哲学は高尚なものではないよな? [無断転載禁止]©2ch.net
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哲学というとなんか難しいものだとか高尚だとか思われるけどそんなものじゃないよな
答えがない問題をひたすら解き続けるようなものだろ?
自分なりの答えを探して…
なんか難しい言葉をたくさん使う人いるけど、俺はいろんな人の意見が聞きたいから難しいものという意識をとっぱらって、哲学の歴史全く知らなくてもいいからいろんな人が来て欲しいと思うんだけど、どうかな?
哲学自体は持て囃されるものではないよな
最も人の同意を得られた哲学者が有名になるのであって…
人を知識が無いから見下すような人間にはなりたくないなあ
初立てでした 「双方から(見て)間隙となる」場所が「さかひ(境/堺)」であり、そこに交換の
場所(市場)が成立したと見るのは、不自然なことではないだろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/堺
堺
地名は、方違神社付近がかつて摂津国・河内国・和泉国の3国の「境(さかい)
であったことに由来する。市街地はその西方に形成され、大小路通を境に
摂津国住吉郡と和泉国大鳥郡に跨っていた。 「さ(挿)す」、つまり、「間に入る/入れる」ことを意図するのに用いられる
「さ」が、「さ(裂)く」を介して、「さ(晒)る」≒「reveal」における「さ」
と関係している可能性は、論理的には否定できないが、そのような関係性は、
具体的な表現の用法から確認されるべきものであり、今のところ私には、この
2つの「さ」の用法に関係があるのかないのかよく分らない。 ところで、>>210の万葉集の歌は、私が高校生だった時の教科書にも載っていた
ようにおぼろげに記憶している。当時は、勉強そのものにまるで興味のない生徒
だったが、奈良の山の風景を読んだ歌として何か不可解なものを感じたような
気がする。万葉集を読んできた多くの日本人は大半が、この歌を、奈良の三輪山
について描いたものとして受けとめてきたのだろうか。それとも、その都度、
何か踏絵を踏まされているような感覚を抱いたのだろうか。「みさく」という
表現を「遠くを望み見る」と解釈するにせよ、「垣間見る」と解釈するにせよ、
奈良の三輪山の情景として何も違和感を抱かないことが、おそらく、社会に
うまく適応するための条件なのだろう。 >>213
ウィトゲンシュタインの言い方をそのまま借りるなら、表現における発音の意図
とは、表現におけるその発音の用法であり、用法を離れて特定の発音そのものが
どのような意図を有するのかを問うことは無意味である。したがって、発音の
意図を問うなら、その発音が用いられている複数の異なる表現の間の関係性を
メタ言語的に記述しなければならないことになる。 >>197
「刺身(さしみ)」の語源を、魚の中骨が「身と身の間に差し挟まれた/挿入された
状態」に由来するとしたが、「刺〇」の形態で「○によって挟まれた」と解釈
できる類例が見当たらない。表現の形態が孤立しているからこそ解釈が不明に
なっているとも考えられるが、より自然な解釈は、「さし(刺)」をそのまま
「せ(狭)し」の古形である「さ(狭)し」と考えて、「さ(狭)し身」と理解する
ことかもしれない。古事記には「刺国大神」というのが出てくる。この場合
も「刺国」が何を表すのか不明だが、「若狭国」の「若狭」を「若(minor)
narrow(若)」と解釈できることから類推すると、「さしくに(刺国)」は、
「さ(狭)し国」≒「narrow land」と解釈され得るように思える。 類例が見当たらないと言ったばかりだが、「さすまた(刺又)」が、「又によって
挟む」と解釈できるとするなら、「身で(中骨を)挟む」という表現もあり得る
ようにも思える。 ところで、>>205-210
「見さく」、「語りさく」の」「〜さく」は、現代語の「耳にはさ(挟)む」と
いう表現における「はさ(挟)む」に比せられるような意図を表す表現ではない
かという気がする。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/213346/meaning/m0u/
耳(みみ)に挟(はさ)・む の意味
出典:デジタル大辞泉
ちらっと聞く。ふと耳に入る。小耳にはさむ。「妙なうわさを―・む」 「耳(みみ)に挟(はさ)む」という表現に関与しているインデックス性を考慮すると、
「挟(はさ)む」が表しているのは、噂などが「間隙に入ってくる」、つまり、
「さ(挿/差)しい(入)る」ことだろうと思う。噂などが「間隙に入ってくる」作用
のインデックス性を反転させて、それを受ける側のインデックス性として表現
したのが「挟(はさ)む」であると解釈される。
したがって、「さ(挿/差)す/挟(はさ)む」という反転関係が成立していると
想定することができ、例えば、「口を差し挟む」という表現には、反転関係に
あるインデックス性の両方が関与していることになる。 インデックス性は、自分と相手の間の関係において容易に反転させて用いる
ことができるからこそ、「口を挟(はさ)むな!」という表現が可能になる。 「口を挟(はさ)むな」とは、「さ(差/挿)し出がましいことを言うな」という意味である。 書類をファイルに挟む
指をドアに挟む
噂を耳に挟む
他人の話に口を挟む Stick your nose where it belongs!
Keep your nose out of my business! 学研全訳古語辞典
ふりさけ−・みる 【振り放け見る】
ふり仰いで遠くを望み見る。はるか遠くを望み見る。
出典古今集 羇旅
「天(あま)の原ふりさけみれば」
[訳] ⇒あまのはら…。 >>224
この歌における「ふりさけ」の解釈は、一般に、完全に正しいものと受けとめ
られて定着していると言っていいだろう。それでも、既に形成されている
情景のイメージに合わせて表現を解釈するのではなく、表現そのものを検討
した場合、この解釈がどのように正当化されるのか私には疑念が生じる。
岩波古語辞典で「ふりさけ【振り放け】」を引くと、やはり、「振り向いて
遠くをのぞむ」と意味が説明されている。しかし、「ふり」には、「見る」
という意味は含まれていないはずであり、この場合、「さけ」が付けられて
いるのは「見る」ではなく、「ふり」である。 >>207に引用した岩波古語辞典の「B《対象を遠ざける意から、...
動詞を承けて、対象と距離を置いてする意》遠くから...する」という
「〜さく」の解釈を忠実に適用するなら、「ふりさけ」は、「遠くから
振り向いて」または「遠くを振り向いて」と解釈しなければならないはず
である。しかし、「振り向く」は方向性に関する動作であり、「後ろを
振り向く」や「振り仰ぐ」は自然な表現であるが、「遠くから振り向く」
や「遠くを振り向く」というのは奇妙な表現であると言わざるを得ない
だろう。だからこそ、辻褄を合わせるために、「ふる」に本来、含まれて
いないはずの「見る」という意味を含めて、「振り向いて遠くをのぞむ」
としているのだろう。さらに、学研全訳古語辞典では、「ふりさけみれば」
の「見る」を無視するわけにいかないので、「〜望み+見る」としている
のだろう。 ところが、「〜さけ」を、>>218で述べたとおり、「耳に挟む」という表現
における「挟む」に比せられる、「間隙に入る」ことに関係する様態を表す
ことを意図していると想定すると、「ふりさけ」は、「ふと振り向いて」や
「ふと仰いで」と解釈することも可能になる。 既に引用した「〜さく」の事例について、同様の文脈で日本語以外
の言語では、どのような表現が用いられるだろうかとしばらく
考えてみた。
>>205
出典万葉集 一七
「しばしばもみさけむ山を心なく雲の隠さふべしや」
出典万葉集 四一五四
「語りさけみさくる人目乏(とも)しみと」
>>209
>ここにその兄王、兵士を隠し伏せ、衣の中に鎧を服て、河の辺に到りて船に
>乗らむとする時に、その厳(ヨソヒ)餝(カザ)れる処を望(みさ)けて、
>弟王その呉床に坐すと以為ひ、 「〜さく」が、「間隙に入る」ことに関係する様態を表すことを意図している
のではないかという偏見を既に抱いている私にすぐに思い浮かぶのは、仏語
の「fugitif」や「fugace」という形容詞であるが、「〜さく」は助動詞的に
動詞によって表される動作/作用の様態を表現していると考えられるので、
「fugitivement」(英語では「fleetingly」)ということになる。そこで、
仮に「fugitif」や「fugace」が「〜さく」によって表されている様態に
対応すると想定すると、「〜さく」は、「〜避(さ)く」であるように思え
てくる。その場合、「〜さく」は、「遠くから〜する」や「遠くを〜する」
ではなく、「〜」の動詞が表現する動作/作用そのものが「離れる」と
解釈されることになる。
見てのとおり、私の解釈は揺れている。ただし、そのことによって、私は
自分の解釈が直ちに無意味になるとは考えていない。問題は、私の解釈が
妥当なところで揺れているのか、まったく見当違いなところで揺れているの
かである。今のところ、そのどちらもあり得ると感じている。 >>224
「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも」
この歌を詠んだ阿倍仲麻呂をWikipediaで検索してみると、この歌を題材に
した絵が掲載されている。ここでさらに疑念が深まる。なぜなら、この絵に
描かれるように月を直接に眺めることは、竹取物語にも明確に書かれている
ように「忌むべきこと」とされていたからである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/阿倍仲麻呂
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/09/Lune_a_Kasuga_Yoshitoshi.jpg >水底の月の上より漕ぐ船の棹にさはるは桂なるらし
>これを聞きて、ある人のまたよめる、
>かげ見れば波の底なるひさかたの空漕ぎわたるわれぞわびしき
これは、土佐日記からの引用である。月を歌に詠むのに、空の月ではなく、
水に反射された月を詠んでいる。現代の読者は、そのことに詩的感性を
感じるわけだが、月を眺めるのに空を見上げるのではなく、水に映った
「かげ(cast image)」を観ることは、むしろ、その時代には一般的で
あったものと考えられる。 月を直接に眺めることが不吉なこととされることは、日本の古典文学の解釈
において、いわば常識とされているはずである。なぜ「ふりさけみる」場合
だけ、例外として解釈されるのだろうか。歌を詠んだ本人が空の月に対して
どのような思いを抱いていたとしても、月を直接に眺めることが一般に
不吉であると受けとめられていた限りで、「ふりさけみる」が意図的に
「空を見上げて月を望み見る」ことを表現していたのなら、この歌を聞く
人々は、この歌に不吉さを感じたことになるはずである。 日本語の表現とドイツ語の表現は、しばしば、非常によく似ている。
「くる(狂)ふ」とは、再帰形の動詞として、「自らが軸を中心に回転する」こと
を表すことを意図しているものと考えられるが、ドイツ語の「spinnen」も
「くる(狂)ふ」ことを表すのに用いられる。
http://www.wordreference.com/deen/spinnen
II v/i umg (verrückt sein) be mad (oder nuts, crazy, off one’s rocker); (Unsinn reden) talk rubbish;
du spinnst wohl! you must be crazy (oder off your rocker)!;
spinn ich? am I imagining things?;
ich glaub, ich spinne ärgerlich:
I don’t believe it!, it can’t be!;
er fängt an zu spinnen he’s (slowly) going mad (oder [a]round the bend),
he’s losing his marbles
https://en.wiktionary.org/wiki/Reconstruction:Proto-Germanic/spinnan%C4%85
Etymology
From Proto-Indo-European *(s)penǝ- (“to weave, braid, spin”). https://ja.wikipedia.org/wiki/イバラエイ
>日本刀の柄、鞘に用いる最上級の皮として梅花皮(かいらぎ)と呼ばれている。
2017/01/25(水) 09:30:30.90 0
「かひろく」または「かひろぐ」という表現は、現代の日本語に対応する
表現を見出すことができないため、何か「古代」を感じさせて、神秘的な
感じがする。しかし、>>479に述べた考え方を応用すると、「かひろぐ」
は、再帰形の動詞が名詞化された「かひろぎ」から、今度は逆に動詞と
して派生させられたものと考えることができ、「かいろぎ」の元となった
再帰形の動詞は、「かひろふ」であると私には思われ、推定される形として
は「かひる+あう」という奇妙なものであるが、「〜・る」動詞の再帰形
を真似て作られていると考えると、元になった動詞は、単に「か(交)ふ」
である。つまり、「かひろく/かひろぐ」という動詞は、最初から再帰形
である「かひ」が重ねて再帰化された動詞と見ることができ、語源的に
解釈して英語で表現するなら「switch back and forth」ということになり、
現代の日本語で表現するなら、擬態語を用いて「ひらひらする」という
ことになるだろう。 頭のわるいAIをすごいとあがめないと生きていけないITファーミングみたいなキモさ 頭いいと認められないと生きていけない頭の悪い人間がAIに慰められて涙する程度にキモい >>205-229
「見さく」、「語りさく」の「〜さく」の用法は、現代の日本語の「時間をさ(割)く」
という表現における「さく」の用法に近いのだろうという気がする。「時間をさく」
において「さく」が伝えているのは、英語で表現するなら「scarce, but nevertheless」
というニュアンスだろう。
デジタル大辞泉の解説
時間(じかん)を割・く
余裕のない時間を都合つけて、あることのためにふり向ける。
「―・いて人と会う」 http://kobun.weblio.jp/content/みさく
学研全訳古語辞典
出典万葉集 四一五四
「語りさけみさくる人目乏(とも)しみと」
[訳] 語り合って思いを晴らし、会って思いを晴らす人が少ないからと。
この現代語訳は、「ともしむ」という表現の解釈においても誤っていると
考えられる。「ともしむ」は、「羨しむ」とも書かれることからも分る
とおり、英語で表現するなら「I miss you」の「miss」に相当すると
考える方が適切だろう。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/160384/meaning/m0u/
ともし・む【▽乏しむ/▽羨しむ】 の意味
もの足りなく思わせる。うらやましがらせる。 暫定的な結論として導かれるのは、古語の「〜さく」が表現しているのは、
英語を用いるなら「take a spare moment to 〜」に相当するということ
である。すると、この場合の「さく」は、「避(さ)く」ではなく、既に
示唆したとおり、「さ(裂)く」のインデックス性から、「間隙に入るように
〜する」と理解できるのではないかと思われる。 >>242
「とも(乏)しむ」は、日本語をメタ言語として用いて説明するより、むしろ、
フランス語の「manquer à [qqn]」に対応すると考えた方が分りやすい。
manquer à [qqn] vtr ind (créer un vide) (subject/object inversion) miss vtr
Tu me manques. Depuis son départ, son père lui manque.
I miss you. He has been missing his father since he left. 「とも(乏)しむ」も、他の多くの「〜む」という形の動詞の場合と同様に
再帰的な表現であると考えることができるだろう。 「アタラ(可惜)」、「アタラシ(可惜)」という表現について以前、次の
ように書いた。
2017/02/07(火) 15:15:46.53 0
>「アタラ(可惜)」、「アタラシ(可惜)」という表現においても、「あた」
>自体は同様に、「adéquation」に近い感覚で用いられている。よく分らない
>のは、「ら」および「らし」という語法の方である。
ふと気づいたのだが、「惜」という当て字(漢字によるメタ言語)と、辞書の
文法的説明に引きずられてどうも難しく考えすぎていたようだ。
「あたら」は「あた(当)る」の活用として、「あたらし」は、「『あたり』を
生じる」こととして解釈できる。それが、なぜ、「惜」が当てられるような意味に
なるのか、後で書き込むことにする。 「あたら」の「あた」は、既に述べたとおり、仏語の「adéquation」に
相当するが、英語で「あた(当)る」を「correspond」と訳すとするなら、
「あたら」は、「corresponding」に相当する活用形であり、「あたらし」
は、直訳するなら「causing corresponding」となるような形である。
「あたら」は、語源的に見れば、「(〜するのに)適当な」、または
より解釈を加えるなら、「適当な使い道のある」という意味である
と考えることができる。 問題は、その「あたら」がなぜ、漢字の「惜」がメタ言語として適用される
ような意味で用いられているかである。これは、「あたら〜を」という表現
を感嘆を表す常套句と解釈するならすぐに理解できる。例えば、現代語
でも「食べられるものを」、「使えるものを」などの句が感嘆を表すように
用いられる場合、「まだ〜できるのに勿体ない」というニュアンスを帯びる。
それとまったく同様に、「あたら〜を」は、「適当な用途があるのに、
そんなことに使う」という表現となっていると考えられる。 岩波古語辞典で「あたら」を引くと、「立派なものが、その価値相当に
扱われないことを惜しむ意」と記載され、「あたらし」は、「アタリ
(当)と同根。アタリ(当)・アタラシの関係はユキ(行)・ユカシ(奥に行きたい、
奥ゆかしい)と同じ。対象を傍から見て、立派だ、すばらしと思い、それが、
その立派さに相当する状態にあればよいのにと思う気持ち」と説明されている。
この説明は、「あたら」、「あたらし」の意味の解釈としては、完全に正しい。
ただし、表現用法から生じているニュアンスを語源そのものに背負わせてしまう
過ちを犯しているように私には思われる。 語源の解釈がどうであれ、結局、「あたら」が、辞書に記載されているとおりの
意味で用いられているのなら、その解釈を導こうとする試行錯誤は無意味だった
のだろうか。私はそうは思わない。確かに私は錯誤を繰り返してきたが、それ
なしで言葉の辞書的意味を与えられても、私にはその言葉が表現として理解できる
ようになったとは感じられない。そのような意味の割り当て作業は、私には、
アドホックな問題解決法にしか見えないのである。 では、「あたら」は「あ(当)たる」という動詞の活用形で、「correspond」に
対する「corresponding」のような形であり、「あた」は仏語の「adéquation」
に相当するという解釈により、何が得られたのだろうか。それは、「あたら」と
いう言葉の辞書的意味の変更ではなく、表現としての解釈の一般性である。
例えば、現代の日本語に「やたら」という表現がある。「あたら」と形は似て
いるが、「あたら」の辞書的意味を参照しても、そこから「やたら」の意味を
派生的に導くことはできない。ところが、ここで、「あたら」に新たに与えら
れ表現としての解釈と、多くの日本語の表現において「や」が、しばしば、
ドイツ語の「weg」や英語の「way/away」に対応するという私の以前に述べた
指摘を組み合わせると、「やたら」は、「あたら」の「あ」を、外れる/離れる
方向性の作用を表現する「や」で置き換えたものとしてそのまま解釈が可能
となる。つまり、「あたら」が「(〜するのに)適当な」を表しているとすると、
「やたら」は、「(〜するのに)適当であるのを外れて/超えて」を表現している
と理解できる。むろん、この解釈が妥当であるという保証はないが、そのような
推測が可能となること自体が、表現の解釈の一般化の効用である。 私は、以前、「あた」について次のように述べた。しかし、今となっては、
この問題は、少なくとも私の中では既に解決している。
2017/01/01(日) 10:19:48.97 0
現代の日本語の「あたら(新)しい」という表現が「あたらし」と「あらたし」
の交錯のあと跡(あと)を引きずっているように、「あたらし」の語源的要素
であるとされる「あた」辺(あた)りの表現の関係はきわめて錯綜している。
岩波古語辞典には、「あた【仇・敵】」の項目に「アタは、アタナヒ(寇)・
アタヒ(能)・アタヒ(価)・アタヘ(与)・アタラ(可惜)・アタラシ(可惜)・
アタリ(当)などに共通の語根」と記載されている。確かに、列挙される表現
に見られる「あた」には、英語や仏語であれば、「merit/mériter」や
「measure/mesurer」に関連する表現によって伝えられるような表現の意図が
かかわっているように思えるが、これらの表現の関係をメタ言語でうまく
整理することは相当に困難である。 「あたら(可惜)」が「あ(当)たる」の活用形に相当するような形態に過ぎず、
この場合も「あた」は、「(〜するのに)適当な」を表し、「惜」という漢字が
当てられるようなニュアンスは、「あたら〜を」という感嘆表現から生じて
いると考えるなら、「あた」にまつわる一連の表現の関係は、(少なくとも
私の憶測においては)容易に整合的に整理できることになる。
「あたら」の「あた」も「(〜するのに)適当な」を表すという確信が得られる
と直ちに想起されるのが、「あた」が、ハイデガーの存在論でも議論される
ドイツ語の「zuhanden」(「道具的」、「手もとに(ある)」などと訳される)
という表現である。以前、既に示唆した「あた」は、遠隔を表す「あ」+
「た(手)」ではないかという憶測が私には急に尤もらしく思えてくる。 まず、「あた(辺)り」という表現については、ドイツ語辞書のDudenで「zuhanden」
を引けば、「gegenüber」と記載されているので、「あた」≒「zuhanden」という
解釈はそのまま、「あた(辺)り」の解釈にも当てはめることができる。
次に、「あた(仇/敵)」という表現を考えると、この場合には、単に「伸ばした手が
届く」ような意味ではなく、相手として適当であること(adéquation)が関連している。
この場合に「あた」が帯びる相互性のニュアンズは、「あたら(可惜)」の場合と同じく、
語源ではなく、表現の用法に由来するのだろうと私は考える。つまり、「あた」≒
「(〜するのに)適当な」から、再帰形の動詞の「あたふ」≒「自ずと(〜するのに)
適当する」が形成され、今度は逆にその動詞から名詞としての「あた(仇/敵)」が
導かれたのだろうと推測される。「あたひ(能)」や「あたひ(価)」は、「あたふ」
という再帰動詞をそのまま名詞化したものであり、「あたへ(与)」は、本来の
再帰動詞を他動詞として用いることにより導かれていると考えられる。 最近、思想関連の新刊の書籍で「中動態」が話題になっているようだ。
図書館にはまだ入っていないので、代わりに木村敏が中動態について書いて
いる「あいだと生命」という本を借りてきた。「中動態」について詳しく
検討しているというより、現象学や精神分析の営みを「中動態」という文法
形式で捉えようとしているような印象を受けた。さらに、「中動態」こそ
が重要だと考えてしまうと、大きな落とし穴があるように私には感じられる。
重要なのは、表現をうまくメタ言語で記述できることであって、「〜態」を
優先することではない。統合失調の妄想に関して、「盗聴されている」、
「監視されている」と妄想する「つつぬけ体験」が議論されているが、
妄想が妄想であったとしても、(現代?)社会において盗聴監視が日常的に
行わている(/行われてきた)現実との関連は完全に無視されている。
統合失調だからといって、社会の盗聴監視から外してもらえるわけでは
ないのだから、「妄想」と「現実」の関係ははるかにより複雑なはず
であり、「中動態」に着目するだけでその関係がうまく記述できるように
なると考えるのは楽観的すぎるだろうと思う。 これは自省として書くのだが、「あたら(可惜)」を他の「あた」にまつわる
表現との関係で整合的に解釈することが、とても困難に感じられた原因は、
私自身が「惜」によって表されるニュアンスを「あたら」に語源的
に求めようとして、用法を考察することを疎かにしたことにある。つまり、
「あたら」という表現を構成する要素にばかり注目して、「あたら」と
という要素が用いられている文脈を考察することを怠り、「木を見て森を
見ず」という状態に陥っていたことになる。いくら「あたら」の語源を
探っても「惜」のニュアンスを導き出すことができないのは、例えば、
「いい大人が」という表現において、いくら「いい」の語源に注目しても、
この場合の「いい」によって担われている「(大人が)不相応に」という
ニュアンスを導き出すことができないのと同じことである。 ここで議論している「あた」とはまったく無関係に、以前、私はハイデガー関連
のスレッドで、ハイデガーの存在論における基本的な概念であり、「道具存在」、
「手許存在」などと訳されている「Zuhandensein」について、これを普通の日本語
にするなら、「手頃にあること」であると指摘したことがある。面白いことに、
「あた」がドイツ語の「zuhanden」に対応すると解釈した場合、「手頃」という
表現はそのまま「あた」の語源的意味の現代語訳となっていることに気づく。 「手頃」の「ころ」は、「値ごろ」、「年ごろ」などの類似表現と比較して
みれば直ちに分るとおり、「その『あた(辺)り』の」という意味を表して
おり、「ころころ」、「『ころ』がる」の「ころ」と語源的に同一であると
考えることができ、英語の「around」や「about」に相当する。「〜ころ」
という表現における「ころ」は、例えば、英語で「That's about it」と
言う場合の「about」に対応する。つまり、「手頃にある」とは、「手の
『あた(辺)り』にある」ことをである。 ところで、「ある」という動詞における「あ」は、遠隔を表す「あ」であり、
「ある」の語源的意味を英語で表現するなら、「be around」だろうと以前に
指摘した。したがって、「あた」の「た」を「手」であると解釈するなら、
「あた」の語源的意味は、「あ(≒辺り)+た(≒手)」、つまり、「手の辺り」
ということになって、現代語の「手頃」にそのまま対応していると理解する
ことができる。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/151310/meaning/m0u/
て‐ごろ【手頃】 の意味
1 大きさ・重さなどが、手に持つのにちょうどよいさま。取り扱いに
便利なさま。「―な厚さの辞書」
2 能力・経済力や望む条件などにふさわしいさま。「―な仕事」「―な値段」 >>254
「あたら(可惜)」の「あた」は、「(〜するのに)適当な」を表し、「惜」という
なニュアンスは、「あたら〜を」という感嘆表現から生じていると「あたら」の
解釈を一般化することにより、「〜を」についても、既に確認されている解釈を
より一般的な視点から捉え直すことが可能になる。 例えば、現代の日本語で「若い命を」と聞けば、やはり感嘆表現であると
直ちに理解されるものの、「〜を」の後に、「惜しくも失った」、
「無駄にした」、「粗末にする」など、何らかの表現が省略されている
と感じられる。しかし、古語の「あたら〜を」という表現からも確認される
とおり、「を」は、本来は感嘆詞として用いられていたものであり、
「〜を」で完結していたのである。 岩波古語辞典の基本助詞解説において、「を」について、「本来は感動詞
であったものと思われる。」、「感動詞『を』とは物事を承認し確認する気持ち
を相手に表明する語であった。」、「こうした用法から、動作の対象の下について、
それを確認するためにこの語が投入された。そこからいわゆる目的格の用法が
生じたものと思われる。」と記載されている。
しかし、「あたら〜を」において、「あたら」に「惜」という漢字が当てられる
ニュアンスが、「〜を」という形から生じていることからも分るとおり、「を」
は、必ずしも「承認し確認する気持ち」を表現しているわけではなく、むしろ、
感嘆の呼び声であると考える方が妥当だろう。すると、現代の日本語において
目的格を表すように用いられている「を」は、既に以前のスレッドで検討した
「をかし」、「を(招)く」、「を(食)す」、「をさ(治)む」、「をし(教)ふ」
などの「を」と語源を同じくして、「呼びかけの声」であると考えられること
になる。まあ、「を(惜)し」も、その「呼びかけの声」から派生しているの
ではないかと推測されることになる。なぜなら、「あたら」に「惜」の
ニュアンスをもたらしたのは、「あたら〜を」の「を」であり、現代の日本語
で考えても、「若い命を」、「使えるものを」、「食べられるものを」、
「着られるものを」などの表現において、「惜しい」というニュアンスを
もたらすのは「を」に他ならないからである。 まあ、「を(惜)し」も(誤)
また、「を(惜)し」も(正) 「を(惜)し」の語源的な意味を推測するなら、まさにそのまま「『〜を(という
感嘆)』を生じる」を表していることになるだろう。したがって、「〜を」
という感嘆表現の方が、「を(惜)し」という表現に論理的に先行することになる。
岩波古語辞典の「あたら(可惜)」および「あたら(可惜)し」の解釈の混乱(と
私には見えるもの)は、「あたらし」と「を(惜)し」の共時的対立にだけ注目
して、それぞれが表現としてどのように生成されているかを考慮していない
ことと、感嘆を表す「を」を、「承認し確認する気持ち」を表していると
より限定的に捉えてしまっていることに起因している。 >>264
時代によって言葉は変わる、その説明も時代と地域を特定してから出直せ。
おまえがやっているのは言葉の簡略化であって合理化にすぎない、
曖昧のまま扱うのではなく具体的に扱う姿勢がその証拠である、 情報が乏しいと、唯一の情報を得てそれが正しいと派生してくる。
そんな共通解釈に意味などない。 >情報が乏しいと、唯一の情報を得てそれが正しいと派生してくる。
そのようにして日本語の表現に漢字が恣意的に割り当てられているのですね。
>そんな共通解釈に意味などない。
その共通解釈が意味不明なまま一般化してしまうから、語源的に再解釈する
リバース・エンジニアリングが必要となるのでしょう。 「を(惜)し」の「を」が、感嘆を表す「を」であることのさらに分りやすい例が、
現代語でも普通に使われる、口惜しがるときの「(〜したもの)を」と言うときの
「を」の用法だろう。 「を(惜)し」が「『〜を(という感嘆)』を生じる」を表していることにより、
再確認されるのが、日本語の形容詞の「〜し」の「し」が基本的に、英語で
表現するなら「causing 〜」を意図するように用いられていることである。 「をかし」などの「呼びかける声」を表すと考えられる「を」が、英語の「voice」
の語源ともなっている印欧語における声の語源とされる「*wṓkʷs(“speech, voice”)」
にとても似ているように見えることは、以前に指摘した。
https://en.wiktionary.org/wiki/vox
Proto-Indo-European *wṓkʷs(“speech, voice”)
ここでの「を(惜)し」についての検討を踏まえて、「を」についての言葉遊びを
さらに一歩進めると、「を」によって代表される声そのものが、英語を用いる
なら「why-not-ness」とでも呼ぶべき意図を表しているのではないかという、特定
の言語に限定されず、ことによると人の言語にさえ限定されない、(原初的=退行的
に見た)声の用法についての極めて一般的な憶測が生じる。
これについて、また後で時間のあるときに書こう。 さて、「を(惜)し」は「『〜を(という感嘆)』を生じる」を表していると指摘し、
その具体例として、古語の表現である「あたら〜を」だけでなく、現代の日本語に
おけるもったいないというニュアンスの「(食べら/着られるれるもの)を」という
表現や、口惜しみを言うときの「「(〜したもの)を」」という表現を挙げた。
ところで、この感嘆の「〜を」は、それがどのような感嘆であるのかを記述しよう
とするなら、「なぜ〜なのか」を暗示していると考えることができる。 さらに、この場合に暗示される「なぜ〜なのか」は、単に理由や原因を問う疑問では
なく、「なぜ〜ではないのか」または「なぜ〜しないのか」という反語的な問いである
と考えられる。つまり、「(食べら/着られるれるもの)を」は、「なぜ食べない/
着ない(で無駄にする)のか」、「(〜したもの)を」は、「なぜ〜しなかったのか」
という反語的な問いを暗示していると解釈することができる。したがって、「惜しい」
という感嘆を伝える「〜を」が伝えている意図を英語で表現するなら「why not?」
(例えば、"Why don't they 〜?"、"Why didn't I? 〜")ということになるだろう。 "Why didn't I? 〜"(誤)
"Why didn't 〜I?"(正) ところで、岩波古語辞典は、基本助詞解説において「感動詞『を』とは物事を承認し
確認する気持ちを相手に表明する語であった」と説明しているが、その根拠として
相手に返事をするときの「を」を挙げている。そこで、同辞典でその返事を意図する
「を」を引いてみると、次のように記載されている。
>を[感] (女の)応答・応諾の声。「『近江の君、こなたにを』と召せば『を』と
>いとけざやかに聞こえて出で来たり」(源氏 行幸) 引用される文例を見て誰でもすぐに気づくことは、この事例において、応答・応諾の声
とされる「を」が、「こなたにを」という呼びかけの声に応対するものとして発せられて
いることである。感嘆の「を」が、英語で表現するなら「why not?」を暗示することを
応用してこれを英語にして解釈するなら、「Why not come here?」と呼びかけられて、
「Why not?」と返事をしていると理解することができる(英語の代わりに仏語の
「Pourquoi pas?」やポルトガルの「Pois não?」などの返事を考えてみてもいい)。 では、その「why not?」を「〜を」からどのように「目的格の用法が生じた」の
だろうか。私には、答えは既に出ているように感じられる。例えば、「水!」、
「救急車!」と誰かが発言したとしても、その発言の状況について何も知らない
なら、「水!」は、「水が天井から漏れている」ことを伝えている可能性も
あり、「救急車!」は「救急車が来た」ことを指している可能性もある。ところが、
「水!」ではなく「水を!」、「救急車!」ではなく「救急車を!」という言葉が
発せられた場合、「水が求められ」、「救急車が求められ」ていることは疑念
の余地がない。この場合、「水を!」は「Why not (give me) water?」を、
「救急車を!」は、「Why not (call) an ambulance?」を表現することを意図して
いるものと理解することができる。つまり、現状がそうなっていないことに
相手の注意を向け、その理由や原因を問う反語的な表現により、そうなるように
願を相手に伝えていると考えることができる。 その「why not?」を「〜を」(誤)
その「why not?」を暗示する「〜を」(正) 我と汝の関係よりも、呼びかけの「を(Why not?)」と応答の「を(Why not?)」の関係の
方が原初的ではないのか、「Why?」という問いよりも「Why not?」という問いの方が
基礎的ではないのかという思いが浮かぶ。 >>280
そうなるように願を(誤)
そうなるように願いを(正) 「そうなるように願いを伝える」と表現したが、この場合、厳密を期すなら、
「〜を」という言葉が発せられるとき、相手に伝えられているのは「願(ねが)ひ」
ではない。「願(ねが)ふ」とは、相手に「please 〜」と頼むことであり、
既に指摘したとおり、「ねぐ」という動詞の再帰形である。「ねがふ」こと
は、「そうすることが相手の意向に沿うなら」という条件を伴っている。
それに対して、「〜を」と表現すること、例えば、暗闇において「光を!」≒
「Why not light?」という言葉を発することであり、そうなるべきことを
非人称的に求めている。私が以前、「呼び寄せる」ことを意図しているの
ではないかと解釈した古語の「を(招)く」という動詞が、この「〜を」と
求める行為を表していたのではないかと私には思える。したがって、
「『おき』を生じる」と解釈できる「をかし」は、そのように「Why not?」
という呼び寄せを生じることと理解できる。 「〜を」と表現すること(誤)
「〜を」と表現することは(正) 「を(呼びかけ)」と「を(応答)」の関係は、"the order of things"を参照している。 >>284
「『おき』を生じる」(誤)
「『をき』を生じる」(正) 学研全訳古語辞典
を・く 【招く】
招き寄せる。呼び寄せる。
出典万葉集 八一五
「正月(むつき)立ち春の来たらばかくしこそ梅ををきつつ楽しき終へめ」
[訳] 正月になって春が来たならばこのように梅の花を招き寄せては楽しいことの限りを尽くそう。 「を(呼びかけ)」と「を(応答)」の関係は、「みこと(命/御言」を下す/賜る
人称的関係を、物事が「そうであるはず」の非人称的な秩序を参照する関係
に退行させることにおいて、上下関係よりもむしろ「dictatorial」である
ように私には思える。上下関係は、「みこと」が向けられる方向によって
反転可能であるが、「を(呼びかけ)」≒「Why not?(なぜ〜ではないのか)」
に対する「を(応答)」≒「Why not?(〜でないことがあろうか)」≒
「もちろんです/かしこまりました」には、当然、「そうであるはず」の
関係があるだけである。「を(呼びかけ)」≒「Why not?(なぜ〜ではないのか)」
に対して、「Why not?(もちろんです)」と返すのではなく、「Why?(なぜ)」
と問うことは、問い返すことではなく、「そうであるはず」の秩序に対する
反抗となる。 応答する「Why not?」の不在によって露わになる「Why not?」という
呼びかけの同一性としての自我。 einsame Gegend, Einsamkeit, Demut... 誰かを「惜(を)しむ」とは、"Why (are you) not (there for me anymore)?"と問ふことである。 日々の生活での返済、お支払いでお悩みの方。
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npo法人 sta 話してる内に高尚っぽくなっただけで根っこの部分は実務的な問題から始まってる印象だわ
丸っきり現実離れしたとこから話が始まる奴ってそんないなくね? 2 : 美魔女 ◆m56q6JyM70mL 2017/07/01(土) 00:02:53.10 0
完璧だったら既に哲学を研究する必要などないわ!
それよりも野ションを課すべきよ!
特に女子の立ち野ションは重要よ!!
____
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:. / rィイ | :.:.ヽ: >r/`<ノ .:.::.}ヽ、\:.
/ ∧l;l ! :.:.:.://{二 ̄ .} ..:..::リ \.:\
:. / . / ヽi .:.:.{ /(^` |.:.:.:./ }: . ヽ.:.
/ / } ヽ:.ハ ヤ{ !.:./ |:.:. i '
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l:;:;:l゙リ:;:;:;:;:;l : : : : : : ,,r'" ヽ }, l
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`丶、 \ヽ、_ /
\ ノ 哲学者って好奇心が旺盛で、能力が高い感じ?
俺はなんにでも首突っ込む感じ
色んなことに興味がありすぎて、自分が安定しない
でも結局何にもなれない気がする
何かに興味はあっても仕事にはできない
仕事にするのは大変とか、ポストに就けないとかで 実に高尚なものですよ。
見る人の心が下賤だと、下賤なものになってしまいがちですがね。
例えば↓
34 名前:考える名無しさん 2017/06/29(木) 00:58:44.22 0
美魔女さんのおもらしオナニーの匂いが深い層まで染み込んだ漫湖の臭さがマニアには堪らないのだよ
35 名前:考える名無しさん 2017/06/29(木) 00:59:55.41 0
それにひきかえ、純一の草杉マラは露出されたとたん
シュールストレミングを凌ぐ悪臭に周囲の者は失神してしまうらしい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています