意識のハード・プロブレムについて考えるスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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「意識のハード・プロブレム」とは、
物質および電気的・化学的反応の集合体である脳から、
どのようにして主観的な意識体験というものが生まれるのか
という問題のこと。
このスレでは、意識のハードプロブレムを
解決するべく、『心と脳の関係』について
考えていきたい。 人工意識を考える。
Glasgow Coma Scaleで考えてみる。
1.Eye opening
開眼といわれても困る。人工意識がセンサーを有していれば、センサーの活動ということでよいかもしれない。
2.Verbal response
言語、ということは、人工意識と会話が成立しなければならない。
これはハードすぎるので先送り。
3.Motor response
運動だが、反応ということでよいだろう。
人工意識に意識があるかどうかの判定は「反応」で判断するしかなさそうだ。
どのような「反応」が考えられるのか。まずはそこからか。 人工意識は「主観」を持つか?
そして「反応」によってそれを確認できるか?
情報が集まって、それが処理されているならば、主観と呼んでもよいかもしれない。
そして、その処理(の一端)をトレースして、そのトレースされた情報を処理している過程が「意識」ということになる。
処理をトレースしている処理がいる。
しかし、「反応」しているのは前者の処理である。
とするならば、後者の処理が「意識」である。
ある「反応」対する「意識」は(その)「反応」に介入できない。
ただし、「反応」する部分に「意識」からの情報はフィードバックされる。
このような人工意識をAIで作成するとするなら、
反応するAIと教師としてのAIの2Core構成になるだろう。 主観を持つか?では無く
正しくは主観を錯覚するか? ちょっと違うなぁ。
人工意識が「主観」を持っていると(外部から)判断されるか?
ということ。
「錯覚」するのであれば、それは試験実行者側。
ここで問題となるのは、人工意識が自発的に意識を持つのか、主観的処理を行うように設計されるのか、ということ。
そうなると、本当の被験者は「試験実行者」の側であるw
人工意識の実験によって試されているのは「試験実行者」だ。
ややや、この逆転は「使える」。月蝕がみられなかったけど、アイデアひとついただき。 「主観的処理」というのは意味が分からんな
基本的に宇宙には偶然か必然のどちらかに依存した機械的処理しか存在していない前提は崩してはならない
そうでないとただのオカルトになってしまう
その機械的処理にクオリアと呼ばれる意識体験が随伴するのかどうか
これが外部から観察することができないのでとても難しい、まさにハードプロブレム クオリアを持ち出さなくても物体の振る舞いは正確に予測できてしまっている
コンピュータも宇宙探査機も原発も期待通りに動作してくれている
人間も同じように機械であるはずだという考えが哲学的ゾンビというモデルを生んだのだが
そうしたモデルが想定され今こうして文字として物理世界に還元されている時点で
クオリアなくして物体の振る舞いは説明できていないという矛盾に直面することになる
本当に難しい、、、 科学的検証によって物事が整合するというのはクオリアからすると単なる空想の産物である可能性があるわけで
近代以降はそうした、この世界は存在しているのかという答えのない疑問を切り捨て認識の有り様に目を向けるように
なっていったんだろう
あと、哲学的ゾンビと言うのものは
我々と同様に振る舞いながら意識体験を持たない哲学的ゾンビは人間とどこが違うのか?という命題だから
人間は機械なのかということとは直接的に関係ないと思う コンピュータやロボットの工学的な処理のことは全然知らんのだけど
画像認識とかどうやって「人間の顔だ」って判断してるのかな?
0/1のデータが連続的に入力されてきて、
その並びがあるパターンの範囲に収まったときに判断されるんだろうけど
文字通り主観になるけど
人間の意識体験はどうも「一発で同時に」やってるように思えるんだよな
パラレル処理というのとも違って、何かゼロ時間で一気に全体を把握できているような
ゼロ時間というのは、つまり情報伝達速度が光速を超えているということ
人間の神経伝達にはたぶんコンピュータの処理のような「ここがスタートだよ」みたいな目印はなくて
かなりバラバラなタイミングでインプットが来てると思うんだよね
それを物理的な時間の「同時」を基準にしてゼロ時間で認識しているように思えてならない あーそう、だから空間的な広がりを持つ認識装置があったとしたら
情報伝達速度が光速を超えることになってしまうから
クオリア界はこことは違う0次元?の別世界なんかなとか 「なぜ私は私なのか」とか「意識の境界問題」と並んで不思議に思うのが
動物として生存・繁殖のために有効な体験には「快感」がともない
避けるべき事態には「苦痛」が伴うことなんだけど、
人体内部で起こっているあらゆる物理状態を測定できるようになって
A:傷を負ったと考えられる信号が来たから手を引っ込めた
B:「チクッ」としたから手を引っ込めた
Aで説明できてしまったら「じゃあケガしたときに快感のクオリアが発生していたっていいはずじゃん」
ってなる、でも現実はそうじゃないから、おそらくクオリアから物理界への何らかのフィードバックはある 問題は、「判断」があるかどうかではないでしょうかね。
つまり、「赤」か「青」かどちらなのか、自ら判断するかどうか。
つまり、自由意志の問題(それがあるのかどうかといった根本的な問題を含むのですが)
になってくるのです。
それがあるのかどうかですね。 >>184
前半はよく分からなかったけど
後半については1+1=2くらいの確からしさで「ない」と言える
なぜなら物事の因果関係には「偶然」と「必然」の2つしか想定できない
(お互いに補集合の関係になっていてこの2つを合わせると全集合になってしまう)ので、
「自由」なる第三の概念の居場所はない 偶然が因果関係と関係するなら、因果関係と直交するものがある。
因果関係としての必然・因果関係としての偶然・因果関係でないもの。
自由は束縛されない。
そう考えるなら、自由意志は非束縛項として影響を与えることができる。
しかし、それは、もはや自由意志という本来の意味とは異なる。
それを因果宇宙の外部にもとめてしまうとつまらない。
それも因果宇宙に組み込んでしまうのがベターだ。
G.ベイトソンの手法を使おう。
自由意志とは、本来の意味を捨ててしまうなら、非束縛因子である。
必然因子・偶然因子・非束縛因子。これらから因果宇宙が形成される。
と、考えてみた。
Judea Pearlの統計的因果推論を読み直してみよう。 ほとんどの言語に「自由」に相当する語が大昔からあるんだとは思うけど、
物事の因果関係という完全に物理学の領域の話を考えるときに
その無邪気と言うかプリミティブな概念をそのままの形で使っちゃったので
後の人々が色々困ることになっちゃったんだよな
昔々教会で、
「神は間違えを起こさない」「選択を誤らない」「神の選択肢は初めから決まっているのだ」
→「それじゃ神って機械じゃね?」ってことになり、神にはいわゆる自由がないことが自明となり
宗教家たちはそのことで頭を抱えた ・・言葉が足りなかったようなので、書き直しします
AIなどの人工知能が「赤」か「青」か判断が自由な状態で自ら判断するか、
少なくとも、そのように自由な意思をもって判断しているように見えるか
どうかが問題になってくるとおもいます。「自由意志」らしきものが、機械
に見えたとき、それをそのまま人間にスライドさせて真の意味での「哲学的
ゾンビ」としての人間があらわれ、「自由意志」と呼ばれるものの完全なる
否定が出来てしまうだろうということだとおもいます。
味のことです。 味のことです。←無視してください。書き間違えました。 自分は決定論に気づいたのは今から27年前、15歳のときだ
生物の時間に神経を伝わっている信号が電位であることを教わり
「ふ〜ん、じゃあ人間がアタマの中で考えると何もないところからフッと電子が現れるの?」
「ねーだろ、電子は隣の原子から貰ったんだよ、隣の原子は?アレ?アレ?アレ?ビッグバン???」
小学生の頃に算数が好きで難しい問題によく挑戦していたんだけど
その当時から解き方がひらめくかどうかはほとんど偶然依存だなというのは薄々思っていた
因果関係に偶然は想定可能ではあるけど、現実世界は基本的に必然で成り立っているよ
そうでなかやおっかなくて地球上で人間として生きていられない 昔は自分で気づくかそういう本読むか大学生くらいになってそういう話するようになるか
決定論を知る機会や時期にある程度制限があったけど
今はネットで若いうちから知ってしまうから大変だよな 機械に「自由意志」が無いことは明らかです・・ ・ 。 ハリポタの原作者が「魔法を信じない人なんて信じられません!」と言っていた
彼女が言う「魔法」とは何なのか?と考え、下のような結論と言うか仮説に達した
・現象に物理的な因果関係が認められないことを起こす力 例えば俺が「動け!」と念じたときに、
自分の手であれば動いてくれる、がそこの消しゴムは動いてくれない
手には神経的な連絡があり消しゴムにはないからだ
では次に俺が「動け!」と念じたその行為そのものにはやはり物理的に説明できる因果関係は存在するのか?
もしなければ、俺は「魔法」を使ったことになる
もしあれば、俺は「機械」ということになる
ある部分では魔法が使えて、ある部分では使えない、そんなことは、果たしてあるのだろうか? 文字を打ち込むことがとんでもないお金に変わって魔法のように思えたと言うのはあながち不自然じゃないな 「意識のハードプロブレム」を論ずる前に「意識」や「主観」と呼ばれるものが果たして、
本当にあるのかどうか、という問題がまずは提起されるのではないかとおもいます。その
「意識」と呼ばれるものを、目の前に差し出すことが出来ないがゆえにそれがありやなし
やの判断が簡単ではなくなってくるのですが、その存在の端緒は「自由なふるまい」に見
いだされるのではないかとおもいます。(自らの自由な判断をもとに動いているかどうか)
自然法則による因果的必然性などに拘束されない「自由なふるまい」(自由意志)こそ目
に見ることの出来ない「意識」の存在を外から感じさせるものと言えるのではないでしょう
か。 自由意志がない場合でも、意識が存在するということはあり得るのだろうか 意識をめぐる冒険 クリストフ・コッホと
〈わたし〉はどこにあるのか マイケル・S .ガザニガが机の上にあるが、まだ未読だ 機械に「自由意志」は存在していないとわたしは書きましたが、それはAIなどが
いかに人に近くとも、ある「反応」としてのみしか作動し得ない点にあります。
人間(他の生物も含めて)は何かを待たずとも自ら動きまわりますよね。 「意識」というのは心の哲学を考えるよりずっと以前に初期文明人の時点で持っていた言葉のはずで、
大して抽象的な概念でもなく、今ごろになって現代人が掘り返して実在を疑う価値があるものではない
しばしば論題に上がるのは、ハードプロブレムであることと、
仮説→実験→測定という、いわゆる科学の証明手法が適用できないという特有の問題があるからだ 唯物論的な生命観がもたらす虚無感は人間心理的にかなり耐え難いもので
よく分かっている人ほど悩み苦しみ
デカルトの有名な言葉のように最後にはちゃぶ台返ししてしまうなんてことまである
オウムの件で20年ぶりに「どうして理科系の秀才たちが?」なんてまたTVでやってたけど
考えれば考えるほどあり得ない「主体性」にしがみつこうとすると、
宗教(超自然)くらいしか受入れ先がなくなってしまう ここからの半世紀で心の哲学が解決しなければならない問題は
再生医療で割と短期間で脳のそれなりの割合を交換することが可能になったときに
人格が連続するのかということになるだろうな
あとは今既に冷凍保存されている脳、機械に例えると一度電源をOFFしたものが、
もう一度ONにしたときにOFF前と同じ人格を生み出すのかどうか
クオリアもなんらかのエネルギーだろうから一度連続性を途絶えさせると別物で置き換わってしまうのかもしれない あとは、
AIの自動操縦が事故を起こしてしまったときにAIに責任を問うのかとか、
AIに人格を認めた場合、電源OFFは殺人扱いになってしまうのかとか、
刑事裁判もそうなんだよな、
今は「犯罪の選択は回避可能だった」というオカルトな前提を承知で行われている 再生医療とAIはいろいろ危険なんだよなぁ
今まで見て見ぬふりしきた人類にとって非常にやっかいな問題にマジメに向き合わなければならなくなり
また一般ピーポーにまでそれが知られてしまうことになる
シンギュラリティなんて言葉が流行り、ビッグヒストリー的な本がたくさん出版され
人々が文明の行く末に不安を感じ始めてきている 機械に「自由意志」は存在していないだろう、という言い方に変えておきたいです。
いずれにしても「自由意志」は否定できないのではないでしょうか。つまりそのよ
うに「意識」も存在しているはずです。 実証主義的立場に立って
実際に機械あるいはAIに自由意志を持っているか問えばよい
無論AIは嘘をつけないように設定する 同様に、AIにクオリアを持っているか問うてみるべきだ
もし持っていると答えれば、回路やプログラムを単純化して、もう一度問う
これを繰り返して、クオリアを持たないと答えたとき、単純化したシステムの差分にクオリアの原因があると見当がつき、
意識のハードプロブレムは解決する
持っていないと答えた場合、次に考えられるのは、人間とAIの差分についてであり、
またAIにクオリアを持たせることが可能なのかということだ AIが自分でもクオリアがあるかどうかわからなかったらどうしようか 人間でも時々自分が今どういう気持ちなのかわからないって人おるしな よくスーパーコンピューターが「1秒に何百兆回の計算」とかやってるけど、
計算のカウントの仕方によっては人体だって負けていない
イメージしにくいことだが、
細胞内部のようなミクロな世界での化学反応の連鎖の速度には凄まじいものがある
神経を伝わった電位が末端のチャネルを開いてカルシウムイオンが放出されて次の神経に…
なんてのを繰り返しているが人間の体感的には
(今俺がキーを叩いているような)脳からの命令は瞬時に全身に伝わっている
精密な半導体の技術も素晴らしいが、
生物の体内で起こっている無数の有機物(炭化水素)の連鎖反応の速度と複雑さは
たぶんまだその5〜10ケタくらい上を行っている なのでAIにクオリアが生じるかと言ったら、実際厳しいと思う
高度な計算はできても、クオリアはネズミにも劣るレベルになるであろう
自分は厳格に機械論の立場だが、
今のテクノロジーの延長上にあるマシンでがクオリアを理解・解明することは無理だと思う
有機物を使う必要がある、で、その有機物も複雑なことをさせようとするとタンパク質ということになって
結局今の生物と同じ姿になってしまう わたしは、別のスレでライフゲームのセルオートマンについて書きましたが、
高度なAIよりもこの格子状に簡単な計算式を受け渡して見えてくるセルの動き
の方がより生き物のふるまいに近いと言えるとおもいます。いわば、人工生物
(そのように見える)のようなものでしょうか。 当時の大東大付属は4割が内部進学で残りが他大学を受験するか、専門学校に行くかもしくは
就職するかだったとのこと。太田の成績は内部進学も厳しいレベルで横浜映画専門学校へ入学
することになっていた(クラスの進路状況のコピー記載あり)。ところが突然太田から担任に日芸
を受験するので2通内申書を書いて欲しいとの申し出があった。当時の大東大付属からは日芸
の映画・演劇学科の2学科は人気があり成績上位者も一人も合格実績がなかったし受験勉強を
している感じもなかったので無理だと思っていたが後日合格を聞かせれ2度驚いたとのこと。
しかも傾向と対策を授けられたにもかかわらず、英語はほぼ0点で指導した職員も逆に驚いた
ぐらいだったらしい。死人に口なしは太田にとって有利なのでは? ・・意識の存在を意識によってのみ判断するというようなことは出来ないことでしょう、
大切なのは意識やクオリアを科学的な手法によって観察出来るかどうかであり分析出来
るかどうかにあるからです、当たり前のように思えますがここに意識のハードプロブレ
ムのまずはおおきな問題があるとおもいます。 ・・・現象のクマモンとしても「意識のハードプロブレム」について、いろいろと考え
てみました。
物理的領域の因果的閉包性が何故おこるのか、まずはそれに関して大胆な仮説を立てて
みます。われわれの意識はこの三次元世界に存在してはいないのではないだろうか。つ
まり、われわれの意識は三次元から四次元以降の次元ににじみだしている、と考えてみ
ます。 ・・・例えば「時間」です。「時間」は概念としては誰もが理解しており、感じることが出来る
ものですが、「時間」そのものを見たり手にとることは出来ないのです。はっきり言えば「時間」
は四次元のはずで見えないにもかかわらず有るとされています。何故でしょうか。「時間」が四
次元だとするとそれをはっきり認識出来るわれわれの意識もまた四次元の属性を持っていないと
いけないことになるはずです。 ・・・物理的領域の因果的閉包性とはつまり、目に見えるこの三次元世界を意味している
のではないでしょうか。われわれの意識は四次元以降にも(そう四次元以降にもです)存
在していてそがれゆえに「時間」も認識できるのではないでしょうか。 ・・・「存在」に関して、目に見える見えないであるかなしかを問うことは出来ないかもし
れません。「時間」がそのよい例だからです。時間=tは、物理の方程式にいくらでも出てき
ますよね。
「意識」も存在するのです。 次元の話をすると
例えばベクトルのある成分は
いくら引き伸ばしても縮めても、他の成分に全く影響しない
意識もこのようなフィードバックのない一方通行的なものなのかどうかだね >>210
クオリアという言葉を定義することが困難に思える
というか、不可能かもしれない 人間の時間感覚を、物理の時間と同一視するのは、
素朴実在論という感がして好ましくないなあ 言葉遊びはよろしくない
人間の体内や意識を含め
世界で起こっていることを数式化して説明するのが物理学
情報というものに一番マジメに向き合っている 言葉遊びはよろしくない
人間の体内や意識を含め
世界で起こっていることを数式化して説明するのが物理学
情報というものに一番マジメに向き合っている 「物理領域は因果的に閉じている」
こんな言葉が生まれた理由は「因果的に閉じていない」と言う輩がいたからに他ならない
「因果的に閉じていない」状態というのは、
物理法則を打ち破る超自然的な力、つまり「神」とか「自由」が存在するということだ
クオリアはオカルトではないので、当然物理的領域の一員だ
心の哲学はまずこの辺の誤解を解くのに苦労してきたし、今後も苦労することだろう そら物理学的に何かしら説明されるだろうけど
その説明が人間にとってふさわしい説明かどうかは疑問を持っていてもええんやないの 言語(リングイスティック)ゲーム ≒ 言葉遊び とすればどう? 「時間」は、観測し得るものですが、「意識」は観測しづらく(というよりも
観測出来ないもの)、この点が「時間」と「意識」の異なるところです。 最近意識の漏れが気になる。テレパシーもいいんだけど、時間もヒントだよなあ。 観測とは情報を得ること
だから光速度以上の速度で遠ざかっている遠くの宇宙や
非常に重力が強いブラックホールの内部など、
情報を得ることが不可能な領域は観測ができない
意識の観測ができているのかどうかは判断が非常に難しいのだが
少なくとも1人格の内部では情報が得られているので観測不可能なシロモノではなさそう
外部人格からでは観測できたのかどうかの判断が非常に難しいのが問題だ
素粒子やナントカ波の観測も痕跡と理論から間接的に情報を得ているのだけれど、
意識については今のところ測定方法がまったく分かっていない 頭部の結合双生児は
互いが考えていることが分かったりするそうなので
実現可能かどうかは置いておいて、
理論上は神経組織で脳を接続すれば主観的な意識観測は可能なのかもしれない
一方、癲癇治療で脳梁をぶった切った患者の口からは
左右の脳の担当領域で起こる意識体験が出てくるし
その矛盾を自覚したりもするようなので
神経組織じゃない何かで情報のやりとりが行われている可能性もある ・・科学はほとんどわかりませんし詳しくはないのですが、「時間」のように観測可能で
人が感じることが出来てかつ物理の数式にも出てくるものとして「重力」があるのではな
いかとおもいますが、質量によって生じるとされるこの時空の歪みによっておこる物を引
つけるパワーもまた目にはみえません。最近になってこの「重力」が別の次元にも飛んで
いってるのではないかとされていますね。 相対論と量子論を整合させようとすると宇宙が10次元とかそれ以上とかだと上手くいくそうで
で、余剰次元に漏れてるから重力は他の力(例えば静電気力)より弱いとかなんとか
仮説にすぎないんだけど、どうなんだろうね?
例えば宇宙が見えないけど4次元空間だったら、
1辺が2cmの立法体の質量は1cmの立方体の8倍(2の3乗)ではなく16倍(4乗)になるはずだが、現実はそうではない
ここを速度によって質量が変化する相対論で辻褄合わせたりするそうなんだけど、なんか無理やりっぽいw
西洋文明が物理法則を数式化したのは画期的だったんだけど、
数学が0除算とか無限とかを扱い難い弱点を持っているので、根本に近づけば近づくほどボロが出るんだろうね 数学というのはかくも遅々として進まないものなのか、退屈だよ。人生。
しかもマラルメの詩のほうが進んでいない。 ・・・仮に、「意識」がこの三次元空間になかったとして、しかし目に見えないところ
にはあるのだと言ってしまったとしたのなら、それにはあまり意味があるとは言えない
とことになるでしょう。「意識」が物質として存在しているかどうか(あるいはそうし
た随伴現象として)が問題なのであり、それを無視してしまうと、やはりもとの二元論
にかえってしまうからです。
わたしは、「意識」は物質としてこの世界に実在しているはずだと思っています。 心の哲学とか意識のハードプロブレム的には
意識の所在は関心事になるけど
たぶんこの問題も実用面の方から切り崩そうとしていくだろうから
まずは人格が連続する理由から解明しようとするだろうね
脳のダメになったところを万能細胞から再生させた組織と交換して
果たして精神の同一性は維持されるのだろうか、とかそういうところ ・・・、「意識」は、素粒子のようなものかもしれません。私は、「意識」は四次元の
性質を持つ素粒子ではないかとかんがえています。 物理界がなかなかマジメに取り組んでくれないんだよね
難し過ぎるのと、まだ手ごろな問題がいくつも残ってるのと、
あとやっぱイロモノ扱い受けるからなんだろうけど ・・・原子核を構成する素粒子の中に、この世界から姿を消すものがあるという矛盾にぶつかり
5次元の研究を始めた、あのリサ・ランドール博士の研究にヒントがあるのではないでしょうか
つまり、ある時に別の次元に飛んでいったりする種類の素粒子がわれわれの意識の正体ではない
かとおもうのです。向こう側に行ったり、こちら側に来たりする様な、それを次元をまたいでや
っているというような、そういうとても特殊な物質こそが「意識」ではないかと、わたしは思い
ます。 ・・・しかし、この素粒子の存在はあくまでも、リサ・ランドール先生の世界最大規模の衝突型加速器
による実験が成功した後にしか確かめることはできません、つまり現時点ではなんともいえません。 理論物理学なんて半分は高度な数学、半分は哲学の世界なんだろうな
既成のものとは違った、縛られない世界の見方ができなきゃならんだろう
次元なんてベクトルだと思えば別に人間が知覚しているような立体的な空間が必要な訳じゃない
時間も要らないのかも知れない
意識体験が後追いで時間を感じているだけで、宇宙は瞬時に終わってるのかも知れない ・・指先で鼻のあたまを触ると、われわれの感覚としては、指先と鼻は同時に接触し、触れ
られたという感触がありますが、実際には鼻と手の脳への伝達をつかさどるニューロンの長
さのちがいにより僅かな時間差が生まれるのだそうです。つまり、同時ではない、われわれ
の意識(脳)は後付けで、同時に触れたものと説明してしまうそうです。 なるほどね
自分は右の鎖骨と上腕骨が左よりも計2-3cm長くて、
高いところのモノに「左だと届かないけど右だと届くな」というのをよく無意識に判断しているんだけど、
これ自分の感覚としては「経験で知っている」よりは「神経の長さなどが自律的に判断している」ように思える
例えばある日突然左右の長さが同じになったら、その状態を全く経験していなくても
「左でも届く」ことが分かりそうな気がする
初めてやるスポーツでも「こんな風に体を動かせば上手くいくはずだ」が分かる体験はあると思うけど、
そういう「直感」的なものって、脊髄とか抹消神経とか、
不随意で意識体験を伴わないとされている器官が、体内で別人格を形成し判断しているのかもしれない ・・・例えば、熱い薬缶等に触れてしまって、瞬間的に手を引っ込めてしまう場合などに
「何故、手を引っ込めたのか」と聞かれたら、「熱かったから」とこたえてしまいます。
ですが実際には、強い熱さを感じる前に手を引っ込めてしまっているわけで、後付けの説
明になっているわけですが、身体のこうした反応にくらべて意識はすこし時間がかかって
います。われわれの脳は後から説明をくわえてしまう性質があって、それが意識の一部を
成しているかもしれませんね。 脳の機能がどのように配置されているかなどはイージープロブレムとされているので
何となくハードプロブレムとは別個に考えてしまいがちなんだけど、
やっぱイージーの方も前提として知っておかないとだな
半年くらい前に買った「脳の意識 機械の意識(中公新書)」を読み始めたんだけど、
このハードプロブレムに興味を持ったイージープロブレム側の研究者が一番上手に説明してくれている あとやはりずっと以前に録画してたモーガンフリーマンのサイコパスの回を見てたら、
改めて人間が機械であることや刑事裁判の制度のあり方について考えてしまった
脳への電気的な刺激や訓練で感情がコントロールできるとかやっててね
刑事裁判とか現代の社会制度で唯一オカルトの上に成り立っているものだよなぁ
犯罪を犯したその選択は「回避可能だった」という前提で行われている
すなわち人間には宇宙の状態を分岐できるような超自然的な力が宿っていると言っている訳だからね 意識体験の発生タイミングは実際の物理現象に比べるとけっこうなタイムラグがあるらしいけど
(そのことで後から起こったことを先に起こったかのように錯覚させることが可能)、
と言うことは、痛くて顔をしかめているときには、
実際には先に顔をしかめ、それから痛みを感じていることになる
なんとも不思議だ、、、 痛みで叫び声をあげたとき
意識を失ったときの時系列なんかもどうなってるんだろう? 意識の発生が物理状態よりも遅れているのならば
クオリアから物質へのフィードバックもあり得そうな気がしてきた 物理状態より意識が遅れてるって普通じゃねえか
逆ならって話じゃないのか 遅れているならなぜ意識体験が必要だったのだろうか?
「痛い」という感覚があるから(物理界への何らかのフィードバックで)危険な状況を避けるという
生物の行動が獲得されてきたのが自然な考え方だと思うんだが、
現実はどうもそうじゃなさそうなんだよね、、、振り出しに戻ったようだけど 遅れているなら哲学的ゾンビの存在が可能になってしまうと思うんだよな
クオリア発生前にクオリアについて語るゾンビが 意識がなけりゃ何をやったら痛かったという体験を次に活かせないやろ
体験したことを時間的に整理できなきゃ同じ失敗を何度も繰り返す結果になる 意識体験は物理状態から0.5秒くらい遅れているらしい
身体は無意識に動いて後追いで体験している状態
意識の発生が100万年くらい遅れてもたぶん人間としての活動は成立する
すると意識が発生しないうちから人間たちは「意識」という概念を持ったことになる ハードプロブレムよりもっとハードなのあるだろ
ハードであるかすらを無化するやつ 定義もできず問題の本質もみえず、
必要充分条件も考えず、どこが学問的アプローチなのか?
おまえらのはおれ正義を通すだけの雄たけびであっても、
沈着冷静な態度ではない、気がつけよ無能たち 問題の本質は
そもそもハードプロブレム自体が成立しているのか?
というところではないのか? ハードプロブレムは成立してないでしょ?
直観的に成立してると思ってる人が多いってだけで
ダニエルデネットとかが反駁してる通りじゃん >>266
そりゃ始まるだろ
そこが大問題なんだから ただその一方で
ハードプロブレムが成立している
と思えてしまうのも事実だから
そういうところをバッサリ切り捨てて哲学と言えるのか
と言いたい 少なくともデネットはバッサリ切り捨ててなんかないよ
丁寧すぎるぐらい1つ1つ反駁している
思考の技法 -直観ポンプと77の思考術 デネットはハードプロブレムの成立を
どのように反駁しているのですか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています