数学を初めとした理系の学問と哲学について 16
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>>435
そういった独創的なことを考えている人は嫌いじゃない。 ちなみに、ヘーゲルの自然科学分野の著作は、加藤尚武が担当する形で、
ヘーゲル全集に収められており、
エンチュクロペディーの中では自然哲学として論じられていたので、
理系の学問と没交渉だったわけではない。
あと、新カント派、特にカッシーラーは抜かしてはならないのではないか。 ホーキングは最終方程式にまであと僅かだと語り
同時に観測問題を考えると抽斗の銃に手が伸びると
ライプニッツは重力方程式には敬意を表したが
遠隔的に作用する重力概念には否定的だった
これは数学の性格を物語るのではないのか
光速度一定の原理は科学者たちはその理解を放棄している いや人間が難しくしているだけで自然自体は単純そのものだと思っている >>438
数学の手稿は膨大だったとか読んだことがある
その後の数学の発展で無駄になった云々と書いていた人が居たが
マルクスの数学手稿も数学者たちの評価は低くて、遠山啓が当時の水準を考えなきゃいけないと窘めていた 武谷、ハイゼンベルクは今の物理学と数学の関係理解は歪んでいるという評価だった
朝永博士は物理学の自然は歪んだ自然と語っていた
しかし彼の理論は歪んでいる典型かもなんて読んだことがあるが
なんていうか対象と知の関係が転倒しているんじゃないかな
科学を典型に知は影で進化論的に手探りで最適解を求めていくが
現在の理系学問は創造主的というか知が主役で対象が脇役のような
マルクス主義もある意味従来の知の理解の範疇ではないかな
話を元に戻すが、かなり前から科学革命が必要だと洋の東西を問わず科学者たちは語る
最近では量子力学は新しい理論を求めていて、研究者たちはボーア、アインシュタインに成れるかもと沸き立っているとか
もっとも研究者らしき人の話では最前線は一条の光も射さないとのこと
もしかすると根本的なことで哲学の出番かも・・・ね w いろいろと転換点に立っているのが現代科学というか学問の状況かも
社会もまた
こまかいことに拘っていると取り残されるかも >>443
専門分野で整合性取ってきたもので
確立出来なくなってきてるからね
寄せ集めて無理筋ひも理論とか
落ちぶれてるし哲学頑張り時かも 紐理論は無いと思うけどなあ
知の相対化が必要な段階ではないかと 「つぎつぎになりゆくいきほひ」。なんだか呪文のようだが、政治学者の丸山真男が唱えたフレーズである。
主体的に何かを「する」よりも、自然に次々に「なりゆく」ことを重んじ、その勢いに身を任せる――。
それが日本人の思考と歴史の流れを解くカギだという。
へぇ・・・ 中高で多少なりとも数学をやったおかげで、
何とか理系の話にもついて行けなくはない気がする。
捨てなくてよかった。 ディレッタントの立場から論じたい思います
ちなみに理系の説明にはいろいろ納得というか理解できなかったので高校で脱落した口です
0に限りなく近いが0ではないとか典型ですが
あることから物理学の教科書を読んだんですが重力の項が何回読んでも解らないので理系の学問を諦めました
数年後有名な科学史家である板倉聖宣氏が、東大理系の学生に基本的な概念を理解しているかを試験して重力が学生の半分くらいが理解していないことに驚き高校の教科書を調べます
するとこの説明では理解できないと書いていました
つまり彼らは丸暗記していただけなのだと
因みに重力概念は未だ納得できるものは無いようで、先年重力の存在を否定する科学者がテレビで登場していました
時間は否定する一群の科学者たちがいて科学雑誌で特集されたりしていました
前世紀末にドイツの科学者がもしかすると時間は存在しないかも知れないという主張が科学ムック本の中で紹介されていました
なんていうか天体観測の場合地球が静止していると仮定しますが静止は存在しませんよね
それを前提に理解しますが、それは存在しないわけです
光速度一定の原理は絶対座標の存在を否定します
このことは極めて豊穣なことを導くのではないかというのが一ディレッタントの理解です ヤマカンで展開します w
物理学では光速度一定の原理が起点
数学では不完全性定理
哲学というか認識論ではパルメニデス、スピノザ
これらを前提に学問一般を理解しようと試みます
現在科学を典型にいろいろ混迷していて新たな考えが必要な段階だと主張する学者が点在することは事実です
様々な試行が為されても良いのではないかと迷惑を顧みず一アマチュア学問ディレッタントの戯言を展開しますので
遊びのつもりで突いていただければと上梓しますのでお付き合い頂ければ幸いです 学問の結論はあまり芳しくないのが多いようです
新約聖書学はイエスはキリストではなく、キリスト教を展開したパウロの思想とイエスの思想は対立する可能性を示してしまいます
マタイ福音書などはその成立理由を調べるとインチキなんですが、学者は思想としては極めて豊かだと評価します
マタイ受難曲は西洋音楽の金字塔の一つだと音楽評論家などは語っています
ゲーテの、人は偽物ほど熱狂する、という言葉を思い出します
日本では吉本隆明の「マチウ書試論」をある新約聖書学者が高く評価していました
・・・まあその何年か後に吉本思想を一冊の本で論じ、もう価値は無いと切り捨てますが
数学は自身では無矛盾性を証明できないことを証明します
共産主義はあるマルクス主義者たちが学問の観点から深めようと究明して、極めて実現が困難というか事実上の死刑宣告をします
これらの共通点は学者の意図が皆覆るということです
新約聖書学はプロテスタントがカトリックより正しい観点だと証明しようとしていたってカトリックが正統で、しかもキリスト教そのものの基盤を否定してしまいます
数学、共産主義もそうです
少し前に物理学者が人間がどこから来てどこに行くのかを解りたいと語っていましたが、その結論は絶望しそうな気がします 直接的に勉強から脱落したのはゼノンの逆説です
気分転換に理数系の勉強をしたら絶望しました
言い訳ですがその時の水準では論理的に理解しようとしたから脱落したかなと w
でカントの二律背反、ヘーゲルの運動規定とかもう訳が解らず
ここのどこかのスレでこういうのに拘ると廃人に成ると警告していましたが、正当な忠告かと
1994年に板倉氏が「新哲学入門」で論理の基本的な性格を指摘して
その二年後に山川偉也氏が「ゼノン4つ逆理」でこの逆説がどういうものかを説明します
ここから科学、認識論などのわたしの関心事である未解決問題を考察してみます 科学は否定関係と規定していたことが差異であることを証明してきた歴史だと考えています
地球ー諸天体、人間ー諸動物、植物、金属などなどは否定関係では無く物理状態の差異だと
光速度一定の原理は絶対座標、つまり静止は存在しない
自然の存在形態は運動であり、無矛盾だということです
否定関係と規定してきたことは実は差異であるわけです
ここで認識の在り方について考察します
観測は静止で為されるが存在しないというのは光速度一定の原理から導かれる
ここから、~で理解するが~は存在しないのでは無いのかということが導かれます 何を信じられるかでいいんじゃない別に、誰に迷惑かけるでもないなら >>457
結局のところそうなっちゃうよな。疑い続けていくと存在が不確かになって行くように。 量子の振る舞いは真だが、なぜそう振る舞うか疑いが晴れるまでは、偽りを信じようが真理を疑おうがどうぞご自由になのだよ。真偽と信疑の関係は目糞鼻糞 疑っていることは疑えないのと
(疑っている自分は疑えない)のと、
偽であると仮定するとき、
偽であることは偽ではない、
(偽であることを真とする)
というのはアナロジーがある? 真であることを論証する二つ目の方法は、
偽であると仮定して矛盾を導くこと
一方で疑うことでは真を得られないが、
疑い得ないものの背後に(ちょうど月食のように)
真を見つけることは入れ子のように関係している?
真であることの一つ目の論証は、真であることは真であると言及するトートロジーだが、
信じる自分は信じているのだから、トートロジーと背理法は非対称で、
これは信疑にも当てはまるのではないか これは現時点での結論だが、
真偽と信疑は別々の体系(のふたつの値)だが、
大局の局所(全体のうちの極限)で一致(アナロジーが成立)している
一般に、体系毎には得手不得手があるが、
どちらも自然を説明する言語(といっていいのかわからないが、)
であるこということ
だが一般論で片付けられないかもしれない
真偽と信疑においては、それぞれスペシャルなところがある
つまりその体系でなくてはならないという一意性もあるのではないか、という懸念は拭えない まぁ、本気で最適解だと考えられるなら、ただで出版できるんだから、ここで問う時点でまだまだなんじゃないの、恐らく 信疑なんて言葉があるんだな。
初めて見たからよくわからない。 >>465
真なら偽りじゃない事実を物理的且つ論理的且つ理論的に証明すればいいのでは? >>469
ロジックに限定するなら、真であることの論証は、
定義から出発して演繹によって「自明な」結論を導くトートロジーか、
偽であると仮定して矛盾を導く背理法の2つがある
物理とか事実(記録)というのは、ロジックが適用されるハードであって、
ソフトハード間の関係性というのは、ここでは論点にならない >>470
ロジックに限った真なんて、意味さえ通じれば正しいんだから、言ってるソフトハード間の関係性問わないならどうでも言い感じだな ソフトが頭脳でハードが物理的世界、
という理解で良いのかな。 この場合、ソフトがロジックでハードが物理とか事実
理論と整合する形で粒子が実験で検出されるとか、
犯人である証拠を見つけるとか、
この場合論理はそれぞれに適用されるけど、
その対象が物理学なのか犯罪捜査なのかで、
手法も確証となるものも変わってくる
ようするに、論理というのは幅広いものに適用できるが、
その対象となるものとの関係性というか相性によって、
論証のあり方が変わってくるということ そもそも、幅広くベースになるものから、
その性質を抽象して体系化されたのが論理(ロジック)
それをケースバイケースで場合分けすることは、
根から枝葉に目を移すようなもの
ただし、まあ、論理も対象を持たなければ机上の空論というか、空回りすることには気をつけなければならないな 最近、岩波文庫から廣重徹の
相対性理論の起原、
などが収められた本が出たので、立ち読みしたが、
難しかったので、チャート式の物理基礎を買った。 >>455
二律背反は理解する必要ない。
カントの言いたい事はあくまで
「人間の形而上学的な思考には矛盾が
付き纏う」と指摘する事だ。 >>479
またまた間違えた
×言いたい事
○やりたかったこと 世界の始まりがあーだこーだ言っても現実的効力はなんもないんよな >>481
自分が全てだから、自分の内を満たせれば
それでええんやで。 物理板に廣松渉の『相対性理論の哲学』のスレを立てたら、
プロとアマチュアがやり合うスレになった。 https://en.wikipedia.org/wiki/Four-valued_logic
True、False、Both、None
漢文の知識のある人、訳しませんか?
真、偽、?、? True→真
False→偽
Both→?
None→? & 無 偽 真 両
無 無 偽 無 偽
偽 偽 偽 偽 偽
真 無 偽 真 両
両 偽 偽 両 両
Ⅴ 無 偽 真 両
無 無 無 真 真
偽 無 偽 真 両
真 真 真 真 真
両 真 両 真 両 真理値表では「真、又は」と「偽、且つ」が強い
「真、又は」はなんでも真になるし、
「偽、且つ」はなんでも偽になる
「両、且つ無」は偽で、「両、又は無」は真
一応、意味は通りますね マジで「存在する」の条件がわからない。助けてください >>493
自分が存じている全て、目で見えたり触れられる実在だけじゃなくて、実在していない思考対象もすべて含まれてるのが存在 >>495
存在を前提に実在非実在という否定関係が存在するということ? >>496
実在非実在の否定関係が成立する存在を知らないから、私にとってそれは存在じゃないということになるということ とりあえずですが
絶対座標は自然には存在しませんよね? >>498
あなたのいう「存在」や「自然」の概念を成立させる定義が一致しているかわからないから、確認して見解が一致しない現時点ではわからない わたしは、存在とは前提だと理解しています
それが無矛盾であることを証明するのが科学だということです
数はまた違う問題ではないかと考えています 前提は問えず、無矛盾であれば良いのだとわたしは理解しています 眼前の対象を在る、存在と仮定、前提とします
存在が矛盾したら×
例えば有と無が存在したら×
・・・まあ無が存在したら存在という前提が成立せず、無の存在ということ自体が成立しないわけで 絶対座標、静止は存在しない
運動は自然の存在形態
つまり無矛盾
ディラックの海は真空はエネルギーの基底状態ということを示しています
つまり真空はエネルギーの一形態
無は有の一形態
静止は運動の一形態
生死は物理の一形態
いずれも否定関係ではなく差異です
規定は否定とはスピノザです
生物非生物は物理状態の差違を否定関係で規定しています
ウイルスは分類困難ですが物理としては差異で生物非生物という否定関係ではありません
認識の在り方の問題は追究されるべきかと 数には大きさがありません
つまり無、認識の側で自然の側ではありません
バッテリー切れ近し
とりあえずです >>504
テレビで酔っ払いのリーマンが気をつけ、霊!ってやってたこと思い出した ゼノンの逆説は自然が多ならばこういうことになり矛盾してしまいます
自然は〈一〉ですという論旨
これは数で規定するが存在しないということ
光速度一定の原理は絶対座標、点、0次元は存在しないことを示す
また静止は存在せず運動が自然の存在形態、つまり無矛盾ということ
運動を前提に否定関係は導けないから、自然は運動するエネルギーの濃淡ということになる
ディラックの海は、真空がエネルギーの基底状態であることを示す
つまり無は文字通り存在しない
自然は〈一〉であり〈多〉ではない
認識器官に静止、生死、無は存在するが自然には存在しない
濃淡の淡を認識器官は像として生成できず自然は多として像を生成する
その抽象が次元
0次元は存在しないし点を無限に集めても、幅が無い1次元を無限に集めても
厚みが無い二次元を無限に集めても・・・
静止している三次元を無限に集めても運動するわけではない
四次元が存在するならば静止している三次元が無限に存在することに成る
否定は規定、有を無で規定するから、直接運動は捉えられず量とし捉えるしかない
時間は規定であり、存在しない
次元は、数は認識の問題であり、自然には存在しない 繰り返すけど
対象を存在として前提する
対象が無矛盾ならば存在という前提が成立する
面倒なのは存在という前提は対象が無矛盾だから決定不能、つまり矛盾ということになる
存在と規定するからこそ
運動が存在すると規定する
しかし存在とは否定、この場合は静止
今、此処に存在するのだが、今、此処、という有は指示すると飛び去る
有を無で規定するから
宇宙が存在する、宇宙は同一であることは無いが同一の宇宙と規定する
わたしという存在もまた
存在もまた同一ということ
此処に在るが、此処は運動している
運動を否定で規定している
此処に在るのだが、在るとは静止
つまり否定で規定するから、存在すると同時に存在しないことと定義しなければならない
決定不能なのだが対象が無矛盾でそれを否定で規定するから
光速度一定の原理は規定は存在しないということを示すことにより自然が無矛盾であることを証明する
規定は理解するから必要である
それは存在しないのだということ
ウイルスは生物非生物と分類困難な対象
それは物理状態を否定関係で規定するからであり、物理状態の差異を否定関係で規定することから出来するのであり、規定自身が規定困難な対象を産むだけで、なんら対象である自然の問題では無い
決定不能、矛盾とは規定が否定だからであり、なんら自然の問題では無い 不完全性定理をもって何もかも解らないのだとする人たちが居る
それは定理、つまり或ることが判るからこそ
対象が無矛盾でありそれを否定で規定するからこその決定不能
つまり理解可能であるがゆえ
それを否定で規定する、つまり理解可能であると同時に理解不能
自然には理由など無いから無矛盾であるということ >>504
わたしは実は霊能力wがあります
小学こ゛、六年生くらいから幻覚症状が出てきました
リーマン時代も疲れると幻覚に悩まされました
窓も何もない白い部屋に閉じ込めるとと時間差はあれば被験者は全員幻覚症状がでるそうです
何も刺激が無いと感覚器官は励起するのでしょう
それは決して受動的ではなく、能動的であるが故になにもないと自らが像を生成してしまう
また条件次第で幻覚となる、疲れるとかはその一つ
試験勉強明けとか、いろいろなことを体験しました
わたしの場合は感覚器官がポンコツで勝手に励起するのかなと
感覚器官は一つの物理条件であり、それが外界との関係で像を結ぶ
諸生物や個体差で像に差異が在る
対象は同一ですが感覚器官や状態が違うからです
その感覚器官は自然をそのまま反映しない
静止、生死、無は感覚器官に存在するが自然には存在しません
見たものがそのまま自然では無いことを地動説が示します
地動説は認識の相対性を示す萌芽です 以前よりは漸進、深化、進化しているつもりだけど
他者からはどうなんかなと思ったりする ヘーゲルの精神現象学を読み直すかなと思ったりする
書物で視点を確立し、また新たに読むという作業が必要なんかな
本論の始めとかは印象的だった ゼノンの逆説に触れてから五十数年かあ
カント、ヘーゲルとか人を廃人にするよなあ
でも自分なりに納得できる視点を獲得するとは思わなかった
この日本の学問の状況に感謝したい
三浦、板倉、山川諸氏の諸著作が無ければどうにもならなかった ゼノンの逆説に触れてから五十数年かあ
カント、ヘーゲルとか人を廃人にするよなあ
でも自分なりに納得できる視点を獲得するとは思わなかった
この日本の学問の状況に感謝したい
三浦、板倉、山川諸氏の諸著作が無ければどうにもならなかった >>512
そういや昔理系サイトでanonymouseと名乗った方がいたこと思い出した ちなみに
三浦さんは共産主義だったがその弟子たちは共産主義否定に転じた
中でも滝村隆一さんは三浦さんの論文を承けて七十年代にソ連崩壊を予想した
EUは1992年の著作で遅かれ早かれ崩壊すると予測
当たるかどうか注視している >>511
静止、生死、無は自然運動の経緯で存在している状態だから感覚器官に
存在するというのはちと不自然な存在概念だと思うけど。 自然には、なにがなぜ存在しないかどうか確認したいのかがわからないんですが 否定関係が存在したら自然は無矛盾ではないことになります
静止、生死、無が存在したら矛盾するわけです 静止、生死、無が存在しない自然が矛盾のない自然で、存在すると否定関係ということですか?
宇宙は自然界を生じた存在で、自然が現す一切に矛盾は存在しない、否定関係があるとしたら、存在と自然との関係的理解でなにか錯誤がある。 目の前の自然は無限である宇宙、つまり運動するエネルギーの濃淡の親和反発の過程で生成した物理状態です
ここからは存在しませんからここまでも存在しません
運動が普遍ならそれを前提に否定関係は導けない
否定関係で規定しますが、それは差異でしかありません
認識器官は物理状態であり、その在り方に応じて像を生成します
淡は生成できません
静止、生死、無は差異を否定で規定するからですし、認識器官に生成する像に基づいています
科学は地動説を嚆矢としてその認識を相対化していく過程ではないでしょうか わたし自身は自然を理解することが矛盾の原因と考えています
存在という規定が決定不能をひき起こします
ウイルス分類がそうです
ヘーゲルの運動規定、カントの二律背反は規定するからです
変われば変わるほどますます変わらない
変わらなければ変わらないほどますます変わる
クリスティがミス・マープルに語らせる言葉です
宇宙は運動変化が常態、つまり変わること自体は変わりません
宇宙は変わりませんが、それは変わり続けることが変わらないからです
決定不能は規定するからですし、それは対象が無矛盾だからなのでは 若干の校正
目の前の自然は無限である宇宙、つまり運動するエネルギーの濃淡の親和反発の過程で生成した物理状態です
ここからは存在しませんからここまでも存在しません
運動が普遍ならそれを前提に否定関係は導けない
否定関係で規定しますが、それは差異でしかありません
認識器官は物理状態であり、その在り方に応じて像を生成します
淡は生成できません
静止、生死、無は差異を否定で規定するからですし、認識器官に生成する像に基づいています
科学は地動説を嚆矢としてその認識を相対化していく過程ではないでしょうか
わたし自身は自然を理解することが矛盾の原因と考えています
規定することが決定不能をひき起こします
ウイルス分類の困難性は物理状態の差異を否定で規定するからです
ヘーゲルの運動規定、カントの二律背反は規定するからです
変われば変わるほどますます変わらない
変わらなければ変わらないほどますます変わる
クリスティがミス・マープルに語らせる言葉です
宇宙は運動変化が常態、つまり変わること自体は変わりません
宇宙は変わりませんが、それは変わり続けることが変わらないからです
決定不能は規定するからですし、それは対象が無矛盾だからなのでは 決定不能は機能不全だからで、対象が決められないからでは クレタ人の逆説です
対象をその否定で規定し自己言及するからです
対象自身は無矛盾ですが、規定はその否定です ?人間は自然の一部
自然を客体として人間は認識主体という関係
つまり科学は自己言及
自己を他者として認識するということ
物理として自然は無矛盾で、物理以外存在しない
人間という物理状態は意識という非物理、附随現象がある
何も生まれない、無くならないのが自然だが、意識は無くなる
つまり非物理
意識は自然である物理の附随現象で、自己を他として認識する
わたしという表現と同じ
自己を他として認識して表現する
科学もまた自己を他として認識する 自然自体は無矛盾です
規定するから矛盾が生じます
規定、知、矛盾は同族、同属です 50年かけて納得できたなんて凄いです
おめでとうございます。 科学の本質は自然の自己言及
規定は対象の否定、つまり対象には存在しない
認識可能な人間のような生物が滅亡したら科学は絶える
つまり科学認識は物理ではない 観念的な自己分裂
日本語はどういう言語か 講談社学術文庫
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