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フッサールについて語ってくれ [無断転載禁止]©2ch.net
0153
垢版 |
2018/01/26(金) 03:43:54.530
ヴィトゲンのところを終えてからレスしてほしかったがw
まあボチボチ。

>ヴィトゲンシュタインで最も有名な言葉の一つ

>5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)
>以下、5.641まできちんと読んでね。
>「世界に属さず世界の限界としての主体=私」とは無関係、というよりむしろ真逆だということがわかるから。

真逆というのはどういう意味で言っているのかよくわからんな。
君の書き込みは、しばしばあまりにも不鮮明なのに、自己満足に浸っているように
見える。こういうところでは細かく論じづらいので、ある程度仕方ないにせよ。

「世界とは「私の」世界である(5.62)」という独我論的立場は肯定しつつも、
「思考し表象する主体は存在しない(5・631)」というように、フッサール的主体は
否定。
私の世界という書物のなかで唯一「語られない」ものが(5・631)「私」だと
ヴィトゲンはいう。

そこででてくるのが有名な「主体は世界に属さない。それは世界の限界なのだ。」
有名な目の比喩が出てきて。
見ている自分の目は見えない。世界のどれからも眼に見られていることは推論できない。

そうすると、自我は「延長を持たぬ点に委縮」する(5・64)のこりはそれに応じた実在
のみになるから純粋な実在論になるとくる。

そして最後、5・641、その上で哲学的自我を規定すると、人間でも人間の肉体でも、
心でもない、「形而上学的主体=世界の限界」としての自我だということになる。
0154
垢版 |
2018/01/26(金) 03:44:25.810
どう読んでもも、
>「世界に属さず世界の限界としての主体=私」とは無関係、というよりむしろ真逆だということがわかるから
なんて結論になるわけないのだがね。

「世界は私の世界」であり、世界のなかのものは語られても、「私」だけは語られない。
だから「私は世界に属していない(世界の一郭を形作るものではないのだ5・641)」
「世界の限界である」ということになる。

そう5.641でもはっきり述べている。
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