仏教哲学総合スレ3 [無断転載禁止]©2ch.net
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ユマ・サーマンの父ロバート・サーマンは、
『チベットの死者の書』の英訳もしたインド・チベット仏教学者で、
ユマ(UMA)はチベット語の「ウマ・チェンポ」(中道、中観)から取られているそう。 中論とメイヤスー
清水高志「メイヤスーと思弁的実在論」(2017-03)
https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=9136&item_no=1&page_id=13&block_id=17
こうした議論は、西洋の知的伝統からするともちろんきわめて異例であるが、東洋にはむしろ類
似したものがあり、ナーガルジュナの『中論』で繰り返される 4 段階の否定の論法(テトラレンマ)
を思い起こさせる。論点を明確化するために、その点についてもここで触れておくことにしよう。
たとえば中論の 18 章の第 8 偈に現れる典型的なテトラレンマ( 4 句分別)では、最初に@「すべ
ては真実(如)である」という命題が語られ、次にA「すべては真実でない」という命題が述べら
れる。@は素朴に現実の世界を信じる者の見方であり、Aは現象はすべて一刹那の後には変化する
という洞察をもったものの見解である。そして三番目にB「すべては真実であり、かつすべては真
実でない」という命題が述べられる。@のような素朴なものにとっては真実であり、修行をしてA
のような見解をもったものには真実でない、というのである。
しかしこれらは、ある刹那の次の刹那に起こることにいずれも依存したものなので、第 4 の命題
C「すべては真実であるのではなく、かつすべては真実でないのではない」が説かれなければなら
ない。仏教では何か対象を否定するとき、次の対象が浮かんでくるような否定、対象のあり方にそ
の都度左右される否定を相対否定と呼び、そうでない否定を絶対否定と呼ぶ。 「空」が理解され
るのはこの絶対否定によるとされるが、Bまではいずれも否定対象の状況に依存した、相対否定に
よるものである。それゆえCでは、Bそのものが否定され、何らかの対象に依存しない(無自性な)
かたちで、Bの不可知論自体がさらに転倒されねばならない。Cの命題は、なんらかの対象につい
て語られるわけではないが、すべての対象について真実なことを述べており、「空」の立場からこう
した否定を行う何者かも、また確かなのである。(真如の確立) >>163にも出てくる
桂紹隆、五島清隆『 龍樹『根本中頌』を読む』(2016)
> 仏教の基本テキストである『中論』をインドのサンスクリット語原典から正確に完訳。
> あわせて『中論』の著者である龍樹の伝記と中観派の歴史も掲載。
> 仏教の心髄である空思想を原典から学べる意欲作。
というのもあるね。 >>156
典型的なピロリ菌の症状じゃねぇーか
逆流性胃炎だろ。食べて寝たら食道から胸まで胃酸逆流してて
荒れてる感覚あるだろ。病院いけ >>160の
「サキャ派概説」には、『入中論』や『中論』を含む、
学問寺での全十学年のカリキュラムが紹介されている。 チベット仏教では、空性を巡る中間派帰謬論証派の見解が重要視されるが、
密教はそれよりも高次のものと考えられている。 仏教は瞑想体験という実技試験なんです
哲学の様に自我で考えても駄目なんです
最終的に自我を消して無の境地が悟りなんです
自我で考えて想像する筆記試験じゃないんです
故に瞑想体験が最強なんです、悟れば哲学の事も含め、世の中の事すべてわかるのです 仏教は諸法無我や慈悲を結論とし、前提、判断基準に据えて物事を捉える。
哲学は諸法無我や慈悲を疑うところから始まる。 仏教信者は諸法無我や慈悲を信仰する前提で仏教を学ぶ。 中論(梵:Mūlamadhyamaka-kārikā、ムーラマディヤマカ・カーリカー)
madhyamaとは、madhya(中の)という形容詞の最上級ともいうべき「最も中央の」を意味する。
madhyamakaは「中にもとづく」、「中を語る」、「中道」、「中の思想」というニュアンス。 >>170
哲学者は真を追求する為を前提に仏教を学ぶ。 学んでいるのは自我なんです
自我は偽物なんです
本物は真我なんです→もう一段上もある
偽物である自我で考えても無駄なんです
理解するには瞑想による体験しかないのです
仏教は実践による体験なんです 仏教の目的は悟る事による苦の消滅
悟る為には瞑想や座禅による実技試験が必要
頭で考える理論では無理、瞑想や座禅とは考えない事です、真逆です、筆記試験だけでは無理
実技試験に通らなければ運転免許は取れません
ということです、当たり前の話ですね >>175
悟りの為の瞑想を助けるさらにその為の法や信仰心だと理解してます
瞑想だけで良いなら今頃。。。ですよね その通りですね、何が偽りの瞑想や日々の行いで、何が正しい瞑想や日々の行いなのか、それを見抜く叡智や理性も必要です、筆記試験も必要なんです、だがそれだけで満足してしまう人が多いんです、だから実技試験を強調するんです。ちなみに信仰心がいるかどうかは? 哲学を好む人は、宗教のような入口で信じる事を強要されるものを嫌う傾向があるんです、食わず嫌いで勿体ないんです、だから何処の宗教にも属さなくてもいいから、一人で実践してみてはどう?という提案なんです、過去の聖者は全て瞑想してるし、瞑想を勧めます。何故か! 瞑想や座禅したら、こんな感覚になるんだろうな、ていう想像で考えて理論構築しても駄目なんです無理なんです、実体験であって実技試験なんです、やってみな分からん事なんです。
強調しました。 みなさまはじめまして。
アートマンについて教えてください。
アートマンを我・真我と訳すことは正しいのでしょうか。
そして諸法無我は、アートマンの否定なのでしょうか。 あなたの読んだ本を読んでいない者からすれば、その本で、真我、自我、アートマン、諸法無我をどのように定義してるのか、またあなたがどのように定義してるのかが分からなければ答えようがない。つまり想像で理論構築する前に、先に実体験をせよ、その方が早いということ 瞑想や座禅による偽自我を捨てる程の体験をすれば疑問は出ない、疑問が出たり理論のぶつけ合いをしてるのは偽自我です、自我が偽物なんです、だから体験した者は、今までの自分がいかに無知だったか理解する。無知の知というのでしょう。だから未熟な私はまだアホなんです >>180
アートマンは前スレで結構詳しくやってたよ 自転車の乗り方は、いくら理論を完璧にしても、練習しないと乗れません、もっというと理論なんて勉強しなくても、実体験という練習を重ねるだけで乗れてしまう人もいる、目的は自転車にのれるようになる事であって、理論を完璧にする事ではないという事です 自転車に乗れるようになれば、理論は後から着いてくる、足りない理論だけ後で補えばよい。
目的は悟る事であって、理論を完璧にする事ではない、悟れば理論は後から着いてくる、足りない理論だけ後で補えばよい。
無駄な事は極力しない。 だから、セリフは、自然とこのようになる
『まあ、座れや』 >>184
そうですか。
見直して出直してまいります<(_ _)> 悟りへの道標、私が一番尊敬してる人は
『宇宙一いい加減な博士』
↑このお方、過去に某掲示板にて、素晴らしい講義をしておられた、仏陀の教えを現代の言葉で語られたお方、最も分かり易い。
後は各自体験するだけだ。 ジェームズの純粋経験が、どれぐらい仏教の影響を受けているのかが気になる。
ニーチェとも近い世代だから、そういうこともあっただろうとは思うが。
(1842-1910)ウィリアム・ジェームズ
(1844-1900)ニーチェ 心理学における仏教の影響−過去と展望−
https://www.psych.or.jp/meeting/proceedings/76/contents/pdf/WS125.pdf
たとえば,ウィリアム・ジェームズは,自らの講演中,仏教徒ダルマパーラに短い講話を求め,
この「仏教教理は,25年以内に,誰もが研究することになる心理学となるだろう」と述べている。
実際には,彼の予想通りにはならなかったが,心理学・深層心理学と仏教との関連は,何度となく議論されてきた。 井筒は今道友信との対談で、
光の仏陀である大日如来と、スフラワルディーの光の形而上学とを重ねたりもしている。 “十二世紀ペルシャの哲学者スフラワルディーが「東洋哲学」ということを考えた”
“その「東洋」ということはアラビア語で「マシュリック」Mashriqというんですが、
「マ」とは「場所」ということで、「シュリック」というのは「黎明の光」という、
暁の光がさしそめるその場所ですね”
“哲学とは精神の「東洋」を探求することでなければならない”
“(略)いわゆるアラブ国家、アラブ文化圏とインド、トルク、ユダヤ、それからペルシャ、そして中国、
チベット、日本などが全部一つになって、
それが精神の黎明の場所みたいな感じにぼくの心には映ってくるわけなんです”
― 井筒俊彦「東西の哲学」〔今道友信との対話〕(『井筒俊彦全集 第五巻』) 儒教道教仏教が思想で戦ったり融合したりする中国哲学?の本を初めて読んでる。 わしらの宗旨は只管打坐のこれ一法に尽きると聞くがこれどういうことや? 和辻も、
『古寺巡礼』(1919)で日本の仏教をやり、
『原始仏教の実践哲学』(1927)へと遡っているね。 “「ここから先、おまえは一人で進んでいかなくてはならない」と顔のない男は私に告げた。
「方向も道筋もわからなくても?」
「そういうものは必要とはされない」と男は乳白色の虚無の中から低い声で言った。
「もう川の水は飲んだのだろう。おまえが行動すれば、それに合わせて関連性が生まれていく。
ここはそういう場所なのだ」
それだけを言うと、顔のない男はつばの広い黒い帽子をかぶりなおし、私に背中を向けて舟に戻っていった。”
― 村上春樹 『騎士団長殺し』 第2部 遷ろうメタファー編 (2017) マントラはバラモン教派生の考え方だけど、神秘性を方便に使う性質上、相性の良いやり方なのかも知れない。
智慧を獲得してしまえばクールなものだけど、彼岸に渡るまでの菩薩道では神秘的なエネルギーのイメージを引き連れて進むと良い、 バラモンの話するならそのスレでやれ
ブッタはバラモン否定してる >>204
バラモンの話じゃなくてマントラの話だよ
ブッダは言及してないかも知れないけど
般若経やその他の大乗系では大事な考え方だから全然スレチじゃないことをお知らせします >>205
お前がオウム真理教じゃなきゃ
そうだねって言ってやれたんだけどな 「音」(韻律、トーン、或いは没入)に効能があるのか → 翻訳された時点で効能が失われる
*マントラの考え方の原則は、ココ。
「意味」(翻訳された文言でも可)に効能があるのか → 無いからこそ、漢訳の際にも、意訳でなく音訳されてきた
「誰が唱えるか」に効能があるのか → 呪術、新興宗教との差別化を、
・「そんな行為に効能は無い」 とするか
・「それだけのスキルが身に付いていない者がやっても意味がない」 とするか
・「伝統諸宗派の系譜の中にいるもの
(かつ、きちんと過程を修了した者)でなければならない」 とするか >>207の、 課程修了とかスキルとか言い出したら、
道端で御地蔵様に真言唱えてるおばあちゃんの行為(→業)は、
まったく無駄wwwwwwwww
ということになりかねないけれどw >>206
100%負け惜しみにしか見えない哲板特有の高度なギャグだな
>>207
結局は信仰心によるエネルギーを高めるための方便だから
それに沿ったやり方に拘れば自然とそうなっちゃうよね >>209
寧ろ >>208 に対する見解を請う ノシ >>210
神秘性は信仰心と価値エネルギーを増幅させる
これらよって障壁となる迷い(考えること)を捨てて彼岸に渡ることができる
お地蔵さんに真言を唱える瞑想も十二支縁起に業をもたらし役立つ
だし、高僧による真言も同じ様に役立つ 多重人格者は色盲や眼振を抱えた人格を持つと思い込み
盲目の人は記憶喪失と共に光を取り戻したと思い込む
諸行無常諸法無我であり五蘊皆空であり無色無受想行識も真理 西田、井筒、真如、ハイデガー、仏教
“西田が「真実在」を「純粋経験」に求めたのは、主客未分・主客合一の〈境涯〉を披歴するためではなく、
そうした直接的経験の中に見て取られる「統一的或者」であり、
つまり意識の統一的秩序をそこに読み取ったこと、このことである”
“大乗仏教で説かれる「本体的一元論」は、例えばイスラーム学の碵学井筒俊彦氏が最晩年に『起信論』を取り上げて、
東洋的思惟の特徴として揚げる発出論的な形而上学とも異なっていることである”
“「真如」であれ、「仏性」であれ「法界」であれ、それらは「本体」であっても、
決して形而上学的な実体的根拠を意味しない。
むしろあらゆる実体性を打ち砕く「ハタラキ」なのであり、
すべての存在者が実体性の軛(くびき)から自由になって、
言い換えればいわゆる「根拠」から解き放たれて、いわば「無根拠」「没根拠」のままに、
おのずから立ち現われてくる「場所」”
“ハイデガーの所謂「存在(有)」が、あらゆる存在者(有るもの)の根拠として「神」でないように、
「本体」とは「実体」ではなく、場所的性格をもつもの”
“釈尊が掴んだリアリティはおそらくそうした場所的な性格をもつ般若智なのであって、
いわゆる「縁起」という、まことしやかな「理屈」、論理の知的理解ではなかったはずである”
― 井上克人 『〈時〉と〈鏡〉 超越的覆蔵性の哲学―道元・西田・大拙・ハイデガーの思索をめぐって』 (2015) 仏教的真実は言葉によっては説明できないと言われる。(1)
しかし、語れないのであればそれを伝えることが出来ない。
だから、「仮名」や「仮設」という仮の形をとって言語化される。(2)
(1)離言真如…真如は本来言葉にはできず、心に思うこともできない
(2)依言真如…言葉を仮設することで表される真如の相
その他、
(3)不変真如…時間・空間を超越し、変わることのない真如の実相
(4)随縁真如…本来不変である真如のあり方に対し、縁によって種々の現象として生じる真如のあり方 トレンドからみると、
(1)井筒や西田は、形而上学的な大乗仏教の解説に優れていたが、
原始仏教(ブッダの仏教)についてはあまり触れていない。
↓
(2)最近目立つのは、大乗仏教から原始仏教への原点回帰。
↓
(3)井上>>215は、大乗仏教に軸足を置きながら、そこに原始仏教の原理を読み込もうとしている。 西田はこちらでやろうと思ってる。
【西田】京都学派・近代日本哲学総合スレ【西周】 [無断転載禁止]©2ch.net
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/philo/1494594731/334-
336 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2017/10/06(金) 23:55:26.34 0
しかし、西田哲学を安易に禅哲学だと理解しているようでは
読んでいる内には入らない。
337 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2017/10/06(金) 23:57:04.39 0
“併し君だからよいが普通無識の徒が私を禅などと云ふ場合 私は極力反対いたします
そんな人は禅も知らず 私の哲学も分からず
XとYとが同じいと云って居るにすぎぬ”
― 西田幾多郎 「昭和18年 2月19日 西谷啓治宛」 『西田幾多郎全集23』 (2002-2009) 西田さんかしらんけどレベル低いな。
仏教を仏教としてしかみれないレベルが低い
大きな意思とは何かを悟れば解ってくるんだけど
事象についてしか語らない 仏教は哲学ではなく思想であり理性によって真理を導きだそうとするものではない “我々の有限なる意識の背後に横たわれる無意識はxに対するdxの如く考へることができないであらうか。”
“我々が或一曲線を意識するといふことは此の如き意味に於て限定せられた曲線である”
“意識するといふことは無限なる全体が己自身を限定することである。”
― 西田幾多郎 「自覚に於ける直観と反省」17 『西田幾多郎全集3』 (2004) 任意の直線を意識する時は、実在する無限な直線に対して限定をかけている。
無限な潜在性から有限な現実性が、「限定」=「自覚」として立ち現われる。 “仏道をならふことは自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の心身、
および佗己の心身をして脱落せしむるなりと云ふ(道元)。
それは限定するものなき限定、絶対無の自己限定と云ふことでなければならない。”
― 西田幾多郎 「哲学論文 第六」 『西田幾多郎全集10』 (2004) 訳
(仏道を習うということは、自己を習うことである。
自己を習うということは、自己を忘れることである。
自己を忘れるということは、一切万物を知ることである。
一切万物を知るということは、主客を分け隔てるものをなくしてしまうことである。)
― 道元 『正法眼蔵』 「現成公案」 禅哲学としても、道元論としても最高度に洗練されている。 そんなものは古代インドのウパニシャッドに回帰してるだけだ ヘン カイ パン 全体主義のはしりだね。そっちがかちじゃないかな。
今もヨーロッパ人はそうも全体主義化間で統率だよ。今戦は。 西田はまあまあできてないな。無茶苦茶な研究してたぞ。 以下、末木剛博(すえきたけひろ)『東洋の合理思想』講談社現代新書33ー34頁より
「…カントはこれら三種(魂、宇宙、神)の問題に一定の解答を与えることは
不可能であることを論理的に証明している。したがってこれらの問題に関
する形而上学は論理的には成立しないといって、形而上学を排除したのである。
これを初期仏教の形而上学批判とくらべると、精粗の違いはあるが、主旨は
はなはだよく似ている。初期仏教では形而上学の立場を前述のように常見と
断見との二種に大別しているが、さらにカントのあげた諸問題とほとんど
同じ問題を論じている場合もある。たとえば『中阿含経』の一部の「箭喩経
(せんゆきょう)」では次の諸問題があげられている。
(A) 自我および世界は時間的に、
(1)無限である。
(2)有限である。
(3)無限かつ有限である。
(B)世界は空間的に、
(1)無限である。
(2)有限である。
(C)魂と肉体とは、
(1)同一である。
(2)別異である。
(D)如来(完全な悟りを得た者)は死後に、
(1)生存する。
(2)生存しない。 これらの問題は、カントのあげた問題とは多少のずれがあるが、それは時代と国土
にもとづく関心のちがいである。しかし、たとえば(A)と(B)とは、カントの
第一および第二の問題とほとんど同じであり、(D)の如来の問題とカントの第三の
神の問題とも類似している。
相違点を挙げれば、初期仏教は(A)の問題に対して四種の解答を用意しているのに対し、
カントは、(1)無限であると(2)有限であるとの二つだけを用意し、その二者択一を
せまるのである。
『箭喩経』では四種の解答を(A)の問題だけにそろえてあるが、他の文献では、あらゆる
問題に対してそろえている場合もあり、そのほうが論理的には完全なわけである。それで
後世には、この四種の解答、つまり一問題に対する(1)肯定、(2)否定、(3)肯定
かつ否定、(4)非肯定かつ非否定、の四つを四句分別と名づけている。
ともかく、カントの提出した問題と、形の上では多少の差はあるが、本質的にはほとんど同じ
問題をかかげて、しかもカントと同様にこれらの問題に対しては何らの解答も与えられない、
と言うのである。したがって形而上学批判に関しては初期仏教はカントの批判哲学と本質的に
一致するのであり、哲学上は一種の批判主義である。」 カントは、経験を超えた命題について二元論の立場を取っている訳ではない
それらは二律背反として人の認識領域を超越しているから論証不可能としているんだよ 参考までに、
カントのアンチノミーもカテゴリーごとに分類される
以下wikiより
量・質の二律背反は数学的、関係・様相の二律背反は力学的といわれる。後者の力学的
二律背反においては、物自体と現象とを区別する限り、定立と反定立の双方が真であり、
現象における経験的性格の必然性と当為における自由による原因性が両立…
https://ja.wikipedia.org/wiki/純粋理性批判
カントは二元論というよりも二進法的に二分割を律儀に重ねることで新たな認識に到達する
分 析
|
量 | 質
規____|____反
定 | 省
関係 | 様相
|
総 合
バラモンやスピノザだとこれが(主体化を急ぐために)三角形になる
ちなみに、般若心経にもカントのカテゴリーと同じものが出てくる
是諸法空相[様相]、不生不滅[関係]、不垢不浄[質]、不増不減[量]。 仏教はアンチノミーを倫理的次元で活用する
《ダブルバインドの作用
禅の修業において、師は弟子を悟りに導くために、さまざまな手口を使う。そのなかの一つ
に、こういうのがある。師が弟子の頭上に棒をかざし、厳しい口調でこう言うのだ。「この棒が
現実にここにあると言うのなら、これでお前を打つ。この棒が実在しないと言うのなら、お前を
これで打つ。何も言わなければ、これでお前を打つ。」分裂症者の人間はたえずこの弟子と
同じ状況に身を置いているという感触をわれわれは抱いている。しかし彼は「悟り」とは逆
の、「混乱」の方向へと導かれる。禅の修業僧なら、師から棒を奪い取るという策にも出られる
だろう。そしてこの対応を、師が「よし」と認めることもあるだろう。しかし分裂症者がそのよう
な選択をとることは不可能だ。相手との関係に対して大胆になることは彼は許されていないし、
彼の母親と禅師とでは、その目的も意識も大きく違っているのだ。》
(ベイトソン「精神分裂病の理論化に向けて」『精神の生態学』2000年297頁)
参考:
《…徳山 (宣鑑 ・七八〇 ―八六五 )は堂に来る時 、必ず長い棒を携えていた 。そして言う 、
「道い得るも三十棒 、道い得ざるも三十棒 」と 。これが彼の弟子達に言ったすべてであって 、
彼はこれ以外何事も言わなかった 。》
(鈴木大拙「大肯定の禅」『禅学入門』より)
臨済録勘弁
http://marihouse.biz/kokoro/rinzai/rinzaiR4.htm
師聞第二代徳山埀示云、道得也三十棒、道不得也三十棒。 分裂 新約聖書 病 仏教
国語学、漢文学的にはこの熟語はおかしい。信仰を極めていないと
悟り や 預言 ができないわけで。 感自由自在菩薩か。真空の表象
ソニックブーム。グングニル。 >>238
> 無茶苦茶な研究してたぞ。
どの研究? >>205
般若の間違いすらわからずになにいってんだろな
大乗事態が仏教じゃねぇーのよ
というか日本の仏教事態が仏教じゃない
仏教=慈悲とかいうバカばっかり
仏教=悟りだから。慈悲なんて全く関係ない
悟りが浅すぎて話にならないから悲観の目で
見られてることを慈悲と呼ぶのならな
一般的な教育受けてて凄いバカな子見るのと同じ
それは慈悲じゃない。事仏教哲学において他人に慈悲をやる
時間はない。 257.
慈悲の主体の問題である。
それが省略されている。
慈悲の主体を、仏、と表現しただけのことである。
愛、の主体を神とかイエスとか表現しただけのことである。 ☆ >>157 >チベット 入菩薩行論
仮設としての
ttp://www.e-trans.co.jp/egaia01/buta111701.pdf
第一章 六
無始からの(輪廻を繰り返し)
無明を持って真如に薫習し妄心を生じている
無明薫習に依存して
悪は常に、大きく圧倒的な力を持つ
− これを対処する為に −
完全な菩提心の他に
どんな徳が悪を打ちのめすことが出来ると言うのであろうか?
それゆえに↓
ttp://www.classics.jp/RCS/NL08/NL08Sait.pdf
無明している世界の中の
他の人々をも慈しみ
他の人々にも涅槃に触れさせて
(「苦しい」と掴もうとしている想いが依存している)
「無明している世界を手放しせよ」と導いていく(VI.37; VIII.94)
ttp://www.j-theravada.net/3-jihi.html
生きとし生けるものにも
如来の智慧と慈悲の光が現れますように
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B0%E4%BE%9D
ブッダン・サラナン・ガッチャーミ
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E7%A4%BC%E7%9C%9F%E8%A8%80
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ >>257
関係ない。言い切る関係ない。
死ぬまでにその世の理手に入れるのが
仏教。それは答えを探すこと人に慈悲をかける必要性は全くない
探求者が何故慈悲を与えるか意味がわからんね
科学者も探求者だが誰に慈悲をかけるのか
草生えるのはお前だボンクラ。空に入ったものが慈悲とかあり得ないわ
仮も慈悲とは無縁。なら中は中も慈悲とは無縁だ
つまりお前らは空も仮も中ですらない。偽物だということだ
全てつながり人の生を紡ぐのであれば慈悲などいらん
勝手にそうなるんだよ。わかるかニセモノお前らはブッタの嫌った
一番やってはいけない事をずーと続けてる。
悟りきってもいない。お前らが誰に慈悲をかけ誰を救い誰を悟らせる
おこがましいんだよ。等しく命は平等なのに何故か階級社会化して
優劣を決めている。良いものを着て現世に依存し欲を捨てきれない
基本すら出来てないのに何が慈悲だ如何様なんだよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています