マルクーゼを読もうぜ!<Herbert Marcuse>
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アドルノやホルクハイマーは読まれているのに
マルクーゼはいまいち読まれていない。
俺は『初期マルクス研究』と『ユートピアの終焉』しか持ってないけど、
他の著作を持っている人がいたら是非! そんな雑魚でも理解できるような本、誰も買わないよ
買う奴が居るとしたら、それはお前ひとりだけ。
だから見るにたえないレベルの悲惨なスレッドなんか立てなくていいから、
一人、離島でさみしく読書してくれ。図書館で静かにしないといけないのと一緒。 誰も買わないよっていうか、初期マルクスとユートピアの終焉以外新刊本で入手不可能なんだが。
図書館では静かにしないといけないよっていう発想がもう
管理社会の被害者の発想だな。 ああ、思い出した。そういえばゴミ捨て場に大量においてあったな。その本。
ゴミ本だからしょうがないだろうな。こういうことも。 中公クラシックスみたいな読売系列から2年前に出版されているということは、
そんなに昔に比べたら保守中道派からマルクーゼは危険視されていないということなんだろうな。 お前も早くゴミ本ということに気づいて、捨てに行ったほうがいいよ。その本。 ねえ波平、自分が好きな本をさんざんこっぴどく叩かれて、
どんな気持ちなのかなあ?笑 みんなゴミ本だと思ってるし、
いい本とか抜かして吹聴して回ってるのは お前 ひ・と・り 笑 本を捨てるのはもったいない。
マルクーゼは古本屋には売ってないから
学生運動世代の書棚の奥深くに仕舞われていることだろう。 ねえ波平、久々に波平の本棚公開してよ。
またもう一度見たくなった。 ショーペンハウアーと福沢諭吉とデューイと司馬遼太郎はない。 ネグリとジジェクを持つくらいなら
ヘーゲルやマルクスをお勉強した延長上で素直に対応できそうなマルクーゼの方がよさそう。 捨てる?
まさかw
売っちゃわない方がよかったかなあと思ってるのは
生松敬三の『社会思想の歴史』(岩波現代文庫)
最後にマルクーゼが出てくる。いつかマルクーゼを読むぞと心に決めた本。
それと熊野純彦の『西洋哲学史』(岩波新書)
線引きまくってぼろぼろになった。 知ってるか?
あのベストセラーの「愛するということ」のエーリック・フロムとマルクーゼ仲違いしてマルクーゼが勝ったんだぜ。
どっちが売れてるかは一目瞭然だが。 自由からの逃走は心理学的な記述が多くて苦手だったなあ。
フロムとマルクーゼって勝負したの?w
>>18
マルクスとかマルクーゼを堂々と読めばええやん。
そして美へのあこがれとしてヅカの写真集とか雑誌をめでればいい。 マルクーゼの方が論理的に優勢だという後々のアカデミズムの判断。
ちなみにフロムは精神科医でありながら精神分析の臨床学の分野ではほとんど名前が出てこない。
彼が出てくるのは社会学の著作とナチ分析の古典として名前が上がる程度。 『エロス的文明』は持ってる
『一次元的人間』も欲しいところ 波平を殴りたいのですが、1回いくら払えば殴れますか? >>22
南博訳のやつだね。
関係ないけど、弟子の山岸俊男は今年亡くなってるんだな。 スタンフォード哲学百科事典では
He was often referred to as the Guru of the New Left (a title which he rejected).
とまあ左翼の教組扱いされてるし、
学生運動特集の何かの映像でも学生運動の焚き付け役として紹介されていたが、
マルクーゼの日本語訳をしている人たちはリベラル左派が多いね。 誰か教えてほしいんですが、「Left Over」を「極左」と訳すケースはありますか? 極左言うたら普通はfar leftだよね。
left overが極左って、時代に取り残されたという意味で書いているんだろうか。 単純にオーバーなレフトだからLeftoverなのかなと思いました。すいません。
残飯という意味もありますよね。極左はどんな意味で残飯だと思いますか。 Leftoverと言えば、「左開きの、開きっぱなしになったドア」という意味もあると思いますが。
これは辞書に載ってない用法です。 二塁打な意味もあると思います。 「左開きの、開きっぱなしになったドア」と「残飯」と「極左」と「二塁打なレフトオーバー」
この4つに共通することってなんだと思います? 極左以外の三つは半端な感じがするよね。
極左も壊すだけでその後のことを考えてなかったら半端者だよね。 さすが波平さん。見直しましたよ。
津田は残飯ですか? 注目していないのでわからない。
マルクーゼに限らずフランクフルト学派のヘーゲル解釈は、
体制の継続的な「否定」のようだから、
ある意味学生運動の主張を受けた為政者の判断力に期待している感じだよね。 それとヘーゲルとヘーゲル左派もナ〜
日本人なら生松敬三とか城塚登。 【マルクーゼと同時代の学者】
マルクーゼ(1898〜1979)
マンハイム(1893〜1947)
ホルクハイマー(1895〜1973)
アドルノ(1903〜1969)
ブロッホ(1885〜1977)
ルカーチ(1885〜1971)
ベンヤミン(1892〜1940)
アーレント(1906〜1975)
シュトラウス(1899〜1973)
ハイエク(1899〜1992)
ウィトゲンシュタイン(1889〜1951)
フロム(1900〜1980)
シュミット(1888〜1985)
シュンペーター(1883〜1950)
ユンガー(1895〜1998)
ケルゼン(1881〜1973) ライヒ(1897〜1957)
コルシュ(1886〜1961)
ブレヒト(1898〜1956)
毛沢東(1893〜1976) マルクーゼと同じくユダヤ人でハイデガーとフッサールの教えを受けた
カール・レーヴィット(1897〜1973)の『ヘーゲルとヘーゲル左派』を買ってきた。
マルクーゼの『初期マルクス』を訳した良知力、
ヘーゲルとマルクス両方に精通した武市健人の力も必要だな。 武市健人『ヘーゲルとマルクス』には、
マルクーゼなどによる、
史的唯物論(歴史哲学)と弁証法的唯物論(存在論)とを分離するところに
唯物論と弁証法の自然化が生じるという非難がある、という紹介があるね。 マルクーゼの『美的次元他』の謝辞には
「テーオドア・W/アドルノの美学理論に私が負うているものについては、
とり立てて感謝の言葉を書き記すまでもない。」と書いてあるから、
マルクーゼとアドルノは同志、ツーカーみたいな関係だったんだな。 武市健人『弁証法の問題』は、マルクーゼをよく引用して引き合いに出しているな。
『ヘーゲルとマルクス』も読んだ感じだと、
武市的にはヘーゲル的弁証法には終わりがあり、今の社会が終わって新しい社会が始まる
という見方なんだろうな。
それに対して、マルクーゼは現体制に否定をつきつけ続けて行って、
現体制が変わることを待ち続けるという感じかな。 ベンヤミンの心理学はつまらないよ。観念論も心理があるわけじゃないからね。 まあ、ベンヤミンは『暴力批判論』と『複製技術時代の芸術』以外、あんまり読まないかもなあ。 翻訳なんて適当に詩が下手になったり音韻リズムが壊れたりするから、
文字列も古式の文体じゃないし、なんかアフォそうだよね。ベンヤミンなんて
翻訳に向いてないから、ほかしていいのに。文明の地理的言語の伝達とか、
書の方言的訛、言語可能不可能万能性とか、そういう概念に目が向くといい。 原文も怖いもので伝達の手段があるのに読んでしまうと禁忌に触れたり
戒律を破って、’処分’されてしまうだろうね、 詩的な作品を日本語にするのは確かに難しそうだね。
『パサージュ論』とか。 ノーマークにパスほるより、サンマルクのナプキンでパスパス油脂を取る方が
気持ちいいなあ。喫煙ルームは天国と地獄だ。 武市さんのマルクーゼのとらえ方はヘーゲルの読み方が根本的に違うせいで、
こちらがとらえるのが難しい。 精神現象 を 学問にするナンセンス。誰の課題でどうしれば有意味学習なのか。 あと乗りで読むより、現象学から決め込んでる方が、自分にとっては良かったが。 精神現象学を読まずに研究書から入るという自分のやり方(笑 『弁証法の問題の』前の持ち主の線引きに※が付いている。
多分、武市さんに異議ありということだろうな。 新書なんかが相当マスターレベルの気がするけど。ま玉石混交というより
差はあれどね。 学術文庫と言えば、渡邊二郎の『歴史の哲学』がよかった。
今は古本でしか手に入らない。 傘の虹のことですわ。ミスティックサークルレインボーというか。。白紅もみたし。 現象学と言えば、フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』に
カントの『純粋理性批判』における純粋悟性概念の演繹についての異議があったから、
『純理』と『危機』を同時並行して読んだ記憶がある。 そういえば若いうちは武器になじまなかったな。防具も。
カントは超越自我といっていいのか、ま私読感は若干。 そういえば若いうちは武器になじまなかったな。防具も。
カントは超越自我といっていいのか、ま私読感は若干。 そういえば若いうちは武器になじまなかったな。防具も。
カントは超越自我といっていいのか、ま私読感は若干。 つまんないから学術とかいうやつは書き込まなくていいよ 掲示板に メモやらつけてるだけだよ。日記調に。
身体芸術 身体障害 身体能力 も破れたし、生命科学分野も
なかなかいいらしいよ。未来過去因果。 身体的な武器と言えば、爪と歯と骨だろう。
これらなしに闘うとするなら毒が必要だが、
毒を持っていたとしても、それを相手の身体に
注入できる爪や歯がなければ、それも武器にならず、
せいぜい相手から忌避される自己防衛手段となるだけだ。 で、爪と歯と骨は死んだ後も残る。
死後に残るものが武器になる。 動物の毛皮みたいに防具みたいにもなる。
クロ現でやるみたいだが、プロレスの復活は身体性へのまなざしの復活だな。
生命科学の隆盛、
生命の哲学の盛り上がり(伊藤邦武『物語 哲学の歴史』第四章、
佐藤康邦『哲学史における生命概念』)と被ってるかな。
両者の関係性は分からない。 武市はマルクーゼが歴史を無限発展的なものと捉えているように読めるとして批判している。
同時に、歴史の自然化が駄目だというマルクーゼの主張には同意している。
個人的には、マルクーゼの否定の哲学は文化面、美的な面に解消されたのかなと。
文化左翼の発展にある意味で寄与したのではないかと思う。 文化左翼は批判されがちだけど、遺産は遺産として継承されなければならないと思う。
さもないと、構成員が乱雑な感情に突き動かされ、それを統制する強力な指導者という
オウム的な集団運動が今以上に盛んになってしまうと思う。 左翼は経済も語れとは言われるけど、
マルクス経済学でいえば、実践的なものに関しては、
実質大内力の協同組合論で止まっている感じだしな。
生産協同組合、生活協同組合は農村部から100万都市ぐらいまではカバーできるだろうけど、
大都市となると、なかなか難しいものがある。
どうせ年金が減るならベーシックインカムでという議論もあってもよさそうなものだが。 被差別階級が公務員階級や政治家階級に入り込んでいるのが、
階級問題をややこしくさせている。 >>83
実際に左派が語り始めるとアーアーキコエナーイし始める辺りアホウヨが言い逃れに使ってるだけだけどなその文言 >>86
経済、政治、文化は人間の属する社会階層によってその影響力が大きく変わってくるけど、
科学技術に関しては右翼、左翼関係なく人を拘束する点では平等だな。
そういう意味で、過去の一時点における科学技術による人間疎外を描いた『一次元的人間』は
読み返されなければならない文献かもしれないな。 城塚登は初期マルクス研究で有名だが、『社会思想史講義』では、
同じく初期マルクス研究をしていたマルクーゼには言及していなさそうだな。
http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/4641076049
山本晴義は『社会倫理思想史―マルクス主義的人間観序論』で、
マルクーゼに一章割いて触れている。 生松敬三の『社会思想の歴史』は買いなおした。
山本晴義の本と見比べっこすることにしよう。 技術支配の社会における人々を批判的に捉えていたマルクーゼも、
マイノリティや周縁部にいる者に変革の可能性を賭けたのだろうが、
技術決定論に毒されたギークたちの作り上げたネオリベ的体制、
ドイツ・イデオロギーならぬ、
カリフォルニア・イデオロギーの一部に組み込まれてしまったんだろうな。
マルクーゼを読む際は、そういう状況をも超えるような読み方が必要なのだろう。 やっぱ、マルクーゼってドイツ系ユダヤ人でアメリカに亡命したって属性よりも
最後にカリフォルニア大学で教えていて新左翼を肯定したっていう
イメージが強いんかなあ?
それ以前のアメリカでの著作とかに比べるとさ。 芸術作品はその美的次元において間接的であり、
作品の革命性はそのことを免れ得ない
というのが『美的次元』のはしがきの重要な所だな。 マルクーゼも多少は成立に寄与したであろう、
カリフォルニア・イデオロギーも、これからは、
国家の規制を受けて少しは和らぐことになるのかな。 国家自体が自ら進んでネット空間に分け入っているのだから、
必ずしもそうとは言えないかもしれない。 マルクーゼを研究していた良知力や生松敬三は早死にしているよな。
マルクーゼのように、マルクスを意識しながら、
それをラディカルに同時代の意識変革へと適用しようとしていた者を研究するのは、
とてつもなく骨の折れる仕事だったのだと思う。 マルクーゼも研究していた城塚登が長生きだったのは、
ヘーゲルやフォイエルバッハも研究して、
「社会思想史」という一つの体系を構築する仕事を、
繰り返し行っていたからかもしれない。 いい加減、今から10〜11年前に買った『啓蒙の弁証法』を読まんとなあ。
本屋で選んでるときは集中力がどっと出て立ち読みできたけど、
家で普通に過ごしているときにはとてもじゃないけど読みこなせない代物。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています