>>155
私は>>94で、「デカルトが方法的懐疑によって“疑っている私は疑えない”という究極の“真”としての私を超越論的自我というが、
 問題は、デカルトが方法的懐疑による究極の思考過程に於いて認識した“あるもの”を何故“純粋な精神(=私)”と定義したかである。
本来、人間の“心(精神)と体(物質)”は、“一つのもの”として存在している。思惟・思考する以前に“心と体”はもともと一体化しているものである。」と
記述した。

上記の通り、方法的懐疑による究極の思考過程に於いて認識した“あるもの(=超越論的自我)とは思惟・思考する以前にあるものであり、
“心と体”の合一した“一つのもの”として認識するのが正しいと解釈している。

私たちは、方法的懐疑の思考を究極にまで深めている過程で“疑っている私は疑えない”という超越論的な“あるもの”を、
認識するが、その“あるもの”は思惟・思考する以前の“心身合一”した存在として捉えられている。

この“あるもの”を冷静に分析すると、体(物質)から分離した“純粋な精神(心)”だけが超越論的自我として認識されて
いるのではないことに気がつく。

それから、デカルトが“疑っている私は疑えない”という“私(超越論的自我)”が、“純粋な精神”として認識されるという
論理的な根拠をデカルトは示していない。“私”が純粋な“精神”であるならば、誰しもが理解出来る倫理的根拠を示す必要があった。