0155あ
2018/01/26(金) 03:55:44.560>>149
今特別に君と言い合うことはないとは思うけども。
>つまり、超越論的主観(心身合一)も、超越論的客観(フュシス)も共に存在の“あるがままの姿”として捉えられている。
>これは一見、矛盾した論理に思えるが、ハイデガ−の前期哲学(主観による存在了解)と後期哲学(生起の論理)にも
>見られることと解釈している。
「超越論的主観(心身合一)も、超越論的客観(フュシス)も」
ここがねえ。超越論的主観を心身合一と表現する人も、
フィシスを超越論的客観と表現するひとも、俺は見たことがない。
たぶん、ここは俺でなくても、ある程度の哲学的素養があるひとなら、
受け入れがたい表現だと思うよ。
『存在と時間』の時点でも、ハイデガーは、現存在とか世界内存在とかいう言葉を
使い分けて、うまく超越論的主観を使わない哲学を試みているわけだしね。
主客の区別って点をハイデガーは拒絶しようとしているようにも思われる。
それにあえて君はそれを持ち込もうとするから、こういう変な表現になっている
のだろうとは推論するけれども。