その色眼鏡を外しなさい
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多くの人々は、普段、世界や現実を自分は客観的に見ていると思っているが、 実は人々の見ているものは、その人が掛けている色眼鏡が作り出している 像や表象、仮象のようなものに過ぎない その色眼鏡の内実といえば、文化・社会的なイデオロギー装置であったり、 流行りの価値観やマスメディアの解説によるフレームであったりする。 また、その人の人生経験や家族関係、トラウマ、置かれた社会環境が 独自の色眼鏡を形成することもあるだろう いずれの場合であっても、人々は現実や世界をあるがままに見ているのでなく、 自分の色眼鏡を通して、外界を加工して認識しているに過ぎない。 仏教では世界を空であると観じたが、これさえ仏教という色眼鏡を通しての 擬似的な世界認識のひとつに過ぎないのである では、多くの人々が様々な色眼鏡の存在に気づき、これを外した時に見える 世界と現実とは一体、何なのだろうか。それは、クオークとニュートリノにまで 還元された宇宙なのか。いや、それさえ現代科学知識という色眼鏡を通して 見られた疑似宇宙であるに過ぎない カントは真の現実は物自体であるとして、人間には認識不可能であるとした 私たちに最初に出来ることは、まず、様々な色眼鏡の存在に気づくことであろう 厳密に言えば、色眼鏡を外すというよりは、色眼鏡の存在に気づく、 ということになるだろう 世界が多様であるのではなく、多様な色眼鏡がある、ということだ 異なる色眼鏡をかければ、異なる世界と現実が表象される 人はそこから反照される世界や現実を真実であると誤解するが、 人が真に見ているものは色眼鏡が作り出している歪像や虚像に過ぎない たとえば、現代では「格差社会」というのがよく問題視される そうした概念や色眼鏡が存在しないところでは、格差社会は認識されない 未開社会や士農工商が当然と考えられた世界で、格差社会が問題になるで あろうか。たぶん、問題視されはしない たしかニーチェはこうした色眼鏡のことをパースペクティブと呼んでいたと思う 思想とは、単なるパースペクティブの違いに過ぎないと言っていた 外界を区別・分類するための様々な概念も色眼鏡のひとつであると言える 概念は世界を分節化するが、それは様々な色眼鏡を通して世界を分節化している のと同じことである 光学顕微鏡という色眼鏡で世界を見れば、通常見ている世界とは異なった様相の 世界と現実が出現する だがそれさえ、色眼鏡による効果であって、真に現実を表しているとは言えないのだ 別の色眼鏡を用意すれば、ただちに、また別の現実が立ち現れてくるのだから 3D映画の映像を見るためには、3D眼鏡が必要だ 3D眼鏡なしで3D映画を見れば、平面上の混沌とした無意味な信号の渦に見える 実際のところ、このリアル世界もそれと同じ原理だ 人間の肉体の眼を通してでなければ、こんな風には見えない。それは平面上の混沌とした無意味な信号の渦でしかない つまり、人間は世界と現実を直接認識しているのでなく、様々なインターフェースを 介して、仮想的に認識している、ということになる。だが、普段それを仮想であるとは 思わず、真の現実だと誤認してしまう 目や脳、神経ネットワーク、五感というインターフェースの介入があるし、 また色眼鏡としては、社会的価値観、概念、知識、文化、イデオロギー、風習などがある もし、世界が水槽脳のような仮想現実でできているとしたら、そこでの インターフェースは水槽であり、そこで浮遊する脳ということになる インターフェースがすなわち色眼鏡であるので、人はそこから知覚される 世界や現実、感覚を真の現実である、と普段は誤解しながら生きているのだ たとえば、プラトンの洞窟の比喩では、この現実世界は真の世界であるイデア界から生じている 影のようなものに過ぎない、と表現した プラトンは、イデア論という色眼鏡でこの世界を表象するので、それはプラトンにとっては 真実のように生彩に映るのである 今度は社会価値論的な色眼鏡を考えてみよう ある資本家は、この世はお金がすべてだ、という強い信念を持っていたとする すると、世界や現実はそのようにお金ですべて動いているように見えてくるし、 すべてがお金の原理で説明されるような気がしてくる この資本家の意識には、貨幣など全く使っていない未開社会に生きる人間の存在など、 微塵も上ってこないのである 心理学であれば表象をゲシュタルトと表現することもあるが、それも色眼鏡の 一つだろう。車の免許を取る際に、ドライバーの性格が運転に適しているか否かの テストにもそういうゲシュタルト心理学が使われるが、これも色眼鏡のひとつである 単なるインクの染みが被験者に何に映るかで、その被験者の心理を洞察できるという 心理学上の知見である。被験者がその染みを内心で悪魔、死、暴力、破壊、などと イメージしていても、テストの意匠を知っていて、平和的なイメージで回答すれば、 その被験者は試験にパスして、運転適正のある穏やかな性格であると認識される この時、このテストは真の現実を全く真逆に解釈したことになるのだが、 テストする者は、この回答こそが被験者の心理を客観的に表していると 誤解しているのだ >>13 を補足すれば、ボランティア活動などもそれに該当する それはお金にはならないが、十分な社会的活動になっている たとえば、戦争は悪いものである、と一般的に考えられているが、これも 一つのパースペクティブや色眼鏡であると言える 地球環境の視点で考えると、事態は全く異なった様相を呈する つまり、戦争で人が多く死ぬほど、地球環境的には善であったりする そのため核戦争などは最悪のものだと一般的には思われているが、 そこで人類が滅亡すれば、地球環境的には最善の状態が得られたことにもなるのだ 世界的な大規模な疫病の流行についても同様のことが言える 人はそれを色眼鏡でみて、悪い現象や事態だと認識するが、 それを環境収容力を調整する人口数調整作用だと考えれば、 それは望ましいものとして反転しながら、人々の目に映ってくることだろう またコロナによる、資本主義の減速も地球環境視点で考えれば望ましいことだ これは、どの視点やパースペクティブが正しいとか善とか客観的であるとかいう ことを述べているのではない。それらはすべて色眼鏡の効果に過ぎない、ということを述べているのだ だから、自分たちの付けている色眼鏡を外せば、世界と現実はいつでも異なった 様相を呈する。世界に本来色はなく、ニュートラルで無意味というのは、そういう ことだ。同じニュースでも右翼新聞と左翼新聞が解説すれば、全く異なった様相を 示すのもそれと同じことだ。ウクライナ戦争でもそれは同じだ。ロシアでは正義と して報道されていることだろう 色眼鏡をかけているから色が付くし、意味付けるから、そこに特定の意味や見方が 発生する。だかそれは世界の真実の姿というよりも、色眼鏡が作る虚像のような ものに過ぎない、ということだ 私たちの普段の日常レベルの認識では、色眼鏡を付けていることにさえ気づいていない状態だ。私たちは日常でも我知らずVRゴーグルを使って生活しているようなものだ。そして、そのVRゴーグルは脳や心に埋め込まれているため、それを付けていることにさえ気付けないだけなのだ 私たちが見たり感じているのは、色眼鏡やVRゴーグルが作る虚像のようなものである 例えば、この姉とこの妹はどちらが優れているのか 姉は容姿が良くないが、頭は良い 妹は容姿は良いが、頭が悪い ここに性格、健康状態、運の良さ、付き合う相手、経済状態、職場、アクシデント 家庭、子供など色々な要素が入り混じってくると、姉と妹のどちらの方が良いのか、 定かではなくなってくる 容姿がいい妹は、ストーカーに殺されることもあるかもしれないし、 勉強のできる姉は、仕事や勉強の過労で自殺することもあるかもしれない どちらが良いのか、色々な要素がありすぎて本当のところは一概には言えないのだ それを色眼鏡で見るので、あれがいい、これは悪いと私たちは勝手に判断して しまいがちなのだ 世の中には二つの正しい見方がある 一つは罪を負わずと罰を与えない、 逃避と乖離からなる非共感の眼鏡 もう一つは、素朴に正しいと言える善悪の判断、 いわば神の視点だが誰しもがその片鱗を持っている 最初にあるのは素朴な善悪の判断だったが、 時代が経つにつれて(宗教の堕落や科学主義の台頭によって) 逆説的な非共感の眼鏡が正しいという見方の主流になった それは語と文脈との関係に似ているだろう。語は、それ自体で意味を決定できない ある文脈に埋め込まれてこそ、その語は特定の意味を表すようになる 従って時代と共に文脈が変われば、またその語の意味が変わる 現代で善とされている事柄が、後世では悪とされている事態も考えられる あるパースペクティブをここでは、ユークリッド幾何学と考えてみよう それは五つの公理によって作られている。人々は、これこそが絶対である と色眼鏡で幾何学を見ていた だが、ユークリッド幾何学の第5番目の公理である「平行線の公理」を 別の公理へ書き換えると、今までとは異なった幾何学の体系が出来た これが非ユークリッド幾何学である。だが、これもまたひとつの別の 色眼鏡に過ぎない 最近では、やばいという発話は、否定的な意味では使われていなくて、 逆に、良い状態を表すように語の使われ方が変わってきている たとえば、友人同士で温泉にはいって、これやばいわ、と言えば、それはとても気持ちがいいという意味だ。江戸時代の人間がそれを聞けば、なんか湯の中に異物でも 入っているかと誤認するかもしれない だから、このスレは非常にやばいのである その喩えでいうのであれば、 (哲学板にこのことを突き詰めている某氏がいるが、) 語は発音、発声に依拠して意味を持っているのだろう? つまり、文脈によって語の意味は左右されるが、 いわば語幹となるものは、言語を隔てたとしても変わらないはずだ (カラスにも言語らしきものがあるらしく、地域によってその鳴き声の発音と鳴き声の回数からなる記号化された言語は異なるらしいが、 カァ⤴︎とか、カァ→という鳴き方には、シグナルのために本能的に知っている発声があるように思う) >>28 は>>1 へのアンチテーゼだが、 つまるところ、 善悪や倫理観というのは、 何もないところに浮かんでいるものではなくて、 海中に下ろした錨のように地面に固定されているものだ、 そこに初めからなにもなかったなら、なにもはじまらない (カラスの発声の話もそうだが、) そこに何らかを見いだすのは、そこに何かあるからだろう パロール/エクリチュールは、どちらか一方に優位がある訳でもなく、 どちらが正しい訳でもない。文脈、すなわち、TPOに応じて使用される比率が 変わるだけだ 錨による固定、それがこのスレでいう色眼鏡のことだ。それは色眼鏡に過ぎない ので、文脈が変われば別の色眼鏡に置き換えられる。普遍の問題ではなく、 パースペクティブの問題だ。法理においても、そのように考えることだろう カラスがどのように鳴こうが、文脈や状況を捨象しては意味を為さなくなる 語幹も同じだ。ただ語幹だけあっても、それは何の意味をなさない、単なる 記号やインクの染みになる カラスであれば、外敵に襲われるなどの状況が外挿されてこそ、ある鳴き声は 仲間にアラームを知らせたり等、いずれかの意味を推定できるようになるはずだ 人間でも同じだ。泣いているだけでは、それが悲しいのか、嬉しいのか分からない オリンピックで金メダルを取って泣いているアスリートなら、それは感激の涙だと 初めて理解される /、錨、色眼鏡、パースペクティブ このスレでは、全て同じことを指しているパラレルな関係にあるものだ 錨を下ろすのはどこかというと、海底であり地面だが、 もっといえばそれは大地で、 もっといえば言えば、天と地でいうところの「地」だ もっといえば、錨は真下に下ろすが、 単純に万有引力だけを考えた、地球の重力の方向と 自分にかかっている力としての真下は異なっている それは地球の自転による系など様々な系に自分が属しているからだ 自分にかかっているすべての力、その力を及ぼしているもの、その力の原因となるものが「地」だろうな つまり何がいいたいのかというと、 価値観は人それぞれというより、 その根っことなるものは大地に根を下ろしているべきだし、 なんでもかんでも相対化されるのではなくて、 不動の大地のように、絶対的なこともある、ということ たとえばコロナ陽性の判定基準である、PCR検査のCt値ひとつとってみても 各国でバラバラの値を採用しているため、陽性判定が出たところで、 閾値が異なるため、それが真の陽性率となっているかどうかは非常に疑わしい また、PCR検査器の開発者自身、この検査をあてにしてはならない、と述べている ような代物だ。所詮は遺伝子増幅器なので、精度自体にも元々疑わしい部分があるのだ またアメリカであれば、コロナ患者を見れば補助金のようなものが出るため 死者含めて、なるべくコロナ陽性に仕立てたい利益相反的な医療機関のニーズがある つまり、目に見えるデータをいくら解析したところで、真実は皆目不明なままである 人々はそれぞれの色眼鏡で主観的に判断しているに過ぎないのだ 重力に関して言えば、ダークマターの存在もよく分かっていないレベルなので、 絶対などというものはあり得ない。それは神学で使うべき用語であり、 科学で使われてよい概念ではない。科学には、概念の更新と書き換えが伴う 絶対値というのがあって、 |x|=1のように使うが、 この場合のxはx=1またはx=-1だ なんかこのことを、昔本になぞらえて、 対象的なものがぴったりと閉じ合わされている、と表現した 天地開闢もそうだが、 はじめに混沌があって、それから天と地に分かれたという神話は多い 俺は今、混沌に踏み込みそうになってわけがわからなくなりそうになっている つまり、不動と静止は同じように見えて違う 不動は地の性質、静止は天の性質だろうな 絶対などというものはない。ハイゼンベルクの「不確定性原理」が有効になる 量子力学のミクロの領域に、古典力学であるニュートン力学を適用することは 不適切であるように、真値はTOPと文脈に依存する 光より速い世界でもニュートン力学は使えない。つまり、絶対というものは ない。あなたが昨夜観た夢内容を正確に思い出せるか、また、それを現実とは 絶対に違うと夢の中で判断できたか どうしても物事には曖昧さとグレーゾーンが残るのだ 別に境界線がはっきりしてなくても、量子的なエンタグルメントでもいい訳だ というより、現代哲学は境界線の恣意性や抑圧を問題視しているくらいだ 善人と悪人の境界線自体、どこにあるのか定かでも自明でもない それぞれの色眼鏡で、あいつは悪人だと言っているに過ぎない 刑務所に入っている奴は悪人か。中には冤罪であったり、やむを得ない事情が あって入る者もいるだろう たとえば、世界中の政治家や有力者の不正を暴いたウィキリークスの創設者は 今も刑務所の中だが、彼は悪人なのだろうか。逮捕されていた香港民主化の 若い活動家たちもそうだが刑務所に収監されているから、その人間は悪人だとは 言えなくなる。昔の政治犯、共産主義者などにも同じことが言えるだろう 色眼鏡次第で、それらをどのように捉えるかは様々な様相で可能になる あったことないようなニンゲンが位置情報でマウンテンしてくんのがサムスギじゃろ そういう呼称のことを言っているのでなく、世の中に絶対的なものはないと言っているんだよ 科学においても然り 世界の把握、認識の仕方も一様ではない。目が見えない者、耳が聞こえない者、一般的でない特別な感覚を持つ者もいる そうした感覚器官の違いも色眼鏡である。魚眼や昆虫の複眼もそうだ 逆に究極の眼鏡というものはあるのか 眼鏡とは視力を矯正するもので、 つまり誤った認識を正すような眼鏡 もし、感覚器官を増やすことが出来れば、そこに新たな世界や時空が出現することだろう。実質的には、出現ではなく、新しい色眼鏡の作用に過ぎないが たとえば、日本語話者に「りんご」という文字を見せれば、なんらかのりんごをイメージしてしまう。果物のりんごや椎名林檎、Apple製品を連想する者もいるだろう あるがままにみれば、「りんご」という文字は、ただの線に過ぎない。未開の人間なら、また、別様に捉えるかもしれない ネットの書込みもそうだ。あるがままに見れば、単なるドットの連なりだ 人はスマホやパソコン、テレビで色んなものを見ていると思いこんでいるが、あるがままに見れば、三原色のドットの点滅を見ているに過ぎない 実在論というものは何であるのかよく分からないが、色眼鏡の作用によって、あらゆる認識が顕在化するだけである ビラビラが外にでてしまっておさまりません。助けてください。👰 >>60 勤め先の歌舞伎町のオカマバーに帰りなさい >>57 甘い。「あるがまま」も数多ある色眼鏡のうちの一つ。0と1に変換する色眼鏡。 映画マトリックスに出てくる0と1の世界、あれは世界の「真の」姿などではなく、そういう解釈にすぎない。 あのように記号に変換された世界をラカンは「象徴界」といい、世界を捉えるレイヤーの3つのうちの1つに据えた。 あるいは「あるがまま」とか「真の」とかいう、主体に独特の効果を及ぼす色眼鏡。 知覚はごく自然に生じるように思えるが、実際にはかなりのエネルギーを 必要とする。何かを知覚するたびに費やされる貴重な熱量は、それを蓄えた ジャガイモや動物の肉などから摂取しなければならない。カロリーの摂取は 困難で危険でもありうる。だから進化は私たちの感覚を倹約家にしたのだ。 その結果の一つとして生じたのが、視覚の省力化である。私たちの目は、 腕を伸ばしたときに見える親指の幅程度の狭い円形領域の内部において のみ細部を鮮明にとらえられる。片目を閉じて伸ばした腕の親指を見れば、 その狭さがわかるだろう。私たちは、視野全体にわたって細部まで見ているように 感じるが、それは錯覚である。 私たちが視線を送る先はつねに、細部を鮮明にとらえられる狭い領域に 限定される。私たちは、あらゆるものを細部まで見ているかのように思い込む。 だが実際には、この狭い領域の内部を対象としてのみ、私たちの 感覚インターフェースは、適応度利得に関する詳細な報告をまとめ上げることができるのだ 生存に不可欠なこの報告は、形、色、肌理、動き、物体の素性としてフォーマットされる。 私たちは物体を一瞥すると、それに関する適応度利得の記述を生み出す。 別の物体に目を向けると、もとの物体の記述は破壊され、新たな物体の 記述を生み出す。かくして視野は、報告に値する重要な適応度利得が存在する箇所、 そしてそれゆえ生み出すに値する物体に目を向けさせる。 >>66 >>68 これから分かることは、私たちの認識や知覚は適応や生存維持に資するように形成された 主観的な色眼鏡に過ぎないということだ。人によって、あるいは生物によって色眼鏡の種類や タイプが異なっているのに過ぎない 人は外界を客観的に把握していると考えているが、人が実際に把握しているものは 色眼鏡が生成する虚像であり、歪像であり、仮象に過ぎない 人が美に惹きつけられるのも同じ理由だろう。美自体に価値がある のでなく、美しさは生存戦略を有利にする貴重な材料であるからだ 美人、美男であれば、アイドル、モデル、結婚相手、(女子アナ)就職、 人間関係、生殖、経済力、健康の獲得にとって有利な資質であるので、 美がこれほどもてはやされるのだ 人はそれに気づかず、美自体に高い価値があるように色眼鏡で見ているのに 過ぎない。単なる遺伝子が作る錯覚なようなものであるのにもかかわらず 感覚がインターフェースの背後に実在を隠しているのなら、実在とは いったい何か? その答えは、私にはよくわからない。とはいえ、 その根源には意識的経験が存在するという見方を検討する。 鏡の前に立つと、あなたは自分の皮膚、髪、目、唇、表情を見る。 だが、顔の背後には、夢、恐れ、政治的見解、音楽への愛情、文学的嗜好、 家族愛、さらには色、におい、音、味、手触りの経験などといった、 はるかに豊かな世界が隠されていることを知っている。 鏡に映るあなたの顔はインターフェースにすぎない。その背後には、 経験や選択や行動から成る生き生きとした世界が控えているのである。 もしかすると世界そのものが、経験し、決定し、世界に働きかける 意識的主体によって構成される巨大な社会的ネットワークなのかもしれない。 その見方が正しければ、意識は物質から生じるのではない。そうではな く物質や時空のほうが、知覚インターフェースとして意識から生じるのである >>74 側頭葉に位置するV4と呼ばれる領域の活動は、色に関する意識的経験と 相関する。左半球のV4で卒中が生じると、視野の右半分の色が失われる。 ちなみにこの症状は、半色盲症と呼ばれる。 半色盲症患者が赤いリンゴの真ん中を凝視すると、リンゴの左半分は赤く、 右半分は灰色に見える。卒中が右半球のV4で生じた場合には、リンゴの 右半分は赤く、左半分は灰色に見える 経頭蓋磁気刺激法(TMS)を用いれば、正常者でも一時的に半色盲症の 世界を体験することができる。TMSの刺激は、頭蓋の近くに設置された 強力な磁石によって引き起こされる。磁場は、近傍の脳領域の活動を 高めるよう、あるいは阻害するよう設定することができる。 TMSによって左半球のV4の活動が阻害されると、被験者は視界の 右半分から色があせていく様子を見る。赤いリンゴを見れば、 その右半分が色褪せ灰色に変わる。TMSをオフにすれば、リンゴの 右半分の色がもとの赤に戻る。 またTMSでV4に刺激を与えると、被験者は色つきの円環や光輪の幻覚を 見る。このようにTMSを用いれば、意識に色を注ぎ込んだり、意識から 色をはく奪したりすることができる Desimone, R., Schein, S. 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Colour coding in the cerebral cortex: The reaction of cells in monkey visual cortex to wavelengths and colours, Neuroscience 9: 741–65; Zeki, S. 1985. Colour pathways and hierarchies in the cerebral cortex, in D. Ottoson and S. Zeki, eds., Central and Peripheral Mechanisms of Colour Vision (London: Macmillan). つまり、私たちが実在や客観的現実だと普段考えているのは、意識や感覚器官という 色眼鏡の作る幻像のようなものに過ぎない そのため世界を変えるのは簡単だ。色眼鏡を変えれば、君に映る世界は同時に 変わることだろうから この世界が幻、マーヤのヴェール、空だという理解もそういう意味だ 本来、外界には確固としたものは何もないのだが、様々な色眼鏡の効果によって、 一時的な現象が泡のように随時発生しているだけだ つまり色眼鏡の効果や作用を失えば、外界もそれに伴って消失し、 それが幻のような泡沫だったことが分かるのだろう どこを縦読みすると、そんなおかしな解釈が出てくるのだ? 天動説だけでなく、ガリレオは私たちが他のあり方でも知覚を読み違えていると主張した。 「思うに、味、におい、色などといったものは、私たちがそれらを位置づけている物体に 関して言えば、単なる名称以上のものではなく、意識の内部に宿る。ゆえにこの世から生物を 取り去れば、これらの性質はすべて、除去され消滅するだろう」。 私たちは、誰も見ていなくても、トマトが、味、におい、色を含めてそこに依然として 存在していると、ごく自然に考える。ガリレオはそれに異議を唱える。彼の主張によれば、 トマト自体は存在しても、味、におい、色は存在しない。それらは知覚に由来する性質であって、 知覚とは別に存在する実在ではない。したがって意識を失えば、それらも失われるのだ つまり、人々は色眼鏡の効果で擬似実在を仮構しているに過ぎない 単細胞はそれを客観的で絶対であると幻視する、昔の宗教家のように ダミーの部屋からこいつが壁蹴って 隠れた部屋から警察が録音している という意味不明な動きをしている 脅迫かなんかの音声とるために そんな捜査方法あります?(笑) 最初から蹴らなきゃいいやん インセンティブ与えないで人動かそうとする とか障害者としか思えない どこにそれをやるやつがいるんだよ(笑) 人を支配出来ないだけで 被害者ぶって被害届け出すカスもシュール過ぎて ウケるよな お前の欲望の問題やん もはや 嫌われ人外メンヘラに、詐病等、責任を疑うことが容易い、ってことみたいだぜ こいつ彼氏いるし 俺はこいつの彼氏じゃないし 何なのかよくわからねえ 毎日規則正しくインセンティブもらわないで 仕事頑張るやつがこの世界のどこにいんだよ?(笑) 別に逮捕されても お前とは仲良くならないっていう(笑) ていうかどちらかというとこのストーカーと接見禁止になって終わりたいわ早く 散々人のこと利用して夜逃げしたカス 金も置いてかないのかよwww お前関係ねえよ 最初から最後まで(笑) 寝てただけやん 別にコロナ収まるまで人のこと踏み台に してただけやん このハナクソは 何様なの? そのうち慰謝料払いに来いよ豚 もしくは罪の意識が芽生えたときには 恥ずかしくて生きていけないだろう 何がお互いよかっただよ てめぇがよくねーんだよ 1から10まで 乞食野郎 与えようとせず 好かれたい とかもう意味不明過ぎるから なんでこいつは人からもらうことだけ に死ぬほど頭を悩ませているのだろうか こんな心が貧しい人は初めて見た 原因はよくわからないが 結局の所 小森和美とその隣のチー牛が 散々人の生活荒らして 消えていった って感じだよな 逃亡してもさらに敗北を課すゴミ 全部逆に飛ぶゴールキーパー お疲れ 何も得ないで帰国すんのがウケんだけど せめてもう少し徳を積んどけばな お土産いっぱい持って帰れたのに アホくさ あんまり形式的に認めてられてない修行とか しない方がいいよ お前のオリジナル過ぎて(笑) 人の情報が欲しいから 人のこと傷つけていいという 理屈は通らない 何様なん?逆に 情報とかイノベーションとかに頭イキ過ぎて 人傷つけたらブレクスルー起こせる みたいな 意味不明な思考回路はどこから来るのか なんでその人の精神的なモノと 科学の機械的なモノが一緒になってるのだろうか 頭悪すぎる(笑) よくわからない禅と 意味不明な科学と よくわからない宗教がごっちゃになってるな 精神的なことと 科学的事実が どう結びつくのか なんで人間をぐうの音も出ないほど 叩き伏せると もしくは四六時中監視隔離すると 科学的イノベーションが起こせるのだろうか? 意味がよくわからない 何を調べてんの?(笑) それがわかって何になんの? お前みたいなハナクソが 明日からどうせ惨めな人生だろ(笑) 大谷選手のホームランの打ち方がわかると お前は大谷選手になれるのか?ハナクソwww なんでそのありえないことまで コピー応用可能みたいな思考回路は どこから来る? てめぇが何年も生きて上手くいかないから そうなってるんだろうが 無駄なことやって加害行為繰り返す って最悪だなお前 将棋とかの多面指し あんたが一番普通に指したってこと それはもっとも心配視していたこと でもどうにかやれてる オープンソースじゃねーんだよ オープンソースしようが何しようが 個々人の役割分担でまったく違うベクトル向いてる としか思えない 学習したいってことと 暴力的に強奪しようとして尚上手くいかないって 次元の違う話だよ泥棒 俺のおかげでだろ? 二度と生意気な口聞けないように してやったからな 理想が高いわりにまじで何もしないクソ雑魚野郎だな お前は本当に 学習じゃないよ。指し手の先読みだよ ほとんどの人は弱いし、ルールを知らない人すらいるし、 その一方で自分の指し手まで相手に考えさせる奴もいたけど あんたみたいに普通に指す人をもっとも恐れて何年も縮こまってたってこと なんなのその自称仏教徒です みたいな てめぇは誰なんだよ(笑) お前の次に来たやつが大変だな 年々ハードル上がってるし いきなりぶっ殺すかもしれないしな 先にもう襲った方が早いんじゃないかな って気がしてきた 先読みするために、相手に自分の腕前を代入し、相手もベストを尽くすと仮定するわけ そうやって何十手も何百手も延々先読みばかりしてた 悪霊とか入り込む余地がないだろ 俺とか バッグボーンが真っ直ぐ過ぎて 何年も何十年もあとに自分の言ったこと 思い出して 結果真っ直ぐやんけ ってなるように創作して生きてるような 気もしなくはない お前のそのランダムエクソシストは 社会的に許されないから もうやめなさいね 普通に邪魔だし 何でその別れ際だけいい感じにしてくの このハナクソは 盤面の状態をね、必勝を+50、必敗を-50とかにして形勢の瞬時値をはじく それだけだと心もとないので先読みして、その結果をもとに 一番うまくなりゆきそうな最善手を決める 別にお前の損害が最小になろうが マンションの隣の部屋の奴の行動を予測して データ化して損害に備えるとかの時点で 想像の先を行き過ぎてもう 何をやってるかわからない 普通に働けよとか思う 知らないし 誰もお前に危害を加えないし お前のその意味不明な人間将棋を始めるまでは つまりお前が最大限の損害を生み出してる としか思えない うん、この先読みというのは早い話「勝負の悲観視」であり「仮想敵の最大化」だ 女の権利意識に酔って 男なら誰でも支配下における というようなクソ野郎にしか見えなかった 頭はそんなにはよくないというか俺はアイデアマンだな で? 謝礼は? なんでお前のその意味不明な研究のモルモットに させられてんの? ギャラも払わないくせに 人間にそういうことしちゃ駄目って どこかで学習しなかった? お前で完結してんならいいけど マンション中にお前のその加害行為をばらまいてるだけの話 モルモットかどうかはわからんよ いくら勝負を悲観視しても仮想敵を最大化しても 単にあんたの方が強ければ負けるよ 仮想になってねーんだよな てめぇが具体的に俺にストレスかけてる時点で まああと少し引っ越すの遅かったら 本当にやばかったと思うよ お前がな 次は気をつけて 他スレで言ったこともあるんだ 「こんな板の人は強いんだから普通に自分の手を指せばいいんだよ」って 警察らしき人にも言われたよ 「自分で状況を悪くしてんだよ、あんたは。あんたが尖ればみんなも尖る」 てかそういうのに金払わないと 逆に呪われるよ? 少なくとも人の身心に負担かけたり 死ぬ思い与えてんだろ? あんま 俺は言えないけど こういう実験をしたいから これこれ こういう風に無料で動いて下さい とか 意味不明過ぎるから(笑) むしろよくこいつこんな損害集めれるなぁ って凄い関心してたんだけど てかこいつ普通に俺と会話出来る と思ってる時点でおめでたい 次は会ったら許さない 舐めすぎ 隣の男もな こいつの都合ひたすら押し付けて 勝手に消えてっただけだろ むしろ探してやろうか? ゴミ野郎 最初から最後まで 人間の汚い部分見せつけて 消えてった 何がアイデアマンなのかわからねえ 顔と名前は覚えなぞ 次会ったら容赦はしない 乞食野郎 人利用してコロナ禍乗り切っただけじゃねえか カス(笑) 殺してやる 「浅はかな愚人どもは、自己に対して仇に対するようにふるまう 悪い行いをして、苦い木の実を結ぶ」(ダンマパダ-66) 一七五七年、デイヴィッド・ヒュームは著書『嗜好の標準について(Of the Standard of Taste)』で、 「美は観察者の目のなかにある」と述べた。彼はさらに、「美は物自体の性質ではなく、それを 見る観察者の心のなかにしか存在しない。そしておのおのの心は、独自の美を知覚する」と 述べている。この言葉は、「なぜこの美の標準が、あの観察者の目のなかにあるのか?」という 問いを自ずと喚起する。 それから一世紀が経過したあと、ダーウィンは、自然選択による進化という、その理由を説明する 心理学の基盤を提供する説を提起した。それによれば、美は、このリンゴを食べる利得、 あの人とデートする利得などといった、眼前に提示されている適応度利得の知覚なのである。 この知覚は、生物種の違いによって、人によって、さらにはタイミングが異なっても、必要度や 環境条件の違いに応じて変化する。繁殖成功度は、適応度ポイントの蓄積の如何にかかっている。 美はこの適応度ポイントが何であり、どこにあるのかを教えてくれるのだ 美に関する進化の予測は意外なものだが、物体に関する進化の予測は人を不安にする。 物体は美と同様、観察者の目のなかにあり、実在ではなく適応度について教えてくれる。 物体に関する、この人を当惑させる見方を受け入れる準備を整えるために、動物界における 美の知覚を探究することで、私たちの直観を鍛えておこう。 美とは、複雑ながらも無意識的な計算に由来する知的な判断なのである。誰かに会うたびに、 あなたの感覚は、数十、あるいは数百のまぎれもない手がかりを自動的に、そして瞬間的に 精査している。長い進化の過程を通して慎重に選択されてきたそれらの手がかりは、 たった一つのことを私たちに教えてくれる。生殖能だ。 あの人は健康な子どもを生み、育てられるのか?もちろん私たちは通常、この問いに関する 明示的な考えや、判断を導くはっきりした手がかりを人との出会いで経験しているわけではなく、 判断そのものをさまざまな感情の形態で経験しているのである。辛抱強い調査の要約である、 この感情こそが観察者の目のなかの美なのだ。 このことは、美が観察者の気まぐれであるとする考えの誤りをあばく。それどころか美は、 数千年をかけて自然選択の論理によって構築されてきた、観察者の脳内で生じる無意識的な 推論の結果なのである。この推論が、あまりにも頻繁に本来「美しくはない」と判断すべきところで 「美しい」という判断を下すようなら、その観察者は、健康な子どもを育てられそうにもない相手を むやみに好む結果になるだろう。 その場合、観察者の誤りを導く遺伝子や、間違った推論が次世代に受け渡される可能性は低い。 要するに美を読み違える遺伝子は、情け無用の自然選択の論理に従って淘汰されるということだ。 すべては遺伝子間の競争に、言い換えると自然選択による進化の中心概念である適応度に 関係している。他の遺伝子を押しのけて次世代に受け渡されることに長けた遺伝子は、 より適応度が高いと言える。他の遺伝子を押しのけることに少しでも巧みであれば、 その遺伝子は世代交代を通じて増殖し、凡庸な競争者を根絶やしにする。 「凡庸は致命的だ。(……)過ぎたることほど成功に至るものはない」と書いたオスカー・ワイルドは、 この論理をよく理解していた 遺伝子はじかに競い合うのではなく、代理を立てる。身体や心(表現型)を立ち上げて、 それらに競わせるのだ。けんかに強い表現型は、対応する遺伝子型と同様、適応度が高い と見なされる。もちろん表現型の適応度は、遺伝子のみならず健康、発達、栄養面での 変化や一般的な経時的劣化にも依存する。たとえば表現型の適応度は、一卵性双生児の あいだでも異なりうる。だが、間違ってはならない。 遺伝子は代理を立てて争ってはいても、身銭を切っているのだ。飛行機のパイロットのように、 遺伝子は表現型に縛られており、墜落すればそれ自体も死ぬ。 美の計算はそのような代理戦争の一部をなす。それは、遺伝子が他の遺伝子と競うために、 つまり適応度を高めるために装備している巧妙な装置の一つなのである。競争相手より 効率的に美を計算できれば、美の計算は繰り返し自身の適応度を高められる。 自然選択による進化は、適応度を高めること、評価すること、評価を通じて高めることに 専念しているのだ。美を計算する神経回路は人生の早い時期に配線され、生後二か月の 乳児でさえ、おとなが魅力的であると評価する顔をより長く見つめる >>179 >>184 つまり、美を含めた無意識レベルからの適応度の計算は、 それが自己保存や生存状態を高めることに資するか、生殖、繁殖に適しているか、 という利得計算に基づいて行われている、ということになるかな マクロで考えれば、それが種の保存に寄与するか否か、といった観点 だから、人が不幸を感じるのはこの反対のベクトルを無意識レベルから 感受・認識しているから、とも言えそうだ それが自己保存や生存状態を悪くするか、生殖、繁殖に適さないか、 という利得計算に基づいて行われている、ということになるかな 逆も然り、だけを根拠にそう言ってよいかどうかはなんとなく疑わしいんだけど 遺伝子がその個体に対して身銭を切るように、 我々は地球文明に対して身銭を切るべきではないのかな 幸不幸で対称にはなってなさそうに感じるんだけど ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる