フッサールについて語ってくれ [無断転載禁止]©2ch.net
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>>76
>厳密な主体
それ自体が言葉の矛盾だろ?
主体(個人)を厳密に追求していけば、生理的(物理的)な存在(存在者w)が残るだけ。
主体(主観のある個人)とは、猥雑な神経系と思念の塊だから。 >>78
>林檎を林檎として意識する、ってのに間違いもなにもない
林檎を林檎として意識するためには、それがミカンではなく林檎であると区別する根拠(概念設定)と、林檎そのものに対する知覚がなければならない。
乳児や原始時代の人間が、現代の大人と同じ知覚を持っているかどうかは、実は疑わしい。
心理学や知覚を追求したメルロ=ポンティの課題であったともいえる。
「純粋」などという概念設定ができると思い込んだのは、デカルトの悪しき影響ということになるのかも知れない。
「直観」もまた、個人や社会の精神構造から離れられるものではない。
存在は本質に先立つ、という当たり前のことを見失っていたのだろう。 >>77
>君は、エポケ−したら主体も消えると考えているようだが、そんなことはない。
エポケ−しょうと思索にふけった時点で考える自己(デカルトみたいだがW)は絶対に残る。
>デカルトの様に考えている自己は、超越論的自我として残る。それは、“方法的懐疑”という
思考方法によって可能となる。
現象学は“現象学的還元(エポケ−)”という思考方法であり、デカルトの“方法的懐疑”とは思考過程が
異なっている。
つまり、“方法的懐疑”は、“疑う”という思考過程を基底とするが、この思考過程は究極の“真”を前提(定立)して
すべての事象・概念に対して真偽を行う。 その究極にあるものが“疑っている私は疑えない”という究極の真としての
“私(超越論的自我)に至る。
一方、「現象学的還元(エポケ−)」の思考過程は、一切の既成概念・前提を排する思考法であり、その意味から
主観・自我も“既成概念”であり、排することになる。エポケ−により現出する本質直観は、一切の客観的事象と
主観的事象が排された(エポケ−された)後に現れる、まったく新たな認識が構成される。その認識を本質記述する。
従って、フッサ−ルは、デカルトの“方法的懐疑”の思考過程と“現象学的還元”の思考過程とを“混同”している。
この、両思考過程の“混同”が間主観性哲学にまで尾を引いている。 わざわざ長音の部分をマイナスに置き換えて引用しているんだな。
怖いものがあるわ。 >>83
>それ自体が言葉の矛盾だろ?
主体の定義になるんだろうがね。「私」という言葉が意味しているのは何か。
>主体(個人)を厳密に追求していけば、生理的(物理的)な存在(存在者w)が残るだけ。
基本同意で、俺はフッサールは正しくないとは考えている。
ただし、生理的を問題と主体の問題とは、問題の次元が違うのだろうなとは思う。
生理的問題を考慮しつつ主体をどう定義づけるか、ってことだろね。
思惟に重きを置きすぎる哲学ってのは基本間違いだと思う。環境をもっと考慮しないと。 そいでややこしい方か。
>>84
メルロ=ポンティは身体問題を考慮しているからな。
>「直観」もまた、個人や社会の精神構造から離れられるものではない。
>存在は本質に先立つ、という当たり前のことを見失っていたのだろう。
ところがねえ、晩年は生活世界なんて考えるから純粋自我は捨てずに。
このあたりの論理はかなり揺れているみたい。
>>85
デカルトの方法的懐疑とフッサールのエポケーが同じでないことくらいは
俺もさすがに理解しているぞ。
>一方、「現象学的還元(エポケ−)」の思考過程は、一切の既成概念・前提を排する思考法であり、その意味から
>主観・自我も“既成概念”であり、排することになる。エポケ−により現出する本質直観は、一切の客観的事象と
>主観的事象が排された(エポケ−された)後に現れる、まったく新たな認識が構成される。その認識を本質記述する。
だから、これはあなたが理想としているエポケーであって、フッサールのエポケーでは
ないのだよ。 純粋自我はおそらくフッサールなら既成概念ではない、と反論する
だろう。
本質直観も、やたら意味深いものに、意図的に自分の好みにあった定義に解釈している
ようだし。
これではあなたは、自分の理想をまくしたてているだけ。 >従って、フッサ−ルは、デカルトの“方法的懐疑”の思考過程と“現象学的還元”の思考過程とを“混同”している。
>この、両思考過程の“混同”が間主観性哲学にまで尾を引いている。
こう書いているからまあ自分はフッサールとは別の現象学を主張していると
理解はしているようだがw
私見では、思惟とか省察とかを出発点とするかぎり、「私」の問題は付きまとう。
いくらエポケーを唱えてもな。「私がこう理解する」というのが付きまとうから。
このあたりは、デカルトというより、カントの統覚の問題と重なるが。 >>89
>このあたりの論理はかなり揺れているみたい
本家(?)デカルトも、考える自分の存在自体を真とするなら、知覚を感じた自分もまた真としないといけない、となって、結局はぐちゃぐちゃ。
おまけに、考える「私」も知覚する「私」も、考えた時点で知覚した時点で、考える前知覚する前とは違う「私」になっている。
あれ? ヘーゲルになっちゃったw >>90
フッサ−ルの場合は、意図的に主観を置いといて、“客観的事象”のみエポケ−(現象学的還元)を実行しているが、
それは何故でしょうか?
それから、思惟・省察を出発点として、エポケ−をしても「私」の問題は付きまとう、と述べているが、それは
エポケ−の仕方によると思う。 >>92
何故というより、エポケーが定義上そういうもの、だからだろ?
エポケーを定義したのはフッサールその人なのだから。
「私」の問題ってのは物凄くややこしいのだけれども、
立場は違うが、デカルト、カント、フッサールというビッグネーム3人は、
この問題については、簡単に前提条件として受け入れてしまう。
ヴィトゲンシュタインとかハイデガーとかはそうではない。 >>91
デカルトが方法的懐疑によって、“疑っている私は疑えない”という究極の“真”としての
“私”を超越論的自我というが、 問題はデカルトが方法的懐疑による究極の思考過程に於いて
認識した“あるもの”を、なぜ短絡的に“純粋な精神(=私)”と定義したかでしょう。
本来、人間の“心(精神)と体(物質)”は、“一つのもの”として存在している。
つまり、思惟・思考する以前に“心と体”は、もともと“一体化しているもの”であり、
この“主体(=超越論的自我)”の問題は、更なる論究が必要と思う。 「何故短絡的に」ってあなたw
デカルト的立場で、科学技術の発展の基礎付けも得られた側面もあるのだから。
近代合理主義の基礎づけと言う意味で。時代の要請でもあったのだろ。
>この“主体(=超越論的自我)”の問題は、更なる論究が必要と思う。
そりゃあそうだが、ドイツロマン派の頃にはすでにこの問題をめぐって
様々な論争があったのだよ。もう200年も前に。 >>95
>デカルト的立場で、科学技術の発展の基礎付けも得られた側面もある
あるの?
>様々な論争があったのだよ
まるで無意味な論争だろ?
哲学はヘーゲルとフォイエルバッハで完成され、ヴィトゲンシュタインによって哲学のジャーゴンが解体された。
残ったのは、ヘーゲルの対象の観察による弁証法とフォイエルバッハの心理を追求した唯物論だけだろ。 >>96
あったんじゃないの?よく言われることだが。
逆に、デカルト以降、「心身問題」がクローズアップされることになったわけ
だし。見方によれば、デカルトのおかげ。
>哲学はヘーゲルとフォイエルバッハで完成され、ヴィトゲンシュタインによって哲学のジャーゴンが解体された。
>残ったのは、ヘーゲルの対象の観察による弁証法とフォイエルバッハの心理を追求した唯物論だけだろ。
それは単なる君の哲学史観。ヘーゲルが、それ以前の哲学者を自分の前段階と
位置づけてから、わけのわからん哲学史観を信じるやつがでてきてしまった。
ヘーゲルは、「俺が西洋哲学の完成形だ」と言い続けた人だから。
それを君が信じる必要性はなかろう。
心身問題なんていろんな立場で分析されているだろう。 >>97
「心身問題」なんてギリシアでも東洋思想でも当たり前の考え方だぞ?
>ヘーゲルは、「俺が西洋哲学の完成形だ」と言い続けた人
哲学史を勉強しろとは言わないけど、ヘーゲルぐらいは読んだ方がいいと思う。
いや、僕も哲学史をたいして勉強したわけじゃないからw >>97
あと、フォイエルバッハの観念論哲学の解体と、ヴィトゲンシュタインのジャーゴンの解体についてはどう思う?
関心がないかな? >>98
心身問題はな。ただし、「私」の問題としてクローズアップされてきた
点は、デカルト以降の展開が大きいかな。
別にデカルトを褒めろといいたいわけではないが。こんなのは哲学史的事実として
受け入れたらいい。
今更、何故デカルトは短絡的にーー、なんていってもわけがわからない。
デカルトはあの立場で哲学史に地位を固めた人なので。
プラトンは何故イデアなんかをーー、というのと同じ。
>>99
フォイエルバッハはどうでもいい。この文脈で名前が出てきたこと自体が
意味不明。
ヴィトゲンシュタインは重要だが、ここで突っ込む必要性は感じないけどな。
全体的に何がいいたいかわけがわからんが。 そうか、詳しくないが、この人は、マルクス主義的な歴史観をいきなり
この文脈でもってこようとしたのかな。
作為的過ぎるんだよ。 >>100
「私」というのは、実は、ギリシアや東洋思想の根幹だ。
ま、どうでもいいが。
フォイエルバッハはフッサールの曖昧な精神論をとっくに凌駕してる。
フッサールがヘーゲルやフォイエルバッハをきちんと読んでいれば、エポケーなどというおバカ概念を提示しなくて済んだんじゃないかと思う。
ヴィトゲンシュタインは、まさに、フッサールやハイデガーなどの(観念論ですらないという意味での)精神論を解体する。
デカルトもフッサールも所詮はジャーゴンだけの哲学。
中身はまったくない、と言いたいのだが。 >>102
だからねえ、東洋哲学の問題をここでもってきても仕方ないのくらい
わからんの? デカルトはデカルトで、批判的に検討されることで
哲学史での位置づけを得ているところがあるのだから。
>フォイエルバッハはフッサールの曖昧な精神論をとっくに凌駕してる。
だからそれは「あなた」の哲学史観で、ここでフォイエルバッハ賛美されてもw
> デカルトもフッサールも所詮はジャーゴンだけの哲学。
>中身はまったくない、と言いたいのだが。
この二人を批判的に検討したり、まあフッサールについては賛美者も結構いるが、
そうこうしながら、いろいろな研究がなされ続けているのだから、
中身がないとまでは俺は言わんよ。
自分なりの哲学観を持っているのはよくわかったし、それを見せびらかしたいのなら
勝手にすればいいが、
それで俺にからんでこられても困る。
フッサールは不思議と研究者の書く本の質が高いのが面白い。
もっとも俺の感想ではあるが。 >>103
>哲学史での位置づけを得ているところがある
だからね、それが無意味だと言ってる。
フォイエルバッハとヴィトゲンシュタインが(西洋哲学史的)哲学自体を解体したとも言ってる。
哲学というものを真面目に考えるなら、解体もまじめに考えないといけない。
たしかに、僕が君に絡んでいると言えなくもないかも知れない。
エポケーなどというのが、おバカ概念(ハイデガーの存在と同じくらいのおバカ概念)であるということに気が付いて欲しいなとは思う。
どっちみち哲学なんて、絡むことが批判であり、議論だと思うんだけどね。 >>104
あのさあw 「俺」はフッサールのエポケーについては完全に批判者であり、
ハイデガーの存在概念についても、存在論的差異の問題とか学ぶべきところを
感じはするが、その上でそんなに同意してないほうであって、
そういう俺にそんなこと言ってこられてもw
>だからね、それが無意味だと言ってる。
そうは思わんよ。少なくとも、それで喰っているひとがいるかぎりw
>フォイエルバッハとヴィトゲンシュタインが(西洋哲学史的)哲学自体を解体したとも言ってる。
ヴィトゲンはともかく、フォイエルバッハをここまで持ち上げる奴は初めてみたわ。
「私」の問題でとりあげるなら、シュティルナーあたりを持ち上げたほうが
いいんとちゃうの?詳しくないが。
ニーチェとかならざらにいるが。
哲学の解体なんて何度も言われていることで、解体解体言われながら、
古典研究が為され続ける。そういう業界だからねえ。
もっともそういうのを相手にしないのも生き方として間違ってはいないが、
そういうひとなら、最初からフッサールについて質問するな、といいたいわ。
もう終わっている、とするのも別に間違ってはいないのだから。 age sageが交互にでてくるけど改行の仕方がおなじだな ヴィトゲンシュタインそして、フォイエルバッハにしても、デカルトの“心身二元論”を克服していない。
“心身二元論”の問題は、フッサ−ルの“現象学”によって初めて新しい展開がなされて来たところがある。 >>89
>だから、これはあなたが理想としているエポケ−であって、フッサ−ルのエポケ−ではない。
>フッサ−ルは、主観に対してエポケ−を制限し、客観的事象のみエポケ−したことに対して、以下の様に述べている。
「十分な根拠から、私たちはこのエポケ−の全般性を制限する。なぜなら、もしこのエポケ−がおよそ可能なかぎり包括的なもので
あるなら、いかなる定立、従っていかなる判断もまったく十に変様(=中立化)され……変様されない(=中立化されない)判断のためには
もはやいかなる余地もないことになり、ましては“学”にいたっては言うまでもないからである。」(ID.I.56)と記述している。
上記のフッサ−ルの記述でも分かる様に、正しい現象学が一切の先入見を排する(エポケ−する)という思考過程に於いて、
主観的事象と客観的事象を排することを理解した上で、フッサ−ル個人として“主観”を制限(排することを制限)していたのである。
尚、>>96、>>98>>99>>102>>104>>は別人のレス。 私は>>94です。 >>108 訂正
従っていかなる判断もまったく十に変様(=中立化)され
↓
従っていかなる判断もまったく自由に変様(=中立化)され >>105
>フッサールのエポケーについては完全に批判者
僕が、もう一人の人と混同してることろがあるかも知れない。
申し訳ない。
>存在論的差異の問題とか学ぶべきところ
存在論などという妄想の産物は全否定するべき。
>それで喰っているひとがいるかぎり
ジョークだろうが、それでは学問にはならないだろ?
>最初からフッサールについて質問するな
僕は質問などしてしていない。
批判をしてるだけw >>107
>ヴィトゲンシュタインそして、フォイエルバッハにしても、デカルトの“心身二元論”を克服していない。
ヴィトゲンシュタインやフォイエルバッハが“心身二元論”と、どう関係してると思うの? 混乱防ぐために「あ」にしておくわw 俺も誰かと一緒にされたみたいだし。
>>110
>存在論などという妄想の産物は全否定するべき。
そうは思わんね。存在論のモデルチェンジは必要だが、
人間の思考の方向性なんてたかがしれている。
>ジョークだろうが、それでは学問にはならないだろ?
ところが学問になっているから困るw
実際のところ、過去の哲学を受け入れたり批判したりしながら、
現在の多様な研究がなされているからね。
どの立場に立つにせよ。
>僕は質問などしてしていない。
>批判をしてるだけw
それはここが誰のレスかわからないことから生じる混乱だな。
名乗ってくれないと俺もわからん。ずっと相手にしていたひとと
別人がからんできたことなんて俺には理解できん。
もっとも別人の可能性くらいあるとは思っていたが。
フッサールに関してはさほど俺と立場はかわらんし、
それ以外のことで論争してもな。 >>108
あなたの引用箇所だけでは、なんともいえんわ。
それ多分、斎藤慶典の「フッサール起源の哲学」からとってきたんだろ?
括弧の斎藤がつけたしたところまで同じ。
中立性変容と還元の違いに絡む箇所のはずだが。
学問であるかぎり基盤は確保しなければならない。だから、あらゆる思いなしの
真偽を宙づりにしなければならないが、
学問としての土台まで宙づりにしてはならない、って程度のこと。
まあフッサールの場合、そのために、自我論エゴロギー的立場を貫いたわけだが、
そうする必要があったかどうかは、俺は疑問。
というより、フッサールのような仕方でエポケーをして、さらにその方法で
私まで消去して、あくまでも認識論的立場にこだわったフッサールが何ができる
ねん、って問題だな。
君に聞きたいのは、なんで私の消去にここまでこだわるか、だよ。
俺は自我論的立場には否定的だが、「私」という現象が存在しないとまでは
考えていない。また私を消去したら新しいすばらしい世界が広がるなんて
阿呆なユートピアを思い描いたりしない。 >>107
その人は、自分の哲学的知識を見せるのと、個人的偏愛がゆえに、
ただ名前を出しただけだと思う。
心身二元論の克服については、確かにフッサール自身はともかく、現象学者が
好んでとりあげようとしている側面は否定できないし、まちがってはいない。
ベルクソンやフロイトの存在が大きいとは見ているけどね。 >>112
僕も君に倣って自分に名前を付けておこう。
>存在論のモデルチェンジは必要だが、人間の思考の方向性なんてたかがしれている
存在論というのは、存在一般、つまりすべての物や事柄やさまざまな関係のありかたに、抽象可能な「なにものか」を想定する考え方だ。
ハイデガーの場合は、それを「存在」と名付けた。
だから、「存在(現実にある物や事柄や関係)は本質(思考による抽象)に先立つ」の一言で片づける(捨て去る)ことができる。
>過去の哲学を受け入れたり批判したりしながら
F&W(フォイエルバッハとヴィトゲンシュタイン)的に見れば、哲学は時代と環境によって生じる個人の妄想だから、「受け入れ」るような内容があるわけではないということになる。
つまり、研究者の生活の糧にはなっていても、「学問になっている」わけではない。
>フッサールに関してはさほど俺と立場はかわらん
そうだね。
それなのに、その立場を徹底(他の哲学へ敷衍)しようとしないのはなぜだろう? >>114
>自分の哲学的知識を見せるのと、個人的偏愛がゆえに
その感覚が、君の思考を濁らせてるんじゃないかな?
あらためて君にも「質問」するけど、ヴィトゲンシュタインやフォイエルバッハが“心身二元論”と、どう関係してると思うの? >>113
フッサ−ルは気づかなかったと思うが、方法的懐疑と現象学的還元の大きな違いは、
方法的懐疑が究極の“真”としての超越論的主観性を認識し、現象学的還元に於いては、
超越論的客観を認識するところでしょう。
その違いはどこから生じるのかというと、“前提を設定する”思考法の方法的懐疑と、“前提を設定しない”思考法の違いにある。
ここで、超越論的客観という認識を述べたが、私はハイデガ−の“存在”の概念に類似していると解釈している。 結構若いな俺
>16歳
>全ての色が完璧に判断できています!(16歳じゃなかったとしても...) >>117
「ハイデガ−の“存在”の概念」とは、どういうものだと思う? ゆっくりレスしていこうか。
>>115
>存在論というのは、存在一般、つまりすべての物や事柄やさまざまな関係のありかたに、抽象可能な「なにものか」を想定する考え方だ。
>ハイデガーの場合は、それを「存在」と名付けた。
ちょっと強引で、理解し損なっていると思われる。端的にいうと、存在は「意味」だよ。
>だから、「存在(現実にある物や事柄や関係)は本質(思考による抽象)に先立つ」の一言で片づける(捨て去る)ことができる。
こうまとめると、存在論が実在論になってしまうと思う。
あれは、意味の生起を巡る思索。後期ハイデガーは俺は好かんが。
意味は生の実感のように捉えるといいかもしれない。なんて書くと
ハイデガー研究者には怒られるかもしれないが。 (続き)
>つまり、研究者の生活の糧にはなっていても、「学問になっている」わけではない。
「君」にとってはそうだろうね。
でも本人はそうだとは思わない。
なぜなら、「F&W的に見れば、哲学は時代と環境によって生じる個人の妄想だから」
なんていう強引なまとめを共有しているひとは、おそらくほとんどいないから。
これは君本人の問題で、君本人の力で君が信じる哲学的思索を繰り広げてもらうほかない。
俺も共有しているものではないのでな。
>それなのに、その立場を徹底(他の哲学へ敷衍)しようとしないのはなぜだろう?
君のように、自分が誰の信者かをここで見せていないだけ。
しかし誰の信者かを示したところで、何かが言えたわけだとは思わん。
俺なりにビジョンは
あるけどね。特定の誰かの信者ってタイプの人間ではないが。
日常生活から主観=主体の問題を考えるべきという立場なので。 >あらためて君にも「質問」するけど、ヴィトゲンシュタインやフォイエルバッハが“心身二元論”と、どう関係してると思うの?
これ俺に質問されてもなあw
ヴィトゲンは「私」の問題については、フッサールよりはずっと優れた視点を
持っていると思っているよ。 >>117
>方法的懐疑が究極の“真”としての超越論的主観性を認識し、現象学的還元に於いては、
>超越論的客観を認識するところでしょう。
そういえるかな。
> その違いはどこから生じるのかというと、“前提を設定する”思考法の方法的懐疑と、“前提を設定しない”思考法の違いにある。
>ここで、超越論的客観という認識を述べたが、私はハイデガ−の“存在”の概念に類似していると解釈している。
そう考えて、ハイデガーは、「現象学」を解釈しなおそうとして、
フッサールと喧嘩することになったんじゃないかね。
ハイデガーの「現象学の根本問題」
2冊あるがどちらも、を読むとそのように理解できる。
しかしそうなると、現象学というより、存在論になるんだろうけどな。
するともはや、フッサール的にエポケーは問題にならなくなるので、
君のやっているのは、当初はフッサールに対する質問だったはずだが、
もう別のことになっているのだよ。
ただ、ハイデガーがフッサール的主体を取り入れていないにせよ、
主観性の問題を棄てたとは理解してない。 >>124
>しかし、そうなると現象学というより、存在論になる。
するともはやフッサ−ル的なエポケ−は問題にならなくなるので、
>“方法的懐疑”は、“真”という“前提”を設定し、究極の存在としての“超越論的主観(=心身合一”)を認識する。
一方、“現象学的還元”は“前提を設定しない”思考法として、“超越論的客観”を認識する。
この“超越論的客観”の認識は、ハイデガ−後期思想の“〈存在〉は自然(フュシス)=生成”として捉えている認識と
同一であると解釈している。
従って、現象学的還元の“思考法”によって“超越論的客観”に至るのだから、現象学と存在論は密接な関係にある。 >>126
ハイデガーの存在論を現象学の一解釈として理解するひとは結構いるから、
それならそれでいいと思うよ。
でもまあ、それならフッサールに対する「質問」ではなく、
最初からフッサール批判の文章を書くべきだった。 >この“超越論的客観”の認識は、ハイデガ−後期思想の“〈存在〉は自然(フュシス)=生成”として捉えている認識と
>同一であると解釈している。
ここがねえ。「超越論的客観」という非常に紛らわしいと言うか、意味不明の言葉を
もってきているのが気になってはいたよ。
超越論的主観は消去したいのに、超越論的客観を消去したくない、
それこそが自分の望む現象学だー、って主張には見えた。
フィシスの解釈というならそれでいいけど、最初からいいたいことを明確に
書かないと。 >>121
>存在は「意味」だよ
>あれは、意味の生起を巡る思索
それはまた、ずいぶん乱暴な。
「意味」というのは人間の価値観の表明に過ぎないから、それを「存在」というならたんなる心理に還元されてしまう。
さらに「意味」から人間を排除すれば、すべての物や事柄やさまざまな関係のありかた、に還元される。
つまり、「存在(現実にある物や事柄や関係)は本質(思考による抽象)に先立つ」の一言で片づける(捨て去る)ことができる、ということになる。
>本人はそうだとは思わない
本人がどう思うかで、学問であるかないかが決まる、と?
それはまた、なんと強引な。
>日常生活から主観=主体の問題を考えるべき
だから、ハイデガーもまた日常生活の範囲で理解してしまうのか。 >>123
>ヴィトゲンは「私」の問題については、フッサールよりはずっと優れた視点を持っている
どこが? >>124-128
突っ込みたいところは山ほどあるけど、横だから自重しようw
>>129-130 はFWです。 >>129
>それはまた、ずいぶん乱暴な。
「存在の意味」という言葉をよくハイデガーは使うが、この「の」は
同格。存在という意味と解釈できるし、比較的一般的理解だろう。
>つまり、「存在(現実にある物や事柄や関係)は本質(思考による抽象)に先立つ」の一言で片づける(捨て去る)ことができる、ということになる。
つまり、があまりにも乱暴。
>本人がどう思うかで、学問であるかないかが決まる、と?
>それはまた、なんと強引な。
学問かどうかは「君」が決めるのではないからな。君が決めれるのは
君にとっての学問だ。
>>日常生活から主観=主体の問題を考えるべき
>だから、ハイデガーもまた日常生活の範囲で理解してしまうのか。
ハイデガーを念頭に言ったのではないが、ハイデガーも日常から分析しようと
しているのはよく知られたこと。だから道具の分析にあれだけ力を入れる。 おっと >>132 は 「あ」=俺 の書き込みな。
>>130
今それやるの?w 世界に属さず世界の限界としての主体=私。
ヴィトゲンはフッサールのように、超越論的自我を設定してしまわない
という点で。 >>本人がどう思うかで、学問であるかないかが決まる、と?
>>それはまた、なんと強引な。
>学問かどうかは「君」が決めるのではないからな。君が決めれるのは
>君にとっての学問だ。
ここは説明が必要だな。
学問の定義になるが、本人が信じて学んでいるかぎり、それは学問として
否定できないのだよ。広義では。
そのうえでそんなものは学問でない、と君のように言い張る場合は、
自分の視点が、他の学者たちなんかより遥かに優れたものであり、
とにかく俺は偉いんだ―、という理由を分かる形で説明しなければ
ならないのだが、哲学史を強引に要約して、ヘーゲルとフォイエルバッハと
ヴィトゲンを持ち上げるだけではなんともw >>132
>「存在の意味」という言葉をよくハイデガーは使うが、この「の」は同格
日本語として、おかしいよ。
ちょっとだけ文法の勉強をした方がいいと思う。
>学問かどうかは「君」が決めるのではないからな。君が決めれるのは君にとっての学問だ。
これも日本語としておかしいけど、それは置いといて。
誰が学問かどうかを決める?
文科省?
>ハイデガーも日常から分析しようとしている
思考の原点は現実にしかない。
だから、「存在は本質に先立つ」という表現になる。
思考の出発点と思考の範囲を混同してはいけない。 >>133
>世界に属さず世界の限界としての主体=私
いつやってもいいけど、そんなのヴィトゲンシュタインとは無関係。 >>134
>本人が信じて学んでいるかぎり、それは学問として否定できない
統失患者には、自分が学者だと思ってる人が一定数いるけど、患者の筆記も学問なんだね?
それはそれで、ひとつの見解だ。
>分かる形で説明
説明できてないのが君たちだと思うから、僕はそれを批判してるんだけどね。
僕はいろいろ説明してるんだけど、君にはわからないみたいだ。
なにを説明してほしいの? なんか最初から文句つける気まんまんって感じのやつだなw
>日本語として、おかしいよ。
>ちょっとだけ文法の勉強をした方がいいと思う。
英語のof、ドイツ語の2格やvonなどには同格の用法はあるんだよ。
てか、ドイツ語で読んだの?
>誰が学問かどうかを決める?
>文科省?
何で文部省がでてくる?自分で勉強していると感じたら学問だよ。
>思考の出発点と思考の範囲を混同してはいけない。
それは個人的関心の問題じゃねーか?君が何を追求しようとしているか
知らんが。
>いつやってもいいけど、そんなのヴィトゲンシュタインとは無関係。
あまりにも有名なヴィトゲンの言葉だが? >それはそれで、ひとつの見解だ。
そりゃあそうだろ。学問は誰にたいしても開かれている。愚者もへったくれもない。
そもそも学問がどーのといいはじめたのは君であって俺でない。
>説明できてないのが君たちだと思うから、僕はそれを批判してるんだけどね。
君の場合は批判というより文句な。また批判に専念したいなら、
いきなり飛躍してたいした説明もなしに、フォイエルバッハこそ偉いとかいってきてもな。
ここはフッサールスレだろ? 多少離れてもいいが。
そうなると、他にもそういう人がいたが、その点をつっこみたくなるもの。
どういう観点でフォイエルバッハを今持ち出す必要性があったのか、
これをまず説明しないとな。
あるいはスレ違いだから打ち切るのもいいと思うが。 >>138
>ドイツ語で読んだの?
ドイツ語では読んでない。
日本の訳者が文法を知らないバカだと言いたいの?
>自分で勉強していると感じたら学問
統失患者の読書は当然だとして、小学校の宿題も学問ということか。
それはそれで一つの見解だが、日本人のほとんどが学者ということになるな。
>個人的関心の問題
個人の関心から始まり、普遍性に行きつこうとするのが学問だと思ってた。
たしかに君の学問の定義では、個人の範囲にとどまってもまったく問題はない。
>あまりにも有名なヴィトゲンの言葉
それは知らなかった。
日本語訳で引用して。 俺の感覚でいうと、何でもっと現代の人を読まないのって気分にはなる。
フッサールもハイデガーもカントもアリストテレスも、そりゃあ、
現代の人を読む上でも基礎教養としてある程度習得する必要はあるが。 早いレスだな。
>日本の訳者が文法を知らないバカだと言いたいの?
それは関係ない。原文を参照しないとニュアンスがわからないから。
すべてのニュアンスを訳語に入れるのは、経験上不可能だ。原書を参照するのは
大学以降の学問では基本中の基本だ。
>それはそれで一つの見解だが、日本人のほとんどが学者ということになるな。
学者の定義は、学問で飯を食っているかどうかだよ。しかし、学者以外にも
学問は開かれている。それに頭の善し悪しは関係ない。
>個人の関心から始まり、普遍性に行きつこうとするのが学問だと思ってた。
普遍を目指すのは、学問というより哲学的思考の一典型であって、
有用性を目指す学問もあれば、単に知識を蓄える学もある
これほど多様性が求められる現代にあって、普遍をどういう意味で目指すのかも
かなり見解は分かれるだろう。
>それは知らなかった。
>日本語訳で引用して。
「論理哲学論考 5・632」主体は世界に属さない、それは世界の限界なのだ。
ヴィトゲンシュタインで最も有名な言葉の一つだが。これも知らんかったの? >>139
>>140も僕。
>学問がどーのといいはじめたのは君であって俺でない
だとしたらなに?
君が書いたことは僕に引き摺られただけだから、君は書いたことに責任がない、と?
>たいした説明もなしに、フォイエルバッハこそ偉いとかいってきても
偉いと書いたことは一度もないと思うよ。
君の日本語理解力に問題があるんじゃないかな?
>どういう観点でフォイエルバッハを今持ち出す必要性があったのか
何回か書いてるつもりだけど、エポケーだの超越論的主観だの超越論的客観だのという愚にもつかないジャーゴンを否定するには、フォイエルバッハをヴィトゲンシュタインが一番わかりやすい。
君は、エポケーを否定するのに、超越論的主観だの超越論的客観だのという概念を振り回したいの?
>スレ違いだから打ち切るのもいいと思う
君が打ち切るのはもちろん自由だ。
僕は、気になる書き込みがあれば、君とは無関係にそれに反応するかもしれない。 >>142
>原文を参照しないとニュアンスがわからない
原文を訳した翻訳者が、ニュアンスを日本語化できないバカだと言ってるんだね?
「の」の使い方も知らない日本語音痴だと主張するんだね?
君は、そうした翻訳者たちが訳注にも表記しなかったニュアンスが理解できると言いたいんだね?
>学者の定義は、学問で飯を食っているかどうかだ
学者の定義を問題にしてるんじゃなくて、学問の定義を問題にしてるんだよ?
君の日本語理解力も問題にしてるけど。
>普遍を目指すのは、学問というより哲学的思考の一典型
ずいぶんおかしなことを主張するね。
学問は、普遍性=客観性を獲得してはじめて成立する。
普遍性=客観性がないのに学問であると主張しているのが、哲学だよ。
>ヴィトゲンシュタインで最も有名な言葉の一つ
5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)
以下、5.641まできちんと読んでね。
「世界に属さず世界の限界としての主体=私」とは無関係、というよりむしろ真逆だということがわかるから。 >君が書いたことは僕に引き摺られただけだから、君は書いたことに責任がない、と?
そんなこと書いたか? 使い始めたほうから意図と定義を明確にしないとな。
>偉いと書いたことは一度もないと思うよ。
そんなニュアンスに受け取ったがね。
>何回か書いてるつもりだけど、エポケーだの超越論的主観だの超越論的客観だのという愚にもつかないジャーゴンを否定するには、フォイエルバッハをヴィトゲンシュタインが一番わかりやすい。
だから、それを説明しないと。
>君は、エポケーを否定するのに、超越論的主観だの超越論的客観だのという概念を振り回したいの?
そんなこと俺書いたか?
超越論的客観なんて言葉は、誰かさんが持ち込んだ言葉で、フッサールの概念でも
俺の概念でもないが。
超越論的主体はフッサールの問題点と俺は書いているはず。 >原文を訳した翻訳者が、ニュアンスを日本語化できないバカだと言ってるんだね?
なんでそうなる?経験上ニュアンスを全部入れ込むのは不可能とは書いたが。
>君は、そうした翻訳者たちが訳注にも表記しなかったニュアンスが理解できると言いたいんだね?
たいしたことでなくて、ドイツ語読めるひとなら。
>学者の定義を問題にしてるんじゃなくて、学問の定義を問題にしてるんだよ?
>>それはそれで一つの見解だが、日本人のほとんどが学者ということになるな。
君はこう書いた。つまり、学問をしているひとは学者である、というのが君の意見。
なぜなら、「ということになる」と断定しているから。
ならば、今度は学者の定義が問題になる。
あたりまえのことだがねえ。 >学問は、普遍性=客観性を獲得してはじめて成立する。
普遍性と客観性をイコールにするの? ここかな君と話が通じないのは。
客観性も定義が難しいが。objectivity Objektivität だが。
対象性とも訳せる。主体にたいする客体でもある。
>普遍性=客観性がないのに学問であると主張しているのが、哲学だよ。
プラトンのイデアは、普遍性を求めたもの。
つまり、君にとっての善と、俺にとっての善は違うが、しかし真の正しい善は
イデアとしての善にあるというもの。
学問は個々の善ではなく、その背後にある真の善を探究すべき、ということ。
これがイデア論で、相対主義=善は各自別々でいい、 こそ正しいのかどうか。
プラトンは相対主義を嫌ったわけだ。
哲学が普遍を目指すのはそういうこと。 当然これは批判されていくわけだがね。 >>128
>超越論的主観は消去したいのに、超越論的客観を消去したくない。
それこそが自分の望む現象学だ−、って主張に見えた。
>超越論的主観(心身合一)は、方法的懐疑という“前提(真の定立)”を設定した思考法であり、
他方に於いて、超越論的客観(フュシス)は、現象学的還元という“前提”を設定しない思考法によって認識される。
つまり、超越論的主観(心身合一)も、超越論的客観(フュシス)も共に存在の“あるがままの姿”として捉えられている。
これは一見、矛盾した論理に思えるが、ハイデガ−の前期哲学(主観による存在了解)と後期哲学(生起の論理)にも
見られることと解釈している。 >>145
>使い始めたほうから意図と定義を明確にしないとな
僕は、学問の定義として「普遍性を獲得したもの」と何回か書いてるんだけど?
君は、それぞれ自分が学問だと思うものが学問だと書いてるな。
>そんなニュアンスに受け取った
内容のニュアンスは受け取れないのに、そこだけ受け取ったんだね?
受け止め方は人それぞれだから別に構わないけど。
>それを説明しないと
何回か書いてるつもりだけど、フォイエルバッハは哲学を人間心理の問題に還元して、ヴィトゲンシュタインは言葉の問題に還元した。
これ以上のなにを説明して欲しいの?
>超越論的客観なんて言葉は、誰かさんが持ち込んだ言葉
>>124で「超越論的主観性」とともに、「そういえるかな」と賛意を表明してるよ。
賛意ではなく、「フッサールの問題点」として「そういえるかな」と書いたの? >>146
>ドイツ語読めるひとなら
その(たぶん)ドイツ語を読める邦訳者が、ニュアンスを無視してなのか日本語の文法をわきまえてないせいなのかで、「存在の意味」という訳にした、ということだろ?
存在=意味なら、意味としての存在、とか、存在とは意味のことだが、といった表現にするのが、まともな日本語だ。
>今度は学者の定義が問題になる
前提である学問の定義を無視するなら、学者とは、大学でなにかの教科を教えてる(た)人、だよね?
それだと学問とは大学で教えている教科の内容、ということになるね。
つまり、学問の定義は文科省が決めるということになる。
それはそれで、ひとつの見解だ。 >>147
>客観性も定義が難しいが。objectivity Objektivität だが。
>対象性とも訳せる。主体にたいする客体でもある。
客観性というのは、個人の主観を離れてその存在や論理が他者にも証明できること。
君の英語や独語の力がどれほどなのか知らないが、君の日本語力には不足があるようだ。
>プラトンのイデアは、普遍性を求めたもの
>真の善を探究すべき
プラトンを持ち出すのもいいが、「善」という言葉自体が普遍性(客観性)を拒否していることに気が付かないといけない。
自分で自分の矛盾と錯誤に気が付かないのが哲学だから、フォイエルバッハとヴィトゲンシュタインが必要なんだ。 ヴィトゲンのところを終えてからレスしてほしかったがw
まあボチボチ。
>ヴィトゲンシュタインで最も有名な言葉の一つ
>5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)
>以下、5.641まできちんと読んでね。
>「世界に属さず世界の限界としての主体=私」とは無関係、というよりむしろ真逆だということがわかるから。
真逆というのはどういう意味で言っているのかよくわからんな。
君の書き込みは、しばしばあまりにも不鮮明なのに、自己満足に浸っているように
見える。こういうところでは細かく論じづらいので、ある程度仕方ないにせよ。
「世界とは「私の」世界である(5.62)」という独我論的立場は肯定しつつも、
「思考し表象する主体は存在しない(5・631)」というように、フッサール的主体は
否定。
私の世界という書物のなかで唯一「語られない」ものが(5・631)「私」だと
ヴィトゲンはいう。
そこででてくるのが有名な「主体は世界に属さない。それは世界の限界なのだ。」
有名な目の比喩が出てきて。
見ている自分の目は見えない。世界のどれからも眼に見られていることは推論できない。
そうすると、自我は「延長を持たぬ点に委縮」する(5・64)のこりはそれに応じた実在
のみになるから純粋な実在論になるとくる。
そして最後、5・641、その上で哲学的自我を規定すると、人間でも人間の肉体でも、
心でもない、「形而上学的主体=世界の限界」としての自我だということになる。 どう読んでもも、
>「世界に属さず世界の限界としての主体=私」とは無関係、というよりむしろ真逆だということがわかるから
なんて結論になるわけないのだがね。
「世界は私の世界」であり、世界のなかのものは語られても、「私」だけは語られない。
だから「私は世界に属していない(世界の一郭を形作るものではないのだ5・641)」
「世界の限界である」ということになる。
そう5.641でもはっきり述べている。 そこだけレスして、先にこちらにレス。あとはバカバカしいし後回し。
>>149
今特別に君と言い合うことはないとは思うけども。
>つまり、超越論的主観(心身合一)も、超越論的客観(フュシス)も共に存在の“あるがままの姿”として捉えられている。
>これは一見、矛盾した論理に思えるが、ハイデガ−の前期哲学(主観による存在了解)と後期哲学(生起の論理)にも
>見られることと解釈している。
「超越論的主観(心身合一)も、超越論的客観(フュシス)も」
ここがねえ。超越論的主観を心身合一と表現する人も、
フィシスを超越論的客観と表現するひとも、俺は見たことがない。
たぶん、ここは俺でなくても、ある程度の哲学的素養があるひとなら、
受け入れがたい表現だと思うよ。
『存在と時間』の時点でも、ハイデガーは、現存在とか世界内存在とかいう言葉を
使い分けて、うまく超越論的主観を使わない哲学を試みているわけだしね。
主客の区別って点をハイデガーは拒絶しようとしているようにも思われる。
それにあえて君はそれを持ち込もうとするから、こういう変な表現になっている
のだろうとは推論するけれども。 学者やるなら聖書にあるような暦学者がいいだろうな。 超越論 還元 当たりが難しいが、たぶんそこらへんは間違っているだろう。 あっているのは まだコギト エル スムス だといううわさがある。
世界の構成、構造上。 悪霊が世界をつくったから、悪霊に食われたら、世界を創造できる
ということだよ。 >>153-154
ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の主題から説明しておこう。
論理とか哲学とはなにか、ということだ。
論理、哲学そのものに関する論考だ。
論理も哲学も(記号を含む)言葉によって表現される。
だから、「7 語りえぬことについては,沈黙するしかない」ということになる。
その意味での「5.6 私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」なのだ。
この大前提において、言葉によらない(エポケーという)態度や(精神の共通性のような)超越論的主観性を設定するフッサールとは無関係だし、真逆ということになる。
君の勘違いは、その前提を見過ごして、ヴィトゲンシュタインが実在や人間自体を対象とした「存在論(哲学)」を展開していると思いこんだところから来ている。
有名好きの君の解釈が、だれかの解説のつまみ食いでなければ幸いだ。
僕に悪態をつく前に、自分の書き込みがジャーゴンの無自覚な流用であることぐらいには気が付いたほうがいい。
ジャーゴンのひとつでも明確な分類も定義もできていないのだから。
君と他の人とのやりとりもそうだが、議論するには、まず定義と対象を明確にする必要がある。
余計なお世話だが、ジャーゴンのすり合わせをすれば、君と彼(彼女)がそれほど違っていないことがわかるかも知れない。 >>160も僕だ。
記入漏れご容赦。
内容でわかるとは思うが、念のため。
補足として、ヴィトゲンシュタインを3行でまとめておこう。
哲学は言葉によって成立する。
これまでの哲学はその言葉の使い方を間違えている。
言葉で表現できないものは哲学にならない。 >>160
論理が飛んでいるのでさっとレスするが、
>論理も哲学も(記号を含む)言葉によって表現される。
そんなことは知っている。
>その意味での「5.6 私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」なのだ。
ここも有名な。当然知っている。
>この大前提において、言葉によらない(エポケーという)態度や(精神の
>共通性のような)超越論的主観性を設定するフッサールとは無関係だし、真逆ということになる
俺はフッサールとヴィトゲンが同じなんて書いた覚えもないし、フッサールの超越的自我なんかより
ずっとヴィトゲンのいう「世界の境界としての私」のほうが真実に迫っていると
理解している、という文脈で出したので、何でこんなことを書いているのか
理解に苦しむ。
>君の勘違いは、その前提を見過ごして、ヴィトゲンシュタインが実在や人間自体
>を対象とした「存在論(哲学)」を展開していると思いこんだところから来ている。
「存在論=哲学」なんて俺は理解してないし(認識論、感性論・美学、倫理学とかも
哲学)、かつ、おれはヴィトゲンを存在論だと言った覚えもない。
言っても考えてもいないことで、攻撃されてもな。
>君と他の人とのやりとりもそうだが、議論するには、まず定義と対象を明確にする必要がある。
これはむしろ俺にとっては君に言い返したい言葉だが、
おそらく議論の前提が最初からずれまくっているだけだと思う。 「論理哲学論考」は、むしろ、カント的認識論に問題意識は近いだろう。
だが、ヴィトゲンシュタインがハイデガーにわりと好意的な発言をしていたこと
もよく知られた事実ではあるけどね。
また論考から探究への過程でヴィトゲンの問題意識もかわっていく。
個人的に論考の魅力は、私の捉え難さって点に気付いていた点にあるとは
思う。これはあくまで個人的に感じていることに過ぎないが、
このひとはたぶん、文句をやたらつけたがるので、何か書いてくるんだろねw でも考えたら、
>どう読んでもも、
>>「世界に属さず世界の限界としての主体=私」とは無関係、というよりむしろ真逆だということがわかるから
>なんて結論になるわけないのだがね。
ここについてはちっとも、このひとは答えることができてないんだよなあ。
どういう意味で「真逆」と表現したのか?
俺がヴィトゲンをフッサールと同類と誤解していたゆえに、
こんなことを言ってしまったのか。。 >俺がヴィトゲンをフッサールと同類と誤解していたゆえに、
>こんなことを言ってしまったのか。。
ここは、日本語が通じてないな。
俺がヴィトゲンとフッサールを同類と理解している、と誤解していたがゆえに
こんなことを書いてしまったのだろうか?
と訂正。 >>155
私は>>94で、「デカルトが方法的懐疑によって“疑っている私は疑えない”という究極の“真”としての私を超越論的自我というが、
問題は、デカルトが方法的懐疑による究極の思考過程に於いて認識した“あるもの”を何故“純粋な精神(=私)”と定義したかである。
本来、人間の“心(精神)と体(物質)”は、“一つのもの”として存在している。思惟・思考する以前に“心と体”はもともと一体化しているものである。」と
記述した。
上記の通り、方法的懐疑による究極の思考過程に於いて認識した“あるもの(=超越論的自我)とは思惟・思考する以前にあるものであり、
“心と体”の合一した“一つのもの”として認識するのが正しいと解釈している。
私たちは、方法的懐疑の思考を究極にまで深めている過程で“疑っている私は疑えない”という超越論的な“あるもの”を、
認識するが、その“あるもの”は思惟・思考する以前の“心身合一”した存在として捉えられている。
この“あるもの”を冷静に分析すると、体(物質)から分離した“純粋な精神(心)”だけが超越論的自我として認識されて
いるのではないことに気がつく。
それから、デカルトが“疑っている私は疑えない”という“私(超越論的自我)”が、“純粋な精神”として認識されるという
論理的な根拠をデカルトは示していない。“私”が純粋な“精神”であるならば、誰しもが理解出来る倫理的根拠を示す必要があった。 >>170
訂正
倫理的根拠を示す
↓
論理的根拠を示す >>170
なんとなく理解はできたし、もう一人の人よりよほど真面目に書いている分
面白いのだけれども。
超越論的主観 に対応する概念として 超越論的客観 なんて概念をもってくると
新たな二元論を作り出しているのではないか、という批判は免れないとは思うし、
ハイデガー理解とはずれるとは思う。
俺はハイデガーをそこまで評価しているわけでもないが。
デカルトが思惟する実体を特権化してしまったのだが、元をだどると、
プラトンが、ソーマとセーマとかいって、肉体拒絶の方向性をすでにうちだしては
いるんだよ、
俺自身は、思惟を特権化したのがそもそも間違いであって、
思惟していない、普段の生活においてすでに、肉体も私も不可分なものとして
存在しているのが重要だと理解している。その点でハイデガーとも立場が違う。
そんなに偉そうにいえるほどの哲学体系を持っているわけではないけどね。
そう考えると、超越論的主観を心身合一として理解する必要性もないとは思っている。 >>172
>思惟してない普段の生活において、すでに、肉体(物質)も、心(精神)も、私も不可分なものとして存在しているのが
重要だと理解している。
>私も、その通りだと理解している。この日常の非本来性の次元より、方法的懐疑、或いは現象学的還元という
思考法の活用により種々の問題を解決するのが、新しい哲学の方向性と考えている。
、 疑っている自分をがナルシストくささ。疑いえないなら〇。他人を疑えない純粋さが悪霊に気に入られたんだろうな。自 己 はあるようでないと思う。多動性はあっても
受動性や、自動性というとおかしい。悪霊に料理されずに食われたから世界が出来上がるが、魔性だよな。 心と体の一体化は古いな。心と体は最初が違う異質なものだが。 >>173
現象学的還元 って言葉にこだわるなら、フッサールともハイデガーとも
違う方向でそれを考えないとならないとは思うね。それが現象学的還元という
言葉を使うのが正しいかは疑問だが。ハイデガーの本来性・非本来性の区別ってのは
いろいろ問題が多いし、結局それがファシズムに結び付いたとは理解している。
ハイデガー派のひとは、あれはエピソードに過ぎないとは言い張るだろうが。 >>166
>論理が飛んでいるので
いつも逃げの言葉を最初に持ってくるんだねw
別に構わないが。
>そんなことは知っている
>当然知っている
哲学が言葉である(言葉に過ぎない)ということは理解してるんだね?
それなら、僕が>>160に書いた「言葉によらない(エポケーという)態度や(精神の共通性のような)超越論的主観性を設定するフッサールとは無関係だし、真逆ということになる」ということも理解できるんじゃないか?
ヴィトゲンシュタインは、哲学は言葉に過ぎないと指摘している。
フッサールは、哲学は言葉ではないものを哲学にしようとした。
>ヴィトゲンは「私」の問題については、フッサールよりはずっと優れた視点を持っている
>ヴィトゲンはフッサールのように、超越論的自我を設定してしまわないという点で
君は、>>123と>>133でこう書いた。
つまり、ヴィトゲンシュタインとフッサールの「私」を、同類の「私」としてとらえているわけだ。
>俺がヴィトゲンとフッサールを同類と理解している、と誤解
だから、君が二人を同類としてみているというのは、僕の誤解ではないのだ。 >>167
>「論理哲学論考」は、むしろ、カント的認識論に問題意識は近い
カント的認識論てなに?
これは質問じゃなくて、君のジャーゴンの曖昧さを指摘してると思ってくれ。
>ヴィトゲンシュタインがハイデガーにわりと好意的な発言をしていたこともよく知られた事実
君の有名病は、やっぱり誰かの解説のつまみ食いから来てるんだろうな。
断片的な発言やエピソードで「哲学」を理解するのは無理だと思ったほうがいいよ。
ヴィトゲンシュタインについては>>161に3行でまとめておいたが、冗談で書いてるわけではなく、そのままなんだよ。
ちなみに、論及から探求へと変化したのではなく、論及を具体的な現実に当てはめたのが探求だ。 >>168
ヴィトゲンシュタインの「哲学」上の「私」は、言葉としての「私」であって実在としての私ではない。
フッサールは態度や共同性を含めた実在の「私」だ。
このふたつの「私」は、まったくの別概念だ。
ここでもまた、君の言葉の定義の曖昧さが出てしまっている。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています