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おおー、意味論のスレだー。 最近いろいろと意味論がひっかかってきたところなので。 いったい「意味論」ってなんなのか、そもそも「意味」ってどーいう意味なんだw Wikipediaなど参照してみると 4.意味論が対象とするものである「意味」 などと書いてあって意味をなさないw 意味論的対象とは何か。そこからはじめねばならないのだろうか? それはおもしろい。すごくおもしろい。 「頭の中」という「意味」は先送りすることにして、 「頭の外」にある意味を探しに行こうではないか。 書いていたら長くなったのでズバッと省略。 意味とは値ではない。対象と値との間の関係である。 値といってわざわざ区別する必要もなく、対象と対象との間の関係である。 対象が同じものであれば自分自身への関係であり、アイデンティティという意味である。 関係=意味、だとすれば、そこにでてくる「=」も意味である。この文と関係=意味という関係も意味である。 意味論の意味がみえてきた気がする。あくまでも気がするだけなので信じないように。 要するに、意味論とは関数論のようなものなんだろ? 意味関数というのがあるくらいだから 関数論といってしまうと現在では複素解析になってしまうので「意味」が異なってしまう。 関数論に与えられるべき意味が複素解析に奪われてしまったw 関数とは「集合と写像」のことである。 そして、意味とは「射(圏論)」のことである。 そのように単純化して考えてみると、 圏論であらわされるいろいろなものが「意味」と呼べるものに見えてくる。 圏論=意味 といってもいいくらいだ。 よく考えると圏論とは数学言語であり、数学的に抽象化された「言語」である。 (対象より抽象度が高くなるように)言語で表されるもの=意味 とりあえず、これを「意味言語」と名付けてしまおう。 「意味言語」は(外部に)表出可能でなくともよい。 意味内容(=シニフィエ)の「(外部内部を問わない)表現」である。 そう考えてしまうと、そもそもの対象は最初から「意味表現」(=シニフィアン)である。 「記号」を「意味」に置き換えただけだw 表現された対象の意味とは、意味内容の表現である。 わざわざ「表現」とする「意味」はあるのか、といえば、「表現」できないと扱えないからだ、というしかない。 「抽象度が高くなる」方向に「意味」があるようだ。 エントロピー! 「意味論」とは、 数学的には「写像(と集合)」のことであり、 熱力学や情報論的には「エントロピー(を扱う表現)」のことであり、 量子論的には「(量子)表現論」のことである。 あ! 「意味論」=「表現論」でいいような気がしてきた。 意味とは表現のことである。(ただし、表出される必要はない) 限定すれば、意味とは内部表現のことである。 生命の意味論 言語の遺伝子 論考。 数学言語の方が始原になるわけだけど、日本語の脚のフリやけりも忘れないでね。 >>12 Kripke-Joyal semanticsですなー。 トポス内の数式に意味を与える。 トポス内に限らず、言語で表現されたらそれを「意味」そのものとみなしたい。 複数のスレにわたって考えながら書いてるのでどれがどれやら自分でもわからなくw ええっと、圏論という言語を圏論そのもので捉える/捕らえると「トポス」内に展開できちゃうんだろうか? 意味論に限定されるだろうけど。 と、今日はなぜかM理論の本を図書館より借り出して来た。はたして意味論に結びつくか? 無理やりアリストテレス方面のトポスとくっつけってしまったほうが哲学的にはおもしろいかもしれない。 そっちも借りてくるべきだった。 そーいや『圏論による論理学―高階論理とトポス』を買ったのはもう10年近く前か。 掘り出して読みかえそう。 「トポス」はどこにあるのか。と思ったら閉店していた。 おれのイメージの中では「黄色」。初期カラーは黄色と黒だったようだ。 「トポス」がどこにあるか、ではなく、「トポス」にあるのだ。 すべての「意味」は「トポス」にある。その意味の集まりも「トポス」そのものでもある。 「トポス」は別次元にある。いちばん近い概念は...ドラえもんの4次元ポケットか。 現実的に存在する「トポス」とはブラックホールである。 もし、圏論の「トポス」になにかしらブラックホールと類似するものをみいだせれば... と思って調べているのだが、圏論の本どこいったかなぁ。 カテゴリー論ってどの分野の「カテゴリー論」だろう。 「圏論」ってカテゴリーセオリーだから「カテゴリー論」そのまま。 意味とは行為である。すばらしい。気づかなかった。 表出されずに内部で表現されるだけでも「行為」だろう。 認知意味論も実は行為論ということなのかも。 いろいろ考えるとおもしろい。カテゴリー化に欠けていたのはアクションなのかも。 ま、「圏論」で考えれば「射」なんですけど、行為(論)の圏ってどんなんだろう。 昨夜、いろいろ書こうとしたがまとまらなかったので断念した。 それは「反応」と「意味」についてだったが、機械的な反応=機械的な行為だったのかも。機械的な意味論。 毎月のお支払い、生活費、携帯代でお困りの時はご相談下さい。お金の悩み、相談はエス ティー エーで 詳しくはHPをご覧下さい。 いろいろなところいろいろなことに「意味」をみいだすことができる。 「意味」の「意味」とはなにか。哲学問題だ。 すくなくとも、「つながる/つなげる」ということがなければ「意味」をみいだせない。 「無意味(の)ネットワーク」であっても、つながっている以上、そこに「意味」ができる。 対象を無意味(無定義用語)としてランダムにつないでも、そこに意味ができてしまう。 つなぐということが「行為」であるなら、「行為論」になるのだろう。 自然につながっているのであれば、そこには「意味」がある。 しかし、つながっているということが「認識」であれば「認識行為」であり「行為論」に還元されるかもしれない。 「認知意味論」とは「認知行為論」なのだろうか? 「ある」ということを「あるのだからあるのだ」としても、それが「認知論」なのかそうでないのかは議論すべきところだ。 「認知」は避けて通れない。だからといってそれが万能でもない。 われわれが「認知」しているのではなく、「認知されている側」なのだと考えるのも悪くはない。 「存在」そのものが「知性」である。われわれはその「知性」に「認知されている」のだ。 「認知」とは「つながる」ということだ。 圏論でいえば「射」である。「対象」すらも「射」そのものだけで定義できる。 「射」そのものを主体とすればよいのかもしれない。 それに「変化(運動)」が加われば宇宙論にもなる。 「変化」も「射」としてとらえるなら、この世界には「射」しかない。 投企(とうき)とは - コトバンク https://kotobank.jp/word/ 投企-103267 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 投企の用語解説 - 企投ともいう。実存哲学の一概念。 M.ハイデガーの Entwurf,J.P.サルトルの projetの訳。人間が自己の存在へかかわる仕方で,人間はすでに事実として世界のうちに投げ出されている被投性において ... 「意味」とは「関係」のことであるが、 行動論から人間を排除すれば「もつれ」である。 「意味」とは、その内容に立ち入らなければ「もつれ」のことであろう。 「もつれ」が「意味」を生み出す。 「関係」も「もつれ」の一種ではあるが、そこのところがまだうまく取り込めていない。 そのへんは先送りして「もつれ」からスタートしたほうがよいのかもしれない。 「意味」とは何か? 哲学が「わたし」を中心とした宇宙であるなら、「意味」とは「煩悩」の異名である。 これを量子状態と考えるなら ψ=|煩悩>+|意味>であろうか? (まあ、ちょっと「意味」の意味をせばめてはいるがw) 一般的な「意味」や「煩悩」は、純状態の「意味」や「煩悩」の重ね合わせ状態である。 ψ=|実>+|虚> としたほうがよいかもしれない。 これを「観測」したときに「意味」か「煩悩」にわかれる。 「意味」とは「関係」であると読み解くのなら、 さらに「関係」を「ネットワーク」と考えるのなら、 「意味」とは「実」ネットワークと「虚」ネットワークの混合である。 量子論的意味論。 この試みは単純に、「意味」とは「意味がある」か「意味がないか」の重ね合わせ状態である、 などと考えてもかまわないだろうw (この試みそのものの意味も含めての話だ) Up=P+¬Pである。 Pや¬Pをモナドのようなものと考える。モナドと同一視する。 UpはPの宇宙でありPのユニバースである。 PというモナドはユニバースUpと¬Pによって意味づけられる。 ¬PはUpとPによって意味づけられ、UpはPと¬Pによって意味づけれる。 モナドは部分を持たない、ユニバースは部分しか持たない。 そして、モナドはユニバースとしても機能し、その場合ユニバースだったものはモナドになる。 ユニバースは反転したモナドなのかもしれない。 理性こそ、生命の頂点にたつ人類が獲得した最も価値あるものと言う根拠のない確信から 因果律に意味を付加して、そこに人格的意志が働いているに違いないと錯覚する 命題のもっとも単純なものを命題変数と同一視する。 命題変数Pがあったとすればそれ単独で命題であり、(みえない)命題式でもある。 Pが二値T/Fをとるとするなら、T/Fは意味である。なんらかの外部のものと接続されて意味となる。 T/Fそのものが外部にあると考える。 Pが一値であれば、それが外部のものと結びつけられ、ただひとつの意味を持つ。 ややや、二値論理以前に一値論理を考えなくてはならないのだろうか? 意味論としての外部を持たない一値論理。内部構造を持たない。 内部に意味は無い。 それが「有る/在る/ある」などという意味も持たない。意味は外部しかない。 それは。。。それは。。。他から認識されてしまうと意味を持ってしまう。 意味を持たないという意味論。認識する側の主体があっては成立しない。 無意味論では「無意味」という意味を持ってしまう。 絶対無意味などと表現したとしても、絶対無意味という意味を持ってしまう。 × 意味は外部しかない ○ 意味は外部にしかない 「に」というところにすでに意味が与えられている。 意味とは関係のことであろう。 関係を断ち切ることで意味を断ち切れる。 そうすると「それ」は扱えない。 アクセス不能であり、アクセス不能であるという意味すらも持てないのであればアクセス不能であることすらもわからない。 真に意味を持たないということは「無意味」ですらなく、「意味を持たない」などという意味すらもわからない状態である。 それは。。。「対象」にできないということであり。。。 なにもできない。 残された唯一と思われる方法は。。。認識するものと認識されるものを分離して、 認識されないもの自身が認識者となることであろうか? 圏論における自己射は、哲学的につきつめると、外部に認識者がいなければ成り立たない。 「そんなことをしても『意味がない』」 そのような行為によっては目的を実現することができない、 「意図が達せられない」ということだろう。 意味を語る前に形式を考えて理を得てから内容を知るのが弁証法であり哲学 形や理では到達できないのが「意味」 よく使われる例えだが 「A」 アルファベットのAの頂点の角度や真ん中の線の位置や色明度をどれだけ精密に測定しても 決して「A」の意味を知ることは出来ない やや、昨夜は酔っていてさらにいろいろ書きかけたまま寝落ちしていたw 一値論理というありえないような論理を考えてみるのは楽しい。 いままで考えていなかったことが少しずつ見えてくる。 そもそも「一値」と語った時点で、それは「意味」なのだろう。 なにやらわからんけどとりあえず「値」を持つ。 値の意味はわからなくとも、値が「ある」ということそのものが「意味」になる。 そこに隠れているのは、それが「ある」と認識する「認識者」の存在だ。 認識者が意味をつくってしまうのだろうか。 認識者を排除して、「ある」という一値から考え直したい。 0値論理も考えてしまう。 その対象をPとすると、対象とすることで一値であるとすれば一値論理であり、 アクセス可能であっても値を返さないということをもって0値としてもよいだろう。 しかし、どちらも認識者あるいはアクセス者が存在してしまう。 これらは、外部に求めるのではなく、対象P自身に求めるべきなのだろう。 一値論理は自己同一性を持ち、 0値論理は自己同一性を持たない。 0値論理は(圏論的な)対象にはなれず、取り扱えないのか? これを取り扱うには。。。ユニバースを考えればよいのだとは思う。 単純にイメージすれば集合やクラスとして描かれる閉じた輪である。 0値論理にユニバースを与えたものが空集合であろう。 すべての集合に部分集合として存在する。 この部分集合というものが、意味論の(集合論的な方面からの)基礎になるのではないかと思っている。 空集合はひとつしかない。 その意味では自己同一性を持っている。 それでいて、すべての集合に部分集合としてしれっと存在している。 恣意的な意味ではなく、それ自身で意味を持っているものは空集合だけではないだろうか? なにがしかの恣意的な意味を与えようとしてもすべての意味を吸い込んでしまい、ただ空集合という意味しか持たない。 ライプニッツとは違うわけだが、とりあえず「モナド」として扱う。 このモナドは外部しかもたないが、内部も持っているのだと拡張して考える。 この内部は、外部からアクセス不能であれば問題は生じないだろう。 われわれはモナドの中にいる。 その外部にあるモナドを実身とすれば、モナドの中にいるわれわれのセカイにあるモナドは射身または虚身であろう。 モナドの外のセカイにあるモナドを、モナドの中のセカイにいるわれわれがみている。 それは仮想現実ではなく、ひっくりかえして、現実仮想(現実としての仮想)だ。 訂正 その外部にあるモナド -> その外部にある他のモナド われわれがセカイがモナドの内部にあるとしたら、 意味もモナドの内部にある。 意味とは虚身にみいだされるものであって、 実身を直接に取り扱うものではない。それは不可能だ。 我々が扱えるのは虚身だけである。 「存在」するということを自己同一性に求めるのであれば。 そして、モナドが「存在」するものであるならば。 モナドは自己同一性を持たねばならない。 モナドは殻を持つ。自己同一性という殻である。 本家モナドがどうなっているかは、調べないとわからないが、そう考えるのもおもしろい。 モナドから「意味」へはどうやればたどり着けるのか、と考える。 「自己同一性」というものが、もっとも基本的な「意味」なのかもしれない。 この「自己同一性」が「意味」であれば、モナドの外部にある。 外にでて戻ってくる「射」である。 行って戻ってくるというのは「物語」であり、 もしかすると、「意味論」とは「物語論」なのかもしれない。 形式意味論であろうと生成意味論であろうと認知意味論であろうと、物語であり、 物語論的意味論という道もみえてくる。 意味論を物語論に読みかえれば、形式物語論、生成物語論、認知物語論などがあり... とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法 役に立つかもしれません グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』 UWGW1 いざなひにおいていざなぎといざなみはどちらが先なのか おき(燠) latency, lying dormant おこ(起/興/熾)す activate ― 使役 おこ(起/興/熾)る erupt, become active, start acting おこたる(古語:病状が改善する) subside≒drop acting おこな(行)ふ enact ― 再帰形 おこた(怠)る fail to act≒drop acting >>51 >おき(燠) latency, lying dormant ここで、"latency, lying dormant"としたのは「おき(燠)」という語に 伴うイメージであって、「おき(燠)」の語源的な意味ではない。 形から類推するなら、「おき(燠)」は、"activant"とでも表現する のが妥当だろう。火や炎を現象させていないことにおいて、 "latency, lying dormant"のイメージを伴っている。 https://kotobank.jp/word/ 熾火・燠火-219258 熾火・燠火 おきび 大辞林 第三版の解説 おきび【熾火・燠火】 @ 火勢が盛んで赤く熱した炭火。おこし火。おき。 「おき(熾)」はこの場合、「火勢が盛ん」なことを表すのに用いられている のだから、「おき(熾)」に"latency, lying dormant"のイメージが伴うとする のは矛盾であると思うのは考えが浅い。「おきび(熾火)」とは、この場合、 「activating fire(熱源として作用する火)」であり、火/炎が盛んであろうと なかろうと、「おき(熾)」には、熱による効果を発現させる潜在性の イメージが伴っている。 >>52 >デュナミスとエネルゲイア 「おき(燠)」に伴う"latency, lying dormant"のイメージと比較して 考えてみるために、「デュナミス」という表現を出したが、「デュナミス」 は、"activant, activating"などと解釈した日本語の「おき」に対応して いるわけではない。ギリシャ語の「dunamis」は、ラテン語で「potentia」 に翻訳されるように、日本語で考えるなら、「おき(る)」ではなく、 「でき(る)」に相当し、「能力」と訳されるとおり、「あた(能)ふ力」 である。「有能者」を指すのに「できる奴」という場合のように 「〜にあた(能)ふ力」があるという意味で、その力はまだ実現されておらず、 可能態、潜勢態としてイメージされる。 古代ギリシャ語の動詞、"δύναμαι"の用法を見ても、それが日本語の「あた(能)ふ」 に近いものであることが分る。 https://en.wiktionary.org/wiki/%CE%B4%CF%8D%CE%BD%CE%B1%CE%BC%CE%B1%CE%B9 Verb δῠ́νᾰμαι • (dúnamai) (with infinitive) to be able, capable, strong enough to do (of moral possibility) to be able, to dare, to bear to do (with ὡς (hōs) and a superlative) as much as one can to pass for (of money) to be worth (of numbers) to be equivalent, to equal (of words) to signify, mean (as a mathematical term) to be the root of a square number, to be the side of a square (impersonal) it is possible, it can be 「ふる(振)ふ」も、言うまでもなく再帰形をしている。 このように少しでも意識すれば、日本語には再帰表現が極めて多いことに気づかされる。 「あた(能)ふ」とは、 http://www.wordreference.com/fren/etre%20a%20meme%20de être à même de faire [qch] (être capable de) be quite capable of doing 「〇〇には、〜することがあた(能/値)ふ」という性質が、〇〇の属性と見なされて 〇〇が主題とされること、つまり、「〇〇は、〜することができる」とされる ことが〇〇の主体化だろう。 日本語の表現について考え始めた当初、私は「〜あふ」という要素が再帰を 表現しているのではないかと推測していたが、今ではこの考えはまったく 不十分で不徹底だったと思っている。日本語では、再帰表現は、はるかに 広く用いられていると考えるのだ妥当だろう。むろん、「あ(合/会/遭...)ふ」 も再帰表現の一つであり、助動詞的に用いられている。 例えば、「い(言)ふ」は、「口にする」という動作を表す再帰表現であり、 「いひ(飯)」は、その名詞化として「口にするもの」を表す。さらに、 「い(言)ふ」という行為を表す動詞に加えて、やはり再帰形の動詞である 「あ(合)ふ」が助動詞的に相互性を表すように用いられて、 「い(言)ふ+あ(合)ふ」⇒「いは(祝)ふ」という表現が形成されている。 語源について論じると、根拠の薄弱な起源論を確実なものとして主張して いるという批判が出てくるが、どのように表現が形成されているのかを 推測するのに重要なのは起源論ではない。問題は、どのように表現要素 が用いられているかを可能な限り適確に推測し、記述することであり、 フランス語を用いるなら、どのような「adéquation」が行われている のかを見極めることである。 何らかの対象(モノではない)を指示するとすれば、 意味とはその対象である。 そのように考えてみる。 意味関数が対象の意味としての対象を返す。 意味関数の値が意味である。 この、2つの対象が同じクラスに属しているとすれば、それそのものであるかもしれないが、 同じクラスに属する他のモノかもしれない。 なんとなくおかしい。 ヤーコブソンのコミュニケーション図で考えるならばコンテクストなども必須だろう。 コンテクストによって意味が変わる。 記号というわけでもないが、シニフィアンがあり、意味としてシニフィエがあるとする。 シニフィアンをaddresser、シニフィエをaddresseeとみなせば、 context,message,contact,codeがある。 通常はmessegeがシニフィアンかもしれないが、切り離してしまうw そうすると、なんらかの意味を持つかもしれない対象からmessageが発せられることになる。 表現としての表記のようなものと、表現から発せられるmessageということだ。 addresseeを受信者ではなく「意味」であるとするならば、どこかに解釈者がいる。 messageは解釈者によってaddresserから抽出されるか、addresserに対して解釈者が付与する。 まあ、試論にすぎないが、このような読み替えがいろいろできる。 そもそものコミュニケーション図を対称的なものとし、それを入れ替えることでさまざまな応用ができそうだ。 addresseeが意味ではなく、messageを意味として図を変形させてもおもしろそうだ。 このような変形可能な形に書き換えることは不可能ではないかもしれない。 >>68 できることのadéquationにおいて我がある。 >>68-69 できることのadéquation、それが「あた(能/値/与)ふ」ことである。 「意味」は無い。 「意味」は与えるものである。 しかし、与えるものにも「意味」は無い。 この場合、「与える」ということに「意味」がある。 究極的な意味とは、「存在」なのかもしれない。 そうであっても「存在」に意味はなく、「存在」は、ただ、「存在」である。 そのように語ると「意味」ができてしまう。 結びつけること、すなわち「接続」こそが「意味」なのか? チャネル理論は本当に意味なのだろうか。 意味とは分断されたものの再接続なのかもしれない。 接続可能なものは、既に接続されているのであって、意味とは組み替えなのだろうか。 共変的量子場において意味は伝播する。組み替えの影響が伝播する。 みどりご - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/ みどりご みどりごとは?日本語表現辞典。 〔「新芽のような子」の意から。古くは「みどりこ」〕 生まれたばかりの子供。あかんぼう。 「いとけない−」 retoño - 小学館 西和中辞典 1 【植】芽、新芽 2 (主に幼い)息子 retoñar - 同上 1 <草木が>芽を吹く 2 《格式》よみがえる;再び現れる >>61 考える名無しさん2018/04/17(火) 12:59:51.550 https://kotobank.jp/word/ 熾火・燠火-219258 熾火・燠火 おきび Entre las ascuas de la vida ungara se cocian dos asuntos: el problema de la tierra, es decir, la reforma pendiente del sistema de latifundios, y el destino de los territorios y los pueblos amputados del cuerpo milenario de Hungaria por medio del Tratato de Paz de Trianon. Sandor Marai, "Lo que no quise decir", p.55 あらかねの地にしては、素戔嗚尊よりぞおこりける。ちはやぶる神代には、 歌の文字も定まらず、すなほにして、ことの心わきがたかりけらし。 人の世となりて、素戔嗚尊よりぞ、三十文字あまり一文字はよみける。 あらかねの意味 - 古文辞書 - Weblio古語辞典 https://kobun.weblio.jp/content/ あらかね あらかねの意味。・名詞@採掘したままの、精錬していない金属。 A鉄。◇後に「あらがね」とも。 シャーンドル・マーライの著作のなかでは、「灼熱」という題名で訳された 作品だけがなぜか日本語に訳されて出版されている。作品自体、昔の退屈な 映画ドラマを思わせるような感じで、特に何も強い印象を受けず、凡庸な 作品だなと思ったが、ドイツ語版から翻訳された日本語版の日本語には、 まったく感心しなかった。それに対して、"Lo que no quise decir"の方は、 著作そのものが優れているが、原語のハンガリー語を知らない私にも、 とても優れた翻訳であることが分る。 「意味」が意味空間(または意味の場)における位置(あるいは値)であるとするならば、 その「意味」以外の可能性としての「意味」がある。 意味空間とは、テンソル積を考えなければ、対称性でもある。 より大きな対称性が破れることでうまれた対称性である。 そのように考えれば、「意味」は「対称性の破れ」によってうみだされる。 どの意味を取るのかは射影であり、それぞれの意味の世界があるとすれば多世界であり... 「=」が対称性における同値性をあらわすのだとすれば、 意味とは=でむすびつけられた同値性である。 命題の意味が真偽値であるとするなら、命題と真偽値には対称性がある。 とても興味深い。 問題は意味空間だ。認識論的な意味空間はどうにでもなるのでどうでもよいw 存在そのものが意味であり、もはや存在と意味の区別はつけられないのではないか。 と、くだらないことを考えてしまった。 意味とは同値であるということであり、 値そのものが意味というわけではない。 意味函数があるとしても、その値が意味なのではなく、 意味函数によって得られる値が同じになる、ということが意味である。 意味函数がひとつしかないとすれば、その値は情報であり、 意味函数そのものが情報函数であるということになる。。 情報意味論か。考える価値はありそうだ。 意味比較函数あるいは情報比較函数。 AssertEqual 同じ意味空間(情報空間)への写像がコミでないといけない。 となると、意味の(情報論的)な形式化が可能であり... そうなると、値としての「意味」も形式化可能だ! (情報論的に)「意味」を「理解」するAIがつくれる、ということ。 もうすこし考えを整理してから制作してみよう。 >>89 >意味とは同値である そんなわけないだろw より正確にいえば、 意味の意味とは意味函数の値が同値ということであり、 意味の評価は同値関係しかない。 意味函数の返す値が「意味」なのではなく、 同値関係ということから意味函数自身が「意味」であるとしてもよい。 これはチャネル理論を読みかえただけである。 やはり哲学には「圏論」が必要だ。 codomainが同じということが意味の意味であり、同じでなければそこに意味は無い。 これを「認知」と考えることで、人工認知意味論が...w ・意味の抽出 ・意味の比較 ・意味データベース 吟味中。 状況意味論ではなく、状態意味論あるいは状態認知意味論か。 ま、情報意味論でいいやw 同型あるいは準同型。ま、そのへんは圏論と相性がよい。 そもそも、圏論は数学における「意味」をあらわすものだともいえる。 「圏」とは、よーするに「同じ意味」だといっているわけだw そこで、逆転させて「意味(の意味)とは同じということである」としてみた。 対称(性)意味論でもいいかな。 ふふふん。 結局のところ、チャネル理論やChuSpaceでできることは全部、圏論でまかなえてしまう。 ただ、圏論は抽象的すぎてつまらない。 ま、意味論の周辺では、圏論を活用した研究がいろいろと精力的におこなわれている。 いろんな学会誌を探るべし。 だが、圏論を用いても、なにを「意味」とするのか。なかなか難しい。 「圏」なのか「自然変換」なのか、 「対象」なのか「射」なのか。 意味が同値性のことであるなら A⇔B C⇔D の意味を区別できないね はて? おれの考えている意味論(意味ネットワーク)だと区別できるが。 つーか、区別できるように繋がっている。 ノードとエッジ。よーするに点と線である。 点から必ず3本の線がでるようにして、全体を閉じる。 そうすると、すべての線はなんらかの対称性をあらわすものでもある。 この対称性が「意味」なのではないか。 そう考えれば、「意味」は(意味ネットワークにおける)「線」であり、それは「対称性の破れ」である。 そこにみえてくるのは4つめの「線」であり...こいつが曲者だ。 時間だったり重力だったり。へたするとループ量子重力時間理論が... われわれは、なんらかの表面上の世界にいる。ブラックホール的な何か。 これが無いと、意味ネットワークは収縮してしまう。 意味論がだんだん超対称性理論にみえてきた。 意味というものは、不変性に対する変換演算子と同一視できるのではないだろうか? 圏論的には函手間の射、すなわち自然変換が「意味」なのかもしれない。 意味論としての物理、意味論としての数学。 意味論としての哲学w 思弁的意味論。相関主義を徹底的に排除した意味論? そう考えていくと、圏論とは不変性を記述する言語である。 意味(の意味)とは「同じということ」、すなわち「不変性」。 とすれば、「意味」は「圏論」によって記述可能だ。 「実体」はなにもない、対象物間の射にすぎない。 ただし、下部構造には立ち入らない。上部構造のみを扱う。 「意味」とは、上部構造における「圏」が「等価」である、ということ。 いや、「意味」を「圏」とすれば、「意味」の「意味」が「等価である」ということだ。 数学における「存在」とは、自然数の公理と集合論の論理から定義できるもの「だけ」である。 そうすると、数学における「意味」とは、数学言語で表されるものだけであろう。 圏や関手や自然変換すらも、対象であるかぎりidentityを持つ。 数学的対象はidentityを持たねばならない。 哲学的圏論において、identityは対象自身が持つのか外部から与えられるのか、そのへんから違いが生じるの、かも、しれない。 それを「現象」とするとき、「現象」のidentityは「どこ」にあるのか。 数学的圏論が、対象や射から圏や関手や自然変換へとたどるのであれば、 哲学的圏論は、「現象」からその内部構造へとたどり、identityを求めるもの、でなければならない、のかもしれない。 そうなると、哲学は数学と逆方向であり、究極の「意味」とはidentityのことなのだろう。 identityを自己愛ととらえるなら、それは「煩悩」であり、(西洋)哲学は「煩悩学」であるw 「煩悩」と書いて「モナド」と読んでしまおう。 さて、意味論の意味は「煩悩」を暴くことで浄化するということではない。 今回の、今の宇宙で最長不倒距離(時間?)を目指すことであるw われわれは、そのような「競技」に参加している。それでいいのだ。 いろいろ考えたが、「意味」とは結局、「存在」のことである。 「存在」の有り方/在り方。 それは「対称性」。どのような/どのように、「対称性」を持つのかが「意味」である。 「意味」に先立って「必然性」がある。 「必然性」あるいは「必然的偶然」が生まれるのは「無秩序」ゆえである。 ざっと暴力的/短絡的につなげてしまって結論してしまうならば、 「意味」は「無秩序」からうみだされるw 「神の数式」を視聴しなおし中。 「無」とはなにか。 「無秩序」である。とりあえず、そのように考えてきたが、 「無限(大)」であってもよい。 「無」とは「(有の)すべて」である。 これを等価とすることで、すべてが解決できる? かもしれない。 意味論における究極の問いが「無」であれば、至高の問いは「すべて」であろうw これをつなげた超対称性から「意味」が紡ぎだされる。 意味のものさしはおもしろい形をしている。こいつが「大きさ・長さ」のようなものの根源ということになる。 であれば、これが「神の数式」であらわされていものの「はず」である。 「意味論」と「超弦理論」は「同じもの」である。 ひととおり考えてやっと「対称性・対称群」がつかめてきた。 これでエドワード・フレンケルが読める。「数学の大統一に挑む」。 書店でみつけて、ああこれは買ってあったはずだと気づいたが、部屋のどこにあるのか探しだせる自身がなかったので図書館から借り出してきた。 ラングランズ・プログラム。そうでなきゃエルランゲン・プログラム。 といっても、数学屋ではないので、これらには立ち向かわないw 哲学屋でもないので、哲学にも適用しない。 でもって、ちょいと番組表みてたら放送大学で日本語リテラシーやってたので録画。 「接続関係」。これも「対称群」である。そのように読み解ける。 「対称群」によって哲学を含めて文学から数学・物理などすべてが「大統一」できるだろう。 この「対称群」そのものの「(存在)理由」を探求することができるのは「哲学」だけだ。 「美しさ」を求めるのではなく、「美しさとはなにか」を求める。 哲学におけるすべての問いの根源は「美しさとはなにか」である。(ただし、思考者としての人間を前提としない) 「数学の大統一に挑む」(原題は Love and Math -- The Heart of Hidden Reality) を再読していて気づいた。 素粒子理論と、考えていた量子ゲートによる論理学・集合論の再構築との類似性。 こりゃー、ジョージ・レイコフの認知意味論(Women, Fire, and Dangerous Things: What Categories Reveal About the Mind. )も、対称群の立場から読み直してみるとおもしろそうだ。 文系理系を超えた超大統一理論。ありだよなぁ。 無から有を生み出すKobayashi-Maru的手法。(チートかよ) 「神」とはCheatのaliasである。 む、自身->自信 自信が自身となるようなcheatということか。デカルト的cheat 意味は言語がさすものという単純なことではない。 意味深である。 「意味」というものを仮想粒子として扱えばよい。 「意味の素粒子」 そうすると、「意味」とは「ひも」の振動によってもたらされるものであるw 「意味」というものを数学で捉える/捕らえるならば圏論における「自然変換」が適当だろう。 なんて考えてしまうと、「意味」=「圏」でよい。 そうすると、超弦理論もまた「圏論」の現物的な姿であり... 「ひも」とは「煩悩」そのものであり、「煩悩」によってこの世界がつくられているとw 「対称性」とは、なんらかの操作に対する「不変性」である。 そうであるならば、 「意味」とは「意味の時空間(意味場)」における意味的対象(存在)間の「不変性」であろう。 「意味」とは「対称性」のことである。 量子論・素粒子論・超弦理論など、どれも(現象に対する)意味の意味を探るものである。 「対称性」は「不変性」と、その「つながり(関係)」からなる。 圏としての不変性や、関係としての自然変換もこれに含まれる。 でもって「対称性」そのものにも「対称性」があり、対称「群」となる。 これらすべてを巻き込んでw「意味とは対称性のことである」と。 この巻き込みが超・大統一理論を... 哲学も文学も科学も、「対称性」に陥る/還元されるとすれば... >>117 意味の意味を考える議論。 もちろん、意味の意味の意味の意味・・・という無限の議論になる。 夢をみた。 「哲学の本質は『美学』にあり、『美学』とは『意味』をみいだすことであり、『意味』とは『対称性』のことである」 「意味」というものを「対称性」「だけ」に求める。 計算モデルを構想中。 「理解」という言葉の意味を再定義しなければならないが、 「美」とは「理解する」ということである。 より明確に語りかけてくるものだけを「美」と呼んでもよいだろう。 そこにはエネルギー的流れがある。 [いみ]って読ませて53って連想させて35とあわせて88にしようってGの宇宙企画 で [なに]って読ませて72を連想させたのを88倍すると4桁になるアレ なかなかよく出来たデザイン 対称性を捕らえる/捉えることが意味であるとすれば、 意味の意味とは対称性の対称性である。 必ずしも無限連鎖せずに「収束」するかもしれない。 不動点でもよいかもしれない。 ループが形成されたとき、それは自己同一性を持ち、存在となる。 意味が存在をつくるということ。 電磁波的な意味と存在の波動?いや、波動が存在か。意味とペアになるものはなにか? ん? 意味と存在で実在? 破れが実在をつくる? はたしてなりたつのか? これがサンタからのプレゼントかも... 意味とは記号表現に起因する記憶情報の平均値のことである 「意味」と「存在」。 どちらも波動であって、クライン–ゴルドン方程式によるものであるとすれば... 遅延波と先進波から意味と存在が読み出される。 実在化による存在ではなく、 意味波と存在波の合成による実在化。 でたらめな考えだがおもしろい。 意味とは(何かと)「同じ」ということであり、 存在とは(何かと)「違う」ということである。 どちらも空間を伴う。どちらもその空間内での位置である。 意味と存在を合成して実体化させるのか、 実体を意味と存在に分離するのか。 意味を宇宙際タイヒミュラー理論で説明するとどうなるの? 意味をどこにとるかだなぁ。 タイヒミュラー空間とは変換函数の集合であり、 宇宙際とは、数学的な議論領域間のことであり、 合わせて、異なる数学的な議論領域間での変換空間のこと。 変換こそが意味である、とすれば、タイヒミュラー空間が意味の場、かもしれない。 宇宙際なんたらと関係なく、タイヒミュラーによるタイヒミュラー空間があります。 ただし、宇宙際タイヒミュラー理論では、積による部分の変換においてなんらかの値がでてきます。 ゆがみかもしれないし、ギャップかもしれない。 それが「意味量」となるのかもしれない。 これを考えると、テンソル積のとりかたが「意味」なのかもしれない。 かならずしも線形に展開する必要もないし、可能な次元全体に展開する必要もない。 ええと、そう、あれだ、基底状態だ。 どのような基底状態に変わるかということが意味をうみだす。 ということは基底状態こそが意味なのかも。 ひとつ、ふたつ、みっつ ひ、ふ、み 「ふたつ」の「ふ」は、中国語の「复(複)ピンインfù」を流用したものだと 考えることができるけれど、すると、「ひとつ」の「ひ」は、中国語の どのような表現を利用したものだろう、としばらく考えていた。 「ひとつ」の「ひ」が、「ひと(等)し」の「ひ」や「ひと(人)」の「ひ」 と共通していることは明らかだ。これを手がかりにすると、発音の点 からも、意味の点からも妥当と思われる答えはすぐに見つかる。 「一匹、二匹、...」の「匹」である。「ひとつ」であることは、 その語源においても相対(/当)性により表されていることになる。 cjjc.weblio 「匹 ピンインpǐ」、匹敵する,相当する,釣り合う. wiktionary † to match; to be equal 匹配 ― pǐpèi ― to match 匹敵 / 匹敌 ― pǐdí ― to be equal ひつ 〖匹〗 ヒツ・ひき たぐい 1. 二つが組になる。対(つい)になる。つれそう。 「匹偶(ひつぐう)・匹敵・匹儔(ひっちゅう)・好匹・良匹」 2. ひとり。ひとつ。「匹夫・匹婦」 事実関係として「ひと(人)はみなひと(等)しい」というわけではない。 そうではなく、「ひと(人)」が等号、"="なのである。 だから、誰にとっても、「ひと(人)」のことは「ひとごと(他人事)」、 "gleichgültig"なのだ。 こういうことを指摘するのは、私しかいないわけだが、 こういうことに気づいたのが私だけだとはまったく思っていない。 他の人々、特に国語学、日本語学、言語学の研究者のなかには 確実に気づいた人々がいるはずなのに、誰も指摘する人がいない。 これが世の中のとても奇妙なところだ。 まるで「王様は裸だ!」と叫んではいけないかのようだ。 >>136 こじつけで客観性を得るのは無理じゃない? そのとおり。 人は、「気づかされてしまう」という形でしか説得されない/ 納得しないのです。 人は、ひとたび「気づかされてしまう」と、いくら気づいていないふり をしても、気づいていることが暗黙のうちに振舞ひに顕れてしまう。 己が、己の振舞ひによって裏切られるのです。 《trahir》、「〜を裏切る」、「〜を暴露する」とは、そういう意味なのですよ。 人は他人の話を聞く場合にも、相手の言葉の意味や論理関係、言外に 伝えようとしている意図に注目しているだけでなく、相手の発話行為に おいて「裏切り」として露わになるものにも注意を払っていて、 むしろ、言葉の明示的な意味の方が、「裏切り」によって露わになる ものから解釈される。だから、たった一言のつぶやきがとても重かったり、 重大な結果を招きかねないことに対する警告が、伝え方が軽かったため に無視されたりする。 「意味」とは「関係」なのか、というと、 「関係」というものを同じ集合に属することであると考えるなら、 「意味」とは同じ集合に属するということだ、ということでもよいと思えてきた。 集合論的意味論。 「意味」というものをなんらかの集合に属するということだけに絞り、 その「集合」も、同じ集合に属する他の元だけを考え、集合自体には意味を求めない。 (集合論における「クラス」概念からの発想である) ともかく、「意味」を求めないことが「意味」であるw すなわち、「本質」ではなく「関係」のみを扱うという「科学」と同じ手法。 とすれば、それは「科学的意味」であり、科学哲学における意味論なのかもしれない。 抵抗は無意味だ。 匹敵すること、敵と対等であることが「(ひととして)数えられる/数に入る」 条件である。とても分かりやすい論理だろう。 Wiktionaryでは、中国語において「匹」と「比」が語源的に関連するものと 考える説が紹介されているが、「匹敵する」という表現と「比肩する」という 表現の類似性を考えてみれば、これは妥当な推論だろう。 >>144 万葉集は朝鮮語で書かれている、という発想と同じだな。 >>144 「(ひととして)数えられる/数に入る」ことについての考え方は、そのまま 数学における数の考え方の基礎とも共通しているだろう。 「ユークリッドの互除法」とは、「違うものを『比べる』ことによって、 『匹敵するもの』を数える手順を繰り返すこと」として説明できるはずである。 手順において現れる、数えられた「匹敵するもの」が、その都度、暫定的な 単位としての「1(ひと)」つである。 >万葉集は朝鮮語で書かれている、という発想と同じだな。 まずは、朝鮮語で同様のことができるかどうか、やってみせることだろう。 私は、朝鮮語については、韓国ドラマでよく使われるフレーズの意味を 少し憶えている程度にしか知らないが、日本語が朝鮮語と直接につながって いることを示そうとした本のいくつかに図書館で目を通した限りでは、 表現レベルでネットワークを形成するような説明は完全に欠落している。 岩波古語辞典にも、数多くの項目で朝鮮語起源とする記述が見られるが、 個別の事例で発音と意味が似ているという指摘でしかない。 >>132 >>147 ひとつ、ふたつと数えるとき、数詞の「ひ」は、「匹 ピンインpǐ」、 「匹敵する」こと、「相当する」こと、「釣り合う」ことを表しており、 数詞の「ふ」は、「复(複)ピンインfù」、つまり、「覆る」こと、 「反復する」ことを表していることが明らかになったわけだが、 このことから、さらに面白いことが分る。 「ひ」である、つまり、「匹敵する」ことは、それ自体としては、 「ひとし(等)さ」を表している等号、"equal sign"、「=」でしか ないので、「『1(ひと)』そのもの」は、不特定な潜勢態として しかあり得ない。ところが、値(あた・ひ/能ひ/与ひ)として実現 された「1(ひと)」は、既に「匹敵する」ことにおいて数えられた、 つまり、「反復する」こと、「覆る」ことにおいて現れる、 「『复(複)ピンインfù』における『匹 ピンインpǐ』」、 つまり、二分の一である。 >>148 君の書き込みのことをそう言ってるんだけど?w 数学の基本的な技法を伝えるときのメタ言語における存在論的な混乱が、 数学の初歩的な理解に無用な混乱を招き入れている。"1"は、等しさを 表しているだけなのだから、あらかじめ数値として「存在する」わけではなく、 同様に"π"も、直径に対する円周長の「比」なのだから、あらかじめ数値 として「存在する」わけではない。特定の円が与えられて、その直径の 大きさを「単位として規定する」こと、その行為によって初めて、 "1"が「数として与えられる(あた(与)ふ/あたひ(値)となる」、つまり、 「数値」となり、それにより、πも、その数値に対する比として3.1415... としてその特定の円の円周長を表す「数値」となる。数学者が自明の ものとして、数学の技法を説明するメタ言語においてこの存在論的な 区別を軽視していることが、初歩的なレベルで数学の技法をうまく 伝えることの失敗につながっている。 誤:「数として与えられる(あた(与)ふ/あたひ(値)となる」 正:「数として与えられる(あた(与)ふ/あたひ(値)となる)」 数学を分りやすくするために、円周率を「約3」として教えるべきか、 それとも「3.1415...」として教えるべきかを争そうのは、まったく 的外れな議論でししかない。 互除法や連分数計算において実行されている行為は、「匹 ピンインpǐ」 である性質、つまり、「ひと(等)しさ/1である様態」を近似することに よって、「比」を表現しようとすることである、と記述することができる だろう。 commensurable (adj.) "having a common measure" (as a yard and a foot, both of which may be measured by inches), 1550s, from Late Latin commensurabilis "having a common measure," from com "together, with" (see com-) + Latin mensurabilis "that can be measured," from mensurare "to measure, " from Latin mensura "a measuring, a measurement; thing to measure by," from mensus, past participle of metiri "to measure," from PIE root *me- (2) "to measure." 現実の生活において、「合理性」は、適用されるべきものではなく、 それを表現すること/表出させることが、試みられるべきものなのだ。 1である性質/ひとし(等)さ/自己(onself)は、対比において無限に近似しよう とすることを続けることによってしか捉える/同定することができないが、 その近似の精度は、数を順に数えるのに応じて高まり、その近似の精度の 表現であるとともに、1である性質/ひとし(等)さ/自己(onself)の裏である 他者性を対比において表出させたものがπである、と言えるのではないか。 日本語の起源が朝鮮語であるとは考えられず、日本語が利用している 中国語の表現が朝鮮語経由であると考えるべき理由もないが、それでも、 朝鮮語に入った中国語を参照してみることは、日本語の表現を考えるのに 役立つ。 日本語の「や」が、「やぶ(破)る」、「や(止)む」、「や(遣)る」、 「や(焼)く」などの表現において、おそらく、ドイツ語の"weg"に相当 するようなイメージで用いられているであろうことは前に指摘した。 しかし、「やは(和)す」の場合は、そのようなイメージで用いられて いるとは考えられず、むしろ、「よわ(弱)し」の「よ」のイメージと 似通っている印象を受ける。さらに、「やさ(優)し」の場合は、「や」 のイメージの解釈に明らかに多重性が生じていて、用法により、 まるで異なる意味合いで用いられているのを見て取ることができる。 ところで、日本語では「若干」は、「じゃく・かん」であり、「老若」 は、「ろう・にゃく」だが、朝鮮語では、「若干」は、「ヤッ(ヤク)カン」 だろう。現代の中国語では、「若」、「弱」、「蒻」はすべて、 「ruò」と発音されるようだが、「老若」の日本語の発音に反映される とおり、「ニャク」に近い発音であったとされる。「ニャク」発音から 「n」の発音を落とせば、朝鮮語のように「ヤク」という発音になる。 「やは(和)す」の「や」、「よわ(弱)し」の「よ」の発音が想起させる イメージは、おそらく、そのように「n」の発音が落とされた中国語 の「若」、「弱」、「蒻」などの表現のイメージと重なっていたのだろう。 >>151-157 数学を説明する場合のメタ言語における存在論的な混乱は、πを計算する ブラウンカーの連分数を考えてみると分りやすい。 π=4/(1+1^2/(3+2^2/(5+3^2/(7+4^2/(9+5^2/(11+... 以上のように順に数を数えることに応じて円周率を表す数値が計算されて いく。私のように数学操作そのものを苦手とする人間には、数学記号と 数字の羅列だけでは、何も理解できないので、これがどのような計算に なっているのかを具体的に考えてみよう。 円の直径×円周率=円周長であることは、学校で習う。 すると、この連分数では、円周率を求める割り算になっているのだから、 円の直径×円周率=円周長を変形して、円周率=円周長/円の直径を 表していると考えることができるはずである。この場合、 π=4/x という形をとっているのだから、分子の4が円周長を表し、 xで表した1+1^2/(3+...の数式の部分が、円周長を4とする円の 直径を近似することになっているはずだろう。さらに、この連分数の 数学的な正しさの証明の手続きなどについて、私は全く知らないものの、 最終的には円周率のπが求められるのだから、分母であるxの部分は 計算を進めるにつれ、4/πに近づいていくはずであり、したがって、 その逆数であるπ/4とxを掛けた(π/4)*xは、1に近づいていくことに なる。 そこで、実際にWolframAlphaのサイトで計算を試してみることにすると、 X=1+1^2/3までの計算では、(π/4)*(1+1/3)=π/3=1.04719... であるが、この計算において3までにとどめた3、5、7、9、11...と続いて いく部分を37までカウントして計算すると、 (π/4)*x=0.9999999999999953... と算出され、計算結果が次第に1に近づいていることが分る。 では、この手続きは、無限に続けることができるのだから、 この計算の答えは、「極限」において1という値に収束する と考えていいのだろうか。私は、数学の知識がないので、 数学用語として厳密に定義された「極限」の意味も、 「収束」の意味も知らないが、日常言語の用法に照らして、 確かに計算の結果は、1に「収束」していると言えそう な気がする。しかし、計算の手続きから考えて、その 計算結果に「極限」は存在しないはずだろう。そもそも、 (π/4)*x=という形で、πを用いているのだから、このπが このサイトでどのようなアルゴリズムを用いてあらかじめ 計算されているにせよ、その計算結果の数値に照らして xの部分の計算の精度を確認しているだけであり、参照 されるπの値も別の計算方法によって算出されたところ までの数値が確定しているだけの話だろう。 >日本語の「や」が、[...]おそらく、ドイツ語の"weg"に相当するような >イメージで用いられている こういうことを考えることが何の役に立つのかというと、そのように 暫定的に仮定してみることで、一見、ばらばらに見えるものを統一的に 考える手がかりが得られることだ。例えば、私は、古語の「やがて」と いう表現について、それがどのように構成された表現なのか未だに判断 がつきかねている。それでも、この「や」も、暫定的に"weg"に対応する ようなイメージで用いられていると考えてみるなら、その解釈が最終的に 正しくないことが判明することがあったとしても、一時的に考えをまとめる ことに役立つのだ。 (現代語)そのうちに。along the way/down the road (古語)そのまま。along the way/along the line すぐに。right away、 そのまま全部。all the way それが正当化されるか否かに関わらず、人はいつでもそのような推測を 働かせている。例えば、英語に接触する以前の日本語で「そふ」と言えば 「祖父」を表し、あるいは「そ(添/沿)ふ」として理解されただけだろう。 しかし、英語からソフトという言葉が入ってきて、ソフト・クリームなど の名称で日常的に「ソフト」という発音と柔らかいイメージを結び付ける 言葉の用法に慣れると、似たような発音を聞いただけで、それが柔らかい イメージを想起させることになる。だから、柔軟剤の商品名として「ソフラン」 や化粧品の商品名として「ソフィーナ」という名称を聞くと、「ソフ」 だけでは英語としては意味を成さないにもかかわらず、また、その命名が どのような意図によるのか明確に知らないにしても、それらの名称が付けられた 商品を「柔らかい」イメージに関連付けて捉えることになる。これは、 人々が特に意識することもなく、自然に働かせている推論である。 >>162 この関係は、こう言い表すこともできるではないか。 円周長が単位として数えられる確定した/規定された値を有するならば、 その単位は、いくらでも正確に近似することはできるものの、その 値は、確定したもの/規定されたものと見なすことができず、逆に 単位を確定した/規定された値と見なすならば、円周長は、その 単位を数えることによっていくらでも正確に近似することはできる ものの、確定した/規定された値を有すると見なすことはできない。 したがって、1を特定の値と見なすならば、その1を直径とする 単位円の円周長を表すπは、決して確定した値であることはなく、 逆に円周長を表すπを確定した単位と見なすならば、直径を表す 1は、確定した値であることはあり得ない。 測るために用いる単位と、測られる大きさについて、視点が交互に入れ代る ため、どちらもあらかじめ規定されて与えられているという錯覚が生じるのだ。 数える行為に先立って数が存在すると信じる、根拠のない奇妙な形而上学が 数学神秘主義につながる。 円周率とは、数を順に数えることに応じた、「数えるための単位/ひとしさ」 の規定の無限後退の表出/表現であると言えるのではないか。 円周率を数値として求めようとするとき、いくら計算しても、計算してしまう までは数値の定まらない小数点以下の桁が無限に続いていくので、計算の 対象である円周率の方が捉えがたく逃げていくような印象を受ける。 しかし、円周率が数値として与えられているものとしてその数値を 追求するとき、実際に無限後退を迫られているのは、数値を数えるための単位、 つまり、「ひとしさの規定」の方だろう。 私は間違った記述をしたいとは思わないが、私自身による記述が適切である か否かは、それほど重要なことではない。重要なのは、日常言語で記述する 試みの必要性が認識されて、私の記述が不適切であるのならば、より適切な 記述が行われることである。 πについてのライプニッツの公式とブラウンカーの連分数の比較 ブラウンカーの連分数の場合 (1+1/(3+4/(5+9/7)))*(π/4)=1.001382... ライプニッツの公式の場合 (1-1/3+1/5-1/7+1/9-1/11+1/13-1/15+1/17-1/19+1/21-1/23+1/25)*(4/π)= 1.0244 ブラウンカーの連分数の場合 (1+1/3)*(π/4)=1.047... ライプニッツの公式の場合 (1-1/3+1/5-1/7+1/9-1/11+1/13)*(4/π)=1.045... πのについてのライプニッツの公式は、何を近似することによって導かれた ものだろう。直径を1とする円の面積だろうか。私はよく知らない。 いずれにしても、ライプニッツの公式をブラウンカーの連分数計算と 比較してみると、ライプニッツの公式の方がはるかに「収束」が遅い ことが分る。ライプニッツの公式は収束が遅いことがよく知られている とWikipediaにも記載されている。 ここで私は数学の技法について議論したいわけではない。私にはそのような 議論をする知識もなければ、能力もない(小学校の算数のレベルにも達しない だろう)。そうではなく、私がここで表現しようとしているのは、このような 数学の技法の比較を隠喩として用いて、より一般的に、コモンセンスの追求を "commensurability"を求めることに喩えるなら、その追求において試みの 反転を繰り返すことが、コモンセンスへの効率の良いアプローチにつながる と言えるのではないか、ということである。 私がこのような主張をすると、ネットの環境でも、対面的な場でも、 算数についても、数学についても私に基本的な技能すら身に付いていない ことを思い知らせようという連中がたちまちのうちに湧いてくる。 しかし、私には別に、自分に数学の能力があることを証明したいという 目的があるわけではないので、私にとってそのようなことはまさに 「どうでもいい」のだ。私は数学の権威の立場から、そのような主張 をしようとしているわけではない。滑稽なのは、自らも数学にまるで 関心のないような連中まで、そのようにあたかも私が自らの数学の 技能を証明しようとしているかのように非難することに必死になる ことである。連中は、実のところ、"brute force"の崇拝者であり、 自らには力量がないことを自覚しながらも、自分たちが"brute force" の側に立っていることを示せることを誇りに思っているのである。 誤:その追求において試みの反転を繰り返すことが 正:その追求において、連分数の計算のように、試みの反転を繰り返すことが 私は、マルクス主義者ではないし、マルクスの著作もほとんど読んだことが なく、ドイツ語で読んだものと言えば、"Zur Judenfrage"のみであるが、 マルクス主義者とマルクスの違いははっきりと指摘することができる。 マルクスには特徴的であり、マルクス主義者には完全に欠けているもの、 それはまさしく、"Zur Judenfrage"の文体に典型的に見ることができる、 反転する試行/思考の実践である。 ふむふむ。 ライプニッツの公式の宇宙。 そして、ブラウンカーの連分数の宇宙。 これらとπの宇宙。 宇宙際ですよねぇ。 てことは、そこの際間にタイヒミュラー空間を挟めばおもしろい。 そう考えてしまうと、宇宙際タイヒミュラー理論はいろいろ使えるかもしれない。 宇宙では広すぎるのでclassあたりにするのが実用的だろう。 classを構造と読み替えれば、構造際タイヒミュラー空間も考えられる。 それを圏論にもっていけば、超自然変換から物理量が得られるような気がしないでもない。 異なる「宇宙」あるいは「class」あるいは「構造」間での「タイヒミュラー空間」。 もしかしたら、それが「意味」。 タイヒミュラー意味論。また新しいおもちゃができてしまった。 ホモトピーとか、なんらかのホモ*ではなく、むしろ、異相変換。 あるいは超自然変換(=意味論)w まだ単なる思いつきだが、ヘーゲルの見落としたもの、マルクスが捨てたもの。 そしてマルクス主義者を狂気へ導いたもの。 それは意味論の問題だったのかもしれない。 というわけで今日の図書館行きのテーマはタイヒミュラー空間だ。 これを意味論の空間として読み解く。 >>164 日本語が中国語の表現を利用したピジン語として形成されているとは、 どういうことだろうか。例えば、英語からの外来語である「ソフト」 という形容詞は、指摘したとおり、商品名や会社名として「ソフ」 という短縮形で「ソフト」の代わりに多用されている。英語でも "soften"という動詞は、"t"の発音を含まないので、「ソフ」だけでも 「soft」であることに関連付けられてイメージされる可能性はある。 それでも、英語においては、"sof"という発音のみで"soft"という 形容詞の代用とされるような用法は一般的ではない。したがって、 日本語のおける「ソフ〜」の用法は、英語から入った外来語のピジン語 的な用法であると言える。 では、「にこにこ」笑う、「にこやかに」ほほ笑む、などの表現に おける「にこ」はどうだろうか。さらには、「にく(憎)む」という表現 における「にく」はどうだろう。現代の日本語の話者で、これらを 外来の表現として認識する人はまずいないだろう。多くの人は、 これらの表現を単に「日本語本来」の表現であると感じているはずである。 しかし、「日本語本来」であるとはどのようなことだろう。 以前、日本語と中国語の関係についてまったく念頭になかったときに、 明白に漢語として中国語から日本語に入っている表現すら意識する こともなく、以下のような指摘をした。 >「にこ」を岩波古語辞典で引くと、「《『あら(荒)』の対。ニキ(和)と同根。 ニコシ・ニコヤカなどの語根》@(材料が)柔らかいこと...」などと記載 されている。「にこ」を受動態と見なして類推される能動態は、「にく」で あり、日本語で「肉(にく)」は動詞ではない。では、この類推は、成立しない のだろうか。私の妄想によれば、そんなことはない。「にこ」が表している のは、英語で表現するなら「soft-touched」という受動態であり、「肉(にく)」 が表しているのは、「soft-touching(柔らかく触れる)」という動詞の名詞化 である< ここには、私の無知がよく現れていて、無論、「羊頭狗肉」のような漢語表現に 見られるとおり、「にく(肉)」は、明らかに中国語から直接に入ってきた表現 である。では、ここに引用した私の指摘は、完全に外れているのだろうか。 私はそうは思わない。当たらずと雖も、遠からず、だろうと思っている。 「肉」を中国語辞典で引いてみると、現代の中国語では、「肉」は、 「ピンインròu」と発音され、日本語の場合と同様に、動物の肉や 果肉を表すのに用いられると記載される。ところで、さらに、方言 として以下のような用法があることも記載されている。 ((方言)) 形容詞 歯切れが悪い,さくさくしていない,ぐにゃぐにゃしている. ↔脆. 用例这西瓜瓤儿太肉。〔述〕=このスイカは歯切れが悪すぎる. 这西瓜瓤儿太肉。〔述〕=このスイカは歯切れが悪すぎる この用法において、「肉」が表現している「歯切れが悪い」、 「ぐにゃぐにゃしている」様態とは、スイカの果肉が新鮮でなくなり、 細胞組織が壊れて「柔らかくなっている」ことを表現しているだろう。 そこで、中国語の「柔」を引いてみると、日本語と同様の意味で 用いられる表現として、「柔」は、「ピンインróu」と発音され、 「肉 ピンインròu」と重なっていることが分る。さらに、wiktionary でこの両方の漢字を調べてみると、「肉」は、現代の日本語において その発音が受け継がれているとおり、かつての中国語においては、 "njuk"のような発音であり、「柔」の方も、現代の日本語において 「柔和(にゅうわ)」という表現の発音に引き継がれているとおり、 "nju"のような発音であったことが分る。 例えば、中国語の方言における「肉」の用法を説明するために用いられている 「ぐにゃぐにゃ」という表現には、柔らかさを表現するために「にゃ」という 発音が用いられている。「にゃ」、「にゅ」、「にょ」という発音の組織化、 つまり、これらの発言のイメージを互いに関連付けるように用いる日本語の 表現の構造化は、日本語独特のものであり、中国語に由来するわけではない だろう。にもかかわらず、これらの発音が「柔らかさ」をイメージすることは、 日本語として利用された中国語の表現の発音のイメージと切り離すことが できず、同様のことが、日本語全般にわたって言えるだろう、と私は考え ている。さらに、そのような中国語の表現の利用を日本語から除外して、 「日本語本来の姿」を明らかにしようとするなら、日本語そのものが姿 を消してしまうだろうと考える。それが、「日本語は、中国語の表現を利用 してピジン語として形成されている」という私の指摘の意味である。 「にく(憎)い」という表現には、「にく」という発音が含まれるものの、 見たところ、「肉(にく)」とは関係がなさそうであり、「柔らかさ」とも 関係がないように見える。だが、本当にそうだろうか。確定的なことは 言えないにしても、すぐに類似性に気づく。 「にくい(憎)い」は、憎悪の念を表すのに用いられるだけでなく、 「〜するのが難しい」ことを表現する「〜にくい」のようにも用いられる。 英語にすれば、"hard to 〜"に対応するように見え、「〜しがたい」 と同等であると考えるなら、「柔らかい」こととは正反対であるように さえ見える。しかし、中国語の方言における「肉」という表現の 「ぐにゃぐにゃしている」、「歯切れが悪い」という用法から考える なら直ちに、"tought to 〜"を思いつく。つまり、「咀嚼しにくい」 ということになるだろう。 Wikipediaを参照すると、訓読みについて以下のように記載される。 >訓読み(くんよみ)とは、日本語において、個々の漢字を その意味に相当する和語(大和言葉、日本語の固有語)によって 読む読み方が定着したもの。 一般にひらがなで表記される。 字訓(じくん)または単に訓(くん)ともいう。 漢字の中国語 における発音に由来する「音読み」と対照される。< したがって、この考えに従うなら、「柔和(にゅうわ)」と読む 場合の「柔(にゅう)」は、中国の発音に由来する「音読み」 であり、「柔(やは)らか」と読む場合の「柔(やは)」は、 日本語の固有語によって読む「訓読み」ということになる。 しかし、「音読み」である日本語の「肉(にく)」も、中国語の 発音から"n"の音を落とした朝鮮語の「육(ユク)」もともに、 中国語の発音に由来するように、「弱(よは)」、「柔/和(やは)」 という「訓読み」における「よ」や「や」もやはり、中国語 における"njo”や"nja"などの発音から"n"の発音を落としたもの と考えるなら、「弱(よは)」、「柔/和(やは)」という表現は、 「日本語の固有語」であるとしても、その発音は、中国語由来 であると言わざるを得ないだろう。 >>160 π=4/(1+1^2/(3+2^2/(5+3^2/(7+4^2/(9+5^2/(11+... この場合に二乗がどういう意味に解釈できるのか私には分らないけど、 計算の苦手な私には、表現としては、こちらの方がより単純に見えて 好きだな。 π=4/(1+1/(3+(1+3)/(5+(1+3+5)/(7+(1+3+5+7)/(9+(1+3+5+7+9)/(11+... ちなみに、13まで数えて計算させてみると、 (π/4)(1+1/(3+(1+3)/(5+(1+3+5)/(7+(1+3+5+7)/(9+(1+3+5+7+9)/ (11+(1+3+5+7+9+11)/13))))))=0.9999929... >>161 では、π=4/xという形の連分数計算において、単純に4を円周長 とみなして、連分数のxの部分が円の直径を近似しているものと解釈 したけれど、このようにπの連分数の計算に2乗が現れるのだから、 むしろ、4を円の面積と見なして、π=4/xの部分を、円の半径の2乗を 近似していると解釈した方がいいのだろうか。義務教育の数学ですら、 まったく勉強しなかった私には、それを記述するような能力はないが、 数式の操作だけでは何も理解できたようには感じられない私のような 数学の苦手な人間が、数学のメタ言語における記述に望んでいるのは、 そのようなより具体的な説明を可能にする表現である。 >>189 「にく(憎)し」が、「ぐにゃぐにゃ」していて、「歯切れが悪く」、 「咀嚼しにくい」様態を表していたと解釈した場合、以下のような 用例は、どのように解釈できるだろうか。 学研全訳古語辞典 @しゃくにさわる。気に入らない。いやだ。憎らしい。 出典枕草子 にくきもの 「にくきもの。急ぐことあるをりに来て長言(ながごと)するまらうと」 [訳] しゃくにさわるもの。急用があるときにやって来て、長話をする客。 私には、「咀嚼しにくい」様態からの連想として、この「にくし」の 用法は、英語の"cannot stomach"という表現にうまく対応するように思える。 確定的なことが言えないとしても、このような類推を働かせることが 意味解釈に役立つことが分るはずである。 >>192 単純に数量的な結果の方から考えるなら、π=4/xという形の連分数計算の xの部分は、面積4の円が与えられたとして、その円の半径を1辺とする 正方形の面積を近似する計算となっているはずだろう。 xの部分は、面積4の円が与えられたとして、その円の半径を1辺とする 正方形の面積を近似する計算となっているのならば、 そのxの連分数計算には、1^2/3、2^2/5、3^2/7、4^2/9、5^2/11... のとおり、数えられる数の2乗を順に数えられる奇数で割る計算 が現れ、これは、xの部分を1+1/(3+(1+3)/(5+(1+3+5)/(7+(1+3+5+7)/ (9+(1+3+5+7+9)/(11+...と書き換えてみれば、さらにはっきりと 分るとおり、 https://www.ndl.go.jp/math/images/F/column6-3.gif の関係できれいに並んでいるのだから、結果として正方形の面積を 近似することになっているこの計算は、メタ言語において、 どのようにかその並びとの関係が説明できるはずだろう。 私が望んでいるのは、そのような説明を可能にする表現である。 Otilje lieb, Otilje mein, Du wirst wohl nicht die letzte sein - Sprich, willst du hängen am hohen Baum? Oder willst du schwimmen im blauen See? Oder willst du küssen das blanke Schwert, Was der liebe Gott beschert? Otilje: Ich will nicht hängen am hohen Baum Ich will nicht schwimmen im blauen See, Ich will küssen das blanke Schwert, Was der liebe Gott beschert! by Heinrich Heine (1797 - 1856), from Memoiren >>193 stomach verb Definition of stomach transitive verb 1 : to bear without overt reaction or resentment merriam-webster.com この事例における「にくきもの」≒"what I cannot stomach"≒ "what I cannot bear without overt reaction or resentment" 私には、このような英語のメタ言語による説明の方が、日本語の辞書 に記載される「しゃくにさわる。気に入らない。いやだ。憎らしい。」 という説明よりもむしろ分りやすい感じがする。 この場合に「にくきもの」という表現を解釈するのに、わざわざ、 "cannnot stomach"などという表現を使わなくても、単に "cannot bear/put up with"≒「我慢ならない」とすればいい ではないか、と思われるかもしれない。しかし、そのような単純化 によって失われるのがまさに、「にく(憎)し」と表現すること によって伝えられている"resentment"≒「(抑え込まれた)反感」 である。 「にく(憎)し」が「我慢ならない」という感情に過ぎない のであれば、それを晴らすには、単に「我慢しなければよい」と ことになるだろう。だが、「急ぎの用があるときに訪ねて きて、長話をする」のが「にく(憎)し」という感情を生むのは、 「(我慢ならないのに)我慢しなければならない」からである。 同様に、"cannot stomach"も、単に"cannot bear/put up with" と言い換えたのでは、表現のニュアンスが失われてしまう。 置かれている状況により、"bear/put up with"という振舞ひ を余儀なくされているが、その振舞いを保つことが、 "resentment"を生じることなしには不可能であるというのが、 "cannot stomach"が表現している論理だろう。 「論理国語」が学校で教えられるとすれば、その「国語」が 日本語を指すのであれ、英語を指すのであれ、「論理」は、 このような表現の論理を扱うものでなければならないと 私は思う。そうすることで、国語を論理的に学ぶことは、 そのまま外国語を学ぶことを助け、自らの振舞いを反省 する習慣を養うことにもつながるのだ。 どうホモなのかをこの私が具体的に言いましょう。 会話の最中に男性社員の方々の目の色が露骨に変わるので、その度に過換気発作が出て、私…、です。有り難う御座いました。 >>189-190 >>193 日本語と中国語の類似性は、日本語が利用していると考えられる中国語 と標準とされる中国語の発音の間に大きな違いが生じてしまっているので 気付かれにくくなっている。 このことは、例えば、「肉肉」という表現を再構築により想定される 古代の中国語の発音(wiktionaryに記載される)、" (Zhengzhang): /*njuɡ/"から考えてみれば、すぐに気づくはずである。「肉肉」 は、「ニュグ・ニュグ」のように発音されることになり、これは、 発音の区切り方を変えれば、「グニュ・グニュ」となる。 「肉」というのはどのような様態のものであるのかという問ひに 対して、「名は体を表す」とするなら、「肉」とは、「グニュ・グニュ」 するもの、あるいは、再構築された古代の中国語の発音に基づいて、 「ニュグ・ニュグ」するものであると答えたとして、現代の日本語の 話者にとってもまったく違和感はないだろう。 "Divide, isolate and control"、「反目させ、孤立させ、誘導する」 "Divide and rule"という常套句において、"divide"は、支配下に 置かれる人々の間で互いに利益が相反する状況を意図的にもたらす ことにより、支配される側の人々が互いに力を合わせて支配する側 に抵抗することがないようにする技法と解釈されることが多い。 しかし、そのような理解は不十分である。なぜなら、"divide"、 「反目させる」ことの目的は単に、互いに協力しないように「仲を 裂く」こと、互いに「離反させる」こと、つまり、より平易な 日本語に表現を用いるなら、水と油のように互いを「きら(嫌)ふ」 ようにすることではないからだ。 "divide"が、支配下される側の人々を互いに離反させる、つまり、互いを 「きら(嫌)ふ」ように仕向けるのであれば、そのような操作は、各々が 嫌う相手と距離をおき、なるべくかかわりをもたないようにしようとする 消極的な効果しか発揮しない。そのような消極的な効果は、支配に対する 積極的な反逆行為が集団的に拡大するのを防止するのには役立つにしても、 支配を維持発展させる原動力は生み出さない。支配の原動力は、統治その ものによって生み出す必要があるので、"divide"が消極的な効果しか 有さないのであれば、支配そのものが弱体化して崩壊する。 "divide"が、支配を強化する機能を果たすようにするには、この操作は、 互いを「きら(嫌)ふ」という消極的な効果にとどまらず、各々が自ら 損害を被る可能性があっても、反目する相手の方により大きな損害を もたらしてやろうとし、そのことにより実際に自らに損害が生じても、 相手に与えた損害の方が大きいなら、それを自らの優位性の証と とらえるような積極的な効果、すなわち、「にく(憎)しみ」をもたらす 必要がある。そうなってこそ初めて、支配は、統治により原動力を 得ることができる。なぜなら、支配される側の人々は、集団を形成 しながらも、互いに憎しみ合い、厳しい上納を義務付けられることに よって支配されながらも、他の支配される集団と手を組んで協力 しようとするどころか、反目する相手、憎む相手が、支配する側によって より酷く踏みにじられることを自らの優位性の証ととらえるように なるからだ。 1: 意味論 [無断転載禁止]©2ch.net (205) 2: 引 き 篭 も り お じ さ ん 板 (357) 3: 無 職 と 波 平 (41) 4: こ こ 無 職 し か い な い ね (282) 5: 無 職 は 哲 学 (187) 6: 無 職 が 哲 学 (316) 7: 無 職 と 東 浩 紀 (581) 8: 無 職 と 哲 学 (413) 9: 無 職 な 哲 学 (173) 支配は本来的に、ルサンチマンを積極的に活用することを必要としている。 支配される側のルサンチマンは、支配される人々の間で、より優遇されて いるように見える相手に対する「憎しみ」として表現されるように誘導し、 支配される側全体が上納を競わせられることを自ら望むようにすること が、支配の存続のためには欠かせないのだ。 誤:日本語に表現を用いるなら 正:日本語の表現を用いるなら "divide"の操作に欠かせないのは、楔(くさび)よりもむしろ、"enclave"である。 生きる意味を求めてさすらった若い事。その意味を東京に屍のに残した青春。 生きる意味を求めてさすらった若い事。その意味を東京に屍に残した青春。 生きる意味を求めてさすらった若い頃。その意味を東京に屍に残した青春。 生きる意味を求めてさすらった若い頃。その意味を東京に屍に残した青春。 生きる意味を求めてさすらった若い頃。その意味を東京に屍に残した青春。 生きる意味を求めてさすらった若い頃。その意味を東京に屍に残した青春。 めし【飯】 〔動詞「召す」の連用形から。召し上がるものの意。主として男性が用いる語〕 @ 米を炊いたもの。ごはん。 A 食事。朝・昼・晩の食事。ごはん。 出典 三省堂大辞林 第三版 「飯(めし)」は、「召(め)し」=「召(め)・す」の名詞形であり、 「召(め)・し」≒"having/letteing 〜 ordered"を意味している のだから、「めし」の「め」は、「命 ピンインmìng」を 利用したものでしょう。すると、「を(食/治)・す」は、「呼び 寄せ・させる」を意味して、「を」は、「呼び寄せ」を意味 していると推論することが、やはり妥当であることになる。 「お召し上がりください」というのが、仕/使へる者の正しい態度だ きちんと「お召し上がりください」と言える者どもを育てる ことが、学校教育に求められている役割でしょう しーん[沉(沈)ピンインchén ⇒ [異読音] 沈shěn]と「しず(静)」まりかえる 学術のそれは、彼にとっての正しさを判別し合理的に習い学ぶこと、そういう術だ、 それは知に対する活き方や活きざまではない、不確定なものにはレッテル(簡略化)をして 割り切り、わかっていることを合理的に主張する、なぜならそれが学び習うという本質だからだ そこには疑い否定し曖昧にとらえ抽象的な何かを読み取り作り出すという非合理な 思考は存在していない。認めよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる