フッサール 厳密な学としての哲学から
・いくら実験しても経験からは論理的法則は導けない。経験科学からはフッサールのやるような厳密にイデアとしての論理的必然性を基礎づけることはできない
これはわかりますね、論理学研究と一緒です。真理は経験離れた客観性としてあるわけで自然科学それ自体はそういった客観性は持たないわけです。
ヨーロッパ諸学の危機から
・38節 受動的発生と能動的発生、世界が客観的数理物理的にあるとかは、後から与えられるものだ
・49節 客観的世界は、受動から能動として後から構成される、初めの生活世界ではそんなものはない
→ここから生活世界論へ

要するに現象に基づかないで客観を外から持ち込むのはフッサールは許せないんですね
心理学主義、実験では科学は真理、無時間的な真理を基礎づけられない。客観的世界像は後から作られるもので先にあるのは生活世界である
現象学の最初にエポケーであらゆる自然物を意識から排除したのも生活世界からガリレオ式物理科学的世界像を排除したのも同じことです。
フッサール自体は絶対的、普遍的、万人に妥当する客観的真理を追及しなかったことはありません。

フッサールは数や論理だけではなく赤や経験から構成されるように見える物も、イデア的な普遍的無時間的な物と捉えます
薔薇の赤や郵便ポストの赤、赤が赤であるのは個々の物や体験、知覚を越えてそれが赤だと経験越えて判断できる直観しているからですよね
そうでなければ薔薇も郵便ポストも色合いは全く違う
赤が赤だと判断できるのは赤が論理と同じで経験離れて普遍的客観的だからです
そうでなければあれとこれは赤、あれは赤ではないなどとは判断できません
生活世界から幾何学などを発見し教育され引き継がれといます。そういった共同体な一員として過去からの歴史を引き継ぐことが文明の証であり人類の知的遺産を引き継ぐことです
わけもわからずガリレオ的世界観を押しつけられるのではなく生活世界から一歩一歩人は受動的発生から能動的発生へ知を引き継ぐことができるのです。
幾何学の起源を参照
現象学は理性の普遍的真理の学問です。