マルティン・ハイデガー6
ハイデッガー全集 Martin Heidegger Gesamtausgabe, Frankfurt, Vittorio Klostermann, 1976- http://de.wikipedia.org/wiki/Gesamtausgabe_%28Heidegger%29 ・ハイデッガー全集の独、日、英版リスト 『ハイデッガー全集』辻村公一ほか編、創文社、1985- http://ambos.h ■atenablog.com/entry/2015/01/03/220709 ・邦訳状況一覧 下記『ハイデガー読本』には、全集全巻のサマリーがある >>2 ハイデガー読本(秋富克哉、安部浩、古荘真敬、森一郎、法政大学出版局) 『ハイデガー読本』(2014) ・ハイデガーの主要な概念や思索を個々の論文で追ったもの ・巻末に全集全巻のサマリーあり 『続・ハイデガー読本』(2016) ・古代ギリシャからポスト構造主義〜プラグマティズムまで ・ハイデガーが読んだ哲学者や、ハイデガーを読んだ哲学者など、哲学史を通して描かれるハイデガー ハイデガー哲学の主要概念 現存在、実存、存在了解、基礎存在論、事実性の解釈学、 時間性、テンポラリテート、世界内存在、存在論的差異、 本来性/非本来性、形而上学、言葉(ロゴス)、真理(アレーティア) 自然(フュシス)、存在史、性起、転回、存在忘却、故郷喪失、放下 『ハイデガー:知の攻略 思想読本』 木田元編、作品社 (2001) 用語集より 最小限の時間でハイデガーを始められる3冊 ・ハイデガー 『存在と時間』 細谷貞雄訳、筑摩書房 (1994) ・ハイデガー 『現象学の根本問題』 木田元訳、作品社 (2010) ・木田元 『ハイデガー「存在と時間」の構築』 岩波書店 (2000) (※ケーレと上記2冊の解説を含む) 『Sein und Zeit』の主な訳本 (英:Being and Time、仏:Être et Temps) 『存在と時間』 筑摩書房 (細谷貞雄訳) 全2巻 『存在と時間』 中央公論新社 (原佑、渡辺二郎訳) 全2巻 『存在と時間』 作品社 (高田珠樹訳) 『存在と時間』 岩波書店 (熊野純彦訳) 全4巻 『存在と時間』 光文社 (中山元訳)<...刊行中> 全8巻 『存在と時間』 岩波書店 (桑木務訳) 『存在と時間』 勁草書房 (松尾啓吉訳) 全2巻 『存在と時間』 三笠書房 (寺島実仁訳) 『存在と時間』 理想社 (細谷貞雄、亀井裕、船橋弘訳)<ハイデッガー選集> 『有と時』 創文社 (辻村公一、ハルトムート・ブフナー訳)<ハイデッガー全集> 「Destruktion」の訳語 「解体」=細谷、桑木、高田、中山、辻村(構造解体) 「破壊」=原&渡辺、熊野、松尾、寺島 >>6 ハイデガー 『存在と時間 <上>』 序論2章6節、細谷貞雄訳、筑摩書房 (1994) p68 “それ自身の歴史に透明な見通しをつけることが われわれの課題なのであるから、 固定化した伝統を解きほごして、 その伝統が生みだしてきた蔽塞状態を解消することが必要となる。 この課題をわれわれは、存在問題を手びきとして、 古代的存在論の伝承的形態を解体し、 かつて存在の最初の ―そしてそれ以来主導的となった― 諸規定が そこで得られた根源的諸経験へひきもどす 解体作業(Destruktion)という意味でうけとる。” デリダの脱構築(déconstruction) → ハイデガーの解体(Destruktion) → ルターの解体(destructio) という経緯については、以下が詳しい。 ・宮ア裕助 「プロト脱構築について――ルター、ハイデガー、デリダ」 『現代思想 2018年2月臨時増刊号 総特集=ハイデガー -黒ノート・存在と時間・技術への問い-』 ・茂牧人 「なぜ日本にキリスト教哲学が必要なのか」 (2009) ※ハイデガーとルター https://serve.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail& ;page_id=49&block_id=42&item_id=1245&item_no=1 >>8 デリダの脱構築(déconstruction) → ハイデガーの解体(Destruktion) “親愛なる井筒教授(…)私たちが会ったとき、私はあなたに「脱構築」という語について―図式的で予備的なものではありますが―いくつかの省察をお約束しました。[略] なかんずく私が望んでいたのは、ハイデガーのDestruktion〔破壊〕もしくはAbbau〔解体〕という語を私の意図へ翻訳し翻案することでした。このハイデガーの二つの言葉がこのコンテクストで意味していたのは、西洋存在論もしくは西洋形而上学の根本諸概念の伝統的な構造ないし建築にかかわる操作でした。 けれどもフランス語では「破壊〔destruction〕」という語は、ハイデガー的な解釈もしくは私が提案していたタイプの読みよりも、おそらくはむしろニーチェ的な「粉砕」に近い無化、否定的還元という含意があまりに際立っていました。 そこで私はこの「破壊」という語をしりぞけたのです。私はこの「脱構築」という語(一見きわめて自然と思われる仕方で私に到来したこの語)が、たしかにフランス語であるかどうか、探ってみた記憶があります。” ・ジャック・デリダ 「日本の友への手紙」 『プシュケー:他なるものの発明Ⅱ』 (2019/03/27) p2-3 https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/tachiyomi/0246900.pdf ※デリダの最重要概念である"脱構築"の説明を収録した『プシュケー』は、これまで邦訳されていなかった >>8 ハイデガーの解体(Destruktion) → ルターの解体(destructio) ルター「ハイデルベルク討論」の「十字架の神学」部分 > (19)神の「見えない本質が」「造られたものによって理解されると認める」者は、神学者と呼ばれるにふさわしくない[ローマ 1:20]。 > (20)だが神の見える本質と神のうしろ(Posteriora Dei)[出エジプト 33:23]とが、受難と十字架によって認められると理解する者は、神学者と呼ばれるにふさわしい。 ハイデガーが掘り起こした古代ギリシャの「真理(アレーテイア)」概念(『ハイデッガー全集 75』) > “既にこの太古の神性Ἀφαία(アパイア) > - 現われざるもの、現われることから身を引くもの、逃れつつ現われ出でるもの - > それがアレーテイアの謂うところを名指している。” このどちらもが、「現れるもの」と「現れざるもの」を問題にしている。 ・『ルター著作集 第1集 第1巻』「ハイデルベルクにおける討論」 ルター著作集委員会 編、聖文舎 (1964)p109-110 ・D. Martin Luthers Werke : kritische Gesamtausgabe (Weimarer Ausgabe) Bd1, Weimar, H. Bohlaus Nachfolger, 1964-1997, p354 Disputatio Heidelbergae habita. 1518 "19. Non ille digne Theologus dicitur, qui invisibilia Dei per ea, quae facta sunt, intellecta conspicit, 20. Sed qui visibilia et posteriora Dei per passiones et crucem conspecta intelligit." ・『ハイデッガー全集 75 ヘルダーリンに寄せて』 p279 真理(アレーテイア)について “「真理」という語は、ギリシア人のもとでは或る否定を伴っている、 すなわちア-レーテイア<ἀ-λήθεια>―― 非-覆蔵性、覆蔵されて-いないこと、である。” ― 『ハイデッガー全集 55 ヘラクレイトス』 p110 “既にこの太古の神性Ἀφαία(アパイア) - 現われざるもの、現われることから身を引くもの、逃れつつ現われ出でるもの - それがアレーテイアの謂うところを名指している。” ― 『ハイデッガー全集 75 ヘルダーリンに寄せて』 p279 “自然(ピュシス)は隠れることを好む” ― ヘラクレイトス 断片123(『ハイデッガー全集 55 ヘラクレイトス』 p141参照) ピュシス [physis] 〔哲〕 〔自然の意〕 単に物質的な自然でなく、生ける霊にみちた能動的・有機的なもの。ギリシャ哲学の最初の主題となった。(大辞林 第三版) >>5 『存在と時間』の前後とケーレ(Kehre 転回) 『アリストテレスの現象学的解釈』(1921/22年)(「ナトルプ報告」、『存在と時間』の原型) 『カッセル講演』(1925年)(『存在と時間』の原型) ↓ 『存在と時間』(1927年) 『現象学の根本問題』(1927年)(『存在と時間』の仕上げ的内容) ↓ 『真理の本質について』(1931/32年) <----- 思索のケーレ(転回) ----- 『形而上学入門』(1935年)(2段階目のケーレ) ↓ 『哲学への寄与論考』(1936年)(『存在と時間』からの到達点) ↓ 『「ヒューマニズム」について』(1946年)(ケーレについての回顧) 2段階のケーレ ハイデガーは1930年代の前半に、思索のケーレを経験する。 それは現存在から存在へ、つまり人間よりも存在を重視する存在論的転回だった。 更に、その存在については、存在了解(存在理解)から存在の生起へというケーレを重ねている。(“有の了解から有の生起へ”『形而上学入門(全集版:補説)』) 四方界 <Geviert>について “元有の真理を、われわれは、世界が世界するはたらきにおいて思索し、 天空と大地、死すべきものどもと神的なものどもからなる四方界の反照-遊戯、ととらえた。” ― 『ハイデッガー全集 第79巻 ブレーメン講演とフライブルク講演』 p93 >>13 天空、大地、人間、神々 \ (1) / \ / (2) X (3) / \ / (4) \ (1)空 SKY (2)人間 MORTALS (3)神々 DIVINITIES (4)大地 EARTH ― 『ハイデガー(FOR BEGINNERSシリーズ)』 p147の図 人間 ↑ 大地 ← E → 世界 ↓ 神々 Eは Ereignis(性起)または Erklüftung(裂き開き) ― 『ハイデッガー全集 65 哲学への寄与論稿』 p335の図 >>13 <Geviert> 四方界(四方域)の解説 ・『現代思想 2018年2月臨時増刊号 特集=ハイデガー-黒ノート・存在と時間・技術への問い-』 (1)グレアム・ハーマン「大陸系実在論の未来:ハイデガーの四方界」“四方界こそハイデガーの最高の発見” (2)村井則夫「自性態と四方域:後期ハイデガーにおける概念的思考と像論」 ・神尾和寿「ハイデッガーにおける「四方界(Geviert)」の思想の可能性と限界を巡って」(2001) ・試論:四方域[Geviert]の範疇論的解釈に至るための準備 http://trounoir.ohitashi.com/geviert.html ・鈴木哲「四方域の思惟への道 ハイデッガーの新たなる世界思惟」(1995) https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy1952/1995/45/1995_45_252/_article/-char/ja/ ・秋富克哉「技術時代に死すべき者たちとしてこの大地の上に住む : ハイデッガーの技術論再考」(2013) https://www.jstage.jst.go.jp/article/rsjars/87/2/87_KJ00008912632/_article/-char/ja/ ・辻村公一 『ハイデッガーの思索』「八 或る一つの東アジア的見地から見たハイデッガーの世界の問 ―集-立と四方界―」 (1991) ・グレアム・ハーマン 『四方対象: オブジェクト指向存在論入門』 (2017) 四方界関連 ・『ハイデッガー全集 79 ブレーメン講演とフライブルク講演』〈1949、1957〉 >>13 ・『ハイデッガー全集 65 哲学への寄与論稿-性起から(性起について)-』〈1936-38〉 >>14 ・『ハイデッガー全集 4 ヘルダーリンの詩作の解明』〈1936-68〉 ・『ハイデッガー全集 39 ヘルダーリンの讃歌』〈1934-35〉 ・『ハイデッガー全集 52 ヘルダーリンの讃歌『回想』』〈1941-42〉 ・『ハイデッガー全集 53 ヘルダーリンの讃歌『イスター』』〈1942〉 ・『ハイデッガー全集 75 ヘルダーリンに寄せて』〈1942-43〉 ハイデガーとナチズム関連 (1)『ヒトラーと哲学者 哲学はナチズムとどう関わったか』 イヴォンヌ・シェラット (2015) (2)『ハイデガー哲学は反ユダヤ主義か 「黒ノート」をめぐる討議』 ペーター・トラヴニー (2015) (3)『ハイデガーとナチス』 ジェフ・コリンズ (2004) (4)『ハイデガーとナチズム』 ヴィクトル・ファリアス (1990) (5)『ハイデガー哲学とナチズム』 トム・ロックモア (1999) (6)『ハイデガーと「ユダヤ人」』 ジャン‐フランソワ・リオタール (1992) (7)『アーレントとハイデガー』 エルジビェータ・エティンガー (1996) (8)『哲学とナショナリズム ハイデガー結審』 中田光雄 (2014) (9)『他者なき思想 ハイデガー問題と日本』 浅利誠 (1996) ドイツのハイデガー専門家の多くに物が壊れる色々な 映像を見せて判定させれば、日本語側での解体と 破壊どちらが原語のイメージに近いかある程度 客観的に判定できるだろうね ハイデガーの優れた部分というのは、『存在と時間』という代表作以外の著作群のなかに あるのかもしれない。 Sein und Zeit (1927)『存在と時間』 Hölderlins Hymne »Der Ister«(1942)『ヘルダーリンの讃歌「イスター」』 Nietzsche (1961)『ニーチェ』 『存在と時間』が書かれたのは37歳の時。 『ヘルダーリンの讃歌「イスター」』が書かれたのは53歳。 『ニーチェ』が書かれたのは72歳。 哲学史で注目されている『存在と時間』は、まぎれもなくハイデガー初期の作品。 円熟期の著作こそ、すべての哲学者の中核的・根本思想であるから、『存在と時間』の根 本テーマがどれほど優れたものであるにしても、それはハイデガー初期の思想過程に過 ぎないということでしょうか。 ハイデガーの提示する「永遠の動態」とヘルダーリン。 「永遠の動態」と「存在と時間」の関係・・・ 加藤智大から青葉真司へ・・無敵の人を繋ぐ「媚」の構造を少女達が断罪する 少女達と無敵の人による或る秘めやかな「性的儀式」 無敵の人3.0 POST HUMAN SEXと 量子的シンギュラリティに関する最終報告 https://ncode.syosetu.com/novelview/infotop/ncode/n3344fs/ 👀 Rock54: Caution(BBR-MD5:0be20a4887bc3d3353f527d3636c44e3) 「死への先駆」の自覚から、「良心の呼び声」が自己の内部からいろいろと聞こえてくる。 「良心の呼び声」が、「自己にふさわしい可能性に向ってこえ出ようと」欲する。 「投企(企投)」:M.ハイデガーの Entwurf,J.P.サルトルの projetの訳。 投企 https://kotobank.jp/word/%E6%8A%95%E4%BC%81-103267 「存在論のすべての命題はアプリオリであり存在者ではなく存在にかかわらねばならい。存在は、存在者とのすべての出会い・存在者の了解に先立って理解されるべきであるからだ。 ハイデガーはこの、哲学はアプリオリという考えを、時間がアプリオリのソースとして機能するというユニークな概念化と結びつける。」 ワンダーウーマンのアレスってハイデガーを意識してると思わない? ハイデガー自身は言及していないと思うが、彼のいう人間の(現存在の)「本来性」には、 心理学者のV.E.フランクルがいう、すべての人間に潜在する超越的存在(神・天・仏など) への志向性が、重要なものとして含まれているのではないか。 「ハイデガーと宗教との関わりは微妙である。微妙であるだけにまた研究の興味をそそる テーマともなる。端的にこれを表明すると、ハイデガーは無神論者か、という問いとなる。 肯定と否定、いずれの主張も可能であり、いずれとも決し難いところに微妙という評言の 意味がある。」 ※ ハイデガーと宗教 https://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/kiyou/pdf10/10-049-060-Asano.pdf 舟木亨『現代哲学への挑戦』という本を読んでいます。 前期ハイデガーの存在論について書かれた、下記の部分について質問したいです。 …… 現存在の特徴は、世界のうちにあって、世界のなかの他者や道具に心を奪われているという事態、「頽落」です。 これが「人間」と呼ばれるものです。しかし、人間は、他者や道具を失う場合とは異なって、世界そのものの無について、漠然とした不安を抱きます。 これが「わたしはある」とはどういう意味か、という問いのもとになります。 …… 私は「世界そのものの無について、漠然とした不安を抱」いたことなんてないように思うのですが、 その不安は多くの人が感じているものですか。 また、その不安は例えばどういう時にどんな風に感じるものですか。 >>28 思春期とか、自分の死を意識する出来事とか。 >>29 自分の死は自分が死ぬだけで世界そのものの無と違うんじゃないの? 世界そのものの無って、アンゴルモアの大魔王が降ってきて人類滅ぶみたいなこととも違うんでしょ? (年齢ばれそうな例えだがその頃ちょうど思春期だった) ハイデガーの存在論を一通り知っておきたいので 世界そのものの無に対する不安とやらを知っておきたい >>31 完全な中二病、というより小五病ぐらいだな。 君のことじゃなくて、ハイデガーのことね。 そうなの・・・? じゃあ、理解できないかもしれない 残念だ 「世界が全部消えちゃったらどうしよう?」っていうのが 世界そのものの無についての漠然とした不安? >>28 ニヒリズム - wikiより ニヒリズムあるいは虚無主義(きょむしゅぎ、英: Nihilism、独: Nihilismus)とは、この世界、特に過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場である。名称はラテン語: nihil(無)に由来する。 >>30 世界が消える事と、自分が消える事。 自分の視点からは全く同じ現象だぞ。 >>36 それは主観と客観の混同だ。 主観の世界が消えても客観の世界は残るが、客観の世界が消えれば主幹の世界も消える。 >>37 貴方が客観としているそれも、主観の一部ですから。 >>38 ハイデガーを含めて、観念論者のそういう妄想がバカにされる。 すべては主観だと思うなら、目の前のコーヒーカップを主観の力で30pほど動かしてごらん。 主観の中なんだから自由自在だろ? まあ、顔を少し横に向けて、ほら30p動かした、というのが精一杯だろうw >>39 何の話してるの…? 手を使って30cmほど動かせばいいんじゃ…? >>40 世界はすべて主観なんだろ? なんで手を使う必要がある? >>41 主観ってそういう事じゃない。 世界と自分との境界は明確でない、という意味だよ。 後、貴方は質問者じゃないよね。 邪魔。 >>42 世界と自分との境界は明確だ。 明確じゃないというなら、そのあいまいな部分を主観で動かしてみろよw 言うは安し行いは難しの立場でやってみろと言える資格はないな >>44 >言うは安し行いは難しの立場 それ君たち観念論者のことだよw >>46 ハイデガーは言葉が現実だと思ってる。 愚かなことだ。 >>35 ハイデガーはニヒリズムではないし 世界そのものの無への漠然とした不安はニヒリズムではないと思うけど どういう意味でニヒリズムの説明をしてくれたの? >>49 今よんだ ハイデガーは積極的ニヒリズムの人ってことね 消極的ニヒリズムしか知らなかった ハイデガーを読んでる皆さんは、存在のヤバさについてよくわかっていますか そんなこと答えられるわけないだろ。 それがハイデガー。ごまかし専門。 >主観ってそういう事じゃない。 >世界と自分との境界は明確でない、という意味だよ。 主観と客観の問題は、境界が明確か明確でないとかの問題ではない。 そこがハイデガーのずるさと限界。 大事なのは主観と客観の関係 自分以外(人間以外?)のものは道具として認識されてるっていうけど、自分(人間)も道具じゃないの?と思う 自分(人間)とその他の存在の明確な違いってある?ハイデガー的に >>55 道具であるかないかを論じるなら、道具の定義が必要。 最近よく質問してる者だけど誤爆しましたスマソ >>57 ちょっと手持ちの本読んで考えてる ハイデガーの「死への先駆」で自分を奮い立たせて生きようと思うのだが、なかなかうまく いかない。 膵臓にがんになった渡邊二郎氏(ドイツ哲学の研究者・東京大学名誉教授)は「先駆的決 意性」をもって、生まれ変わったように生きるが、私も渡邊二郎氏のようになりたい。 メメント・モリ、または先駆的決意性 http://www.homo-contribuens.org/wp/wp-content/uploads/2016/04/thesis_taki_013.pdf 森 一郎(1962年- 渡邊二郎の高弟 和辻哲郎文化賞受賞) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E4%B8%80%E9%83%8E_ (%E5%93%B2%E5%AD%A6%E8%80%85) >>28 >私は「世界そのものの無について、漠然とした不安を抱」いたことなんてないように思うのですが、 >その不安は多くの人が感じているものですか。 >また、その不安は例えばどういう時にどんな風に感じるものですか。 多くの人は感じたことはないでしょうね。何か契機があれば感じますよ。ガン告知で入院し、 自分がもしかしたらあと数カ月で死んでしまうかもしれない、とか。何か自分が生を受けた ことの使命を感じたときとか、生きている間にこれをやっておかなければならないと感じた とき。死はいつでもやってくるもので、実は今このときもそうです。そのときに初めて本来的自己 とは何か考えるようになる。雑音が入らなくなる。 会社で出世すること、人並みと呼ばれること、勝ち組の仲間になること、空気が読めること、 ・・・等々、いかに自分が本来性を忘れていたかに初めて気が付く。 良心の呼び声はそういう‘人並み’等々に引き摺られていく頽落から抜けさせる自己なんです。 しかしそういうことに気が付くことは難しいです。有る、の意味を問うというのはそういうことでし ょう。 >>64 がん患者である渡邊二郎氏のような死の現実性と必然性には遠く及ばないが、ハイデガー は「ピンピンして老病の翳など微塵もないうち」(森一郎氏)でも、「可能性への先駆」で「先 駆的決意性」を持てると言っている。(『存在と時間』第一部第二篇第一章第53節) 渡邊二郎氏までとはいかなくとも、「可能性への先駆」で充分に生を充実できるのだ。 1: マルティン・ハイデガー6 (68) 2: 【あずま】東浩紀528【システム】 (743) 3: う ん こ 製 造 機 お じ さ ん 板 (1) 4: 無 職 と 哲 学 (425) 5: 波 平=禊 の ス レ 上 げ タ イ ム (88) 6: ■■■しぬ気で頑張れ!ヒキオナニート禊健太郎!!■■■ (117) 7: 引 き 篭 も り お じ さ ん 板 (510) 世界の無は、最近なら天文学に思いを馳せると 分かりやすいのかもしれないがどうかね 昔なら生物進化史とかか 両方とも、ヤバイと感じさいなまれる ハイデガーの訃報かと思ったら、宍戸錠だったんですよ〜 >>52 >存在ってなに? >>53 >そんなこと答えられるわけないだろ。 「存在」とかいうと、何だそれ?、になる。哲学翻訳の弊害でもあると思うが、もともと存在とは 何かがあること、でしかない。しかしその何かがあること、について、考えをめぐらし、生と 一つなのではないか、ということを考え詰めてきたのが思索であり亦哲学でもある。 「存在と時間」という名称を絶対化すると何が何だか分からないが、 「(何かが)あること-と-時間(の関係)」だとするとまだテーマは分かり易い。 あの本を開けば冒頭に本の主題が手短に書かれている。その「有ること」や本来性が 「(何かが)有ること」との関わりとして書かれていく本。 >>71 >マルクスの史的唯物論をよめ! 因みにマルクスの言葉「哲学者は世界を解釈してきたが、大切なのは世界を変えること である」にたいする批判をハイデガーは試みている。〈世界〉を有るものもしくは有るものの集積だ とするのか、それとももっと別の意味を汲み取ることができるのか。マルクスはそこが曖昧で ある。そこから思考の混乱が生の混乱が起因する。 実際マルクス主義では政治制度・社会制度を変えることばかりが重要視されていき、他の 視点は取れなくなっていく。変革における倫理もないがしろにされていく。一人の生も ないがしろにされていく。そういうところに穴ぼこが開いて、後に批判されていくようになった。 >>74 曖昧といえば、ハイデガーの「有」ほど曖昧な概念はないね。 哲学史上最大の曖昧な概念だ。 >>75 >曖昧といえば、ハイデガーの「有」ほど曖昧な概念はない いや。単に「あること」を縮めただけにすぎない。「有」訳は自動詞「ある」の名詞型にすぎない。 そこで派生していると分かれば何と言うことはない。実際「有」訳を読めばそこの辺は視えてくる。 道元と同じだと流布され、あたかも道元を知らなければ有も分からないかの如くされている のが「有はむずかしい」の根拠。道元など知らなくとも上記の理由で読める。 >>78 だからさ、それが無意味だといってる。 有るものはある、無いものはない、それだけのこと。 「有」一般などというものはないんだ。 有るとは、常になにものかであるということ。 マルクス主義の限界といいつつ、ハイデガーはかなりしょぼいユダヤ陰謀論信じてたからなあ ハイデガーはその後期の講義録『ニーチェ』のなかで、「存在者の根本性格は悲劇的性格で ある」と述べているが、どうであろうか? これは『存在と時間』のなかでは語られなかった洞察だ。 (『ニーチェ』 第二講「同一物の永劫回帰」 第4章「悲劇ガ始マル」) >>82 ヘーゲルやマルクスが指摘した弁証法的存在ということに過ぎないんじゃないか? 客観的な言いかたと、主観的な言いかたの違いはあるが。 >>83 >客観的な言いかたと、主観的な言いかたの違いはあるが。 反証決定されない前者は非論理、非科学ないい方であり、 後者は主体的な論理、科学だ。 だが反証決定されるそれは逆だ。 >>84 >後者は主体的な論理、科学 主観(感情)の吐露、という意味では科学として扱うこともできるが、論理ではない。 「悲劇」という言葉を「喜劇」に替えても、「有」に替えても「無」に替えても、言葉の整合性に問題がでないからだ。 つまり、ただ言葉を当てはめているだけということになる。 >>80 >有るとは、常になにものかであるということ。 それは〈有ること〉についての一規定であって、現象学をそこで思い起こせばよい。 「何かがある」「何かである」という場合、「何か」「(何かがあると言明する主体)」「何かを直観 する対象化」という3つがある。 「何ものか」だけに照明を当てるしかしないとなれば上記のような、「何ものか」だけにしか 視点が行かないことになる。そうなると事態を正確に視てはいない、ということになる。 実際には直観においては視る主体が先に有る。視るからには誰かが有らねばならない。 人間が先に有らねば何もない。対象化する人間(誰か)がいなければ対象もないのだよ。 そこがなければ学問もなにもない。研究者も人間だからね。 そこで〈有ること〉とは何か、に問題を移すことには必然がある。むしろ学問以前の問いと して起こる必然がある。現象学の先行領域として有の問いがある。有の問いに現象学が 含まれるとするのも当然だとなる。現象学は当時の学問をさらに事態に即して発展させよう とした。学問の基礎付けとして。しかしそこに謂わば噛みついたのがハイデガーであり 有の問いなわけだ。 >>82 >ハイデガーはその後期の講義録『ニーチェ』のなかで、「存在者の根本性格は悲劇的性格で >ある」と述べているが、どうであろうか? これは『存在と時間』のなかでは語られなかった洞察だ。 >(『ニーチェ』 第二講「同一物の永劫回帰」 第4章「悲劇ガ始マル」) そこを正確に引用するとこうである。 《悲劇が始まる。如何なる悲劇か。答え、それは有るものそれ自身の悲劇である。しかし ニーチェは悲劇ということで何を意味しているのか。悲劇は悲劇的なものを歌う。この悲劇的な ものをニーチェは彼の言うところの悲劇の始まりからしてはじめて規定していることを、我々は 認識しなければならない。回帰思想の思惟とともに悲劇的なものそれ自身が有るものの 根本性格となる。歴史的にみれば、「ヨーロッパにとっての悲劇の時代」(『力への意志』、第37 番、および第16巻、448頁)の始まりである。ここで始まり起こっていることは、大いなる静けさ のなかで起き、長い間、そしてたいていの人には覆蔵されつづけている。その歴史については 何も歴史書には記載されることはない。》 ハイデッガー全集第6-1巻 ニーチェ T 240頁 「悲劇が始まる」 すなわち《悲劇的なものそれ自身が有るものの根本性格となる。》とはニーチェによる時代規定 また有るものの規定、であり、何故そのように言わなければならなかったのか、がこの節での思索 となる。ニーチェの思想解読がここでの作業である。 《何故、永劫回帰の思想は最高の肯定であるのか。なぜなら、この思想は究極の否定、 殲滅と苦悩を、有るものに属するものとして、肯定するからである。それ故、この思想とともに 初めて悲劇的精神が、根源的かつ全体的に有るもののなかに立ち現れるのである。「悲劇が 始まる」とニーチェは言う。しかし、「ツァラトゥストラが始まる」とも言っている(『偶像の黄昏』、 第8巻、83頁)。》 ハイデッガー全集6-1 ニーチェ T 242頁 >>87 なので「有るものの根本性格としての悲劇」、ということにはニーチェ解読作業と一つの意味が ある。つまりニーチェから引用なしでハイデッガーが編み出した命題ではない。よってこれが 『存在と時間』では語られなかったのは当然といえば当然。『存在と時間』はニーチェ解読作業 ではないから。ニーチェを読みながらニーチェを有の思索の先行者として読んでいくのが ハイデガーの『ニーチェ』。悲劇的なもの・有るものの根本性格、というのもニーチェから 受けついでいった概念。 命題を書かれた文脈から切り離して読んでしまうと訳が分からなくなる。本の読み方は 大事。 >>86 君の文は、主観(主体)と客観(客体)がごちゃごちゃになってる。 現象学というのがまさに主客の混同から生まれた哲学。 結局収拾がつかなくなって、人間の態度の問題という主観の海に沈んだのがフッサール。 ハイデガーは、無意味な存在一般なるものを想定したが、同じく主観の海に落ちてしまった。 「存在」といっても「有」といっても、そこに神を見出したかっただけともいえる。 哲学者ではなく、宗教家であり、処世家であると見られることが多いのも理由のないことではない。 >>88 「もし『存在と時間』の下巻が書かれていたら、そこには案外ニーチェ由来の概念が溢れたか もしれないのである。」( 木田元著『ハイデガーの思想』 P.130) >>66 感じてみたいような 恐ろしいから避けて通りたいような 965 :名無しさん@ピンキー :2020/02/27(木) 13:37:10.93 ID:7J/vrkgZ 数少ないチャンスからレスを脱却したいと思ってるんだけどセックス中って女性がノリノリだとひく? 旦那が淡白な上にEDだからお薬飲まないと出来ないんだけど、仕方ないことだとわかってても1年に1回は正直辛い でも1人でしてる形跡があるからセックス>オナニーになるように仕向けたらレス解消になるかもしれないと思ってる フェラとか腰振り練習したらもう少しセックス好きになってくれないかな? EDだからこちらからは誘えないし生殺し状態だわ デリダの「戯れ jeu」、ハイデガーの「遊動 Spiel」の背景にあるニーチェ+ヘラクレイトスの「戯れる子供 pais paizon」。 解体/構築が対で見られる。 “いかなる道義的な責任もとわれることなく、永遠に変わることなき無垢のまま、生成と消滅、建設と破壊を営むものは、この世においてはただ芸術家と小児との遊戯のみである。 そして小児や芸術家が戯れるように、永遠に生ける火が、無心に、戯れ、築き上げ、崩してゆく――そしてこの遊戯をみずからと戯れるのがアイオーン〔永劫の時〕である。 彼は、水や土に身を変じながら、小児のように海浜に砂山を築き、築き上げるかと思えば崩してゆく。 往々にして彼はこの遊戯を最初からやり直すことがある。満足したと見えるのもつかのま、欲求が芸術家を創作に駆り立てるように、欲求が彼を襲う。傲慢ではなく、繰り返し新たに目覚める遊戯衝動が、他のもろもろの世界を生み出すのである。 小児は一度は玩具を放り出すが、やがてまた無邪気な気まぐれでそれを取り上げる。しかし築くとなれば、子供は、法則に従い内なる秩序に従って結び合わせ、繋ぎ合わせ、形づくってゆく。” ― ニーチェ 「ギリシア人の悲劇時代における哲学の誕生」 『ニーチェ全集 2 悲劇の誕生』 ちくま学芸文庫 (1993) 7節、p389 井筒の「存在-神-論(Onto-Theo-Logie)」は、 老荘+ハイデガーの現象学的存在論+デリダのロゴス中心主義の解体。 “真昼時――地上の万物がそれぞれの輪郭線を露出しつつ キラビヤカに浮かびあがる光の世界――に、 どこからともなく夕闇の翳りしのび寄ってくる。 事物は相互の明確な差別を失い、浮動的・流動的となって、 各自本来の固定性を喪失し、互いに滲透し合って次第に原初の混沌に戻ろうとする。 有分節的世界が己れの無分節的次元に回帰しようとする両者の中間に拡がる薄暮の空間、 存在の深層領域が、人々の好奇心をさそう。 地上の一切が真の闇の中に没して完全に無化されてしまう直前のひと時の暗さには、 何か言いしれぬ魅惑がある。” ― 井筒俊彦 「監修者のことば」 (エラノス叢書 『一なるものと多なるもの〈1〉』(1991) >>97 遊ぶ子供の声きけば わが身さへこそ揺るがるれ ミシェル・フーコー @M_Foucault_jp 実に逆説的ながら、ハイデガーはフランス人にはあまり難しくはない。 言葉がどれも難解な時、我々はハイデガー理解のための まんざら悪くない立場に置かれているのです。 『存在と時間』は難しいが、もっと新しい彼の著作はそれに比べるとわかりやすい。 −真理・権力・自己− 重要なのは、現存在の時間性と時間の配慮、配慮される時間と内時性、内時性と、通俗的時間概念の成立、時間性、現存在および世界時間の実存論的=存在論的連関と、 時間と精神の関係についてのヘーゲルの見解との対照、現存在の実存論的=時間的分析論と、 存在全般の意味への基礎存在論的な問い、である。 第二編 第六章 第78節 ミーハー根性でガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』を読もうとしてるけど 当然ハイデガーの存在論はおさえとかなアカンねやろな >>105 まったく不要。 ガブリエルは反ハイデガーだからという意味では、読んでおいた方が面白い、という程度。 『新実存主義』 岩波新書 (2020/1/23) マルクス・ガブリエル “ガブリエルがべつの本で述べた「世界は存在しない」という言葉は言いえて妙だろう。 彼にとって「世界」は(自然科学の研究対象である)「宇宙」と意味が異なる。 ハイデガーの響きをもつこの言葉が表すものには、決まった限界がない。” ガブリエルがハイデガーから継承した問題系 ハイデガー「存在論」 → ガブリエル「存在論的還元」 ハイデガー「世界(-内-存在)」 → ガブリエル「世界(は存在しない)」 Entre autres épisodes, l'histoire du renégat d'Avignon, recueilli charitablement par un Juif qui lui fait confiance, lui révèle ... Le cas d'une conversion d'un chrétien au judaïsme ne s'étant jamais produit à Avignon, à notre connaissance, nous ... ハイデガーなんて、もう古いなあ。 未だに崇拝して読み解釈する人なんているのかね? 少なくとも次世代を担う若者世代には、ハイデガー難関哲学書なんて見向きもされていない。 実際に全く必要無しであり、難関なる文章を自身解釈して優越に浸る時代ではない。 全共闘世代がマル経(左翼思想を語るのがインテリ)に酔いしれた時代も、もう過去のものだよ。 存在と時間なんて読めば読むほどわくわくするじゃないか。 存在論を三つの側面からえぐりだそうそしたやつなんて、いなかったからねえ。 基礎存在論 領域的存在論 本来の存在論 ハイデガーではないけど、同じ本のドイツ語翻訳と中国語翻訳を 相互参照しながら眺めていると、結構、認知リソースを大量に 消費する。 >>113 中でも基礎存在論というものは準備段階として必須の了解事項だ。 現存在ではない存在性格をそなえた存在者を対象とするもろもろの存在論が、前存在論的な存在了解という性格によって規定された現存在そのものの存在者的な構造のうちに基礎づけられる、そのような存在論を基礎存在論という。 >>117 そう、ハイデガーは哲学で神の存在を示したかったが、失敗した。 >>118 あのころの西洋人ってそんなものでしょ。 20世紀の哲学者というのは神を乗り越えていない。 >>120 マルクスの思想に神は影響しなかったのか? 奴こそ実は神を極度に意識していたんじゃないのか? 俺はマルクスに関してはよく知らん。 >>121 まったくないw すでにフォイエルバッハが宗教の本質を論じ切っていた。 >>122 キリスト教の本質は図書館で読んだが、新訳希望だ。 >>110 読みづらいのをなんとかすれば、いい本じゃね? 現在におけるドイツ人学生(日本国における留学生も含める)が、ハイデガー哲学を全く相手にしていない現実を、 どう思いますか? まあヒトラーに影響を与えた人物の一人として、子供の頃から教育を受けているのかも知れませんませんが・・・・。 現在の日本の学生が西田哲学を全く相手にしていない(相手にできない)現実と同じだろうな。 最近の哲学科の学生の学位論文は誰を扱うのかな。 そういう傾向は知らない。 読解力が落ちている、という話はきくので、ハイデガーの原文にあたる人などいないだろうか? もちろんわたくしも原文では無理です。秀才ではないので。 >>130 哲学科自体が存立できないだろう。 いくつかの国立大学では、かろうじて職業利権として残るだろうが。 結局、愛好家のための翻訳業になるしかないが、自分でも意味が分からない文章を翻訳するのはストレスがたまるだろうな。 書いてる本人すら、意味が分かってるとは言い難いようだし。 >>132 まあ別に個人的には学科として消滅しても構わないんですがね。 本人すら意味をわからずに書いている、というのは当たっているかもしれない。 哲学者は悪文が多いとおもう。 淘汰されつつある時代なのか、どうなのか。 >>126 ドイツで高等教育を受けたような人は、日本人の想像以上にナチスの問題には敏感で、 公の場では、ナチスに関連するような一切の話題について避けたり否定しようとする。 その一方で、ドイツ人は「日本学をやるのに日本人はいらない」と言う。 何をするにもそれぐらい割り切れる方がいい。 1889年生まれ ハイデガー ヒトラー ウィットゲンシュタイン(ユダヤ系) 1844年生まれ ニーチェ(ヒトラーはニーチェ思想を、偏った自己解釈で心酔) >>136 『エリーザベト・ニーチェ 〜 ニーチェをナチに売り渡した女』 (1994) ベン・マッキンタイアー “ムッソリーニと違い、ヒトラーは最初から最後まで、 ほぼ間違いなくニーチェの著作を一語たりとも読んだことはなかった。”(第八章) ニーチェの妹エリーザベトが、兄の著作を改竄し、 ナチスの思想的バックボーンとなる「ニーチェ神話」を作り上げたという。 ニーチェの胸像を見つめるヒトラー http://inri.client.jp/hexagon/img/nietzsche_hitler_b.jpg 「ニーチェ資料館」でヒトラー(左)を迎えるエリーザベト・ニーチェ(中央) http://inri.client.jp/hexagon/img/Elisabeth_Nietzsche_hitler.jpg エリーザベト・ニーチェ http://www.tagesspiegel.de/images/tagesspiegel/14912364/1-format530.jpg 自ら本を開くこともなく、自分の好き嫌いに周囲の同調を求めるような奴がヒトラーみたいになるんだよ >>138 哲学の問題として考えるなら、好き嫌いとはなにか、ということだろうね。 自分の利益とか社会的な評価とかの高い方を好む、という傾向はあるけど、無関係だったり逆だったりすることも珍しくない。 これは心理学の範囲で解明できるんだろうか? >>133 人は考える、というより、考えてしまう。 言葉だけで考えていくと、言葉のつながりが正当性の根拠のすべてになってしまう。 哲学が自然科学(自然哲学)を離れたときから、哲学の崩壊が始まった。 哲学は「悪文」であることによってしか、存在価値を見いだせなくなっている。 もめてる場合かよ。 ハイデガーは、世界に内側をみた、ということだな。 なぜか内側にこだわる。 俺はこだわらない。 俺もお前らも、なんらかの内側にいるのだろうか。 俺はベン図の中にいない存在者の存在を了解しているはず。 ヴェルトツーゲヘーリヒなんだな、世界に帰属する感じ。 全単射じゃないと満足できない。 なあ、ハイデガーよ。 >>119 >>118 ハイデガーはサルトルと同じく無神論的実存ですよ😃 サルトルはマッハたたきとかできないけんかっ早い文学者プルーストが王道。哲学においても。失われたときをもとめてね。 ハイデガーは何がしたかったのかというと 人間存在の全体の輪廓を描こうとしたのです✨🎵 無神論者ほど実は神が好きだということに気づかないと駄目。 ハイデガーは神大好きだから。 >>152 適当なことを言うな。 殺すぞバカ野郎! > 一方、1921/22年講義「アリストテレスについての現象学的解釈」では > 「たとえ私が哲学者としてありつつ、宗教的な人間でもありうるとしても、 > 哲学することにおいては宗教的にふるまうことはない。」 > 「哲学はその根底的で自立した問いかけの態度においては、 > 原理的に非神論的(a-theistisch) でなければならない」と語られた。 >>153 後期のヒューマニズムに関する著作を全集で読んでごらん。 俺も全集は図書館でしか読んだことないから、引用はできないが。 原理的に非神論であることが即、無神論を付帯させるわけではないとおもうなあ。 >>149 ハイデガーは神を信じ、神の存在を証明しようとした。 教会管理人の家に生まれ、大学で神学を学び、スコラ哲学の研究家でもあった、 自らを「神秘に根を下ろしている」と評したとも伝えられる。 「無神論的実存」とか思う根拠はなに? >>153 非宗教的に振る舞って哲学的に神の存在を証明しようとして、失敗した。 >>155 ハイデガーの思想は無を重点においてましゅ。 >>155 神秘はヘルダーリンの詩へと進みました。👩 宗教哲学の祖シュライエルマッハーの影響で ハイデガーは宗教から哲学に移行した。👩 ハイデガーはプロテスタントのプルトマンと仲良くしてたけど宗教的立場はハイデガーはわりと自由な立場😃 神学から存在論へ移行した。👩 ハイデガーはヘルダーリン詩へと古代ギリシャの神々をいう キリスト教の神ではなかった。👩 霊的か関わりの無い女神の性格を知ろうとギリシャ語のアレーティアを語源の探求した展開したハイデガー😃 つまり、追思考と始元では神学と哲学を分けてた。👩 それを真理と一語で示してた。 その探求したハイデガーの哲学にハイデガー哲学の性格が現れている ハイデカーは神秘系で宗教は才能ないよ。クレオパトラの神秘にかなわないよまだ。 >>159 >>160 根拠があれば書いてごらん。 サルトルは「無」がないことを証明したけどね。 >>151 違うよ。 すべての存在の中の人間の位置づけを解明しようとして、失敗した。 >>163 違うよ。 移行じゃなくて取り込もうとした。 >>164 ハイデガーの神はキリスト教の神だよ。 スコラ哲学の研究を読んでごらん。 >>167 まだ居ったんか ハイデガーお宅の有名だった変人の君わ。👩 1921年の講義では 「たとえ私が哲学者としてありつつ宗教的な人間でもありうるとしても 哲学することにおいては宗教的に振る舞うことはない」 >>176 それが、宗教を哲学で証明しようとした、ということだよw ハイデガーの「存在」わ「神」のようなものと考えてはなりません。👩 存在そのものと人間には深い関連がありましゅ ↓↓↓↓ 人間は時間と深い関連がありましゅ ↓↓↓ だから、存在そのものと時間にも深い関連がありましゅ 「存在」が照らす光り →舞台を照らす 照らすと 机や椅子が見える→「存在者」 ハイデガーは 存在するとはどういうことか 何故 無ではなく 何かが存在するのか という思索 存在だなんて、この世に「自分自身が生きている」ということだけのことじゃぁないかW 存在 こんなのググるか、分厚い広辞苑での意味で十分だわW こんな意味を「時間」かけて、「時間」の意味を探究する「時間」のある学者が羨ましいわW 507 :優しい名無しさん :2020/04/10(金) 01:40:48.12 ID:sqzqC1x/ 馬鹿か美魔女とかいうやつ フン族のアッテラの拷問の数々のほうが上じゃないの。 >>180 いや、ハイデガーの「存在」は「神」のことだよ。 >>181 >>182 その「存在」とはなんなのか、という議論をしてるんだぜ? >「存在」が照らす光り それはね、太陽光やLEDだよw 「存在者」というのは、「もの」のこと。 アッテラにちるさハイデカー信者は総長や学長なんて事実じゃない。 >>194 「今。何処に」居るが解る存在の仕方を現存在という。👩 後期ハイデガーはヘルダーリンの詩作のみ通して宗教的なものを探求した。👩 ヘルダーリンのいう神とはキリスト教の特定の神とは違うもの😃 ハイデガーは「不安」が人々に自分の存在の確かさを与えます😃そこから人生の意味も出していく。👩 と サルトルの「嘔吐」 つまり吐き気をもよおすようなこの馬鹿げた世界であらゆるものが無意味。👩 しかし人間は無意味に生きることには耐えられない✨ 進化論は実験や観測によって実証することのできない仮説であり1つの解釈に過ぎません。👩 少なくとも生物学者はこの事を知っていましたが それが一般大衆に入った段階で 進化論は事実だと吹き込まれました。👩 進化論は人間が無生物の状態から偶然の変化のつけ重ね 人間が今存在してることに目的意味を見いだすことは出来ません。👩 >>203 サルトルはそんなことを言っていない。 現状にからめとられる自分に嘔吐し、そこからの実存(社会参加)を探っている。 >>204 >>205 神の存在とは関係があるかもしれないが、哲学とは関係がない。 ハイデガーの神とは ヘルダーリンの神々 ハイデガーの思想の究極とは 無 ハイデガーは講義で方法的無神論という立場を説明している。👩 ハイデガーの問い 我々は如何に共に生きるか。 我々は世界でどう方法で遭遇するのか。👩 創文社の全集を東大出版が引き継いだが、 有だの現有だのというあの読みにくい糞訳もそのまま引き継がれるのかね? だからもしおまえが数学だいすきな馬鹿なら、数学のあの内輪にだけ通じる記号の羅列をどうにかしろよ、退屈なんだよ。 λだのℏだの∇だの、略すな、日常語で書け。 同じことだ。理系にはハイデガーは読めない。 ハイデガーのダスマンと言う主張は良かったと俺は思っている。 なんつーの?死と言うのを構想して、そこから人生を生きる と言う考え方は 仏教思想の一日一生に類似していて、割と受け入れやすい考え方なんじゃないかと思うわ。 マルティン・ハイデガーよりもヘーゲル派だけど、 ハイデガーは思考の遊戯とかじゃなくて、しっかりと生き方に言及 しかもその言及の仕方がみんなでも受け入れやすい方法でしているってことで評価できる。 だが空間と時間 あれって誰も理解できねーだろってくらい難しいやろ 自分の思想を著すんであればもっと簡単に書けないものかと思う。 実際結論を書くうえで、それに積もり積もった理論というものを全て書き記すのであれば それらを構築する上で、ロゴスの厳密性が追求されるという点もあるから 例えば四則演算という原理を知っているが故に微分積分ができるように、はたまたフーリエ解析ができるように、四則演算は説明されぬ前提として微分積分が語られたりするだろ でも空間と時間の概説って割とシンプルなことを述べているから、その積もり積もったロゴス というのを節約(=オッカムの剃刀)できるんじゃねーのって思うわ。 >>223 数学は決めごとによる組み立て。 決めごとを覚えるには時間がかかるが、人生訓は人それぞれの考え方。 竹内薫とかトンチンカンだもの。ハイデガーや大森を理解してない。 中沢新一くらいじゃないの?あたまいいの。 松岡正剛とかあたまわるすぎの雑文過ぎて意味がない。 浅田彰なんてのは逆に理系学問ぜんぜん知らんでしょう、あれは、過去の遺物。 ハイデガーの文を、なるべく原本に近く訳したものが読みたい。 言葉遊びみたいな訳文は嫌い。 >>229 原文が言葉遊び満載だからあれで正解 (完) 699 :学術 :2020/04/13(月) 13:37:53.98 0 さっき本当に嫌なことがあった 父親がマクドナルドいくから何かいるかと言って 俺はテリヤキが欲しいといった でも父親はそれを忘れていて普通のハンバーガー買ってきた いつもならそれくらいで腹立たんが 今日はイライラしててめちゃくちゃ喚いてしまった ハンバーガーも目の前で捨ててやったそしたら母親が泣き出して 俺もさすがにヤバイと思った父親はもう一回買ってくると言ったが 俺はもういらんわと言って自分の部屋帰ってきた もうすぐ30になる。俺生きてる意味あるのか そう言えば サティなんかはハイデガー読める程の知能は 無かったなあ 514 :名無し@メアド公開チャット誘導厳禁 :2020/04/14(火) 16:36:06.39 ID:Qtwoqov00 バイブもローターもテーブルの上に置くものじゃないですよね。 ちゃんとしまいましょうね。まずショートパンツを膝まで下ろして、 ローターをオマンコの中にしまってあげましょう。もちろんスイッチを いれてです。 バイブはお尻の方かな。入れる前にお口でたっぷり濡らさないと 痛いよ。 出来たら教えて。でないと会社にばらしちゃいますよ。 515 :志穂 :2020/04/14(火) 16:42:07.41 ID:wxTOwfF40 >>514 いまローターを入れています。お尻は、三分の一ぐらいしか入りません。 でもどうしえも痛くて。これで許して下さい。 んで? この人のおっしゃる「空間」「時間」って、何を言いたかったの? こんなの原書を翻訳できたことを誇りに思う学者なんて、もういらないwww 結論があれば、もっと簡単に簡潔にしてもらいたいものだw プッ 867 :なまえを挿れて。 :2020/04/24(金) 15:33:42.80 ID:JbS5/aTo0 職場の上司、8歳上とやった。 俺25、彼女33。 俺、素人童貞だったw 半年くらいやってたら子どもできて、仕方なく結婚。 …したら、意外と結構幸せ。 868 :なまえを挿れて。 :2020/04/25(土) 07:59:15.68 ID:r3XemjrO0 >>867 よかったな、おめでとう 869 :なまえを挿れて。 :2020/04/25(土) 09:42:08.87 ID:EbJnRhME0 >>867 もっと一連の流れを語っていかないか 870 :867 :2020/04/25(土) 12:29:00.15 ID:Z8uw/WzS0 >>868 ありがとう。 正直なとこ、嫌々ながら結婚したんだけど、 子どもは可愛いし、嫁さんが結構家庭的で、家に帰るのが楽しいです。 夜は、拷問受けてますが… >>869 小売大手なのですが、配置換えで現場の子会社へ出ました。 そこで売り場担当の係長だったのが、嫁です。 歓迎会は1ヶ月位してから(皆のシフトが合わずで)して貰ったので、 その時にはみなさんとある程度馴染んでいました。 ほろ酔い加減で帰宅しようとしたら、嫁のアパートは反対側なのですが、 あんた女を夜道に一人で帰らせる気?と怒られ送ることになりました。 いや、普段帰宅時も夜道一人だろ、と思いましたが送りましたよ、はい。 で、上がって飲んでいけとなり、翌日は二人とも休みだからまあいいかと。 で、2時間後、気付いたら嫁が上に乗ってました。 871 :なまえを挿れて。 :2020/04/25(土) 13:04:55.73 ID:UggXaQ0S0 確信犯www 女が使う手 872 :なまえを挿れて。 :2020/04/25(土) 16:03:00.29 ID:4+hCVTxr0 >>870 夜の拷問が気になります笑 >>237 カビとか虫は大丈夫? 同じ工場で作られたものはとても使う気にならない。 「ここにおいてヘルダーリンは、ギリシャ人の本姓は「天の火」,すなわち情熱であり生命性で あると述べている。」 ヘルダーリンの讃歌「ライン」について https://ci.nii.ac.jp/naid/110006163887 日本語は表現に関してとても節約的な言語だ。 あらためて、というか、ようやく気付いたが、 「うら(裏)」の対義語は、「おもて(表)」ではなく、 古くは、「表面」を表す「うへ(上)」だったことが 岩波古語辞典に記載されている。ところで、 実際のところ、「う(浮)く(to surface)」からも 分かるとおり、「う」そのものが「表面」の 様態を表しており、この「う」は、中国語で 皮膚を表すように用いられる「肤(膚)ピンインfū」 を流用したものであると考えることができる。 >「表面」を表す「うへ(上)」だったことが岩波古語辞典に記載されている。 「うへ(上)」の「う」だけで「表面の様態」を表していることが分かると、 「うへ(上)」と「うひうひ(初々)し」の「うひ(初)」が直接に関係している ことに気づき、さらに「うひ(初)」と「うぶ(産)」がつながっていること は直ちに推測できるので、いずれも「う+ふ」という再帰から派生している ことが分かる。 それにしても、よくここまで使い回すものだと驚かされるほど、 日本語は、一音節によって表される様態を多種多様に流用する。 「表面の様態」を表すよう使われる「う」ひとつをとっても みても、「うへ(上)」とそれ対比される「うら(裏)」、「う(浮)く」、 「うひ(初)」、「うぶ(産)」、「う(生)む」、「うみ(膿)」、 「海(うみ)」、「うつむ(俯)く」、「うつつ(現)」、「う(兎/鵜)」、 「うす(薄)し」、「う(失)せ」といった具合にとどまるところを 知らない。しかし、このような節操のなさこそ、日本語だけでなく、 言葉を使うとは一般にどのようなことであるのかをよく表している。 >「うち」もそうなん? どうだろうね。「うえ(上)」と「うら(裏)」が対になっている ことから、「うち(内)」、「うろ(洞)」、「うつ(虚)ろ」など も関連していた可能性は考えられるね。 岩波古語辞典によると「うち(内)」は、古語では「うつ」であった というから、「うつ(内)」と「うつ(虚)ろ」、「うつわ(器)」は 直接につながっているような感じがする。さらに、「うつ」は、 中心的な人物の力で「つつみ込む」ようにニュアンスで使われる ことが多いと説明されているので、この場合は、「う」が 「つつむ表面」を表すように用いられた可能性は考えられそうだね。 誤:「うつわ(器)」 正:「うつは(器)」 それにしても、「うち(内)」について質問されるまでは、「うち/うつ(内)」 と「うつは(器)」の関係は意識していなかったな。 「うつは(器)」にしろ、「うみ(海)」にしろ、その言葉を表現として 使い慣れてしまうと、その表現を対象に付けられた「名」として 捉えてしまうけれど、それが共通の「名」として認識されるよう になるには、名指される対象が「『どのような』もの」であるのか を相手と共通認識する必要がある。その「どのよう」から考えて いくと、表現形成の相互関係が見えてくる。 鬱はなんで「うつ」? 音読み 中ウツ 訓読み △さか(ん) △しげ(る) △ふさ(ぐ) https://kanji.jitenon.jp/kanjid/1950.html >鬱はなんで「うつ」? 「うつ(鬱)」は、「うつむ(俯)く」と関連しているんじゃないかな。 「うつむく」は、「う(地表に)つ(付くように)向く」こと。 depressed (adj.) c. 1600, "pressed down, lowered," past-participle adjective from depress (v.). Meaning "dejected, lowered in spirits" is from 1620s. 「うつむ(俯)く」の「うつ」は、「うつ伏せ」の「うつ」と 共通していると考えると分かりやすい。 専門の言語学者は、表現の意味を扱うことすらできないって知らないだろうw 専門としてそういうことになっている。 言葉の表現は、人が使うのだから、いくら言語学者が権威を主張して みても無駄なんだよ。人は、言葉の表現を使いたいように使う。 専門家が何を言おうとそんなことは気にしない。 言語学にはとても奇妙な自らに課した制約がある。言語学を覗いた ことのない人は、そのことを知らない。 >>256-258 君は言語学を知らないのに、なんでそんなことを断定できるの? 世界の哲学者に人生相談(Eテレ)大嫌いなんだけどハイデガーだから録画してしまった 見ない方がいいかな? 外来的な要素を徹底的に取り除いていけば、本来性が現れると思うのは幻想だ。 なぜなら、本来性は常に外来性との対比によってしか、本来性として現れ 得ないからである。純粋な本来性を求めて、外来の要素を排除していくなら、 最終的には何も残らないことになる。 雨がふ(降)る。暴力をふるふ。タクトをふ(振)る。勇気をふる(奮)ひ立たせる。 これらの表現では、「ふる」という発音が共通して用いられているが、 これらの表現における「ふる」が互いにどのような関係にあるのか、 自明ではない。「ふる」という発音を聞いて、最も一般的に想起される 漢字の表記は、「振る」だろう。しかし、「雨が振(ふ)る」と表記する ことは誤りとなる。 では、「ふる」とはどういう表現なのだろうか。ここで、岩波古語辞典 で「ふり【震り・振り】」を引いてみると、語源についての説明は なく、「物が生命力を発揮して、生き生きと小きざみに動く意...」と 記載されている。 だが、ここで面白いことに気付く。さらに、この項目を記載した辞書の 編集者もそれに既に気づいていたのではないか、という疑いが生じる。 それは、日本語の「ふる」という表現によって伝えられる様態が、 漢語においてともに「シン」と読まれる「振」にでも、「震」に でもなく、むしろ、漢語としては「キ」と読まれる「揮/挥」 (ピンインhuī)によって表記される中国語の表現にうまく対応している ことである。これは、岩波古語辞典の「ふる」の説明において 用いられている「発揮」という漢語の「揮」である。 実際、Wiktionaryで「揮」の定義を参照してみると、以下のとおり 記載されている。 https://en.wiktionary.org/wiki/ 揮 Definitions to wield; to wave; to brandish to direct; to command to wipe away to disperse; to scatter to squander これらの定義が、先に列挙した、 雨がふ(降)る。暴力をふるふ。タクトをふ(振)る。勇気をふる(奮)ひ立たせる。 という表現にうまく当てはまることが分かるはずである。 それでも、「き(揮)」と「ふ・る」では、発音がまるで違うではないか と思うかもしれない。しかし、WiktionaryのPronunciationの記載を 見ればわかるとおり、「q」の発音と「h」の発音は、「q」⇒「h」の 変異が地域的、時代的に生じることが、中国語に限らず珍しくない ように、意外に近いのである。「ふ・る」の「ふ」が外来の要素と 感じられないことは、おそらく、「き(揮)」が明確に外来の要素として 認められることの対比においてなのだ。 「雨がふ(降)る」という表現において、「あめ(雨)」が「あま(天)」と語源 を同じくすることは確かだろう(岩波古語辞典にもそのように記載されている)。 では、雨(あめ)と天(あま)は、表現としてどのような関係にあるのだろうか。 私は、以前にも指摘したとおり、「雨(あめ)」は、「天(あま)振り(≒shaking)」 として捉えられていたのだろうと思う。「あまふ(天振)り」によって落ちて くるのが「雨(あめ)」であり、「天が雨をふ(振/降)らす(≒shake down)」 という捉え方が先にあり、そこから「雨(あめ)が降る」という雨を主語と する表現が派生したものと考えることができる。 ところで、日本語の「ふる」という表現が、中国語の「揮/挥」(ピンインhuī) という表現に対応しており、それを流用したのだろうと考えると、韓国の TVドラマを観ていて、よく耳にする、「立派である」ことを意味するように 用いられる「훌륭하다」という朝鮮語の表現に発音もそれが想起させる イメージに似通っていることに気付く。そこで、「훌륭하다」を英語の Wiktionaryで参照してみると、「훌륭 (hullyung)」の語源についての 説明は特に記載されていない。しかし、次いで中国語のWiktionaryを 見ると、「揮掄」という表記が見える。残念ながら、私は朝鮮語も 中国語も読めないが、「揮掄」の「掄」を中国語辞書で引いてみると、 やはりこれも、「振り回す」という意味で用いられ、 「抡(掄)ピンインlūn ⇒ [異読音] lún」と発音されるものとされる。 つまり、「揮掄」という漢字表記が、「훌륭 (hullyung)」に対応させ られているのだろうと思う。 断っておくが、私は中国語も朝鮮語も読めないので、私の読みが誤っている なら、知識のある人に指摘してもらえると有難い。 誤:想起させるイメージに似通って 正:想起させるイメージも似通って >>243-254 、>>265-272 二つの言語の間に見られるとんでもない発音の似通りを持ってきて それを自分の居場所にする人の話というのは、 ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーの本にも出てくる。 いつの時代にもいるんだよ。 で、中国語の読めない私が憶測で書いた、これは事実として誤って いるのですか? >「揮掄」という漢字表記が、「훌륭 (hullyung)」に対応させられている どうせまともな答えも返ってこないだろうから、Google翻訳の 助をかりて見た。文書全体の意味はGoogle翻訳の訳文からは不明 だけど、中国語「揮掄(Huī lūn)」⇒英語「Swing」という結果 が戻され、私の憶測は当たっているように見える。 断っておくが、私は、日本語の「ふる」と中国語の「揮/挥」(ピンインhuī) と朝鮮語の「훌륭 (hullyung)」の似通った関係を最初に見渡して、そこから 結論を導き出しているのではない。私が辿ったプロセスは、日本語の「ふる」 という表現の多様性から、そこに共通する感覚を求め、それが中国語の「揮」 に対応することを見出し、さらに朝鮮語の「훌륭 (hullyung)」との共通性 が感じられることから、それが漢語としてどのように表現されるのだろうか という問いに対する答えを求めたのである。つまり、表向き似通っている という共通性の認識から、憶測による結論を導き出しているのではなく、 逆に自分の憶測に導かれて、共通性を見出しているのである。 他人がそのような「方法」をどれほどいい加減なものであると感じた ところで、私がそれを気にも留めないのは、それが、私が日常的に 自分のよく知らない、ろくに習ったことも、勉強したこともない 言語で書かれた本や文章を読むために通常に用いている手段だからだ。 無論、私の憶測は大きく外れていることもあるし、「よく分からない」 という感覚以外に何ももたらさないことが多い。にもかかわらず、 そのような方法によって、日常的に有益な理解を得ていることも 確かであり、私の憶測の方が、事実において、専門家による判断 を裏切りながらも、よく当たっていることをしばしば経験している。 その「方法」が、私にとって有益である限りで、それを放棄すべき 理由が私にはないのだ。 言語の考察に終始するのだったら言語学の板に書くのが妥当かと思いますが。 ハイデガーのスレなんで、ハイデガーに結び付く話が良いわけです。 本来性について考えることは、ハイデガーの哲学的課題とそのまま 結び付くと思うが? 勉強してその成果を他人に評価してもらおうというのは、 正解が決められた学校のお勉強や入学試験、資格試験 のための学習であって、哲学ではない。 人はどのように考えを進めていいのか迷ったとき、しばしば、 他人が確かであるとすることを頼りにしようとし、また自分が 確かであると感じていることまで戻って、それを頼りにしよう とする。そのこと自体が悪いわけではない。しかし、進み方 に迷うのは、そもそも、その確かなものから手の届く範囲に 手がかりが見当たらないからであり、それでも確かなものに 頼りつづけようとするなら、そこを中心に空回りをすること になる。空回りをしてみることも、それが空回りであることに 気付く切っ掛けとなるなら悪いことではない。しかし、 その先の手がかりが、空回りの半径よりわずか先にでもある なら、確かなものから手を放してみることができないなら、 いつまで経ってもその先に進むことはできないのだ。 コロナウイルスも存在者 「存在者の存在の意味」が暴落中 anthropologyとしては高値維持 コロナウイルスが感染拡大しつつある。英語ではThe coronavirus is spreading。 で、この場合のis。 「感染拡大しつつ−ある」の「ある」が、存在の意味になる。ひとたび現存在の存在という場にこれがコロナウイルスが入り込むなら、ある人には恐怖であり、ある人には人類再生の希望であり、ある人にはマスク−フェチの性的興奮であり、ある人にはその全てである。 ある人には感染させ殺人もできる兇器である。 ハイデガー的存在は対象的概念ではない。 〈私〉に先行する像から贈られ、存在者に襲われることで存在を開く。存在は対象的概念ではないし、現存在の奥深くから来るほどに他人に理解不可能な様相を呈していく。 「あなづらはし」という表現は、「人に侮(あなどら)れれやすい」こと を意味するが、日本語の論理を考えるのにも、人と人との関係がどのよう に構成されるのかを考察するのにも、とても役に立つ表現であると思う。 「へつらふ」人は、「あなづらはし」くなりがちであるが、それと 同時に、「へつらひ」がそのまま「尊大さ」となって現れもする。 「へつらふ」の「へ」は、「へこ(凹)む」、「圧(へ)す」、 「へこへこ」するなどの表現に用いられる「へ」と共通し、「へ・つらふ」 の「つら・ふ」は、「あな・つらは・し」に現れる「−つら・は−」 と共通する。しかし、「へつらはし*」という表現は成立しない。 「あなづらはし」という表現の論理は、「つり・あふ」こと、 「へ・つら・ふ」こと、「あな・つる(侮る)」ことの間の関係を 考えてみると分かりやすく明確となる。これについてはまた、後で 書き込むことにする。 飲茶とかそのレベルの阿呆か、永井あたりが書き込んでるのか?だれにせよアホしかいないが。 なあネオニートもしくは、清水とかいうひと >>295 名を出してる人だとすれば、もう少しレベルを上げられるだろう。 名を出すことの良さは他者からの批判を受け止めなければならない、ということだから。 思い付き言語学の人は、一切他者の批判を受け付けないw >人にあなづらるるもの 築地のくづれ。あまり心よしと人に知られぬる人。 「あなづ(侮)る」とは、相手を見下して自分に都合よく使ふことであり、 「マウンティング」が、相手に上から乗ることによって上位をとることを 表しているのに対して、「あな・つる」は、「あな(彼)た(方)」の 「あな」が「あ(≒高く離れた)な(≒向き)」を表していることからも 分かるとおり、「高く離れた方向からつる」ことを表現していると考えられる。 これに対して、「あなづらはし」という表現は、人に侮られやすいこと を意味し、その形式から見れば、「あなづらひ(人にあなづらるること)+ し(〜を生じる)」と分解することができる。ただし、「へつらふ」、 「へつらひ」という表現があるのに対して、「あなづらふ」、 「あなづらひ」という表現が用いられることはない。ここで留意すべき ことは、「あなづる」という行為が、「あなづらはし」では、 反転して、「あなづらるる」という受身になっていることである。 この反転は、どのように生じているのだろうか。 「へつらふ」という表現が表しているのは、「へこ(凹)へこ(凹)と 追従する」ことだろう。「へつらふ」は、そのまま容易に 「へ(圧/凹)+つ(連)ら+ふ」と分解することができる。 ここで、「+ふ」は、一般に「(行為の)反復を表す」と説明される ことが多く、実際、この「ふ」は、「ふた(二)つ」や「ふたた(再)び」 の「ふ」と共通であると思われるので、そのように説明することが 誤っているとは言えない。しかし、この「ふ」は、「あなづらはし」 という表現において、「は」に変形されて現れている「ふ」でも あると考えられる(ただし、「あなづらふ*」という表現は存在しない)。 >あまり心よしと人に知られぬる人。 心よく人の役に立つことが人に知られることがなぜ、 人に「あなづらるる」こと、「あなづらはし」くなることになるのか。 人に都合よくつか(使)はれることは、人につか(使/仕)へることと同じ ではない。人に(使/仕)へることが、第三者から見れば、「へつらひ」 に見えるとしても、「つか(使/仕)へる」者は、どれだけよく 「つか(使/仕)へる」かによってその有能性が評価されるのであって、 「へつらふ」行為自体によって、人に「あなづらるる」ようになる わけではない。 >>284 ハイデガーが、どこで本来性と音韻論の関係などという話をしている? >>296 いや、ここにいるやつのほうが、そいつらより上だろう。 ここまで細かく考察しないから。そいつら。 三浦俊彦ばりにやってくれたまえ、きみたち。 というのも、人に「つか(使/仕)へる」者は、自らの主人に「へつらふ」 のであって、誰にでも心よく役立とうとするわけではない。それどころか、 自らの価値を、自らがその特定の主人によく「つか(使/仕)へる」有能な 者であることに見出しているので、同じ主人に仕えて自らより上位に 評価されている者以外の、自らの主人が下に見る他者に対しては、 何の配慮もしない、第三者から見れば、尊大な態度をとるのである。 むしろ、そうでなければ、その「へつらふ」姿勢のみによって、 第三者によっても見下され、人に「あなづらるる」リスクを負うこと になるだろう。 「あなづる」と「あなづらはし」では、行為との関係で反転が生じると 指摘した。どういうことだろうか。「あなづ(侮)る」は、「見下して 自分に都合よく使う」ことを意味するので、「あな」が「おのれ(己))」 を表しているとする説明は、その限りにおいて正しい。しかし、 現代語でも、相手に向かって「おのれ(己)!」と呼びかければ、 その場合、「おのれ(己)」は、そう呼びかける人自らを指すわけ ではなくなることは、誰もが知っているとおりである。 さらに、現代語でも、「あなど(侮)れないな」と感想を漏らした場合、 一見すると、「侮る」という行為の主体は、その言葉を使う人自身 だが、そこに含意されているのは、何らかの対象に対して、「人」 が「侮ることができない」ということだろう。 「あなづらはし」は、「『人にあなづらるる』ことを生じる」と 言い換えることができ、「あなづらは・し」における「〜し」に そのような反転を生じさせる作用はなく、「あなづら」は、 「あなづる」の変形に過ぎないので、反転を生じさせているのは、 「〜は・し」の「は」であることになる。そして、この「は」 は、既に指摘したとおり、「へつらふ」だけでなく、「使ふ」 「言ふ」、「吸ふ」など、日本語の動詞に一般に見られる 「〜ふ」の変形であり、「ふた(二)つ」や「ふたた(再)び」の 「ふ」と共通している。 >>284 ハイデガーが、どこで本来性と音韻論の関係などという話をしている? 「へつらふ」の「ふ」は、行為の「反復」を表現しているだろうか。 私にはそうは感じられないが、「反復」を表していると感じる人が いても不思議ではない。だが、「つりあふ」であれば、「あ・ふ」という 形をとることによって明らかに「つる」作用の「相互性」を表すこと になる。さらに、「あげつらふ」はどうだろう。岩波古語辞典では、 「あげつらひ」は、「あれこれ言い合う」ことを意味するとして、 相互性を表すように説明されている。「言ふ」、「食ふ」、「吸ふ」 などはどうだろう。既に何度も指摘してきたことだが、私は、この 「ふ」は、再帰表現を作るための中国語の「复(復)」の流用であり、 反復を表すようにも、再帰を表すようにも、相互性を表すようにも、 反転を表すようにも、用いられていると考えている。少なくとも、 この「ふ」の用法を「反復/継続」を表すものと限定することは、 極めて不自然だろうと思う。 「へつらふ」のは、常に特定の誰かに対してであって、「人」、 つまり、不特定の相手に対してではない。それが誰であれ、 特定の相手に「へつらふ」者は、自らが「へつらふ」必要が ないと感じる人々を「あなづる」。 世の中で生きてきた経験の浅い若者は、「へつらふ」ことを しなくても、保護者から衣食住を提供してもらえる環境に 恵まれているなら、無自覚のうちに世の中を甘く見て、 他人を「あなづり」がちになる。しかし、その後、世間で 揉まれるうちにそれでは生きていけないことに気づいたなら、 大抵の場合、今度は、自分が「へつらふ」ことでうまく やっていける相手を見つけようとする。つまりは、「へつらふ」 ことを覚えることによって、「へつらふ」必要のない相手 を「あなづる」ことのできる立場を確保しようとするのだ。 自らの「あなづり」が落とし穴になることに気づいたとき、「へつらふ」 べき相手を見つけようとし、「へつらひ」ながら生きる術を身につける ことは、自らの「あなづり」を反省して、それを解消しようとすること ではない。それどころか、特定の相手に「へつらふ」ことによって、 自らの「あなづり」を保存しようとすることになるのだ。 ところが、「へつらふ」ことを覚えて、うまく生きる術を身につけたと、 思っている、自らが世間に揉まれて経験を積んだと感じている人々にも まだ落とし穴が待っている。その落とし穴は、まさしく、「へつらふ」 ことを覚えることによって保存することになった自らの「あなづり」に よって生じる。その「あなづり」が、自分では気づかないうちに他人に よってうまく利用されて、自らが「あなづらるる」ことになっているのだ。 そのことに気づいたときには、既に手遅れであり、手痛いしっぺ返し を食らうことになる。 自らの「あなづり」に気づいて、それを反省し、解消しようとすること がなければ、「へつらふ」生き方をつづけながらも、人に「あなづらるる」 ことを恐れて、より力の強いものに付き従って、他人を自らに「へつらはせる」 ことに自らの「へつらひ」の補償と身の安定を求めようとすることになる。 しかし、そのような生き方によっては、「人にあなづらるる」罠から 決して解放されることはないのだ。 自らの「あなづり」に気づいて、それを解消しようとするなら、自(おの)づ と「つりあひ」がとれるようになることを目指さなければならない。その 場合、「人からあなずらるる」ことは、恐れるべきではなく、むしろ、 積極的に利用すべきなのである。自らの「あなづり」がうまく利用されて いることに気づいた相手は、「あなずらるる」ことになっていたのは、 むしろ、自分の方であったことを知ることになる。また、自らの 「あなづり」を自分の弱点として認識した相手が、今度は、「へつらひ」 に姿勢を転じたとしても、そのような相手を「へつらはせ」てはならない。 なぜなら、その相手は、それによって「あなづり」を保存することになり、 相手の「へつらひ」を通じて保たれる「あなづり」が、間接的に 自分を中心として拡大されることになるからである。 自らの「人となり」を大切に思ふなら、真に恐れるべきなのは、 自分に向けられる他人の「あなづり」ではなく、「へつらひ」である。 言語君は統失なのかな? まあ、実社会に迷惑かさせけないように、このスレで好きなこと書かせて、ストレスを少なくしてあげた方がいいんだろうな。 >Mac- (son of) is by far the most common element in Scottish Gaelic surnames. 日本語の名前の「〜ひこ」に当たるわけだ。 すると、「マクガフィン」は「ガフィンひこ」かな。 What you should know is that it's not in my place to forgive. 「あなづ(侮)る」や「あなづり」にそのまま対応するような英語の表現は、 すぐには見当たらない。「侮る」を入力して自動翻訳で返される "conempt"が不適合であることは、現代語の「敵を侮る」という表現 を考えてみても分かるし、「あまり心よしと人に知られぬる人」が 「conempt(≒侮蔑)」の対象とされるわけではないことからも明らか である。「人をあなづる」や「人にあなづらるる」という用法において、 "underestimate"がよく当てはまるように感じられ、実際、かなり 重なっていると考えられるが、「あなづる」という表現が伝えている のは、単に「軽く見る」ということではなく、「都合よく扱えるもの として見る」ということであり、説明的に訳すなら "to treat 〜 as subservient/subordinate"となるだろう。 では、その名詞化である「あなづり」はどうだろうか。 うまく当てはまるような英語の表現は容易には見当たらないだろう。 しかし、作用としての「あなづり」がもたらす人と人との 関係性を省察してみるなら、表現の視点が違うものの、 古典ギリシャ語から英語に取り入れられた"hubris"とうまく 対応していることに気づく。それは、まさしく「へつらふ」者、 自らが特定の相手に対して"subservient/subordinate"な存在である ことを自発的に認め、自覚しているものが、無自覚のうちに 陥っている「あなづり」でもある。特定の相手に対して、 "to be subservient/subordinate"であるという自覚は、 「あなづり」としての"hubris"と矛盾するどころか、それを 成立させる条件である。「特定の相手に対して、 "to be subservient/subordinate"であること」が本当 にそれと対立し、矛盾するのは、"hubris"ではなく、 語源的には「地についている」こと(日本語の古語では、 「うつし(現)よ(世)」の「うつし/うつつ」でもある)に 由来するとされる"humility(≒謙虚さ)"である。 自発的な従属における優位の意識としての「あなづり」≒"hubris" こそが、その従属する特定の相手が「神」であれ、「科学」であれ、 「国家」であれ、「労働者」であれ、「多数決による民意」であれ、 全体主義をもたらすのである。 自発的な従属における優位の意識としての「あなづり」≒"hubris"に 陥った人々の目には、従属しようとしない者が「不遜な愚か者」 と映るのである。 Hybris ist heute unsre ganze Stellung zur Natur, unsre Natur-Vergewaltigung mit Hilfe der Maschinen und der so unbedenklichen Techniker-und Ingenenieur-Erfindsamkeit; Hybris ist unsre Stellung zu Gott, will sagen zu irgeneiner angeblichen Zweck-und Sit-tlichkeits-Spinne hinter dem großen Fangnetz-Gewebe der Ursächlichkeit..., Schlechta, vol.II, p. 854 694 :名無しさん@ピンキー :2020/05/14(木) 23:13:11.75 ID:O3VadONn うちの妻も言うなれば売春婦 結婚8年が過ぎた頃から キャリアは3年半が過ぎたくらい 妻はどちらかというとお堅い仕事についているし お金に困っているわけでもない 「へつら(諂)ふ」こと、「あなづ(侮)る」こと、「(人に)あなづ(侮)らるる」こと、 および「あなづ(侮)らはし」きことの間の関係を、英語をメタ言語として利用する ことによってもう一度、確認してみよう。 「へつら(諂)ひ」が、「あなづ(侮)り」と矛盾するどころか、その前提条件として、 「あなづ(侮)り」を保存することになり、地についていることを志向する 「謙虚さ(humility)」の対極にあることが容易に見て取れるはずである。 「へつら(諂)ふ」≒"to make oneself subservient/subordinate" (to be appreciated in one's servitude:仕/使へることを評価してもらえるように) 「あなづ(侮)る」≒"to treat 〜 as subservient/subordinate" 「(人に)あなづ(侮)らるる」≒"to be treated as subservient/subordinate (by others)" 「あなづ(侮)らはし」≒"letting oneself to be treated as subservient/subordinate (by others)" 「へつら(諂)ふ」ことは、特定の主人に対して自らが「あなづ(侮)らるる」ことを 自発的に認める行為であるが、それは、通常、自分が仕/使へる存在であることを 主人に評価してもらえることに動機づけられている。仕/使へる能力において、 自らが他者より高く評価してもらえる立場を確保することによって、 他者に「あなづ(侮)らるる」ことなく、むしろ、自分と比べて「仕/使へない」 他者を「あなづ(侮)る」ことができることを確実にしようとするのである。 また、このように英語をメタ言語として利用して表現してみると、 >あまり心よしと人に知られぬる人 は、「あまり心よしと人に知られぬる」ために「あなづらはし」くなるのではなく、 逆に、「あなづらはし」と人に知られることによって、「あまり心よし」という 評価を受けることになることがはっきりと見て取れる。つまり、「あまり心よし」 と人に評価されるとは、 "letting oneself to be treated as subservient/subordinate by anyone" ということである。 何をそんなにいきり立っているのか? "Zuhandenheit"とか、「仕/使へる存在」の様態について考察することはハイデガーの哲学の中心だろう。 >>331 日本語の貧しさを哲学の入り口にしようとしても無理だよw >>307 日本語の表現において広く用いられている「〜ふ」(現代の仮名遣いでは「う」) がなぜ再帰表現であると考えられるのか、その分かりやすい代表例を説明して おこう。 「す(透)く」と「す(梳)く」は、用法が違うものの、いずれも英語をメタ言語 として用いるならいずれも"let through"を表していることに異論はないだろう。 ところで、ここで"letting through"という様態を表しているのは、「す」 という発音であり、このことは、「『スースー』する」という擬態語を考えて みても分かる。では、「す」≒"letting through"と考えたとき、「す(吸)ふ」 という表現は、何を表しているだろうか。「す(吸)ふ」と気体や液体を 吸い込む場合に用いられる表現であり、"letting through air/liquid"という 文脈で用いられるが、この場合、「〜ふ」が「みずか(自)ら」という 作用の再帰性を表すように用いられていることが、容易に見て取れるはずである。 人々の関係を階層的に組織化するとは、へつら(諂)ひを生じさせる ように実力行使の脅威が発揮させるようにすることと、「へつら(諂)ひ」 に必然的に伴う負の側面である「あなづ(侮)り」がもららす「失敗」 とそのリスクを「へつら(諂)ふ」者に自己責任として引き受けさせる ことである。この両方の課題に同時にうまくこなすことなしには、 統治の階層構造は崩壊する。 自明なことを言語化することにこそ哲学の果たすべき役割がある。 >>342 の書き直し 人々の関係を階層的に組織化するとは、へつら(諂)ひを生じさせる ように実力行使の脅威が発揮されるようにすることと、「へつら(諂)ひ」 に必然的に伴う負の側面である「あなづ(侮)り」がもたらす「失敗」 とそのリスクを、「へつら(諂)ふ」者に自身に引き受けさせる ことである。この両方の課題を同時にうまくこなすことなしには、 統治の階層構造は崩壊する。 人々の間の階層化された関係において上位に立つとは、 実力行使の脅威によって「へつら(諂)ひ」 を生じさせることであり、 上位に立ったものがその地位を安定的に確保するには、 自らの「あなづ(侮)り」を「へつら(諂)ふ」者の「あなづ(侮)り」に 転化する必要がある。 自発的な従属における優位の意識としての「あなづり」こそが、 "hubris"と呼ばれるもであるが、"hubris"を単に「転落の原因となる 『思い上がり』、『過信』、『傲慢さ』」と見なすような、 まさしくそのものが倫理的な装ひの「あなづ(侮)り」に他ならない 姿勢からは、人々の組織化に働いている原理は見えてこないのである。 哲学の歩みに必要なのは、手探りで試行錯誤をつづける"humility(≒謙虚さ)"であって、 それがどのような優位に対するものであれ、「へつら(諂)ひ」ではない。 うさんくさいとはどのような匂いなのでしょう? 「うさん」とは何ですか? >>353 まず、においという言葉の意味から勉強しようね。 日本語の再帰表現に特徴的で興味深いところは、既存の表現が再帰形に されることで、しばしば、表される様態が反転させられることである。 「これ」、「それ」、「あれ」の「あ」は、離れた様態を表し、 「(〜が)あ(空/開)く」も「〜」が離れる様態を表すが、再帰表現 である「あ(合)ふ」になると、同じ「あ」を用いているにも かかわらず、表される様態が反転する。 さらに面白い例が、「く(食)ふ」と「くは(加)ふ」の関係だろう。 「く・ふ」の「く」がどのような様態/作用/動作を表すと考えるに せよ、「く・ふ」は再帰表現である。ところが、「くは(加)ふ」は、 明らかに「く・ふ」をさらに再帰表現にした「く・ふ」+「〜ふ」 という形をしており、「く(食)ふ」が消費する(≒consume)様態を 表しているのに対して、その再帰形である「くは(加)ふ」は、 足す(≒add)様態を表すことになっている。「〜ふ」の用法は、 際立ってメタ言語的であると言うことができるだろう。 それは知見ではなく、意見ですらなくて、単なる感想ですね。 では、感想ではなくて、国語学の知見でも披露したらどうですか? >>361 君のレスはまったくの見当違いだから、知見を披露しようがない。 国語学を専攻したというのが嘘でも本当でも、たとえ国語学の権威として 広く認めらていようと、私にはどうでもいいことだ。なぜなら、国語学は、 諸外国語にまともに取り組むことをしないので、日本語の表現の意味を 解釈して説明するメタ言語をほとんど持ち合わせていないからだ。 既に何度も指摘してきたとおり、或る表現を説明するのに別の日本語の 表現をメタ言語として用いるなら、そのこと自体によって表現の意図が ずれてしまい、うまく行かないし、別の表現で簡単に過不足なく言い換え られるなら、そもそも解釈を必要としていないからだ。 「くは(加)ふ」については、岩波古語辞典では、「く(食)ふ+あ(合)ふ」 と解釈して、相互性から説明している。つまり、「くは(加)ふ」は、 「指を『くは(咥)へ』て見ている」と言う場合の、「くは(咥)ふ」 と語源的に同じであるというわけだ。だが、この説明にはどう見ても 無理があり、その解釈は苦し紛れであるように思える。「くは(加)ふ」 と「くは(咥)ふ」は発音は同じだが、用法はまったく重なっていない。 「くは(咥)ふ」は確かに、「く(食)う+あ(合)ふ」と無理なく相互性 から理解できるが、「くは(加)ふ」はそうではない。 しかし、「く(食)ふ+ふ」と理解したのでは、国語学の常識では、 「ふ」は反復/継続を表すので、「く(食)ふ」行為/作用の反復/継続が 「くは(加)ふ」を表すことになってしまい、解釈が成立しない。 このように無理が生じるのは、「ふ」が再帰表現を作るために用いられ ていることを頑なに認めないことと、再帰表現のもたらす多様性から 目を背けていることに由来していると私は考える。 再帰表現によって反転が生じる、というより、再帰表現から反転が現れて 見える別の面白い例をとりあげよう。 何らかの目標があって努力を続けてきても、その目標が決して達せられない と悟ったとき、人は「かな(悲)しみ」を覚える。何かが「かな(叶)はない」 と知ったとき、人は「かな(悲)し」と感じるのである。ところで、 「かな(叶)はない」とは、「かな(叶)ふ」の否定であり、「かな(叶)ふ」 は、「か(兼)ぬ+ふ」という再帰表現である。一方、「かな(悲)し」は、 「『か(兼)ね』を生じる」こととして理解できる。ここで、「か(兼)ぬ」 とは、"reach/stretch over 〜"を表している。「かな(叶)ふ」ことが 「うれしいこと」であり、「かな(叶)はない」ことが「『かな(悲)し』い こと」であるとすると、この場合も、やはり、「か(兼)ぬ」の再帰表現である 「かな(叶)ふ」と再帰表現ではない「かな(悲)し」は、反転した関係に あることになる。 >>364-366 国語学を批判したいなら、せめて時枝ぐらいは読んだらどうだ? そのような発言は、内容がないにもかかわらず、その具体性において役に立つ。 御里が知れる(読み)オサトガシレル おさとが 知(し)れる御里御里(おさと)が知(し)・れる 精選版 日本国語大辞典の解説 ことばづかいや動作などから、その人の育ちや経歴がわかる。 ※談義本・当世穴穿(1769‐71)四「直にお里が知れる」 >せめて時枝ぐらいは読んだらどうだ? 読んでいたとしたら何がどう違うのか、また、なぜ読んでいないと 考えられるのか、さらに、読んでいないと考えられることによって 生じていると考えられる具体的な問題点を、せめて時枝を引用する ことによって示しましょうw >>369 君が時枝を読んでいないのは分かってる。 言い訳しても、君のデタラメな言葉遊びに根拠が出てくるわけじゃない。 言葉の表現は、言葉遊びによって生成され、通用し、維持されている。 「うれし」というのは、満足した状態だろう。 日本語の「うれし」という表現によって表される感覚は、 ドイツ語の"Genugtuung"とうまく対応する。 では、「うれし」の逆は何だろうか。 「うれし」が満足した状態であるなら、その逆は不満な状態ということになる。 ところで、古語では、不平不満を言うことを「うれへ」と表現する。 「うれへ」は不平不満を人に訴えることが主だが、他人に訴えなくても 「うれへ」ている状態が「うれ(憂)ひ」となる。 >>371 妄想だよw 言葉が現実との関連を失った人を統合失調症という。 言葉の表現の生成がまるでウイルスのように既存の言葉のリソースを 流用してしまうことが、人によっては、気持ち悪いと感じられるのでしょう。 >>375 「言葉の表現の生成」とか、せめてデリダ並みのことを書いてから言いなよw 語源的に由来をどう説明するにせよ、「いとし」と「いとはし」の間には対比が生じてる。 >>379 日本語は音韻が少ないから似た言葉が多くなるんだよ。 まして現代仮名で書いたら、50もないんだからw 荷物を「お(負)ふ」ことと「おろ(降/下)す」ことは対比される。 荷物を「お(負)ふ」ことと「おろ(降/下)す」ことは対比については、 例えば、英語の"load"と"unload"に対応するフランス語の "se charger de [qqch]"と"se décharger de [qqch]"の対比と比較して 考えてみるといい。フランス語の表現では、いずれも再帰表現となって いるが、日本語の場合はそうではない。このことは、「おろ(降/下)す」 の元となっている「お(降/下)り」 または単に「お(降/下)」が先に 様態として認められていて、そこから派生させられた再帰表現として 「お(負)ふ」が生成されたことを示唆しているだろう。 >>381-382 都合が悪くなるとすぐ逃げる。 まあ、同じ統失でも、攻撃的になるより逃避的になる人の方が社会への実害は少ないから、いいんだけどね。 表現について論じるなら、逆後方から考えなければならないことが分かる。 というより、それが分からないのなら、表現を論じる資格がないことを 自ら示している。なぜ少ない音韻を用いた重なり合いの多い表現を 多用しながら、それなりに意図が伝わるのか。 日本語の「うる(潤)/う(熟)れ/うり(瓜)」は、英語の"full"に似ている。 「う」が表面を意図しているとすれば、「うる(潤)/う(熟)れ/うり(瓜)」は、 記述的に説明するなら、「内容が満ちて表面張力が働いている」イメージを 想起させる。 https://www.etymonline.com/search?q=full full (adj.) Old English full "containing all that can be received ... from PIE root *pele- (1) "to fill." Related: Fuller; fullest. *pele- (1) *pelə-, Proto-Indo-European root meaning "to fill," with derivatives referring to abundance and multitude. 「うるひさへありて行くべき年だにも春に必ずあふよしもがな〈紀貫之〉」 「うるひさへありて行くべき年だにも春に必ずあふよしもがな〈紀貫之〉」 以前から指摘しているとおり、「うみ(海)」は、 「う(≒表面)+み(累加的な作用)」を表しているものと自然に理解する ことができ、「うみ(膿)」も同様である。 つまり、「うみ(海)」は、表面が累加的に上がってくる作用を名詞化した 表現である解釈することができる。「う(≒表面)」も「み(累加的な作用)」 も中国語の表現を流用したものと考えられるが、「うみ」という表現自体は、 日本語であり、中国語に対応しているわけではない。それでも、「うみ(海)」 や「うみ(膿)」という日本語の表現をそのようなイメージで捉えることが なんら奇抜なことではないことは、例えば、中国語における「漲」という 漢字の用法と比較してみれば直ちに明らかになる。 https://cjjc.weblio.jp/content/ 漲 涨(漲) ピンインzhǎng ⇒ [異読音] zhàng (水位・水かさが)上がる,増す. https://en.wiktionary.org/wiki/ 漲 Alternative form of 脹/胀 (zhàng, “to swell; to distend”). to be filled † Alternative name for 南海 (Nánhǎi, “South Sea”). YouTubeで語られているハイデッガー Seyn フォレスト YouTube篇 ハイデッガー全集第65巻『哲学への寄与論稿』と現代日本社会 やすいゆたか倫理講義 実存思想 ハイデッガー ハイデガー入門には講義録がおすすめ。存在と時間より分かりやすいです たしかに、形而上学入門は読みやすい。存在と時間は、そこそこ難解。まあ読むのに時間がかかるだけですが。 実は存在は、初めの外観とは違って一定の意味を持っているはずだということになった。 存在の被規定性は四つの差別を論究することによってはっきりと示された。 すなわち、 存在は生成に対立しては滞留である。 存在は仮象に対立しては滞留する典型、常に等しいものである。 存在は思考に対立しては根底に横たわるもの、眼の前に既にあるものである。 存在は当為に対立しては、まだ実現されていない、あるいは既に実現されている当為的なものとしてそのつど前に横たわっているものである。 『形而上学入門 W 存在の限定』 存在に対立することによって存在を限定付けているもの――生成、仮象、思考、当為――は、決して捏造されたものではない。 と形而上学入門において、ハイデガーは述べている。 生成――これはなにものでもないのか? 仮象――これはなにものでもないのか? 思考――これはなにものでもないのか? 当為――これはなにものでもないのか? 決してそんなことはない。 とも。 国語学は、日本語の「〜ふ」という形の動詞が再帰表現であることも、 この「〜ふ」が「〜」によって表される様態/動作/作用の反転を表現する ために用いられる場合があることも認めていない。ましてや、 私が主張するように、この「ふ」が中国語の「复(復)ピンインfù」 を流用したものであるというような考えは、完全に度外視している。 したがって、岩波古語辞典の説明にも、当然、そのような記述は見られない。 にもかかわらず、である。面白いことに、岩波古語辞典には、 「図らずも」、この国語学が認めることのない、私の主張とほぼ 完全に重なる説明の記述を示してしまっている項目がある。 それがまさに、「我思ふ、故に我在り」という句で哲学の議論において もお馴染みの「おもふ」(岩波古語辞典の項目としては「おもひ」) である。 「日本語において「表(おもて)」と対比されるのは何か?」と尋ねたなら、 誰でも「裏(うら)」と答えるだろう。だが、岩波古語辞典の説明によれば、 平安時代までは、「裏(うら)」と対比されていたのは、「表(おもて)」 ではなく、「うへ」である。「院政期以後、次第に『おもて』の対」と して用いられるようになったと説明されている。「うへ」が「裏(うら)」 と対比される「表面」としてではなく、現代語のように「上(うへ)」を 表すように用いられるとともに、「うへ」は、「表面」を表す役割を 「おもて」に譲ったのだろう。 ところで、古語では、「うら」に当てられる漢字は、「裏」だけではない。 同様に「心」も「うら」を表す漢字として用いられている。岩波古語辞典 では、「うら(心)」は、「人に見えない内内の心」を表すように用いられた と説明されている。現代では、「こころ(心)の内面」という表現がよく 使われるが、古語では、「(人に見せない/見えない)内面/裏側」に 「うら(心)」という表現を当てたということだろう。 さて、ここで本題である。「うら」がもともと対比されていたのは、 「おもて」ではなく、「うへ」である。であるとすると、「うら」が 「うへ」と対になっていたとき、「おも(表/面)」と対比されるように 用いられていた表現はどのようなものだろうか? 私は、その「『おも(表/面)』と対比されるように用いられていた表現」こそ が、「おも(表/面)ふ(復)」だろうと思ふ。 岩波古語辞典で「おもひ【思ひ】」を引いてみると、「オモ(面)オヒ(覆)の約か。」 と記載されている。この説明は、「オヒ(覆)」の「オ」が不要であると私が 考えることを除けば、これまでの反転を生じさせる再帰表現についての私の 主張と完全に重なっている。というのも、「おもひ」を「面覆」と漢字で 表記することができるなら、中国語の表現としては「覆ピンインfù」は、 「复(復)ピンインfù」と同じものであり、「思ふ」は、「おも(表/面)ふ(復)」 であることになるからだ。「おも(面/表)」に表さない「うら」が「うら(心)」 であるとするなら、「おも(面/表)」を反転させて/覆して内に秘することが 「おも(表/面)ふ(復)」ことであり、秘せられたものが「面覆(おもひ)」で あることになるだろう。 「我おも(面/表)ふ、故に我在り」とデカルトの「Ego cogito, ergo sum, sive existo」 はどのような関係にあると考えられるだろうか。 Cogito ergo sum おも(表/面)ふ(復)、故に我在り(≒表向きとは裏はらであるが故に我がある) 「おも(面/表)」を中国語を利用したピジン語の表現であると想定した 場合、どのような漢字が当てはまるかを想像して「于(於)貌」 という表現を思いついたので、意味を成すかどうか「于貌」 で検索してみた。私は、中国語がまったく読めないので、自動翻訳 に頼るしかないんだけれど、面白そうな文なので、誰か中国語の 分かる人、何と書かれているのか教えてください。 此恻隐之心,可根本尚未及于貌孺子入井之形状于心, 而只于见孺子入井时,便可直接生起。『中国哲学原论·导论篇』 なぜ日本語の「おも(面/表)」に「于(於)貌」 という漢字を当てはめる ことを想定してみたのか説明しよう。 「おも(重)」と「おも(面/表)」は発音が重なっていて、現代語で 例えば、「思(おも)いに沈む」と表現してみれば、何か「思(おも)い」 と「おも(重)さ」が重なっているイメージが生じる。しかし、 「おも(思)い」がもともとは「おもひ」であり、それが 「面(おも)覆(ひ)」と解釈されるとするなら、「おも(重)」と 「おも(面/表)」は、用法において全く重なっていないだろう。 さらに、「おも(重)」において中心的な要素は、「も」ではなく、 「お(落)つ」の「お」とも重なる「お」だろうと私には思われ、 それに対して「おも(面/表)」の中心的な要素は、「かはも(川面)」 や「みなも(水面)」という表現に「も」単独で用いられていること から考えても、「も」だろうと考えられる。 実際、万葉集においても「も」だけで「おも(面/表面)」を表現している例を見る ことができる。 >阿倍《アべ》の田の面《モ》に居《キ》る鶴《タヅ》の、 >ともしき君は、明日さへもがも さらに、「おも(思)ふ」についても、「阿餓茂赴菟摩珥 /あ(我)がも(思)ふつま(妻)」(日本書紀 歌謡五二)という例に 「も(思)ふ」という表現が見られるということである。 この「も(面)」と「も(思)ふ」のいずれについても、 岩波古語辞典は、「オの脱落した形」として説明しているが、 この断定には、何ら根拠が示されていない。逆に、「おも(面)」 は、「も(面)」の前に、その意味/機能がどのようなものであった と推定するにせよ、「お」が付けられた形であることも十分に 考えられるだろう。そう考えたときに「も」に相当する中国語 の表現の候補としてまず私に思い浮かんだのは、万葉集で 「も」に当てられている「模」であり、そこから連想される 「膜」であり、さらにそのまま顔を表すように用いられる漢字 である「貌」である。「おも」が「お+も」であるとするなら、 「お」にどのような漢字が当てはまるか考えたとき、まずは 万葉集で「お」に当てられている「於」(中国語としては「於/于」) を想定してみるのは、その意味や機能を無視しても、自然なことだろう。 「おも(表/面)ふ(復)」と"reflection"は、互いに似ているだろうか。 reflection (n.) late 14c., reflexion, in reference to surfaces throwing back light or heat, from Late Latin reflexionem (nominative reflexio) "a reflection," literally "a bending back," noun of action from past participle stem of Latin reflectere "to bend back, bend backwards, turn away," from re- "back" (see re-) + flectere "to bend" (see flexible). Of the mind, from 1670s. Meaning "remark made after turning back one's thought on some subject" is from 1640s. https://www.wordreference.com/enzh/reflection reflection (deep thinking) 深思 shēn sī 万葉仮名で「おも」がどのように表記されたのか検索してみると、 「おもふ」の場合には、八割方、発音の当て字ではなく、「念」 という漢字が用いられているということである。「念」という漢字 がどのようにイメージされて用いられたにせよ、「おもふ/ひ」と 「うら(心)」の関係がイメージされたことは確かだろう。 「おも」に対して、それ以外では、「於毛」という表記も見られる。 このことは、「お」が「於」の草書体から作られ、「も」が「毛」の 草書体から作られていることを考えれば、ごく自然なことだろう。 ところで、「おも」の発音に「於毛」を当てる表記は、 「久礼乃於毛(クレノオモ)」、「於毛止(オモト)」、「於毛多加(オモダカ)」 といった植物名にも見られる。「久礼乃於毛(クレノオモ)」、「於毛止(オモト)」 については、なぜそう呼ばれるのかよく分からないが、「於毛多加(オモダカ)」 については、次のような「於毛多加(オモダカ)」の写真を見れば、その命名の 理由を推定することは極めて容易であるように私には思われる。 http://blog-imgs-63.fc2.com/b/o/g/bogi88/ngbomd1404b.jpg Wikipediaで「オモダカ」の項目を参照してみると、以下のように記載されている。 >オモダカの語源ははっきりとはしておらず、人の顔に似た葉を高く >伸ばしている様子を指して「面高」とされたとも、中国語で湿地を >意味する涵澤(オムダク)からとられたとも言われる しかし、上の写真に見られるとおり、「オモダカ」が水面から高く伸び ている様子を見れば、「於毛多加(オモダカ)」の「於毛(オモ)」が 水面を指していることは一目瞭然である。「多加(タカ)」は、言うまでも なく、「タカ(高)」、「タ(長)ケ」、「タケ(丈)」、「タコ(凧)」の 場合と同様に「高く上に上がる」様態/作用/動作を表している。 つまり、「於毛多加(オモダカ)」という名称は、そのまま「水面から高く 伸びている(モノ)」を表している。問題は、「於毛(オモ)」の「於(オ)」 が中国語の場合のように前置詞の機能の担うものとして意識されて 用いられたか否かだけだろう。「毛(モ)」については、現代の中国語 において、声調の違いだけ「貌」と発音が重なっており、歴史的に見ても 極めて近い発音だったこと、および、既に指摘したとおり、「モ」だけで 「面」を表すように用いられていることから考えて、日本語の古語で 表面を表すように用いられている「毛(モ)」は、今では一般には「貌」 の漢字で表されることになっている中国語の表現の流用であると考えられる。 誤:声調の違いだけ「貌」 正:声調の違いがあるだけで、「貌」 「於毛多加(オモダカ)」の「於毛(オモ)」は、咲いている花が一般に 「おも(面/貌)」として認識されるとすれば、「『水面(みなも)』から、 『おも(面/貌』を高く上げている」という「おも(面/貌)」の二重性が イメージされていると見ることもできるだろう。 万葉仮名で「も」に当てられている漢字の「毛」は、現代の日本語では、 「け」または「もう」(呉音)と読まれることが多い一方で、「貌」は、 「容貌」や「全貌」などの熟語において「ぼう」(漢音)と読まれることが 多いが、中国語では、声調の違いはあっても、「毛」と「貌」はいずれも "mao"と発音される。日本語においても「毛」と「貌」はいずれも漢音 では、「ぼう」であり、現代の日本語でも「『ぼうぼう』に毛/草が生え ている」と表現する。 中川萌子『脱-底 ハイデガーにおける被投的企投』が面白い そうではなくて、何をどう面白いと感じたのかが伝わるように書きましょう それができないなら、少なくとも面白いと感じた著者の言葉を引用しましょう 「おみなえし(女郎花)」という花の名前について考えていたら、いくつかの 面白いことに気づいたので、後で書き留めておくことにしよう。 「しる(記/印/標)す」ことをしているものが、「しるし(記/印/標/徴)」であるが、 本来、「『しる』された」様態を表す表現として「しる(≒signing/marking)」に 対応しているのが「しろ(≒signed/marked)」だろう。したがって、「白(しろ)」 とは、もともとは、"signed/marked state"を表しているが、そのように 「『しる(記/印/標)された』区画」として「城(しろ)」や「[苗]代(しろ)」を 表すとともに、それが何であれ、「何かが『しる(記/印/標)された』代表物」 として名詞化されて、「代(しろ)[物]」や「[依り]代(しろ)」を表すように 用いられる。 「オミナエシ」という植物がなぜそう呼ばれるのか、よく分かっていない。 平安時代から「女郎花」という漢字の表記がよく用いられるようになった ようで、無論、これは当て字であるが、「オミナエシ」は、古語において 「ヲミナへシ」として、その「『ヲミナ』へシ」の「ヲミナ」が「女性/娘」 を表しているものと理解されたということだろう。万葉集においても、 「ヲミナへシ」は、「姫部四、佳人部為、姫押、美人部思、娘子部四、 乎美奈敞之、姫部志、娘部志、娘部志」と表記されるとのことなので、 http://kemanso.sakura.ne.jp/ominaesi.htm そのような解釈は、かなり古くから生じていたことが分かる。 その一方で、「ヲミナ『へシ』」の「ヘシ」は、古語で普通に理解するなら、 「ヘ(圧)シ」であることになり、そのことから、Wikipediaの「オミナエシ」 の項目に記載されるとおり、 >一説には「エシ」は「圧し(へし)」であり、 >花の姿の美しさは美女を圧倒するという意味だとする説がある という語源的な理解が生じるのだろう。しかし、その花の姿は以下の写真から 確認できるとおり、 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/dc/Patrinia_scabiosifolia2.jpg/250px-Patrinia_scabiosifolia2.jpg 極めて素朴なものであり、とても「美女を圧倒する」ような印象は受けない。 だからこそ、その語源が不明であると感じられるのだろう。ところで、 この花は、薬としても用いられるとのことで、その場合の名称は、 「黄屈花(おうくつか)」である。オミナエシの咲いている姿は、 何かに抑えつけられて屈しているかのように複数の花が平に揃っている 印象を受けるので、むしろ、こちらの名称の方がふさわしいという 印象を受ける。 ここで現実とは異なる想定をしてみよう。 その想定とは、「ヲミナヘシ」は、本来は、「ヲミナヘシ」ではなく、 「ヲモナヘシ」と呼ばれていた、というものである。 すると、「ヲモナヘシ」を「『ヲモナ』ヘシ」と理解して、 「ヲモナ」≒「女性/娘」とする解釈は成立しなくなる。この想定ではむしろ、 「ヲモ・ナヘ・シ」と区切ることが自然となり、「ヲモ(面)・ナ(並)へ・シ」 と理解され、英語をメタ言語として用いるなら、 「ヲモ(≒faces)ナヘ(≒aligned)シ(≒letting)」、すなわち、 「ヲモ・ナヘ・シ」≒"letting the faces aligned"という解釈が生じる。 「ナへ」がそのように解釈できることは、例えば、 精選版 日本国語大辞典の解説 >〘接助〙 活用語の連体形を受け、ある事態と同時に、他の事態の存する >ことを示す上代語。…とともに。…にあわせて。…するちょうどその時に。 >(2)「万葉‐三二〇二」の「柔田津に舟乗りせむと聞きし苗(なへ)なにかも >君が見え来ざるらむ」のような例では、「その時にして、しかも」「…のに」 >という語感が伴う のような用例から分かる。この用例における「苗(なへ)」は、名詞の「苗(なへ)」 ではないが、名詞としての用法そのものが、「揃えられている」様態を表している と理解できる。 無論、ここでは、何の証拠もなしに、「ヲミナヘシ」は、「ヲモナヘシ」 であったという現実とは異なる想定をしているので、この解釈が確実に正しい などと主張するつもりはまったくない。しかし、「ヲモナヘシ」が歌に 読まれるときに掛詞として、「ヲモナ」を「ヲミナ(≒女性/娘)」に 読み替えることが流行して、それによって、「『ヲミナ』ヘシ」という 表現全体としては意味が不明になったのではないかと想像してみることは、 それほど強引なことではないだろうと思う。さらに、実際、 「ヲモ・ナヘ・シ」≒"letting the faces aligned"が本来の名称で あったとすれば、観察される花の姿をそのまま素直に記述している ように私には感じられる。 日本語において「な」がどのようなイメージで用いられているかについて、後で書き込むことにする。 「ヲミナ・ヘシ」とされる表現は、もともとは、「ヲモ・ナヘ・シ」であった のではないか、また、それが歌において掛詞として読み替えられることによって 「ヲミナ・ヘシ」として定着したのではないか、という私の想像の真偽がどうで あれ、そのような可能性を考えてみることは、さらなる考察を促すことになる。 例えば、ここで想定した「ヲモ・ナヘ・シ」という表現において、「ナへ」 を「揃えられている」様態(≒aligned)として説明したが、「なへ(苗)」を そのように解釈することは、表現の形成から見て、どのように正当化される のだろうか。また、「なへ(苗)」と「なは(縄)」は、「なはしろ(苗代)」 という表現において発音が重なるが、その関係をどのように理解することが できるだろうか。 想定した「ヲモ・ナヘ・シ」という表現をうまく説明するために、ここで私は、 「ナへ」を「揃えられている」様態(≒aligned)として説明したが、このメタ言語 による記述は、実は、私自身にとっても満足のいくものではない。「オミナエシ (女郎花)」という植物の名称についての説明がどうであれ、「なへ(苗)」は、 明らかに「なふ」という再帰表現から派生している。 「なふ」という再帰表現だけについて見るならば、「あきなふ」、「あがなふ」、 「ともなふ」、「うらなふ」など、他の多くの表現に現れ、「なは(縄)」という 表現も、その名詞化であると考えることができる。ところで、「な(成)・す」と いう表現は、フランス語をメタ言語として用いるなら《laisser former》 と理解することができるのだから、「な・ふ」は、その再帰表現として、 《se former》と解釈でき、実際、それで適切であるようにも感じられる。 しかし、この記述では、まだ不十分である。 というのも、「な」は、「な(慣)れ」、「なじ(馴染)む」、「なつ(懐)かし」、 「な(舐)める」などの多くの表現に見られるとおり、親密さや身近さの イメージを想起させるように頻繁に用いられるからである。 さらに、「な(成)・す」を《laisser former》と理解して、「な・ふ」 《se former》と解釈し、「なは(縄)」をその名詞化と理解したのでは、 「なは(縄)」と、「揃えられている」様態(≒aligned)を表すものと説明 した「なへ(苗)」との関係も捉えにくいものとなる。つまり、まだ、 「なふ」という表現を記述するために用いているメタ言語が不適切なのだ。 「なへ(苗)」が、「揃えられている」様態(≒aligned)を表すものとした 私自身の説明を、私は誤りであるとは考えていない。そのように考える ことは、説明されるべき表現を、既によく知っている別の表現に置き換える ことによって簡単な理解をもたらす。しかし、それによって、「なふ」 という表現を別の再帰表現である「そろふ」に置き換えてしまい、さらに、 それを英語の"aligned"に対応するように説明することによって、 「線(≒"line")にそろふ」というイメージが生じてしまう。 ちなみに、「そろふ」は、「そ(反/逸)る+ふ」として、やはり、「〇+ふ」 が「〇」が表現する様態/作用/動作を反転させる典型的な例だが、 そのような再帰表現の解釈を認めない岩波古語辞典では、「剃り合への 転。長さ、大きさ・位置を一様にして、不要の部分を捨てる意」と説明 しているので、「そろふ」をそのように辞書どおりに理解したなら、さらに 混乱は深まるだろう。 ここで、日本語の多くの表現において「な」が親密さや身近さをイメージ させるように用いられることを考慮に入れるなら、「なふ」、「なへ(苗)」、 「なは(縄)」を説明するのに適切なメタ言語の表現は、日本語の「そろふ」 でも、英語の"align"でもなく、フランス語の"se serrer"という再帰表現 だろう。 確かに"serrer"というフランス語の動詞そのものは、その発音からしても、 日本語の「な」のイメージよりも、「し(締/絞)める」のイメージに近く、 そのように用いられる。しかし、再帰用法の《se serrer contre qn》 では、「(人)に身をすり寄せる」ことを表現し、相互的な表現において 《se serrer》は、「身を寄せ合う」ことを意味する。 「なへ(苗)」を説明するのに「そろ(揃)ふ」や"align"をメタ言語として 用いたのでは、「なへ(苗)」が単に「均一になら(並)ふ[モノ]」を意味 するように理解されてしまうが、「なへ」の「な」にフランス語の "serrer"が対応すると説明するなら、《serrer les rangs》(列を詰める、 密集する)という表現の場合のように、「互いに密集してなら(並)ぶ」 イメージを適切に想起させることができ、好都合である。 「寄る年波には勝てぬ」と言われるが、ここで、「なみ」は、 「寄せてくるもの」として、また「累加するもの」としてイメージされている。 「うみ(海)」の場合と同様に、「なみ」の場合も、累加するイメージを 表現しているのは、「み」の発音であり、より一般的には、マ行の 活用であると考えられる。その一方で、「うみ(海)」の場合には、 「う」という発音が表面化の様態/作用/動作を表しているために、 「『う(≒表面化)』の累加」がそのまま水嵩が上がることをイメージさせるが、 「なみ」の場合には、そうではない。また、風がおさまって波の穏やかな 状態を「なぎ(凪)」と呼び、「な(凪)ぐ」、「な(薙)ぐ」という表現もあり、 「なみ(波)」を単純に「『な(によって表される様態/作用/動作)』の累加」と 解釈するわけにはいかない。そこで、可能な表現形成の階層関係を検討して みる必要性が生じる。 少し面倒になってきたので、結論だけ先に書いてしまえば、私には、 「なみ」という表現よりも、「なふ」という再帰表現の形成の方が先だろう と感じられる。「な・ふ(=複)」という表現から、反復性のイメージを 伴った「な」の用法が生じ、その反復性のイメージを伴った「な」を 利用して、その累加を表現する「なみ」という表現が形成され、さらに その後に「なぐ」、「なぎ」という表現が形成されたのではないか、 という気がする。そういう気がするというだけで、現時点では、詳しい 検討を書き込んでも、あまり面白くはなさそうだ。 ところで、フランス語の"serrer"という動詞の語源をWiktionaryで参照すると >From Old French serrer, from Vulgar Latin serrāre (“close, shut”), >from Late Latin serāre, present active infinitive of serō (“fasten, bolt”), > from Latin sera (“bolt, crossbar”). と記載されている。そこで、今度は、ラテン語の動詞serōの語源を参照すると >From Proto-Italic *serō, from Proto-Indo-European *ser- (“to bind, >put together”). (compare Ancient Greek εἴρω (eírō), >Sanskrit सरत् (sarat), Old Lithuanian Lithuanian sėris (“filament”)), >Old English serc (“shirt, coat of mail”). More at sark. と記載される。 ここで、英語で「ひとつづきになら(並)ぶ」状態を意味する"series"の 語源を調べて見ると、次のとおりである。 https://www.etymonline.com/search?q=series >... from PIE root *ser- (2) "to line up." https://www.etymonline.com/word/*ser- >It is the hypothetical source of/evidence for its existence >is provided by: Sanskrit sarat- "thread;" Greek eirein "to fasten >together in rows;" Latin serere "to join, link, bind together," >series "row, chain, series, sequence, succession 結果的に、私の連想による適切なメタ言語の探求の推測もそれなりに妥当である ように感じられるw 「結果的に」というのは、あらかじめ語源を調べてから、 フランス語の"serrer"という動詞を記述のメタ言語として選択したわけではないからだ。 フランス語の表現、"serrer"について少し調べると、さらに面白いことが 分かる。Wiktionaryでは、"serrer"の語源について、 >From Old French serrer, from Vulgar Latin serrāre (“close, shut”), >from Late Latin serāre と記載され、フランス語とその元とされる俗ラテン語の表現ではそれぞれ、 "serrer"、"serrāre"のように"rr"が見られるが、正統なラテン語では、 "serāre"であり、"r"は重なっていない。そこで、『Dictionnaire Littré』 で"serrer"を引いてみると、語源の説明として、"rr"は、本来的には 誤りであり、ラテン語でノコギリを意味する"serra"と混同されたのだと 記載されている。 >La double rr dans serre, serrer, serrare, etc. est fautive ; >il n'en faut qu'une ; cette erreur vient de ce que les peuples >romans ont confondu sera, serrure, avec serra, scie. このラテン語でノコギリを意味する"serra"は、「シエラレオネ共和国」 という国名にも見られる"sierra"の語源となっているが、ラテン語の "serra"とはどのような表現なのか語源をさらに追ってみると、どうも よく分かっていないようである。 https://www.etymonline.com/search?q=sierra sierra (n.) "a range of hills," 1610s, from Spanish sierra "jagged mountain range, " literally "saw," from Latin serra "a saw" (compare serrated), which is of unknown origin. では、ラテン語でノコギリを意味する"serra"に由来するシエラ、"sierra" はどのような意味で用いられているだろうか。 小学館の西和中辞典で"sierra"を引いてみると >1.(規模があまり大きくない)連峰、(峰のとがった)山脈、連山 >2.山岳地帯、高地、山あい と記載されている。山が連なっている様子が「ノコギリの刃」に 似ているということで、隠喩として「ノコギリ」と呼ばれているものと 理解することができる。だが、その隠喩としての「ノコギリ」が 表現しているのは、それを普通の日本語にするなら、まさしく 「やま『なみ』」ではないのか? >山並み・山並・山脈(読み)やまなみ >大辞林 第三版の解説 >山の連なり並んでいること。また、その並んでいる山々。 フランス語の動詞"serrer"における"rr"の重なりを単に誤りによる 混同と見なして、ラテン語の"serra"との関係を絶つ語源の説明は、 "serra"の語源自体が不明であることと併せて考えると、どうもあやしく見える。 ところで、「ノコギリ」は、「ノコギリ波」として波の形状を形容するのにも 用いられている。 何が言いたいのかポイントが不明だと感じられるかもしれないが、ここで 指摘しているのは、日本語の再帰表現において用いられる「な」や、 「なみ」ように反復性を帯びた「な」が、フランス語の再帰表現に おける「serrer」によって表される様態/作用/動作のイメージとかなり うまく対応しているのではないか、ということである。 「な」(再帰用法におけるフランス語/の"serrer"に対応すると考えられる) よって表される「身近さ」の相互的な反復を表現する「な・ふ」によって、 形成の秩序の表れがイメージされ、相互的な反復のイメージを伴うように 用いられるようになった「な」(例えば、「なべて」という表現を考えて みるといい)の累加として「なみ(波/並)」がイメージされるとすれば、 人は、「なみ(波/並)」の表れの変化に秩序形成の変化を見ることになるだろう。 ソーシャル・ディスタンシングが強く推奨されることは、「人なみ(波/並)」の 表れ方の変化が半ば強制的に要請されていると考えることができる。 「なふ(ナウ)」い話題に話を振ったら、なんとなくハイデガーに戻りましたねw "This is the new normal."≒「これが新たな『並(な)み』である。」 9.11後の緊急事態宣言からおよそ20年経った今、再びよく耳にするようになった言葉だ。そのような言葉を真に受けているうちに、実際、人々は自らの日常生活において、「『なみ(波/並)』に」飲み込まれてしまうのだろう。 「箍(たが)が緩(ゆる)む」、つまり、フランス語を用いるなら、《serrer》に よって表現される「締め付けの作用」が弱まると、人々が再び「濃厚接触」、 つまり、「な」によって表現される互いに身近/親密な関係を保つように なってしまうというのだから、「締め付ける(serrer)」ことが、「互いに 緊密になる」結果を生むのではなく、逆に「互いにばらばらになる」結果 をもたらすことを目指していることになる。一見、奇妙に見えるが、そこに 合理性が働いているとすれば、その合理性とはどのようなものであるのか 考えてみる必要があるだろう。 「波(なみ)」が、「並(な)み」になって「な(凪)ぐ(≒to calm)」。 したがって、「な(凪)ぎ」≒"calming"であり、「名護(なご)」≒"calmed"であり、 「慰(なぐさ)む」とは、「『な(凪)ぐ(calm)+す(≒let)』≒"let 〜 calm down"」 +「む(≒cumulatively/increasingly)」であるので、"increasingly let 〜 calm down"を意味する。 「なご(和)む」≒「なご(≒calmed)」+「む(≒cumulatively/increasingly)」 であるので、「なご(和)む」≒”to be increasingly calmed”ということになる。 起伏としての「波(なみ)」が、「並(な)み」になって「な(凪)ぐ」ように 手で触れながら累加的に「なら(均)す」ことを、「なだ(宥)める」 と表現する。この場合、「な『だ』める」の「だ」は、濁音化した 「た」、つまり、起伏に対する「手の接触」であり、そのことは、 「なだ・らか」という表現にも感じられる。 >灘(なだ)とは、海流と潮流が速い所または風浪が激しく航行が困難な海域 (出典:Wikipedia)とされ、岩波古語辞典は、この「なだ」を「波の間」と 解釈して、「波の立つ所の意」と説明しているが、「波の激しい」ところを 「なだ」と呼ぶのは、忌み言葉として、「葦(あし)」を「ヨシ」と呼ぶ のと同様ではないかと私には思える。 >起伏としての「波(なみ)」が、「並(な)み」になって「な(凪)ぐ」ように >手で触れながら累加的に「なら(均)す」ことを、「なだ(宥)める」 >と表現する。 「な」の発音がそのようにイメージされたことは、例えば、奈良(なら) という地名の平安時代以前の以下の表記にも見てとることができる。 この場合は、「な」≒"abflauen"(ドイツ語)のようにイメージしてみる と理解しやすい。 https://ja.wikipedia.org/wiki/ 奈良 平 : 万葉集、 平城 : 万葉集、続日本紀、日本後紀、日本霊異記、平安遺文 常 : 万葉集 寧 寧楽 : 万葉集 - 奈良に来ること、帰郷することを意味する 「来寧」「帰寧」はこの語に由来する 日本語における「な」の発音の用法を記述するのにフランス語の動詞、 《serrer》の再帰用法、つまり、《se serrer》を利用することが有効である ことを説明してきた。「な」単独では、再帰表現の形式をとっていないが、 この発音が互いに密接に接触するイメージを想起させるため、フランス語を 用いるなら、再帰表現で記述することが適切となる。 わざわざ日本語以外の言語にそのようなメタ言語を求める理由は、それによって 様々な日本語の表現の相互関係の理解が、より明確になって深まり、再び 日本語をメタ言語として用いて説明するの際にも混乱を回避する助けとなる からである。 例えば、岩波古語辞典で「な」を引くと、最初に「な(代名詞)」の項目が記載され、 次に「な【肴】」の項目が記載されて、以下のように説明されている。 >な @【己】《一人称》われ。自分。A【汝】《二人称》あなた。おまえ。 ▽朝鮮語na【己】と同源。 >な @【肴】野菜・魚・鳥獣の肉などの食物。A【菜】葉・茎・根などを 食料とする草本。B【魚】食用とする魚 それでも、この2つの「な」、つまり、人称代名詞として用いられる「な」 と食べ物としての「な(肴/菜/魚)」の関係については何も記載されていない。 おそらく、この2つは無関係であることが前提とされているのだろう。 しかし、フランス語をメタ言語として用いて「な」≒《se serrer》 から、考察するなら、全く別々のものとされるこの2つの項目について、 それぞれの用法がより深く理解できるようになるとともに、互いの関係も 明確に理解でき、さらに類似する他の日本語の表現と外国語の表現の対応 まで意識されるようになる。 まず、「な(肴/菜/魚)」とはどのような表現だろうか。 「さか・な(魚/肴)」の語源を検索すると、「さか・な」とは、「酒(さか)菜(な)」 のことであり、「酒の『つまみ』」であるという説明がヒットする。確かに、 「さかな」は、「酒の『つまみ』」として食されるものであるが、 「な(肴/菜/魚)」≒「つまみ」ではないので、この説明は不適切である。 そのような限定された理解をしなくても、「な」≒《se serrer》 として イメージするなら、「さかな」とは、「酒に『密接に付随するもの』」を 表していることがすぐに分かる。普通の日本語を用いるなら、「酒に そ(添)へられるもの」ということになるだろうが、既に説明したとおり、 「な」を「そ(添/沿)ふ」イメージで置き換えることは不十分である。 ここで再びフランス語をメタ言語を用いるなら、この場合、「な」に 適切なフランス語の表現は、《accompagnement》ということになるだろう。 例えば、《vin》、《accompagnement》、《fromage》をキーワードとして 検索すると、次のような文がヒットする。 >Le vin rouge est-il vraiment l'accompagnement idéal pour un plateau de fromages? ここでは、チーズがワインの「な」ではなく、ワインがチーズの「な」となって、 「さけ(酒)」と「な(肴/菜)」の関係が入れ替わっているが、実際のところ、「な」が 表しているのは、そのような入れ替わり可能な《accompagnement》である。 ここまでくるともやは、「な @【己】《一人称》われ。自分。A【汝】 《二人称》あなた。おまえ。」についての説明は、もはや不要になっている とすら言える。直ちに理解できるとおり、人称代名詞の「な」が表している のは、英語に置き換えるなら、"companion"や"company"ということに なり、それが相手に対して自分を指すように用いられる場合には、一人称 とされ、自分に対する相手を指すように用いられる場合には、二人称となる だけのことだ。この「な」は、中国語の「汝」と対応していると考えられる ので、「▽朝鮮語na【己】と同源」とする説明は誤りではないだろう。 しかし、ことさらに朝鮮語との共通性だけについて記載することは、 著しくバランスを欠いた、奇妙な選択であると言わざるを得ないのではないか。 「さかな(肴/魚)」という表現は、専ら食べ物を指すように用いられる ようになったが、「さかな」の「な」に本来的に食べ物というニュアンスが 伴っているわけではない。 >さかな【肴/魚】 A酒宴に興を添えるための歌や踊り(岩波古語辞典) 本来の「さかな(肴/魚)」という表現の適切な現代語訳は、「酒の『とも』」と なるだろう。それにしても、もともとは、酒を飲む機会に合わせて食される ものであった魚類だけが「さかな(肴/魚)」と呼ばれていたのに、魚類全体が、 デフォルトで「酒の『とも』」と呼ばれるようになってしまったことは、 魚にとって名誉なことなのか、不名誉なことなのかw このように日本語の表現がどのように形成されているのかを、日本語ではない 言語の表現をメタ言語として用いて記述しようとする試みが、ハイデガーの 哲学的な思索と何の関係があるのか、と思われるかもしれない。確かに、 私は、ハイデガーの言説を体系的に読み解くことになどまったく関心がない。 しかし、ここで私が試みていることが、ハイデガーの哲学的な思索と無関係か といえば、そんなことはない。「さかな(肴/魚)」が、本来、「酒の『とも』」 であったことは、「さかな」という表現は、「さかな」を魚類として捉える よりも先に「酒の『とも』」として捉えていたことを示している。 「魚(さかな)」という名称が広く魚類を指すように一般化されて、直ちには 「酒の『とも』」として捉えられなくなった現在でも、「(牛/豚/鳥)肉、魚 、野菜」という並べ方をされるように、「ご飯の『とも』」として捉えられて いることに変わりはない。つまり、「さかな」は、魚類に属する生物の個体 として分類されて「目の前に存在するもの/Vorhandensein」であるよりも先に、 「酒の『とも』」ではなくても、「ご飯の『とも』」として 「手頃に存在するもの/Zuhandensein」であると言うことができる。 > 630 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2020/06/12(金) 00:16:44.20 0 > >>582 > 出たなピンイン太郎 カール・マルクス32 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1584534246/630- 「横『なぐ(殴)り』の雨」とは言うが、「縦『なぐ(殴)り』の雨」とは言わない。 垂直方向に激しい雨は、「『たたき』つけるような雨」であったり、 「『たき(滝)』のような雨」である。「たた(叩)く」ことが面に対して垂直方向 の動きであるのに対して、「なぐ(殴)る」ことは、「な(投)げる」ことや、 「なが(流)れる」ことがそうであるように水平方向の動きだ。これは、 「な(凪)ぐ」ことが、動きが水平方向に収まることをイメージさせ、 「な(馴)らす」ことや「なら(均)す」こと、つまり、「な(慣)れ」を生じ させることが、やはり、起伏や縦の動きを小さくすることをイメージさせる ことと関連しているのだろう。 82 :学術 :2020/06/16(火) 19:05:40.55 0 守護神と殺しあってるほうが依存ないぜ。 83 :学術 :2020/06/16(火) 19:06:28.73 0 さいごはおかあちゃん(嫁)よ。神なんか。 84 :学術 :2020/06/16(火) 19:37:43.74 0 チョウ将軍の先軍政治とかのほうが心にしみるわ。 85 :学術 :2020/06/16(火) 19:43:50.08 0 鳩はちなみに戦争の象徴だ。日本は平和を唱えられないその姿見て。 86 :考える名無しさん :2020/06/16(火) 20:40:00.33 0 唱えるだけで平和になるなら誰も苦労しねえや 87 :学術 :2020/06/16(火) 22:11:11.92 0 平和を求めると斬るけどね。 「思いと裏腹に」というのは、「おも(面)ひ(複)とはうら(=表面の反対側)はら (≒広がっている様態)に」なのだから、おもて(表)む(向)きの裏の裏、二重反転 ということになる。現実が「思ひを裏切る」とすれば、それは、現実があらかじめ 、「おも(面)ひ(複)」とは無関係の「おもて(表)/appearance」として立ち現れて いるということではなく、「おもて(表)/appearance」の反転の反転として 現れていることになるだろう。そのような現実が、「あらかじめ存在していた 『はず』」のものとして意識されるなら、そこには推論の働きがある。 >>459 このように見ると、「現実が表象/representationに過ぎないならなぜ実際に 効力を発揮するのか」という問ひは、そもそも捉え方を誤っていることが 分かる。現実は、「おも(面/表)ひ(複)」を裏切って効力を発揮するからこそ、 あらかじめそうであったはずのものとして現れるのであり、そのように 現れることがまさに、現実が単なる「おもて(面/表)向き/appearance」 としての現れではなく、「表象/representation/Vorstellung」である ということなのだ。 事後的に「あらかじめそうであったはずのものとして立ち現れる現実」 (Vorstellung)を、あらかじめどのようなものであるのかを知ろうとして、 事前にあらゆる手を尽くしても、「おも(面/表)ひ(複)」は、結局は、 裏切られることになるのです。たとえ、現実にすべてが「おも(面/表)ひ(複)」 どおりに運ぶように一時的には見えることがあったとしても、それは 「思い過ごし/おも(面/表)ひ(複)過ごし」でしかなく、「思い切り/ おも(面/表)ひ(複)切り」の良さという決断主義によって、究極的である 「現実の不可解さ」を克服することはできない。 >日本語における「な」の発音の用法を記述するのにフランス語の動詞、 >《serrer》の再帰用法、つまり、《se serrer》を利用することが有効である 日本語の或る発音の用法を記述するのに日本語の別の発音の表現をメタ言語 として用いると、それにより必然的にずれが生じてしまうが、日本語とは 無関係の別言語の表現をメタ言語として媒介させると、生じるずれを 意識しながらも、それなりに適切にメタ言語として用いることができる 日本語の別の表現を探し出すことができる。 ここで、フランス語をメタ言語として用いて「な」≒《se serrer》 から考えるなら、「な」によって表現される様態を、別の日本語の 表現をメタ言語として用いて記述するなら、「密な寄せ合ひ」と いうことになるだろう。つまり、「な」を用いた表現を 以下のように解釈することができる。 「な(綯)ふ」≒「反復的/相互的に密に寄せ合ふ」 「なは(縄)」≒「反復的/相互的な密な寄り合ひ」 「なは(那覇)」≒「相互的な密な寄り合ひ」、すなわち、「集落」 「なへ(苗)」≒「反復的/相互的な密な寄せ合はせ」 「なみ(波)」≒「累加的な寄せ合ひ」 「な(慣)れる」≒「密に寄り合ふようにする」 「な(成)る」≒「密に寄り合う」(例えば、「実が成る」=「結実する」、 英語の"constitute"に近いと考えることができる) 例えば、「寄る年波には勝てない」という表現は、 「年(齢)の『累加的な寄せ合ひ』(の効果/作用)には勝てない」 という意味であると理解することができる。 >「累加的な寄せ合ひ」 「密な」を抜かしてしまっていたな。 より正確には、「累加的な密な寄せ合ひ」 >「な(成)る」≒「密に寄り合ふ」(例えば、「実が成る」=「結実する」、 >英語の"constitute"に近いと考えることができる) このように見ると、「なら(並)ぶ」は、「なる+ふ」という「なる」の 再帰表現であり、「おのれ(己)を密に寄り合はせる」ことを表現している ものと理解することができる。 >>466 >「おのれ(己)を密に寄り合はせる」ことを表現しているものと理解することができる。 「おのおの(己/各々)が密に寄り合ふ」と言い換えた方が簡潔で分かりやすいかもしれない。 以上のように見てくると、自らが母語とする言語の表現についても、 他者の言語における適切な表現を、記述のためのメタ言語として媒介させることが、 最初は無駄な遠回りのように思えても、最終的には、自らの母語における 適切な表現解釈を促す、母語によるメタ言語記述を洗練させるのにも大いに 役立つことが理解できるはずである。 「自らの母語における適切な表現解釈を促す記述のためのメタ言語として 媒介させることができる他者の言語における適切な表現を探求して、 母語によるメタ言語記述を洗練させる」、そのような試みを弛むこと なく繰り返すことこそが、真に「論理国語」と呼ぶにあたひ(価)するのではないか? 「な(己/汝)」≒「密に寄り合ふ者」、すなわち、「ともがら」 「汝自らを知れ(なんじみずからをしれ)/ "γνῶθι σεαυτόν"」とは、どのようなことか 覚悟性は、現存在の本来的開示態を表現するものである。 開示態とは、ある存在者が実存しつつみずからおのれの《現》を存在し得るように、その存在者を構成するものである。 いかなる了解にも、それにふさわしい気分があり、いかなる心境も了解的である。 心境的了解は、頽落という性格をそなえている。 頽落的気分的了解は、その了解可能性に関して、話においておのれを分節する。 『存在と時間』 「か、き、く、け、こ」において活用されて、「求心性」を表すように 用いられる日本語の「く」(その活用において、例えば、「き(来)」、 「こ(此)」)は、中国語において「求 ピンインqiú」として用いられる 表現を流用したものだろう。 そのような求心性は、例えば、「『こ(請)』ひもと(求)める」の「こ」の 用法にも見て取ることができるだろう。 心など存在しないとか、人文と哲学は無関係だとか言う人がいるが、 私はそのように思ったことはない。確かに、心理学が研究対象とする ものとされる「心理」などというものは存在しないし、「心ない人」 も存在するだろう。しかし、心は、「心のあや」として人の織りなす文 を映し出すものとして現れるのである。その「心のあや」を読み解こうと することなしに、哲学をすることはできない。 人の織りなす文を映し出すものとして現れる心は、人それぞれの 孤立した内面に切り離されて存在するものではない。心がそのように 切り離されたものとして存在するように感じられるとすれば、 それは、自らが人の文から自由となったからではなく、むしろ、 その文に絡めとられて、み(身)づから(体)を己(おのれ)があやつる ことができない状態に陥っているからだろう。人は、人の文から 切り離されることによって「心ない人」として振る舞うのではなく、 逆に、それに縛り付けられて身動きがとれなくなることによって、 そのように振る舞うのだ。 ハイデッガーにおいては単純に「自分に閉じこもらないよいにしよう」という話ではない。主観も私も、先行する生の内に有るあるものである。主観や私よりも〈有る〉は先行する。その〈有るの理解〉に耳を澄まさざるを得ないのが良心である。〈有る〉が主観や私よりも、或は論理よりも合理性よりも先行し、導いていく。 それは我々が内省するときに、そのような超越は納得されるものである。 だからこそ、学校教師的人間の諭しは最終的には無意味にもなる。それもまたハイデッガー存在論からわかる話である。 Der Gegenwart entfremdet. – Es hat große Vorteile, seiner Zeit sich einmal in stärkerem Maße zu entfremden und gleichsam von ihrem Ufer zurück in den Ozean der vergangnen Weltbetrachtungen getrieben zu werden. Von dort aus nach der Küste zu blickend, überschaut man wohl zum ersten Male ihre gesamte Gestaltung und hat, wenn man sich ihr wieder nähert, den Vorteil, sie besser im ganzen zu verstehen als die, welche sie nie verlassen haben. Friedrich Nietzsche: Werke in drei Bänden. München 1954, Band 1, S. 718. >>462-463 >日本語における「な」の発音の用法を記述するのにフランス語の動詞、 >《serrer》の再帰用法、つまり、《se serrer》を利用することが有効である 遅ればせながら今頃になって気づいたが、「なか(中/仲)」の「な」 も>>463 に列挙したのと同様に全く同じ「な」の用法だ。「な・か」の 「か」は、「かかや(輝)く」、「かがみ(鏡)」、「かま(釜)」、「か(交)ふ」、 「かす(掠)める」、「かも(醸)す」、「か(蚊)」、「かろ(軽)し」などの 場合と同様に、「瞬間的に触れて再び離れる」様態として説明することが できる反射性を表していると考えることができるだろう。 岩波古語辞典では、「なか」は以下のとおり説明されている: なか【中】《古くはナだけで中の意。カはアリカ・スミカのカと同じで 地点、所の意。原義は層をなすもの、並立するもの、長さのあるもの などを三つに分け、その両端ではない中間にあたるところの意。...》 「密に寄せ合ふことにおける反射性」が「中(なか)」である。 「瞬間的に触れて再び離れる」様態として説明することができる、 「か」という発音によって表現される反射性とは、用いられる発音は 異なるものの、例えば、英語の"repel"という表現に感じられる反射性、 つまり、表面において撥ね返される反射性である。 つうと言えばかあ(読み)ツウトイエバカア デジタル大辞泉の解説 《「つうと言えばかあと答える」から》互いに気心が通じ合って、 ちょっと言っただけで相手の言おうとしていることがわかること。 「つうと言えばかあの仲」→つうかあ https://www.etymonline.com/search?q=between between (prep., adv.) Old English betweonum, Mercian betwinum, "in the space which separates, midway, in the midst, among; by turns," from bi- "by" (see by) + tweonum dative plural of *tweon "two each" (compare Gothic tweih-nai "two each;" from PIE root *dwo- "two"). 検索していてたった今、知ったばかりのことだけど、 中国語で「貝」という漢字は、「ピンインbèi」と読まれるが、 日本語に入ってきて音読みで「かひ」と読まれ、古い中国語でも それに対応する発音であるとされる「介」は、 漢字の成り立ちとしては、 https://en.wiktionary.org/wiki/ 介 >Ideogrammic compound (會意): 人 (“person”) + two marks encompassing, indicating "in between" のように2つの部分の対応関係を表していて、 意味としては、貝殻を表すようにも用いられるんだね Definitions seashell; shell https://ja.wikipedia.org/wiki/ 魚介類 >漢字の「介」は鎧をつけた人の形象であり、硬い甲羅を持つ貝、エビ、 >カニに使われるようになったが、「魚介」ではイカ、タコ、ウニといった >海藻以外の水産物が含まれるようになっている この説明は、いかにも嘘くさいなw 誤:音読みで「かひ」と読まれ 正:音読みで「かい」と読まれ 「嘘くさい」というのは、関連する事象について行われる説明を まとめてネットワークを形成するものとして総合的に見たときに 整合性に乏しいということだ。 犯行時のアリバイが崩れるように場当たり的な説明が疑わしくなる。 日本語で「貝」は「かひ」と読まれるが、これは当て字だ。 日本語で「かひ」という表現を聞いて、まず一般にイメージするのは、 二枚貝だろう。巻貝の類も「かひ」と呼ばれるものの、「法螺貝(ほらがい)」 がそうであるように、特定の種類を指すように形容される。 ところで、中国語で「ピンインbèi」と読まれる「贝(貝)」は、 二枚貝ではなく、タカラガイ(子安貝)の形象を代表している。 https://en.wikipedia.org/wiki/Cowrie#/media/File:Different_cowries.jpg 反省とは、顕(あら)はとなった現実である現前を裏(うら/心)に返(かへ) してみること、つまり、覆(ひっくりかへ)して観ることであり、 試行錯誤とは、その反省によって得られた思(/面)ひ(/覆)どおりに 現実が出で来る(a venir)かどうか、思ひ/面覆と現実の対応を 確(た/手しか)かめようとすること、すなわち、対応の手応へを 得ようとすることだろう。 「おそ(襲)ふ」という表現について、以前、次のように書き込んだ。 819考える名無しさん2019/06/05(水) 07:23:55.300 >>804 おそ・ふ (一)【圧そふ】押さえつける。圧迫する。 出典土佐日記 一・一七 「船はおそふ海のうちの天(そら)を」 [訳] 船は押さえつける、海面に映る空を。 (二)【襲ふ】 @不意に攻めかかる。襲いかかる。 A(地位・家督などを)受け継ぐ。 この分け方は不適切だろう。 (二)の「おそふ」には、同じ「襲」という感じが当てはめられているが、 この「襲ふ」は、おそらく、@(一)と同じく「お(押/圧)す」の再帰形、 「お(押/圧)す+ふ」≒"impose onself on ~"と、A「お(負)ふ」⇒ 「お(負)そ(添)う」≒"assume~ on onself"が重なった騙し絵である。 誤:onself 正:oneself しかし、「(二)【襲ふ」、すなわち、「@不意に攻めかかる。襲いかかる。」 と「A(地位・家督などを)受け継ぐ。」の関係について、今になって 考え直してみると、このように複雑に考えるべきではなく、むしろ、より 単純に、以下のように解釈すべきであったと思う。 @「お(押/圧)す+ふ」≒"impose oneself on ~" A「お(押/圧)す+ふ」≒"impose ~ on oneself" そのように考えるべき理由は、英語の"overtake"および"succeed"という 表現をメタ言語として参照することにより、明確に説明することができる。 岩波古語辞典では、「おそひ【襲ひ】」は、《オシ(押)オヒ(覆)の約。 上から押しつけ、かぶさる意》と説明されている。 確かに、この説明は、「@不意に攻めかかる。襲いかかる」、すなわち、 英語で表現するなら"overtake"、“take by surprise, come on unexpectedly” https://www.etymonline.com/search?q=overtake に相当する用法での「襲ふ」には妥当であるように見える。しかし、 「A(地位・家督などを)受け継ぐ」、すなわち、英語で表現するなら、 "assume"、"succeed"に相当する用法の説明としては不適合である。 「A(地位・家督などを)受け継ぐ」の用法における「襲ふ」は、「後継者(= "successor")」として家督を継ぐことや、襲名することなどの場合に代表 されるように、自らが「後継者」として何かを負う立場となることを表す ように用いられ、「お(押)し・おお(覆)ふこと(≒"overtaking")」を表して いるわけではない。そうではなく、既に述べたとおり、「おそ(襲)ふ」 という再帰表現が可能にする柔軟な関係性から、@の"overtake"としての 「おそ(襲)ふ」が"impose oneself on 〜"を表すのに対して、Aの"assume" や"succeed"に相当する「おそ(襲)ふ」として、"impose 〜 on oneself" を表していると考えることができる。 ここで、"succeed"の語源的な説明を参照すると、以下のとおりである。 https://www.etymonline.com/search?q=succeed succeed (v.) late 14c., succeden, intransitive and transitive, "come next after, follow after another; take the place of another, be elected or chosen for" a position, from Old French succeder "to follow on" (14c.) and directly from Latin succedere "come after, follow after; go near to; come under; take the place of," also "go from under, mount up, ascend," hence "get on well, prosper, be victorious," from sub "next to, after" (see sub-) + cedere "go, move" (from PIE root *ked- "to go, yield"). Aの"assume"や"succeed"に相当する「おそ(襲)ふ」が、再帰表現として、 "impose 〜 on oneself"を、すなわち、「〜が自らに上から押/圧しかかる ようにする」という形式の表現であるのに対応するように、"succeed"は、 "sub-(下方に) + cedere(引き下がる)"、つまり、「上から授けられるもの を下方に引いて受ける」という形式の表現となっていることが分かる。 さらに、たとえ、後継者の地位を得ることが事実上、実力行使による "overtaking"、すなわち、まさしく、@の用法における「おそ(襲)ふ」 ことによってであったとしても、自らを「正統な後継者」として認知 させるには、その「おそ(襲)ひ」が、事後的にはAの形式で表現される ことが重要であることも理解できる。なぜなら、後継者としての自ら の地位が"overtaking"によるものであると認めたなら、さらなる後継者 を選ぶ自らの権限も同様の"overtaking"の企ての対象となることを、 形式上、認めることになってしまうからだ。 >>501 誤:"impose 〜 on oneself"を、すなわち 正:"impose 〜 on oneself"、すなわち 日本語の表現の解釈は、再帰表現が柔軟に運用されていることを認識しないと、 無用に複雑になり、他の言語における表現との対応関係も捉えにくくなる。 こいつらって、なんでハイデガーの主張したいことを簡単に述べられないのだろう。 結局は自分でも理解不能なる文章を、この文章は、こうも翻訳もできるとなと解釈し 延々と理解不能論文の講釈をし続けていくのだろう。 >なんでハイデガーの主張したいことを簡単に述べられないのだろう。 ハイデガーは、ハイデガーが主張したいことを簡単に述べられたの? >>496 における私自身が以前に提示した解釈の問題点は、 能動的である「おそふ[@不意に攻めかかる。襲いかかる]」と対比される 「おそふ[A(地位・家督などを)受け継ぐ]」が明らかに示す受動性を、 「お(負)ふ+」という形で、無用に再帰性をさらに追加することによって 解決しようとしてしまったことだ。他の事例において「+ふ(覆/複)」」 という再帰表現の形式が可能にしている多様な関係性を考慮するなら、 この受動性を解釈するのに「お(押/圧)す+ふ(覆/複)」をさらに複雑に して考える必要はなかったのである。最も基本的な問題点は、国語学 も言語学も、日本語の「+ふ(覆/複)」」を再帰表現として認識していない 点にある。いくら辞書に記載される語彙の意味を覚え、文法を学んだ ところで、それだけで言葉の表現の解釈が可能になるわけではなく、 むしろ、自動的な表現の置き換えによって理解したような錯覚に陥り、 自然な推論の働きが妨げられることが、しばしば、生じるのである。 万世一系の継続性/連続性ということで言えば、成功した(≒"successful") おそ(襲)ひ(≒"overtaking")が正統な継承/おそ(襲)ひ(≒"sucession")という ことになるだろう。無論、不成功(≒"unsuccessful")となる おそ(襲)ひ(≒"overtaking")によって一時的にその地位を得たものは、 継承者ではなく、「僭主/簒奪者(usurper)」である。 日本語の「日本語としての古代からの連続性」についても同じことが 言えるだろう。 人間という綱を渡る綱渡り芸人は、道化師によって跳び越えられて綱を踏み外し、 地に落ちるのか? 技術の継続的な発展という「進化」も含め、進化のプロセスは、展望的/prospective には、既存の事物/事象を試行錯誤によって流用するブリコラージュ、すなわち、 既存の事物/事象をおそ(襲)ふ(≒"to overtake")プロセスであるが、 回顧的/retrospectiveには、世代の継承/おそ(襲)ひ(≒"sucession")という 進化の連続性である。 展望的/prospectiveな視点と回顧的/retrospectiveな視点の切り替へを、 錯覚を生じさせるように絶えずそのレトリックおいてに駆使しているのは誰か >>507 訂正 継承者ではなく、 ↓ 継承者(successor)ではなく、 >>507 https://www.etymonline.com/search?q=usurper usurp (v.) early 14c., from Old French usurper "to (wrongfully) appropriate" (14c.), from Latin usurpare "make use of, seize for use," in later Latin "to assume unlawfully, trespass on," from usus "a use" (see use (v.)) + rapere "to seize" (see rapid (adj.)). Related: Usurped; usurping. 日本語の表現を記述するための適切なメタ言語を模索する試行錯誤であり、 適切なメタ言語を見出すことが、自他の観察がどのように照応するのかを 確かめることを可能にし、その手応への確認が哲学となる。自らの過去の 書込みを振り返っても、そこに多くの錯誤が含まれることに気づかされる が、錯誤であれ、書き込むことが歩みを促し、それなしには試みとして の思索の歩を進めることができない。 或る学問を「継承する/おそ(襲)ふ」とはどのようなことか? 誰がその正統な継承者であり、誰が簒奪者(usurper)なのか。 学問の正統な継承者であるとはどのようなことか? 日本語は、中国語の表現を大々的に流用することによって形成されており、 その流用なしには日本語と呼ぶことのできる言語が成立し得なかっただろう と思われるが、流用する中国語の表現の用法において、中国語を正統に 継承するもの、すなわち、「中国語として」の規範に則るものであることを 「正しさ」の根拠とすることなく、むしろ、表現が流用に由来することを 隠蔽している。要するに、日本語は、その形成において暗黙に中国語の 表現を大々的に流用するとともに、その後も中国からの表現を漢語として 明示的に大量に借用してきた言語ではあるが、中国語の正当な相続者/後継者で あると主張してきたわけではない。このため、日本語は、中国語の表現を 流用した「ピジン言語」から進化した言語であると言うことはできるが、 中国語であることを「僭称」する「亜流の中国語」などではない。 現在の国としてのアメリカ合衆国の形成は、英国による植民地化政策なしに あり得ないが、米国は、英国の植民地であることを継承する国ではない。 人々の生活の「持続可能性」が議論される場合、決まって「人類の未来」と いったようなテーマが掲げられるが、原理的に考えるなら、まず問われなければ ならないのは、「人類の生活はいつから持続しているのか」だろう。 人類の生活が持続しているのは、200万年前からなのか、40万年前からなのか、 1万年前からなのか、または数千年前からなのか、あるいは近現代と呼ばれる 時代に入ってからなのか。いずれにせよ、「持続可能性」が問題にされるとき、 「以前の時代の生活」に戻ることは想定されておらず、それが可能であると 考えられてもいない。問題とされるのは、常に「今の生活」であり、それが 「持続可能でない」とされるのである。ところが、1万前に遡ろうと、200万年 前に遡ろうと、「人類」(それがどのように定義されるにせよ)の「今の生活」が、 その環境との関係で「持続可能」であったことが未だかつてあったとは考え られない。というよりむしろ、「以前の時代の生活」が持続可能であったなら、 「持続可能でない」と考えられている「人類の今の生活」はない。 “一なるものの意識が(略)この上なく美しく崇高な意識として あらわれるすがたを見たいのなら、イスラム教に目をむけねばならない。 たとえば、すぐれたペルシャ文学ジャラール・ウッ・ディン・ルーミー” ― ヘーゲル 『精神哲学(哲学の集大成・要綱 第3部)』 長谷川宏 訳、作品社 (2006) ドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」関連 訳本 『存在の一義性:ヨーロッパ中世の形而上学』 ドゥンス・スコトゥス 著、八木雄二 訳註、知泉書館 (2019) 『存在の一義性:ペトルス・ロンバルドゥス命題註解』 ドゥンス・スコトゥス 著、花井一典、山内志朗 訳、哲学書房 (1989) 解説 『存在の一義性を求めて:ドゥンス・スコトゥスと13世紀の<知>の革命』 山内志朗 著、岩波書店 (2011) 『ドゥンス・スコトゥス:魅惑の中世』 野中幹隆 編、哲学書房 (1988) >>522 山内はスコトゥス理解のために、アラビア語とイスラム哲学もやったと言っている 三浦春馬さんの自死について、小林秀雄、ハイデガー、吉本隆明を読みながら考える。 https://youtu.be/dvW4fx53MBA >>8 (1)デリダの脱構築(déconstruction) → (2)ハイデガーの解体(Destruktion) → (3)ルターの解体(destructio) → (4)イエス(新約「マタイ」) (3) ルターはギリシャ的スコラ神学を解体し、原始キリスト教的性格を洗い出した。 “19. 神の「見えない本質が」「造られたものによって理解されると認める」者は、神学者と呼ばれるにふさわしくない〔ローマ 1:20〕。” “20. だが神の見える本質と神のうしろ(Posteriora Dei)〔出エジプト 33:23〕とが、受難と十字架によって理解されると認める者は、神学者と呼ばれるにふさわしい。” ― マルティン・ルター 「ハイデルベルグ討論」 『ルター著作集 第1集 第1巻』 ルター著作集委員会 編、聖文舎 (1964) (4) “律法または預言書をこわすためにわたしが来たと思ってはならない。わたしが来たのはこわすためでなく全うするためである。(マタイ 5:17)” ― 『新約聖書』 前田護郎 訳、中央公論社 (1983) “Think not that I am come to destroy the law, or the prophets: I am not come to destroy, but to fulfil.(Matthew 5:17)” ― The Holy Bible (King James Version) Seyn フォレスト YouTube篇 1 ハイデッガー全集第65巻『哲学への寄与論稿』と現代日本社会 https://youtu.be/zv1qISJhUqY 生まれる前から戦場に投げ込まれるように戦地に投入されるのが人間のありようだ。 我先にと命を投げ捨てていけというようなところ。 世界内存在である、ということを考えれば良い。 世界はハイデッガーにおいては有るものではなく 有るものが有る場のこと。何かが有る場所。人間が 何かを気にし、例えば「ハイデッガーが言っている ことって何?」とかね。「彼女は僕のことを好きなのか嫌いなのか?」とか。何かがイライラする、と いった、いつでも〈私〉が〈私〉である情態に左右 されていく、そのこと。私が私として生まれることを 選んだわけではないが〈私〉の情態を生きなければ ならない、そのことでしょうね。その〈私〉とは 場所といっても直観で見いだされる事物ではなく 、生きられている時間。ということ。え 世界内存在ってやつですか? 後半は気遣いのことです? カント研究者としてのハイデガーって 乗り越えられるべき存在なんだろうな。 てかすでに乗り越えられてるかな? Da-sein is essentially de-distancing. §23 The Spatiality of Being-in-the-World 誰かいますか? ハイデガーの用語について詳しく教えてください >>239 ハイデッガー自身の言葉を調べ考えてみると ると分かってきますよ。 現有が実存する限り、現有の有とともに世界は現有に 対して先-投されている。実存することがとりわけ 意味するのは、自らに対して世界を先立って-投げる ことであり、しかもそれは、この先投の被投性と ともに、すなわち現有の事実的実存とともに、 そのつどすでに直前のものもまた発見されている、 という仕方においてなのである。(『現象学の根 本ゥ問題』第15節) 失礼。>>539 でしたね。 >>554 のように、世界は〈私〉が意識・意図するより 先に、既に投げられている。これは、言い換えるなら 、〈私〉は〈私〉が意図するより先に既に〈私〉で ある、ということ。〈私〉という経歴であり〈私〉 という歴史でり、それは〈私〉が意図する前に既に ある。〈私〉は既に〈私〉として投げられている。 その事実からはどう頑張っても逃れられはしないので ある。〈私〉が世界として、既に投げられている、 がハイデッガーにおける被投性でよいと考えます。 被投性は 私は自分の意志の有無に関わらず存在してるって感じですか >>555 に加筆すると、勘違いしやすい点として、 被投性というのが、たとえば日本社会とか、山田家だ とか、有るもの、ハイデッガー語でいう直前のものの 中に、ではない、ということです。ハイデッガーの場 合、被投性は〈私〉として投げられている、という 事実性を指します。〈私〉である事実性と言っても よいかもしれません。元々ハイデッガー語において、 世界とは有るものの集積ではないからです。今は 『存在と時間』にしても親切な索引が付いてますし、 ハイデッガー語について直接調べるのは簡単です。 ご自分で調べるのが良いと思います。 >>557 〈私〉が有ることは、〈私〉で有ることは、〈私〉が どこまで関わっているのか、といえば、気がついたら 、というのがありますね。たとえば自意識とは、 〈私〉がかような自意識を持とうと意図して 持っているわけではない。気がついたら、そういう 自意識を持っている、みたいな。そこで意志をもって 自意識を変更する、て出来るのか?という問題が ありますね。そういうのが〈私〉である、世界が 先に投げられている、という問題だと思います。 >>97 ポストモダン界隈で繰り返し使われてきた言葉「戯れ」「遊動」 デリダの「戯れ jeu」 → ハイデガーの「遊動 Spiel」 → ニーチェ+ヘラクレイトスの「戯れる子ども pais paizon」 → サンスクリット語の「līlā(divine play 神の戯れ)」 “『リグ・ヴェーダ』などと称せられる一切の知識の宝庫は、まさに努力することなく戯れ(līlā)の原理によって、人の吐く息のように、大いなる存在から生じる――「この『リグ・ヴェーダ』は、この大いなる存在から吐き出された」などと聖典に説かれている。” ― シャンカラ 『ブラフマ・スートラ:シャンカラの註釈 上』 湯田豊 訳、大東出版社 (2006) p119 この語には、古代インドの神の目的論的ではない非意志的な生成力というニュアンスがあり、西洋哲学の特異点にしてその後の現代思想に大きな影響を与えたニーチェの哲学に通じるところがある。 ニーチェの友人パウル・ドイセンは、当時のヴェーダーンタ哲学やシャンカラ研究の第一人者。 “〈略〉ブラフマンと合一することが解脱であり、ブラフマンは永遠に清浄だからである。」これらの言葉は、 シャンカラの注釈によるものであり、わたしはこの言葉を、ヨーロッパにおいてインド哲学の最初の精通者となった友人のパウル・ドイセンから引用している。 〈略〉[世界の]最大宗教のうちでもっとも深いこの宗教の信者たちは語る。「深き眠りのうちで、魂はこの肉体から抜け出し、いと高き光のもとを訪れ、かくしてみずからの姿をまとう。魂はそこで彷徨するいと高き精神と一つになり、女と、車と、友とともに、戯れ、遊び、楽しむ。 荷物を引く獣が貨車に繋がれているように、プラーナ(生の息)はこの肉体に繋がれているが、魂はもはやこの肉体という付属物に思いをいたすこともない」。”(3:17) ― ニーチェ 『道徳の系譜学』 中山元 訳、光文社 (2009) p266-268 えっ? 未だ哲学科教授でハイデガー哲学を教えているの? 昔は慶應でもサルトル直接講義がありましたよ。 異常なるワクワクで参加した哲学科学生達、今どうしていますか? >>565 いますよ。哲学科でハイデッガー研究してる人はいる 。当然でしょ。20世紀の思想家として外せない のは間違いない。関東にも関西にもハイデッガー 研究会がある。大学の研究者で構成され、論文の 発表や海外からハイデッガー研究者を呼んだり して講演会を開いたりしてる。 >>566 サルトルの直接講義ではなくて直接講演でしょうね。 1966年に慶應義塾大学の招聘で来日した折。 慶應義塾大学で講演をやっている。階段教室でやった らしいが、講演をそのままカメラに写し、他の教室 8室にも同時中継したらしい。当時としては破格の 先端技術でしょう。 サルトルの研究も一応行われている。これも検索する と出てくる。立教大学の澤田直。南山大学の谷口 佳津宏。札幌国際大学の水野浩二。とかすぐ出てくる 。 あっ! 偏差値高い文学部哲学科生よ!! なんて憧憬なんてされない時代です 哲学科とか成績悪いやつの吹きだまりだろ 美学は女子の人気あったそこそこやろうけど後は臭いチー牛野郎ばっかり 「言わずもがな」のことをわざわざ人に気づかせるように表現して しまおうとするのが、本来の文学であり、どのように気づくのかに ついて、人に分かるようにメタ言語で説明してしまおうとするのが、 本来の哲学なのだから、本来的に「文学」や「哲学」が、「女子」や、 「女子」の人気を得ようとする「男子」に受けがいいわけがないでしょうw 大手企業で派遣してた時に管理部門の正社員の噂聞いてたら休職してる人が哲学部出身だったのを覚えてる 休職でも給料7割くらい出てたらしいからいいご身分だと思った 天下りや官僚は対費用効果出してないいいゴミ分の筆頭だが当たり前だとおもってやってる 哲学出身だと理由つけないと自分が納得できないから自ら病んで整合性とろうとする。いいゴミ分だというのは大差ない。 サルトルはあまり出来ていないな。ヴォヴォワ―ル仕上げれてない。 そこに名前が出てる日本人のほうがいいんじゃない? サルトルにかじりつくのも無意味かもしれない。しかしできない学生でも 責任もってかかわれるなら関わらないといけないが 関わったとして成績が上がるかどうかはわからないところだ。 哲学なんて志望すると男が余る時があるから男女比やかかわりの長さを調節しない と務まらないだろう。 >>574 日本に哲学部はないぞ? 哲学科という硬派な名称を残した大学もほぼない 今『存在と時間』読んでる。面白いけどけど難しいなあ。 でもようやく下巻も残すところあと200ページほど。これでも未完なのか… 完成したところで大差なかったのではないかという気がするが 入門書読んでから存在と時間読んだほうがいいですか? いきなりいけるもん? 存在はカントの言う物自体とは違う物なんでしょうか? >>587 物ではなく意味(理解の基盤)なので カントの物自体は何も分からしてくれんやろ 分析哲学的には「存在」とか「無」とかは構文論的形式だか論理形式とかだから そもそも問いの立て方自体が間違ってるなんていわれたりするそうだが。 個人的にはそれもなんか納得いくようないかないような、という感じ… 『存在と時間』面白かったけど『形而上学入門』の概要さらった感じだと こっちのがさらに面白そうで興味をそそられる 形而上学入門っていったら、 「なぜ、存在者があるのか。そして、むしろ、無があるのではないのか?」 だな ハイデガー事典買ったけどこれむっちゃおもろいな 暇があれば読み耽ってるわ これで一生暇潰せるw 存在っていうのはあってもないような死にざまのことじゃないか。 形而上学入門買ったぜ。今は古本がネットで安く手に入るから哲学書読むのが 趣味・娯楽の人間には非常にありがたいね。 Z-library に創文社のハイデッガー全集のPDFが多数アップロードされている。 出版社は抗議すべきではなかろうか、、 ハイデガーが初期の著作『存在と時間』の後に多くのニーチェ講義録を残したのは、「死への先駆」からもたらされる以上の現存在の可能性を、ニーチェの永劫回帰という「時間論」によって見出したのではないか。 ハイデガーによれば、ニーチェの永劫回帰を信じることによって、自分の決断と行動、人生での創造と計画が、すなわち存在全体が全く別様に変容するという(ハイデッガー全集第44巻第12節 「信仰」としての回帰思想)。 永劫回帰の思想は、「これを思考する者を最高の決断へともたらし、それによって、思考する者は自分自身を越えて成長する」(同書第15節) 中〇生のチクビの存在は政府の強制から逃れられるというテーマについて話し合いませんか? どうして、中〇生のチクビは異常なのかという哲学を自由に考えたいんですけど ハイデガーは哲学者でもあり哲学学者でもあったわけだが、 後者に関して注目されてるような気がしないでもない。 自由な思想なんだけど、アルバイトの中〇生のチクビの異常性を隠し過ぎてるという哲学者はいない? なんかハイデガーの顔と頭って真四角だから碁盤や将棋盤みたいな感じがする。 長老も韓国のチマチョゴリがうらやましいって言ってました アイヌ系の教授がさ、大森正蔵を研究してたら、そういう本を読む子は同和!とか悪口言うらしいんだよ。 ああいう押し付けがましい人って捕まらないんですかね。 おれ〜、精神病院の通院歴があるから、将来、どこかの学校の校長になろうと思うんだ 通院歴がないと、自殺とか殺害とか人生の深淵は見えて来ない 人に気付かせないマナーもあるし 一人の時間を楽しむ哲学を考えたんだけど 最低限の心得はあるつもりだけど >>611 ダニエル・カールとキャラが被ってるから、ロシア発言止めてもらえない? 君にはオリジナリティーが感じられないんだよ ハイデガーを知る上で他の哲学者でもやっておいた方が良いのって誰でしょうか? TST 量子力学のスリット実験でいうと、AとBはどちらも揺らいでいるが 観察者が観察すると、最初から決まってるAは+ にBは− にただ現れるということでしょうね。 観察される前はただ揺らいでいるが、結果は最初から決まってる? >>622 そういう意味だったか じゃあ今更だけどガッズトントンって何の略? 俺は教授の次は政治家になろうと思うんだ。 俺は選挙に出る人だから、選挙に出そうな哲学徒がいたら教えてもらえませんか? 一位をかけて勝負しないといけないんで。 椹木野衣の反アート入門に先人として解釈されて思想紹介 存在と時間はどの出版社から出てるのがおすすめですか? 読み比べはしたことないので優劣についてはわからないけれど、自分が読んだちくま学芸文庫版は 本文中のギリシャ語に訳はおろかカタカナの読み仮名さえあてられていなかった。 さらに巻末の索引においては、それらを日本語の五十音順に並んだ語句の内からさがさなければいけないので 目的の単語をみつけるのが一苦労ということがちょくちょくあった。ただ逆に目立った不満はそれくらい。 美人の生徒とセックスしてる?大学生だから合法だと思うんだけどさあ。 下巻が未完となったハイデガーの『存在と時間』の構想の根底には、ニーチェの最後期の思索の再構成の作業が据えられていたにちがいない(木田元著『マッハとニーチェ』P.340)。 「ニーチェの最後期の思索の再構成の作業」とは、最後期の遺稿集『力への意志』から最後期の思索を再構成していた作業のことである。 戦争して背広の似合うダニエル・カールみたいな待遇を手に入れたかったんだけど ちくまで読んだけど、半分も理解できなかったから 光文社の再チャレンジしてみたいけど、全部そろえるとなかなかのお値段だな こら グタグタ グタグタ 授業中まで喋りやがって 君らは僕をバカにしてるのかもしれないけどね 僕が偏差値の高い学校に転校すれば、一流の教師になれるんですよ ハイデガー=フランスの医者=就活日本左翼=アウシュビッツ 著書一覧をみてその数にびっくり そのくせこいつをYouTubeで検索しても存在と時間だけ 数打ちゃ当たるの極みみたいな奴だな おもしろそうやけど難しいから誰も読まんのよ そのうえ存在と時間は未完やったから、にわか哲学オタクの妄想の余地があるから群がるんや Podcastのそれ哲ラジオさんのハイデガー回 話の主旨ではないけど、なぜハイデガーが実存主義者ではないかがわかりやすかった #119 そもそも哲学って何だっけ?ハイデッガーが感じた違和感の正体 作成者:哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ https://podcasters.spotify.com/pod/show/soretetsu/episodes/119-e25m0p1 何とか読んだら人生変わるほど人生甘くはない。人生もハイデッガーも甘くは ない。問題意識、経歴、経験、今の環境。など、その人の読書の質を決める要素 が合えば良い読書にはなる。しかしああいうことを聞いてくる輩が何を読んでも 知れてると多くの人が言うであろう(笑)それはまったく正しいことである。 ハイデガーは初見殺しだからなあ それでも途中から読んでやってる感じがたまらなくなる。 創文社から東京大学出版会に版元が変わってから新しい翻訳が出てないよう に思うんだが翻訳は進んでるのかね。 全集版の『現象学の根本諸問題』とか愛読してて原理的なかつ哲学史を 読み込んだ叙述にひきこまれてつい読んじゃうんだが。木田元も同じ講義を 翻訳してるが彼のほうのは「です」「ます」調が合わなくて読む気がしなかっ た。全集版は講義録でも文語調で翻訳しててそっちのほうが読みやすい。 大変だろうが頑張って後続の翻訳もぜひ進めてほしいね。まだまだ重要な 覚書やが残ってるはずだし。 パレスチナとイスラエルは図式化して、 古代世界と西洋形而上学社会が武器所持やり合う大戦のとば口にいるのか 力への意志は生命力で結局DNAて事にならないかい。 不条理を孕む地震には、がしかし存在への制約としての価値の世界、〈〜の為の…〉という物の連関、それに よる存在の窮乏にたいする正当防衛という性質がある。地震は、死も含めて事物を破壊してしまうことで、 価値、有益性、道具性の檻、そこへあらゆるものを 回収する枠組み、そこへの従属自体壊す意味があった。真 理とは人間に於ける覆蔵される時=歴史の現成、というところを熟慮すれば、今がハイデガーの時代だというのが どういう意味でなのかがよくわかる。必要性や価値の基準と選別にどこまで行っても絡め取られていくその枠組 みを逃れる衝動が、地震を呼ぶとすれば、的確な同時代の分析になる。それは存在の開けの到来のことだ。 それは好運と呼ぶべきことで、市民社会的な常識や道徳心によって塞ぐべきでない。活断層を理由に原発廃止や電力会社憎悪を愚かにも唱える者は、 時代の真理に盲目である。 よく分からないな。地震による破壊や欠乏と、原発やその電源がないことも欠乏としては同じだから、脱原発でも、存在の開けにはアクセス出来るだろう、君のレトリックからすれば 岸田政権、志賀原発のメルトダウンを隠蔽している模様 ★2 [819669825] 移動制限とか情報統制もこのせいか 志賀原発前の海上に油膜、変圧器から流出か…北陸電力「環境や人体への影響ない」 https://news.yahoo.co.jp/articles/5af04b38ab08ba1596d022086741be97ec9359b0 北陸電力は7日、志賀原子力発電所(石川県志賀町)前面の海上で縦約5メートル、横約10メートルにわたって油膜が浮いているのを確認したと発表した。1日の能登半島地震で破損した変圧器から漏れた油が、雨で側溝から流れ出た可能性が高いという。油膜は0・1リットル程度とみられ、同社はすでに中和剤をまくなどして処理を終えた。 同原発では、能登半島地震で2号機の変圧器が破損し、本体や配管から絶縁用の油約1万9800リットルが漏れ出ていた。同社によると、地震で消火設備が作動した際、噴出した霧状の水に油が混じり、周囲に飛散したとみられる。3日に側溝を点検した際に油はなかったという。 同社は「油に放射性物質や有害物質は含まれず、環境や人体への影響はない」としている。 ※前スレ 岸田政権、志賀原発のメルトダウンを隠蔽している模様 https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1704636733/ 衛星の画像すら国土地理院が隠蔽するなら国民は事実を確かめるために直接見に行ったりドローンを飛ばすしかないじゃない なんで制限すんのやろか 原発が危ういとか悪質なデマはやめましょう。私たちの美しい日本は捏造改竄隠蔽不正なんて絶対にしません! オリンパス「あああああああ!!!」→東証提出文章改竄 東電「あああああああ!!!」→自主点検記録改竄 原電「あああああああ!!!」→敦賀原発2号機審査申請書改竄 神戸製鋼「あああああ ああ!!!」→製品データ改竄 三菱マテリアル「あああああああ!!!」→製品データ改竄 東芝 「あああああああ!!!」→不正会計 富士ゼロックス「あああああああ!!!」→不正会計 日本ガイシ「あああああああ!!!」→不正検査 東洋ゴム「あああああああ!!!」→免震データ改竄 日産「あああああああ!!!」→排ガス燃費測定テスト結果改竄 スバル「あああああああ!!!」→排ガス燃費測定テスト結果改竄 スズキ「あああああああ!!!」→排ガス燃費測定テスト結果改竄 三菱自動車「あああああああ!!!」→燃費測定テスト結果改竄 トヨタ「あああああああ!!!」→リコール隠蔽 ダイハツ「あああああああ!!!」→全車種での車両安全試験不正 日野自動車「あああああああ!!!」→排ガスデータ改竄 スルガ銀行「あああああああ!!!」→不正融資 KYB「あああああああ!!!」→免震検査データ改竄 川金ホールディングス「あああああああ!!!」→免震データ改竄 クボタ「あああああああ!!!」→出荷前検査データ不正 日本製鉄「あああああああ!!!」→水質検査データ改竄 TATERU「あああああああ」→顧客資料改竄 住友重機「あああああああ!!!」→検査データ不正 三菱電機「あああああああ!!!」→設計不正、不正検査 ホシザキ「あああああああ!!!」→架空取引 レオパレス21「あああああああ!!!」→施工不良 かんぽ生命「あああああああ!!!」→不正契約 ジャパンディスプレイ「あああああああ!!!」→不正会計 日立金属「あああああああ!!!」→製品品質検査不正 IHI「あああああああ!!!」→粉飾決算 グレイステクノロジー「あああああああ!!!」→粉飾決算(複数回) シチズン電子「あああああああ!!!」→LED部品試験データ改竄 小林化工「あああああああ!!!」→製品品質試験結果捏造 日医工「あああああああ!!!」→医薬品製造不正10年 商工中金「あああああああ!!!」→景況調査数値捏造、顧客財務諸表改竄、不正融資 旭化成建材「あああああああ!!!」→杭打ちデータ改竄 京セラ「あああああああ!!!」→UL認証品質不正 ネッツトヨタ愛知「あああああああ!!!」→不正車検5000件超 曙ブレーキ「あああああああ!!!」→検査データ改竄 がんこフードサービス「あああああああ!!!」→賞味期限日付改竄 住友ゴム工業「あああああああ!!!」→防舷材検査データ改竄 日本制鋼所M&E「あああああああ!!!」→検査データ不正 大成建設「あああああああ!!!」→施工不良、虚偽報告 東亜石油・昭和四日市石油「あああああああ!!!」→品質検査不正 ビッグモーター「あああああああ!!!」→自動車保険不正請求 トヨタカローラ静岡「あああああああ!!!」→自動車保険不正請求 アジア共栄事業協同組合「あああああああ!!!」→技能実習生斡旋先監査報告書捏造、所得隠し 長崎県環境保健研究センター「あああああああ!!!」→放射線量データ改竄 東京都「あああああああ!!!」→コロナウィルス対策記者会見記録改竄 神奈川県警「あああああああ!!!」→捜査書類偽造 北海道警「あああああああ!!!」→証拠偽造、公的文書偽造 京都大学「あああああああ!!!」→論文貼付画像改竄 岡山大学「あああああああ!!!」→癌治療論文捏造・改竄100カ所超 産経新聞「あああああああ!!!」→内閣支持率調査改竄 鳥取地裁米子支部「あああああああ!!!」→統一協会裁判更生調書改竄 日本政府「あああああああ!!!」→自衛隊日報破棄、公的文書改竄(財務省)、勤労統計改竄、賃金統計改竄 、小売物価統計捏造、議事録改竄、公的行事名簿破棄、公的文書改竄(外務省)、公的文書改竄(経産省)、公的文書改竄(法務省)、環境保全意見書改竄(経産省)、学術会議推薦名簿改竄、公的文書改竄(海上自衛隊)、国会での虚偽答弁139回(安倍晋三)、賃金統計不正(厚労省)、リニア問題議事録捏造改竄(国土交通省)、ジャパンライフパブコメ廃棄(消費者庁)、建設工事受注動態統計改竄(国土交通省)、公的文書改竄(防衛省)、毎月勤労統計調査改竄(厚労省)、ワクチン接種記録改竄(厚労省)、虚偽答弁(高市早苗)、G7合意文書翻訳改竄←new!! 結局フッサールよりヘルダーリンの影響のほうが強いんか? 概ね最近のハイデガー界隈でもナチスへの加担は様々な面から正しく批判されているが、それゆえに明確な反ユダヤの神輿として神格化されそうで怖い もうハイデガーの話は出来なくなるのだろうか 『形而上学の根本的諸概念』P89 意訳 「『気分』というこれこそ嘘をつくことが有り得ないものではなかろうか? こちら側に入り込むものであり、制御することは出来ない 自ずから成る様なもの(こと)であり無理強いはできない(これを) 我々がそこに滑落してゆくほかないものではなかろうか」 あー「気分」だとわかりにくいな「気持ち」だな日本的情感としては あー「滑落してゆく」もわかりにくいな「落ち込んでゆく」だな さて文脈を離れ「気持ち」には上昇と平常と下降の3つがあるように思われる このうち平常というのはなんらかの制御ではなかろうか いわゆる平常心を保つということは何を意味するのであろうか チベット仏教、参照した方が、ハイデガー理解の遠回りな近道かも いかにして哲学は100年前に滅亡したか 1.ラッセルのパラドックスの発見(1902年) 1902年、哲学者のバートランド・ラッセルが論理学における矛盾を発見しました。 このパラドックスは、通常の論理学では回避できないことが判明し、哲学に大きな衝撃を与えました。 2.ラッセルによる新しい論理学の構築(1903年~) 1903年以降、ラッセルはパラドックスの原因が論理学の仕組みにあると見抜きました。 自己と自己言及を明確に区別して混同しないルールを導入し、パラドックスが起こらない新しい論理学の仕組みを構築しました。 3.ウィトゲンシュタインによる論理学の研究(1911年~) 1911年頃から、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインはラッセルの弟子となり、新しい矛盾のない論理学で何が言えるのかを研究しました。 その結果、形而上学や哲学を論理的に扱うことは不可能であることが判明しました。 1921年に出版された「論理哲学論考」で、ウィトゲンシュタインは形而上学や哲学は論理学の誤用から生まれる全く意味のない妄想であると論理学を用いて証明しました。 現在までにこの証明に反証できた人間は歴史上1人もいません。 4.ゲーデルの不完全性定理(1931年) 1931年、クルト・ゲーデルもラッセルの論理学に影響を受け、「論理学によって仮定そのものの正しさをその仮定から証明できるか?」を考察しました。 ゲーデルは、それが不可能であることを証明しました(ゲーデルの第一不完全性定理)。 この定理は、当初ペアノ算術におけるω無矛盾性が証明不可能として確立されましたが、後にロッサーの証明ではペアノ算術における単純無矛盾性、シェファードソンの表現定理により任意のΣ1集合で構成される任意の論理式に対して無矛盾性の証明が不可能であることまで拡張されました。 5.哲学の限界と科学の重要性(1920年代~) 1920年代以降、哲学的な仮定の正しさを論理的に証明する方法は存在しないことが明らかになりました。 アイディアの正しさを決める方法は、現実との比較(実験)しかありません。 つまり、正しさを決める方法は科学しかあり得ないことがわかります。 6.哲学の滅亡(1930年代~現在) 1930年代以降、哲学は完全に滅亡したと言えます。ウィトゲンシュタインやゲーデルの業績により、哲学が論理学の誤用や言語の混乱に基づく無意味な妄想に過ぎないことが明らかになったからです。 20世紀後半以降、かつて哲学の中心的な分野とされていた形而上学や認識論は、ほとんど顧みられることがなくなりました。科学哲学や言語哲学といった分野は、あたかも科学と関連があるかのように見せかけて生き残りを図ろうとしていますが、実証性が皆無であるためそのような試みは破綻しています。 また、倫理学や政治哲学といった実践的な分野も、哲学の立場から行おうとする試みは実証性に欠けるため、科学の方法のみを用いなければなりません。 利己的な遺伝子の概念を用いれば、人間の道徳的行動の進化を科学的に説明することができます。メカニズムデザインの理論を応用すれば、政策立案を科学的に行うことが可能です。行動経済学の知見を活かせば、個人のモラルを考慮に入れた社会制度の科学的な設計もできるでしょう。 さらに、脳科学やAIの発展により、個人の思考を精緻にモデル化したり、利己的な遺伝子によって形成された生得的なモラルの神経基盤を科学的に解明することも可能になりつつあります。このように、科学の進歩によって、かつて哲学が独占していた道徳の領域も、科学の対象となったのです。 哲学者を自称する者たちは、このような科学の発展を無視し、哲学の固有の領域があると主張していますが、それは単なる言い訳に過ぎません。彼らの試みには実証性がなく、科学的な方法論に基づいていないため、哲学が科学と対等に渡り合えるような固有の領域を持っているとは到底思えません。 7.結論 以上のように、哲学は20世紀初頭の論理学の革命によって致命的な打撃を受け、1930年代までには完全に滅亡したと言えます。哲学の中心的な分野は、論理学の誤用や言語の混乱に基づく無意味な妄想であることが明らかになり、哲学は科学の補助的な役割にすら甘んじられなくなりました。 現代において哲学に固有の役割はなく、哲学者と呼ばれる者たちは、科学の成果を借用しているに過ぎません。彼らの試みには実証性がなく、科学的な方法論に基づいていないため、哲学の看板を掲げる意味はありません。道徳や政策、社会制度の設計といった、かつて哲学が独占していた領域も、今や科学の対象となっています。哲学者たちが自ら哲学の看板を下ろさないのは、虚栄心やエゴのためでしょう。 ウィトゲンシュタインが言ったように、「語り得ぬものには沈黙せねばならない」のです。哲学という名の知的遊戯に、これ以上付き合う必要はありません。私たちが追求すべきは、論理学と科学に基づく真の知識のみです。実証性のない哲学的思弁は、過去の遺物となるべき運命にあるのです。 哲学は仮定からその仮定の正しさを導けるというゲーデル不完全性定理に反する妄想なので、必ず論理の詐欺をやっています。その詐欺のパターンの王道は、ラッセルのパラドックスを使って矛盾ではないものを矛盾だと言い張ることです。それにより「矛盾する=矛盾しない」という爆発律が成立し、その後はどんな無意味な妄想も正当化できるようになります。これが哲学の正体なのです。 哲学の詐欺スキーム 1.ラッセルのパラドックスを作り出してそれを矛盾としてしまうため本来は矛盾ではないものを矛盾と仮定するので爆発律が成立してどんな妄想でも正当化できるようになる 2.人や立場によって指す内容が異なる概念に同じ記号を与えて抽象化のプロセスを継承しないでカットすると同一の記号が異なる複数のものを指してしまうので「異なるものが同じである」という矛盾が仮定されるので爆発律が成立してどんな妄想でも正当化できるようになる これら2つを回避しただけではダメ それだけだとただの精緻なラノベ 実証してなければ意味ない そしてそれを実証した場合それを科学と呼ぶ つまり哲学が助かる方法は原理的に存在し得ないwwwwww ざんねんwwwwwwwmmmww 論理学において、誤った前提からどんな無意味な結論でも導出できる現象を「爆発原理(Principle of Explosion)」または「爆発律(ex falso quodlibe)」と呼びます。この原理は、一つの矛盾が存在すれば、どんな事実に反する無意味な命題も論理的に導出可能であるというものです。 ラテン語で「爆発律」は「ex falso quodlibet」と言います。これは「偽から任意のものが導かれる」という意味です。 ZFC公理的集合論において、爆発律は以下のように証明できます。 定理:ZFCにおいて、矛盾する前提から任意の命題が導出できる。つまり、∀A ∀B (A ∧ ¬A → B)。 証明: 1. 矛盾する前提 A ∧ ¬A を仮定する。 2. 任意の命題 B を仮定する。 3. 集合 {x | x = x} が存在する(外延性公理より)。これを集合 V とする。 4. 集合 {x ∈ V | A} が存在する(分出公理より)。これを集合 X とする。 5. A が真なら、X = V となる。 6. ¬A が真なら、X = ∅ となる。 7. しかし、前提より A かつ ¬A が真なので、X = V かつ X = ∅ となる。 8. ∅ ∈ V である(空集合の存在により)。 9. よって、∅ ∈ X となる(7より)。 10. B を {∅} と定義する。 11. ∅ ∈ B となる(10より)。 12. ∅ ∈ X かつ ∅ ∈ B なので、X ∩ B ≠ ∅ となる。 13. したがって、B が真となる。 14. B は任意の命題なので、矛盾する前提から任意の命題が導出できる。 以上より、ZFC公理的集合論において、爆発律が成立することが示された。 主な使用公理・定理: 外延性公理:同じ要素を持つ集合は等しい。 分出公理:任意の論理式 φ(x) に対して、{x ∈ A | φ(x)} なる集合が存在する。 空集合の存在:要素を持たない集合 ∅ が存在する。 >>689 ゲーデルをドヤ顔で持ち出す人を見かけるといつも思うんだけど、「仮定の正しさを論理的に証明できない」ことを御大層に言う意味なんかないよね 少なくとも近代までの哲学の界隈では 偉大な哲学者でそんなことをしようとした人は1人もいないやろ >>694 実験したら科学なんだから 実験してない発言は全て仮定の正しさを家庭から導こうとしてる それが全ての哲学 そしてそれはゲーデルの第一不完全性定理に違反する では違反するのになぜ「証明」できてしまってるかというと爆発律を成立させて詭弁をやっているから 哲学の詐欺スキーム 1.ラッセルのパラドックスを作り出してそれを矛盾としてしまうため本来は矛盾ではないものを矛盾と仮定するので爆発律が成立してどんな妄想でも正当化できるようになる 2.人や立場によって指す内容が異なる概念に同じ記号を与えて抽象化のプロセスを継承しないでカットすると同一の記号が異なる複数のものを指してしまうので「異なるものが同じである」という矛盾が仮定されるので爆発律が成立してどんな妄想でも正当化できるようになる これら2つを回避しただけではダメ それだけだとただの精緻なラノベ 実証してなければ意味ない そしてそれを実証した場合それを科学と呼ぶ つまり哲学が助かる方法は原理的に存在し得ないwwwwww ざんねんwwwwwwwmmmww >>694 全ての哲学者が仮定の正しさを論理的に証明したと主張している >>696 1人でも例を挙げてみろよ 哲学史の中でも亜流傍流の代表格である功利主義のベンサムでさえ、「功利の原理の正しさは実践の中で示される」(=正しさを証明することはできない)と述べている。 カントも第2批判では道徳法則を単に要請として据えるに留まり、証明を放棄した。 いずれの場合も、体系構築の前提となる原理は単に前提されるに過ぎず、その正しさを証明する対象ではないことがきちんと理解されているからだ。 >>697 ベンサムなんか全く哲学者ではないぞ脳障害wwwwww 社会科学者じゃんwwww >>697 カントは知能が低いので神の存在証明やらかしてるwww はい完全論破w read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる