フッサールについて語ってくれ [無断転載禁止]©2ch.net
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カントの結論:道徳律最高!
フッサールの結論:ヨーロッパは自然科学が席巻して滅びる! 竹田青嗣や西研のフッサールの利用の仕方は、
フッサールをハーバーマス的に読むという感じでいいのかな。
間主観性を対話的理性で考えるという感じの。 『デカルト的省察』って、 岩波と中公クラシックと共に新しめのが出てるけど
どっちのが読みやすいかな? 最近amazonのこれが現象学だのページに挑戦的なレビューついてたな
そして現代現象学(新曜社)を読めということらしい
しかし国内だとフッサールが言いたいことはそうではない、みたいな入門レベルの議論ばっかりになるな
それだけ標準的な現象学というのが確立されてないのだろう
とはいえハイデガーやフランス現象学まで行くとフッサールのことは軽視されてしまうわけだが フッサールって本当に志向対象が存在する現物って前提で話しているんですか?
著名な哲学者の解説本でそういう解説がなされているものってありますか? 『フッサール 志向性の哲学』を読んでの疑問なんだけどさ。
これ革新的だというのは認めるんだが、根拠が薄すぎ。「実はこれは誤解なのだが、〜」を繰り返すだけ。
ブレンターノはわざわざ「志向的”内在”」って表現してたのに弟子のフッサールが初期から一貫して
外在物を志向対象にしていたというのはいくらなんでも無理がある。 誰もいないのか。
ブレンターノがもの主義に変わった以降は志向対象は実際に存在する現物と考えるべきならわかる。
でも論理学研究の段階からフッサールがもの主義だったというのはいろいろとおかしい。
まず、ブレンターノの見解と真っ向から反する。ブレンターノはブレンターノで影響力でかかったんだから、
仮に反目していたとしても、ブレンターノの見解はこうです、でも自分はそう考えなくてこう違うんですって
エクスキューズしてないとおかしい。
あとは、仮にフッサールがもともともの主義だったとしたら、ブレンターノがもの主義に転向した際に
「やっとわかってくれた」的な感想を述べてないとおかしい。生きてるときは無理だとしても追悼文
「フランツ・ブレンターノの思い出」でそういう感じのことを述べてないといけないはずなんだけど、
そんなことは言ってなかったはず。
この2疑問が自分の中で大きいのだが同じ人はおらんか。 志向性とフレーゲの指示の概念を同一視するのも読んだときはすげぇとおもったけど、
よく考えるとおかしい。志向性って何か思い浮かべるという行為をするときに目的語となるものがないといけない
というような概念であって、意味概念とは違うだろ。 自分は全然専門家でもないが、ダメットはブラウワーの直観主義を現象学の身代わりのように考えている節があるようにも読めるから、
それでダメットのフレーゲ解釈とか持ち出しているんだと思う、というか「分析哲学の起源」にすごい影響されている本だと思う。 >>441
もの主義ってのは誰の用語?唯物論のこと?
哲学板って俺用語なのに皆があたりまえに知ってるものとして語るやつ多いんかな ブレンターノは前期、中期、後期と分けられるが、もの主義(reism)というのは後期ブレンターノの主義主張。
1874年の『経験的立場からの心理学』において志向性の概念を取り入れたが、当初は志向的内在と表現したように、
志向対象は内なる意識上の存在、つまり意識上の何らかのデータでもありうると考えた。
ところが、1910年ごろになるとその考えを捨て去って、心的現象つまり表象、愛憎、判断の志向対象は実在物以外は認めないと転向した。
それがもの主義(reism)。ちなみに、もの主義というのはブレンターノが命名したわけではなく、タデウシュ・コタルビンスキーという人が
後世に命名したものらしい。
フッサールがブレンターノの講義を聞いていたのは大体1880年あたり、そのころはまだブレンターノは非もの主義で、
当初のフッサール現象学も志向性についてはブレンターノを引きづっていないとおかしい。
だけれども、『フッサール 志向性の哲学』によれば1900年の『論理学研究』時点からすでにフッサールは志向性に関しては
もの主義だったとあって、それはいくらなんでも無理があるのではないかと思って。
仮に本当にそうであったとすると、傍証をもっと集めないと説得力に欠ける。当事者の証言聞いていた研究者もいるわけなんだから
そういう人の証言とかも載せないと、フッサールの言葉だけで、最初からフッサールがもの主義だったと解釈するのは自分は納得できない。 フッサールはもの主義だったというのが、『フッサール 志向性の哲学』の前半の主題なんだから、
もの主義の提唱者のコタルビンスキ(有名かどうか全然知らない)に言及がないというのもおかしいとも思う。
思想的に違うのかな。 「フッサール現象学」ってのは本当にあるのか?
ハイデガーはもちろんフランス現象学やほかのフッサールの弟子たちも
フッサールの現象学を後世に伝えようとはしてない
逃亡中に書いたものは大量にあるようだがいくら研究しても「フッサール現象学」にはならないように思える
「フッサール現象学」とは入り口ではあるが出口は別のものになるもの、なのかもしれん
ブレンターノスレ立てたやつが分析哲学に興味あるやつでこのスレにも居ると思うけど
現象学には別にたいして興味無いんだろうな だれだれの現象学というのは意味がないと思うぞ。
人間だれしも成立する普遍的な心的な現象に関する自然法則(あえて言う)というものが現象学であるべきで、
だれか有名な哲学者や後継者がそういったから現象学というものの特徴付けがされるというのはなんか商業作品みたいな色付けしてないか?
意識を持つAIをいつか作れたらそのAIも現象学を語れるはずで、それがだれだれの現象学と同一ということは考えずらい。
全ての現象学に関する言明の共通項が普遍的な自然法則としての現象学であるはずだと思うのだが。 意識をもつすごいAIが今後出てきたとして、「人間とは」とか「死とは」とか哲学的テーゼを与えても満足にこたえられない
可能性は高い。AIの中にそんな概念無いから。
でもあなたはどういうプロセスで考えているのですか、判断しているのですか、という問いに対しては現実に行うことになるはず
なので、その意識プロセスを開陳してもらえれば、それは現象学足りえるものになるはず。 ラファ鉄とかいう人も竹田現象学はフッサール現象学ではないと言ってたけど
自分だってフッサールからどんどん離れていってるだろ
出口で別物になってしまうものなのではないか ラファ鉄なんて人は知らないけれど、現象学の建て付け上マイ現象学が出てくるのは当然。
フッサールの思考プロセスに全部寄り掛かる気はしない。そんなもの双子でも無いんじゃない?
でも件の本は、これがフッサール現象学の正しい解釈だ!で売ってんじゃん。しかも最終章とかならmy現象学出してもわかるけど、
言ってんのは第1章だぜ。2章に至っては言語哲学やってるし、出口で別物というかダメット引き合いに出してて分析哲学出してくるから
もしかしたら、と思ったけどp.114で「分析哲学の起源」出してるし、これは分析哲学と合流を目指しているんだろうなというところが丸見え。
p.271ではマルティン=レーフに触れてるし、「直観」主義型理論に合流したいんだろうな、だから志向性を
ダメットを引き合いに出してフレーゲの指示の理論との一致を試みているんだろうなと。 実存は本質に先立つ
だと他我はどうなる?自我は他我に飲み込まれるのでは?
やっぱり間主観性は難解 サルトル風に言うと、他者を即自として扱う、
と色々問題が起きやすいと思うが
対自同士のやり取りというのはどういうことなのか?
他我は自我の一部であると言えるが、
自我と思ってるものが実は他我によりのっとられてるのではないか? フッサールは実存とか投企とかまで意味を読み込まないから
実存は本質に先立つ(アンガージュマン)とか
陽明学でいう知行合一のような強烈な動機には至らないようだね
その中間にメルロ=ポンティがいるのかな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています