意識のハードプロブレムの答え15
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1の考え。
客観はある種の主観である。
脳神経系は机の上の本のようにある客体である。
そして、他者の意識は存在しない。
仮に存在すれば、それは主体の意識の内側である。
意識のハードプロブレムの答え14
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1637997170/ しかし極限が存在しないならアキレスは亀を追い越せないのでは? 「極限」としての「点」が「存在しなく」ても、円周率は求められるし、
時計の針が回転することも可能ですが? 極限値が有限値になることもあるんだから極限は当然存在するだろう 円周率の値が極限の点として確定しなければ、回転が不可能であるというのなら、
アキレスは亀の想定では、アキレスが亀に決して追いつくことができないように、
時計の針が回ることもできない。しかし、円周率として「求まる」値は、
円周上の「点」として「存在する」わけではなく、任意の精度で無限に「求まる」
円周上の微小な単位として示され得るのである。その単位は、円周率の値が
「求まる」のに応じて、求まる精度の桁まで元の円の直径を1/nに分割する微小な
円の円周長に対応し、その微小な円は、元の円の直径上に並べられれば、その直径
を1/nに分割するのだから、求まる円周率の精度に応じてnが任意に無限に大きく
なり、1/nの大きさは次々に0に近づくものの、その大きさが極限として0となる
ことは決してない。 数学は言語表現を誤魔化しているから、言葉で説明しようとすると矛盾が
生じて、数式による表記で説明がついたことして逃げるしかなくなる。
しかし、哲学的な問題は、そのように数学の表記によって示されたことが、
「言語表現として」どのようなことに対応しているのかを明確に忠実に
示すことだ。 無理数も、小数点以下が無限に続いて書き終わらないから「存在しない」ってこと?
うーん、よくわからん
有理数までしか認めない立場? >しかし、哲学的な問題は、そのように数学の表記によって示されたことが、
>「言語表現として」どのようなことに対応しているのかを明確に忠実に
>示すことだ。
この、哲学的な問題が身づ殻氏の関心事なのだろう。だからこそ数学的な問題を疎かにしており、
言語表現としてどのようなことに対応しているかを明確に忠実に示せないでいる。例えば、
>数学において求められる「極限」は、「(大きさのない)点」、すなわち、
>「存在しないもの」として理念化されているのだから、
↑極限は「(大きさのない)点」ではないし、「(大きさののない)点」は「存在しないもの」ではない。
剰え理念化されてなどいない。例えば数直線上の1や2/7も点であるし、それを存在しないと言うのは狂人だけだ。
>「極限が存在する」と言語表現して、それを真に受ければ、矛盾が生じるのは当然である。
矛盾も生じていなければ、混乱も生じていない。「極限が存在しない」とする立場であっても、
どんな前提によって「極限が存在しない」とするかは数学的に明確であり、存在するか、しないかが紛れることはない。 有理数による無限の近似が可能であることを認める立場だが? >例えば数直線上の1や2/7も点であるし
存在するのは、「点」ではなくて、「比」だが? >>960
数学ではそんな議論は通用しない。ならばなぜ比は存在するのか?などと、数学で通用しない議論に立ち入るつもりもない。 もう一度いうが、数学的な問題を忠実に捉えなければ、それを正確な言語表現に移すことはできない。 言語表現として説明することのできない数学が、数学者にも意味不明となる
ことは、宇宙際タイヒミュラー理論、およびそれによるABC予想の証明の
評価がまったく定まる方向に向かって動く気配すらないことが如実に示している
だろう。 そんな先鋭的な話ではなく、一般的な公理系において「極限が存在しない」とは言われていない。
「極限が存在しない」と唱えるのは、ただ単に数学に明るくないひとだけです。
いつものように言葉遊びをしていればいいものを、
数学の成果を横取りしようとして数式を使い始めるからいけないのです。 そもそも、哲学的に見ても、数学的に見ても、
「塩なめくじ」/《sale limace》=1
である蓋然性が高いと考えられ、便所の落書きにおいてさえ
相手にするに及ばないものと思われて当然 「点が存在する」、「極限が存在する」は、数式でも、数学記号による表記でもなく、
数学の説明に頻繁に用いられる「日常的な言語表現の横領」であり、「濫用」だが? « Sale limace, arrête de baver sur mes excréments! » 日常で存在するなどとは言わない。あるとすれば「哲学的な言語表現との干渉」だろう。
それすら幾何学や解析学の素養があれば起きようのない、低次元なもの。
その次元に問題を引きずり降ろそうとすることは、偉人たちが積み上げた成果に対する侮辱に等しい。 >あるとすれば「哲学的な言語表現との干渉」だろう。
>それすら幾何学や解析学の素養があれば起きようのない、低次元なもの
であるとするなら、「幾何学や解析学の素養がある」数学者や哲学者は、
干渉の起きない言語表現で数学を説明できるはずだが、哲学と数学が
今でも乖離しているのはなぜですか。乖離がないのなら、数学者は、
哲学者の存在についての表現を数式として表現できるはずであり、
哲学者は、数式による証明を哲学の言語表現にそのまま移すことが
できるはずでは。ところが、実際には、「宇宙際タイヒミュラー理論」
の例に見られるとおり、数学者の間ですら数学の言葉も通じない。 >>970
>であるとするなら、「幾何学や解析学の素養がある」数学者や哲学者は、
>干渉の起きない言語表現で数学を説明できるはずだが、
↑読み取ることと表現することを同一視した飛躍。
専門領域は専門用語で語るのが誤解が少ない。
>哲学と数学が
今でも乖離しているのはなぜですか。
↑乖離していない。
>乖離がないのなら、数学者は、
哲学者の存在についての表現を数式として表現できるはずであり、
>哲学者は、数式による証明を哲学の言語表現にそのまま移すことが
できるはずでは。
↑読み取ることと表現することを同一視した飛躍。以下略。
>ところが、実際には、「宇宙際タイヒミュラー理論」
>の例に見られるとおり、数学者の間ですら数学の言葉も通じない。
↑そんな先鋭的の話はしていない。最先鋭的な領域で揺らぎがあるのは当たり前。
極限は300年間も踏み固められ共有されてきた概念で全く異なる。 スマホで打ちにくいから引用記号がぐちゃぐちゃになったけど諸賢の読解能力ならば読み取れると期待している! >最先鋭的な領域で
局所的に理解されない部分があるというのではなく、全体として
その記述の言語が数学者の間で通じていないのが現状だろう。
でなければ、少なくともどこに不明な点があるのか、
一般の数学者の間で共通の理解が可能となる。そのような詰めすら
不可能な状態にあるということ。 まぁ、形式論理で表現され得る存在が数学の価値、論理で表現され得る存在が哲学の価値といったところではないですか 新スレッド、立てました。
意識のハードプロブレムの答え16
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1643169286/
順番に混乱のないよう古いスレッドから使用して下さい。宜しくお願いいたします。 >>943と同様のことを逆方向から、つまり、円周長からではなく、
直径から示すことを示唆しているのが、フェルスター、『哲学の25年』のp.507に
図示される数概念もしくは単位概念についてヘーゲル的な捉え方の説明だろう。
その図は、数を数えるのに、既定の長さの直線を、数えられる数nに応じて
1/nに等分することを示している。数は無限に数えることができるので、
それに応じてnは任意にいくらでも無限に大きくなり、1/nの長さは無限に
小さくなるが、その総和、つまり、n/n=1は元の直線全体の既定の長さ
なのだから、1/nの長さが0になることは決してない。有が無になることは
ないということで、当たり前のことである。元の既定の長さの直線を円の
直径と見なすなら、極小の1/nは、元の円の円周長πを1/nに分割する
円周長π/nを有する円の直径ということになるだろう。 数学の技法を駆使するようになると、算数が分からなくなる、
つまり、証明済みであるものとして利用する手続きが、
算術として何をどのように計算していることになっている
のか説明ができなくなるということが、一般的によくある。 数学として証明済みである手続きを組み合わせてうまく使える
ようになる技能を身に付けることは、哲学をすることには
役に立たない。 >>978
数学を学ぶと算数の理解も深まると思うが。 円周率が無限に単位を数えることの裏である、つまり、単位とされる
1の裏であるという関係は、次のように考えれば、容易にイメージできる
のではないか。
>>976の場合と同様に既定の長さの直線を、数えられる数nに応じて
1/nに等分することを想定して、その既定の長さの直線を与えられた
円の直径であると見なす。ただし、この場合、その与えられた円の
円周長と単位として定義して1とする。すると、任意に無限に1/n
等分されることになる直径である元の既定の長さは、1/πである
ことになる。1から無限に数を数えることに応じてその直径を1/n
等分していけば、1/nは任意にいくらでも小さくなるが、その長さが
0になることは決してなく、1/(nπ)として微小の円の直径となり、
無限の数の微小の円の円周長を総計すれば、元の円の円周長と
等しい1となる。つまり、その微小の円の円周長によって元の円の
円周長1もやはり1/n等分される。ここで、nは、数を1から無限に
数えつづけることに対応するのだから、元の円周上の任意の無限に
小さく限定され得る位置が、その任意に無限に数えられるnとの
関係で示されることになる。そのような任意の位置は、通常、
円周上の点としてイメージされるものだが、論理的に考えるなら、
その点としてイメージされて特定される位置は、無限小の円の
円周長に対応していることになるだろう。 ヘーゲルの哲学が奇妙に見える、したがって、ヘーゲルを受け継ぐ
マルクスの思想が奇妙に見える点もそのことに関連している。
あたかも円周長が単位で数え切れた状態を想定して、そこから
理性によって現実を統制できるかのように夢想しているような
言説を展開しているという印象を受けるのである。 誤:円周長と単位として定義して
正:円周長を単位として定義して 有理数は稠密だが連続ではない。
実数は稠密であり連続である。
この辺りから無理数の存在は言えるのかなと思います。
ただ、私はあまり詳しくはありません。
間違えていたら御免。 ヘーゲルとマルクスの間にフォイエルバッハを挿入すればわかる。
宗教の問題が横たわっている。 点を集めても線にはならないが、
線は点の集まりである。
点の集合を考えた時、外延ではだめだが内包ならなんとか線になれる。
ドコに違いがあるのかといえば、無限性である。
あくまでも飼いならされた無限性であって、野生の無限性や野良無限を扱うのは難しいw >>982
このように数えることに応じて任意に無限に等しく分割される直径と、
その分割された直径の長さをその都度、直径とする円、ならびに
そのより小さい円の円周長に対応するものとなる、全体としての
円の円周上の単位の関係を、ヘーゲルの哲学やそれを受け継ぐ
マルクスの思想の論理の隠喩として用いるなら、全体的な理性の
側から自らのひと(等/一/人)しさ(すなわち、単位としての性質)を
規定しようとすることが、欺瞞とならざるを得ないだろうことが
見えてくる。 つまり、それは、任意の行為とそれによってもたらされる結果の関係を
逆立ちさせてしまうことになるのだ。
「できることにおいて自らであろうとする」(全体の直径を任意に1/nに
分割して、1/(nπ)を直径とする小さい円を形成しようとすることに喩え
られる)から、全体の円においても、その円周上で単位としての地位、
すなわち、自らのひと(等/一/人)しさが確保されるのであって、
全体の円の円周上で既に単位としての等しさが規定されているものと
するなら、任意にnを数えることは不可能となり、小さい円の直径で
ある1/(nπ)もあらかじめ決められたものとなる。したがって、任意に
数えることが「できることにおいて自らであろうとする」ことも
あらかじめ阻止され、自らが生きようとすることそのものが許され
なくなり、生かしておいてもらうだけの状態に陥ることになる。 ところで、日本語の「いき(息/生)る」とは、その発音から、
「方向性を有する『ゆ(由)』の作用」/「い/yi」が
「求心的」/「き」に「働く」/「る」ことを想起させる表現だろう。 "true gratitude is to do what you can."
― "Ralph Waldo Emerson: Selected Essays, Lectures and Poems", p.74
自らが十全に生きることは、心ゆくままに自らにできることをすることある。
したがって、自らが数ならぬ者に過ぎないことをわきま(弁)へてわ(和/環)を
尊ぶというのは、一見、謙虚で倫理的な態度であるように思えるものの、
各々が「できることにおいて自らであろうとする」ことを忘れるなら、
たちまち、禁欲主義を掲げることによって自らの優位を確保するように
他者を抑圧しようとする傲慢な全体主義に陥るだろう。 誤:心ゆくままに自らにできることをすることある
正:心ゆくままに自らにできることをすることにある マルクスは微分に関心を持っていたし、
フォイエルバッハは自然科学に関心を持っていた。 11 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2022/01/27(木) 12:20:30.06 0
生物も物質の集合体だから実は集団意識の様なものなのさ それなら、集団意識のようなものではなく、意識の寄せ集めのようなものでは?
そもそも、多細胞生物の個体もその起源からして、相反する利害の調整を
必要とする複合生命体であるわけだし。 相反する利害を調整する統制理念として「理性としての主体」を
仮定することが要請されるのでは? >>947
織田信長が比叡山の焼き討ちをやっていますけど、
それは仏教が気に食わなかったのではなくて、
信長が接した宣教師たちに比べると日本の坊さんは滅茶苦茶に感じた
ということらしいです。
その一方では誰だったか忘れましたけど、
ナントカっていうヨーロッパ人が東アジアに来たとき、
大陸の坊さんはいかがわしいやつばかりだったけど
日本の坊さんはいい人ばかりだった、という記録を残していたと思います。
私は時計さんが接しておられる方々がどういう人々かを知らないわけですから
>>944は一般的に言って失礼に当たったと思いますが、
私自身と私の周りの人とのかんじということで
「ご参考までに」というふうにご理解いただければと存じます。
おそれいります。
と言いながら重ねて失礼なんですけど、
私は時計さんがお考えの神は、スピノザ的な神だと思っていました。
つまり少なくとも当時は異端だったものです。
であれば時計さんの方に違和感がありそうな気がしていたんですけど、
信仰の話はもちろんデリケートなものですから
お気にさわったら申し訳ありませんけど
えてして哲学は非情ですから
そういったあたりが意識のハードプロブレム的に言ってどうなのか気になる
というのが私個人の率直なかんじです。 せっかくなので、私も円周率でひとことふたこと(以前の繰り返しですけど)、
この宇宙では何故十進法で計算するとその値は3.14…になるのか、
私はそれは「たまたま」だったと思います。
つまり何らかのメカニズムによって調整されたものではないということです。
そもそも「円周率」は自然のものではない、人間が勝手に言っているだけのもの
それどころか「長さ」というのがある種の「妄想」というのが私の印象です。
「長さ」という概念は「自然」にあらかじめあったものではない気がするのです。
まして円周が直径で割り切れないのが何か釈然としないことについて
それは「自然」の知ったことではないと察するのです。
私にしてみれば一本の線の長さを無理数で設定することに無理がある
というか(日常感覚では)ややこしいだけのような気がします。
しかも円周と直径とで、どちらかを有理数にするともう片方が無理数になる
というのは支離滅裂な気さえします。
ただ、しかしじつはそれは非日常(仮想現実)としてならあり得る気がします。
となると数学という仮想空間では虚数さえアリになります。
そしてそのような仮想空間を想定することによって暮らしが豊かになった
ということがあるのであれば文句をつけても仕方がない気がするのです。
しかし私がこのスレッド的に問題にしてみたいのはそこではありません。
もちろん問題は「自然」の方です。
私たちが想定している「自然」が仮想ではない
それを想定しておけばメリットがある以上のリアルなのだとすれば
それはどのような根拠に基づくのか、
私には絶対の根拠がありえない気がするので
もしそのようなものがあるのだとすれば
それを是非うかがってみたいのです。 近代哲学はカントから始まったと聞いています。
それからショーペンハウアーやニーチェ、フッサール、ハイデッガー、メルロ・ポンティ…
私はどれも入門で見た程度ですけど
ざっくり同じ世界像を提起している気がしています。
そして私はそれに共鳴します。
私がマルクス・ガブリエルやメイヤスーを知ったのはじつはこのスレッドに
投稿を始めてからですが(つまりここで知りました)、
このスレッドの読者もどちらかというとマルガブ派のような気がします。
そういうわけでこの流れは私にとってははなはだ意外です。
しかしマルガブ派の言い分もわからないわけではないつもりです。
確かに何故みんなが同じ体験をするのか、
あるいは世界が緻密に秩序立っているのは全てが幻想だとすれば謎です。
このとき、私はどちらかではなくて、
ありきたりながら止揚するのがいい気がします。
ただし根拠は直観的なものです。 このスレッドは1000を超えました。
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