フッサールについて語ってくれ [無断転載禁止]©2ch.net
近代哲学の父といわれるデカルトから始まる“心身二元論”が、いろいろな意味において、
現代の民主主義の理念、そして、機械論的世界観から現代科学の基盤となっている論理実証主義を創出し、
今日の物質的科学文明へと至っている。
フッサ−ルは、デカルト哲学を真摯に継承し、深く論究して新しい現象学を確立した。そして、デカルト哲学の
良い面と悪い面の分析の中から、『ヨ−ロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を著し、西洋文明に警鐘を鳴らしている。 3月からコメント無しなのか。2ちゃん、ごちゃんか、も廃れたな。 心身といってもルーツが違うから、合一という感覚的なものでもないと思うが。 二元だけなのかな?それでは構造が簡単すぎるでしょう。 そもその人間と言ったら肉体も継ぎ物で分割されるが、心は一単位の様な気がして
心身と合わせるのにはどうも抵抗があるな。 独我論とちか世界を認識でいないとかくらいネガティヴな議論が続くけど、
外部の知覚が人間に発生している以上どうしても人間は世界を認識できそうだぞ
ということになってくると思う。 外部他社の認識を人間は使っているのであってそれを、重ねて
人間は表象し合うのではないですか? 人が認識されなければ世界はないのだから、人の認識が世界なんだろ? >>217
客観的な世界は人がいてもいなくても存在するよw 1(ひと)が認識されなければ世界はないのだから、1(ひと)の認識が世界なんだろ? >>219
その人にとってはねw
主観と客観を混同してる。 >その人にとってはねw
1(ひと)の認識の前に1(ひと)を想定して、その1(ひと)が1(ひと)を認識する
と考えて、それを主観と呼ぶのは、1(ひと)が認識される前に1(ひと)が既に
認識されているとする矛盾ですよ? >>221
バカだねえ・・・
存在は本質に先立つ。
これがすべてだよ。 To recognize one is the world itself >>223
ほんとにバカだねえ・・・
英語で書けば真実になるなら、英米人のいうことはみんな正しくなるw
One recognition forms one subjectivity within the recognized range.
Even if expressed in the word "world", it is simply expressing subjectivity by the word "world". How one is recognized is how the world is. >>224
悪いが英単語を使っているだけで英語になっていない The world changes in accordance with how one is recognized. 学校の英作文でいい点数をもらって勘違いしたまま大人になってしまったのだろうか。 英語のネイティブが決して書かないような奇妙な英語を書くにしても、
やはりそれなりの技法が必要なのだ。 >>224
ゲンロン芸人が英語で作文をするとそういう英文もどきが出来上がる。
批判的な立場からであっても、英語のネイティブがクリシェやバナリティではない
英文で反論するのなら大いに歓迎するけどね。 >>226
それは申し訳ない。
じゃあ、英語で書くのはやめとくよw >>225
それは認識の問題であって、世界の問題ではない。
>>227
目の前にあるコップに動けと念じると、コップが動くとでも?
頭おかしいだろw >>230
日本の5chなんだから、英語のネイティブはめったにいないだろ?
なにを期待してるんだよ?w
あたま大丈夫か? フッサールの説明で、「カッコに入れる」て表現使うやつの解説は信じてない >>234
いい説明だと思うけどな。
エポケーなんてそんなもんだろ。 >>234
あー、なんかわかる気がする
判断保留でいいのにな。
というか、最初にそう表現した人の表現をまんま思考停止して使ってる感じは哲学放棄みたいな感じだしな >>236
判断保留というのは、哲学も一時放棄しないとダメだろ。
ただし、捨て去るのではなく、横に置いておく。
「カッコに入れる」というのは、適切な説明だと思うけどな。 例えば
・地球は丸い
という命題があったとしてエポケーはそれを
・(地球は丸い)と我々は思っている
・注意深い観察に基づけば(地球は丸い)ものとして我々に現れる
のように無条件に断定されない命題として捉えておく
みたいなことだと思っている >>238
「地球は丸い」というのは現象ではなく、知識だから、エポケーの例としてはふさわしくないかも知れない。 基礎付けできなかったのだから現象学は失敗だったのにいまだに影響力があるのはなぜですか フッサールの希望した状況が、「根源を見つけること」であるなら
たしかにそれが達成されることは、今後も無いだろう
しかしそれでも、およそ他の学問に影響を持ちえる"哲学”は現象学だけだ
概念分析やら科学哲学なんかは、科学に対して全く影響力が無い
可能性すら無い
もちろん、それら自体は学問であって、十分に面白いわけだが >>242
他の学問というのは自然科学のこと?
どんな影響を与えているの?
社会科学系なら、ヘーゲルやマルクスは多大な影響を与えていると思うけど。 自然科学だよ
科学によって圧倒的に構成されてしまう『世界』に対して
それを根底から批判できるのは、哲学ではいまのところ現象学だけだから >>245
実際に批判されているかどうかについては、私は知らない
まあ、ほとんどされていないだろ >>247
たとえば>>238がぶつぶつ言ってるけど
現象学は、「地球は丸い」ことの是非について語るわけではない
現象学は、「意識に於いて地球はどのように現象しているのか」
を「批判」するもの
現代の教養人は「電流は電子の流れ」であることを悩んだりしない
理由は2つ
一つは、とりあえずそこを踏まえないと前に進めないから
もう一つは、「理解すること」が世界を構成する源泉であるために
理解する人は、理解されたことをもはや疑う気にならないから
フッサールは、そもそも物理学を修め、それでも尚、自分の見た景色はしかし
「世界の本当ではない」ことが見えた人間なのだ
そもそも電流とは何か、電子とは何か
電流とは電流というシンボルを巡る諸々から構成された「謎のX」につける仮の名前
これがこのように意識に現れるの理由は謎であって、未だ必然ではない
その謎を必然とするために、「自明であると思われることに批判を加える手段」として
フッサールが建設したのが現象学
お尋ねの「批判できると思う根拠」はね
電子とか電波とか重力とか
そういうものが「実体としてある」ことが、そもそも主観的現象であることは
現象学によって批判的、学的に自覚することが可能だからだ
なぜそんなものを自覚する必要があるのか
そういう自覚がなければ我々は、ただバーチャルに浮かんでいるだけの存在になるから >>248
言っちゃなんだが、それだとただの心理学じゃない?
客観的な存在が主観によって左右されるとするなら、オカルトだし。
前者がメルロ=ポンティで、後者がハイデガー・・・ >>249
その「前者」とは何を指しているのかね? >>250
「ただの心理学」
いくらなんでも、そのくらいの日本語は理解して欲しいと思うが。 そもそも心理学というのは
心に起因する被験者の振る舞いまたは報告内容を、
世界の中の出来事の一つとして扱い、分類または解釈する
そのような学問だろ
現象学というのは、そのような心理学が、人間に発生するのはそもそもいかなる事態なのか
を吟味する行為
ただの心理学ではないだろ 客観的な存在>>249と君は言うが
たとえば君は電子という実体が客観的に存在すると思っているのかね >>252
心理学というのは、あらゆる対象と個人との心理的な関係を解明しようとする学問。
その対象には、物質的な存在だけではなく、自分自身の心や共同性としての心も含まれる。
心を追究する自分の心自体の揺れを含めて、対象と人間の関係を追究したのがメルロ=ポンティ。 >>253
違うというなら、ハイデガーの「存在」概念を明示してみてくれ。 >>254
電子であれ、クォークであれ、なにごとかの客観的存在であって、人間の心が生み出したものではない。 >>255
だから、それらを「世界の中の出来事の一つとして」扱っているわけだろ
それをフッサールは、自然主義的な世界定立と批判するわけだ
現象学というのは、心理学に於けるような諸々の意味が構成される場面に立ち会う
その努力というか、態度変更のことだろ >>257
何も無いところから心が電子生み出した、などとは現象学といえども言わないわけだ
こういうことだ
電子を直接に見た人間などいない、いないが
雷のような自然現象と、プラスチックをこするとほこりを吸着する現象
これら関係ない現象が、電荷という仮想実体を想定することで合理的に連結される
さらに電荷の”正体”は何か、と人間は考える
だが、実際にあるのは、観測され得る現象相互間の関数的な関係だけ、だ
そこから先は、人間がどうしようもなく作ってしまった虚構
ならばその虚構の構造を批判しましょう、とそういうことだよ >>258
>自然主義的な世界定立と批判
それ以外に世界を設定するなら、それはオカルト。
>諸々の意味が構成される場面に立ち会うその努力というか、態度変更
そんなことは優秀な学者や知識人は皆やってる。
メルロ=ポンティの場合は、さらにその前提となる自分自身の心理の揺れを客観的に捉えようとした。
いずれにしても、客観的存在の自然性を前提にしない限り、それはオカルトだ。 >>259
見えない現象でも、可視化されてきているのが現代の自然科学。
虚構に陥るのは、人間の主観と自然的な客観を混同するオカルト的な精神による。 ハイデガーの「存在」概念
人間(現存在)が、「存在者が存在者としてあることがいかなることであるか」と問うことは
存在者と存在者ならざる『存在』との間に差異を見ている(存在論的差異)
これのことか
何がオカルトなのかね >>260
君の言う「オカルト」の意味がよく分からない >>261
可視化されるのは、どうしてだと思う?
それは、「現象を細工しているから』だろ >>262-263
どう見てもオカルトだろ。
「存在」という存在しないものを設定してるだけなんだから。
オカルトというのは、人間の想像(思考)に過ぎないものを実在として見てしまうこと。 >>264
加工ではなく、いわばただの拡大と捕捉だ。 >>265
それは単に君が、自分の気に入るものだけが存在すると思っている
それだけのことだよ
ためしてみるか?
君の言うように、人間の思考に過ぎないものを実在として見てしまうことがオカルトだ、として
では「エネルギーは実在する」と言ったらオカルトなのかね >>266
電子をどうやって拡大するのかね?
回折か?イオン化作用か?光電効果か?
所詮は、現象に合うような虚構を構成してるだけなんだよ >>267
エネルギーは実在するに決まってるだろw
電子は捕捉できるしw
自然科学系にこれほど無知なのは、よほどの老人だからだろうな。
さすがにフッサールが気の毒になってきた。 >>269
君は、頭上を飛んでいる飛行機の位置エネルギーが見えるのかね >>270
飛行機は見えるよ?
あなたには、1+1 が見えるの? >>271
飛行機は私にも見える
いまは、エネルギーの話をしているのだ
君には位置エネルギーが見えるのか、と聞いているのだよ >>272
エネルギーをみえるとか見えないとか、質問が質問になっていない。
飛行機の位置や質量を、位置エネルギーと表現している。
順序が逆。
だからあなたには、1+1 が見えるのか、と指摘した。 >>273
>飛行機の位置や質量を、位置エネルギーと表現している。
ちなみに君それ、まるで分かってない
位置エネルギーはポテンシャルエネルギーだから
その意味は、作用(力)に微分距離を乗じたものを距離で積分したものだ
もちろん、「場」という潜在的作用の空間を想定した場合の話だ
mghの場合は、力が不変の場に於いて、作用がmgで、距離がhな
>あなたには、1+1 が見えるのか、
私は、「1+1」という字は見えるし、意味も分かる
「実在する1+1そのもの」は私には見えない
君には見えるのかね?
なんだかちっとも進まないな
エネルギーが見えるか見えないか
それを答えてくれればよいだけなのだが
何をびくついているのかね
つまりな
君は、いかなることをもってそれを「実在する」ことの根拠にしているのか
それを明確にしてもらえればよいわけだ >>274
それが、飛行機の位置や質量を、位置エネルギーと表現しているということだよw
要するに、実在を抽象化した時の表現のしかただ。
1+1も同じで、見えるとか見えないとかの問題ではなく、実在を抽象概念でとらえた時の表現のしかた。
自然科学というのは、実在を前提としてそれを抽象化する。
抽象のしかたが適切であれば、抽象化した概念同士の中で、論理化することができる。
抽象化が不適切であれば、論理の破綻をきたす。
言葉が実在になるのではなく、実在が言葉になるのだ。
もちろん、言葉はその言葉だけでいくらでもでたらめな表現ができるが、それは言葉の抽象のしかたがおかしいからだ。
卵を石と表現することが可能でも、言葉としての意味を成立させない。
一方で、それが言葉である以上は、でたらめであろうと、卵とか石とかいう実在を根拠にしている。
自然科学系の学問では、その言葉(記号)の定義を厳密にするから、卵が石になることはない。
卵も石も、抽象化すれば、どちらも1と表現することができる。
それが1+1が成立する根拠だ。
繰り返すが、エネルギーは見るものではなく、捕捉するものだ。
エネルギーを見る、というのは言葉の誤用に過ぎない。 >>275
>エネルギーは見るものではなく、捕捉するものだ。
おお、そうなのか、「捕捉」な
エネルギーを捕捉するとは、どういうことを言うのかね? >自然科学というのは、実在を前提としてそれを抽象化する。
>抽象のしかたが適切であれば、抽象化した概念同士の中で、論理化することができる。
>抽象化が不適切であれば、論理の破綻をきたす。
実在が前提とされた概念は、論理が破綻しなければ、それは実在するとしてもよい、と
そういうことを言いたいのかね? >言葉が実在になるのではなく、実在が言葉になるのだ。
それは君がそう信じているだけであってな
論理的な根拠など無いよ
たとえばダークマターは実在するか? >>276
エネルギーを捕捉しなければ、あなたのパソコンもスマホもただの文鎮だ。 >>277
それ、言葉の循環だよw
実在が前提とされた概念のもとは実在するに決まってるだろ? >>278
なにか実在するものをダークマターと名付けている。
まだ内容が解明されていないだけ。
重力もまだ内容は解明されていないが、あなただって椅子の上から転げ落ちることがあるだろ? >>279
なんだ、答えられないのかね
分からないなら分からないと言えば良い
>>280
アホみたいに循環させてるのは君なのだよ
もし「実在を前提ととされた概念のもとは実在する」なら
実在するかどうかは、人間の想像(思考)次第ってことになるだろ
君の言う「オカルト」だな
>>281
ダークマターが実在するかどうかは不明だよ
諸現象の辻褄を合わせるためにとりあえずでっち上げてるだけだ
19世紀まで、熱素も十分な科学的整合性をもって実在が前提とされていたが
今や影も形もない
ニュートンのプリンキピアにはエネルギーなどという概念は無い
つまり力学にとってエネルギー概念は絶対に必要不可欠というわけではない
ただしエネルギーを導入した方が理論が圧倒的にスマートになる
君は何にも知らないようだな
どうして私に絡もうなんて思ったのかね 私はハイデガーの著作を読んだことは無いのだが(『存在と時間』は持ってるけどね)、
>>262の存在論的差異は、ちょっと見ただけで「当然のことだな」と思ったよ
時計は時間を計るものだが、時間ではない
しかし時間を想定することはオカルトではない
体重計は重さを計るものだが、重さではない
存在者は「存在している」のだが、存在ではない
では存在者としてあることはどういうことか
そして存在するとはいかなることなのか
そう考えるのは自然なことだよな >>282
答えているのが理解できないの?
人間がいなければなにも存在しないといってるのは、あなただよ?
なにかが実在してるから、抽象の結果に影響が出る。
自然科学に疎すぎないか? >>283
ハイデガーの「存在」概念は、モーセが聞いた「わたしはあるというものだ」という言葉からきている。
その言葉を突き詰めようとした。
神学的な議論抜きに考えるのは無意味。
ハイデガーが取り上げようと考えた「時間」も同じ。 ハイデガーの存在論で第一義的に問題になるのは
人間の存在であって神の存在ではないだろう >>286
違うよ。
でもここはフッサールスレだから、これ以上はハイデガースレへ。 >>284
>人間がいなければなにも存在しないといってるのは、あなただよ?
私がそれを言った箇所を引用してくれ給え
『実在が前提とされた概念のもとは実在するに決まってるだろ?』
と言ったのは君だよ>>284
>なにかが実在してるから、抽象の結果に影響が出る。
根拠が無い
君は抽象とか捕捉とか、ぼんやりしたことしか言えないようだな
>自然科学に疎すぎないか?
私はエネルギー管理士の免状持ってるけど
君は? >>285
>ハイデガーの「存在」概念は、モーセが聞いた「わたしはあるというものだ」という言葉からきている。
根拠は? >>288
あなたは、実在を前提としない概念が成立するといってるのだから、人間がいなければなにも存在しないといってるのと同じこと。
実在がなければ、思考だけを勝手にいじってるだけ。
卵を石と名付けるような、まったくの無意味。
エネルギー管理士?
省エネ促進のための?
科学と関係があるのか? >>289
「存在と時間」や「現象学の根本問題」を読めばわかる、としかいいようがないな。
わからなければそれまでだ。
もちろん、聖書は必須だが。 >>290
>実在を前提としない概念が成立するといってるのだから、人間がいなければなにも存在しないといってるのと同じこと。
君は頭も悪いね
「実在を前提としない概念が成立する」ことと
「人間がいなければ何も存在しないこと」は
同じではない(むしろ全く関係が無い)
「Aを前提とせずにBが成り立つ」というのは
Bの成立のためにはAは無関係である、ということ
つまり、概念成立の条件としてそれが実在するかどうかは無関係である
そういうことだ
自然科学は「思考を勝手にいじるだけ」にはならない
現象、つまり観察事実との照合によってテストされるわけだが
この観察事実は理論を前提とする(理論負荷性)
不可分のパッケージとなるわけだ
君は私に対して「自然科学に疎い」と言えるだけの学力あるの? >>291
いきなり「ハイデガーはオカルトだ」と言い出したのは君であってな
君は、私を説得できないのだから、その程度の理解だということだよ
>>283にまともに反論できないだろ? >>292
>現象、つまり観察事実との照合によってテストされる
これ、僕が言ってる実在をもとにした抽象ということだよ?
意見に差異がないなら、それはそれでいいんだが?
>存在者は「存在している」のだが、存在ではない
>では存在者としてあることはどういうことか
これが無意味な問いだといってるんだよ?
存在者というのは、実在という言葉の言いかえに過ぎないから、存在という言葉を使ったからといって、「存在」一般が生じるわけではない。
それは、ただの言葉。
「わたしはあるというものだ」からきた発想であることは明白だよ。 >>294
それ抽象とは言わないでしょ
普通はね
君の言語感覚は雑ではなかろうかね
>存在者というのは、実在という言葉の言いかえに過ぎない
おお、そうなのか
ところで存在者は存在するわけだよな?(それとも存在しない?)
で、存在者は実在の言いかえに過ぎない、と
そうすると君は、「実在は存在する」と言ってることになるね
しかし「存在」は存在しないと、それを言ったらオカルトだよと
んー
まことにポンコツな話だよね
あなたは多分ね、中学・高校で国語の成績が悪かったのではないかな
でも自分の回答が間違っていたとは信じていない
違ってたらごめんなさいね
ちなみに「存在者」の意味は「存在するもの」だよ、当たり前でしょ
でもそこにおいて、実在との関係は度外視されている
(そもそも、ある概念がどうであればそれが実在するか、は人間には分からない)
ちなみにこの段階では、存在とは何か、についても棚上げだけどね
存在と存在者の区別、これはハイデガーよりはるか以前、アリストテレスからの
伝統らしいわ >>295
1+1 というのは、数えられるものを数として抽象した結果だよ?
他に適切な言葉があるのかな?
「存在者」は存在する。
「存在」は存在しない。
繰り返すが、言葉があるからといってそれが実在(存在)するわけではない。
サルトルは明確に言っているね。 >>296
存在者は実在する
存在者は実在の言いかえに過ぎない
とすると
「実在」は存在するの? ちなみに
>>262の「存在論的差異」だけど
「存在」が存在する、とは全く言ってないよね
これは藁人形論法ですよ
あなたは哲学に向いてないのじゃない? >>297
実在が存在するというのは同義反復。
「存在」一般は存在しない。
つまり、実在=存在。
もちろん実在というのはものに限らず、精神の動き、様々な関係等を含む。 >>298
ハイデガーの「存在と時間」は、まさに「存在」一般を究明する試み。 >1+1 というのは、数えられるものを数として抽象した結果だよ?
1+1が好きなんですね
あなたにとってそれは「存在者」なんですか? >>301
「存在者」を抽象して数字にした、と何回も書いてる。 >>300
>ハイデガーの「存在と時間」は、まさに「存在」一般を究明する試み。
それで良いではないですか
結局ね
存在が当たり前と思っているか、そうは思っていないのか
という問題意識、哲学的態度の差ですよ >>302
あなたにとって「抽象された数」は実在するものなのですか? >>303
実在しないものを存在させようとするから、オカルトだといっている。 >>299
>実在が存在するというのは同義反復。
だとしたら「存在者」は「実在」の言いかえではないよね
「存在者」は存在する、も同義反復?
>「存在」一般は存在しない。
「存在者」のようには存在しない、というだけですよ
>つまり、実在=存在。
それだと結局、「存在者=存在」という
素朴で非哲学的なオチですよ >>304
それも何回も書いた。
実在が根底にある抽象された概念。 >>305
>実在しないものを存在させようとするから、オカルトだといっている。
ある概念が実在するかどうかを、あなたはどうやって判断するのですか >>306
「存在者」は存在するも同義反復。
実在=存在者=存在。
ただし、ハイデガーの「存在者」は、精神や関係などを含まない小さな概念。
素朴であろうと複雑であろうと、オカルトは哲学にならない。 >>308
また繰り返しw
概念とは、実在を根底に置き、実在を抽象したもの。 >>310
抽象が実在するのではなく、実在は抽象することができる。 >>309
>実在=存在者=存在。
それならそれでもいいけど
「実在が根底にある抽象された概念」を考えることは
どうしてオカルトにならないのですかね
「存在」一般は存在者の根底にある抽象された概念
これならオカルトになりませんよね 実在を根底に置いて抽象化することがオカルトではない、というなら
「存在」一般を考えることに何の問題もありませんね >>313-314
「存在」一般を「存在者の根底にある抽象された概念」にしようとして失敗したのがハイデガーだよ。
抽象化することで概念を広げようとすると、存在=世界、みたいに無意味になっていく。
普通は概念を縮小していくときに抽象化する。 >>315
自分で納得できてるんなら、別にいいけどね。 >>316
そうすると
失敗したからオカルトだと
あなたはそう判定するわけですか >>316
>抽象化することで概念を広げようとすると、存在=世界、みたいに無意味になっていく。
存在者と存在を区別しようとしたのだから
それは違うと思いますよ
存在者が存在することが当たり前なのか
存在者は何もせずに無策無為のまま存在なのか
そうではない、と思ったのでしょう
私もそう思いますし 「存在者」つまり「存在するもの」の概念が無機的唯物論に汚染されているのですよ
だから「存在すること」が何らの動きも無い、「ただ在るだけ」となってしまった
しかしそうではないのだ、と
20世紀初頭、その時代Iの空気の中で、哲学においても科学においても、
世界観が激変し、覚醒した人間がいたってことですよ
哲学において壮大に失敗したら
むしろ成功なんじゃないですか そもそも、存在するとは何ごとなのか
少なくともそれは、消滅にさせようとする暴力に対して、抵抗しなければならない
その能力を持つものだけが、その間だけ、存在することを許される
その力が無くなればただちに世界から消えるだけ
人間も、動物も、植物も、太陽から素粒子まで
存在するためには、何らかの形で活動的に自己を保持しなければならない
一切の「存在者」がその概念を獲得したとき
存在一般の概念も静かに消えていくでしょう
もちろん、比喩ですよ
でなきゃオカルトですからね >>318
違うよ。
元々ハイデガーの「存在」概念は抽象化を目指したものではない。
神の存在証明のために設定した概念だよ。 >>319
>存在者と存在を区別
それを無意味だといっている。
>存在者と存在を区別しないと存在者は何もせずに無策無為のまま存在
意味不明だよ。
言葉を連ねれば意味が成立するわけではない。 >>321
>「存在者」つまり「存在するもの」の概念が無機的唯物論に汚染されている
それがオカルトだといってるんだが。
>世界観が激変し、覚醒した人間がいた
ハイデガーが寄与した部分が少しでもあるとすれば、それはナチスだよ。 >>321
>その能力を持つものだけが、その間だけ、存在することを許される
>その力が無くなればただちに世界から消えるだけ
完璧に宗教だな。
誰が許したり消したりするの?
なんの比喩にもなっていない、オカルトそのものだと思うよ。
ところで、この一連の議論は、フッサールとどう関係すると思うの? >>322
>神の存在証明のために設定した概念だよ。
あなたの独断ですよね
>それを無意味だといっている。
あなたにとって無意味なだけで
論理的に無意味というわけではないのですよ
ゆえに、今でも考察されたりするわけでしょう
(まあ、ハイデガー知らんけどね)
>意味不明だよ。
>言葉を連ねれば意味が成立するわけではない。
あなたの引用が捏造だからですよ
まあそれがあなたの精一杯 >>324>>326
ああ、それは私個人の考え
君には理解できない話
>ところで、この一連の議論は、フッサールとどう関係すると思うの?
ハイデガーがどうとか言い出したのは君であって私ではない>>249
もう満足したのか? フッサールの話にするか?
こんなのはどうだ
〜超越論的主観性はオカルトか〜
存在一般がオカルトなら、これはどうなんだろうなー >>327
平行線だから、これ以上の議論は無駄だね。
でも、僕の引用が捏造というのはどれのこと? >>330
>存在者と存在を区別しないと存在者は何もせずに無策無為のまま存在 >>328
僕がハイデガーを持ち出したのは、あくまでもフッサールの両端の一方の弟子として。
あなたが他の人の尻馬に乗ってハイデガーの話を聞きたがってたんじゃない?
ま、どうでもいいけど。 平行線ではなくて
入口が分からない人が絡んでるだけですよ >>331
言葉はあなたの書いたとおりだけど、組み合わせがおかしかった? ハイデガーはどうでもいいけど
存在論的差異は、あたりまえの問題意識だと思ったからね >>333
それを平行線というんだと思うよ?
僕には、あなたがまったく哲学の知識がないように見えるし、あなたは僕がそう見えるんだろう。 >>334
組み合わせは君の任意なのかね
勝手に意味不明に組み合わせた上に、「意味不明。」て
君は幸せものだな >>335
存在論、などというもの自体がオカルトだといってるんだけどね。
オカルトが気に入らなければ、無意味な議論、と言い替えてもいい。 >>336
>僕には、あなたがまったく哲学の知識がないように見えるし
まあ君は、「自然科学系にこれほど無知なのは、よほどの老人だからだろうな。」>>269
とか言っちゃうおマヌケさんだから、そう見えて当然だろ >>338
君は無意味な議論が大好きなんだよ
自覚したまえ
では超越論的主観性の話にしようか
これ、オカルトかね? >>329
ここは、フッサールスレだからねw
超越論的主観性はオカルトだよ? >>342
超越論的主観性はオカルトか
んー
では「意識」はオカルトですか >>340
老人という見立ては外れてた?
どっちにしても、あなたは自然科学系に弱いじゃないw >>344
多分、君よりは強いだろ
エネルギー管理士試験、なめんなよ
君では10年勉強しても受からんよ >>346
エネルギー管理士・・・
実生活上でバカにする気はないけど、学問ではないよ。 >>345
>意識そのものは、実在だよw
なるほど
ところで、『人間が存在者を認識するのは意識に於いてそれがなされる』
これはOKかね >>347
一度、問題を見てください
理系では、問題も解けずに御託並べてる奴はただの負け犬なんですよ >>348
意識をある固定した状態として捉えるなら、意識の活動を認識という。
その認識によって、また意識が形成される。 >>349
バカにはしてないよ。
でも学問じゃない。 >>350
>意識をある固定した状態として捉えるなら、意識の活動を認識という。
>その認識によって、また意識が形成される。
それを踏まえてで良いので、>>348に答えてくださいよ 実際バカにされてるとは思っていないわけなんだよね
勝者の余裕です >>352
>『人間が存在者を認識するのは意識に於いてそれがなされる』
不適切な表現だから、適切な表現に変えたんだけど? >>354
そうですか
超越論的主観性というのは、>>350のようなことですが
しかしオカルトなんですよね >>356
超越論的主観性をもう一度調べてみてね。
全然違うから。 >>357
いやいや違わない
超越論的主観性というのは、意識の活動形態のことだから
君がそれを理解できないからオカルトだと思ってるだけ >>358
超越論的主観性というのは、意識の外に、無限としてのなにものかを設定したうえでの、意識の限界の設定だ。
意識の中で意識の無限を設定し、意識の限界を設定する。
「無機的唯物論」のほうが正しいに決まってるw >>359
ぜんぜんちがいます
「超越論的」の意味は、「意識が外界を認識している」ことを認識している
つまり意識に対して外界は超越しているはずだが、しかし意識はそのことを
自覚することができる、その自覚の主体が超越論的主観性
無限とか、一切関係ありまっせーん >>360
カントを読んだことがないのはわかる。
あなたの書いているのは、ただの主体のありかただ。
それも、言葉の言い替えに過ぎない。
超越論的主観性については、カントを読んでからにしてね。 結局この人はね、自分で勝手につくりあげたモンスター>>359にオカルトのレッテル貼ってるだけなんだよ >>362
あなたがもう少し哲学の本を読んでから、議論しようね。 カントはたまに読むね
しかしカントとフッサールでは「超越論的」の意味が違うよね
カントの場合、超越論的の意味は>>360だよ
純粋理性批判を調べたら彼はこう書いている
対象に関する認識ではなく、対象を認識する『その仕方』についての認識
それを超越論的と呼ぶことにする
つまり、我々は対象を認識していますよ、そしてそのことをまた認識してますよ
だから、これからそれについて考えてみます、と
そういうことだよ >>363
あなたの理解力では読んでも無駄だと思いますよ
そもそも貴方、人間が世界を理解することを何も不思議に思ってないから
だがそれは、間違っているわけではない
哲学という営みが異常なだけだと思う
だから、オカルトだ、という貴方の主張は正解 >>364
カントについてはもう少し読んでみてね。
調べるんじゃなくて、読んだ方がいいと思う。
フッサールの超越は、デカルト。
客観的な存在を主観で受けたものでしか把握しようとしないから、客観と主観との無意味な「無限」となる。 >>365
>人間が世界を理解することを何も不思議に思ってない
「世界」という言葉の曖昧さを別にすれば、そのとおり、なにも不思議なことはない。
人間の主観、個人の資質と環境で「世界」なるものを設定し、空虚な問いを投げかけるのが哲学。
哲学がオカルトに過ぎないという見かたを共有できたのなら、よかった。 貴方は、哲学にも自然科学にも向いてないのだから諦めてください >>368
違うと言いたいのはわかるが、書くのが面倒だから省略しただけw >>369
ひとつ5chの面白い現象を教えてあげる。
といっても、それほど詳しいわけじゃないんだがw
相手の悪口を書きだしたときは、自分の思考を諦めかけているとき。
自分自身でも、そう思う。 多分この人はアンチノミーあたりの記述を勝手に自己解釈して
素朴なファンタジーにしないと理解できないわけです
一事が万事、この調子なんだと思いますよ いやいや
わたしはね、>>249の段階で
「ああ、この人、絡みたいだけのタコだ・・・」と思いましたので >>372
哲学はオカルト、という見かたを共有できたと思ったら、ファンタジー?
もっとも僕は、哲学は素朴であることが一番正しいと思うけど。 超越論を超越に省略するようなセンスだと
そもそも、哲学に向いてないでしょ >>373
ああ、あなたは >>249 も理解できなかったのか・・・
それならたしかに、あなたと哲学についての議論は無理だ。
そもそも、なんでタコを相手に絡んできたの? せっかく穏便にメンツを立ててあげたのに
仕様のない人ですねぇ
>>374
だから貴方は素朴な場所にいたら良いわけですよ >>375
レスのやり取りからわからない?
「超越論的主観性」という、あなたが出してきた概念について説明してるんだよ? >>377
もちろん、僕はいつでも素朴な場所にいる。
言葉の迷宮に迷い込んでオカルトになっても無意味だからね。 >>379
僕は、迷妄性が嫌い。
哲学はその迷妄を助長するものが多い。
それだけだね。
ところであなたはエネ管ということだけど、仕事はしてないの? とりあえず、フッサールの超越論的主観性について説明しておきましょう
意識に於いて認識される対象があるとき、普通はその対象が
「素朴に(自然的に時空間に存在している)○○である」
の認識を伴うわけです。フッサールはこれを「自然的世界の一般定立」と呼ぶのですが
この働きは無反省に行われているので、そこに哲学的な批判を加える必要がある、と
彼は思ったのです
そこで、意識に立ち現れているその内容はそのままに保持し(これを「括弧に入れる」
と表現している)、外部世界がそのように存在すると断定する働きだけを停止する
このような手続きを経て得られた主観を、超越論的主観、と呼ぶわけです
だがこれは、非常に危ういです >>381
今日まで3連休
明日からはほぼ休みなし
よかったですねw 哲学が迷妄を助長するのは、どの哲学者も本意ではないはずなんだよ
ただ、受け取る相手がボンクラだからオカルトに変様してしまうのですよ >>382
それ、エポケーにとどまってる。
フッサールの超越論的主観というのは、そこから先、いわば超自然的に主観が客観にすり替わる。
だから無限。
あなたが非常に危ういということに気が付いたのなら、そこから先へ思考を進めてみたらいいと思う。 >>383
あなたが勤労者でも自営でも無職でもどうでもいいんだけど、これから休みなしで働くなら、僕もあなたに飽きてきたところだからちょうどよかった。
時間があったら、本を読んでね。
>>384
素朴なボンクラでごめんね。
でも、哲学は、その素朴なボンクラに弱点を指摘される言葉の迷宮がほとんどなんだよ。 「無限」に固執しても無駄
なぜなら、貴方の理解では、超越論的主観性は主観と客観の
無意味な無限によってオカルトなんでしょう>>366
哲学はね、肯定的であれ、否定的であれ
やはり哲学者に対しての信頼が無ければ駄目ですよ
オカルトだと思ったら、それまで
ご縁があればまた >>387
何回か書いたけど、僕には「哲学者に対しての信頼」など皆無だよ・・・
哲学者が様々な疑いを持つように、僕は哲学者自体に疑いを持ってる。 久しぶりにフッサールスレ見たよ。
「デカルト的省察」を買って、今度読むつもりだよ。
東洋思想や実存主義をちょっと読んでた。
すっかり頭の悪いおじさんになってしまった。 「デカルト的省察」 フッサール
めちゃくちゃ難しくてさっぱりわけがわからなかった。
判断停止(エポケー)について書かれた哲学書。
ぼくの解釈を書くならば、「物自体は認識できないが、
意識が超越的存在(物自体)に影響を受けていることは、
意識に志向性が発生していることから知るしかない」である フッサールと同時代、いや、それより早いの1911年の西田幾多郎。
「善の研究」西田幾多郎
西田の存在論は朱子学の「理」だ。
西田は、自由意志を否定した。心の中に意志を決定する要素がすべて思い浮かぶことはなく、
不十分な意志の発現の総合として、心に意志は発現する。
善悪を完全に規定した倫理学は存在しない。 智勇仁義は、いちど善とされても、後で悪とされることもある。
また、誰かは善といっても、別の誰かは悪という。
平等が正義でもない。逆に、個人のこだわりを認めることの方が、平等より善であることが多い。
意思は、快不快の単純な多い少ないによっては決まらない。
人の意思は、快不快の単純な算数で決まるほど単純ではない。 問題の所在は
独我論から抜け出そうとしても抜け出せないが
どう考えても抜け出せているようにしか思えない
ということだろ
それをオカルト概念としての間主観性で救済したが
救済できているのか? 間主観性なんて概念もまた
全くもって強引に設えられた
底なし沼の踏み板だからな 志向性がいまいちつかめない
誰か感覚的な例をたくさんあげてー 志向性というのは、ざっくりいえば
辞書を作る能力のことだよ >>393
あのぉ、そんな当たり前のことを発言しても哲学になるの? フッサールの著作を主に読むのではなく、
八重樫徹『フッサールにおける価値と実践』と
エルンスト・W・オルト『フッサール<危機>書の研究』を読みながら
フッサールの著作に当たろうかなと思ったり。 ,.r''-'''""'''ー-、_
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Y;;';.r‐'''‐'‐'':;';;:ミ ..:ミ:'::::'::::l 、
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ミ'; ::';;:;:;:.,、:、;.、 r'- '´ ,:'::::::::`
ヾ'"!r;,'l;;rヾヾ''" /::::::::::::::
/ ヾ'/ _,.-/´::::::::::::::::::::
'--,-r'l__,r '´ /;:::::::::::::::::::::::::: 危機書を先に読むと、『厳密な学としての哲学』はそのダイジェスト版なのかな
と思えて来る。 92 :世界@名無史さん :2020/09/06(日) 13:17:48.43 0
>>75
日本が家父長制??
自分の稼いだ金を全部奥さんにやってその一部だけをお小遣いとして貰う身のどこが家父長だ
ヨーロッパだとお小遣いは夫が妻にくれてやるものだけどな >>404
なんだか知らないけど、結婚したら夫の姓を名乗るのが普通、という国は家父長制だよ。
普通に夫がなる世帯主制度もいまだにある。 アドルノにボロカスに批判されたせいで
手をつけにくい人になってしまった可能性がある。 しかもそのアドルノの論文の翻訳本が革マル派のこぶし書房から出ているのが
余計にややこしさを増幅させている。
野家啓一が1996年に出した「フッサールーー身体と知のアルケオロジー」
がフッサールの論評としてはまとまっていると思う。 >>392
判断停止てのは文字通り受け取れば良いのですよ。
我々が日常的に判断している価値や善悪。〈働かな
い人は悪い人〉〈身なりの綺麗な人は良い人〉
〈おカネない人はダメな人〉〈学業できる人は
頭の良い人・・・という判断について、ひとまず
停止し、どこからその判断は起因するか、総合的
かつ分析的に解明する。その作業によって最初の
判断は相対化される。
なので哲学だけでない、社会や国家や経済やに
ついて考える作業についても必要な手続きです。
『資本論』は日常的な経済活動・金銭活動
についての判断停止から生まれたものでしょう! >>409
分析と判断停止を混同してはいけないよ。 射撃の名手だ。精神的でもあるだろう。アドルノなんて怖くないが。 思考停止って…、電気痙攣でちょっとビックリしただけじゃん デリダのフッサール研究はどの程度重視すればいいのかなあ?
例えばデリダは幾何学の起源の序文とかを書いているぐらいだから、
デリダへの言及がない研究書はモグリだみたいな風に考えていいのか。 >>414
ニッチだなあ・・・
まあ、哲学でニッチじゃないものを探すのは大変だけど。 二次文献を無視して一次文献(大物)同士のやり合いだけを研究したいw >>416
ギリシアの昔に遡っても、その意味の一次文献というのは存在しないんじゃないかな?
哲学は常に、誰かに対する批判だから。 自分の研究対象の学位論文が、その研究対象を
研究対象たらしめているに違いないと見て研究するのは理解できる。 >>417
エンゲルスという人は、20か国語以上に精通していたそうだ。
確かにすごいが。 >>418
確かに。思想史から哲学に入ったもんでつい。 >>410
客観性を基礎づける前提に判断停止は必要。
客観的分析を保証するために私の自然的判断は停止する。
超越的存在がいかにして成り立つのかがそこで
改めて構造化される。
それがなければ経済学批判はない。 >>422
判断の停止も進行も本人の主観だな。
客観的な基準はどこにもない。
フッサール最大の汚点。 谷徹が勁草書房から出した現象学の本は評判がいいな。 情況出版が数年前にフッサール特集をしていたわけだけれども、
左翼からしたらフッサールも仲間内に入れるのかな。 >>426
左右の分類をすれば、フッサールは左ではないな。 >>427
『危機』書はしょっぱなの方は何と無く左っぽい感じがしたんだが、
そのあとの方は確かに左ではないな。 ざっくり言えばカントの後継者たらんとした人なんだろうか? カント?知らんがな。って感じで始めたけど結論はカントとあんま変わらんかもね。 カントの結論:道徳律最高!
フッサールの結論:ヨーロッパは自然科学が席巻して滅びる! 竹田青嗣や西研のフッサールの利用の仕方は、
フッサールをハーバーマス的に読むという感じでいいのかな。
間主観性を対話的理性で考えるという感じの。 『デカルト的省察』って、 岩波と中公クラシックと共に新しめのが出てるけど
どっちのが読みやすいかな? 最近amazonのこれが現象学だのページに挑戦的なレビューついてたな
そして現代現象学(新曜社)を読めということらしい
しかし国内だとフッサールが言いたいことはそうではない、みたいな入門レベルの議論ばっかりになるな
それだけ標準的な現象学というのが確立されてないのだろう
とはいえハイデガーやフランス現象学まで行くとフッサールのことは軽視されてしまうわけだが フッサールって本当に志向対象が存在する現物って前提で話しているんですか?
著名な哲学者の解説本でそういう解説がなされているものってありますか? 『フッサール 志向性の哲学』を読んでの疑問なんだけどさ。
これ革新的だというのは認めるんだが、根拠が薄すぎ。「実はこれは誤解なのだが、〜」を繰り返すだけ。
ブレンターノはわざわざ「志向的”内在”」って表現してたのに弟子のフッサールが初期から一貫して
外在物を志向対象にしていたというのはいくらなんでも無理がある。 誰もいないのか。
ブレンターノがもの主義に変わった以降は志向対象は実際に存在する現物と考えるべきならわかる。
でも論理学研究の段階からフッサールがもの主義だったというのはいろいろとおかしい。
まず、ブレンターノの見解と真っ向から反する。ブレンターノはブレンターノで影響力でかかったんだから、
仮に反目していたとしても、ブレンターノの見解はこうです、でも自分はそう考えなくてこう違うんですって
エクスキューズしてないとおかしい。
あとは、仮にフッサールがもともともの主義だったとしたら、ブレンターノがもの主義に転向した際に
「やっとわかってくれた」的な感想を述べてないとおかしい。生きてるときは無理だとしても追悼文
「フランツ・ブレンターノの思い出」でそういう感じのことを述べてないといけないはずなんだけど、
そんなことは言ってなかったはず。
この2疑問が自分の中で大きいのだが同じ人はおらんか。 志向性とフレーゲの指示の概念を同一視するのも読んだときはすげぇとおもったけど、
よく考えるとおかしい。志向性って何か思い浮かべるという行為をするときに目的語となるものがないといけない
というような概念であって、意味概念とは違うだろ。 自分は全然専門家でもないが、ダメットはブラウワーの直観主義を現象学の身代わりのように考えている節があるようにも読めるから、
それでダメットのフレーゲ解釈とか持ち出しているんだと思う、というか「分析哲学の起源」にすごい影響されている本だと思う。 >>441
もの主義ってのは誰の用語?唯物論のこと?
哲学板って俺用語なのに皆があたりまえに知ってるものとして語るやつ多いんかな ブレンターノは前期、中期、後期と分けられるが、もの主義(reism)というのは後期ブレンターノの主義主張。
1874年の『経験的立場からの心理学』において志向性の概念を取り入れたが、当初は志向的内在と表現したように、
志向対象は内なる意識上の存在、つまり意識上の何らかのデータでもありうると考えた。
ところが、1910年ごろになるとその考えを捨て去って、心的現象つまり表象、愛憎、判断の志向対象は実在物以外は認めないと転向した。
それがもの主義(reism)。ちなみに、もの主義というのはブレンターノが命名したわけではなく、タデウシュ・コタルビンスキーという人が
後世に命名したものらしい。
フッサールがブレンターノの講義を聞いていたのは大体1880年あたり、そのころはまだブレンターノは非もの主義で、
当初のフッサール現象学も志向性についてはブレンターノを引きづっていないとおかしい。
だけれども、『フッサール 志向性の哲学』によれば1900年の『論理学研究』時点からすでにフッサールは志向性に関しては
もの主義だったとあって、それはいくらなんでも無理があるのではないかと思って。
仮に本当にそうであったとすると、傍証をもっと集めないと説得力に欠ける。当事者の証言聞いていた研究者もいるわけなんだから
そういう人の証言とかも載せないと、フッサールの言葉だけで、最初からフッサールがもの主義だったと解釈するのは自分は納得できない。 フッサールはもの主義だったというのが、『フッサール 志向性の哲学』の前半の主題なんだから、
もの主義の提唱者のコタルビンスキ(有名かどうか全然知らない)に言及がないというのもおかしいとも思う。
思想的に違うのかな。 「フッサール現象学」ってのは本当にあるのか?
ハイデガーはもちろんフランス現象学やほかのフッサールの弟子たちも
フッサールの現象学を後世に伝えようとはしてない
逃亡中に書いたものは大量にあるようだがいくら研究しても「フッサール現象学」にはならないように思える
「フッサール現象学」とは入り口ではあるが出口は別のものになるもの、なのかもしれん
ブレンターノスレ立てたやつが分析哲学に興味あるやつでこのスレにも居ると思うけど
現象学には別にたいして興味無いんだろうな だれだれの現象学というのは意味がないと思うぞ。
人間だれしも成立する普遍的な心的な現象に関する自然法則(あえて言う)というものが現象学であるべきで、
だれか有名な哲学者や後継者がそういったから現象学というものの特徴付けがされるというのはなんか商業作品みたいな色付けしてないか?
意識を持つAIをいつか作れたらそのAIも現象学を語れるはずで、それがだれだれの現象学と同一ということは考えずらい。
全ての現象学に関する言明の共通項が普遍的な自然法則としての現象学であるはずだと思うのだが。 意識をもつすごいAIが今後出てきたとして、「人間とは」とか「死とは」とか哲学的テーゼを与えても満足にこたえられない
可能性は高い。AIの中にそんな概念無いから。
でもあなたはどういうプロセスで考えているのですか、判断しているのですか、という問いに対しては現実に行うことになるはず
なので、その意識プロセスを開陳してもらえれば、それは現象学足りえるものになるはず。 ラファ鉄とかいう人も竹田現象学はフッサール現象学ではないと言ってたけど
自分だってフッサールからどんどん離れていってるだろ
出口で別物になってしまうものなのではないか ラファ鉄なんて人は知らないけれど、現象学の建て付け上マイ現象学が出てくるのは当然。
フッサールの思考プロセスに全部寄り掛かる気はしない。そんなもの双子でも無いんじゃない?
でも件の本は、これがフッサール現象学の正しい解釈だ!で売ってんじゃん。しかも最終章とかならmy現象学出してもわかるけど、
言ってんのは第1章だぜ。2章に至っては言語哲学やってるし、出口で別物というかダメット引き合いに出してて分析哲学出してくるから
もしかしたら、と思ったけどp.114で「分析哲学の起源」出してるし、これは分析哲学と合流を目指しているんだろうなというところが丸見え。
p.271ではマルティン=レーフに触れてるし、「直観」主義型理論に合流したいんだろうな、だから志向性を
ダメットを引き合いに出してフレーゲの指示の理論との一致を試みているんだろうなと。 実存は本質に先立つ
だと他我はどうなる?自我は他我に飲み込まれるのでは?
やっぱり間主観性は難解 サルトル風に言うと、他者を即自として扱う、
と色々問題が起きやすいと思うが
対自同士のやり取りというのはどういうことなのか?
他我は自我の一部であると言えるが、
自我と思ってるものが実は他我によりのっとられてるのではないか? フッサールは実存とか投企とかまで意味を読み込まないから
実存は本質に先立つ(アンガージュマン)とか
陽明学でいう知行合一のような強烈な動機には至らないようだね
その中間にメルロ=ポンティがいるのかな