数学を初めとした理系の学問と哲学について 11
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人が自分が人だかりにいると認識する人数を調べてみよう
結果は知らない 定義ってのは情報処理の利便性のために恣意的に人工的に付与する概念やからね。
10粒以上を砂山と定義する必要があるとするのがここでいう数学的な思考だけど、一般生活において砂山を10粒以上と定義する必要もない。
たとえば、土木工事において、砂山から砂を採取しようと企画した部長がどこかにいい砂山ない?と聞いて、部下が10粒の砂山のある公園に連れて言ったら殴られるわけで。
そういう意味で、一般的なレトリックというのはお互いの概念的齟齬を常に瞬時に忖度するという意味で極めて高度な情報処理をやってるわけだけどね。
人間の感覚器自体に閾値があったり、脳みそで統合処理するときに勝手に情報捨てられたりてのもあるし、
それをアウトプットするにあたっては、熱い、普通、冷たいぐらいのグラデーションとか、比較論ぐらいの表現でしかないけど、数理的には何度て表現するっていう違い。
数理モデルの良しあしってのは身体性からの解放てとこで、感覚外の発見をしやすくなるというのはあるし、デジタル処理に強くなるというのもそうだしね。弊害もあるはあるけど、今流行りって感じでしょ。
根本的には数理も一般言語も道具の違いであって、本質的には同じだけどね。 あと、思うのはコンピューター様の処理能力を愚鈍な人間にわかりやすくアウトプットするのて結構面倒だしコストかかるよね。
いちいちわかりやすくグラフ化したりしょうもない例えを2,3上げてわかりやすく説明したり。
人間のこういう処理能力の限界が数理系のアプローチによる哲学的進歩を阻んでるのは間違いないでしょ。
人間の処理能力をアップさせる方法を考えた方がはやいね。おくすりなのか、サイボーグなのか遺伝子操作なのか、教育なのか >>806
三角関数もできないバカはこのスレ出入り禁止
何度も言わせるな、池沼! 述語論理におけるド・モルガンの法則
P(x) を変数 x についての言明とすると、
1.「全ての x に対し P(x)」の否定は「ある x が存在して ¬P(x)」
2.「ある x が存在して P(x)」の否定は「全ての x に対し ¬P(x)」
と表現出来る。全称量化子∀や存在量化子∃、否定¬を使って記述すると、
1. ¬∀x P(x) ⇔ ∃x ¬P(x)
2. ¬∃x P(x) ⇔ ∀x ¬P(x) 1.の述語論理の具体例は、「全ての人が冷蔵庫を持っている∀x P(x)」の否定¬は
「ある人は冷蔵庫を持っていない∃x ¬P(x)」、すなわち、
「冷蔵庫を持っていない人が少なくとも一人いる∃x ¬P(x)」
2.の述語論理の具体例は、「ある人が冷蔵庫を持っている∃x P(x)」、
すなわち、冷蔵庫を持っている人が少なくとも一人いる」の否定¬は、
「全ての人が冷蔵庫を持っていない∀x ¬P(x)」、
すなわち、「誰ひとりとして冷蔵庫を持っていない」 >>792
>>こっちは書きづらいiPadのキーボードで書いているんだよ。
ならやめればいいよ 2. ¬∃x P(x) ⇔ ∀x ¬P(x) を定理証明系言語で書いてみると、
次のようになる。ただし¬は~(チルダ)で記述される。Tはxの型名
を指しているだけなので、あまり気にしない。<->は同値。
1 subgoal
T : Type
P : T -> Prop
______________________________________(1/1)
~ (exists x : T, P x) <-> (forall x : T, ~ P x)
2 subgoals
T : Type
P : T -> Prop
Hyp : ~ (exists x : T, P x)
______________________________________(1/2)
forall x : T, ~ P x
______________________________________(2/2)
~ (exists x : T, P x) 哲学って結局見方の提示だから、数学で命題を証明することでセオリーを発見することはあるけど、哲学とは違くね。
リンゴを分子の塊とみるか、宗教的社会的シンボルとみるか、食べ物としてみるか。
その際に、食べ物なら栄養価を数値で表して、料理をして焼くと栄養価がどのくらい落ちるとか、甘みは増すとかそういうのを数値化して見えてくるものもあるだろうし、そんなことはくその役にも立たないという哲学的判断もある。
ここで重要なのは数値化や計算自体は哲学ではないちゅうこっちゃで。 数理哲学は、数学の対象となる事物を理性の認識対象としてだけとらえ、
その根拠を研究する思弁的学問。数学の対象となる個々の事物は、感覚の能動的
あるいは受動的対象としての特性をもつものではなく、単に形式的、論理的、
公理的構造あるいは関係をもつものとされる。したがってこの哲学における
第1の研究対象は、ー純粋に形式的論理的構造、あるいは関係とは何であるか
ということになる。
このような研究によって、初めて人間の理性は、数学的抽象作用およびこれを通して
考察する思惟の対象の真の本性を連続や不連続の性質およびそれらの相互関係を
実数および虚数を含む数系列の概念を超限数 (無限数) の概念をあるいは
非ユークリッド的な空間の意味などを確固不動のものとして、みずからのうちに
保つことができる。さらに数理哲学は、数学的なものと物理的なものとの関連、
あるいは数学とその他の科学領域との関連を研究し、またその文化史的価値をも
研究対象とする。 哲学は、なぜを論理的に追究していく学問なので、数学と親和性が
あるのは自明。また、数学自体にも、なぜの素材となるものに溢れている。 「仮定した事実について人がどう考えるか」から
「仮定した事実について数学がどう考えるか」へ
数学の「考える行為」は数値化や計算として人の前に現れるんだろうね AIは技術的なものが入ってくるからまた違うような気もするんだよね パラドクスの話に戻ると、パラドクスが生じるのは、体系内部の合理性や
整合性のみを井の中の蛙的に追究してしまうと、その内部へと回収されない
外部にある剰余やバク、異質性の存在が看過され、その存在が内部の整合性を
浸食し、破壊・変容してしまう、というリスクがあることを意味している。
具体例で出すと、前にも書いた天才統計学者のネイト・シルバーによる、
アメリカ大統領選の予測の失敗。統計学という系の内部における操作がいくら
整合的で正しくても、その統計学の外部に存在する人間の機微や心理から生まれた
多くの虚偽の出口調査の回答の存在を彼は無視したため、そのアメリカ大統領選の
予想モデルはアメリカ国民の本音や実態を反映しない、非現実的なモノ=失敗
となった。 つまり、パラドクスを回避する、もしくは矛盾に陥らないためには、自分らが
いる体系なり論理の外部というものを常に意識することが必要になる。
内部の合理性・整合性の追究だけでは、真の合理性は達成されない。
合理性や論理性の外部にある未知の要素や不測の事態、異次元を想定・計算に
入れられてこそ、ようやくそれは真のアルゴリズム=真の論理、と呼べるものに
なってくるだろうね。未来のAIは、これを達成出来るようになるだろう。 投票についてはギバード=サタースウェイトの定理もあるし 哲学者は数学にあこがれる
数学者は哲学を馬鹿にする 多感な中学生でも学ぶ数学と違い感情で判断する中学生に哲学は無理 完全性を放棄したから学問て強いと思うんだよね。宗教は万能を目指すから弱さがある。
パッケージングされた理論は常にアップデートする必要が出てくる。
仮に無限の処理能力を持つ計算機があったとしても、数字は事象そのものではない以上、数字は事実との差異からは逃れられん。 数学はすでに完成した体系というわけではない
数学基礎論での変更はなかなか出てこないと思うけれども
そのほかでは
色々と定理が出てきたりして
数学は進歩している 数学は割り切れない円周率を割り切れないものと定理し
都合に合わせて記号をあてがい体系的に創作する
抽象化で許される形式的な学問
確率を広げていけば形式的な定理も増えるというもの はたして数学の領域は広がっているのだろうか
最初の公理系から演繹的に定理等が導かれているだけでパラダイムシフトがおきているわけではない
ずっと最初の公理系に留まっていてその公理系から言えることをふやしているだけ
それはちょうど「新大陸」を発見したからといって地球の体積が大きくなるわけではないのと同じ >>834
投稿してから思ったが
ちょっと極端すぎた 定理を創造するのが数学のお仕事だから問題ないけどね フェルマーの最終定理とか、abc予想とかああいうのって、きわめて感覚的というか天才独特のイメージがないとなかなか出てこないと思うんだよね。
それを一応誰でもわかるように(というかめちゃくちゃ勉強する秀才が理解できるように)証明するにあたって数学が必要になるけど、着想そのものは極めてアクロバティック。
abc予想なんかは幾何学的アプローチで証明したみたいだけど、どういう補助線をひいていくかで証明しやすさが格段に変わるっていうのは数学の哲学的側面だよね。 あとは、数学を基礎とした情報工学の発達で、プロセスのブラックボックス化問題がでてくるな。
人間の処理能力をはるかに超えるコンピューターが人間のお望み通りのアウトプットを出してくれてるから理論は正しいと俺らは信じるけど、本当に俺らが思ってるプロセスかどうかをもはや検証しようもない複雑さに達してしまう。
陳腐なSFっぽい話ではあるけど、一般人のほとんどはテレビがなぜ映るかわからないという意味においてすでにディストピアは何事もなく成立してしまっている。
テレビの原理は辛うじて一定数理解できる人間がいるが、この一定数がどんどん少なくなっていくと、プロセスを勝手に書き換えられても誰も気づかないみたいなことは起こってくる。 数学とは術数であり、卜占としてはよく当たる。
適用の範囲さえ間違えなければ完璧ともいえる。 >>839
それは忖度不正日本社会だと、特にありそうだね。
大企業のデータ改竄不祥事が続くけど、それと同様に、AIのアウトプット自体も
忖度やステークホルダーへの配慮で改竄されてしまうだろう。だから、公的機関から
AIによりある重大な帰結が導かれても、それを鵜呑みにしないくらいのリテラシーはいるだろう。
第三者機関の検証先を幾つか用意して、AIも多面的に運用されなければならないだろうね。
一番いいのは、国民がAIの仕様に通じることだよ。
だから、このスレでも読んで、数学とAIとプログラミングに対する認識を深めればいいよ。 STAP細胞でも、要するに国からの莫大な研究費を得るために、世間的な注目を集めるような
先進的な研究を検証や精査の杜撰な状態で、先走って披露してああなったのだからね。
つまり、金目で科学的な真理がゆがめられてしまう。AIでも量子コンピュータでも同じことが
当然、起こり得るだろう。その対策なり倫理コードの設定を今から早目にやっておくことだね。 日本的忖度てのはむしろ集団心理の方やけどな。
どっちかってーと姉歯建築における構造計算ソフトのプログラム改変やな。事例的には。
VWの排ガス不正とかも一応現場の独断ということにもなってるし。
正直、市民の努力に期待するとか、鈍重な第三者機関をつくるとか数学的思考を持つものからすると、はっきり言って美しくないんだよな。
ブロックチェーンとかそこらの技術じゃね。神の見えざる手てきなオートマチックなシステムが理想。
協調圧力という意味では、数学の精度の高さがより画一化を助長するという面はあるだろね。 バイオ、生物学て自然科学の中ではそこまで精密な数理が強く求められる分野でもないからな、抽象度が高い。ある意味社会学とかに近いいい加減さが残る学問。
ビタミン取ると脚気にならないというのがわかればそれは生物学的に大発見なわけだけど、ビタミンが体内でどういう組織から吸収される、分解される、排出されるそういうより細かなメカニックがわからなくてもとりあえず脚気が治ればok
そういう意味で、社会学系のやつらって結構やばい論文て実は多そうなんだよな。STAPはいうても再現性はやっぱり求められるから遅かれ早かれ指摘されてたろうし。
社会学は研究者自体が統計的扱いを深くわかってないくせに数字を使ってもっともな形式だけ整える場合結構多いんだよな。 >>844
まあ、言いたいことは分るけど。文系や文官による泥縄式の統制でなく、
アルゴリズムベースの監査の方が信頼できそうだという意見でしょ。
ただブロックチェーンのような自動証明的な技術に過剰な信頼を置くのも
どうかと思うよ。ホリエモンなどは、支持しているらしいけど、どんな
先端技術にもバグは付き物だと考えて、事に当たらないと。
>>845の意見も分るけどね。社会学だけでなく、経済学が非学問であると揶揄される
のも、そうした学問的体裁だけを糊塗しているニュアンスが見られるからだろう。 まあいかなる場合にも
最後は人間ですよ
サッカーW杯2018をみていると
判定にビデオとコンピューターによる判定システムが導入されている
しかしそれをどう最終的にジャッジするかは人間である審判が決める そういうことのなるね
際どい場合は審判が判断する
さっきやっていたフランスVSオーストラリア戦でも
最後は審判が判断して
PKとか決めていた ラムダ計算は、計算模型のひとつで、計算の実行を関数への引数の評価と
適用としてモデル化・抽象化した計算体系である。ラムダ算法とも言う。
関数を表現する式に文字ラムダ (λ) を使うという慣習からその名がある。
アロンゾ・チャーチとスティーヴン・コール・クリーネによって1930年代に
考案された。1936年にチャーチはラムダ計算を用いて一階述語論理の
決定可能性問題を否定的に解いた。ラムダ計算は「計算可能な関数」とは
なにかを定義するために用いられることもある。計算の意味論や型理論など、
計算機科学のいろいろなところで使われており、特にLISP、ML、Haskellと
いった関数型プログラミング言語の理論的基盤として、その誕生に
大きな役割を果たした。 ラムダ計算は1つの変換規則(変数置換)と1つの関数定義規則のみを持つ、
最小のユニバーサルなプログラミング言語であるということもできる。
ここでいう「ユニバーサルな」とは、全ての計算可能な関数が表現でき
正しく評価されるという意味である。これは、ラムダ計算がチューリングマシンと
等価な数理モデルであることを意味している。チューリングマシンが
ハードウェア的なモデル化であるのに対し、ラムダ計算はより
ソフトウェア的なアプローチをとっている。 ラムダ=λ= lambdaのλ計算で、簡単なプログラム例だと、以下のようなものになる
def func(price,tax):
return price + (price * tax)
pay = (lambda price,tax : price + (price * tax))(912400,0.08)
print('\n 912400円の商品の税込価格は、', pay ,'円です。')
[実行結果]
912400円の商品の税込価格は、 985392.0 円です。 あと、このラムダ計算で構成していく自然数に、アメリカの論理学者・数学者の
アロンゾ・チャーチからその名を取った「チャーチ数」というものがある。
このチャーチ数は関数を引数にとって、再帰的に自然を作る手法で出来ている。
0 := λfx.x
1 := λfx.fx
2 := λfx.f(fx)
3 := λfx.f(f(fx))
・
・
・
と続いていく。 .以降のfの出現回数が、そのまま左の自然数nに対応していると
考えればいいだろう。再帰的に入れ子がつながっていく。 ペアノの自然数の公理の一つに、「任意の自然数aには、その後者(successor)が
存在する」とある。だから、このことから、ある自然数に後続する次の自然数
を与える関数というのが考えられる訳で、これを後者関数といって、suc(x)で
表せる。suc(9)=10, suc(123)=124,suc(a)=a+1 といった感じ。
0 = 0
1 = suc(0)
2= suc(suc(0))
3= suc(suc(suc(0)))
・
・
・
と続いていく。要は、関数を引数に入れて、それを入れ子状にしていきながら
自然数を表現出来るということ。関数を引数に再帰的に使うことで、リソースを
節約していると言えるのだろう。数学やアルゴリズムで大事なのが、この
リソースを節約して、情報を縮減、、もしくは、圧縮して用いるということかな。 >>855は間違えた。ラムダ式だと、これだけで済む。defとreturn文要らなかった。
pay = (lambda price,tax : price + (price * tax))(912400,0.08)
print(u'\n 912400円の商品の税込価格は、', pay ,'円です。')
[実行結果]
912400円の商品の税込価格は、 985392.0 円です。
これでラムダ計算というのが、合理的なアルゴリズムだというイメージが
掴めると思う。短いコ―ドが可能になる。これが再帰的関数のメリットだろう なぜ、数というのがなぜ具体的な存在物や対象に縛られない、抽象的な存在である
のかと言えば、そこに普遍的な共通認識を付与する意味があるからだろう。
たとえば、「哲学とは何か?」という命題なら、それに対する解釈なり意見は
千差万別となって、そこに共通認識が発生しづらいのに対して、
1 + 1 = 2 や、a + b + c = a + c → b= 0
などは、時空を超えて共通認識が得られやすい。解釈が一意に収束できる、
もしくは収束しやすいのが抽象的な構造を持つ数学や数で、
そうでないのが、具象的な世界。 それって俺らの世界がそういうことになってるから自明だけど、時空を超えて普遍的かといわれると違くね。
量子の世界では0<1+1<2という世界かも知らんし。
1+1=2を数学的に証明するのって実はけっこう厄介だったりするし。
結局根本にあるのは人間の動物的生理への信頼とか、権威への服従とかで、そういう不確かなことから残念ながら逃れられないんだよね。 ラムダ計算を論理型言語に翻訳するとどんな感じになるのか? 一部の銘柄が乱高下しているだけであり、これに対し黄色い声(きいきい声)で大恐慌と騒ぎ立てるには明らかに証拠不足であるって感じ。 >>859
> なぜ、数というのがなぜ具体的な存在物や対象に縛られない、抽象的な存在である
> のかと言えば、そこに普遍的な共通認識を付与する意味があるからだろう。
普遍的な共通認識を付与する意味は結局人間のためにある
数学も人間が理解できる数の概念を具象的に記号化した創造物だということだよ。 >>866
指摘する部分が違うだろ
普遍的な共通認識を付与する意味があるから数が具体的な存在物や対象に縛られない抽象的な存在なのではなくて
数が具体的な存在物や対象に縛られない抽象的な存在だから普遍的な共通認識を付与することができる
だろ
そしてここで言う具体的な存在物や対象に縛られないとは
「赤い」がトマトやリンゴの色に対応させられるのに対して
「1」や「2」に対応させられる物はない
ということだろ >>867
数が具体的な存在物や対象を縛るから、数足りえるわけで、普遍的な共通認識を付与できるのは
数が抽象的な存在だからではなくて人間による創造物だから共通認識を付与することができる。
「赤い」がトマトやリンゴの色に対応させられるのに対して
「1」や「2」に対応させられるの「もの」もいくらでもある
赤くないリンゴには「赤い」を対応させられないように
みたいな話? >>868
>>859の表記に合わせただけで数が人間から独立して存在しているとは思っていないのでその点は理解いただきたい
「1」や「2」に対応させられるの「もの」もいくらでもあるのなら例を挙げてほしい >>869
なんかよくわからないけど
1や2を模った数字のオブジェならいくらでもあるよね? リンゴも抽象的な概念だけどな。
分類学上リンゴとなしの中間の品種もあるだろし、リンゴと外部空間の境目はどこにあるかによってどこまでがリンゴなのかとか、絵画のリンゴは性的象徴としてとらえられたり。
そういういみで数も固有名詞も抽象概念。
なぜリンゴが数字より抽象度が低いと感じられるかというと、リンゴの木からリンゴができてリンゴの芽が発芽するという安定性があるからで、りんごからりんごじゃなくてバナナとかブドウしかできなかったら、リンゴは存在できないもん。
なんか昔赤い甘い果実できたことあったよ、という伝説ができて神的な抽象度の高いリンゴになったかも知らんが、それは俺らのリンゴではない。 結局、普遍的な共通認識を付与する意味は結局人間のためにあるし
数学も人間が理解できる数の概念を具象的に記号化した創造物だよ。 >>868
「赤い」がトマトやリンゴの色に対応させられるについて補足しておくと
「赤い」という概念はトマトやリンゴや夕焼けや血等々の「赤い」ものと関連付けられることでそのイメージに引きずられていく(「情熱の赤」や暖色等)ので
「赤い」から連想されるイメージや「赤い」に対応させられるものが異なる文化同士において普遍的な共通認識を構築することが難しい
一方「1」や「2」は対応するものを持たないし「1」や「2」から連想されるイメージもないので普遍的な共通認識を構築しやすいということ
言ってしまえば数は概念世界にしか存在しない純粋な概念だということ >>870
記号のレベルの話ではなくて
リンゴとか犬のような自然物には対応しないということ 一つとして同じリンゴはないから、赤いとかと本質的には変わらんよ。
球形の玉をリンゴと表現する世界だったかもしれないし。
赤いは光の反射のスペクトルなように、リンゴは分類学上に定義されている。 >>875
数は概念世界にしか存在しない純粋な概念だということは 人間世界にしか存在しない 人間が 抽象化した創造物 だよね 概念が生まれた場所に依存してるかどうかなんか確かめられないだろ >>884
確かめられないならどっちも 可能性はある 数は数える対象のあいまいさから十分に離れることが出来たけれど、数字(数字が代入できる記号)を使わない数学はあるのかな >>880
数が人間から独立して存在しているとは思っていないと言っているとおり >>888
>>869で既に言ってることだけどね
もしかすると相手を間違えている可能性がある >>869
ものであれば逆に何でもいくらでもあるだけ1や2や3や4と対応させられるよね。 >>875
君にとって色は絶対的なものなのかい?
君の見ている赤が他の人と同じだとどうして言えるんだ? >>869
お前家族は何人?車は何台所有してる?エアコンはいくつある? >>891
>>875を読んで「赤い」は絶対的なものだと主張していると思ってしまうのか
馬鹿は黙ってたほうがいいよ >>890
>>892
「1台の車」が「1」という概念と対応していると思っているのか?
「1台の車」の中にすでに「1」とあるがこの「1」は何なんだ?
「1台の車」の中の「1」が何と対応しているかが問題になっているんだよ?
馬鹿は黙ってたほうがいいよ >>894
>>「1台の車」の中の「1」が何と対応しているかが問題になっているんだよ?
車だろ
自分で一台の「車」って書いてるじゃん
アホなの? >>894
馬鹿は黙ってろという間抜けは引っ込んで出てこなくていいよ >>897
1は車なのか?
1はトマトなのか?
1はえんぴつなのか?
馬鹿は黙ってろ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています