「おき(燠)」に伴う"latency, lying dormant"のイメージと比較して 考えてみるために、「デュナミス」という表現を出したが、「デュナミス」 は、"activant, activating"などと解釈した日本語の「おき」に対応して いるわけではない。ギリシャ語の「dunamis」は、ラテン語で「potentia」 に翻訳されるように、日本語で考えるなら、「おき(る)」ではなく、 「でき(る)」に相当し、「能力」と訳されるとおり、「あた(能)ふ力」 である。「有能者」を指すのに「できる奴」という場合のように 「〜にあた(能)ふ力」があるという意味で、その力はまだ実現されておらず、 可能態、潜勢態としてイメージされる。 0063考える名無しさん2018/04/18(水) 08:33:21.050 古代ギリシャ語の動詞、"δύναμαι"の用法を見ても、それが日本語の「あた(能)ふ」 に近いものであることが分る。 https://en.wiktionary.org/wiki/%CE%B4%CF%8D%CE%BD%CE%B1%CE%BC%CE%B1%CE%B9 Verb δῠ́νᾰμαι • (dúnamai) (with infinitive) to be able, capable, strong enough to do (of moral possibility) to be able, to dare, to bear to do (with ὡς (hōs) and a superlative) as much as one can
to pass for (of money) to be worth (of numbers) to be equivalent, to equal (of words) to signify, mean (as a mathematical term) to be the root of a square number, to be the side of a square (impersonal) it is possible, it can be 0064考える名無しさん2018/04/18(水) 08:40:40.480 だから、国を治める「権力者」は、単に力を振う無能な人々であってはならず、 「有能者≒できる人々」でなければならない。 https://en.wiktionary.org/wiki/δυνάστης https://www.etymonline.com/word/dynasty0065考える名無しさん2018/04/18(水) 08:50:19.890 「ふる(振)ふ」も、言うまでもなく再帰形をしている。 このように少しでも意識すれば、日本語には再帰表現が極めて多いことに気づかされる。 0066考える名無しさん2018/04/18(水) 09:45:09.060 キャベツにシールでも貼ってろ 0067考える名無しさん2018/04/18(水) 09:47:40.900 キャベツは刻んでお好み焼きだ 0068ひとしさの潜在性においてひとであり得ること2018/04/26(木) 20:14:54.520 「あた(能)ふ」とは、 http://www.wordreference.com/fren/etre%20a%20meme%20de être à même de faire [qch] (être capable de) be quite capable of doing 0069Nemo is a prophet in his own country2018/04/30(月) 09:24:22.780 「〇〇には、〜することがあた(能/値)ふ」という性質が、〇〇の属性と見なされて 〇〇が主題とされること、つまり、「〇〇は、〜することができる」とされる ことが〇〇の主体化だろう。 0070考える名無しさん2018/04/30(月) 13:14:08.860 日本語の表現について考え始めた当初、私は「〜あふ」という要素が再帰を 表現しているのではないかと推測していたが、今ではこの考えはまったく 不十分で不徹底だったと思っている。日本語では、再帰表現は、はるかに 広く用いられていると考えるのだ妥当だろう。むろん、「あ(合/会/遭...)ふ」 も再帰表現の一つであり、助動詞的に用いられている。
Entre las ascuas de la vida ungara se cocian dos asuntos: el problema de la tierra, es decir, la reforma pendiente del sistema de latifundios, y el destino de los territorios y los pueblos amputados del cuerpo milenario de Hungaria por medio del Tratato de Paz de Trianon.
Sandor Marai, "Lo que no quise decir", p.55 0080考える名無しさん2018/06/15(金) 12:21:45.100 意味論て何なの? 0081考える名無しさん2018/06/15(金) 12:23:08.660https://es.wiktionary.org/wiki/ascua#/media/File:Embers_01.JPG0082おこ(起/興/熾)る erupt, become active, start acting2018/06/15(金) 12:32:59.140 あらかねの地にしては、素戔嗚尊よりぞおこりける。ちはやぶる神代には、 歌の文字も定まらず、すなほにして、ことの心わきがたかりけらし。 人の世となりて、素戔嗚尊よりぞ、三十文字あまり一文字はよみける。
「ひ」である、つまり、「匹敵する」ことは、それ自体としては、 「ひとし(等)さ」を表している等号、"equal sign"、「=」でしか ないので、「『1(ひと)』そのもの」は、不特定な潜勢態として しかあり得ない。ところが、値(あた・ひ/能ひ/与ひ)として実現 された「1(ひと)」は、既に「匹敵する」ことにおいて数えられた、 つまり、「反復する」こと、「覆る」ことにおいて現れる、 「『复(複)ピンインfù』における『匹 ピンインpǐ』」、 つまり、二分の一である。 0150考える名無しさん2019/10/16(水) 09:46:27.650>>148 君の書き込みのことをそう言ってるんだけど?w 0151考える名無しさん2019/10/16(水) 10:37:07.780 数学の基本的な技法を伝えるときのメタ言語における存在論的な混乱が、 数学の初歩的な理解に無用な混乱を招き入れている。"1"は、等しさを 表しているだけなのだから、あらかじめ数値として「存在する」わけではなく、 同様に"π"も、直径に対する円周長の「比」なのだから、あらかじめ数値 として「存在する」わけではない。特定の円が与えられて、その直径の 大きさを「単位として規定する」こと、その行為によって初めて、 "1"が「数として与えられる(あた(与)ふ/あたひ(値)となる」、つまり、 「数値」となり、それにより、πも、その数値に対する比として3.1415... としてその特定の円の円周長を表す「数値」となる。数学者が自明の ものとして、数学の技法を説明するメタ言語においてこの存在論的な 区別を軽視していることが、初歩的なレベルで数学の技法をうまく 伝えることの失敗につながっている。 0152考える名無しさん2019/10/16(水) 10:38:28.240 誤:「数として与えられる(あた(与)ふ/あたひ(値)となる」 正:「数として与えられる(あた(与)ふ/あたひ(値)となる)」 0153考える名無しさん2019/10/16(水) 10:43:51.710 数学を分りやすくするために、円周率を「約3」として教えるべきか、 それとも「3.1415...」として教えるべきかを争そうのは、まったく 的外れな議論でししかない。 0154考える名無しさん2019/10/16(水) 13:46:51.440 互除法や連分数計算において実行されている行為は、「匹 ピンインpǐ」 である性質、つまり、「ひと(等)しさ/1である様態」を近似することに よって、「比」を表現しようとすることである、と記述することができる だろう。 0155考える名無しさん2019/10/16(水) 14:31:02.760 commensurable (adj.) "having a common measure" (as a yard and a foot, both of which may be measured by inches), 1550s, from Late Latin commensurabilis "having a common measure," from com "together, with" (see com-) + Latin mensurabilis "that can be measured," from mensurare "to measure, " from Latin mensura "a measuring, a measurement; thing to measure by," from mensus, past participle of metiri "to measure," from PIE root *me- (2) "to measure." 0156考える名無しさん2019/10/16(水) 16:15:49.380 現実の生活において、「合理性」は、適用されるべきものではなく、 それを表現すること/表出させることが、試みられるべきものなのだ。 0157ポエムとしてのひとしさ/他者性2019/10/19(土) 07:54:05.150 1である性質/ひとし(等)さ/自己(onself)は、対比において無限に近似しよう とすることを続けることによってしか捉える/同定することができないが、 その近似の精度は、数を順に数えるのに応じて高まり、その近似の精度の 表現であるとともに、1である性質/ひとし(等)さ/自己(onself)の裏である 他者性を対比において表出させたものがπである、と言えるのではないか。 0158反復において現れる「ひ/一/匹」とは2019/10/19(土) 08:18:06.260 円運動は均さ/等さの追求である 0159考える名無しさん2019/10/20(日) 20:35:42.710 日本語の起源が朝鮮語であるとは考えられず、日本語が利用している 中国語の表現が朝鮮語経由であると考えるべき理由もないが、それでも、 朝鮮語に入った中国語を参照してみることは、日本語の表現を考えるのに 役立つ。