>>117

>方法的懐疑が究極の“真”としての超越論的主観性を認識し、現象学的還元に於いては、
>超越論的客観を認識するところでしょう。

そういえるかな。

> その違いはどこから生じるのかというと、“前提を設定する”思考法の方法的懐疑と、“前提を設定しない”思考法の違いにある。
>ここで、超越論的客観という認識を述べたが、私はハイデガ−の“存在”の概念に類似していると解釈している。

そう考えて、ハイデガーは、「現象学」を解釈しなおそうとして、
フッサールと喧嘩することになったんじゃないかね。

ハイデガーの「現象学の根本問題」
2冊あるがどちらも、を読むとそのように理解できる。

しかしそうなると、現象学というより、存在論になるんだろうけどな。

するともはや、フッサール的にエポケーは問題にならなくなるので、

君のやっているのは、当初はフッサールに対する質問だったはずだが、
もう別のことになっているのだよ。

ただ、ハイデガーがフッサール的主体を取り入れていないにせよ、
主観性の問題を棄てたとは理解してない。