理が無限においても正しいことは確立できない
暗闇にいるのと差はない みすずのイデーンそろえたのはいいが早くも本質直観のとこで挫折
谷徹とかの入門書いくつか読んだがピンとこない
本質直観なんて本当はみんなよくわかってないんじゃないか
目の前に映る光景を「現象学的還元」して本質を取り出すなんて人間の理性を超えてるとしか思えない
ぼやぼやとした無意味な光景が広がるだけで自律的には何も構成されない 今、この瞬間目の前の薔薇を見てでも、その脳内の映像は他とはつながりがない
それを他の植物と関連づけてころは植物だ花だとか色を比較して赤だとか
花として植物として赤として最後にそういった集まった薔薇として
捕らえてはじめて認識できる
それが志向性と本質直観
孤立した瞬間の薔薇の知覚は他の何ともつながりは持たないし
関連づけられない
関連づけることが志向性
関連づけてはじめて認識として立ち上がるものが本質直観
認識として立ち上がった瞬間、それは目の前の孤立した知覚ではなく
既に本質直観を行っていることを前提としている
目の前の孤立した知覚自体は異形の化け物で赤とか花とか
認識できるものではない
フッサールの凄いのは目の前の意識に全てを還元したことではなく
その反対に目の前の意識だけでは何の意味もない何も認識できないことを
証明したこと 経験から共通部分を抽出してとやると移ろいやすいもの、同じ花でも見るたびに違うとかなる
薔薇と郵便ポストから共通な物が赤だと見たことのないものとやはり共通な物を抽出するのか
しないなら何故見たことのないものが赤と言えるのか混乱する
同じ薔薇を見ても見るたびに違う
そのたびにやり直すのかとなる
移ろいゆく経験論は使えない ブリタニカ草稿の解説読めばフッサールが形相的還元を中心に理論を組み立てていることがよくわかる
目の前に見たことのない花を見る網膜に映る光の像自体は意味がない。その像からこれは葉っぱや茎と繋がっていて植物であり「花」であることは間違いない。
薔薇と同じ「赤い」花だと思う
「赤」として「見たことのない花」として志向性の中で認識する、後で図鑑でこの花だと名前を覚えその花として認識する
網膜に映った光の像自体ははかなくて移ろいやすいが「赤」として「名前のない花」として「名前のついた花」として認識したものは普遍的で形相であり色褪せることはない
経験とは独立に客観的に存在する「光の像」の記憶は消えても
個々の知覚はどうでもいい。普遍として時空も経験とも独立に直観した本質直観が根本的認識であり、それは時空とも個々の経験とも関係なく常に正しく不変的であり常に真理だ
誤解されているがフッサールは主観的な知覚主義者ではない。経験主義者じゃなく普遍論者、実在論者
個別的な体験には意味を認めない
プラトンのイデア論もそう考えれば全く筋が通る
カントは中途半端に経験論的だが物自体で経験はその反映でとか言い出すと色褪せうつろい行く薔薇の網膜に映る色と郵便ポストの網膜に映る色の共通の本質と、この見たことのない花の共通の本質とと無限背進に陥るからペケ
個々の網膜の光とは関係なく赤の本質がありそれは経験とは独立に不変で普遍でかわりない真理だと考えないと矛盾に陥る
フッサールの現象学がやってたことの大部分は形相的還元であり、要するにイデアのこと、志向性も本質直観も形相的還元もイデアを捕らえて経験とは関係ない時空を越えた真理を把握すること
個々の移ろいやすい網膜の像、知覚ではなく不変的な一般的な普遍者、それは知覚を離れた「見たことのない花」や「赤」を含むで認識論を作っている フッサールにまつわる誤解を解きほぐす
・個々の経験、知覚を元にしたのではない。局所的な時空を限定され視点を限定された体験など何の意味もないことを証明したことこそフッサールの功績
・知覚や体験ではなく、移ろいやすい光の像ではなく、いつになっても誰にとっても普遍的で時空を越えて真理である形相を元にした、実在論者である
・主観的、相対的、偶然的なものではない、客観的、絶対的、普遍的、一般的、永遠的なものしかし相手にしていないこと
・志向性、本質直観、形相的還元
どれもそのことを手を変え品を変えて言っているにすぎない
・論理学研究以来、フッサールの本質志向は変わらない フッサールが『論理学研究1』で「ヘーゲルが矛盾律を否定した」とか書いてあって、
変な感じがしてそこに訳注が付いてので見てみたら、
フッサールのこの記述は不自然で、そしてフッサールはヘーゲルの本を少ししか読んでないとあった。
妙な感じがした。でも、全体の論旨を大きく損なうものではなさそうだから読み続ける。 今ハイデッガーの存在と時間読んでるが
これってフッサールはどう思ってたの? 自分の言ってることと違うって怒ったんじゃない そういう狭量な人なのかなあフッサールは。
論理学研究とか内的時間意識の現象学とか、形式論理学と超越論的論理学を読んでるけど、
ハイデガーの方がフッサールから離れていったって感じじゃないの。
弟子が師匠とは違う方向に行くのはあり得ないことではないだろうし。
『内的時間意識の現象学』のまえがきには、訳者の谷徹が、
「本書の刊行のための編集作業をハイデガーに依頼したのは、もちろんフッサール自身である。
フッサールは(出会った直後はそうでもなかったが)、すぐにハイデガーの実力を見抜き、
自身の後継者と考えるようになった。ところが、この当時のハイデガーは、フッサールから離反しつつあった。
フッサールとしてはハイデガーをフッサール自身の現象学の道に引き戻そうとして、この編集作業を
依頼したようである。」と書いている。 ちなみに『存在と時間』が出たのが1927年で、
『内的時間意識の現象学』が出たのは1928年だ。 超絶 精神 現象学でしょ。ヒュームを読んでおくと。 すぐハイデガーの離反とか人間関係の下世話な話になるけど
そんなのどうでも良くて現象学が普遍や本質を把握するための客観学
経験に左右されないアプリオリだけを問題にしたことを理解すること
それだけが大切 フッサールは現象学の理念しか読んでないけど
他人がいるということを前提にしてるハイデッガーの意見は
フッサールには受け入れられなかったと思うよ。 http://phenomenologies-meiji.com/event/20160319report
フッサールを怒らせたのは高橋里美らしい。
現象学は哲学のうちの一つに過ぎないと言ったらそうなったらしい。
自分の学問に思い入れが強すぎる人だったのかもしれない。 余談だけど明治大正昭和の男性日本人の名前には美の字がよく付いてるからな。
有名人だと田中美知太郎とか橋本登美三郎とか。 青木孝平『「他者」の倫理学ーレヴィナス、親鸞、そして宇野弘蔵を詠む』社会評論社、2016年、を
みなさんはすでに詠みましたですか?フッサールの他者論からハイデガーをへて
サルトル、メルロポンティの他者論、それからレヴィナスとデリダの他者論をめぐる論争。
他者は超越論的主観性に還元できるかいなか。
フッサールに対するレヴィナスの批判。そして最後に「第三者」の登場で、
レヴィナスの他者論が崩壊していくくだりは、まさに圧巻でした。
読まれた方、ご批判をお願いいたします。
少なくとも「他者」は現象学的還元ができず、自己以前に現前するという
レヴィナスのフッサール批判は納得のいくものだと思います。 レヴィナスでは実存と実存者がよい。
ブランショ評 −絶え間ない騒動―
他者よりまず文学は他動詞から。 >>30
そうやって抽象的にごまかすけど
その文の「花」「赤」「像」「薔薇」を本質直観したものを具体的に記述しないじゃん
あなただけでなくて、フッサール研究者だれもできない
あったとしてもせいぜい主観的な印象を記述するだけで普遍性とは程遠い
本当は本質直観なんてできないんでしょ >>45
記述も何も「ある」ことは自明だろ
何勘違いしてんだ?
薔薇があって、郵便ポストがあって、それらが共に「赤」ということは
本質があるということ
本質が「ある」ということ
なければどっちも「赤」であるなんてありえない
数や論理だって同じこと
数の表象や個々の薔薇や郵便ポストで記述する必要はない
してはいけない
個々の物や経験「でない」から、普遍であって、形相であって、
あなたのような馬鹿の求める記述できるものであってはならないんだよ 〉個々の知覚はどうでもいい。普遍として時空も経験とも独立に直観した本質直観が根本的認識であり、それは時空とも個々の経験とも関係なく常に正しく不変的であり常に真理だ
個々の知覚に還元できないメタなものが間違いなくあることが重要で、
それは個々の知覚や経験で記述できては「ならない」 『デカルト的省察』ってレヴィナスが仏語訳に関わってたんだね。
知らなかったよ。 精神現象学よりヒュームの方が過激。
宇宙空間を連続して寝て跳びながらコギトの連続を紡ぐ。 >>46
>薔薇があって、郵便ポストがあって、それらが共に「赤」ということは
>本質があるということ
それはたんなるドグマだな
こういう決め付けに満ちてるからフッサール読みはきらいだわ なんか考え方のアプローチとか方向性が自分と似てる気がして
フッサール読んでみたい哲学素人なんだが
哲学入門書みたいなのでおすすめある? フッサールに興味持ったんなら門脇俊介『フッサール -心は世界にどうつながっているのか-』
ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』がおススメ
他には植村玄輝他編『現代現象学』これは読んでない
フッサールで哲学に興味持ったんなら
金杉武司『心の哲学入門』は定評がある本
信原幸弘編『心の哲学』なんてのもある
フッサールは基礎づけ主義っていうので批判されるんだけど、それが何なのか知りたければ
冨田恭彦の対話形式の入門書のどれかに結構わかりやすく書いてたはず(6冊あるけどどれか忘れたすまん、たしか角川文庫のやつ)
冨田恭彦の『観念論の教室』は最初はフッサールと全く関係ないけど最後の章でフッサールが何でデカルトが好きでその他の近代哲学者を嫌ってたのかよくわかると思う >>58
どうもありがとうございます
行きつけの古本屋に門脇さんの本はあったので明日見に行ってみます^^ 翻訳、もう少し頑張ってほしい。これだけフッサール研究者が日本には
いるのだから。
「現象学的心理学」と「第一哲学」の翻訳がまだない、ってのは
恥ずかしいことだぞ。
ハイデガーのほうはあれだけ、全集版の訳は読みづらいにせよ、頑張って
マイナーな本まで訳したのだし、
ディルタイやフィヒテでさえ全集がでているのに、
カントやハイデガーとならんで研究者の数が多いフッサールの翻訳が遅れている
感が強くある。 フッサール自身の著作の翻訳が進んでいないのに、研究書と入門書、
および研究書と入門書の翻訳がやたら多い、ってのが日本のフッサールについての
現状。 いろいろ研究者同士でのややこしい問題もあるんだろうけどな。
本人の書く書物や講義録、草稿の部類が、一見ちっとも面白味がなく、ややこしい
ってのも理由だろうな。
入門書や研究書は好みによるし、いいのが多いが、
1田口茂 現象学という思考
2山口一郎 現象学ことはじめ を個人的にはお薦めする。
次点で、
3斉藤慶典 フッサール起源の哲学
外国人による入門書では、
1ザハヴィ フッサールの現象学
2ヘルト 20世紀の扉を開いた哲学
かな。 フッサールが実在論者ってのは正しい認識だし、
本質直観についての理解も、先の説明で問題ないとは思う。
ただまあ、結局、そういったものの根拠を求めると、生活世界とか他者とか
時間とか空間とかそういう問題に行きつかざるをえなくなって、
諸批判に応えるべく、関主観性の現象学をはじめとする、莫大な手稿が遺された
わけだが、残念ながら翻訳は十分にない。
だから今は本格的にそういうことを知りたければ、ドイツ語をマスターして、
翻訳のない無数の文献を読み漁ること。
それができないうちは、先にでた斉藤さんの本とか、ヘルトの「生き生きとした現在」
とか、滅茶苦茶高価だが、谷徹の「意識の自然」とか、
貫茂人、浜渦辰二とかの本を読むほかないんじゃないか。 保毛尾田さんところの保毛男さんはホモなんじゃないかな?なんて言われてるんですけども
あくまでも噂でして…」 たとえ翻訳されている著作でも、フッサリアーナに収録されている数多くの
補論の大半は、訳出されていないことが多いのだよなあ。
本文は訳してあっても。
イデーンIも、フッサリアーナ3-2はすべて訳されてない。
比較的最近邦訳された、「形式論理学と超越論的論理学」も、「受動的綜合の分析」も
「危機」も補論はほとんど訳されていない。
結構そこに、フッサールの重要な考えは含まれているようだ。
昨年ちくまで邦訳された「内的時間意識の現象学」は、みすずの翻訳の数倍の
分量の書物になっているが、
まだ中身は見てないが、おそらく、きちんとフッサリアーナ第10巻を全訳して
くれたのだろなあ。この書物がそういう企画では、日本初かも。
ハイデガー全集のほうは、きちんと全訳してくれているが。
こう考えると、たまに、廉価な文庫本のある「デカルト的省察」と「危機」
だけしか読んでないひとを馬鹿にするひとがいるが、イデーンとかを翻訳で
読んでいても、それだけでは同じアナのムジナだな。
フッサリアーナは42巻でているし、その他ドキュメントや資料集もでていて、
60冊は出版されているが、
そのうち、15冊くらいの本分部分だけしか、翻訳では読めない。 >21
“受動的発生から能動的発生”へ知を引き継ぐ、には具体的に
思考方法をどう進めたら良いのでしょうか?
思考法として“エポケ−”がどの様な思考手順によって事象を直観認識(本質直観)の次元へ
高められるのかが分からない。 21ではないが、本質直観は簡単なことで、意識に原的に与えられている
何かを何かだと判断してしまう働きでないか。
だから、エポケーすることで、いくらエポケーしても、そういう
林檎を林檎だと捉える働き自体は残っていると特にイデーン1くらいまでは
考えていた。
「事象を直観認識(本質直観)の次元へ 高められるのか」
「高められる」なんて言い方をすると、もう誤解しているんじゃないか?
エポケーすることで、色や形を判断する感性直観、
それが林檎である蜜柑であると判断する本質直観、
林檎が「2個」、蜜柑が「3個」と判断するいくつもの範疇直観、
これらが統合されて知覚が成り立つってことが見えてきたとか、そういうことだろ。
エポケーして、あらゆる思い込みを遮断する → しかし現実に林檎を林檎と捉えることが
我々には出来るそれを否定はできない → 人間の意識には林檎を林檎として捉える
本質直観の能力が備わっているに違いない。
こういう推論の流れ。本質とかいうから、たいそうなことを想像するひとも
いるようだが。
俺はこのあたりのフッサールの知覚の考え方はそもそも間違いだとは思っているけども。 「エポケ−して、あらゆる思い込み(主観も入る)を遮断する。
しかし、現実に林檎を林檎と捉えることが我々には出来る、それは否定出来ない。」と述べている。
しかし、“林檎を林檎として捉える”ということ自体、主観を基底として捉えていることになる。
エポケ−とは“一切の先入見(前提)を排する(カッコに入れる)“ことであり、この“一切の前提(先入見)”を
排するとは、主観をも排することを意味している。 >エポケ−とは“一切の先入見(前提)を排する(カッコに入れる)“ことであり、この“一切の前提(先入見)”を
>排するとは、主観をも排することを意味している。
ところがフッサールの場合は違うんだよなあ。
超越論的自我、あるいは、純粋自我ってのが残る。
これは、関主観性の現象学なんか読めばわかるが、発生的現象学の立場になっても
残り続ける。デカルト的省察の対化によって他者を捉えるなんて馬鹿な発想も
そこからくる。
ちなみにデカルトも違うよね。「考える私」だけは確かなものとして残る。
言っていることはよくわかるのだよ。純粋自我なんて残してしまったら、
それは現象学者にだけあてはまる特殊な自我だ。
その点でフッサール批判することは可能だが、
フッサールを理解したいのか、批判したいのか、どちらの立場なのかが
君の場合はわけがわからない。 純粋自我って、ある意味死なないんだよねえ。
あ、これはフッサール自身が言っていることね。
でも肉体の消滅とともに死ぬ自我ってのから出発すべきなのだよ。 とにかく、68は、ネット上でもいいから、「純粋自我 フッサール」
で検索してから考えるべきだろうな。
「エポケーすると(あらゆる)自我がなくなる」
なんてことを言いだすと、68が考えているフッサールのものではない
別のエポケーを、俺は相手にせざるをえなくなる。
68の哲学ってやらを相手にせざるを得なくなってしまう。
あ、そうそうフッサール自身の考えを知る上でもっとも分かりやすそうな解説書としては、
岡山啓二 フッサール 傍観者の十字路
をお薦めしたい。深みは乏しいかもしれんが、俺の読んだ限りでは、一番分かり良いと
思う。谷さんの「これが現象学だ」もいいが、もしかしたら入門者には記述がこなれ
すぎているかも。山口さんや田口さんのは薦めるがフッサール自身の入門というより
日常生活における現象学って感じの書物だ。
誰かが(58さんか)薦めていた、
門脇俊介『フッサール -心は世界にどうつながっているのか-』
は、言語哲学との関連で分析したもので、そういう方面に関心があるひと以外には
ちょっと薦めづらい。たぶん、多くのフッサールに関心を持つ人の関心とは違うと
思う。立派な本だけど。
ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』はいい本でフッサールの全体像の読み直しとして
優れているが、エポケーも分からない人にはとても薦められないわ。 >>72
横だけど、エポケーが正確に解釈できないのは、フッサール自身の曖昧さに問題があるんじゃないか?
正確な解釈としては、エポケーというのは概念設定にもならない妄想に過ぎないということだろう。
主観をなくしたいというフッサールの願望自体が、幼稚な自己満足という意味で。 >>70
>ところがフッサ−ルの場合は違うんだよなあ。
超越論的自我、あるいは、純粋自我ってのが残る。
>現象学とは“エポケ−によって、一切の先入見(前提・既成概念)を排して(カッコに入れて)その状態の中に
現れる現象を認識することです。
フッサ−ルの様にエポケ−に於いて、主観(自己の論理・認識)を残し、客観的事象のみを
エポケ−(現象学的還元)をしても、そこに現れる“本質直観”には、自己の認識(自己の理論)が残っており、
“正しい本質直観”を得ることは出来ない。
正しい現象学から観た場合に、“主観”を残した現象学的還元(エポケ−)によって現出する“本質直観”は
不完全な本質直観ということが出来る。 >>70>>74
ふたりとも一度哲学のジャーゴンを見直した方がいいよ。 >>73
>正確な解釈としては、エポケーというのは概念設定にもならない妄想に過ぎないということだろう。
一部のフッサール研究者や信者なら反論するだろうけど、俺はそう理解しているよ。
>主観をなくしたいというフッサールの願望自体が、幼稚な自己満足という意味で。
いやいや、主観=主体をなくしたいなんてフッサールは考えていないのだよ。
厳密な主体に基づく、厳密な学問をつくりあげようとしているのだよ。
フッサール読めばわかるが、最後まで、純粋自我、純粋自我と言い続けている。
ハイデガーなんかは結局そこを批判しているのだとは思う。 >>74
君の場合は、フッサールの仕方は甘い、もっと厳密に考えるべき、という
立場なのかな?
>フッサ−ルの様にエポケ−に於いて、主観(自己の論理・認識)を残し、客観的事象のみを
>エポケ−(現象学的還元)をしても、そこに現れる“本質直観”には、自己の認識(自己の理論)が残っており、
>“正しい本質直観”を得ることは出来ない。
「主観(自己の論理・認識)」「自己の認識(自己の理論)」「正しい本質直観」。
この3つの言葉がポイントであって、
君は、エポケーしたら主体も消えると考えているようだが、そんなことはない。
エポケーしようと思索にふけった時点で、考えている自己(デカルトみたいだがw)
は絶対に残る。 完全に自分を消去した状態ってなんだ、と考えると、それは完全に意識を失った
状態としか言えない。
あるいは何か作業に没頭して、考えるのをやめてしまっている状態でもいいかも。
フッサールはそんなことを求めているのではない。余分なものをすてた裸の
私、つまり意識の有り方を求め、その純粋な意識の有り方から世界を基礎づけようと
しているわけだ。
あとそれと、「自己の認識(自己の理論)」、自己の理論とか、かなり多義的に解釈
できる言葉が出てきてしまっているのだが、
フッサールは、「純粋自我」って言葉で「純粋」というのにこだわっているだろ?
フッサールは、余分なもののない純粋な自我から学問を基礎づけることが
できると信じて、それを探究しているのだよ。
あと本質直観には、正しいも糞もない。
林檎を林檎として意識する、ってのに間違いもなにもないのだよ。
ちなみにフッサールは、間違い、(林檎と見えたが実は梨だった)も
本質直観として理解しているはず。 >>78
知らないよ。誰でも極度に傷つけられたら被害妄想的になるじゃん だけど、主観を拝した主幹、残るものの前に
、省いたものはどうなっちゃうの? だけど、主観を拝して残るものの前に
、省いたものはどうなっちゃうの? >>76
>厳密な主体
それ自体が言葉の矛盾だろ?
主体(個人)を厳密に追求していけば、生理的(物理的)な存在(存在者w)が残るだけ。
主体(主観のある個人)とは、猥雑な神経系と思念の塊だから。 >>78
>林檎を林檎として意識する、ってのに間違いもなにもない
林檎を林檎として意識するためには、それがミカンではなく林檎であると区別する根拠(概念設定)と、林檎そのものに対する知覚がなければならない。
乳児や原始時代の人間が、現代の大人と同じ知覚を持っているかどうかは、実は疑わしい。
心理学や知覚を追求したメルロ=ポンティの課題であったともいえる。
「純粋」などという概念設定ができると思い込んだのは、デカルトの悪しき影響ということになるのかも知れない。
「直観」もまた、個人や社会の精神構造から離れられるものではない。
存在は本質に先立つ、という当たり前のことを見失っていたのだろう。 >>77
>君は、エポケ−したら主体も消えると考えているようだが、そんなことはない。
エポケ−しょうと思索にふけった時点で考える自己(デカルトみたいだがW)は絶対に残る。
>デカルトの様に考えている自己は、超越論的自我として残る。それは、“方法的懐疑”という
思考方法によって可能となる。
現象学は“現象学的還元(エポケ−)”という思考方法であり、デカルトの“方法的懐疑”とは思考過程が
異なっている。
つまり、“方法的懐疑”は、“疑う”という思考過程を基底とするが、この思考過程は究極の“真”を前提(定立)して
すべての事象・概念に対して真偽を行う。 その究極にあるものが“疑っている私は疑えない”という究極の真としての
“私(超越論的自我)に至る。
一方、「現象学的還元(エポケ−)」の思考過程は、一切の既成概念・前提を排する思考法であり、その意味から
主観・自我も“既成概念”であり、排することになる。エポケ−により現出する本質直観は、一切の客観的事象と
主観的事象が排された(エポケ−された)後に現れる、まったく新たな認識が構成される。その認識を本質記述する。
従って、フッサ−ルは、デカルトの“方法的懐疑”の思考過程と“現象学的還元”の思考過程とを“混同”している。
この、両思考過程の“混同”が間主観性哲学にまで尾を引いている。 わざわざ長音の部分をマイナスに置き換えて引用しているんだな。
怖いものがあるわ。 >>83
>それ自体が言葉の矛盾だろ?
主体の定義になるんだろうがね。「私」という言葉が意味しているのは何か。
>主体(個人)を厳密に追求していけば、生理的(物理的)な存在(存在者w)が残るだけ。
基本同意で、俺はフッサールは正しくないとは考えている。
ただし、生理的を問題と主体の問題とは、問題の次元が違うのだろうなとは思う。
生理的問題を考慮しつつ主体をどう定義づけるか、ってことだろね。
思惟に重きを置きすぎる哲学ってのは基本間違いだと思う。環境をもっと考慮しないと。 そいでややこしい方か。
>>84
メルロ=ポンティは身体問題を考慮しているからな。
>「直観」もまた、個人や社会の精神構造から離れられるものではない。
>存在は本質に先立つ、という当たり前のことを見失っていたのだろう。
ところがねえ、晩年は生活世界なんて考えるから純粋自我は捨てずに。
このあたりの論理はかなり揺れているみたい。
>>85
デカルトの方法的懐疑とフッサールのエポケーが同じでないことくらいは
俺もさすがに理解しているぞ。
>一方、「現象学的還元(エポケ−)」の思考過程は、一切の既成概念・前提を排する思考法であり、その意味から
>主観・自我も“既成概念”であり、排することになる。エポケ−により現出する本質直観は、一切の客観的事象と
>主観的事象が排された(エポケ−された)後に現れる、まったく新たな認識が構成される。その認識を本質記述する。
だから、これはあなたが理想としているエポケーであって、フッサールのエポケーでは
ないのだよ。 純粋自我はおそらくフッサールなら既成概念ではない、と反論する
だろう。
本質直観も、やたら意味深いものに、意図的に自分の好みにあった定義に解釈している
ようだし。
これではあなたは、自分の理想をまくしたてているだけ。 >従って、フッサ−ルは、デカルトの“方法的懐疑”の思考過程と“現象学的還元”の思考過程とを“混同”している。
>この、両思考過程の“混同”が間主観性哲学にまで尾を引いている。
こう書いているからまあ自分はフッサールとは別の現象学を主張していると
理解はしているようだがw
私見では、思惟とか省察とかを出発点とするかぎり、「私」の問題は付きまとう。
いくらエポケーを唱えてもな。「私がこう理解する」というのが付きまとうから。
このあたりは、デカルトというより、カントの統覚の問題と重なるが。 >>89
>このあたりの論理はかなり揺れているみたい
本家(?)デカルトも、考える自分の存在自体を真とするなら、知覚を感じた自分もまた真としないといけない、となって、結局はぐちゃぐちゃ。
おまけに、考える「私」も知覚する「私」も、考えた時点で知覚した時点で、考える前知覚する前とは違う「私」になっている。
あれ? ヘーゲルになっちゃったw >>90
フッサ−ルの場合は、意図的に主観を置いといて、“客観的事象”のみエポケ−(現象学的還元)を実行しているが、
それは何故でしょうか?
それから、思惟・省察を出発点として、エポケ−をしても「私」の問題は付きまとう、と述べているが、それは
エポケ−の仕方によると思う。 >>92
何故というより、エポケーが定義上そういうもの、だからだろ?
エポケーを定義したのはフッサールその人なのだから。
「私」の問題ってのは物凄くややこしいのだけれども、
立場は違うが、デカルト、カント、フッサールというビッグネーム3人は、
この問題については、簡単に前提条件として受け入れてしまう。
ヴィトゲンシュタインとかハイデガーとかはそうではない。 >>91
デカルトが方法的懐疑によって、“疑っている私は疑えない”という究極の“真”としての
“私”を超越論的自我というが、 問題はデカルトが方法的懐疑による究極の思考過程に於いて
認識した“あるもの”を、なぜ短絡的に“純粋な精神(=私)”と定義したかでしょう。
本来、人間の“心(精神)と体(物質)”は、“一つのもの”として存在している。
つまり、思惟・思考する以前に“心と体”は、もともと“一体化しているもの”であり、
この“主体(=超越論的自我)”の問題は、更なる論究が必要と思う。 「何故短絡的に」ってあなたw
デカルト的立場で、科学技術の発展の基礎付けも得られた側面もあるのだから。
近代合理主義の基礎づけと言う意味で。時代の要請でもあったのだろ。
>この“主体(=超越論的自我)”の問題は、更なる論究が必要と思う。
そりゃあそうだが、ドイツロマン派の頃にはすでにこの問題をめぐって
様々な論争があったのだよ。もう200年も前に。 >>95
>デカルト的立場で、科学技術の発展の基礎付けも得られた側面もある
あるの?
>様々な論争があったのだよ
まるで無意味な論争だろ?
哲学はヘーゲルとフォイエルバッハで完成され、ヴィトゲンシュタインによって哲学のジャーゴンが解体された。
残ったのは、ヘーゲルの対象の観察による弁証法とフォイエルバッハの心理を追求した唯物論だけだろ。 >>96
あったんじゃないの?よく言われることだが。
逆に、デカルト以降、「心身問題」がクローズアップされることになったわけ
だし。見方によれば、デカルトのおかげ。
>哲学はヘーゲルとフォイエルバッハで完成され、ヴィトゲンシュタインによって哲学のジャーゴンが解体された。
>残ったのは、ヘーゲルの対象の観察による弁証法とフォイエルバッハの心理を追求した唯物論だけだろ。
それは単なる君の哲学史観。ヘーゲルが、それ以前の哲学者を自分の前段階と
位置づけてから、わけのわからん哲学史観を信じるやつがでてきてしまった。
ヘーゲルは、「俺が西洋哲学の完成形だ」と言い続けた人だから。
それを君が信じる必要性はなかろう。
心身問題なんていろんな立場で分析されているだろう。 >>97
「心身問題」なんてギリシアでも東洋思想でも当たり前の考え方だぞ?
>ヘーゲルは、「俺が西洋哲学の完成形だ」と言い続けた人
哲学史を勉強しろとは言わないけど、ヘーゲルぐらいは読んだ方がいいと思う。
いや、僕も哲学史をたいして勉強したわけじゃないからw >>97
あと、フォイエルバッハの観念論哲学の解体と、ヴィトゲンシュタインのジャーゴンの解体についてはどう思う?
関心がないかな? >>98
心身問題はな。ただし、「私」の問題としてクローズアップされてきた
点は、デカルト以降の展開が大きいかな。
別にデカルトを褒めろといいたいわけではないが。こんなのは哲学史的事実として
受け入れたらいい。
今更、何故デカルトは短絡的にーー、なんていってもわけがわからない。
デカルトはあの立場で哲学史に地位を固めた人なので。
プラトンは何故イデアなんかをーー、というのと同じ。
>>99
フォイエルバッハはどうでもいい。この文脈で名前が出てきたこと自体が
意味不明。
ヴィトゲンシュタインは重要だが、ここで突っ込む必要性は感じないけどな。
全体的に何がいいたいかわけがわからんが。 そうか、詳しくないが、この人は、マルクス主義的な歴史観をいきなり
この文脈でもってこようとしたのかな。
作為的過ぎるんだよ。 >>100
「私」というのは、実は、ギリシアや東洋思想の根幹だ。
ま、どうでもいいが。
フォイエルバッハはフッサールの曖昧な精神論をとっくに凌駕してる。
フッサールがヘーゲルやフォイエルバッハをきちんと読んでいれば、エポケーなどというおバカ概念を提示しなくて済んだんじゃないかと思う。
ヴィトゲンシュタインは、まさに、フッサールやハイデガーなどの(観念論ですらないという意味での)精神論を解体する。
デカルトもフッサールも所詮はジャーゴンだけの哲学。
中身はまったくない、と言いたいのだが。 >>102
だからねえ、東洋哲学の問題をここでもってきても仕方ないのくらい
わからんの? デカルトはデカルトで、批判的に検討されることで
哲学史での位置づけを得ているところがあるのだから。
>フォイエルバッハはフッサールの曖昧な精神論をとっくに凌駕してる。
だからそれは「あなた」の哲学史観で、ここでフォイエルバッハ賛美されてもw
> デカルトもフッサールも所詮はジャーゴンだけの哲学。
>中身はまったくない、と言いたいのだが。
この二人を批判的に検討したり、まあフッサールについては賛美者も結構いるが、
そうこうしながら、いろいろな研究がなされ続けているのだから、
中身がないとまでは俺は言わんよ。
自分なりの哲学観を持っているのはよくわかったし、それを見せびらかしたいのなら
勝手にすればいいが、
それで俺にからんでこられても困る。
フッサールは不思議と研究者の書く本の質が高いのが面白い。
もっとも俺の感想ではあるが。 >>103
>哲学史での位置づけを得ているところがある
だからね、それが無意味だと言ってる。
フォイエルバッハとヴィトゲンシュタインが(西洋哲学史的)哲学自体を解体したとも言ってる。
哲学というものを真面目に考えるなら、解体もまじめに考えないといけない。
たしかに、僕が君に絡んでいると言えなくもないかも知れない。
エポケーなどというのが、おバカ概念(ハイデガーの存在と同じくらいのおバカ概念)であるということに気が付いて欲しいなとは思う。
どっちみち哲学なんて、絡むことが批判であり、議論だと思うんだけどね。 >>104
あのさあw 「俺」はフッサールのエポケーについては完全に批判者であり、
ハイデガーの存在概念についても、存在論的差異の問題とか学ぶべきところを
感じはするが、その上でそんなに同意してないほうであって、
そういう俺にそんなこと言ってこられてもw
>だからね、それが無意味だと言ってる。
そうは思わんよ。少なくとも、それで喰っているひとがいるかぎりw
>フォイエルバッハとヴィトゲンシュタインが(西洋哲学史的)哲学自体を解体したとも言ってる。
ヴィトゲンはともかく、フォイエルバッハをここまで持ち上げる奴は初めてみたわ。
「私」の問題でとりあげるなら、シュティルナーあたりを持ち上げたほうが
いいんとちゃうの?詳しくないが。
ニーチェとかならざらにいるが。
哲学の解体なんて何度も言われていることで、解体解体言われながら、
古典研究が為され続ける。そういう業界だからねえ。
もっともそういうのを相手にしないのも生き方として間違ってはいないが、
そういうひとなら、最初からフッサールについて質問するな、といいたいわ。
もう終わっている、とするのも別に間違ってはいないのだから。 age sageが交互にでてくるけど改行の仕方がおなじだな ヴィトゲンシュタインそして、フォイエルバッハにしても、デカルトの“心身二元論”を克服していない。
“心身二元論”の問題は、フッサ−ルの“現象学”によって初めて新しい展開がなされて来たところがある。 >>89
>だから、これはあなたが理想としているエポケ−であって、フッサ−ルのエポケ−ではない。
>フッサ−ルは、主観に対してエポケ−を制限し、客観的事象のみエポケ−したことに対して、以下の様に述べている。
「十分な根拠から、私たちはこのエポケ−の全般性を制限する。なぜなら、もしこのエポケ−がおよそ可能なかぎり包括的なもので
あるなら、いかなる定立、従っていかなる判断もまったく十に変様(=中立化)され……変様されない(=中立化されない)判断のためには
もはやいかなる余地もないことになり、ましては“学”にいたっては言うまでもないからである。」(ID.I.56)と記述している。
上記のフッサ−ルの記述でも分かる様に、正しい現象学が一切の先入見を排する(エポケ−する)という思考過程に於いて、
主観的事象と客観的事象を排することを理解した上で、フッサ−ル個人として“主観”を制限(排することを制限)していたのである。
尚、>>96、>>98>>99>>102>>104>>は別人のレス。 私は>>94です。 >>108 訂正
従っていかなる判断もまったく十に変様(=中立化)され
↓
従っていかなる判断もまったく自由に変様(=中立化)され >>105
>フッサールのエポケーについては完全に批判者
僕が、もう一人の人と混同してることろがあるかも知れない。
申し訳ない。
>存在論的差異の問題とか学ぶべきところ
存在論などという妄想の産物は全否定するべき。
>それで喰っているひとがいるかぎり
ジョークだろうが、それでは学問にはならないだろ?
>最初からフッサールについて質問するな
僕は質問などしてしていない。
批判をしてるだけw >>107
>ヴィトゲンシュタインそして、フォイエルバッハにしても、デカルトの“心身二元論”を克服していない。
ヴィトゲンシュタインやフォイエルバッハが“心身二元論”と、どう関係してると思うの? 混乱防ぐために「あ」にしておくわw 俺も誰かと一緒にされたみたいだし。
>>110
>存在論などという妄想の産物は全否定するべき。
そうは思わんね。存在論のモデルチェンジは必要だが、
人間の思考の方向性なんてたかがしれている。
>ジョークだろうが、それでは学問にはならないだろ?
ところが学問になっているから困るw
実際のところ、過去の哲学を受け入れたり批判したりしながら、
現在の多様な研究がなされているからね。
どの立場に立つにせよ。
>僕は質問などしてしていない。
>批判をしてるだけw
それはここが誰のレスかわからないことから生じる混乱だな。
名乗ってくれないと俺もわからん。ずっと相手にしていたひとと
別人がからんできたことなんて俺には理解できん。
もっとも別人の可能性くらいあるとは思っていたが。
フッサールに関してはさほど俺と立場はかわらんし、
それ以外のことで論争してもな。 >>108
あなたの引用箇所だけでは、なんともいえんわ。
それ多分、斎藤慶典の「フッサール起源の哲学」からとってきたんだろ?
括弧の斎藤がつけたしたところまで同じ。
中立性変容と還元の違いに絡む箇所のはずだが。
学問であるかぎり基盤は確保しなければならない。だから、あらゆる思いなしの
真偽を宙づりにしなければならないが、
学問としての土台まで宙づりにしてはならない、って程度のこと。
まあフッサールの場合、そのために、自我論エゴロギー的立場を貫いたわけだが、
そうする必要があったかどうかは、俺は疑問。
というより、フッサールのような仕方でエポケーをして、さらにその方法で
私まで消去して、あくまでも認識論的立場にこだわったフッサールが何ができる
ねん、って問題だな。
君に聞きたいのは、なんで私の消去にここまでこだわるか、だよ。
俺は自我論的立場には否定的だが、「私」という現象が存在しないとまでは
考えていない。また私を消去したら新しいすばらしい世界が広がるなんて
阿呆なユートピアを思い描いたりしない。 >>107
その人は、自分の哲学的知識を見せるのと、個人的偏愛がゆえに、
ただ名前を出しただけだと思う。
心身二元論の克服については、確かにフッサール自身はともかく、現象学者が
好んでとりあげようとしている側面は否定できないし、まちがってはいない。
ベルクソンやフロイトの存在が大きいとは見ているけどね。 >>112
僕も君に倣って自分に名前を付けておこう。
>存在論のモデルチェンジは必要だが、人間の思考の方向性なんてたかがしれている
存在論というのは、存在一般、つまりすべての物や事柄やさまざまな関係のありかたに、抽象可能な「なにものか」を想定する考え方だ。
ハイデガーの場合は、それを「存在」と名付けた。
だから、「存在(現実にある物や事柄や関係)は本質(思考による抽象)に先立つ」の一言で片づける(捨て去る)ことができる。
>過去の哲学を受け入れたり批判したりしながら
F&W(フォイエルバッハとヴィトゲンシュタイン)的に見れば、哲学は時代と環境によって生じる個人の妄想だから、「受け入れ」るような内容があるわけではないということになる。
つまり、研究者の生活の糧にはなっていても、「学問になっている」わけではない。
>フッサールに関してはさほど俺と立場はかわらん
そうだね。
それなのに、その立場を徹底(他の哲学へ敷衍)しようとしないのはなぜだろう? >>114
>自分の哲学的知識を見せるのと、個人的偏愛がゆえに
その感覚が、君の思考を濁らせてるんじゃないかな?
あらためて君にも「質問」するけど、ヴィトゲンシュタインやフォイエルバッハが“心身二元論”と、どう関係してると思うの? >>113
フッサ−ルは気づかなかったと思うが、方法的懐疑と現象学的還元の大きな違いは、
方法的懐疑が究極の“真”としての超越論的主観性を認識し、現象学的還元に於いては、
超越論的客観を認識するところでしょう。
その違いはどこから生じるのかというと、“前提を設定する”思考法の方法的懐疑と、“前提を設定しない”思考法の違いにある。
ここで、超越論的客観という認識を述べたが、私はハイデガ−の“存在”の概念に類似していると解釈している。 結構若いな俺
>16歳
>全ての色が完璧に判断できています!(16歳じゃなかったとしても...) >>117
「ハイデガ−の“存在”の概念」とは、どういうものだと思う? ゆっくりレスしていこうか。
>>115
>存在論というのは、存在一般、つまりすべての物や事柄やさまざまな関係のありかたに、抽象可能な「なにものか」を想定する考え方だ。
>ハイデガーの場合は、それを「存在」と名付けた。
ちょっと強引で、理解し損なっていると思われる。端的にいうと、存在は「意味」だよ。
>だから、「存在(現実にある物や事柄や関係)は本質(思考による抽象)に先立つ」の一言で片づける(捨て去る)ことができる。
こうまとめると、存在論が実在論になってしまうと思う。
あれは、意味の生起を巡る思索。後期ハイデガーは俺は好かんが。
意味は生の実感のように捉えるといいかもしれない。なんて書くと
ハイデガー研究者には怒られるかもしれないが。 (続き)
>つまり、研究者の生活の糧にはなっていても、「学問になっている」わけではない。
「君」にとってはそうだろうね。
でも本人はそうだとは思わない。
なぜなら、「F&W的に見れば、哲学は時代と環境によって生じる個人の妄想だから」
なんていう強引なまとめを共有しているひとは、おそらくほとんどいないから。
これは君本人の問題で、君本人の力で君が信じる哲学的思索を繰り広げてもらうほかない。
俺も共有しているものではないのでな。
>それなのに、その立場を徹底(他の哲学へ敷衍)しようとしないのはなぜだろう?
君のように、自分が誰の信者かをここで見せていないだけ。
しかし誰の信者かを示したところで、何かが言えたわけだとは思わん。
俺なりにビジョンは
あるけどね。特定の誰かの信者ってタイプの人間ではないが。
日常生活から主観=主体の問題を考えるべきという立場なので。 >あらためて君にも「質問」するけど、ヴィトゲンシュタインやフォイエルバッハが“心身二元論”と、どう関係してると思うの?
これ俺に質問されてもなあw
ヴィトゲンは「私」の問題については、フッサールよりはずっと優れた視点を
持っていると思っているよ。 >>117
>方法的懐疑が究極の“真”としての超越論的主観性を認識し、現象学的還元に於いては、
>超越論的客観を認識するところでしょう。
そういえるかな。
> その違いはどこから生じるのかというと、“前提を設定する”思考法の方法的懐疑と、“前提を設定しない”思考法の違いにある。
>ここで、超越論的客観という認識を述べたが、私はハイデガ−の“存在”の概念に類似していると解釈している。
そう考えて、ハイデガーは、「現象学」を解釈しなおそうとして、
フッサールと喧嘩することになったんじゃないかね。
ハイデガーの「現象学の根本問題」
2冊あるがどちらも、を読むとそのように理解できる。
しかしそうなると、現象学というより、存在論になるんだろうけどな。
するともはや、フッサール的にエポケーは問題にならなくなるので、
君のやっているのは、当初はフッサールに対する質問だったはずだが、
もう別のことになっているのだよ。
ただ、ハイデガーがフッサール的主体を取り入れていないにせよ、
主観性の問題を棄てたとは理解してない。 >>124
>しかし、そうなると現象学というより、存在論になる。
するともはやフッサ−ル的なエポケ−は問題にならなくなるので、
>“方法的懐疑”は、“真”という“前提”を設定し、究極の存在としての“超越論的主観(=心身合一”)を認識する。
一方、“現象学的還元”は“前提を設定しない”思考法として、“超越論的客観”を認識する。
この“超越論的客観”の認識は、ハイデガ−後期思想の“〈存在〉は自然(フュシス)=生成”として捉えている認識と
同一であると解釈している。
従って、現象学的還元の“思考法”によって“超越論的客観”に至るのだから、現象学と存在論は密接な関係にある。 >>126
ハイデガーの存在論を現象学の一解釈として理解するひとは結構いるから、
それならそれでいいと思うよ。
でもまあ、それならフッサールに対する「質問」ではなく、
最初からフッサール批判の文章を書くべきだった。 >この“超越論的客観”の認識は、ハイデガ−後期思想の“〈存在〉は自然(フュシス)=生成”として捉えている認識と
>同一であると解釈している。
ここがねえ。「超越論的客観」という非常に紛らわしいと言うか、意味不明の言葉を
もってきているのが気になってはいたよ。
超越論的主観は消去したいのに、超越論的客観を消去したくない、
それこそが自分の望む現象学だー、って主張には見えた。
フィシスの解釈というならそれでいいけど、最初からいいたいことを明確に
書かないと。 >>121
>存在は「意味」だよ
>あれは、意味の生起を巡る思索
それはまた、ずいぶん乱暴な。
「意味」というのは人間の価値観の表明に過ぎないから、それを「存在」というならたんなる心理に還元されてしまう。
さらに「意味」から人間を排除すれば、すべての物や事柄やさまざまな関係のありかた、に還元される。
つまり、「存在(現実にある物や事柄や関係)は本質(思考による抽象)に先立つ」の一言で片づける(捨て去る)ことができる、ということになる。
>本人はそうだとは思わない
本人がどう思うかで、学問であるかないかが決まる、と?
それはまた、なんと強引な。
>日常生活から主観=主体の問題を考えるべき
だから、ハイデガーもまた日常生活の範囲で理解してしまうのか。 >>123
>ヴィトゲンは「私」の問題については、フッサールよりはずっと優れた視点を持っている
どこが? >>124-128
突っ込みたいところは山ほどあるけど、横だから自重しようw
>>129-130 はFWです。 >>129
>それはまた、ずいぶん乱暴な。
「存在の意味」という言葉をよくハイデガーは使うが、この「の」は
同格。存在という意味と解釈できるし、比較的一般的理解だろう。
>つまり、「存在(現実にある物や事柄や関係)は本質(思考による抽象)に先立つ」の一言で片づける(捨て去る)ことができる、ということになる。
つまり、があまりにも乱暴。
>本人がどう思うかで、学問であるかないかが決まる、と?
>それはまた、なんと強引な。
学問かどうかは「君」が決めるのではないからな。君が決めれるのは
君にとっての学問だ。
>>日常生活から主観=主体の問題を考えるべき
>だから、ハイデガーもまた日常生活の範囲で理解してしまうのか。
ハイデガーを念頭に言ったのではないが、ハイデガーも日常から分析しようと
しているのはよく知られたこと。だから道具の分析にあれだけ力を入れる。 おっと >>132 は 「あ」=俺 の書き込みな。
>>130
今それやるの?w 世界に属さず世界の限界としての主体=私。
ヴィトゲンはフッサールのように、超越論的自我を設定してしまわない
という点で。 >>本人がどう思うかで、学問であるかないかが決まる、と?
>>それはまた、なんと強引な。
>学問かどうかは「君」が決めるのではないからな。君が決めれるのは
>君にとっての学問だ。
ここは説明が必要だな。
学問の定義になるが、本人が信じて学んでいるかぎり、それは学問として
否定できないのだよ。広義では。
そのうえでそんなものは学問でない、と君のように言い張る場合は、
自分の視点が、他の学者たちなんかより遥かに優れたものであり、
とにかく俺は偉いんだ―、という理由を分かる形で説明しなければ
ならないのだが、哲学史を強引に要約して、ヘーゲルとフォイエルバッハと
ヴィトゲンを持ち上げるだけではなんともw >>132
>「存在の意味」という言葉をよくハイデガーは使うが、この「の」は同格
日本語として、おかしいよ。
ちょっとだけ文法の勉強をした方がいいと思う。
>学問かどうかは「君」が決めるのではないからな。君が決めれるのは君にとっての学問だ。
これも日本語としておかしいけど、それは置いといて。
誰が学問かどうかを決める?
文科省?
>ハイデガーも日常から分析しようとしている
思考の原点は現実にしかない。
だから、「存在は本質に先立つ」という表現になる。
思考の出発点と思考の範囲を混同してはいけない。 >>133
>世界に属さず世界の限界としての主体=私
いつやってもいいけど、そんなのヴィトゲンシュタインとは無関係。 >>134
>本人が信じて学んでいるかぎり、それは学問として否定できない
統失患者には、自分が学者だと思ってる人が一定数いるけど、患者の筆記も学問なんだね?
それはそれで、ひとつの見解だ。
>分かる形で説明
説明できてないのが君たちだと思うから、僕はそれを批判してるんだけどね。
僕はいろいろ説明してるんだけど、君にはわからないみたいだ。
なにを説明してほしいの? なんか最初から文句つける気まんまんって感じのやつだなw
>日本語として、おかしいよ。
>ちょっとだけ文法の勉強をした方がいいと思う。
英語のof、ドイツ語の2格やvonなどには同格の用法はあるんだよ。
てか、ドイツ語で読んだの?
>誰が学問かどうかを決める?
>文科省?
何で文部省がでてくる?自分で勉強していると感じたら学問だよ。
>思考の出発点と思考の範囲を混同してはいけない。
それは個人的関心の問題じゃねーか?君が何を追求しようとしているか
知らんが。
>いつやってもいいけど、そんなのヴィトゲンシュタインとは無関係。
あまりにも有名なヴィトゲンの言葉だが? >それはそれで、ひとつの見解だ。
そりゃあそうだろ。学問は誰にたいしても開かれている。愚者もへったくれもない。
そもそも学問がどーのといいはじめたのは君であって俺でない。
>説明できてないのが君たちだと思うから、僕はそれを批判してるんだけどね。
君の場合は批判というより文句な。また批判に専念したいなら、
いきなり飛躍してたいした説明もなしに、フォイエルバッハこそ偉いとかいってきてもな。
ここはフッサールスレだろ? 多少離れてもいいが。
そうなると、他にもそういう人がいたが、その点をつっこみたくなるもの。
どういう観点でフォイエルバッハを今持ち出す必要性があったのか、
これをまず説明しないとな。
あるいはスレ違いだから打ち切るのもいいと思うが。 >>138
>ドイツ語で読んだの?
ドイツ語では読んでない。
日本の訳者が文法を知らないバカだと言いたいの?
>自分で勉強していると感じたら学問
統失患者の読書は当然だとして、小学校の宿題も学問ということか。
それはそれで一つの見解だが、日本人のほとんどが学者ということになるな。
>個人的関心の問題
個人の関心から始まり、普遍性に行きつこうとするのが学問だと思ってた。
たしかに君の学問の定義では、個人の範囲にとどまってもまったく問題はない。
>あまりにも有名なヴィトゲンの言葉
それは知らなかった。
日本語訳で引用して。 俺の感覚でいうと、何でもっと現代の人を読まないのって気分にはなる。
フッサールもハイデガーもカントもアリストテレスも、そりゃあ、
現代の人を読む上でも基礎教養としてある程度習得する必要はあるが。 早いレスだな。
>日本の訳者が文法を知らないバカだと言いたいの?
それは関係ない。原文を参照しないとニュアンスがわからないから。
すべてのニュアンスを訳語に入れるのは、経験上不可能だ。原書を参照するのは
大学以降の学問では基本中の基本だ。
>それはそれで一つの見解だが、日本人のほとんどが学者ということになるな。
学者の定義は、学問で飯を食っているかどうかだよ。しかし、学者以外にも
学問は開かれている。それに頭の善し悪しは関係ない。
>個人の関心から始まり、普遍性に行きつこうとするのが学問だと思ってた。
普遍を目指すのは、学問というより哲学的思考の一典型であって、
有用性を目指す学問もあれば、単に知識を蓄える学もある
これほど多様性が求められる現代にあって、普遍をどういう意味で目指すのかも
かなり見解は分かれるだろう。
>それは知らなかった。
>日本語訳で引用して。
「論理哲学論考 5・632」主体は世界に属さない、それは世界の限界なのだ。
ヴィトゲンシュタインで最も有名な言葉の一つだが。これも知らんかったの? >>139
>>140も僕。
>学問がどーのといいはじめたのは君であって俺でない
だとしたらなに?
君が書いたことは僕に引き摺られただけだから、君は書いたことに責任がない、と?
>たいした説明もなしに、フォイエルバッハこそ偉いとかいってきても
偉いと書いたことは一度もないと思うよ。
君の日本語理解力に問題があるんじゃないかな?
>どういう観点でフォイエルバッハを今持ち出す必要性があったのか
何回か書いてるつもりだけど、エポケーだの超越論的主観だの超越論的客観だのという愚にもつかないジャーゴンを否定するには、フォイエルバッハをヴィトゲンシュタインが一番わかりやすい。
君は、エポケーを否定するのに、超越論的主観だの超越論的客観だのという概念を振り回したいの?
>スレ違いだから打ち切るのもいいと思う
君が打ち切るのはもちろん自由だ。
僕は、気になる書き込みがあれば、君とは無関係にそれに反応するかもしれない。 >>142
>原文を参照しないとニュアンスがわからない
原文を訳した翻訳者が、ニュアンスを日本語化できないバカだと言ってるんだね?
「の」の使い方も知らない日本語音痴だと主張するんだね?
君は、そうした翻訳者たちが訳注にも表記しなかったニュアンスが理解できると言いたいんだね?
>学者の定義は、学問で飯を食っているかどうかだ
学者の定義を問題にしてるんじゃなくて、学問の定義を問題にしてるんだよ?
君の日本語理解力も問題にしてるけど。
>普遍を目指すのは、学問というより哲学的思考の一典型
ずいぶんおかしなことを主張するね。
学問は、普遍性=客観性を獲得してはじめて成立する。
普遍性=客観性がないのに学問であると主張しているのが、哲学だよ。
>ヴィトゲンシュタインで最も有名な言葉の一つ
5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)
以下、5.641まできちんと読んでね。
「世界に属さず世界の限界としての主体=私」とは無関係、というよりむしろ真逆だということがわかるから。 >君が書いたことは僕に引き摺られただけだから、君は書いたことに責任がない、と?
そんなこと書いたか? 使い始めたほうから意図と定義を明確にしないとな。
>偉いと書いたことは一度もないと思うよ。
そんなニュアンスに受け取ったがね。
>何回か書いてるつもりだけど、エポケーだの超越論的主観だの超越論的客観だのという愚にもつかないジャーゴンを否定するには、フォイエルバッハをヴィトゲンシュタインが一番わかりやすい。
だから、それを説明しないと。
>君は、エポケーを否定するのに、超越論的主観だの超越論的客観だのという概念を振り回したいの?
そんなこと俺書いたか?
超越論的客観なんて言葉は、誰かさんが持ち込んだ言葉で、フッサールの概念でも
俺の概念でもないが。
超越論的主体はフッサールの問題点と俺は書いているはず。 >原文を訳した翻訳者が、ニュアンスを日本語化できないバカだと言ってるんだね?
なんでそうなる?経験上ニュアンスを全部入れ込むのは不可能とは書いたが。
>君は、そうした翻訳者たちが訳注にも表記しなかったニュアンスが理解できると言いたいんだね?
たいしたことでなくて、ドイツ語読めるひとなら。
>学者の定義を問題にしてるんじゃなくて、学問の定義を問題にしてるんだよ?
>>それはそれで一つの見解だが、日本人のほとんどが学者ということになるな。
君はこう書いた。つまり、学問をしているひとは学者である、というのが君の意見。
なぜなら、「ということになる」と断定しているから。
ならば、今度は学者の定義が問題になる。
あたりまえのことだがねえ。 >学問は、普遍性=客観性を獲得してはじめて成立する。
普遍性と客観性をイコールにするの? ここかな君と話が通じないのは。
客観性も定義が難しいが。objectivity Objektivität だが。
対象性とも訳せる。主体にたいする客体でもある。
>普遍性=客観性がないのに学問であると主張しているのが、哲学だよ。
プラトンのイデアは、普遍性を求めたもの。
つまり、君にとっての善と、俺にとっての善は違うが、しかし真の正しい善は
イデアとしての善にあるというもの。
学問は個々の善ではなく、その背後にある真の善を探究すべき、ということ。
これがイデア論で、相対主義=善は各自別々でいい、 こそ正しいのかどうか。
プラトンは相対主義を嫌ったわけだ。
哲学が普遍を目指すのはそういうこと。 当然これは批判されていくわけだがね。 >>128
>超越論的主観は消去したいのに、超越論的客観を消去したくない。
それこそが自分の望む現象学だ−、って主張に見えた。
>超越論的主観(心身合一)は、方法的懐疑という“前提(真の定立)”を設定した思考法であり、
他方に於いて、超越論的客観(フュシス)は、現象学的還元という“前提”を設定しない思考法によって認識される。
つまり、超越論的主観(心身合一)も、超越論的客観(フュシス)も共に存在の“あるがままの姿”として捉えられている。
これは一見、矛盾した論理に思えるが、ハイデガ−の前期哲学(主観による存在了解)と後期哲学(生起の論理)にも
見られることと解釈している。 >>145
>使い始めたほうから意図と定義を明確にしないとな
僕は、学問の定義として「普遍性を獲得したもの」と何回か書いてるんだけど?
君は、それぞれ自分が学問だと思うものが学問だと書いてるな。
>そんなニュアンスに受け取った
内容のニュアンスは受け取れないのに、そこだけ受け取ったんだね?
受け止め方は人それぞれだから別に構わないけど。
>それを説明しないと
何回か書いてるつもりだけど、フォイエルバッハは哲学を人間心理の問題に還元して、ヴィトゲンシュタインは言葉の問題に還元した。
これ以上のなにを説明して欲しいの?
>超越論的客観なんて言葉は、誰かさんが持ち込んだ言葉
>>124で「超越論的主観性」とともに、「そういえるかな」と賛意を表明してるよ。
賛意ではなく、「フッサールの問題点」として「そういえるかな」と書いたの? >>146
>ドイツ語読めるひとなら
その(たぶん)ドイツ語を読める邦訳者が、ニュアンスを無視してなのか日本語の文法をわきまえてないせいなのかで、「存在の意味」という訳にした、ということだろ?
存在=意味なら、意味としての存在、とか、存在とは意味のことだが、といった表現にするのが、まともな日本語だ。
>今度は学者の定義が問題になる
前提である学問の定義を無視するなら、学者とは、大学でなにかの教科を教えてる(た)人、だよね?
それだと学問とは大学で教えている教科の内容、ということになるね。
つまり、学問の定義は文科省が決めるということになる。
それはそれで、ひとつの見解だ。 >>147
>客観性も定義が難しいが。objectivity Objektivität だが。
>対象性とも訳せる。主体にたいする客体でもある。
客観性というのは、個人の主観を離れてその存在や論理が他者にも証明できること。
君の英語や独語の力がどれほどなのか知らないが、君の日本語力には不足があるようだ。
>プラトンのイデアは、普遍性を求めたもの
>真の善を探究すべき
プラトンを持ち出すのもいいが、「善」という言葉自体が普遍性(客観性)を拒否していることに気が付かないといけない。
自分で自分の矛盾と錯誤に気が付かないのが哲学だから、フォイエルバッハとヴィトゲンシュタインが必要なんだ。 ヴィトゲンのところを終えてからレスしてほしかったがw
まあボチボチ。
>ヴィトゲンシュタインで最も有名な言葉の一つ
>5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)
>以下、5.641まできちんと読んでね。
>「世界に属さず世界の限界としての主体=私」とは無関係、というよりむしろ真逆だということがわかるから。
真逆というのはどういう意味で言っているのかよくわからんな。
君の書き込みは、しばしばあまりにも不鮮明なのに、自己満足に浸っているように
見える。こういうところでは細かく論じづらいので、ある程度仕方ないにせよ。
「世界とは「私の」世界である(5.62)」という独我論的立場は肯定しつつも、
「思考し表象する主体は存在しない(5・631)」というように、フッサール的主体は
否定。
私の世界という書物のなかで唯一「語られない」ものが(5・631)「私」だと
ヴィトゲンはいう。
そこででてくるのが有名な「主体は世界に属さない。それは世界の限界なのだ。」
有名な目の比喩が出てきて。
見ている自分の目は見えない。世界のどれからも眼に見られていることは推論できない。
そうすると、自我は「延長を持たぬ点に委縮」する(5・64)のこりはそれに応じた実在
のみになるから純粋な実在論になるとくる。
そして最後、5・641、その上で哲学的自我を規定すると、人間でも人間の肉体でも、
心でもない、「形而上学的主体=世界の限界」としての自我だということになる。 どう読んでもも、
>「世界に属さず世界の限界としての主体=私」とは無関係、というよりむしろ真逆だということがわかるから
なんて結論になるわけないのだがね。
「世界は私の世界」であり、世界のなかのものは語られても、「私」だけは語られない。
だから「私は世界に属していない(世界の一郭を形作るものではないのだ5・641)」
「世界の限界である」ということになる。
そう5.641でもはっきり述べている。 そこだけレスして、先にこちらにレス。あとはバカバカしいし後回し。
>>149
今特別に君と言い合うことはないとは思うけども。
>つまり、超越論的主観(心身合一)も、超越論的客観(フュシス)も共に存在の“あるがままの姿”として捉えられている。
>これは一見、矛盾した論理に思えるが、ハイデガ−の前期哲学(主観による存在了解)と後期哲学(生起の論理)にも
>見られることと解釈している。
「超越論的主観(心身合一)も、超越論的客観(フュシス)も」
ここがねえ。超越論的主観を心身合一と表現する人も、
フィシスを超越論的客観と表現するひとも、俺は見たことがない。
たぶん、ここは俺でなくても、ある程度の哲学的素養があるひとなら、
受け入れがたい表現だと思うよ。
『存在と時間』の時点でも、ハイデガーは、現存在とか世界内存在とかいう言葉を
使い分けて、うまく超越論的主観を使わない哲学を試みているわけだしね。
主客の区別って点をハイデガーは拒絶しようとしているようにも思われる。
それにあえて君はそれを持ち込もうとするから、こういう変な表現になっている
のだろうとは推論するけれども。 学者やるなら聖書にあるような暦学者がいいだろうな。 超越論 還元 当たりが難しいが、たぶんそこらへんは間違っているだろう。 あっているのは まだコギト エル スムス だといううわさがある。
世界の構成、構造上。 悪霊が世界をつくったから、悪霊に食われたら、世界を創造できる
ということだよ。 >>153-154
ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の主題から説明しておこう。
論理とか哲学とはなにか、ということだ。
論理、哲学そのものに関する論考だ。
論理も哲学も(記号を含む)言葉によって表現される。
だから、「7 語りえぬことについては,沈黙するしかない」ということになる。
その意味での「5.6 私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」なのだ。
この大前提において、言葉によらない(エポケーという)態度や(精神の共通性のような)超越論的主観性を設定するフッサールとは無関係だし、真逆ということになる。
君の勘違いは、その前提を見過ごして、ヴィトゲンシュタインが実在や人間自体を対象とした「存在論(哲学)」を展開していると思いこんだところから来ている。
有名好きの君の解釈が、だれかの解説のつまみ食いでなければ幸いだ。
僕に悪態をつく前に、自分の書き込みがジャーゴンの無自覚な流用であることぐらいには気が付いたほうがいい。
ジャーゴンのひとつでも明確な分類も定義もできていないのだから。
君と他の人とのやりとりもそうだが、議論するには、まず定義と対象を明確にする必要がある。
余計なお世話だが、ジャーゴンのすり合わせをすれば、君と彼(彼女)がそれほど違っていないことがわかるかも知れない。 >>160も僕だ。
記入漏れご容赦。
内容でわかるとは思うが、念のため。
補足として、ヴィトゲンシュタインを3行でまとめておこう。
哲学は言葉によって成立する。
これまでの哲学はその言葉の使い方を間違えている。
言葉で表現できないものは哲学にならない。 >>160
論理が飛んでいるのでさっとレスするが、
>論理も哲学も(記号を含む)言葉によって表現される。
そんなことは知っている。
>その意味での「5.6 私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」なのだ。
ここも有名な。当然知っている。
>この大前提において、言葉によらない(エポケーという)態度や(精神の
>共通性のような)超越論的主観性を設定するフッサールとは無関係だし、真逆ということになる
俺はフッサールとヴィトゲンが同じなんて書いた覚えもないし、フッサールの超越的自我なんかより
ずっとヴィトゲンのいう「世界の境界としての私」のほうが真実に迫っていると
理解している、という文脈で出したので、何でこんなことを書いているのか
理解に苦しむ。
>君の勘違いは、その前提を見過ごして、ヴィトゲンシュタインが実在や人間自体
>を対象とした「存在論(哲学)」を展開していると思いこんだところから来ている。
「存在論=哲学」なんて俺は理解してないし(認識論、感性論・美学、倫理学とかも
哲学)、かつ、おれはヴィトゲンを存在論だと言った覚えもない。
言っても考えてもいないことで、攻撃されてもな。
>君と他の人とのやりとりもそうだが、議論するには、まず定義と対象を明確にする必要がある。
これはむしろ俺にとっては君に言い返したい言葉だが、
おそらく議論の前提が最初からずれまくっているだけだと思う。 「論理哲学論考」は、むしろ、カント的認識論に問題意識は近いだろう。
だが、ヴィトゲンシュタインがハイデガーにわりと好意的な発言をしていたこと
もよく知られた事実ではあるけどね。
また論考から探究への過程でヴィトゲンの問題意識もかわっていく。
個人的に論考の魅力は、私の捉え難さって点に気付いていた点にあるとは
思う。これはあくまで個人的に感じていることに過ぎないが、
このひとはたぶん、文句をやたらつけたがるので、何か書いてくるんだろねw でも考えたら、
>どう読んでもも、
>>「世界に属さず世界の限界としての主体=私」とは無関係、というよりむしろ真逆だということがわかるから
>なんて結論になるわけないのだがね。
ここについてはちっとも、このひとは答えることができてないんだよなあ。
どういう意味で「真逆」と表現したのか?
俺がヴィトゲンをフッサールと同類と誤解していたゆえに、
こんなことを言ってしまったのか。。 >俺がヴィトゲンをフッサールと同類と誤解していたゆえに、
>こんなことを言ってしまったのか。。
ここは、日本語が通じてないな。
俺がヴィトゲンとフッサールを同類と理解している、と誤解していたがゆえに
こんなことを書いてしまったのだろうか?
と訂正。 >>155
私は>>94で、「デカルトが方法的懐疑によって“疑っている私は疑えない”という究極の“真”としての私を超越論的自我というが、
問題は、デカルトが方法的懐疑による究極の思考過程に於いて認識した“あるもの”を何故“純粋な精神(=私)”と定義したかである。
本来、人間の“心(精神)と体(物質)”は、“一つのもの”として存在している。思惟・思考する以前に“心と体”はもともと一体化しているものである。」と
記述した。
上記の通り、方法的懐疑による究極の思考過程に於いて認識した“あるもの(=超越論的自我)とは思惟・思考する以前にあるものであり、
“心と体”の合一した“一つのもの”として認識するのが正しいと解釈している。
私たちは、方法的懐疑の思考を究極にまで深めている過程で“疑っている私は疑えない”という超越論的な“あるもの”を、
認識するが、その“あるもの”は思惟・思考する以前の“心身合一”した存在として捉えられている。
この“あるもの”を冷静に分析すると、体(物質)から分離した“純粋な精神(心)”だけが超越論的自我として認識されて
いるのではないことに気がつく。
それから、デカルトが“疑っている私は疑えない”という“私(超越論的自我)”が、“純粋な精神”として認識されるという
論理的な根拠をデカルトは示していない。“私”が純粋な“精神”であるならば、誰しもが理解出来る倫理的根拠を示す必要があった。 >>170
訂正
倫理的根拠を示す
↓
論理的根拠を示す >>170
なんとなく理解はできたし、もう一人の人よりよほど真面目に書いている分
面白いのだけれども。
超越論的主観 に対応する概念として 超越論的客観 なんて概念をもってくると
新たな二元論を作り出しているのではないか、という批判は免れないとは思うし、
ハイデガー理解とはずれるとは思う。
俺はハイデガーをそこまで評価しているわけでもないが。
デカルトが思惟する実体を特権化してしまったのだが、元をだどると、
プラトンが、ソーマとセーマとかいって、肉体拒絶の方向性をすでにうちだしては
いるんだよ、
俺自身は、思惟を特権化したのがそもそも間違いであって、
思惟していない、普段の生活においてすでに、肉体も私も不可分なものとして
存在しているのが重要だと理解している。その点でハイデガーとも立場が違う。
そんなに偉そうにいえるほどの哲学体系を持っているわけではないけどね。
そう考えると、超越論的主観を心身合一として理解する必要性もないとは思っている。 >>172
>思惟してない普段の生活において、すでに、肉体(物質)も、心(精神)も、私も不可分なものとして存在しているのが
重要だと理解している。
>私も、その通りだと理解している。この日常の非本来性の次元より、方法的懐疑、或いは現象学的還元という
思考法の活用により種々の問題を解決するのが、新しい哲学の方向性と考えている。
、 疑っている自分をがナルシストくささ。疑いえないなら〇。他人を疑えない純粋さが悪霊に気に入られたんだろうな。自 己 はあるようでないと思う。多動性はあっても
受動性や、自動性というとおかしい。悪霊に料理されずに食われたから世界が出来上がるが、魔性だよな。 心と体の一体化は古いな。心と体は最初が違う異質なものだが。 >>173
現象学的還元 って言葉にこだわるなら、フッサールともハイデガーとも
違う方向でそれを考えないとならないとは思うね。それが現象学的還元という
言葉を使うのが正しいかは疑問だが。ハイデガーの本来性・非本来性の区別ってのは
いろいろ問題が多いし、結局それがファシズムに結び付いたとは理解している。
ハイデガー派のひとは、あれはエピソードに過ぎないとは言い張るだろうが。 >>166
>論理が飛んでいるので
いつも逃げの言葉を最初に持ってくるんだねw
別に構わないが。
>そんなことは知っている
>当然知っている
哲学が言葉である(言葉に過ぎない)ということは理解してるんだね?
それなら、僕が>>160に書いた「言葉によらない(エポケーという)態度や(精神の共通性のような)超越論的主観性を設定するフッサールとは無関係だし、真逆ということになる」ということも理解できるんじゃないか?
ヴィトゲンシュタインは、哲学は言葉に過ぎないと指摘している。
フッサールは、哲学は言葉ではないものを哲学にしようとした。
>ヴィトゲンは「私」の問題については、フッサールよりはずっと優れた視点を持っている
>ヴィトゲンはフッサールのように、超越論的自我を設定してしまわないという点で
君は、>>123と>>133でこう書いた。
つまり、ヴィトゲンシュタインとフッサールの「私」を、同類の「私」としてとらえているわけだ。
>俺がヴィトゲンとフッサールを同類と理解している、と誤解
だから、君が二人を同類としてみているというのは、僕の誤解ではないのだ。 >>167
>「論理哲学論考」は、むしろ、カント的認識論に問題意識は近い
カント的認識論てなに?
これは質問じゃなくて、君のジャーゴンの曖昧さを指摘してると思ってくれ。
>ヴィトゲンシュタインがハイデガーにわりと好意的な発言をしていたこともよく知られた事実
君の有名病は、やっぱり誰かの解説のつまみ食いから来てるんだろうな。
断片的な発言やエピソードで「哲学」を理解するのは無理だと思ったほうがいいよ。
ヴィトゲンシュタインについては>>161に3行でまとめておいたが、冗談で書いてるわけではなく、そのままなんだよ。
ちなみに、論及から探求へと変化したのではなく、論及を具体的な現実に当てはめたのが探求だ。 >>168
ヴィトゲンシュタインの「哲学」上の「私」は、言葉としての「私」であって実在としての私ではない。
フッサールは態度や共同性を含めた実在の「私」だ。
このふたつの「私」は、まったくの別概念だ。
ここでもまた、君の言葉の定義の曖昧さが出てしまっている。 >>180
>いつも逃げの言葉を最初に持ってくるんだねw
それは君の主観だな。逃げというよりバカバカしいのでウンザリというか。
>「言葉によらない(エポケーという)態度や(精神の共通性のような)超越論的主観性を設定するフッサールとは無関係だし、真逆と
「私」をどう捉えるか、という問題では、比較することは当然可能。
そして俺はその点で挙げたのみ。
>ヴィトゲンシュタインは、哲学は言葉に過ぎないと指摘している。
おそらく論理実証主義は(ジャーゴンとかいうなよ、知らないなら検索しろよ)
その点でヴィトゲンを重視した。
だが俺の関心は、ヴィトゲンが言葉で捉えられないのは何かを問題にしている点。
>つまり、ヴィトゲンシュタインとフッサールの「私」を、同類の「私」としてとらえているわけだ。
なんでそうなるか理解に苦しむ。
例えば永井均はこう書く。「私自身は、ドイツ観念論や現象学の主格的で反省的な
自我理解にまったくリアリティを感じないのに対し、ヴィトゲンシュタインには、
ほとんど肉感的といえるほどのリアリティを感じるのである」。
わりと俺の実感に近い。私の把握、という点で、ヴィトゲンに共感するのは、
同類にしていると同義ではない。 >>172
>超越論的主観に対応する概念として、超越論的客観 なんてもってくると
新たな二元論を作り出しているのではないか、という批判は免れない。
>自己(主観)と外界(客観)とは、日常的な普段の生活において密接に関連している。そして、
超越論的主観(自己)と超越論的客観(外界)も、“方法的懐疑と現象学的還元”を通して密接に関わりあっている。
だから、超越論的主観(自己)と超越論的客観(外界)は、日所的な生活次元に関わっている主観(自己)と客観(外界)との
延長線上にある。
私は、超越論的主観(自己)と超越論的客観(外界)は、“一つのもの”であり、両概念を例えて言えば、コインの表と裏の連関にあると捉えている。 >カント的認識論てなに?
純粋理性批判のカントの関心は、人間の認識がどこまで
およぶもので、どこからが認識で捉えられないものかにある。
悟性や理性という言葉がでてきた理由。物自体という概念などを考えるといい。
ヴィトゲンも言葉にこだわったりはしているが、どこからが言葉で捉えられないか
を問題にしている。
>なみに論及から探求へと変化したのではなく、論及を具体的な現実に当てはめたのが探求だ。
これはヴィトゲン全体に関係することなので、
今君と論じあう必要性はまったく感じない。君自身のヴィトゲン理解として
大切にしてもらいたい。 しかしまだ肝心な点には答えられてないのだよ。
>どう読んでもも、
>>「世界に属さず世界の限界としての主体=私」とは無関係、というよりむしろ真逆だということがわかるから
>なんて結論になるわけないのだがね。
ここについてはちっとも、このひとは答えることができてないんだよなあ。
どういう意味で「真逆」と表現したのか?
俺は基本、今はここしか尋ねていない。 >>185
訂正
日所的な生活次元
↓
日常的な生活次元 今レスしてくれたのか。
>私は、超越論的主観(自己)と超越論的客観(外界)は、“一つのもの”であり、両概念を例えて言えば、コインの表と裏の連関にあると捉えている。
君の概念ではそうなのだろうけど、
超越論的客観=外界 ってのは俺はやはりひっかかる。
ベルクソンやメルロ=ポンティ の考えに近いんじゃないだろうか。
あるいは、もしかしたらシェリング。 いろいろ考えてはいるのだけれども。 ごめん、レス番号つけるの忘れていた。
189は >>185 へのレス。
面白いのだけれども、これ以上今はレスできんわ。 >>124
>その違いはどこから生じるのかというと、“前提を設定する思考法”の方法的懐疑と、
“前提を設定しない思考法の違いにある。
この質問に対して、「そう考えてハイデガ−は、現象学を解釈しなおそうとして、フッサ−ルと喧嘩することになった。」と述べているが、
思考法に於いて、〈前提を設定する〜前提を設定しない〉は、非常に重要なところなので、ここのところのフッサ−ルとハイデガ−のやり取りを
貴方の知っている範囲内で教えてもらえますか。 >>191
説明しづらいなあ。やり取りについては、歴史的な事実だけ紹介すればいいと
思う。
ハイデガーはフッサールの元で学んで講義を受け持ったりしていたのだけれども、
初期の講義、19年の「現象学の根本問題」あたりでは、すでにかなりフッサールを
攻撃しているんだよ。そういうことはフッサールは知らなったらしい。
現象学とは私と君のことだ、などとハイデガーに言っていたくらいだから。
27年にフッサールが「ブリタニカ草稿」、百科事典の現象学の項目をハイデガーに
書かせて、その内容が自分の考えとはまるで違うことに気付き、
また「存在と時間」を読んで、自分の現象学とはまるで違うことに気付き、
この頃からハイデガーへの距離が生まれた。
もっとも影響をうけて、生活世界とか言い始めたりするのだが。
ハイデガー側からすると、現象学って言葉は引き継ぎながらも、
初期(10年代)からまるで違う方向に進んでいたし、名指しでフッサールの
悪口を講義では言っている。 >>184
>比較することは当然可能
比較というのは同じ方向がなければ意味をなさない。
違う方向での比較なら、それぞれの方向を明示したうえで、どこがどう比較できるのかを検討しなければならない。
水と砂を比較するには、それ相応の視点が必要だ。
>ヴィトゲンが言葉で捉えられないのは何かを問題にしている点
ヴィトゲンシュタインは、言葉でとらえられないものは語ってはいけないと言っている。
有名だろ?
>永井均はこう書く
また他人の解説のつまみ食いかよ。
ヴィトゲンシュタインになにを感じるのも自由だが、それを解説とするのはヴィトゲンシュタインからは最も遠い。
気取った言い回しが大好きな永井らしい感想といえばいえるかも知れない。
君には、ひとつでも、自分が並べ立てているジャーゴンをきちんと定義、説明できるのかを自問しなければいけない。
それができれば、見当違いのヴィトゲンシュタイン理解から少しは離れることもできるだろう。
ジャーゴンの明確化を言い回しで誤魔化しているような永井にもいえることだが。 >>186-187
>どこからが言葉で捉えられないかを問題にしている
ヴィトゲンシュタインは、それまでの哲学の全否定ともいえる、言葉の構造を考えた。
それが言語ゲームだ。
人間の認識の範囲の問題ではなく、そういいたければ、認識と言語の乖離の問題だ。
>大切にしてもらいたい
君が少しでも哲学の不毛性に気が付くことを期待してる。
>答えることができてない
何回も答えているが?
何回同じことを書けばいいんだろう?
ヴィトゲンシュタインの「私」は、哲学に表れる言葉としての「私」だ。
フッサールの「私」は、肉体を持った実在としての「私」だ。
これが無関係ということでもあり、言葉と肉体という方向性としてとらえれば真逆ということにもなる。
これ以上どんな説明がいるというのだ?
君が引用した永井の感想の真逆ではあるがw >>193
君の場合、いちいちレスすると膨大なレスになるだろね。かいつまんで。
>水と砂を比較するには、それ相応の視点が必要だ。
「私」の把握の仕方、という視点で。フッサールのように超越論的自我を
まず設定してしまうのか。それとも、ヴィトゲンのように、言語分析からはいりながら
世界の限界として私を理解していくのか。
どちらがより共感できる私の捉え方か、という視点で。
>ヴィトゲンシュタインは、言葉でとらえられないものは語ってはいけないと言っている。
初期ヴィトゲンな。
「語る」とはいっていない。「なにが語れないのか」、を語ると言う点で。
>ヴィトゲンシュタインになにを感じるのも自由だが、それを解説とするのはヴィトゲンシュタインからは最も遠い。
解説を目的とした文章ではなかったな。
いずれにせよ、現象学とヴィトゲンシュタインを私を視点として比較した例に過ぎない。
>君には、ひとつでも、自分が並べ立てているジャーゴンをきちんと定義、説明できるのかを自問しなければいけない。
俺には君の方が何一つ説明できていないと見える。
>ジャーゴンの明確化を言い回しで誤魔化しているような永井にもいえることだが。
別に永井信者でもないが、俺には、君よりか永井のほうが遥かに明確に定義できている
ようには見える。 >ヴィトゲンシュタインは、それまでの哲学の全否定ともいえる、言葉の構造を考えた。
>それが言語ゲームだ。
今は言語ゲームは問題にしていない。
>人間の認識の範囲の問題ではなく、そういいたければ、認識と言語の乖離の問題だ。
「探究」の一解釈として成り立つがそれを今問題にしているわけではない。
>君が少しでも哲学の不毛性に気が付くことを期待してる。
そんなの期待してどうなるw 哲学は俺の考えでは単に生き方の問題だ。
西洋哲学の終焉なんてハイデガーも言っている。
>ヴィトゲンシュタインの「私」は、哲学に表れる言葉としての「私」だ。
>フッサールの「私」は、肉体を持った実在としての「私」だ。
>これが無関係ということでもあり
「フッサールの「私」は、肉体を持った実在としての「私」だ。」
ここ完全に間違いな。フッサールは、純粋自我は死なない、と述べている。
肉体と同時に死ぬようなものではない。
かつこれでは、
>>「世界に属さず世界の限界としての主体=私」とは無関係、というよりむしろ真逆だということがわかるから
の説明にはなっていない。
真逆というからには、ヴィトゲンは主体は世界に属している、と述べていたと証明
しなければならない。 >>195
>言語分析からはいりながら世界の限界として私を理解していくのか
ヴィトゲンシュタインは、「私を理解」しようなどとはしていない。
だから、君の理解は見当違いだと指摘している。
>「なにが語れないのか」、を語ると言う点で
そんなことは語っていない。
哲学で語られていることを否定しているだけだ。
>現象学とヴィトゲンシュタインを私を視点として比較した例
比較できる対象ではないと指摘している。
>俺には君の方が何一つ説明できていないと見える
なにを説明して欲しいんだ?
>永井のほうが遥かに明確に定義できているようには見える
具体的に並べてみせてくれ。 >>196
>西洋哲学の終焉
そんなことを言ってるんじゃない。
哲学は言葉の遊びだと言っている。
ドゥルーズがヴィトゲンシュタインを「哲学の暗殺者」と評したとおりだ。
>真逆というからには、ヴィトゲンは主体は世界に属している、と述べていたと証明しなければならない
あまりバカなことは言わないように。
正方向にも逆方向にも、基準がある。
どの基準での正逆であるかを十分に説明した。 >>196
ひとつレスを忘れてたw
>完全に間違い
フッサールの純粋自我というのは、人間に備わった肉体的な特性といったようなもの。
死ぬとか死なないとかいう個人の問題でないのは明白。 >>197
>ヴィトゲンシュタインは、「私を理解」しようなどとはしていない。
言葉尻をとらえて攻撃しているだけだな。
「私の把握」という意味で捉えたらいい。
>そんなことは語っていない。
>哲学で語られていることを否定しているだけだ。
これは俺と理解の仕方が違う。
>比較できる対象ではないと指摘している。
これも俺と理解の仕方が違う。哲学者が「私」をどうとらえたか、
これは比較できる。当然、私の内実が違うことはある。
>なにを説明して欲しいんだ?
今はヴィトゲンの件だろな。哲学終焉の件も。だが、どうやら無意味に
思えてきたな。
じゃあ、これを聞こう。君にとって、哲学とは何だ?
>具体的に並べてみせてくれ。
何を具体的に?w 永井の本の解説せなあかんの。やなこった。
ずっと納得のいく説明しているってので十分。これは当たり前のことだぞ。 >>198
>哲学は言葉の遊びだと言っている。
だからどーした。
>どの基準での正逆であるかを十分に説明した。
それは、俺がヴィトゲンの私をフッサールの私と同類だと把握している
と「誤解」した上での、逆ってことだけだな。
おそらく。
もしもそうなら、いくらなんでも説明の仕方が乱暴すぎる。
君は、最初、「むしろ逆だ」としか書いていない。
>フッサールの純粋自我というのは、人間に備わった肉体的な特性といったようなもの。
フッサールは純粋自我を肉体的な特性として理解していない、ってことだよ。
純粋、という言葉にこだわるように。 >>200
>君にとって、哲学とは何だ?
言葉の遊びだ。
その点はヴィトゲンシュタインと同じだ。
フォイエルバッハとヴィトゲンシュタインによって、哲学は現実の解明に解体、移行した。
>これは当たり前のことだぞ
当たり前ではないから、ヴィトゲンシュタインは言葉の遊びだとして哲学を解体した。
永井はその哲学をヴィトゲンシュタインの中で復活させるという、おかしなことをやっている。
その他のことは、君がヴィトゲンシュタインに興味を持ってからにしよう。 >>201
フッサールのことなので、ひとつだけ。
>純粋自我を肉体的な特性として理解していない
それだとフッサールは幽霊の存在を認めていることになるw 元をたどると、
俺が、191さんの、超越論的自我と本質直観の問題にたいして、レスしていた
だけのところに、
いきなり別人だとも名乗ることもなく(それが失礼だが)、
その文脈でFWがレスしてきたってだけだな。
フォイエルバッハだのヴィトゲンだの
あげて、まあ哲学の不毛性をいいたいだけなのだろうが。
ヴィトゲンの件も、もともとは、フッサールの私の把握と、ヴィトゲンの私の把握
の違いで、ヴィトゲンのアプローチのほうが共感できるってだけのコメントだったが。
そりゃあ、純粋自我が問題だったからね。
かみついてきたうえに、
まったく今は関係のない言語ゲームの話にどうももっていきたがっているように見える。 >>202
>言葉の遊びだ。
じゃあ勝手に遊んでおけ。俺は相手にしきれんが。
>永井はその哲学をヴィトゲンシュタインの中で復活させるという、おかしなことをやっている。
君は遊んでおけばよろしい。
>それだとフッサールは幽霊の存在を認めていることになるw
それはまた、えらく飛躍のある論理展開だ。
どうして、幽霊がいきなりでてくるの? 肉体に依存しない純粋な私と、
幽霊との関係性は? フッサールは幽霊をどう定義しているの?
フッサールが幽霊について言及していないなら、どのようにしてつながるの?w >>205
>フッサールは、純粋自我は死なない、と述べている。
>肉体と同時に死ぬようなものではない。
>肉体に依存しない純粋な私
これが幽霊じゃなくてなんなんだよw
君としては、二人を相手にしたので集中できなかったのかも知れない。
気の毒になってきたから、もうやめる。 デカルトの「超越論的主観(コギト)」が純粋な“精神”であるという論理から、“心身二元論”が創出しており、
哲学はデカルト以来ヨ−ロッパに於いて「主客の一致」はあるのかという重大な『謎』が提出されてきた。
ここから、バ−クリ−やヒュ−ムの徹底的独我論(世界の現実存在の想定は、まったく無根拠)のような考えや、またこれに対抗して
カントの「物自体(世界それ自体は人間には認識できない)」などの議論が現れた。
上記の問題点は、デカルトが超越論的主観(コギト)を“純粋な精神だけが主観を構成する”と定義したからであり、
この“純粋な精神である主観”を基底とすることにより、心身二元論が創出している。
これからの哲学の方向として、超越論的主観(コギト)が“心身合一”したものとして存在しているという論理は、
メルロ=ポンティの「精神と物質、あるいは、心と体は二つの異質な実体ではなく、むしろ二つ異なった水準の“ゲシュタルト”に
他ならない。」と述べている様に、 思惟・思考する以前に、我々の“心と体”は“心身合一”したものである訳です。
この様な存在への捉え方は、ハイデガ−に於ける「現存在」の概念にも見られる。 とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
WOGS0 近代哲学の父といわれるデカルトから始まる“心身二元論”が、いろいろな意味において、
現代の民主主義の理念、そして、機械論的世界観から現代科学の基盤となっている論理実証主義を創出し、
今日の物質的科学文明へと至っている。
フッサ−ルは、デカルト哲学を真摯に継承し、深く論究して新しい現象学を確立した。そして、デカルト哲学の
良い面と悪い面の分析の中から、『ヨ−ロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を著し、西洋文明に警鐘を鳴らしている。 3月からコメント無しなのか。2ちゃん、ごちゃんか、も廃れたな。 心身といってもルーツが違うから、合一という感覚的なものでもないと思うが。 二元だけなのかな?それでは構造が簡単すぎるでしょう。 そもその人間と言ったら肉体も継ぎ物で分割されるが、心は一単位の様な気がして
心身と合わせるのにはどうも抵抗があるな。 独我論とちか世界を認識でいないとかくらいネガティヴな議論が続くけど、
外部の知覚が人間に発生している以上どうしても人間は世界を認識できそうだぞ
ということになってくると思う。 外部他社の認識を人間は使っているのであってそれを、重ねて
人間は表象し合うのではないですか? 人が認識されなければ世界はないのだから、人の認識が世界なんだろ? >>217
客観的な世界は人がいてもいなくても存在するよw 1(ひと)が認識されなければ世界はないのだから、1(ひと)の認識が世界なんだろ? >>219
その人にとってはねw
主観と客観を混同してる。 >その人にとってはねw
1(ひと)の認識の前に1(ひと)を想定して、その1(ひと)が1(ひと)を認識する
と考えて、それを主観と呼ぶのは、1(ひと)が認識される前に1(ひと)が既に
認識されているとする矛盾ですよ? >>221
バカだねえ・・・
存在は本質に先立つ。
これがすべてだよ。 To recognize one is the world itself >>223
ほんとにバカだねえ・・・
英語で書けば真実になるなら、英米人のいうことはみんな正しくなるw
One recognition forms one subjectivity within the recognized range.
Even if expressed in the word "world", it is simply expressing subjectivity by the word "world". How one is recognized is how the world is. >>224
悪いが英単語を使っているだけで英語になっていない The world changes in accordance with how one is recognized. 学校の英作文でいい点数をもらって勘違いしたまま大人になってしまったのだろうか。 英語のネイティブが決して書かないような奇妙な英語を書くにしても、
やはりそれなりの技法が必要なのだ。 >>224
ゲンロン芸人が英語で作文をするとそういう英文もどきが出来上がる。
批判的な立場からであっても、英語のネイティブがクリシェやバナリティではない
英文で反論するのなら大いに歓迎するけどね。 >>226
それは申し訳ない。
じゃあ、英語で書くのはやめとくよw >>225
それは認識の問題であって、世界の問題ではない。
>>227
目の前にあるコップに動けと念じると、コップが動くとでも?
頭おかしいだろw >>230
日本の5chなんだから、英語のネイティブはめったにいないだろ?
なにを期待してるんだよ?w
あたま大丈夫か? フッサールの説明で、「カッコに入れる」て表現使うやつの解説は信じてない >>234
いい説明だと思うけどな。
エポケーなんてそんなもんだろ。 >>234
あー、なんかわかる気がする
判断保留でいいのにな。
というか、最初にそう表現した人の表現をまんま思考停止して使ってる感じは哲学放棄みたいな感じだしな >>236
判断保留というのは、哲学も一時放棄しないとダメだろ。
ただし、捨て去るのではなく、横に置いておく。
「カッコに入れる」というのは、適切な説明だと思うけどな。 例えば
・地球は丸い
という命題があったとしてエポケーはそれを
・(地球は丸い)と我々は思っている
・注意深い観察に基づけば(地球は丸い)ものとして我々に現れる
のように無条件に断定されない命題として捉えておく
みたいなことだと思っている >>238
「地球は丸い」というのは現象ではなく、知識だから、エポケーの例としてはふさわしくないかも知れない。 基礎付けできなかったのだから現象学は失敗だったのにいまだに影響力があるのはなぜですか フッサールの希望した状況が、「根源を見つけること」であるなら
たしかにそれが達成されることは、今後も無いだろう
しかしそれでも、およそ他の学問に影響を持ちえる"哲学”は現象学だけだ
概念分析やら科学哲学なんかは、科学に対して全く影響力が無い
可能性すら無い
もちろん、それら自体は学問であって、十分に面白いわけだが >>242
他の学問というのは自然科学のこと?
どんな影響を与えているの?
社会科学系なら、ヘーゲルやマルクスは多大な影響を与えていると思うけど。 自然科学だよ
科学によって圧倒的に構成されてしまう『世界』に対して
それを根底から批判できるのは、哲学ではいまのところ現象学だけだから >>245
実際に批判されているかどうかについては、私は知らない
まあ、ほとんどされていないだろ >>247
たとえば>>238がぶつぶつ言ってるけど
現象学は、「地球は丸い」ことの是非について語るわけではない
現象学は、「意識に於いて地球はどのように現象しているのか」
を「批判」するもの
現代の教養人は「電流は電子の流れ」であることを悩んだりしない
理由は2つ
一つは、とりあえずそこを踏まえないと前に進めないから
もう一つは、「理解すること」が世界を構成する源泉であるために
理解する人は、理解されたことをもはや疑う気にならないから
フッサールは、そもそも物理学を修め、それでも尚、自分の見た景色はしかし
「世界の本当ではない」ことが見えた人間なのだ
そもそも電流とは何か、電子とは何か
電流とは電流というシンボルを巡る諸々から構成された「謎のX」につける仮の名前
これがこのように意識に現れるの理由は謎であって、未だ必然ではない
その謎を必然とするために、「自明であると思われることに批判を加える手段」として
フッサールが建設したのが現象学
お尋ねの「批判できると思う根拠」はね
電子とか電波とか重力とか
そういうものが「実体としてある」ことが、そもそも主観的現象であることは
現象学によって批判的、学的に自覚することが可能だからだ
なぜそんなものを自覚する必要があるのか
そういう自覚がなければ我々は、ただバーチャルに浮かんでいるだけの存在になるから >>248
言っちゃなんだが、それだとただの心理学じゃない?
客観的な存在が主観によって左右されるとするなら、オカルトだし。
前者がメルロ=ポンティで、後者がハイデガー・・・ >>249
その「前者」とは何を指しているのかね? >>250
「ただの心理学」
いくらなんでも、そのくらいの日本語は理解して欲しいと思うが。 そもそも心理学というのは
心に起因する被験者の振る舞いまたは報告内容を、
世界の中の出来事の一つとして扱い、分類または解釈する
そのような学問だろ
現象学というのは、そのような心理学が、人間に発生するのはそもそもいかなる事態なのか
を吟味する行為
ただの心理学ではないだろ 客観的な存在>>249と君は言うが
たとえば君は電子という実体が客観的に存在すると思っているのかね >>252
心理学というのは、あらゆる対象と個人との心理的な関係を解明しようとする学問。
その対象には、物質的な存在だけではなく、自分自身の心や共同性としての心も含まれる。
心を追究する自分の心自体の揺れを含めて、対象と人間の関係を追究したのがメルロ=ポンティ。 >>253
違うというなら、ハイデガーの「存在」概念を明示してみてくれ。 >>254
電子であれ、クォークであれ、なにごとかの客観的存在であって、人間の心が生み出したものではない。 >>255
だから、それらを「世界の中の出来事の一つとして」扱っているわけだろ
それをフッサールは、自然主義的な世界定立と批判するわけだ
現象学というのは、心理学に於けるような諸々の意味が構成される場面に立ち会う
その努力というか、態度変更のことだろ >>257
何も無いところから心が電子生み出した、などとは現象学といえども言わないわけだ
こういうことだ
電子を直接に見た人間などいない、いないが
雷のような自然現象と、プラスチックをこするとほこりを吸着する現象
これら関係ない現象が、電荷という仮想実体を想定することで合理的に連結される
さらに電荷の”正体”は何か、と人間は考える
だが、実際にあるのは、観測され得る現象相互間の関数的な関係だけ、だ
そこから先は、人間がどうしようもなく作ってしまった虚構
ならばその虚構の構造を批判しましょう、とそういうことだよ >>258
>自然主義的な世界定立と批判
それ以外に世界を設定するなら、それはオカルト。
>諸々の意味が構成される場面に立ち会うその努力というか、態度変更
そんなことは優秀な学者や知識人は皆やってる。
メルロ=ポンティの場合は、さらにその前提となる自分自身の心理の揺れを客観的に捉えようとした。
いずれにしても、客観的存在の自然性を前提にしない限り、それはオカルトだ。 >>259
見えない現象でも、可視化されてきているのが現代の自然科学。
虚構に陥るのは、人間の主観と自然的な客観を混同するオカルト的な精神による。 ハイデガーの「存在」概念
人間(現存在)が、「存在者が存在者としてあることがいかなることであるか」と問うことは
存在者と存在者ならざる『存在』との間に差異を見ている(存在論的差異)
これのことか
何がオカルトなのかね >>260
君の言う「オカルト」の意味がよく分からない >>261
可視化されるのは、どうしてだと思う?
それは、「現象を細工しているから』だろ >>262-263
どう見てもオカルトだろ。
「存在」という存在しないものを設定してるだけなんだから。
オカルトというのは、人間の想像(思考)に過ぎないものを実在として見てしまうこと。 >>264
加工ではなく、いわばただの拡大と捕捉だ。 >>265
それは単に君が、自分の気に入るものだけが存在すると思っている
それだけのことだよ
ためしてみるか?
君の言うように、人間の思考に過ぎないものを実在として見てしまうことがオカルトだ、として
では「エネルギーは実在する」と言ったらオカルトなのかね >>266
電子をどうやって拡大するのかね?
回折か?イオン化作用か?光電効果か?
所詮は、現象に合うような虚構を構成してるだけなんだよ >>267
エネルギーは実在するに決まってるだろw
電子は捕捉できるしw
自然科学系にこれほど無知なのは、よほどの老人だからだろうな。
さすがにフッサールが気の毒になってきた。 >>269
君は、頭上を飛んでいる飛行機の位置エネルギーが見えるのかね >>270
飛行機は見えるよ?
あなたには、1+1 が見えるの? >>271
飛行機は私にも見える
いまは、エネルギーの話をしているのだ
君には位置エネルギーが見えるのか、と聞いているのだよ >>272
エネルギーをみえるとか見えないとか、質問が質問になっていない。
飛行機の位置や質量を、位置エネルギーと表現している。
順序が逆。
だからあなたには、1+1 が見えるのか、と指摘した。 >>273
>飛行機の位置や質量を、位置エネルギーと表現している。
ちなみに君それ、まるで分かってない
位置エネルギーはポテンシャルエネルギーだから
その意味は、作用(力)に微分距離を乗じたものを距離で積分したものだ
もちろん、「場」という潜在的作用の空間を想定した場合の話だ
mghの場合は、力が不変の場に於いて、作用がmgで、距離がhな
>あなたには、1+1 が見えるのか、
私は、「1+1」という字は見えるし、意味も分かる
「実在する1+1そのもの」は私には見えない
君には見えるのかね?
なんだかちっとも進まないな
エネルギーが見えるか見えないか
それを答えてくれればよいだけなのだが
何をびくついているのかね
つまりな
君は、いかなることをもってそれを「実在する」ことの根拠にしているのか
それを明確にしてもらえればよいわけだ >>274
それが、飛行機の位置や質量を、位置エネルギーと表現しているということだよw
要するに、実在を抽象化した時の表現のしかただ。
1+1も同じで、見えるとか見えないとかの問題ではなく、実在を抽象概念でとらえた時の表現のしかた。
自然科学というのは、実在を前提としてそれを抽象化する。
抽象のしかたが適切であれば、抽象化した概念同士の中で、論理化することができる。
抽象化が不適切であれば、論理の破綻をきたす。
言葉が実在になるのではなく、実在が言葉になるのだ。
もちろん、言葉はその言葉だけでいくらでもでたらめな表現ができるが、それは言葉の抽象のしかたがおかしいからだ。
卵を石と表現することが可能でも、言葉としての意味を成立させない。
一方で、それが言葉である以上は、でたらめであろうと、卵とか石とかいう実在を根拠にしている。
自然科学系の学問では、その言葉(記号)の定義を厳密にするから、卵が石になることはない。
卵も石も、抽象化すれば、どちらも1と表現することができる。
それが1+1が成立する根拠だ。
繰り返すが、エネルギーは見るものではなく、捕捉するものだ。
エネルギーを見る、というのは言葉の誤用に過ぎない。 >>275
>エネルギーは見るものではなく、捕捉するものだ。
おお、そうなのか、「捕捉」な
エネルギーを捕捉するとは、どういうことを言うのかね? >自然科学というのは、実在を前提としてそれを抽象化する。
>抽象のしかたが適切であれば、抽象化した概念同士の中で、論理化することができる。
>抽象化が不適切であれば、論理の破綻をきたす。
実在が前提とされた概念は、論理が破綻しなければ、それは実在するとしてもよい、と
そういうことを言いたいのかね? >言葉が実在になるのではなく、実在が言葉になるのだ。
それは君がそう信じているだけであってな
論理的な根拠など無いよ
たとえばダークマターは実在するか? >>276
エネルギーを捕捉しなければ、あなたのパソコンもスマホもただの文鎮だ。 >>277
それ、言葉の循環だよw
実在が前提とされた概念のもとは実在するに決まってるだろ? >>278
なにか実在するものをダークマターと名付けている。
まだ内容が解明されていないだけ。
重力もまだ内容は解明されていないが、あなただって椅子の上から転げ落ちることがあるだろ? >>279
なんだ、答えられないのかね
分からないなら分からないと言えば良い
>>280
アホみたいに循環させてるのは君なのだよ
もし「実在を前提ととされた概念のもとは実在する」なら
実在するかどうかは、人間の想像(思考)次第ってことになるだろ
君の言う「オカルト」だな
>>281
ダークマターが実在するかどうかは不明だよ
諸現象の辻褄を合わせるためにとりあえずでっち上げてるだけだ
19世紀まで、熱素も十分な科学的整合性をもって実在が前提とされていたが
今や影も形もない
ニュートンのプリンキピアにはエネルギーなどという概念は無い
つまり力学にとってエネルギー概念は絶対に必要不可欠というわけではない
ただしエネルギーを導入した方が理論が圧倒的にスマートになる
君は何にも知らないようだな
どうして私に絡もうなんて思ったのかね 私はハイデガーの著作を読んだことは無いのだが(『存在と時間』は持ってるけどね)、
>>262の存在論的差異は、ちょっと見ただけで「当然のことだな」と思ったよ
時計は時間を計るものだが、時間ではない
しかし時間を想定することはオカルトではない
体重計は重さを計るものだが、重さではない
存在者は「存在している」のだが、存在ではない
では存在者としてあることはどういうことか
そして存在するとはいかなることなのか
そう考えるのは自然なことだよな >>282
答えているのが理解できないの?
人間がいなければなにも存在しないといってるのは、あなただよ?
なにかが実在してるから、抽象の結果に影響が出る。
自然科学に疎すぎないか? >>283
ハイデガーの「存在」概念は、モーセが聞いた「わたしはあるというものだ」という言葉からきている。
その言葉を突き詰めようとした。
神学的な議論抜きに考えるのは無意味。
ハイデガーが取り上げようと考えた「時間」も同じ。 ハイデガーの存在論で第一義的に問題になるのは
人間の存在であって神の存在ではないだろう >>286
違うよ。
でもここはフッサールスレだから、これ以上はハイデガースレへ。 >>284
>人間がいなければなにも存在しないといってるのは、あなただよ?
私がそれを言った箇所を引用してくれ給え
『実在が前提とされた概念のもとは実在するに決まってるだろ?』
と言ったのは君だよ>>284
>なにかが実在してるから、抽象の結果に影響が出る。
根拠が無い
君は抽象とか捕捉とか、ぼんやりしたことしか言えないようだな
>自然科学に疎すぎないか?
私はエネルギー管理士の免状持ってるけど
君は? >>285
>ハイデガーの「存在」概念は、モーセが聞いた「わたしはあるというものだ」という言葉からきている。
根拠は? >>288
あなたは、実在を前提としない概念が成立するといってるのだから、人間がいなければなにも存在しないといってるのと同じこと。
実在がなければ、思考だけを勝手にいじってるだけ。
卵を石と名付けるような、まったくの無意味。
エネルギー管理士?
省エネ促進のための?
科学と関係があるのか? >>289
「存在と時間」や「現象学の根本問題」を読めばわかる、としかいいようがないな。
わからなければそれまでだ。
もちろん、聖書は必須だが。 >>290
>実在を前提としない概念が成立するといってるのだから、人間がいなければなにも存在しないといってるのと同じこと。
君は頭も悪いね
「実在を前提としない概念が成立する」ことと
「人間がいなければ何も存在しないこと」は
同じではない(むしろ全く関係が無い)
「Aを前提とせずにBが成り立つ」というのは
Bの成立のためにはAは無関係である、ということ
つまり、概念成立の条件としてそれが実在するかどうかは無関係である
そういうことだ
自然科学は「思考を勝手にいじるだけ」にはならない
現象、つまり観察事実との照合によってテストされるわけだが
この観察事実は理論を前提とする(理論負荷性)
不可分のパッケージとなるわけだ
君は私に対して「自然科学に疎い」と言えるだけの学力あるの? >>291
いきなり「ハイデガーはオカルトだ」と言い出したのは君であってな
君は、私を説得できないのだから、その程度の理解だということだよ
>>283にまともに反論できないだろ? >>292
>現象、つまり観察事実との照合によってテストされる
これ、僕が言ってる実在をもとにした抽象ということだよ?
意見に差異がないなら、それはそれでいいんだが?
>存在者は「存在している」のだが、存在ではない
>では存在者としてあることはどういうことか
これが無意味な問いだといってるんだよ?
存在者というのは、実在という言葉の言いかえに過ぎないから、存在という言葉を使ったからといって、「存在」一般が生じるわけではない。
それは、ただの言葉。
「わたしはあるというものだ」からきた発想であることは明白だよ。 >>294
それ抽象とは言わないでしょ
普通はね
君の言語感覚は雑ではなかろうかね
>存在者というのは、実在という言葉の言いかえに過ぎない
おお、そうなのか
ところで存在者は存在するわけだよな?(それとも存在しない?)
で、存在者は実在の言いかえに過ぎない、と
そうすると君は、「実在は存在する」と言ってることになるね
しかし「存在」は存在しないと、それを言ったらオカルトだよと
んー
まことにポンコツな話だよね
あなたは多分ね、中学・高校で国語の成績が悪かったのではないかな
でも自分の回答が間違っていたとは信じていない
違ってたらごめんなさいね
ちなみに「存在者」の意味は「存在するもの」だよ、当たり前でしょ
でもそこにおいて、実在との関係は度外視されている
(そもそも、ある概念がどうであればそれが実在するか、は人間には分からない)
ちなみにこの段階では、存在とは何か、についても棚上げだけどね
存在と存在者の区別、これはハイデガーよりはるか以前、アリストテレスからの
伝統らしいわ >>295
1+1 というのは、数えられるものを数として抽象した結果だよ?
他に適切な言葉があるのかな?
「存在者」は存在する。
「存在」は存在しない。
繰り返すが、言葉があるからといってそれが実在(存在)するわけではない。
サルトルは明確に言っているね。 >>296
存在者は実在する
存在者は実在の言いかえに過ぎない
とすると
「実在」は存在するの? ちなみに
>>262の「存在論的差異」だけど
「存在」が存在する、とは全く言ってないよね
これは藁人形論法ですよ
あなたは哲学に向いてないのじゃない? >>297
実在が存在するというのは同義反復。
「存在」一般は存在しない。
つまり、実在=存在。
もちろん実在というのはものに限らず、精神の動き、様々な関係等を含む。 >>298
ハイデガーの「存在と時間」は、まさに「存在」一般を究明する試み。 >1+1 というのは、数えられるものを数として抽象した結果だよ?
1+1が好きなんですね
あなたにとってそれは「存在者」なんですか? >>301
「存在者」を抽象して数字にした、と何回も書いてる。 >>300
>ハイデガーの「存在と時間」は、まさに「存在」一般を究明する試み。
それで良いではないですか
結局ね
存在が当たり前と思っているか、そうは思っていないのか
という問題意識、哲学的態度の差ですよ >>302
あなたにとって「抽象された数」は実在するものなのですか? >>303
実在しないものを存在させようとするから、オカルトだといっている。 >>299
>実在が存在するというのは同義反復。
だとしたら「存在者」は「実在」の言いかえではないよね
「存在者」は存在する、も同義反復?
>「存在」一般は存在しない。
「存在者」のようには存在しない、というだけですよ
>つまり、実在=存在。
それだと結局、「存在者=存在」という
素朴で非哲学的なオチですよ >>304
それも何回も書いた。
実在が根底にある抽象された概念。 >>305
>実在しないものを存在させようとするから、オカルトだといっている。
ある概念が実在するかどうかを、あなたはどうやって判断するのですか >>306
「存在者」は存在するも同義反復。
実在=存在者=存在。
ただし、ハイデガーの「存在者」は、精神や関係などを含まない小さな概念。
素朴であろうと複雑であろうと、オカルトは哲学にならない。 >>308
また繰り返しw
概念とは、実在を根底に置き、実在を抽象したもの。 >>310
抽象が実在するのではなく、実在は抽象することができる。 >>309
>実在=存在者=存在。
それならそれでもいいけど
「実在が根底にある抽象された概念」を考えることは
どうしてオカルトにならないのですかね
「存在」一般は存在者の根底にある抽象された概念
これならオカルトになりませんよね 実在を根底に置いて抽象化することがオカルトではない、というなら
「存在」一般を考えることに何の問題もありませんね >>313-314
「存在」一般を「存在者の根底にある抽象された概念」にしようとして失敗したのがハイデガーだよ。
抽象化することで概念を広げようとすると、存在=世界、みたいに無意味になっていく。
普通は概念を縮小していくときに抽象化する。 >>315
自分で納得できてるんなら、別にいいけどね。 >>316
そうすると
失敗したからオカルトだと
あなたはそう判定するわけですか >>316
>抽象化することで概念を広げようとすると、存在=世界、みたいに無意味になっていく。
存在者と存在を区別しようとしたのだから
それは違うと思いますよ
存在者が存在することが当たり前なのか
存在者は何もせずに無策無為のまま存在なのか
そうではない、と思ったのでしょう
私もそう思いますし 「存在者」つまり「存在するもの」の概念が無機的唯物論に汚染されているのですよ
だから「存在すること」が何らの動きも無い、「ただ在るだけ」となってしまった
しかしそうではないのだ、と
20世紀初頭、その時代Iの空気の中で、哲学においても科学においても、
世界観が激変し、覚醒した人間がいたってことですよ
哲学において壮大に失敗したら
むしろ成功なんじゃないですか そもそも、存在するとは何ごとなのか
少なくともそれは、消滅にさせようとする暴力に対して、抵抗しなければならない
その能力を持つものだけが、その間だけ、存在することを許される
その力が無くなればただちに世界から消えるだけ
人間も、動物も、植物も、太陽から素粒子まで
存在するためには、何らかの形で活動的に自己を保持しなければならない
一切の「存在者」がその概念を獲得したとき
存在一般の概念も静かに消えていくでしょう
もちろん、比喩ですよ
でなきゃオカルトですからね >>318
違うよ。
元々ハイデガーの「存在」概念は抽象化を目指したものではない。
神の存在証明のために設定した概念だよ。 >>319
>存在者と存在を区別
それを無意味だといっている。
>存在者と存在を区別しないと存在者は何もせずに無策無為のまま存在
意味不明だよ。
言葉を連ねれば意味が成立するわけではない。 >>321
>「存在者」つまり「存在するもの」の概念が無機的唯物論に汚染されている
それがオカルトだといってるんだが。
>世界観が激変し、覚醒した人間がいた
ハイデガーが寄与した部分が少しでもあるとすれば、それはナチスだよ。 >>321
>その能力を持つものだけが、その間だけ、存在することを許される
>その力が無くなればただちに世界から消えるだけ
完璧に宗教だな。
誰が許したり消したりするの?
なんの比喩にもなっていない、オカルトそのものだと思うよ。
ところで、この一連の議論は、フッサールとどう関係すると思うの? >>322
>神の存在証明のために設定した概念だよ。
あなたの独断ですよね
>それを無意味だといっている。
あなたにとって無意味なだけで
論理的に無意味というわけではないのですよ
ゆえに、今でも考察されたりするわけでしょう
(まあ、ハイデガー知らんけどね)
>意味不明だよ。
>言葉を連ねれば意味が成立するわけではない。
あなたの引用が捏造だからですよ
まあそれがあなたの精一杯 >>324>>326
ああ、それは私個人の考え
君には理解できない話
>ところで、この一連の議論は、フッサールとどう関係すると思うの?
ハイデガーがどうとか言い出したのは君であって私ではない>>249
もう満足したのか? フッサールの話にするか?
こんなのはどうだ
〜超越論的主観性はオカルトか〜
存在一般がオカルトなら、これはどうなんだろうなー >>327
平行線だから、これ以上の議論は無駄だね。
でも、僕の引用が捏造というのはどれのこと? >>330
>存在者と存在を区別しないと存在者は何もせずに無策無為のまま存在 >>328
僕がハイデガーを持ち出したのは、あくまでもフッサールの両端の一方の弟子として。
あなたが他の人の尻馬に乗ってハイデガーの話を聞きたがってたんじゃない?
ま、どうでもいいけど。 平行線ではなくて
入口が分からない人が絡んでるだけですよ >>331
言葉はあなたの書いたとおりだけど、組み合わせがおかしかった? ハイデガーはどうでもいいけど
存在論的差異は、あたりまえの問題意識だと思ったからね >>333
それを平行線というんだと思うよ?
僕には、あなたがまったく哲学の知識がないように見えるし、あなたは僕がそう見えるんだろう。 >>334
組み合わせは君の任意なのかね
勝手に意味不明に組み合わせた上に、「意味不明。」て
君は幸せものだな >>335
存在論、などというもの自体がオカルトだといってるんだけどね。
オカルトが気に入らなければ、無意味な議論、と言い替えてもいい。 >>336
>僕には、あなたがまったく哲学の知識がないように見えるし
まあ君は、「自然科学系にこれほど無知なのは、よほどの老人だからだろうな。」>>269
とか言っちゃうおマヌケさんだから、そう見えて当然だろ >>338
君は無意味な議論が大好きなんだよ
自覚したまえ
では超越論的主観性の話にしようか
これ、オカルトかね? >>329
ここは、フッサールスレだからねw
超越論的主観性はオカルトだよ? >>342
超越論的主観性はオカルトか
んー
では「意識」はオカルトですか >>340
老人という見立ては外れてた?
どっちにしても、あなたは自然科学系に弱いじゃないw >>344
多分、君よりは強いだろ
エネルギー管理士試験、なめんなよ
君では10年勉強しても受からんよ >>346
エネルギー管理士・・・
実生活上でバカにする気はないけど、学問ではないよ。 >>345
>意識そのものは、実在だよw
なるほど
ところで、『人間が存在者を認識するのは意識に於いてそれがなされる』
これはOKかね >>347
一度、問題を見てください
理系では、問題も解けずに御託並べてる奴はただの負け犬なんですよ >>348
意識をある固定した状態として捉えるなら、意識の活動を認識という。
その認識によって、また意識が形成される。 >>349
バカにはしてないよ。
でも学問じゃない。 >>350
>意識をある固定した状態として捉えるなら、意識の活動を認識という。
>その認識によって、また意識が形成される。
それを踏まえてで良いので、>>348に答えてくださいよ 実際バカにされてるとは思っていないわけなんだよね
勝者の余裕です >>352
>『人間が存在者を認識するのは意識に於いてそれがなされる』
不適切な表現だから、適切な表現に変えたんだけど? >>354
そうですか
超越論的主観性というのは、>>350のようなことですが
しかしオカルトなんですよね >>356
超越論的主観性をもう一度調べてみてね。
全然違うから。 >>357
いやいや違わない
超越論的主観性というのは、意識の活動形態のことだから
君がそれを理解できないからオカルトだと思ってるだけ >>358
超越論的主観性というのは、意識の外に、無限としてのなにものかを設定したうえでの、意識の限界の設定だ。
意識の中で意識の無限を設定し、意識の限界を設定する。
「無機的唯物論」のほうが正しいに決まってるw >>359
ぜんぜんちがいます
「超越論的」の意味は、「意識が外界を認識している」ことを認識している
つまり意識に対して外界は超越しているはずだが、しかし意識はそのことを
自覚することができる、その自覚の主体が超越論的主観性
無限とか、一切関係ありまっせーん >>360
カントを読んだことがないのはわかる。
あなたの書いているのは、ただの主体のありかただ。
それも、言葉の言い替えに過ぎない。
超越論的主観性については、カントを読んでからにしてね。 結局この人はね、自分で勝手につくりあげたモンスター>>359にオカルトのレッテル貼ってるだけなんだよ >>362
あなたがもう少し哲学の本を読んでから、議論しようね。 カントはたまに読むね
しかしカントとフッサールでは「超越論的」の意味が違うよね
カントの場合、超越論的の意味は>>360だよ
純粋理性批判を調べたら彼はこう書いている
対象に関する認識ではなく、対象を認識する『その仕方』についての認識
それを超越論的と呼ぶことにする
つまり、我々は対象を認識していますよ、そしてそのことをまた認識してますよ
だから、これからそれについて考えてみます、と
そういうことだよ >>363
あなたの理解力では読んでも無駄だと思いますよ
そもそも貴方、人間が世界を理解することを何も不思議に思ってないから
だがそれは、間違っているわけではない
哲学という営みが異常なだけだと思う
だから、オカルトだ、という貴方の主張は正解 >>364
カントについてはもう少し読んでみてね。
調べるんじゃなくて、読んだ方がいいと思う。
フッサールの超越は、デカルト。
客観的な存在を主観で受けたものでしか把握しようとしないから、客観と主観との無意味な「無限」となる。 >>365
>人間が世界を理解することを何も不思議に思ってない
「世界」という言葉の曖昧さを別にすれば、そのとおり、なにも不思議なことはない。
人間の主観、個人の資質と環境で「世界」なるものを設定し、空虚な問いを投げかけるのが哲学。
哲学がオカルトに過ぎないという見かたを共有できたのなら、よかった。 貴方は、哲学にも自然科学にも向いてないのだから諦めてください >>368
違うと言いたいのはわかるが、書くのが面倒だから省略しただけw >>369
ひとつ5chの面白い現象を教えてあげる。
といっても、それほど詳しいわけじゃないんだがw
相手の悪口を書きだしたときは、自分の思考を諦めかけているとき。
自分自身でも、そう思う。 多分この人はアンチノミーあたりの記述を勝手に自己解釈して
素朴なファンタジーにしないと理解できないわけです
一事が万事、この調子なんだと思いますよ いやいや
わたしはね、>>249の段階で
「ああ、この人、絡みたいだけのタコだ・・・」と思いましたので >>372
哲学はオカルト、という見かたを共有できたと思ったら、ファンタジー?
もっとも僕は、哲学は素朴であることが一番正しいと思うけど。 超越論を超越に省略するようなセンスだと
そもそも、哲学に向いてないでしょ >>373
ああ、あなたは >>249 も理解できなかったのか・・・
それならたしかに、あなたと哲学についての議論は無理だ。
そもそも、なんでタコを相手に絡んできたの? せっかく穏便にメンツを立ててあげたのに
仕様のない人ですねぇ
>>374
だから貴方は素朴な場所にいたら良いわけですよ >>375
レスのやり取りからわからない?
「超越論的主観性」という、あなたが出してきた概念について説明してるんだよ? >>377
もちろん、僕はいつでも素朴な場所にいる。
言葉の迷宮に迷い込んでオカルトになっても無意味だからね。 >>379
僕は、迷妄性が嫌い。
哲学はその迷妄を助長するものが多い。
それだけだね。
ところであなたはエネ管ということだけど、仕事はしてないの? とりあえず、フッサールの超越論的主観性について説明しておきましょう
意識に於いて認識される対象があるとき、普通はその対象が
「素朴に(自然的に時空間に存在している)○○である」
の認識を伴うわけです。フッサールはこれを「自然的世界の一般定立」と呼ぶのですが
この働きは無反省に行われているので、そこに哲学的な批判を加える必要がある、と
彼は思ったのです
そこで、意識に立ち現れているその内容はそのままに保持し(これを「括弧に入れる」
と表現している)、外部世界がそのように存在すると断定する働きだけを停止する
このような手続きを経て得られた主観を、超越論的主観、と呼ぶわけです
だがこれは、非常に危ういです >>381
今日まで3連休
明日からはほぼ休みなし
よかったですねw 哲学が迷妄を助長するのは、どの哲学者も本意ではないはずなんだよ
ただ、受け取る相手がボンクラだからオカルトに変様してしまうのですよ >>382
それ、エポケーにとどまってる。
フッサールの超越論的主観というのは、そこから先、いわば超自然的に主観が客観にすり替わる。
だから無限。
あなたが非常に危ういということに気が付いたのなら、そこから先へ思考を進めてみたらいいと思う。 >>383
あなたが勤労者でも自営でも無職でもどうでもいいんだけど、これから休みなしで働くなら、僕もあなたに飽きてきたところだからちょうどよかった。
時間があったら、本を読んでね。
>>384
素朴なボンクラでごめんね。
でも、哲学は、その素朴なボンクラに弱点を指摘される言葉の迷宮がほとんどなんだよ。 「無限」に固執しても無駄
なぜなら、貴方の理解では、超越論的主観性は主観と客観の
無意味な無限によってオカルトなんでしょう>>366
哲学はね、肯定的であれ、否定的であれ
やはり哲学者に対しての信頼が無ければ駄目ですよ
オカルトだと思ったら、それまで
ご縁があればまた >>387
何回か書いたけど、僕には「哲学者に対しての信頼」など皆無だよ・・・
哲学者が様々な疑いを持つように、僕は哲学者自体に疑いを持ってる。 久しぶりにフッサールスレ見たよ。
「デカルト的省察」を買って、今度読むつもりだよ。
東洋思想や実存主義をちょっと読んでた。
すっかり頭の悪いおじさんになってしまった。 「デカルト的省察」 フッサール
めちゃくちゃ難しくてさっぱりわけがわからなかった。
判断停止(エポケー)について書かれた哲学書。
ぼくの解釈を書くならば、「物自体は認識できないが、
意識が超越的存在(物自体)に影響を受けていることは、
意識に志向性が発生していることから知るしかない」である フッサールと同時代、いや、それより早いの1911年の西田幾多郎。
「善の研究」西田幾多郎
西田の存在論は朱子学の「理」だ。
西田は、自由意志を否定した。心の中に意志を決定する要素がすべて思い浮かぶことはなく、
不十分な意志の発現の総合として、心に意志は発現する。
善悪を完全に規定した倫理学は存在しない。 智勇仁義は、いちど善とされても、後で悪とされることもある。
また、誰かは善といっても、別の誰かは悪という。
平等が正義でもない。逆に、個人のこだわりを認めることの方が、平等より善であることが多い。
意思は、快不快の単純な多い少ないによっては決まらない。
人の意思は、快不快の単純な算数で決まるほど単純ではない。 問題の所在は
独我論から抜け出そうとしても抜け出せないが
どう考えても抜け出せているようにしか思えない
ということだろ
それをオカルト概念としての間主観性で救済したが
救済できているのか? 間主観性なんて概念もまた
全くもって強引に設えられた
底なし沼の踏み板だからな 志向性がいまいちつかめない
誰か感覚的な例をたくさんあげてー 志向性というのは、ざっくりいえば
辞書を作る能力のことだよ >>393
あのぉ、そんな当たり前のことを発言しても哲学になるの? フッサールの著作を主に読むのではなく、
八重樫徹『フッサールにおける価値と実践』と
エルンスト・W・オルト『フッサール<危機>書の研究』を読みながら
フッサールの著作に当たろうかなと思ったり。 ,.r''-'''""'''ー-、_
、r゛" "'''' -=、,. ヾ''、
,r' .:'r ;::::ヽ
ri' :.:::::ミ.:::::::::::i
. l :,:::::ミ::::::::::::i
. l ..::::::l::::::::::::l
,ljii;;;,,,__ ; :,__,,.-_=_、ミ、::::::i;:::::::;r.、
. r'´(て)ヾ,_j' '´`='ヽー.'::::::::::.r' i i
l、  ̄ ,ノ .:::ヽ _,ノ ..:::::::::::! l/
. !  ̄ :' ::::::.. .::::::::::::::! '!
l ヽ,_;::::::,:',_、 .::' .:;'::':i_,/
! r';"';';;;;,'':::;'';;::.:ミ.、::r ':;:r:::!
Y;;';.r‐'''‐'‐'':;';;:ミ ..:ミ:'::::'::::l 、
'ヾ ",:,:';:: 、ヾ、 ミ、ミ:;:::::::;r' l:::ヽ
ミ'; ::';;:;:;:.,、:、;.、 r'- '´ ,:'::::::::`
ヾ'"!r;,'l;;rヾヾ''" /::::::::::::::
/ ヾ'/ _,.-/´::::::::::::::::::::
'--,-r'l__,r '´ /;:::::::::::::::::::::::::: 危機書を先に読むと、『厳密な学としての哲学』はそのダイジェスト版なのかな
と思えて来る。 92 :世界@名無史さん :2020/09/06(日) 13:17:48.43 0
>>75
日本が家父長制??
自分の稼いだ金を全部奥さんにやってその一部だけをお小遣いとして貰う身のどこが家父長だ
ヨーロッパだとお小遣いは夫が妻にくれてやるものだけどな >>404
なんだか知らないけど、結婚したら夫の姓を名乗るのが普通、という国は家父長制だよ。
普通に夫がなる世帯主制度もいまだにある。 アドルノにボロカスに批判されたせいで
手をつけにくい人になってしまった可能性がある。 しかもそのアドルノの論文の翻訳本が革マル派のこぶし書房から出ているのが
余計にややこしさを増幅させている。
野家啓一が1996年に出した「フッサールーー身体と知のアルケオロジー」
がフッサールの論評としてはまとまっていると思う。 >>392
判断停止てのは文字通り受け取れば良いのですよ。
我々が日常的に判断している価値や善悪。〈働かな
い人は悪い人〉〈身なりの綺麗な人は良い人〉
〈おカネない人はダメな人〉〈学業できる人は
頭の良い人・・・という判断について、ひとまず
停止し、どこからその判断は起因するか、総合的
かつ分析的に解明する。その作業によって最初の
判断は相対化される。
なので哲学だけでない、社会や国家や経済やに
ついて考える作業についても必要な手続きです。
『資本論』は日常的な経済活動・金銭活動
についての判断停止から生まれたものでしょう! >>409
分析と判断停止を混同してはいけないよ。 射撃の名手だ。精神的でもあるだろう。アドルノなんて怖くないが。 思考停止って…、電気痙攣でちょっとビックリしただけじゃん デリダのフッサール研究はどの程度重視すればいいのかなあ?
例えばデリダは幾何学の起源の序文とかを書いているぐらいだから、
デリダへの言及がない研究書はモグリだみたいな風に考えていいのか。 >>414
ニッチだなあ・・・
まあ、哲学でニッチじゃないものを探すのは大変だけど。 二次文献を無視して一次文献(大物)同士のやり合いだけを研究したいw >>416
ギリシアの昔に遡っても、その意味の一次文献というのは存在しないんじゃないかな?
哲学は常に、誰かに対する批判だから。 自分の研究対象の学位論文が、その研究対象を
研究対象たらしめているに違いないと見て研究するのは理解できる。 >>417
エンゲルスという人は、20か国語以上に精通していたそうだ。
確かにすごいが。 >>418
確かに。思想史から哲学に入ったもんでつい。 >>410
客観性を基礎づける前提に判断停止は必要。
客観的分析を保証するために私の自然的判断は停止する。
超越的存在がいかにして成り立つのかがそこで
改めて構造化される。
それがなければ経済学批判はない。 >>422
判断の停止も進行も本人の主観だな。
客観的な基準はどこにもない。
フッサール最大の汚点。 谷徹が勁草書房から出した現象学の本は評判がいいな。 情況出版が数年前にフッサール特集をしていたわけだけれども、
左翼からしたらフッサールも仲間内に入れるのかな。 >>426
左右の分類をすれば、フッサールは左ではないな。 >>427
『危機』書はしょっぱなの方は何と無く左っぽい感じがしたんだが、
そのあとの方は確かに左ではないな。 ざっくり言えばカントの後継者たらんとした人なんだろうか? カント?知らんがな。って感じで始めたけど結論はカントとあんま変わらんかもね。 カントの結論:道徳律最高!
フッサールの結論:ヨーロッパは自然科学が席巻して滅びる! 竹田青嗣や西研のフッサールの利用の仕方は、
フッサールをハーバーマス的に読むという感じでいいのかな。
間主観性を対話的理性で考えるという感じの。 『デカルト的省察』って、 岩波と中公クラシックと共に新しめのが出てるけど
どっちのが読みやすいかな? 最近amazonのこれが現象学だのページに挑戦的なレビューついてたな
そして現代現象学(新曜社)を読めということらしい
しかし国内だとフッサールが言いたいことはそうではない、みたいな入門レベルの議論ばっかりになるな
それだけ標準的な現象学というのが確立されてないのだろう
とはいえハイデガーやフランス現象学まで行くとフッサールのことは軽視されてしまうわけだが フッサールって本当に志向対象が存在する現物って前提で話しているんですか?
著名な哲学者の解説本でそういう解説がなされているものってありますか? 『フッサール 志向性の哲学』を読んでの疑問なんだけどさ。
これ革新的だというのは認めるんだが、根拠が薄すぎ。「実はこれは誤解なのだが、〜」を繰り返すだけ。
ブレンターノはわざわざ「志向的”内在”」って表現してたのに弟子のフッサールが初期から一貫して
外在物を志向対象にしていたというのはいくらなんでも無理がある。 誰もいないのか。
ブレンターノがもの主義に変わった以降は志向対象は実際に存在する現物と考えるべきならわかる。
でも論理学研究の段階からフッサールがもの主義だったというのはいろいろとおかしい。
まず、ブレンターノの見解と真っ向から反する。ブレンターノはブレンターノで影響力でかかったんだから、
仮に反目していたとしても、ブレンターノの見解はこうです、でも自分はそう考えなくてこう違うんですって
エクスキューズしてないとおかしい。
あとは、仮にフッサールがもともともの主義だったとしたら、ブレンターノがもの主義に転向した際に
「やっとわかってくれた」的な感想を述べてないとおかしい。生きてるときは無理だとしても追悼文
「フランツ・ブレンターノの思い出」でそういう感じのことを述べてないといけないはずなんだけど、
そんなことは言ってなかったはず。
この2疑問が自分の中で大きいのだが同じ人はおらんか。 志向性とフレーゲの指示の概念を同一視するのも読んだときはすげぇとおもったけど、
よく考えるとおかしい。志向性って何か思い浮かべるという行為をするときに目的語となるものがないといけない
というような概念であって、意味概念とは違うだろ。 自分は全然専門家でもないが、ダメットはブラウワーの直観主義を現象学の身代わりのように考えている節があるようにも読めるから、
それでダメットのフレーゲ解釈とか持ち出しているんだと思う、というか「分析哲学の起源」にすごい影響されている本だと思う。 >>441
もの主義ってのは誰の用語?唯物論のこと?
哲学板って俺用語なのに皆があたりまえに知ってるものとして語るやつ多いんかな ブレンターノは前期、中期、後期と分けられるが、もの主義(reism)というのは後期ブレンターノの主義主張。
1874年の『経験的立場からの心理学』において志向性の概念を取り入れたが、当初は志向的内在と表現したように、
志向対象は内なる意識上の存在、つまり意識上の何らかのデータでもありうると考えた。
ところが、1910年ごろになるとその考えを捨て去って、心的現象つまり表象、愛憎、判断の志向対象は実在物以外は認めないと転向した。
それがもの主義(reism)。ちなみに、もの主義というのはブレンターノが命名したわけではなく、タデウシュ・コタルビンスキーという人が
後世に命名したものらしい。
フッサールがブレンターノの講義を聞いていたのは大体1880年あたり、そのころはまだブレンターノは非もの主義で、
当初のフッサール現象学も志向性についてはブレンターノを引きづっていないとおかしい。
だけれども、『フッサール 志向性の哲学』によれば1900年の『論理学研究』時点からすでにフッサールは志向性に関しては
もの主義だったとあって、それはいくらなんでも無理があるのではないかと思って。
仮に本当にそうであったとすると、傍証をもっと集めないと説得力に欠ける。当事者の証言聞いていた研究者もいるわけなんだから
そういう人の証言とかも載せないと、フッサールの言葉だけで、最初からフッサールがもの主義だったと解釈するのは自分は納得できない。 フッサールはもの主義だったというのが、『フッサール 志向性の哲学』の前半の主題なんだから、
もの主義の提唱者のコタルビンスキ(有名かどうか全然知らない)に言及がないというのもおかしいとも思う。
思想的に違うのかな。 「フッサール現象学」ってのは本当にあるのか?
ハイデガーはもちろんフランス現象学やほかのフッサールの弟子たちも
フッサールの現象学を後世に伝えようとはしてない
逃亡中に書いたものは大量にあるようだがいくら研究しても「フッサール現象学」にはならないように思える
「フッサール現象学」とは入り口ではあるが出口は別のものになるもの、なのかもしれん
ブレンターノスレ立てたやつが分析哲学に興味あるやつでこのスレにも居ると思うけど
現象学には別にたいして興味無いんだろうな だれだれの現象学というのは意味がないと思うぞ。
人間だれしも成立する普遍的な心的な現象に関する自然法則(あえて言う)というものが現象学であるべきで、
だれか有名な哲学者や後継者がそういったから現象学というものの特徴付けがされるというのはなんか商業作品みたいな色付けしてないか?
意識を持つAIをいつか作れたらそのAIも現象学を語れるはずで、それがだれだれの現象学と同一ということは考えずらい。
全ての現象学に関する言明の共通項が普遍的な自然法則としての現象学であるはずだと思うのだが。 意識をもつすごいAIが今後出てきたとして、「人間とは」とか「死とは」とか哲学的テーゼを与えても満足にこたえられない
可能性は高い。AIの中にそんな概念無いから。
でもあなたはどういうプロセスで考えているのですか、判断しているのですか、という問いに対しては現実に行うことになるはず
なので、その意識プロセスを開陳してもらえれば、それは現象学足りえるものになるはず。 ラファ鉄とかいう人も竹田現象学はフッサール現象学ではないと言ってたけど
自分だってフッサールからどんどん離れていってるだろ
出口で別物になってしまうものなのではないか ラファ鉄なんて人は知らないけれど、現象学の建て付け上マイ現象学が出てくるのは当然。
フッサールの思考プロセスに全部寄り掛かる気はしない。そんなもの双子でも無いんじゃない?
でも件の本は、これがフッサール現象学の正しい解釈だ!で売ってんじゃん。しかも最終章とかならmy現象学出してもわかるけど、
言ってんのは第1章だぜ。2章に至っては言語哲学やってるし、出口で別物というかダメット引き合いに出してて分析哲学出してくるから
もしかしたら、と思ったけどp.114で「分析哲学の起源」出してるし、これは分析哲学と合流を目指しているんだろうなというところが丸見え。
p.271ではマルティン=レーフに触れてるし、「直観」主義型理論に合流したいんだろうな、だから志向性を
ダメットを引き合いに出してフレーゲの指示の理論との一致を試みているんだろうなと。 実存は本質に先立つ
だと他我はどうなる?自我は他我に飲み込まれるのでは?
やっぱり間主観性は難解 サルトル風に言うと、他者を即自として扱う、
と色々問題が起きやすいと思うが
対自同士のやり取りというのはどういうことなのか?
他我は自我の一部であると言えるが、
自我と思ってるものが実は他我によりのっとられてるのではないか? フッサールは実存とか投企とかまで意味を読み込まないから
実存は本質に先立つ(アンガージュマン)とか
陽明学でいう知行合一のような強烈な動機には至らないようだね
その中間にメルロ=ポンティがいるのかな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています