ポスト現代思想、ポスト・ポスト構造主義2
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哲学者が語る民主主義の「限界」 ガブリエル×國分対談 https://www.asahi.com/articles/ASL6L42BML6LUCLV007.html (1)実際には行政権力が強大な力を持っている現代の政治体制で、 どのように民主主義を構想すればよいでしょうか (2)立憲主義と民主主義の関係をどう考えればよいでしょうか (3)主権に統治は可能でしょうか。 主権によって政治コミュニティーを統治することはできるでしょうか (4)現代政治が主権の限界に直面する一方で、 主権を求める動きが日増しに高まっているこの状況をどう考えればよいでしょうか ガブリエルとシェリング シェリング『世界年代』における時間哲学 (2014-10-31) マルクス・ ガブリエル、翻訳:中島 新 https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri& ;item_id=8379&file_id=22&file_no=1 新実在論とマルクス・ガブリエル─世界の不在と「事実存在」の問題─ (2016-03) 中島 新 https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri& ;item_id=8549&file_id=22&file_no=1 Weltalterの研究動向とマルクス・ガブリエルのシェリング研究 (2014-10-31) 長島 隆 https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri& ;item_id=8385&file_id=22&file_no=1 > シェリングの後期哲学に見られる「絶対的観念論の保留」[DMIM:2]という立場である。 『亡霊のジレンマ -思弁的唯物論の展開-』 (2018/6/22) カンタン・メイヤスー、千葉雅也 著, 岡嶋隆佑、熊谷謙介、黒木萬代、神保夏子 訳 1 思弁的唯物論のラフスケッチ 2 潜勢力と潜在性 3 亡霊のジレンマ:来るべき喪、来るべき神 4 形而上学と科学外世界のフィクション 5 『賽の一振り』あるいは仮定の唯物論的神格化 6 減算と縮約:ドゥルーズ、内在、『物質と記憶』 「メイヤスーの哲学は、ポスト構造主義から引き継がれたテーマ、キーワードを、 人間的意味を徹底的に無化する方向へとラディカライズしている」(序文:千葉雅也)。 来たるべき神と全人類の復活を謳う表題作から、議論を呼んだマラルメ論、SF論まで。 『有限性の後で』では表れなかった、メイヤスー哲学のもう一つの相貌。 “わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵”(2:7) “目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された”(2:9) ― 新約 「コリントの信徒への手紙1」 2:9は、「神のメッセージ」が、人智を超えたものであることを示す。 2:7では、そのように人間にとって「未知なるもの」を、「神秘」という言葉によって内蔵し、 尽きない原動力になっている。 “神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、 秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。” ― 新約 「エフェソの信徒への手紙」 1:8-9 「神のメッセージ」=「秘められた計画」を解き明かしていくのが科学だろう。 その一方で、このことはは目的論とみなされることもある。 聖書にある2種類の「言葉」 “神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。” ― 旧約 「創世記」 1:3 “初めに言(ことば=ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。” ― 新約 「ヨハネによる福音書」 1:1-2 >>253 ・ヘブライ語の「ダーバール(רבד dabar)」(創世記 15:1) ・ギリシャ語の「ロゴス(λόγος logos)」(ヨハネ 1:1) ダーバールは、動的で、働きかける特質があるのに対して、 ロゴスは、静的で、存在していることを特質とする。 特にダーバールは、創世記冒頭や言霊のような存在喚起力をイメージするといい。 (参考:『ヘブライ人とギリシャ人の思惟』 トーレイフ・ボーマン (2003)) ヘブライ的「言葉」ダーバール ・前へと駆り立てる → 話す → 「言葉」 → 行為的 ギリシャ的「言葉」ロゴス ・集める、秩序 → 話す、計算する、思惟する → 「言葉」 → 理性的 ロゴスを万物の根本としたのは新約だけではない。 「パンタ・レイ(万物流転)」で知られるヘラクレイトスなども例に挙げられる。 ・「理(ことわり=ロゴス)に聞いて、万物が一であることを認めるのが知」(断片50) ・「理(ことわり=ロゴス)――全体を司るもの」(断片72) 万物が流転する中に、一切を統合する理法としてロゴスを重視するものだが、 ヘラクレイトスはエペソス(トルコ西部の小アジア)出身であり、 その哲学は、非ギリシャ的であることがしばしば指摘される。 キリスト教の中心にあるロゴスとは、 存在エネルギーであり、一にして一切である神的次元の言語。 ロゴスの先にダーバールがある。 ソシュールによれば、我々の思考は、言語記号を伴わないままでは何一つ判然としない、 無定形(amorphe)で星雲(nébuleuse)のようなものであるという。 (参考:ソシュール『一般言語学講義』4章) 『ソシュールで読む聖書物語』 高尾利数 (1993) 聖書に、ランガージュ(言語活動)の神話的表出を読む メイヤスーが「偶然性」と言うのは、世界のあり方についてであり、 目的論的世界観を無化する。 そして、もう一つには、構造主義の祖たるソシュール言語学の中心にある 恣意性に向けられたものでもあるだろう。 『恣意性の神話:記号論を新たに構想する』 菅野盾樹 (1999) ポスト構造主義とポスト・ポスト構造主義の間の時期に書かれた本。 >>225 の内、数理系の問題に取り組んだのがメイヤスーだとすると、 それ以外のもの、文字と絵の間や、芸術〜人類学における記号過程など、 記号学と記号論の死角を埋めるべく、様々な言説が検討されている。 実在論の例 ・世界は人間がそこに住む以前にすでに実在する ・人間の出現が世界にもたらす変化と追加を文化という ・世界から文化を差し引いたものを自然という その他、一角獣の話(グッドマン)なども。 『世界制作の方法』 ネルソン・グッドマン 著、菅野盾樹、中村雅之 訳 (2008) 『記号主義 −哲学の新たな構想−』 N・グッドマン、C.Z.エルギン 著、菅野盾樹 訳 (2001) >>249 >人間的意味を徹底的に無化する 意味というのは人間から見た概念だから、言葉の定義の矛盾だな。 >>249 この言葉の中二病センスどうにかならないのかね 恥ずかしい >>264 意味を理解するのは人間であっても、その意味内容の中に人間という概念が 含まれている必要はない >>261-262 [恣意性](arbitraire) シニフィアンとシニフィエを結びつけるもの。 その時々の気ままな思いつき。自分勝手な考え。 >>262-263 ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』英語版の表紙の一角獣 https://images.gr-assets.com/books/1436639779l/25890000.jpg Why the World Does Not Exist グッドマンの立場…実在しない(『世界制作の方法』4章) ガブリエルの立場…実在する なるほど。一角獣か。日本語版みていたから気づかなかった。 おれはグッドマンの現代風焼き直しだと思っていた。 これは読み直そう。宇宙と世界と自然の扱いがおれの考えと違う。 かといってガブリエルが正当とも思えない。 中沢新一×石倉敏明 「野生の科学、あるいは新構造主義の時代」 の自然/文化 『現代思想 2014年1月号 特集=現代思想の転回2014:ポスト・ポスト構造主義へ』 ・ニュートンの色彩論 自然過程と記号過程を分離。 ・ゲーテの色彩論 人間の脳内過程と外界の自然過程を一つの連続として捉える。 ・レヴィ=ストロース 神話は植物が「変態」するように自己変形を行う。人間の精神活動は自然過程そのものから生み出される。 構造とは自然界と人間精神の両方に内在する原理。 ・ラカン 無意識の過程が生命的な自然過程に繋がっており、それが反自然的な象徴過程と分離せずに、一つの連続した多様体をなす。 ・ヘーゲル『エンチクロペディー』 自然過程と人間の象徴過程を一連のプロセスとして捉えながらそこに弁証法を入れていく。 ・中沢『対称性人類学』 脳内過程と自然過程の交渉によってそのつど無数の「新しい自然」が生まれる。 ・吉本隆明 記号過程を記号として分離することを批判。 胎児や無意識の中で起こる前言語的な記号活動と、人間の意識的な言語活動との繋がりを持った多様体を構想。 ・ガタリ『分裂分析的地図作成法』 フラクタルやカオス理論を開放系にして自然過程に結び付ける。 ・自然と科学 現実の世界はすべてが非対称的で複雑な構造を持つ。 自然科学は、自然現象を単純で原始的な状態、対称性を持つ状態に引き戻す。 “自然とは、それ自体が人間の身体ではないかぎりで、人間の非有機的な肉体である。 人間が自然に依存して生きているということは、自然が人間の肉体だということであり、 人間は死なないためにはたえず自然と交流しなければならないということだ。 人間の肉体的・精神的生活が自然と結びついているということは、 自然が自然と結びついているというのと同じだ。 人間は自然の一部なのだから。” ― マルクス 『経済学・哲学草稿』 長谷川宏訳 (2010) 第1草稿 4.疎外された労働 p100-101 >>274 ネグリ=ハートは、大都市をマルチチュードの「器官なき身体(ドゥルーズ=ガタリ)」と位置づける際、 マルクスの『経済学・哲学草稿』の一部を引用した。 『コモンウェルス:<帝国>を超える革命論 下』 ネグリ=ハート (2012) 第4部 Masashi FUCHIDA @nonstopmasashit 13 時間13 時間前 こういう本が読みたかった!素晴らしい先行研究です!おもろいよぉ… | 「蓋然性」の探求――古代の推論術から確率論の誕生まで このジェームズ・フランクリンってオーストラリア版、知の欺瞞の著者だな。 Corrupting the Youth: A History of Philosophy in Australia それにしてもすごい値段 ハードカバー ¥ 109,664 >>126 「キリスト教と自然過程」という話は、ダン・ブラウンのテーマにもなっている。 https://en.wikipedia.org/wiki/James_Franklin_ (philosopher) His polemical history of Australian philosophy, Corrupting the Youth (2003), praised the Australian realist tradition in philosophy and attacked postmodernist and relativist trends “どんなものも新たに生み出すことはできない、それはもとから自然に記されているのだから。 独創性(オリジナリティ)は起源(オリジン)への回帰によって成り立つ。《アントニ・ガウディ》” “それこそが、自分にとってこのサグラダ・ファミリアが大きな意味を持つ理由のひとつなのです。 未来の聖堂…自然と直接つながる聖堂のように思えましてね” ― ダン・ブラウン 『オリジン』 (2018) ネグリ=ハートは面白かったが、今はすっかりポスト帝国という感じがする >>268 意味を理解するのは人間、なのではなくて、意味を作るのが人間。 人間を離れて、意味という概念が成立するわけもない。 たんなる言葉の誤用。 >>268 これが正しいね 例えば純粋数学の世界は 人間の創造物でありなんらかの意味であるが 特に挙げて、人間的な意味とは普通言わない だから実際にはどの文脈や内容を人間的意味 がないと評価しているのかを知らなくてはいけない リテラシーない人には理解できないだろうが >>282 数学というのは、基本はただの分析。 その上で、多くの定義を加えているが、それは意味ではなく計算根拠だ。 リテラシーとか舌足らずの単語を使って悦に入っても、意味という言葉の誤用に過ぎない。 >>283 難しい話じゃないよ 彼のいう人間的意味の指す内容を 理解することなしになにもいえない 例えば意味を人間的意味と 非人間的意味に分けるという前提があったとする その時に意味は全部人間的だ!っていうのは 別に矛盾を突いたものではない 違う例を挙げよう 非人間的所業といった時に 所業は全部人間がやることだ! というのはお門違い なので、君はもっと言葉を学ぶことが必要 これをリテラシー足りないと述べたまで 残念ながら定義云々言える知的水準に達していない >>283 数学は人間の発明したものだよ 人間にとっての意味の一部 だけど人間的意味とは普通言わない これは「人間」「的」の含意を考えれば分かる 例えば数学者に「円周率の人間的意味は 何ですか?」と聞くとしよう 意味イコール人間的意味が成り立つなら それは「円周率の意味はなんですか」と同じだ 意味は全部人間的なんだから しかし数学者はそうは理解しないのが普通 分析とかここでは関係ない 分析も人間にとってのなんらかの意味だし というわけで君は考える力が足りない それを端的にリテラシー不足と述べている >>284 難しい話じゃないのはそのとおり。 意味というのは人間にとってなにごとかである、というのが言葉の定義。 人間的意味とか非人間的意味とか、比喩としてしか成立しない。 言葉を学ぶ必要があるのはあなたの方だと思う。 >>285 数学自体は人間が発明したものでも、内容は人間が考えなくても現実にある。 リンゴもミカンも同じ一つとして抽象するというのは人間の意識の所産だが、そこにリンゴとミカンがあることは人間とはかかわりがない。 その意味で、数学はすべて人間的ともいえるが、たんなる自然現象の引き写し(分析)ともいえる。 >>286 だから「人間的意味を徹底的に無化する」 というのは思弁的でこれ自体で 定義矛盾と指摘するような話じゃない >>268 は俺ではないがその点適切で 意味を与えるのは人間だが その中身が人間的と呼ぶに値するかどうかは 別で定義言い出すのは考えが浅い そもそも意味は人間が与えるものだ、というのも ある観念的な考え方でしかないしね >>287 数学の内容が現実にあるかどうかは 哲学的立場によって変わる話でしかない 「人間的」のもつ意味が主だよ よく読め 「人間的意味」といったとき 大きな「意味」というカテゴリの中に 人間的意味という領域があるという 前提で読むことができないで定義云々 指摘するのは、歪な思考力 基本のただの分析じゃないの、数学は。突発的に文脈に出てきたりする数式の方が 面白いじゃん。 数式学は頭脳を使う暗唱の聖典だから、血統的価値が高いんだよ。最初はほんのわずかからでも よろしいね。 逆境による困惑、富による堕落、病気による不自由、老もくによるおしゃべり、 突然の死などに見舞われないうちに 急いで善を行え。 預言者マホメット 人生は永遠の無にさしはさまれた短い挿話に過ぎない、しかもこの挿話の中で 思考が持続するのはほんの一瞬である。思考は長い夜に差し込んだ一条の 光に過ぎない、しかしこの光こそがすべてなのだ。 アンリ ポアンカレ 私は世の光である。私に従ってくるものは、闇の内を歩くことがなく 命の光を持つであろう イエス キリスト >>288 ひとつひとつの言葉の使い方が曖昧過ぎる。 人間的とはなにか、人間的と非人間的の境界をどう設定するのか、無化するとはどういうことなのか。 雰囲気で言葉を並べているだけだ。 人間にとっての問題である「意味」が、観念的であるのはあたりまえというか、それが「意味」という言葉の意味だ。 >>289 繰り返す。 人間的とはなにか。 大きな「意味」というカテゴリ、とはどういう設定なのか。 定義なしで議論する哲学なら、数学は食べ物だ、と言っても正しいことになる。 >>297 使っている人の文脈での個々の整合性がまず重要 君はそれを無視しているので不毛 ただし「人間的意味」という連語そのものに ケチをつける姿勢はとても知的とは言えない 「的」の意味の幅を適切に理解できずに 上っ面だけで矛盾だと判断している まずは大きな辞書で「的」を引きなさい つまりね君は自分自信が思っているような 言語能力を有していないのだよ 錯覚して横暴になっている 反省しなさい 定義定義マヌケな逃亡だなあ 誰かが人間的意味といったら 話し手が人間的と限定しているのだから 意味のなかで人間的ではないものがあると 読み手は前提として想定するに決まっているし これは自然な言語理解 まずは「人間的意味」をググって 使用者に間違いですと教えてあげたら どうかなあ “human meaning”ですと言われたら それもググって、使用者に間違いです とメールでも送ればいいよ 思考力ないと悲しいなあ まとめ1 (俺の主張)「人間的意味」という言葉だけで定義の矛盾ということはできない 1意味は全て人間の産出するものであるという考えを支持することと、 人間的な意味といえるかどうかは別物。 2もし矛盾があるならば、その使用文脈を読み解いたなかで言葉の使用の整合性のなさ を指摘することが必要。 3こういう無駄な指摘にしがみつく人間は基本的な思考力が足りていない。 >>249 >「メイヤスーの哲学は、ポスト構造主義から引き継がれたテーマ、キーワードを、 >人間的意味を徹底的に無化する方向へとラディカライズしている」(序文:千葉雅也)。 これに対してのコメント >264考える名無しさん2018/06/24(日) 18:29:51.800>>268 >>>249 >>人間的意味を徹底的に無化する 意味というのは人間から見た概念だから、言葉の定義の矛盾だな。 それに対する(俺ではない)反論 >268考える名無しさん2018/06/25(月) 12:27:18.700 >>>264 >意味を理解するのは人間であっても、その意味内容の中に人間という概念が >含まれている必要はない >>299 結局なにも説明できないんだね。 せめて、「人間的意味」という連語w の人間的と非人間的の境界ぐらいは説明してごらんよ。 クジラを捕るのは人間的だ。 クジラを捕るのは非人間的だ。 どちらも正しい、と言ってるだけだから、なんの議論にもならない。 どんどん馬脚が出てきてるよ? >>300 クジラを捕るのは人間的。 クジラを捕るのは非人間的。 どっちでしょう?w >>301 どういうまとめでもいいけど、私が主張しているのは、定義の曖昧な議論は哲学ではなく、気分の表明に過ぎないということ。 ドゥルーズ以降、定義を曖昧にして気分で語ることが、深遠な哲学であるかのような雰囲気が醸成された。 ドゥルーズ自身は、意味について考えようとした時期もあったのにさ。 まとめ2 俺の感覚では特定の文脈がなければ「人間的意味」というのは 「いかにも人間らしさを感じる意味」でしかない。 たとえば情動や社会、人生、心の問題であり、逆に「非人間的意味」なら、 冷徹な論理や、または残酷性を想起する。難しい話じゃない。 彼>>296 の主張によれば、「人間的意味」には彼の満足する定義が必要だと言う。 この場合「人間的意味」の使用者は非常に独特な定義をしないとこの言葉が 使えないということになる。なぜならば彼によれば「人間的意味」は表現 そのものが矛盾だからだ。 ここで検索して実際の用例を見てみる。 「すなわち、知覚には、人間的意味の方がいわゆる感覚的記号よりも先に与えられているのである。」 「そこでは家族がまさしく家族であることの意味が根底からひっくり返ってしまい、 子生みによってかたちづくられた分身ー帰属としての人間的意味の方はこれによって 極限まで侵触されてしまうことだろう。」 「数千年来の常民の習慣・俗信・伝説には必ずや深い人間的意味があるはずである。」 というわけで「人間的意味」は矛盾したおかしな表現ではないことがわかる。 より詳細な定義が欲しくなることはだれしもある。 しかしそれと連語単体が定義矛盾だとするのは全く違うことである。 参考 human meaning Patterson's work garnered some controversy, with some in the scientific community questioning whether she was overstating the gorilla's communication abilities and projecting human meaning onto Koko's actions. これはいかにも人間が自分を投影して解釈しそうな発想という意味 That is that the words “rich” and “wealthy” are not of merely economic significance but of vastly broader human meaning. これは言葉の使い方について、比喩だよと言っている >>302 どちらも成立するだろう。それは文脈次第。 人間の多面性なんて矛盾していないよ 君大丈夫かな? 知的怠慢だよ >>307 >「いかにも人間らしさを感じる意味」でしかない。 >逆に「非人間的意味」なら、冷徹な論理や、または残酷性を想起する。 そんなラノベみたいな基準でなにを語れるんだよ?w そもそも、>>286 で比喩に過ぎないと指摘してるんだけど? 「人間的意味」を 意味全体の中にある より人間的な意味と読めないのは なにか日常の思考においても 問題を起こしていることだろう 哲学はそういう人を釣るために あるという面も否定できないがなw >>309 ラノベ基準? 意味不明 どういう比喩か定義をお願いねw >>311 これ以上自分の頭の悪さを晒すのは止めときなよ。 科学の中の人間的意味づけ > 自然科学においても、問題の提起(仮説)から素材の選択、 > 実験を経て結果の評価と応用に至る諸段階で研究者の主体的な関与がある。 > これは科学の過程に人間的な意味を与えている。 >>312 基準も書いといたけど? あなたのレスそのままのw >>314 マジレスしておく。 研究者の主体的な関与があることと、科学の過程に人間的な意味を与えることは無関係だよ? >>306 ある哲学が気分である状態を定義してみ? だって気分になっていると判断しているのだから で最低ドゥルーズ以降そうだというのをその定義に 基づいて論証しなよ でない限り、君のその哲学史観も気分じゃないかな〜w アハハ 日本現代語は回りくどいな。こごをつずるとよひかもし。 英文至上。情報量が多くにくつかしきこてんのあじわいいろあいがありなむことすめる。 >>316 「人間的意味」が言葉として矛盾しているという根拠を示してよ。 バカにとっては 「すなわち、知覚には、人間的意味の方がいわゆる感覚的記号よりも先に与えられているのである。」 これも矛盾だよなあ。定義の薄い非論理的な文章だ〜 だって感覚的記号も人間にとっての意味にすぎないからな〜 アハハ バカにとっては、ね。 >>319 英文も読み手がバカならしょうがないけどね。 同じこと。 human meaningはおかしいとか言い出すよw 被験体 非実験者 である他者性の圧倒による多動性の中の自動的自由。 >>317 バカだねえ。 あなたの書いてることが、そのまま私の指摘の根拠になってるんだよ。 まあ、「アハハ」とか書いて白旗上げてるから、もう許してやるよ。 past ドゥルーズ error より ハイエク ジジュク >>302 晒しとくわ。 捕鯨には非人間的な意味もあるし人間的な意味もあるよ。 あたりまえ。 捕鯨全体のどういう側面をどう評価するか、ということにすぎない。 この次元で止まっている君は基礎的な思考力がたりない。 俺はそれは語学で養うのが王道だといっている。 (ちなみに王道にはふたつの解釈がある) >>320 >「人間的意味」が言葉として矛盾している そんなことどこかに書いたっけ? 意味というのは人間が基準だというようなことは書いたと思うけど。 非人間的な意味、というのは言葉として矛盾している、と書いたつもりなんだが? >>328 逃亡か〜 気分とかいっちゃうなら哲学に恨みでもあるんだろうなあ 安楽椅子哲学者(論文は書かない) >>330 >捕鯨全体のどういう側面をどう評価するか、ということにすぎない。 その次元で止まっているのが、あなただよ。 >>331 「非人間的な意味、というのは言葉として矛盾している」 これどこのレスか明示しろよ じゃあお前は 「人間的な意味」は矛盾なし 「非人間的な意味」は矛盾 でいいんだな? でそれは特定の文脈での矛盾?それとも日本語そのものの表現矛盾? >>332 哲学に恨みはないが、ドゥルーズはバカにしてるw 論文なら書いてるよ。 >>333 アホかw 俺の上げた例じゃないぞ あたま大丈夫? 捕鯨は評価の仕方でしかない 謎はない。 >>336 書いている証拠は? ウソならなんでもいえる >>337 >捕鯨は評価の仕方でしかない あなたのレベルはその程度、と言ってるんだけど? >>338 論文書かない哲学愛好家はいないだろ? だれでも最低限、学部の卒論ぐらいは書いてるw 誌面の論文に何の価値が残るだろう。壮絶な統率歴がのこればいいね。文献面でも。 正解読んどけ。 日本語における「人間的意味」あるいは「非人間的意味」は、 単に「意味」を修飾限定しているにすぎない。 これは「的」の意味の広さとも関わり、この次元で矛盾している 云々の指摘はお門違い したがって矛盾といいたければ、どのような(ここでは哲学だが) 文脈で使用するのが文脈全体の整合性にとって問題なのかを 示さなくてはいけない。つまり言葉のカタチじゃなくて、 その言葉がある文脈で提示している哲学概念を攻撃しないといけない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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