数学を初めとした理系の学問と哲学について 13
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>人々のきめ細かなニーズに対応できるような 人々のきめ細かなニーズに対応できるようにするには人文的なセンスが欠かせない。 「AI化する社会」と「AIを利用した社会」は別もんだろと思ったけど 牛馬を利用した農業(牛馬耕)は牛馬化された農業とは言わないのに 機械を利用した農業は機械化された農業と言うよな ただ機械化する農業とは言わないな >人々のきめ細かなニーズに対応できるような社会システム だったら、ゴミの分別収集とかやめて、すべてまとめてゴミを捨てられる ようにして、分別はAIに制御された機械に任せればいい そういう本当に人々に役立つサービスで実力を発揮できない限り、 AIなんていうのは、人のきめ細かいサービスを買い叩くための 口実に使われるだけになる 人文的なアナログ感覚もあった方がいいだろうね。 でも、デジタルでもきめ細かな対応はある程度、出来るだろう。 遺伝子だけで犯人特定できるように>>507 、指紋や声紋などの バイタル情報も人それぞれ異なる。 それを生体的暗号と考えてみると、遺伝暗号ならコドンと呼ばれる 3つの連続するアミノ酸の暗号に相当する。それで開始コドンの メチオニンの暗号AUGから始まって翻訳が進み、終止コドンという どのアミノ酸もコードしていないコドンが現れた時点で翻訳をストップ する。 遺伝子解析のセレラ・ジェノミクス社の創設者クレイグ・ヴェンターは、 分子生物学では有名な人だけど、彼のショットガン法というヒトゲノム解析の 手法は、暗号理論や記号論的にも興味深い手法であると思うね。 個々の人々のニーズを鍵穴と考えてみようか。それに適合する鍵は世界に一つしかない となれば、その鍵こそがカスタマイズ化された、その人だけに適したニーズになる。 AIや量子コンピューターで、そうした計算力が飛躍的に向上すれば、一律のサービス でなく、個々の偏差やユニーク差に対応したサービスの提供も可能になるんじゃない という推測。 >>510 ゴミなんて多種多様なのにそんな自動で分別する機械なんてどうやって作るの? 一人の行動、ひとつの国の行動も似てること そういの図形みたいなものか 三人が似たような失敗をしたら、法則が かくれているのか AIなら何でもできちゃう思考回路しか持ってない人のニーズになんでも応えてくれるのがAI うーん、マンダム アブダクション、リトロダクションとは、個別の事象を最も適切に説明しうる 仮説を導出する論理的推論。仮説形成や仮説的推論などと訳されている。 古くはアリストテレスがアパゴーゲーについて議論している。のちにアパゴーゲーは アブダクション(abduction)と英訳された。チャールズ・サンダース・パースは 演繹(deduction)、帰納(induction)に対する第三の方法としてアブダクションの 語を用いた。 結果や結論を説明するための仮説を形成することを言うこともある。 哲学やコンピュータの分野でも定義づけされた言葉として使われている。 アブダクションの意味や思考法は、演繹法や帰納法ともまた異なるものであり、 失敗の原因を探ったり、計画を立案したり、暗黙的な仮説を形成したりすることに 応用できる。例えば、プログラムの論理的な誤りを探し出し直すという過程では、 アブダクティヴな解釈と推論が行われており、一般的な立証論理の手法と通じる ものがある。 アブダクションは観察された事実の集合から出発し、それらの事実についての最も 尤もらしい、ないしは最良の説明へと推論する。アブダクションという用語はまた、 たんに観察結果や結論を説明する仮説が発生することを意味するためにもときおり 使われる。だが哲学やコンピュータ研究においては、前者の定義がより一般的である。 心理学などではヒューリスティクスと呼ばれている。 演繹は、仮定 a と規則「 a ならば b である」から結論 b を導く。妥当な演繹は、 仮定が真であれば結論も真であることを保証する。 帰納は、仮定 a が結論 b を伴ういくらかの事例を観察した結果として規則 「a ならば b である」を蓋然的に推論する。帰納は、推論した規則が真であることを 保証しない。 アブダクションは、結論 b に規則「a ならば b である」 を当てはめて仮定 a を推論する。帰納が仮定と結論から規則を推論するのに対し、 アブダクションは結論と規則から仮定を推論する。アブダクションは、推論した仮定が 真であることを保証しない。 アブダクションそれ自体としては、形式的には論理学でいう後件肯定に等しい。 このようにアブダクティヴな推論はそこで提起される原因が疑わしいので、 「前後即因果の誤謬 (Post hoc ergo propter hoc)」という時間の前後関係を 因果関係と混同した虚偽の論法に似ている。 論理学では、説明はある領域を表現する論理的理論 T および観察の集合 O から 行なわれる。アブダクションは T にしたがって O についての説明の集合を導き、 そしてそれらの説明のうちの一つを選択する過程である。 E が T にしたがいつつ O の説明であるためには、 E は二つの条件を充足しなければならない。 O は E かつ T から導かれる。 E は T と無矛盾である。 形式論理学では、O と E はリテラルの集合であると想定されている。 これら二つの文は E が理論 T にしたがいつつ O の説明であるための条件である。 通常これら二つの条件を充足する可能な説明 E に対して、他の最小限の条件が 課せられるが、これは O を内含することに寄与しない的外れな事実がそれらの 説明に含められることを避けるためである。 アブダクションは E の要素を選択する過程でもある。 最良の説明を表現する一要素を選択する基準には、単純性、より蓋然的であること、 ないしはその説明の説明力が含まれる。 >ゴミなんて多種多様なのにそんな自動で分別する機械なんてどうやって作るの? AIに設計してもらえば簡単ですよ? ゴミの分別と人間関係のどちらがより複雑だと思っているのだろう?w 人間の活動を最適にシステム化することをAIが設計できるなら、 ゴミの分別装置を設計するくらいいともたやすくできるはずである。 >>525 その人間の活動を最適にシステム化出来るAIとやらはどこにあんの? 能書きの文章に使われた一文字一文字が錠剤になって入っている薬瓶みたいな人だよね 薬効は知能となってるけど有効成分一切入れてないし、霊感商法並みに値段はお高くても 誰も買わない飲まない騙されないw AI製薬株式会社 >>525 仮定に仮定を重ねるなって習わなかった? ああ、三角関数出来ない馬鹿は義務教育も受けてないかw >仮定に仮定を重ねるなって習わなかった? そりゃねーわw >仮定に仮定を重ねるなって習わなかった? 三角関数がどうのとかばかり書き込みながら、数学の基本すら理解できていないようですね。 数学の〇〇予想なんていうのはすべて、〇〇という仮定が正しいとしたら、××が 成立するというのを多重に重ねて構築されていて、仮定の証明が得られることで 最終的な証明が成されるという形式をとっていますよ。 >>532 数学の話なんて誰もしてないから。はい論破。 三角関数も出来ない奴は馬鹿だねえw カリーのパラドクスのような論理構造になっていると、どんな荒唐無稽な命題で あっても真と証明されるので、論理の持つバグにも自覚的にならないといけない。 非単調論理であれば、ベイズ推定のように認識をアップデートして、より蓋然性の 高い判断を下せるので、汎用型AIにはそうした非単調論理基づいた臨機応変な 認知モデルが実装されるといいのかもしれない。 >>532 「風が吹けば桶屋が儲かる」って聞いたことないのかい? 「無」を「無秩序の海」であり、「地」の極限状態であるとすれば、 それは反転して「図」となり「図」の側の「反無秩序の海」の極限状態がある。 「無」と対象である「反・無」は「全て」であり、図と地を入れ替えてみれば、「無」と同じものである。 ここでいう「図」と「地」がなにものなのかという問題はあるが、対象性があり、スピンや波の根源として考えることもできる。 図と地よりも大きな対称性があるのか、考え中。 「地震が起きると雨が降る」 これはある地域では皆が知っている常識だ その仕組みについては誰も知らないだろうが、 繰り返し実証される経験的真実として皆が知っている 考え方は単純である。 極限の無秩序状態があれば、自発的に破れてより小さな対称性になる。 極限の秩序状態があれば、これも自発的に繕われてより大きな対称性になる。 そう考えると、2つの極限は対称性を持つ。 この対称性は繕えるのかどうか、ということだ。 (破れの反対として繕うとしたが、よい自動詞がおもいうかばなかった) 想定としては、極限どうしは破れも繕いもなく、最初から破れていて繕われている。 ふたつだがひとつの状態。あるいは、ひとつだがふたつの状態。 答えを言ってしまえば単純なのだが、それは言わないw ここからスピンはひきだせるが、はたしてひも理論もひきだせるかどうか、というところ。 ここからcausal setsをひきだせればよいわけ。 >>545 その考え方を論理式で表すと、(P ∧ ¬P ) = Trueとなる。 カリーのパラドクスやヘーゲル弁証法もそうだけど、哲学では矛盾を巧妙に扱うことで、 意味ある概念や価値を構築できることもあるだろうね。 あと、矛盾許容論理や多値論理は、実際、ソフトウェアにも使われているので、 古典論理やブール代数だけで考えていく方が、現代では珍しいくらいじゃないかな。 哲学板の議論を見ていると、1か0で、自分は正しい、君は間違っているという 中二病的な主張が目立つので、それだけズレているということが分かる。 1から0の間にはグラデーションがあると知れば、真偽を一方的に決めつける 単純な議論を知的に相対化でき、議論を有意義なものにすることができるだろうね。 たとえば、命題Pを「0は自然数である」と定義してみよう。 >>546 にある論理式、(P ∧ ¬P ) = True にこの命題Pを代入すると、 「0は自然数である」かつ「0は自然数でない」は真である となる。実際に0が自然数なのか否かはケースごとに色々あって、 集合論では0を自然数と考えてもいいだろうし、フランスでは 日本と違って、初等教育では0は自然数だと教えられるので、 (P ∧ ¬P ) = True に対応するような現実があることが判る。 何をもって「自然」と考えるのか、「自然」と対比されるのは「人工」なのか? 自分の知ってる哲学を持ち出しても グラデーション哲学でAI化しても 数式化しても、論理式化にしても プログラミングしようとしても駄目 どうしてこんなに駄目なのでしょうか? どうしたら哲学になるのでしょうか? 誰か教えてくださいのポエムですよ。 >>553 哲学と錯覚したタラレバ言い訳啓蒙風自己表現を顕示せずにはいられない強迫性障害 哲学とは問うことである 哲学的姿勢とは疑うことである いくら下手くそな少年野球をしていても、野球をしていることには変わらなくないか? というか、トンチンカンな問いとは何だ? 問いに優劣があるとして、それは誰によって判断され得るんだ? 真理に近い問い、真理からは遠い問い、それらの問いが存在している必然性は何だ? >>561 哲学しているかどうかを問い疑ってる段階で野球をしていることに変わらなくないか?と トンチンカンな問いとまやかしをやらかしてしまうのが名人の必然性 下手くそな少年野球のレベル哲学だから笑われてんじゃねえの? 返しすらトンチンカンだわw >>560 えっ!? 誰もまやかされてないと思うけど?w >>562 ゲーデルの不完全性定理だな ある体系自身の正しさを、その体系が証明することは出来ない 哲学をするということが、問うということであるか、哲学的姿勢とは疑うことであるかということは、そのように定義された体系自身が論証することはできないだろう 哲学は問い疑うことをやめた瞬間に終わる 先の言及は哲学の結果であって、哲学をしているではないと答えておこう 哲学ではない、と強く言及してもよい こういう言うと、哲学書なんかも哲学でないことになるが、あながち間違ってもいないと思う 先の言及は哲学の結果であって、哲学をしているではないとまやかせば済むしね 一応言ったことには責任持とうと思ってね これ、前に自分で定義して文章に起こしておいたんだけど、そこには、哲学をすることは、問うということであるって書いてたから、瑣末なレトリックも馬鹿にはできない でも哲学と言い切ったほうが得るものも大きい 数学も、定義と定理を含めて数学という体系とするのではなくて、定義のみを数学と呼んでしまえば、ゲーデルの不完全性定理を回避できるのではないか ていうか、この手の立ち回り相手にするの久しぶりだわ、変わらず元気そうでなにりより ある体系自身の正しさを、その体系が証明することは出来ないゲーデルの不完全性定理でどうせ最初から責任取る気なんてさらさらないじゃん >>566 ゲーデルの不完全性定理はいつからお前のトンチンカン哲学に適用されるようになったんだ? 無知なやつほど「ある体系自身の正しさを、その体系が証明することは出来ない」なんて簡単に言うが、ゲーデルが証明したのは数学の体系についてであって、おまえのトンチンカン哲学についてではないからねw >>569 行き当たりばったり、出たとこ勝負、藁にもすがるトンチンカン不完全性定理、哲学と言い切ったほうが売れそうなまやかしやらかしの術 >>571 よく知っているな 数論を含んだ論理体系というのが正確だが、哲学も古典論理で語られる以上ゲーデルの不完全性定理は避けられない どうでもいいが、人は自分を写す鏡というが、よく言ったものだな >>574 物理学は自然の斉一性や観測を根拠にしているからゲーデルの不完全性定理を持ち出すのは不適切だろうな >>573 だれも古典論理で語ってくれなどと頼んじゃいない、自分が語れない範囲を論理体系とか言うなよトンチンカーン >>576 それは物理学には不確定性原理というものがあってだな だからなんでもかんでも不確定性原理持ち出すな以下略 哲学と何の関係もないトンチンカンを前にすると収拾が付かなくなるな 非古典論理で語るなら 哲学は問うことであろう、となる ところで、そういう書き方をするとポエムと揶揄されてしまう >>576 科学哲学の本で物理学の自然観をテーマにしたのを読んだが、 ゲーデルの不完全性定理を持ち出して、究極的には正しさを証明できない、 と書いていたぞ。 >>573 哲学みたいな俺定義の俺用語並べ立てるようななんちゃって学問は、とてもじゃないか論理体系とは呼べないよ 三角関数も出来ない馬鹿はこれだから困るw >>582 「哲学を語れる言語を持ち合わせていない」事実を レトリックでまやかした文章に置き換えると > 非古典論理で語るなら > 哲学は問うことであろう、となる >>580 ハイゼンベルクの不確定関係とゲーデルの不完全性定理は関係ないだろ 確率で言及すれば、ゲーデルの不完全性定理は成り立たないからな 量子力学なんかを含んでいる物理学は不完全性原理を回避しているはずだ 自然の斉一性は仮定されたものだから、そういう意味で物理学は正しさを証明できないと言う論調なのだと思うが、 なにを語るにしろ、限りなく正しいとしか言えないだろう それは、実無限は存在せず、可能無限しか存在しないという前提から言っている >>590 あーその本の1なら読んだことあるわ 2が手でたんか 教えてくれてありがとよw >>594 世界には実無限は存在せず、可能無限しか存在しないという前提から、正しさの言及は限りなくそうだとしか言わないのが妥当だという 議論になるが、それはそれで骨が折れる議論だからそういう書き方に留めておいた 主張であることは認めよう E=hν 光子エネルギーは、振動数と比例し、その比例定数にプランク定数が等しい たとえば、励起した電子が基底状態に戻るときに光を放出するが、 そのときの光の振動数は、励起状態と基底状態のエネルギー差によって決まる プランク定数はシュレディンガー方程式にも出てくるし、不確定性関係 Δx・Δp≧h/2πにも現れる いずれにせよ、物理では重要な定数だな >>600 俺にしゃべらせたいようだな この世に一つとして同じものはない。運動量も位置も同じ量子があれば、それは同じ一つの 量子に他ならなくなる。言い換えれば、因果関係を持ちえないものは、同じであると言える 同じようであっても、因果関係を持ち得るのであれば、異なるものであると言えるだろう 1を部分とみれば、それは可能無限によって語られるだろうし、全体とみれば、実無限に よって真なる1と他ならなくなる。 実無限が存在するのは、世界の両端だけだと思う。いま、この場所から語るのであれば、 それは可能無限でしかあり得ないだろう √2は、無理数であり、1.4142・・・と続きいていくが、可能無限の立場に立てば、√2とは、 その演算のことを指し、・・・とは、どこまでも計算が可能だという計算可能性のことを意 する。 また、自然数の1とは、可能無限の立場に立てば、1.0000・・・と続いていく可能性のことを 意味する。 一方で、実無限を仮定すると、ラッセルのパラドックスに行き着く ラッセルのパラドックスとは、自身を含まない集合は存在しないというものだ。例えば、世界の はじまりから終わりまでのすべてが記載された本「アカシックレコード」があるとする。 この本には自身の内容を記載するべきであり、その内容の中にも、自身を記載しなければ ならず、以降際限なく続く。 真理はいかなる方法を以って語りうるのか、という問いがある。 言い換えれば、もの自体に言及する名指しはあるのか、という問いである。 仮に真なる名指しがあるとすれば、それは自身の内に真理を内包するものでなければなら ない。 例えば、バガヴァッド・ギーターには、(自ら自己)atomani-atomanaという表現が出てくるが、 これは存在とは自己言及的なものであるが故に、名指しとして秀でていると思う。 >>603 「ごめんなさいわかりません」=「すみませんでしたもう黙ります」と読解できない馬鹿w ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる