分析哲学という哲学界ではめっちゃイキってる分野
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
無常をこう書いた。正しいだろうか?
∀xMx M:無常 聖書の神は万物の創造者であり、無常ではありません。
仏教の仏も常住です。釈迦が入滅したのは仮の姿だと説かれています。(久遠実成、大日如来の化身)
(A=B、B=C)→A=Cであることは、宇宙のどこでも成立する真理で無常ではありません。 万物を神が作ったというならその神にも作り手がいたはずである。神が無限の昔からいたというなら万物が無限の昔からあったと言うのもまた道理である。
仏教自体が無常である。
(A=B、B=C)→A=Cであることは、宇宙のどこでも成立する真理で無常ではありません、ってあなたの感想ですよね? 聖書によって、神は常住だと定義づけられています。
仏典によって、仏の久遠実成、大日如来の化身だと定義づけられています。
>(A=B、B=C)→A=Cであることは、宇宙のどこでも成立する真理で無常ではありません、ってあなたの感想ですよね?
反論があれば、書いてください。
無ければ、認めてくださいね(^^♪ 聖書は無常です
仏典も無常です
反論を要求するより先に質問に答えてください 社会人経験の無い子供が
何かを言ったつもりになる
という意味では
社会システム論と双璧 無常でないものがある。
それは、神仏、論理など主観によるものだ。
ならば、それを除こう。
J:実在(客観)、M:無常
∀x(Jx∧Mx)
これで正しいだろうか? >J:実在(客観)、M:無常
>∀x(Jx∧Mx)
これ↑は、実在して無常であるものがある、と述べている
無常の主張は、「一切は無常である」というものだろう
ならばこう↓書かなければならない
∀x(Jx→Mx) →:含意 >J:実在(客観)、M:無常
>∀x(Jx∧Mx)
この主張↑は、実在しないものがあれば偽となる
・∀x(Jx→Mx) →:含意
この主張↑は実在しないものがあっても真となる クワインの「ことばと対象」を経典にして毎日唱和してる 「愛=x」についての言及ならば
∀x(Jx∧Mx)偽
∀x(Jx→Mx)真 後期ウィトゲンシュタインの立場なんかそうじゃない? 天才が「ぜんぶ根拠なんてねーんだよ」ってゆーのかっこeよな >(A=B、B=C)→A=C
証明
A→B
B→C
¬(A→C)
────
¬A B
¬B C ¬B C
A A × A
¬B ¬B ¬B
× × ×
B→A
C→B
¬(C→A)
────
¬B A
¬C B ¬C B
C × C C
¬A ¬A ¬A
× × × 【文系の典型】
聖書の神は万物の創造者であり、無常ではありません。
仏教の仏も常住です。釈迦が入滅したのは仮の姿だと説かれています。(久遠実成、大日如来の化身)
(A=B、B=C)→A=Cであることは、宇宙のどこでも成立する真理で無常ではありません。 【理系の日常』
先輩、ここ動かないんですけどーチェックお願いします!
うん、‥ここの比較演算が間違っとうけん動かんとよ。両方のパラメータ確認してみ。
え、…あ!型変換曖昧にしてました、すんません!
うん、A==B、B==C でもA==Cやないとよ。 >(A=B、B=C)→A=C
A=B
Aが1であればBも1である
B=C
Cも1である
∴A=C 数学者から見ると「幼稚園児の数遊び」みたいなものらしいが、
これを専門にしているプロの哲学者って本当にいるの? バートランド・ラッセルが起源です
彼の確定記述は分析哲学になくてはならないものです 大森荘蔵は分析哲学の立場から、物心二元論を批判して独自の哲学体系を築いたと主張した。
しかし、結局、二元論に敗北してしまった。 カントの頃は「物自体」とか「コペルニクス的転回」とか子供だましみたいなことを言っていれば、それなりに受けた。
しかし、20世紀になって科学が実力をつけてくると、哲学者は迂闊なことを気楽に言えなくなってしまった。
そこで、ラッセルは、「論理」ならば誰もが膝まづくだろうと考えたのだと思う。
この方向もそれなりに受けたけど、現時点での評価は、「文系に論理は無理」だと思う。 2930に説明してやったけどこれさえも都合のいいふうに解釈されてそうだな(理解されてなさそうだな) いや、A=Bとかありえんから
同属性のものは区別できねんだから、同時に存在してる理由がないやんか
だから同値のものは実在せんのや 日本語で考えているから、「妄念」になっちゃうんだよ
英語で考えてごらん 結構、盛り上がっているね。
ということは、分哲最大の未解決問題であるニューカム問題が解けたのかな? ニューカムって、「神は論理を必要とするか?」だっけ? やっぱりポエムになってる
A=BというのはAとBは同じだという論理なのですよ
論理だと分れば
A=B,B=C∴A=C も分かるはずです A=Bというのは、A→B、B→Aと同じことです(→:含意)
A→B、B→C∴A→Cとなります
タブロー法による証明
¬A B
¬B C ¬B C
A A × A
¬C ¬C ¬C
× × × 数学が赤点の高校生も、分析哲学をやれば少し自信がもてる プロも含めて、分析哲学は数学コンプレックス等の吹き溜まりであることは事実 ということは数学者が数式で
解いた哲学問題って
どんなのがあるんですか? アキレスと亀のパラドックスを、自称「解決した」という論文等を発表して哲学畑からカラカラ笑われた数学屋ならゴマンといる。 アホな仮定を置けばどんなパラドックスも作れるし
飛んで飛ばない矢もただの言葉遊びだよ ニューカム問題ググってもあまり
ヒットしないね。
数学者が問題解いたんだよね? クルト・ゲーデルは数学者でもある
1931年、ゲーデル数の概念を用い、20世紀の数学基礎論、論理学にとって最も重要な発見とされる「不完全性定理」を発表した。
不完全性定理はゲーでる人がほとんどだろうねw >>61
ゲーデルの不完全性定理を、「理解している」風な体裁で誤用した論文等を発表して数学畑からカラカラ笑われた哲学屋ならゴマンといる。 >>66
数学者といわゆるポストモダンの連中とでは「ゲーデルの不完全性定理」という言葉の意味内容が違う。 >>67
どっちがどうカバーしてるか理解できてる? >>67
どっちがどうカバーしてるか理解できてる? 不完全性定理はゲーデルの論文を読むといい
和訳が出てる
そうして君もドツボにハマるw 形式体系は基本的な記号群の有限の組み合わせを通して構築された任意個の数式で構成され、その組み合わせは公理群と構成規則群から作り出されているから不完全性の定理が確定するよね。 不完全性定理は数学で、分析哲学と無関係なんだよ。 このスレで「不完全性定理」とか言ってる君たちは、分析哲学がわかっていないということ。 数学の形式体系で分析哲学の論理を定理するのは不可能なだけ。 ゲーデルは、¬(否定)、∨(論理和)、∀(全ての)、=、+、×が出てくる体系は不完全性定理が成立すると述べています
哲学も該当しますね ゲーデルの定理は数学の中で閉じていて、数学以外の分野に一切影響をあたえないんだよ。
この事実を頭の悪くないポスモの連中は遅々としたとしても学んだはずなのだが、このスレには頭の悪いポスモの残党がいるみたいだな。
物理学科の学生が「物理でも実数と論理とかでてくるからゲーデルの不完全性定理を一生懸命勉強してます」などと言っていたらどうする。
こいつは救いようない馬鹿学生と思って、見捨てるしかないでしょう。 ゲーデルは不完全性定理を証明した前年に論理学の完全性を証明しちゃってる天才なんだよなぁ。 >>77
¬(否定)、∨(論理和)、∀(全ての)、=、+、×が出てくる体系で不完全性定理が成立してしまうから、体系外のニューカム問題とか任意個の数式で構成されていない論理の組み合わせは公理群と構成規則群から定理できないし。 >>79
>論理学の完全性を証明しちゃってる
哲学板ってこのレベルなの?(´・ω・`) >>81
哲学レベルがどれぐらいかによるんじゃない?あなたのね。
逆に、わざわざ哲学板にきて言えちゃうほど凄いレベルなら、ニューカム問題解いて証明してみてよ。 6.241 So lautet der Beweis des Satzes 2 × 2 = 4:
(Ωv)u'x = Ωv×u'x Def.,
Ω2 × 2'x = (Ω2)2'x = (Ω2)1 + 1'x = Ω2'Ω2'x = Ω1 + 1'Ω1 + 1'x
(Ω'Ω)'(Ω'Ω)'x = Ω'Ω'Ω'Ω'x = Ω1 + 1 + 1 + 1'x = Ω4'x. 6.522 Es gibt allerdings Unaussprechliches. Dies zeigt sich, es ist das Mystische.
(しかし、言い表せないものが存在している。それはそれ自体を示している。それは“神秘”である。)
6.54 Meine Sätze erläutern dadurch, daß sie der, welcher mich versteht, am Ende als unsinnig erkennt, wenn er durch sie - auf ihnen - über sie hinausgestiegen ist. (Er muß sozusagen die Leiter wegwerfen, nachdem er auf ihr hinaufgestiegen ist.)
Er muß diese Sätze überwinden, dann sieht er die Welt richtig.
(私の文章は、このように説明される。私を理解する人なら誰でも、私の文章を通して、私の文章を乗り越えたとき、最終的には、私の文章が無意味であると認識する。
(彼は梯子を登った後、いわば梯子を捨てなければならない。)
彼は私の文章を克服しなければならない、そうすれば彼は世界を正しく見ることができる。)
7 Wovon man nicht sprechen kann, darüber muß man schweigen.
(語ることができないものについては、沈黙しなければならない。) 語ることが出来ないものについては、沈黙しなければならないけど無断転記してもいいってこと? ウィトさんの著作権は2022年に切れてパブリックドメインになってるよ。 著作権の保護期間(第51条〜第54条)
実名(周知の変名を含む)の著作物 死後70年
無名・変名の著作物 公表後70年
(死後70年以内に公表されなければ、創作後70年)
https://www.cric.or.jp/qa/hajime/hajime3.html
ほんとだ 「われわれは、哲学を研究しているように装うべきではなくて、真に哲学を研究すべきである。なぜなら、われわれが必要とするのは、健康であるようにみえるということでなく、真
の意味で健康であるということなのであるから。」
エピクロス『エピクロスの勧め』より 「人間のどんな悩みをも癒さないようなあの哲学者の言説はむなしい。というのは、あたかも、医術が身体の病気を追い払わないならば、何の役にも立たないように、そのように哲学も
、もし霊魂の悩みを追い払わないならば、何の役にも立たないからである。」
エピクロス『哲学と哲学者について』より >>0080
>任意個の数式で構成されていない論理の組み合わせは公理群と構成規則群から定理できないし。
それが論理なら式で定義できます
>体系外のニューカム問題
ニューカム問題とやらはただの問題で体系ではないですね >>100
>それが論理なら式で定義できます
>ニューカム問題とやらはただの問題で体系ではないですね
えー凄い、定義できたんだ、私もこの問題は体系外から考えはじめたんだけど、どう考えたらただの問題って完全に定義づけできるのかな?他にも何パターンか組み合わせないと完全に解いたことにはならないでしょうけれど、預言者の精度と両方じゃなくBの箱を選択したら10億入れるっていうところはだけは多分みんな外せないと考えてると思う。例えばここをどう解いたか、ないとは思うけどもし関連してないならそっちのヒントでもいいので、できた解釈をそのまま書いてください。(すみませんけど数理ダメな人です、数記号なしで) 例えば、入試問題は体系ではないです
命題論理は体系です >>103
そう思えるだけやっぱり、そう簡単に50年解かれてない問題を理解して体系的に論理付けられる定義なんてでてこなかったってことだよね。定義出来ないから例えてほのめかすしかない。あるあるなオチかー、楽しみにしてたから残念だけど、出来た!と思っても実は思い込みだったっていうのはあるからいいよ。 例えば、毎日千円もらうのと、1年後に40万円もらうのとどちらを選択すべきかという問題に答えは無いでしょう
この問題は体系といいません ニューカム問題とやらはただの問題で体系ではないんでしょう?
そういうからパラドックス見破ってただの問題だと論理的に
わかったことに、期待したんだよ?
>それが論理なら式で定義できます
っていうし。
だから「ニューカム問題」の解釈を聴きたいと言ったよね。
あなたが作った問題に体系がないのは関係ない話で
全然興味ないんだよ、ごめんね。 体系と問題というのは無関係ですよ
意味が違います
体系というのは原理を定めた系です
君の主張を例えると、選手の離婚問題を野球の試合に絡めてる感じ >>107
あなたがどう感じるかはあなたの主観の問題でしかないので、いいんじゃないですか。
誰か興味ある人いたら相手してあげてください。 ということで「ニューカム問題」ですが、問題自体がどうもよく分らない
この問題を正確に表現した文章ありますか? 111さんは>>53さんですか?
たまたま53さんのレスをみてニューカム問題
知ったんだけど・・・ ニューカム問題
透明な箱Aに1000万円入っている
不透明な箱Bには0円または10億円入ってる
選択肢1:不透明な箱Bをとる
選択肢2:透明な箱Aと不透明な箱Bをとる
予見者は
行為者が選択肢1を選ぶと予想し、不透明な箱Bには10億円いれておく
行為者が選択肢2を選ぶと予想し、不透明な箱Bにはなにもいれない
問 利益を最大にする選択は選択肢1選択肢2のどちらか?
なもん選択肢2に決ってんじゃん
選択肢1は1000万円 ≦ 選択肢2は1000万円以上
問題にならないよな
問題が間違ってる? >>113
確かに問題にならんな。入試で出すとしても選択式じゃあ問題にならんだろ。
記述式でもさいてんしゃと回答者の相性によって正解が変動しうる 2択を選ぶだけじゃなくて、問題自体のパラドックスを解かないと。 ニューカム問題というのはパラドックスでも何でもない、ただの愚問だということでいいんじゃねw 結果でないことを祈るのも考えるのも無駄ってことかな。
答えを考える過程を楽しめるか。
祈ることで少しでも不安が和らぐか。 ?と思ってぐぐったら面白くて
考えてたんだけど、解いたかも。
>>53 分哲最大の未解決ってほどメジャーな問題じゃないんだね。 最大の問題は、論考を普通の大学生が読めるように書き直すことだよ。 そうなんですね、通りすがりなので専門的なことはわかりませんが、謎解きは楽しかったです。 >>113
その場合、問題の利益の最大は十億一千万だから選択し2を選んでゼロなら利益を最大にする選択にならない。問題をよく読もう。 哲学者とかは問題の正解はわかった上でなぜ凡人
には解らないのかとか、数式にできないのかって
研究してるだろうね この榛葉さんがどうか知らないけどそもそも問題文理解してないよね
どこにも預言者VS選択者なんて書いてないのに
勝手にそういうことにしてる時点で終わってる 大森荘蔵って「日本の分析哲学の父」って言われているよね。 て言うかニューカムさんはなくなる前に正解遺してないのか 正解は問題の最高額を必ず得られる方法が問題文にあるということ。論理的に分析すれば誰でもわかるよ。 三浦俊彦氏はニューカム問題を全く異なる問題として提示し、
正解はなく好みの問題だと結論しています 哲学界を二分する「ニューカムのパラドックス」が難問すぎる!
https://tocana.jp/2016/12/post_11770_entry.html
俺には無理。 誰かこれを説明してくれ。 三浦俊彦氏、東大教授なのですね
好みの問題って…やる気ゼロ? >>133
「全くことなる問題と提示」なに提示したんだろ? >>134
課題が込められた問題設定になっていると思うよ。 >>134だととちらでもいい正解のない問題になりますね 数学の記号論理学を文系の立場から議論するのが、分析哲学かな。 もう数学はいいよ理系板でおとなしくロムってなさい。 摩擦がなくてツルツルして歩けない。
ザラザラした大地へ戻れ!ってか? 「現在のフランス国王は禿である」という文は下記のように分析できる
∃x(Kx⋀∀y(Ky→y=x)⋀Bx) フランス国王が存在しその全てについて禿である
こう分析することで、フランス国王が存在しないゆえに間違いだと明確に分るわけです
「現在のフランス国王は禿である」と聞いて誰もが「ん?」と思うわけですが、確定記述によって主張が明確になるわけですね 数オリのチャンピオンでもルールを学ばなければ"形式的"な間違いをするコミュニケーションツール。全ての明確が且つ正しくなくはない。 自分に不足しているものを重要と思う性癖が人間にはある。
こう考えれば、
ウィトが「論理は重要」と力説した理由もわかる。
また、文系が「論考」を読み漁った理由もわかる。
理系が「論考」を馬鹿にした理由もわかる。 「論理は重要」だとかいう人って論理を分ってないことが分る
論理とはつまり言葉のことなのですね
言葉は重要だとか言葉でいう空疎さだな 「論理は重要」だとかいう人って論理を分ってないことが分る
論理とはつまり言葉のことなのですね
言葉は重要だとか言葉でいう空疎さだな 論理が言葉ってことで「論理は重要」という人が論理を分ってないことが分るって、つまり私って論理的に言葉を使えないほど空疎なんですってことになりますがw ウィトの論理力は大学1年ぐらいと思うが、違いますか? 「論理は重要」という人は「論理」というものが普段使っている言葉だとは夢にも思っていない
認識が浅いですね
ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』以後分析哲学へ転向していますので、その後成長したのかもしれません 夢にも思っていないw妄想が論理的根拠になると思ってる自分の認識の浅さこそ肝に命じなさいw
: >>157
論理に関する知識が中三ぐらいで、20世紀最高の論理に関する哲学書(=論考)を書いたんだから、ウィトゲンシュタインは哲学の天才だよね。 >>161
天才と絶賛されてる哲学者の本読んでも159レベルの妄想力しか身に付かないんじゃウィトも暖簾に腕押しだね。 ウィトゲンシュタインは困ったチャンなんだな
ラッセル先生の自宅で変な持論をまくしたてる
ラッセル先生は困って追い出そうとするのだが
ウィトはここを出たら自殺するつもりだという
ラッセル先生は困ってウィトが自殺しないというまで話を聞いてやっていた
こういう感じの奴5chにいるよな 分析哲学をわかってない連中ばかりだな
分析は現代の理論哲学では廃れたのでなく空気になったに過ぎない
しかも、単に形式論理を応用するというバカげた誤解があるが、実際には
論理や意味自体が自明でなく探究の対象であるという問題意識が重要になっている
未だに残っている本質は、あくまで世界を理論的に解明するというスタンスだ
分析以外の哲学が政治的主張や既に起こっているブームの批評や後追いに堕落
しがちなのと対照的だ ↑この空気というのは前提、血肉という意味ね。存在感がないという意味じゃない つまり
156のように「論理的に言葉を使」うと「明確」になると思い込んでいる価値意識を、「空気」のような論理空間の中でバラしてしまう
てことかな >>167
いや分析哲学が空気のように当たり前の前提になったというのは、何らかの
抽象的な枠組みで言語や世界を理解するという態度を受け継ぐという意味
何れにせよ論理的なものが自明という考えは捨てるけどね
そういう意味では数学そのものを抽象的な形式体系で理解しようとする数理論理学の
世界全体版と考えることもできる。全ての学問や言語の理論的原理を探究するから
抽象的な話だけど、そういう観点で今の理論哲学者を見るとやりたいことがわかるよ 言葉に意味があるとして、
どのような言葉に意味はあるのか。
それを形式的な観点から考えるのと、自然的な観点から考えるのとで、質的な差は(あまり)無い、ということを明らかにした意義みたいなものはあるんじゃないかなと 自然言語の一形態として形式論はあるから
関係論に包摂されるのかなあ
そこら辺の繋がりは全然わからん 意味から見るとゲーム性が際立つ
原理も言葉にしてしまうとゲームになるだろうし、それを否定する意味が論理にもなるだろう
ほら見ろトートロジーじゃないかと んまぁ全てが完璧な動作をすると仮定すればトートロジー…トートロジーであることが全てとは思わんが 記号論理学、確定記述のない哲学は、ただのポエムである 「ただのポエム」のはずが、明確な意味を持つかのように交換されている点に着目したウィトは
ポエマー気質なのかな、論理的ポエムとか 糞味噌一緒にしてポエマー認定したがってる人にこき下ろせるほどポエマーじゃないだろw お前らは、「論理を知らないで哲学をやろうとするのは、フランス語を知らないでフランス文学をやろうとするようなものだ」
のような戯言を言っている老人と同じレベルみたいだな。 言語は単なるフォーマットに過ぎないと言ったのは他ならぬウィトだしな。
でも数学的宇宙仮説とかは良い線いってると思うよ。 >>179
いまごろ分かり論理力だったんだよ、残念 私が私である(のは何故か) ←ただのポエム
こう↓書けば不思議がらない人がいるだろうと分る
∀x(Ix⋀Wx)すべての人について私であり不思議がる
こう↓書けば まあそういう人もいるだろうと分る
∃x(Ix⋀Wx)私であって不思議がる存在がある 形式論理でそういうことにできると思ってるシンボルポエマー 世の中、推論でおわることは少ない。
今日の俺ポエム。 文系がいつもいつもいつもいつも、世の中の事象を読み違えているのは理系分野の本質を理解してないからなんだよな
量子力学をマクロにも適用したり、STAP細胞事件で最初は国をあげておう何でも出来るんか、なにぃ嘘やったんか、と振り回されたり、WHOの発表するシンドロームを万人に個体差なく発症する絶対的な病気だと勘違いしたり、その病気の治療薬をTPO関係なく効く薬だと誤認したり、いつもいつもいつもいつもずーーーーーと変わらない 1+1=2やA=B、B=CならA=Cがこの世で常に成り立つ真理だと盲信してる連中も多いしな ある日ちきゅうに宇宙人がやってきます
宇宙人は尋ねます
1+1=2はこの星で常に成り立つ真理か?と
そこでどう答えるべきなのか、一度じっくり考えてみるといい
愛想尽かされて蹂躙されたくなければね >>190
その質問にはこの質問で答えよう
分析哲学は何のためにあるのか? >1+1=2やA=B、B=CならA=C
これはこの宇宙のどこでも成立する真理ですね
言語を使うモノがいれば、必ず理解します ヘーゲルの分類に従えば、本質があれば矛盾が生じ、分析哲学は分析哲学のためにあるわけだが、
推論のもっとも深刻なひとつの誤りは、ゲーム理論の本質にかかわる。ある人は言うだろう、
ゲームが成立するためには、純粋な論理があると、 理系はいつもいつもいつもいつも、世の中の事象を読み違えているのは理系分野の本質を理解してないからなんだよなと責任転嫁する。
量子力学をマクロにも適用したり、STAP細胞事件で最初は国をあげておう何でも出来るんか、なにぃ嘘やったんか、と振り回されたり、WHOの発表するシンドロームを万人に個体差なく発症する絶対的な病気だと勘違いしたり、その病気の治療薬をTPO関係なく効く薬だと誤認したり、いつもいつもいつもいつも話をすり替えて自己肯定する。ずーーーーーと変わらない 本質について、教えたろか?
理系が理系になる最初の壁が大学の単位の課題。課題を自分1人で解くには、高校の理系の感覚を続けてたらまず挫折する。暗記では対処できないから。理屈が合わないんだよ。理屈を理解するには過去の文献を辿る必要があり、すべて理解するには最終的に百年以上前の資料を読むことにもなる。そこで原初の理屈と条件を理解したら今度は逆行して手元の教科書と課題までフィードバックする作業になる。そこで初めて定理(公式)を理解する。それを公式の数だけ日々行う。すると各公式がいかに尖った定理であるかを身をもって習得するわけだ。この作業を経験せずに単に答えを丸写ししたり公式を丸暗記して思考放棄したら、当然ながら公式の起源も構成も世界観をも理解できずに絶対真理のような曖昧な捉え方をして、間違った場面でその公式を使ってみようとしたりする輩も出てくるわけだが、そんな奴が書いた論文はまず相手にされなくなる。これが理系の本質の1つである。 文系:汚染水を排出するな
理系:トリチウム濃度は環境基準の100分の1以下です
文系:お前が飲め
理解:飲み水にはトリチウムが入っています
文系:飲み水ではなく汚染水を飲め
理系:海水と混ぜているので飲めない
文系:ほれ見ろ飲めないじゃないか
理系:┐(´Д` )┌ ヤレヤレ >>192
The limits of my language mean the limits of my world
だから、世界を語る言語を作る
のでは? 「われわれは、哲学を研究しているように装うべきではなくて、真に哲学を研究すべきである。なぜなら、われわれが必要とするのは、健康であるようにみえるということでなく、真
の意味で健康であるということなのであるから。」
エピクロス『エピクロスの勧め』より
「人間のどんな悩みをも癒さないようなあの哲学者の言説はむなしい。というのは、あたかも、医術が身体の病気を追い払わないならば、何の役にも立たないように、そのように哲学も
、もし霊魂の悩みを追い払わないならば、何の役にも立たないからである。」
エピクロス『哲学と哲学者について』より 役に立たない知識から得る喜びは大きい。
There is much pleasure to be gained from useless knowledge.
バートランド・ラッセル 質問です。
100年前は、分析哲学という学問があったことは確かだと思います。
しかし、今は分析哲学という学問が本当にあるのでしょうか?
日本でも世界でもいいから、今の分析哲学者の名前を何人か教えてください? >>200
エピクロスは思想と哲学を混同していたのです。 >>202
哲学的に分析することが今は当然というか前提になっているので、わざわざ分析哲学者を自称する哲学者はもういなくなったんです。 日本の分析哲学者は何といっても三浦俊彦(東京大学人文社会系研究科美学藝術学専攻教授)先生が第一人者でしょう
この先生は日本を代表する知性です
人間原理、可能世界、虚構など著作がたくさんあります
現代思想に投稿したものは読みごたえがあります トランスジェンダー差別で、東京大学関連教員有志から批判されているとか、事実なら発言内容を自己分析してから口にできない哲学者を日本を代表する分析哲学、知性と持ち上げる気がしれない。 学者(専門家)は、優秀な人ほどその専門以外の分野で問題がある人が多いものです
学者(専門家)は、その専門分野で評価すべきです >>207
哲学が専門の三浦俊彦氏を、自分の発言内容を自己分析してから口にできない分析哲学者として評価してみたらいかが? なぜ問題が多いかに、専門が関わるなら切り離せないけど、そのパターンでは分野の近さかな。
例えば、政治に数学を持ち込んで失敗することもあるし、心理学に持ち込んで成功することも。
その人は知らないけど。 日本の分析哲学者は何といっても三浦俊彦(東京大学人文社会系研究科美学藝術学専攻教授)先生が第一人者でしょう
この先生は日本を代表する知性です
このパターンの人は分野関係ない問題よ。 人々がどう感じてどういう行動をするかという問題は、心理学とか社会学、社会心理学の問題で哲学ではないです いや、その人は知らなくて、問題になっているとしたら、分野外に手を出して不適だったかと その三浦さんっていう人は、世界では評価されているんですか? 分野外の人たちが勝手に取り上げて騒ぐんじゃないかな
哲学で考えるべきなのにね 日本の哲学者で有名なのは、西田幾多郎と大森荘蔵でしょう。
ただ二人とも意味不明な妄想を口走っただけです。 一般人に妄想を論証できる頭はないから変人扱いはしたくてもできないだろうし、専門家という権威にまもられるわけよ。
持ち上げてくれる人もいるし。 何故無いのではなく有るのか?
こんなこと考えてる人は、一般には変人だよw 一般人というよりこういう↑人間が5ちゃん哲イタに常駐してるんだよね。 分析哲学の最大の教えは、「言葉遊びをするな!」なんだよ。
それなのに、分析哲学の賛同者たちが言葉遊びをしちゃったんだな。
大森の羊羹理論とか。 可能世界でもし>>206
みたいな言論色が事実あったとしたら、専門で擁護する何かは免れながら、論証法が問われる >>229
その可能世界が、ライプニッツの神は無数の世界(可能な事物の組み合わせ)を創造しえたのであり、現実世界はその一つであるとする思想のことなら、思想レベルは何にしても本人が、そう思えるという意味で可能世界次元だから、哲学として論理的証明以前の主観世界で終わりだね。 >>229
その可能世界が、ライプニッツの神は無数の世界(可能な事物の組み合わせ)を創造しえたのであり、現実世界はその一つであるとする思想のことなら、思想レベルは何にしても本人が、そう思えるという意味で可能世界次元だから、哲学として論理的証明以前の主観世界で終わりだね。 当然、本人の主張する如く、現実世界は多様(且つ論理的に干渉しない)としても、論証の正誤を主張している以上、論証の論証は問われる >論証の正誤を主張している以上
ん?誰かここでそんな主張してたの? >>思想のことなら
を反語的に汲んで"本論"を先読みしたけど、
ん〜ライプニッツを出すと前提レベルに戻っちゃうから、そうだとしたら問題を招く発言がある可能世界は下等な非現実になってブーメラン >>234
本論?引用したら?
主観で言ってるだけなら本論をどう先読みして序論が下等な非現実でブーメランになると思ったのかしらないけど、あなたの問題だね。 229の可能世界とやらがライプニッツじゃないなら、持論を論理的に定義してはいかが? ひろゆき
「それってあなたの主観ですよね」ちゃんねる だーかーらー、さ、知らないなら沈黙しろって、な!? 中学生の哲学サークルスレを覗きに来ました。
優しい世界 可能世界の優しい説明
◊p;pが可能である。少なくとも一つの可能世界においてpである
□p;pが必然である。全ての可能世界でpである
◊p=¬□¬p ;pが可能であるとは、pでないことが必然ではない
□p=¬◊¬p ;pが必然であるとは、pでないことが可能ではない 「本物(=語り得るもの)」と「偽物(=語り得ないもの)」を見極めることはかなり難しい。結局、時間が解決するしかないかもしれない。
そうだとして、「可能世界」とか「ライプニッツの神」はもう「語り得ないもの」に分類されているのだと思うよ。自己満しかないからね。
せっかくチョットかじったのに、「沈黙せよ」とはウィトゲンシュタインは酷な人だよ。 >>243を受けてマジレスすると、ちょっとかじったレベルが知識やプロダクトを出荷するから国家レベルがいつまでも底辺を彷徨うんだな
AIに仕事変わってもらうだの、補助させるだの、ただの遊びだの、言う意見が99.99%だが、AIにちょっとかじった奴の出荷前のプロダクトを添削指導させることが国の底上げ的に最も有効な使い方なのだが、そういうシステム的な主張をする知識人が誰もいないのが日本の問題 >>244
そこはまんまで、性悪のパフォーマンスだわ。
その人は誤毒してるけど、まさに言語の限界で「自己満」を体系化しちゃってるよね、これ。 既知感世界の概念と可能世界の概念の区別ついてないから、本人気付いてないだろうけどね。 しょうがないよ。 分析哲学で成功したのは科学哲学だけだかな。 >□p=¬◊¬p ;pが必然であるとは、pでないことが可能ではない
このPを発見することがつまり哲学ということだ
可能かもしれないということに価値はない 「日は東から登る」という言明に哲学的な価値はない
あたりまえだからではなく、必然ではないからだ 日本の分析屋は論理学が弱い。上に挙がってる三浦なんかはマシな部類だが、
哲学や論理で世界的な仕事をしてるかというとね
日本で論理が強い人材は基本的に基礎論や情報科学に行くが、そいつらはそいつらで
哲学の才能は持たないのが普通
言語理論や論理や語学にまで強い天才って日本にはほぼいない
いわゆる圏論を使って哲学を語ってる奴らもいるが、世界で通用はしてない >>249
理論分析哲学はITと一番親和的だし、科学哲学より遥かに可能性がある
形而上学や心の哲学をやってる哲学者もその辺を意識はしている
ちょっと前の世代には複雑系を扱うとか語学力さえあれば世界に通用したような
ハイレベルで創造的な人もいたが最近は英語圏の後追いに戻ってきたな チョット違うような。
分析哲学って、「論考」で終わったのでは?
「論考」以後何も進歩していないのでは?
日本だけでなくて、世界でね。 >>255
明快で論理的でシステマチックに対象を分析するのは分析哲学と言って良い
今の英語圏の理論哲学は実質的に分析哲学であるというのが主流な見解
ただし、論理学を使うことと論理的な明快さは別の話で、分析は実は後者が主軸 >>255
明快で論理的でシステマチックに対象を分析するのは分析哲学と言って良い
今の英語圏の理論哲学は実質的に分析哲学であるというのが主流な見解
ただし、論理学を使うことと論理的な明快さは別の話で、分析は実は後者が主軸 >>255
明快で論理的でシステマチックに対象を分析するのは分析哲学と言って良い
今の英語圏の理論哲学は実質的に分析哲学であるというのが主流な見解
ただし、論理学を使うことと論理的な明快さは別の話で、分析は実は後者が主軸 認知科学・情報科学の基礎
圏論・構造主義
複雑系や進化・創発
言語
形而上学
メタ倫理学・美学
辺りが今の主要分野だと思う。これらは基本的に分析哲学の範疇や派生 では理論分析哲学と大陸哲学の違いは何かっていう話だが、一番違うのは明快さ
大陸哲学の場合は「概念」を重視するが、原理や論理立ててわかりやすく議論を
組み立てるという意識があまりない。わかりづらいレトリックを多用する場合もある
理論分析哲学は立場をわかりやすく表現するため、分類がしやすい
すると、分類を踏まえて新しいアイデアも提案しやすい
こういう数学に近いやり方だから、大陸哲学より発展しやすいという利点がある
それで英語圏では分析哲学が主流になったわけよ、長い話ですまんが >>259
認知科学・情報科学の基礎 圏論・構造主義 複雑系や進化・創発 言語 形而上学 メタ倫理学・美学
の研究者の大部分は、分析哲学を知らないでしょう。 >>261
英語圏で哲学科で学ぶなら基礎は習うよ。分析言語哲学とか分析形而上学は大体やる
だけど別にラッセルやウィト、フレーゲを読まなくても分析哲学はできるから
つまり、古典を読まなくても方法論的には哲学科で訓練したらほぼ分析学派になる 勿論、とりわけ複雑系の哲学は分析学派が少ない。かなり少ない
しかし分析学派は理論的に何か分析できるなら何でもありだから、大体何でも扱う
例えばメタ生物学とかもある
あと、ここでいう構造主義とかは古典のそれじゃなくて新しい分析構造主義なのよ
心の哲学もほとんど圧倒的に分析学派が強い分野 分析構造主義については試しに英語圏でstructural realismとかで検索すると良い
内容的には分析は大抵、実在とは何か、~とは何か、理性とは何かという議論を行う
から、~realismは一番中核の所 >>256
「明快で論理的でシステマチックに対象を分析する」って当たり前でしょう。 神とは何か?
G 神である
∃xGx ある神が存在する
∀xGx すべては神である 多神教
∃x(Gx⋀∀y(Gy→y=x))一神教
◊G 神が可能である 神のいる世界がある
□G 神は必然である すべての世界に神がいる
・
・
・
神に限らず指示したものは何か、記号にすれば明確である >>266
飛び道具を使わず、誤魔化さずに現象の本質を議論するのはそんな簡単ではない
もしそれが当たり前に見えるなら、それだけ分析哲学のスタイルが当たり前になった
というだけの話 >>267
Gとか乱用するのはフリーメイソンぽいからやめるべきだよ 結局、南無阿弥陀仏を唱えるみたいに、「論理、論理、...」と喚いているだけで,
100年以上経っても、何ひとつ成果がない
もし一つでも成果があったら教えてね ノーベル賞やフィールズ賞があるわけではなく哲学の成果というのは難しいが
一番大きいのは我々の思考の進化ではないかな
哲学に造詣が深ければ、物事の本質や言論の真偽がすぐに分るようになる
様々な論理学や確定記述は思考の進化に貢献度が高い
ちなみにゲーデル不完全性定理は論理学+数学の体系についての定理です >>270
そもそもあんたは哲学で何の成果を認めているの?
現代哲学の主流は分析だけど >>272
>現代哲学の主流は分析だけど
盛大に吹いたwww 哲学は論理学がなければ語れない
論理学の発展は分析哲学による
物理学における数学、経済学における統計学のような関係だろう >>273
違うと思ってるならあんたのほうがずれてるぞ
確かにマルクスガブリエルとかメイヤスーは比較的有名だが、英語圏は分析だらけ >>275
数学者から見れば幼稚園児みたいなもんだが、論理への愛は分析哲学者のほうが強い。 形式論理は数学者の仕事だが、分析哲学は対象の意味や構造の分析を扱うほうが
メインだから、論理学のレベルがただちに分析哲学の価値を決めるわけでもない
そして、あくまでも数学や物理よりは情報科学のほうが相性がよい >>274
正確には「哲学は実在論や意味論がなければ語れない」
だから分析哲学はそこを徹底して攻める
形式論理だけではそのどちらもわからない さらに言えば「分析は論理や言語を使って論理や言語を語る」とも言える
ただし、ウィトほど狭くは考えない。言語や論理は進化しうるという見方ができる
ウィキペディアには地に足をつけて大理論は考えない傾向にあるみたいな書き方だが
実際はそうでもない なんだか上っ面だけの抽象論みたいになってるね。
具体的な例を挙げて、凄さを語ってくれないか? ここまでのやりとりを見て本当に>>200の通りだと実感するよ。 >>281
逆に分析以外の哲学で何を評価してるのかをここの人は比較して語らないよね
その上で内容関係なく一緒くたにした非難しかしてない
そんな人間に何を語るべきなんだろうか?
具体的に示せというけど、理性や実在を理解するためのモデルや枠組みを
分類して抽象的に切り分けてるのが分析の良い所だと俺は思うから、そもそも
抽象的だよ。その良さがわからないなら別にいいんじゃないの?
チャーマーズだろうがデヴィドソンだろうが、理解についての理解の話をしてんだよ 分析哲学の凄さを語ってみましょう
「すべての人が死ぬならば、死ぬ人がいる」
そんなこと、あたり前だのクラッカーだと思うでしょうが、実は分析哲学では真だと認めないのです
今までの哲学より深い考察があります チャーマーズは「如何にして理性は世界全体を理解できるのか?」を議論してるし、
デヴィドソンは「意味を理解するとはどういうことか?」をモデルにしたわけで、
また別の哲学者は言語が創造的な仕組みをモデル化してる
そういう理論を構築する意義がわからない人には分析は無価値なんじゃないかな
ここで非難してる人が実際何人いるのか知らんけど パターンによる分類を通じた分析の良さについてだけど、他にも切り口がある
パトナムの多重実現可能性は、心的状態に対応する物理的状態は一義的とは
限らないと主張している
またFodorの機能主義は、心は機能的プロセスの集積に過ぎないとしたが、
これをサールは中国語の部屋を使って意味理解ができてないと批判している
つまり、たとえその主張が正しくないとしても、明快にして問題提起や論争を
行うことで真実を絞り込んだりもしている。こういう対話的な発展性は
教条的な傾向のある大陸哲学にはあまりない。これも分析の良い所だ 「すべての人が死ぬならば、死ぬ人がいる」
すべての人が死ぬ
↓ならば
あなたは死ぬ
↓ならば
ある人は死ぬ(死ぬ人がいる)
この三段論法に分析できるので正しいはずだと思っていますよね
ところが真ではないのです
ここが分析哲学の深いところです すべての人は死ぬ
あなたは人
あなたは死ぬ
こういうのが三段論法じゃないんですかね >>285は書き方に語弊があるだろ
認めるか認めないかは立場による。最近の実在論だと多分認めるほうが多い
ただ分析では自明ではないのは確か >>0289
もう少し正確に書きますね
すべての人ならば死ぬ
↓ならば
あなたが人ならば死ぬ(あなたは死ぬ)
↓ならば
ある人は死ぬ(死ぬ人がいる)
>>0293
>認めるか認めないかは立場による
それは哲学ではないですね >>295
こんな下らないパズル自体哲学ではないですよ
現にあなたは何故真理にならないか理由を書きもしないで奇をてらってる 問題が解けないと、「哲学でない」と逃げるのはみっともないよ あなたは死ぬ
なら
ある人は死ぬ
この点を取り出すと「あなた」と「ある人」は必ずしも一致しないから真ではないってことかな。ただし「ある人=あなた」のときは真、みたいな条件付きの答えみたいで言葉遊びみたいだけどトートロジー? ああいや、トートロジー的真理であっても本人は「分析哲学では真と認めない」と285で明言してるから違うか。うーん全く分からん 「逃げるのはみっともない」と本人様も思ってくれてるらしいので
問題の答えが出るのを待ちますかね 酒を飲みながらココを眺めると良い暇潰しになるし、つまみにもなるよ。分析哲学の存在意義って、もしかしてコレじゃないのかなww。 お待たせ〜w
すべての人は死ぬ、というのは、死なない人はいないと分析することができます
これなら分ってもらえるんじゃないかな
ちょっと巡回行ってきます
どっかではまると戻ってこれないかもw お、良いぞ良いぞww。やればできるじゃないかww。さぁ、次はこれに誰か反論しろよww。皆で必死になってスレを伸ばそうよww。 ここまでのやりとりを見て本当に>>200の通りだと実感するよ。 反論にもなってないし何かをもったいぶるような態度でしか人の興味を引けない時点でね。分析哲学より詐欺師のほうに素養あるんじゃないか? 哲学というのは考えるのです
深く深く考えるのです
答えが出たとしてそれは結果です
結果というのは後の祭りのことです 今の分析でこんな命題が大問題になるってことはないよ
どちらかというと皆死んだら確認する人間がいないから命題は真ではないと
いう話のほうが議論になりそうだが、それも下らない話でしかない これは分析哲学、論理学ではあたり前のことです
この発見はそれまでの哲学を修正することになります
コペルニクスの発見のような感じかな
>皆死んだら確認する人間がいないから命題は真ではない
いいんじゃないですか
もう少し発展して一般化してみてください すべての人が死んだことを確認してる宇宙人がいるかもしれないから
必ずしも真ではない、がより正確なのでは? >皆死んだら確認する人間がいないから命題は真ではない
これ↑は、真偽を判断する人がいないから真ではない、という意味ですね
では「人」を「ゴキブリ」にしてみてください
「すべてのゴキブリが死ぬならば、死ぬゴキブリがいる」
この命題が真ではないのは、ゴキブリの判断ではないということです こういう観測の理論みたいなのは数物の専門家主導の領域だから、哲学徒にはハードルが高すぎ。
哲学徒は、チャーマーズ、デヴィドソンぐらいでお茶を濁すのがいい。 専門家の見る可能性を考えたらこんなスレタイつけない たぶん僅かな男性ホルモンの暴走が観測される
分析哲学しちゃった 縄張り争い!哲学の領域!
学問の国際秩序を誰が守ってるんだろうな
侵犯すると誰かに罰されるのか
学問の自由とかフィクションだったのか
いやお前の限界を人に押し付けてるだけじゃないか
そんな独裁者には負けたくないね 哲学には、「高等数学は使ってはいけない」という掟がある 分哲、英米哲学よりも
西洋哲学だとカントだのフッサールだのの大陸哲学の方が
数学者や物理学者には受けが良いというか尊敬されているような気がする 量子力学の解釈もそうらしいよ、計算が簡単だからという理由で、コペンハーゲン解釈を採用しちゃうというw >>327
解釈もくそも、実験結果をうまく表しているのだからそれを採用する以外にないのでは?
そうそうあと科学哲学と分析哲学の人にありがちなのは、この手の量子力学の解釈について
やたらめったら書く割には、実際なにか物理学の発展に寄与したかというと全くという
ポパーが典型的だろう >>326
数学者や物理学者から見れば、カント・フッサール等は何を言っているのかわからないけど、
分哲は「幼稚で当たり前なこと(論理は大切など)」を恥ずかしげもなく言っているからね >>319
わかってもいないのにわざわざ前のレスに挙がったその辺の名前を出す所が
クズだなあ。そもそも数理科学とはやってることが質的に違う
何度も言ってるが相性なら認知科学や情報科学のほうが良い >>328
それも批判のための批判で糞味噌一緒くたにしすぎだよ
今機械学習で重要になってる因果推論の一つの起源は分析だし、物理や数学に
関してはどんどん哲学的な理解が洗練されてる
あと、分析の可能世界論とDドイチュ辺りのマルチバース論は質的にも大差ない
結局哲学的な分析で論文なり議論なりに参加できない人が、無知から分析を目の上の
たんこぶにして叩いてるのが現実よ。あんたもね あとめっちゃ勘違いしてるなと思うのは、数学や物理への貢献自体は直接的な
目標にはならないのよ。それが実現すれば越したことはないけど、まず理性によって
如何に世界や概念を捉えるかっていう問題意識があくまで第一
理性と世界の総体を言語によって理解するメタレベルの理論だから、数学や物理
そのものを直接理解するのは第一じゃないしそういうコンプレックスは捨てている
他方で、今のポスト分析哲学の哲学者は科学も大陸哲学も言語で扱えるなら
全て取り込む姿勢だから、特に認知科学や情報科学と相性が良いことにも
気付いてから日に日に洗練されてきてる
それでもレベルが低いと思うなら自分が世界トップになればよいだけの話 >>331
因果推論の一つの起源を主張したところでは覆らないのでは?
というかあれって経済学とかそういったところに主に起源があるのかと思ってた
手法に関してはもろに数学者が発展させていった理論が関与しているかと
他にも機械学習は別段文哲や科哲の人らが見えてこないんだよね
「取り敢えずML学びたいならこれ読んどけ」って輪講で出される本も全然そこらと畑違う人がかいたもんだし
数学と物理では哲学的な理解の洗練されてる、というのも謎だなあ
意味が分からない
マルチバースに関してはハイハイ好きな人いますよねという感じで
否定もせんけど、何かその研究してみて天体でも宇物でも、素核でもいいけれど、
なにか発展に寄与してますか?ていう
勿論素人なんだけどさ、いやでも素人レベルでもNHKの知的好奇心をくすぐる番組でネタにされてるくらいしか
知らんのよ、だから否定はしないんだけれどね、思惟の存在自体を
物理学者が数学者がこの手の話について書いてるのを知ってるからさ、有意義なのを見いだせないんだよね >>331
あとコペンハーゲン解釈についてgdgd分哲や科哲が意味のないことを書き連ねてないか?
という私の見解に関しても、特にコメントもなし >>334
gdgd意味の分からないことを書き連ねてるって解釈になにかコメントを期待してるとおもわなかったわ。 >>335
ん、ああその辺の’’科哲の人達の何がしたいのかの分からなさ’’
については納得してたのね
すまん >>337
どう納得したと思ったわけ?言ってみな。自分で言ってることおかしい認識はないんだろうなw スレが活気を取り戻してきたな。やればできるじゃないか。この調子でどんどん伸ばしてゆけwwww。 >>1
イキリすぎだろコレぇ!
>340
エロい響き!
>>341
お前がやれ! >>342
嫌ですww。高みの見物をしてつまみにする程度の暇潰しに、何故そこまでしなけばいけないのですかww。だから皆これから先もずっと頑張ってくださいww。 ここまでのやりとりを見て本当に>>200の通りだと実感するよ。 >>334
その辺はだから無益だけど、正直量子力学の解釈問題でつまらんことしてるの
大抵一般理論もつまらん哲学者だと思うけどな
最近の圏論的な量子論の整理みたいなもんには前も書いたがある程度は
構造実在論が対応しつつある。ただ、今の分析哲学者は科学への介入には慎重で、
どちらかというと科学を参考にしつつも哲学の自律性を重視してると思うけどな 圏論は数学的構造とその間の関係を抽象的に扱う数学理論で、哲学は逆に具体的な学問なんですよね。 >>350 今の分析哲学者は科学への介入には慎重で、どちらかというと科学を参考にしつつも哲学の自律性を重視してる
文才あるね どちらかというと今の分析哲学者というより、哲学の専門家達はまるっと哲学的に科学的見解を示唆できず、科学を尻目に哲学者同士の思想哲学を研究しているのですよ。 科学哲学って失速したように見えるけど、そう思うのは俺だけ? 地球外知的生命が存在しないことの証明
1.地球外知的生命が存在するならば、太陽系はすでに植民地化されているはずだ P→Q
2.太陽系内に植民地化された形跡はない ¬Q
3.地球外知的生命は存在しない ¬P >「勉強しないと怒られる」の対偶は?
怒られないと勉強する
>「怒られないと勉強しない」の対偶は?
勉強すると怒られる
これ中学じゃね >>359
この例で分析哲学が崩壊したというは有名な話だよね 待遇は数T
待遇の次な↓
「勉強しないで怒られた」を否定してみ? まあ、対偶も知らないのなら分析哲学は諦めるしかないw 言語を扱えていないのは論理以前の次元だからなぁ
「論理は使えないってことだな」って結論はさすがに非論理的でしょう。 ウィトゲンシュタインは100年前だから、対偶を知らなかったのでは、 「分析哲学」が似非哲学でしかないことは、それがこれまで何をやってきて、今、何をやっているかを見れば、一目瞭然だ。
哲学する行為を恣意的に「分析」などという言葉で形容して限定してみたところで、得られること、それによって「できるようになる」ことは何もない。
だから、日本で「分析哲学」を代表するとされる学者が、わざわざ自分は「哲学をしているのであって、別に『分析哲学』をしているつもりはない」と言ってみたりすることになる。
欧米では、分析哲学は、「ギリシア哲学」、「大陸哲学」、「現象学」といったものに分類され得るような哲学を「恣意的に排除する権限を握るための口実」として使われてきた。
ここで重要なのは「恣意的に」ということであって、「何を排除するかは、自分たちが決める権限を握る」というわけだ。
そこで哲学の営みから恣意的にあらゆるものを排除できるようになったわけだが、いざ、その権限を行使した後になってみると、自分たちで「分析哲学」として「特別にできること」は何もない。
そこで今度は、いままで排除していた「ギリシア哲学」、「大陸哲学」、「現象学」に属するとされるような著作に次々に手を出して、今度は、「自分たちがいかに寛容で開かれているかをアピールする」というわけだ。
こんな茶番を本当に真に受けている人々がいるとすれば、そのような人々は、まさしく「大間抜け」である。 対偶も知らない
「勉強しないで怒られた」の否定もわからない
分析哲学を勉強しろよ
世界が鮮明に見えるようになるぞw まぁ真に受けてる人々とやらがいるとしても茶番を分析して批判するだけじゃ、目くそ鼻くそじゃないか?分哲以外のおすすめの書でも紹介したらいいんじゃない 超越論的自我は不滅ってどう言う意味か分かる人居ますか?
現象学ってコミュニケーション的な意味が含まれているんですか? どういう文脈で使われた部分なのかで解釈も違ってくるから、とりあえず理解している語彙で理路を繋げられる所まで考えられるようにならないと哲学にならない気がする。 「超越論的自我」こういうのが分析哲学が必要である理由の一つですね
何を意味するのか記号で書けばより明確になります 「超越論的自我」なんて妄想で考える価値なしとして、「沈黙」するのが分哲の立場。 まず「超越論的自我」なんて妄想で考える価値なしって沈黙せざるを得ない凡人の立場にすぎないって自覚したほうがいいぞ それは事実だね
カントやヘーゲルを読めばその存在に気づけるもんだしな。彼は自分の勉強不足を披露したわけだ。 《un silence assourdissant》と表現される。 カントやヘーゲルを妄信している現代人がいるとは驚きだね 「われわれは、哲学を研究しているように装うべきではなくて、真に哲学を研究すべきである。なぜなら、われわれが必要とするのは、健康であるようにみえるということでなく、真
の意味で健康であるということなのであるから。」
エピクロス『エピクロスの勧め』より
「人間のどんな悩みをも癒さないようなあの哲学者の言説はむなしい。というのは、あたかも、医術が身体の病気を追い払わないならば、何の役にも立たないように、そのように哲学も
、もし霊魂の悩みを追い払わないならば、何の役にも立たないからである。」
エピクロス『哲学と哲学者について』より
ここでのやりとりを見ていると、本気で↑こう思う。 哲学とはどうあるべきかという話は哲学ではないですね うむ、哲学とはどうあるべきかが哲学なら、どうあるべきかの正解がすでに存在してるわな。従ってどうあるべきか問われる類いの哲学とは思想哲学でしかない。 われわれは、哲学を研究しているように装うべきではなくて、真に哲学を研究すべきである。なぜなら、われわれが必要とするのは、健康であるようにみえるということでなく、真の意味で健康であるということなのであるから。」
エピクロス『エピクロスの勧め』より
「人間のどんな悩みをも癒さないようなあの哲学者の言説はむなしい。というのは、あたかも、医術が身体の病気を追い払わないならば、何の役にも立たないように、そのように哲学も、もし霊魂の悩みを追い払わないならば、何の役にも立たないからである。」
エピクロス『哲学と哲学者について』より
>やはりエピクロスは偉大だ。
↑こういうやり取りを見ていると、何の役にもたたない批評と愚痴を偉大だと思わせる権威こそ偉大な力だよなぁと思う >>383
それでもやはりエピクロスは偉大だなwwww >>393
茶番劇を営む伝統芸能を守ったところで期待してるのは 「われわれは、哲学を研究しているように装うべきではなくて、真に哲学を研究すべきである。なぜなら、われわれが必要とするのは、健康であるようにみえるということでなく、真の意味で健康であるということなのであるから。」
健康であれば健康に見えるだろう
健康に見えない健康などは無いだろう
つまり哲学をしているように見えれば哲学だということ
哲学とは何かという話は、哲学をしているように見えない 哲学とは何かという話は、哲学をしているように見えない
↓ 訂正
哲学とはどうあるべきかという話は、哲学をしているように見えない 哲学とは何かという架空は、哲学をしているように見えない、無い袖は見えないのではなくみいだせないのである。 哲学とはどうあるべきかという話は、哲学をしているように見えない
↓ 訂正
哲学とはどうあるべきかという姿勢は、哲学をしているように見せかけることしかできない。 エピクロスの偉大な伝統芸能を持ち上げるピエロに期待 >>383
つまりエピクロスは偉大ということだなwwww 哲学をしているように見えなければ、哲学をしているように見せかけることはできない 哲学をしているように見えなければ、哲学をしているように見せかけることはできない
↓訂正
哲学をしているような仮想を哲学と見られていると妄想することで哲学をしているように見せかけることはできない 哲学をしているような仮想を哲学と見られていると妄想することで哲学をしているように見せかけることは、哲学ではない >>383
成る程。ということはエピクロスは偉大だということだなwwww 具体的には、
哲学は沈黙であるという仮想を哲学と見られていると妄想することで哲学をしているように見せかけることは、哲学ではない >>409
見せかけていない仮想におぼれる芸人たちを葬る。 エピクロスが素晴らしいということがわかったwwww。 音声分析の逆は、音声総合ではないし、
シンセサイザーは、総合機器ではないが 「われわれは、哲学を研究しているように装うべきではなくて、真に哲学を研究すべきである。」
現代において分析哲学以外は、哲学を研究しているように装っているように見える 分析哲学はわからんよ。 「論理的な人間になりなさい」などと当たり前なことを言ってるだけだよね。 ポエムと非ポエムを分ける、しかもポエムと呼ばれている事実を頼りに真理と呼ぶとしたら.. 例えば数学や物理学においてとは逆に、確立された命題がほとんどないという意味では、
分析哲学も大陸哲学も大差ありませんよね(クリッチリーはお読みで?)。 これが分析だという返り値があればポエムの中にあってもよく、なければ分析という言葉だけがまるでポエムのように宙に浮くのではないか 多かれ少なかれ、そしてよかれあしかれ思弁的なんだから、分析哲学者が自分は思弁的でないと
言うとしたらそれは欺瞞。 これは分析から導かれるか否かで、分析のイメージが論理だから非論理ではないなら総合だな >多かれ少なかれ、そしてよかれあしかれ思弁的なんだから
そに判断が思弁的 分哲スレなのだから論理的判断下せないならせめて非論理的なイメージで反発するのは邪魔だからやめとけ 初期の分析哲学の最大の成果はゲーデルの不完全性定理ですね 分哲の響きに憧れる「俺って論理的」と思ってる非論理的な輩がいたら無内容なこと書きそう 分哲を分析できないと、とたんにイメージになるのだよ、純哲君 分哲を分析できると分哲は消え、とたんにイメージになるのだよ、分哲君
さぁ消えなさい 分析哲学ではなぜバーグルエン賞が取れないのですか? 分析哲学入門
演習問題1 「人間ならば動物である」の対偶を述べよ GREで採点評価してもらう目的くらいでしか役に立たない 対偶も知らなければ分析哲学はおろか哲学を論じられませんよ 私は理系だから、三段論法は完全にわかっている。つまり、
[[A⇒B]∧[B⇒C]]⇒[A⇒C]
というわけ。
哲学を一般教養で選択しているんだけど、この前の講義で教授が「三段論法」の例を出したんだけど、これが目茶苦茶
なの。 「ソクラテスは人間」∧「人間は死ぬ」⇒「ソクラテスは死ぬ」
なんて、三段論法のわけないのに、教授はわからなかったみたい。質問したんだけど、あたふたして意味不明のことを言いだしたから、
「わかりました。 ありがとうございました」と言って、その場を収めたわ。
専門は分析哲学らしいのだけど、文系のレベルってこんなもんなの? もちろん、大学は超一流ですよ。 その教授が分析哲学が専門 らしい だとか、意味不明だから三段論法なわけないと否定してるけど、あなたが三段論法の例にならないと断言できた文系の論理的見解(形式論理じゃなくね)がそもそもない。一体何を以て文系のレベルをこんなもんなの?ってどんなもんだと推測しているわけ?w >「ソクラテスは人間」∧「人間は死ぬ」⇒「ソクラテスは死ぬ」
典型的な三段論法ですよ
何がわからないのですか? 分析哲学と論理学とはべつものだよね。
>>449は「人は死ぬ」を仮定命題に変換できないのかな? それとももっと
深遠なことを言っているのかな? 私は理系だから、三段論法は完全にわかっている。
哲学を一般教養で選択していて、「三段論法」の例が目茶苦茶
「ソクラテスは人間」∧「人間は死ぬ」⇒「ソクラテスは死ぬ」
三段論法のわけない、教授はわからなかった。
質問したんだけど、あたふたして意味不明のことを言いだした
文系のレベルってこんなもんなの?
大学は超一流ですよ。
どこが深淵だと?w Man is mortal.
⇔ If X is a man, X is mortal. 「対偶」がどうのなんていうのは、論理学の問題であって、哲学ではない。 分析哲学が論理学と混同され、論理学の真似事をすることが言語について哲学をすることだと取り違えてしまうことそのものに、分析哲学を自称している営みが、哲学ではなく似非哲学に過ぎないことがとてもよく表れている。 「論理を知らないで哲学をやろうとするのは、フランス語を知らないでフランス文学をやろうとするようなものだ」
これ有名だけど誰の言葉? 言葉を使うとはどのような行為だろうか。
何よりもまず発せられる声として用いられる言葉の意味は、それが発せられるときにあらかじめ決まっているものではない。
声を発する側は、意味を機械的に相手に伝達しようとするわけではなく、その声を聞く側も、それが伝えようとすることを機械的に決定するのではない。
声を出すことは、そのことがどのように伝わって、どのような結果としての効果をもたらすのかを試みる行為であり、声を聞いてその意味を知ろうとすることは、それがどのような事態を示すのかを探る行為である。
したがって、言葉を使うことは、"prospective"には、声を発することの自由度の投機的な利用であり、"retrospective"には、その声が「もしかして」/"perchance"/"perhaps"伝えているかもしれない事態を意識することである。
言葉は、発せられる声によって偶然に意図に沿ふ(つまり、良い)効果がもたらされることに依拠する、本来的に《chanceux》(qui est favorisé par la chance/qui dépend de la chance )なものとしてつか(使/仕/遣)われることにより、体系を形成するように慣習化する。 >>458
自分で引用しているのだから、そのくらい、他人に頼らずに自分で出典を探してくるんだね。
そこまで他人に甘えていたら、哲学がどうの、分析哲学がどうの、論理がどうのと論じる段階にないだろう。 そもそも、「論理を知らないで」という言葉の「論理」がどのような脈絡で使われたのか、日本語なのか、中国語なのか、漢語なのか、別の言語からの日本語からの訳語なのかで、その意味解釈はいくらでも変わる。
英語の"logic"にしてからが、古代ギリシア語由来の表現だが、古代ギリシア語の対応する表現では、現代に一般に「論理学」と呼ばれる学問分野で規定されるような意味での「論理」を意味していない。 >これ有名だけど誰の言葉?
有名だとか、有名人の言葉だとか、そういう無意味な権威に依拠しないことを標榜するのが分析哲学ではなかったのかね?w >>453
>「ソクラテスは人間」∧「人間は死ぬ」⇒「ソクラテスは死ぬ」 三段論法のわけない、
これは三段論法です
なぜ、三段論法ではないと思うのかを述べてください
>>454
>Man is mortal. ⇔ If X is a man, X is mortal.
これ↑は偽ですね
>>456
「バカでないのはお前ではない」といわれて、お前は?だろ
哲学ができるわけない
>>459
>"retrospective"には、その声が「もしかして」/"perchance"/"perhaps"伝えているかもしれない事態を意識することである。
分析哲学は確定記述によって、こういうあいまいさを排除します
>>461
>「論理」がどのような脈絡で使われたのか、日本語なのか、中国語なのか、漢語なのか、別の言語からの日本語からの訳語なのかで、その意味解釈はいくらでも変わる。
辞書ぐらい引いてくださいね
論理:議論の筋道・筋立て。比喩的に、物事の法則的なつながり >>459
言葉を使うというのだからいうまでもなく言葉を道具にする行為である。
声を発っするのに掲示板を利用するなら、相応の言葉を使いコミュニケーションをお願いしていることにまず言葉を使いましょう。
声を使うのと、構文し、掲示することを混同していてはいつになっても言葉の意味を適切に使い伝わる文章をかけるようになりませんよ。んつかえるようには掲示できるようにはならないのだと。非論理的な書き込みが論理的なをせ
効果をもたらすのかを試みたいなら、実生活で声を発する相手で試しましょう。 んつかえるようには掲示できるようにはならないのだと。非論理的な書き込みが論理的なをせ
↑消し忘れ失礼しました 事態がどのようにあらは(顕/現)れるにせよ、それが「どのようであるか」を直接に伝えることはできない。声を発することにより、それが「どのようであるか」を伝えようとするなら、声の発し方がどのようであるかを介して、伝わることが「どのようであるか」が探られることになり、伝えようとする「どのようであるか」と伝わる「どのようであるか」が、「もしかすると」/"per-chance/"per-haps"/「『あ(遇/偶)ふこと』により」言葉の「意味が通じる」ことになる。 私は、「分析哲学」と呼ばれるものが哲学であると既に思っている人々、さらにはそうであると主張する人々に、その考え方が誤りであると説得しようとしてこのスレに書き込んでいるのではない。
前者は、まだしも、後者は、もはや手遅れである。私は、そうでない人々が、そのような誤誘導に誑かされないよう気をつけるようにする助けとして書き込んでいるだけで、ここで私に返されて来るレスがまったく私の書込みに応答するようなものでなくても構わない。
というより、むしろ、私の書込みに対する明白な無理解が、「分析哲学」と呼ばれるものが、哲学としていかに偽物に過ぎないかを白日の下に晒すことになる。
私が求めているのは、その効果だけだ。 事態がどのようにあらは(顕/現)れるにせよ、それが「どのようであるか」を直接に伝えることはできないなら言葉の意味と繋がりから勉強しなくてはなりませんね。言葉の意味が通じることにしても、探る手間を他人に求めるなければならない文章レベルなだけのこと。
もしかして伝わるかもしれないようないい加減に発せられた言語を、論理的に構文する哲学を身につけることです。 >>466からの三連いい。"分析"が辞書に帰るだけ 分析からどのように根元的な理論を導くかに分析哲学をする価値がある。 哲学は個人的な好き嫌いに囚われて結論を下すような学問ではないのだよ。 言葉を発することは、声を出すことにより必然的に自らに注意をひきつけて危険をも招き得るのだから、その基本において"tentative"に行われる行為である。 哲学の原則に寛容の原則があります
相手の主張を真になるように理解するということです 論理クイズの演習をさせられながら、自分は哲学をしているのだと思えるような人は、そもそも、哲学する必要性に迫られていない。 フィルカル ―分析哲学と文化をつなぐ― philosophy & culture
https://philcul.net/?page_id=42 寛容の原理
いかなる表現形式であろうとも,その哲学的解釈はさておき,それらの形式を使用する十分な論理的規則が与えられていさえすれば,それらを容認するという,R.カルナップの論理的,哲学的根本的立場を表明するもの。
哲学的立場以前に常識、教養の問題でしょう、人に与えるか人に与えられるのが寛容の意味ですよ、要求するために寛容という言葉をもちいる自体非論理的、寛容という単語を扱えるようにならないと、まともに構文することすらできません。 >>473
言葉を発して掲示板に書き込む前に
辞書で言葉の意味を調べ
自らの主張、論法に注意し
必然的に危険を回避するのが
まともな人間の言葉の使い方、
発し方です。
その基本を度外視して
"tentative"に行われる行為は
ただの甘えです。 言葉を思い通りに使っているつもりで読み書きしているものが、まるでナンセンスな人は理性が殆ど働いていない、言葉の意味に依存しているに過ぎないからね。
読み解くにしろ分析するにしろ、言葉の用い方に十分な論理的規則を与えられない技量なら読み書きもままならないでしょう。
主張はいくらでもできるでしょうが、論理が伴っていないということですよ。 >>477
「要求する寛容」は解らないのは相手になり「不寛容」に転じて、自らの信仰を強くする。
「与える寛容」は解らない相手の考えに論理性を与え「与えられた寛容」に応える循環へと。
「誤解の危険」を回避する安全設計にもなる。 >分析哲学と文化をつなぐ
こういう宣伝文句にも、「分析哲学」と呼ばれるものの似非哲学ぶりがよく表れている。これが、「哲学と文化をつなぐ」であったら、意味を成さないことが誰にでもすぐにわかるだろう。「文化」をどのように捉えるにせよ、「文化」と呼ばれるものと哲学が、「つなぐ」必要があるように分離しているなどという考え方は、分断工作にばかり専念してきた「分析哲学」に独特のものである。例えば、私自身、しばしば、自分の考えを述べるのに、しばしば、万葉集の歌を引用するが、私は、別に哲学と日本文学を「つなごう」としているわけではなく、ただ、日本語で哲学しているだけである。それと同じことは、海外のTVドラマを参照して何かを述べる場合にも、シェークスピアを引用する場合にも言える。後から結び付けるように「文化」と哲学の分離を思いつくのは、「分析哲学」くらいのものだ。 >>480
哲学は信仰じゃありませんので、信仰を強くするなら宗教に転向してはいかがですか。
論理性を与えたのは寛容だからにすぎません。
論理は理論が伴わなければ一過性で循環は厳しいでしょう
哲学はそう安くありまん。 >>449
君のお陰で、俺も初めて知ったよ。
文系は本に書いてあることを丸暗記して、実際に計算して確認することをあまりしないから、
その教授もあたふたしただろうね。
ところで、「2000年以上も不適切な例を伝承してきたこと」を指摘している本はあるんだろうか?
デカルトでもカントでもWittgensteinでも誰かが指摘すれば、この伝承は消滅していたと思う。 信仰を信じて強くしていると論拠なしに思い込んで判断したのは君 理系文系問わず形式論理を根拠にして主張するしか無い人に哲学は向いていないよね。 主張をしている客観的な証拠を引用してみてはいかが。
もしくはできてない論拠をしめしてはいかが。
どちらもできないなら、否定は無効でしょう。 >>487
自己分析できないのに分析哲学流石には無理がある。 要はさ分哲野郎って言われたことしかできないロボット人間なんだろ? 要はさそう思いたいのは490だから他人は何の関係もないわけw いろいろと批判はあるものの98%の人たちが、「現象学<<<<<<<分析哲学」と考えているみたいだから、このままで良いのでは。 偶然を好都合に利用することによって構成される表現の論理を、与えられた規則に従うだけの論理クイズとして解くことはできない。 言葉を発することは、まずなによりも「こゑ(声)」を出すことであり、「こゑ(声)」を出すことは、「さそ(誘)ひ」/"temptation"を働かせようとすることである。 >論理性を与えたのは寛容だからにすぎません
ろんり的ぶんせき能力ゼ〜ロ〜 「さそ(誘)ひ」/"temptation"を働かせようと「こゑ(声)」を出すことに言葉を発する行為の「こころ(試)み/心観」/"an attempt"がある。 「さそ(誘)ひ」/"temptation"を働かせようと出された「こゑ(声)」が"tempting"である(古語の「をかし」)と感じられて、その「こゑ(声)」にこた(応)へようとすることに「動機」/"motif"の働きがある。 >>494
俺の体感で、ソースは無い。 カント哲学がブスとすれば、フッサールはブスが厚化粧をした感じ。 言葉の意味を探るとは、「動機」/"motif"がどのように働くように「こゑ(声)」が「さそ(誘)ふ」のかを知ろうとすることである。 >>497
哲学できないと感情に訴えるようになるのが人間だよね、わかる〜 >>500
彼らのというか過去の文学的思想は抽象的な表現に優れてはいるがこれからの哲学は、それらの上に哲理を築く事が必須になる。机上の論理だけで哲学の進化はない。 「哲学できてる」と主張する人は「考えること」ができていない。 非論理にもバカバカしいものと論理性を窺わせるものがある。
バカバカしいものを指摘するほどバカバカしいものはない。 意味がなければ論理もない。ガバガバな主張になる。
「分析哲学」と「している」を繋ぐ意味がない。 意味があれば論理的だという錯覚からガバガバの主張は生まれると思うけど ポエムもそのまま自然に扱うことができるのが哲学
ポエムを目にすると、困惑して、混乱してしまうのが分析哲学
という了解でよろしいですか? 人が日常的に普通に用いる表現の論理を扱うことができずに大混乱に陥って、抜け出せなくなるような思考形式は、哲学として用をなさない。 >>510
ポエムはポエムとして味わってほしいならここに場違いなポエムを書き込まなきゃ分析されないだろうね。混乱するのはお門違いでは? >>511
日常的に普通に用いる表現で哲学したいなら好きにやってればいいのでは?用なしに扱われるわけではなくかで大混乱に陥って抜け出せなくなってとしてもここは分析哲学のスレなのを承知で書き込んでいるんでしょうから諦めましょう 書き込みを分析されたくないならロムがおすすめだよん 分析哲学とは、ポエムを扱うことができない自らの無能さを隠蔽するための口実としてでっち上げられた似非哲学であるという濃厚な疑惑が生じる >後者は、もはや手遅れである。私は、そうでない人々が、そのような誤誘導に誑かされないよう気をつけるようにする助けとして書き込んでいるだけ >>502
そりゃわかるだろぉ、「寛容」を感情で主張する君のことなんだから >>518
それやっぱり感情で主張しちゃうよね〜わかるよぉ >>518
「寛容」を感情で主張する君って判断の正当性、論理的根拠がゼロなんだよね。 >>518
君の場合感情で分析するスタイルだから心理学スレが妥当だと思うよ 言葉を発することが»Verlockung«/「『をく』こと」の「こころ(試)み/心観」であるとすれば、通じる言葉の意味とは、その効果として»glücklich«な様態であらは(顕/現)れるの動機の働きである。
これは、私の独自の理論などではなく、古来からの日本の詩歌論に見られる言葉の用法についての見解そのものだろう。
>古今集仮名序
力をも入れずして天地(あめつち)を動かし
目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ
男女(をとこをむな)のなかをもやはらげ
猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり »glücklich«
>luck
Use as a verb in American English is late (1940s), but there was a Middle English verb lukken (“to chance, to happen by good fortune”) in the 15th century.
(出典 en.wiktionary.org/wiki/luck#English) そもそも、それが、哲学とは区別される「分析哲学」として限定されるような研究として達せられた成果が、これまでに、ただのひとつでも存在するのだろうか? ポエムは分析対象ではなく感情の対象である
つまり哲学ではない うむ、スレ違いなので心理分析スレへ移動して存分に分析してもらいたい >>525
過去成果がない事に不満なら、哲学しろと強制されるものでもないし、関わるのやめればいいだけじゃない? >>528
遂に、「敗北宣言」をしてしまったね。 君は正直で偉い! >>529
ついに「妄想宣言」にまで落ちぶれてしまったね。
論理的反論できないのに何とかして言い返したい気持ちは痛いほど伝わるけどね。 >意味があれば論理的だという錯覚
分析も形式論理もガバガバン >>531
感情が押さえられないと、ついバカとかレスしちゃうよね、わかるよ。 自身に思い当たることを指摘されると反応する
たしかに正直なオモチャだ >>536
また妄想でレスしちったね、ガバガバンw >>538
ブンチェキを連呼するオモチャ
君の名は、ガバガバン! なんか罵り合ひで忙しいようだが、小さな訂正
>>522
誤:あらは(顕/現)れるの動機の働きである。
正:あらは(顕/現)れる動機の働きである。 英語の"happy"、"happen"、"perhaps"の"hap"と、日本語の「あ(合/遇/逢/会)ふ」がその用法においても、発音においても互いに似ていることは、面白いと思ふ。 >哲学は文学ではない
そのとおり。だから、言語を哲学の対象にすると言いながら、「文の真理値」とか下らない議論に終始している似非哲学は論外。 だいたい、言葉を発することが、なぜ文と同一視されるのか意味不明なんだよ >>546
5ちゃんの分哲カキコには何の根拠もない論外の主張しか書けないくだらない文ばっかりだから、分哲に成敗される宿命なのは仕方ないんじゃない、鍛えてもらって有難いぐらいでは? 「お前はバカだ」という文があるとする
文学ならば罵倒だが、哲学ならば真偽がある 「お前はバカだ」という文があるとする
文学ならば罵倒だが、哲学ならば真偽がある 「お前はバカだ」と「バカはお前だ」のどちらもともに真であるとしたら 優劣は比較の問題で現時点では、「分析哲学<<現象学<<物理学」だと思う。 言語によって表現される芸術作品・文芸を研究する学問が文学だ。「お前はバカだ」と表現された文があるとする、文が罵倒のために表現されたのか、「お前はバカだ」という文から判明するとは限らない、そんな簡単なことを、文芸を研究する学問が見逃したりしない。
そんなことも分からない若輩者がという経験の浅さを指摘する文だったかもしれないからだ。
文学ならば「お前はバカだ」という言語表現を罵倒だと勝手に評価している時点で、そもそもそんなこともわかっていない正真正銘の馬鹿に文学を正しく評価できるまともな知能はそもそもない。
言葉と頭をまともに使えるようになるまで哲学ならばはおろか文学ならばも100年早い、感情で分析するスタイルは心理分析スレに移動して思う存分やっていろと言われただろw 「お前はバカだ」という文は哲学であれば寛容の原則で真だと理解するんだよ
文学であれば文脈で理解されるだろうね
分析哲学であれば文脈を記号化する >>522
ドイツ語の»glücklich«の»Glück«は、「幸運」という意味で使われるが、語源的には、それがどのような表現であったのか、あまりうまく説明がついていない。
»glücklich«に英語で対応するのが"lucky"だが、名詞形で用いられる"luck"は、「幸運」ばかりを意味するわけではなく、"good luck"であれば、「幸運」を、"bad luck"であれば、「不運」を表すように用ひられる。
英語の"luck"も、その発音からして、ドイツ語の»Glück«と共通の語源に由来するものと考えられるが、こちらも、語源的にうまく説明がついていない。 では、»Glück«や"luck"という表現の意味について、それ以上に考へを進めることができないのかと言えば、そんなことはないだろうと私は思う。
どのように考へを進めるのかと言えば、それは、日本語の表現との対応関係を考えてみることだ。
しかし、»Glück«を「幸運」、"luckを「運」という漢語に置き換えてみたところで、「運」の思想について語ることはできても、表現としての理解を深めることはできないだろう。
そこで発音から考へてみると、表向きの発音は、互いに大きく異なるものの、それぞれの言語における発音の用法のネットワークから対応関係を考察してみると、ドイツ語の»Glück«の»lück«、英語の"luck"に対応するように用ひられている日本語の発音は、「ひょっとして」の「ひょ(っ)」、「何かの拍子(ひょうし)で」の「ひょう」、「瓢箪(ひょうたん)から駒(こま)」の「ひょう」ではないかと思ふ。 >>557
分析だけで思考できることさえ考えられないのが問題では。 「偶然性」を伝へる英語の表現に"haphazard"というのがあるが、ウィウショナリー日本語版では、「無計画な、でたらめの、行き当たりばったりの」という訳語が与えられている。
"haphazard"は、"hap"と"hazard"の合成として構成されている語であるが、"hap"が"happy"に用ひられ、"hazard"がそのまま「障害」を表すように用ひられることから分かるとおり、
"haphazard"全体が「偶然性」を伝へていても、語感的には、"hap"の方が「思いもよらず『あ(合/遇/逢/会)ふ』」ことを伝えているのに対して、
"hazard"の方は、「思いもよらず/期待に沿はずに『はず(外)れる』」ことを伝へているだろう。 ところで、日本語の「ひょっとして」も「偶然性」を伝へる表現であるが、これに対応する英語の表現が"perchance"、つまり、"per・chance"/「運(うん)により」である。すると、»Glück«を「幸運」、"luckを「運」とするならば、「ひょっとして」の「ひょ(っ) 」は、予測のつかない出方をするその「運(うん)」、»Glück«の»lück«、英語の"luck"に対応していると考へることができることになる。 >「ひょ(っ) 」は、予測のつかない出方をするその「運(うん)」、»Glück«の»lück«、英語の"luck"に対応している
この言ひ方には語弊があるので訂正しよう。
「ひょ(っ) 」は、「運(うん)」の「予測のつかない出方」を表現し、やはり、その「予測のつかない出方」に対応しているのが、»Glück«の»lück«であり、英語の"luck"なのだ。 言語を考察の対象とするとする「分析哲学」と呼ばれるものが、このような解釈の試みを促進するものであるならば、私も、その自称がどうであれ、歓迎するだろう。
しかし、「分析哲学」は、「分析」という名目のもとに、このような解釈の試みを排除すため、妨害するため、または規制するためにばかり用いられ、自己規定をしてきたのだ。 くだらない罵り合ひを書き込んでいる暇があったら、実際にひとつでも「分析哲学」の成果と呼べるような書込みをしてみせることだ。 >>555
寛容の原則寛容の原理ですよ?
規約性の原理 principle of conventionalityとも呼ばれ,いかなる表現形式であろうとも,その哲学的解釈はさておき,それらの形式を使用する十分な論理的規則が与えられていさえすれば,それらを容認するという,R. カルナップの論理的,哲学的根本的立場を表明するもの。
その上で、寛容の原則を持ち出すなら、原則十分な論理的規則が与えられていさえすれば,それらを容認するのであって、原則寛容を規約しているわけじゃないことはいうまでもありません。認識違いは改めましょう。 「われわれは、哲学を研究しているように装うべきではなくて、真に哲学を研究すべきである。なぜなら、われわれが必要とするのは、健康であるようにみえるということでなく、真
の意味で健康であるということなのであるから。」
エピクロス『エピクロスの勧め』より
「人間のどんな悩みをも癒さないようなあの哲学者の言説はむなしい。というのは、あたかも、医術が身体の病気を追い払わないならば、何の役にも立たないように、そのように哲学も
、もし霊魂の悩みを追い払わないならば、何の役にも立たないからである。」
エピクロス『哲学と哲学者について』より >>560
旧かなをお使いなら「与へられてゐる」「用ゐられ」「表すやう」「分かるとほり」…「だらう」ですかね。
古今の仮名序の言うとおりとおっしゃるなら(あれは散文とは異なるものとして歌についての言及ですが)、
態々むずかしく言い換える必要はないのではないでしょうか。スレチですし。 与へられてゐる」の「ゐる」は、それを強調することが有用な場合には使ってゐますよ。「用ゐられ」は、「用ゐ」ではなく、「用ひ」を意識的に使っています。それ以外にも、私は、標準の仮名遣ひと旧仮名遣ひを混用していますが、いずれにしても、それは、規範としての旧仮名遣ひの標準に従ふためではなく、意識の働きを都合よく反映させて伝へるためであり、「態々むずかしく言い換え」ているのではなく、「わざと」気づかせるように言ひ換へてゐるのです。 "a certain given"から始めることを暗黙に前提としてゐるという意識、おそらく、それこそが「分析哲学」を自称する似非哲学に最も欠落していることなのでしょう。 自身で扱えていない言葉をそれらしく使っても、語意が理論的に通用していない文を平然と書き連ねるのだから、哲学だの意識だの分析以前に国語力がないということに尽きる。 分析哲学の最大の成果は、ゲーデルの不完全性定理です >>575形式論理で世界を表す数学が完全だと思えてる数学者がいたら逆に驚きだよね。 "sentence"/「宣告」も"statement"/「陳述」も発話行為のごく一部でしかない。 ゲーデルの不完全性定理以前は、数学など論理は完全なもの(真なる命題が証明できる)なのか否か分りませんでした
命題論理の完全性は分っていましたが、述語論理の完全性はゲーデルが証明しました
次に数学体系(述語論理に=、+、×を加えた体系)の完全性を証明する必要があったのですが、なんと数学体系は不完全だとゲーデルは証明してしまったのです
世界が驚愕しました
現代でもゲーデルの不完全性定理は話題が尽きません
数学体系は不完全でしたが、数学体系、論理学、分析哲学の手法は有効だとはいえます 全く何も思い付かない訳じゃ無いなら自分で考えられる答えを言ってみ。 "perhaps"/"de repente"/「ひょっとすると」、"lucky"かもね
Mil ojos mirando hacia mí
De los tuyos no puedo huir
Tu mirada me tiene encantada
Si te dejo entrar, estaré equivocada
Otras manos lo han intentado
Sólo las tuyas me ha encontrado
Ya no puedo esconder
El querer sentirte al amanecer
De repente en mí vida
Hay algo que me tiene confundida
No lo puedo evitar, puedo intentar
Conservar el asombro hasta el final
(出典 letras.mus.br/soraya/37539/) >>568
>自分でやれよw
哲学することの成果なら、書き込むたびに毎回、示している。
「分析哲学」の成果ということなら、「分析哲学」は不毛な似非哲学に過ぎないのだから、示しようがない。 >>582
繰り返そう。
>「ひょ(っ) 」は、「運(うん)」の「予測のつかない出方」を表現し、やはり、その「予測のつかない出方」に対応しているのが、»Glück«の»lück«であり、英語の"luck"なのだ。 >>581
似非哲学に対して自分から忖度してみせる必要がない。 >>583
自己満足を示せるだけでも成果かなるほど >>585
分かってなかったんだね、そんな君を相手に誰も成果示すわけないよね、精々分析される対象でしかないってこと。 ゲーデルの不完全性定理からいえることは
哲学も不完全だということですね
哲学は論理学数学を含みますからね 普通に分析されてしまう文を書き込んでる側が偽物ですよ。
正しい分析で修正している側が本物。
似非哲学は前者ですね。 >>588
ゲーデルの不完全牲定理が哲学の論理に及ぶ定理であるとはまたとんだ出任せをぬけぬけとw
不完全牲定理ですよ?定理。
定理とは、数理論理学および数学において、証明された真なる命題をいう。
調べもせずに嘘八百並べないようにw >自己満足を示せるだけでも成果かなるほど
分析説学は、自己満足すらその成果として示すことができないというのなら、他己慰撫の"prostitution"でもいいから、分析哲学としてできることをやってみせたらどうですか? >分析説学は、自己満足すらその成果として示すことができないというのなら
あなた以外そんなことだれもいってませんがw >分析哲学としてできることをやってみせたらどうですか?
分析哲学のスレで楽しく分析してるわけですがw >>595
そりゃ結果正しく分析された文章が掲示されるわなwww 不完全定理を証明したゲーデルは、哲学者でもあると紹介されるが分析哲学者な 言葉の意味を知るとは、どのようなことだろうか。
以前、私は、日本語の古語の「みどり」が「身(み)獲/取(ど)り」であり、つまり、英語で表現するなら、"begetting"に対応することを示したが、そのとき、私は、その対応関係に気づかせるために、真理条件意味論の提示形式を応用してみせた。
しかし、それは、「分析哲学」と呼ばれるような考え方の有効性を示すためなどではなく、正しく、哲学をするなら、そのような流用も容易であることを示してみせたに過ぎない。
さらに、私は、「みどり」が「身(み)獲/取(ど)り」であることに気づくことにより、そのとら(捉)へ方が、そのまま、万葉集の歌にも、ニーチェの表現にも、シェークスピアの台詞にも共通して見られることも、実際に原文を引用することによって示した。
この具体例から分かるとおり、言葉の意味を知るとは、文の真理値や真理条件を規定することなどではなく、つか(使/仕/遣)はれる言葉の表現において、何をどのように「と(獲/取)りのが(逃)している」/"for・getting"にみづから(身づ柄/自ら)が気づいて、それを「とら(捉)へ」/"be・getting"て、それに誰もが気づくことになるようにしてみせることである。 私は、書き込むたびにほとんど毎回といっていいほど、そのような具体例を示している。
では、他方、「分析哲学」と呼ばれるような考え方は、これまでの100年を超えるであろうその歴史のなかで、一体、どのような具体的な成果を示すことができたと言へるのだろう。
その成果の具体例が既に存在するなら、簡単に列挙してみせることができるはずだろう。 >>603
デカルト哲学やカント哲学の「具体的な成果」って何? 「みどり」を「緑」、「身(み)獲/取(ど)り」、「見取」のどういう意味で使うかは主張者が決めることです
分析以前の言語学のような話ですね
哲学ではないです このように、主として、「何が哲学であり、何が哲学でないかを決める権限を自分たちが握っているかのようなふりをする口実」として使われてきたのが「分析哲学」である。 このスレのレスを見渡してみても、誰でもがすぐに気づくとおり、分析哲学には、それを「分析」哲学として明確に区別することができるような自己規定もなければ、それが「分析哲学」だからこそできるようになったと明示できるよう成果も一切ない。
では、自称でも、他称でもよいが、「分析哲学」と呼ばれ得る営みとはどのようなものなのか。いくらなんでも、このスレに見られるほど無内容なものであるはずはないだろうと、よく事情が分からない多くの人は、特に何の根拠もなく想定してしまうかもしれない。しかし、そのような人々は現実を目の当たりにして驚くことになるだろう。まさに状況は見てのとおりなのだ。私は、哲学に多少でも自身がかかわりながら、「分析哲学」と呼ばれるものが、どのような仕掛けなのかに気づかないような人々は、哲学をする者として失格である、自らに哲学をするような資格がないと宣告しているのと同様だろうと思う。 では、「分析哲学」と称されるのは、一体、どのような営みなのだろうか。
それは、次のような喩えを用いれば、分かりやすいだろう。
開かれた場所に、哲学的な議論をすることに関心がある人々が自然に集まっているとする。
そこに突然、門が建てられ、その門を管理すると称する一群の人々が現れ、
「哲学の議論をしたいのであれば、我々による審査を受けてこの門を通ることを許可されなければならない」、「この門を通ることを許されたものでなければ、いくら勝手に口を開いたところで、哲学の議論をしているとは認めない」と宣言してみせるのである。
すると、少数の人々が行列をつくって、審査を受けて、その門を通ることを許され、その人々は、今度は、「その門を管理すると称する一群の人々」に「仲間」として加わり、その審査を手伝う権限を与えられる。
ところが、そもそも、壁も何もないところに門を建てたのだから、門を通っても、通らなくても、できることに何も変りはない。
できるようになったのは、「分析哲学」という名称を口実として使って、「何が哲学の議論をすることであり、何が哲学の議論とは認められないか」を決める権限を握ったと自称することだけである。 言葉の意味を知るとはどのようなことだろうかと、殆ど毎回といっていいほど、我思う故に言葉ありと主観的見解を象徴的に延々と主張、解説していることと、この人がいう分析哲学と呼ばれるような考え方とやらが具体的にどのような概念で主観的に捉えているのかすら具体的に示せないこの人と分析哲学は一体なんの関連があるというのだろうか。
個々人の分析の積算で学門は発展を遂げ、具体的な形而下の世界に成果を上げてきているわけだが、この人がよぶ分析哲学とやらで、100年を超えるであろう歴史の中で、成果の具体例を列挙してみせろといわれても、この人が分析哲学と呼んでいる概念が一体具体的になんなのかお得意の言葉で具体的かつ論理的に示すのが先ではないだろうか?
毎回主観的見解を解説してる人の呼ぶ分析哲学とやらが客観的に示されて初めて、その分析が始まるのだ。
個人的には、これまでの哲学は思想哲学であって、分析哲学もそのクラスに属していると考えている、哲学者と呼ばれている人達の言説で形而上世界を分析した思想が象徴的に表現されてきたというわけだ。
形而上はそもそも具体的な形はないのだから、分析哲学の成果に具体例が存在すると分析判断して、簡単に列挙して見せることができるはずだろうなどと
いっているとしたらこの人の呼ぶ分析哲学とやらはいよいよなんの論理的具体性もない。 >>608
誰もそんな権限が分哲にあるなんて言ってないですよ?
どう思うかは自由ですけど
具体的にそんなこと書き込まれた事実が存在しないスレで、自分で勝手に断言する権限を握ったと自称するまさにブーメランなんじゃないですか? 分析哲学を自称する人々は、教育研究機関において制度的なリソースの管理権限を実際に握り、自分たちが「哲学」に属さないと恣意的に判定する活動を実際に制度的に排除してきた。これは紛れもない事実だ。例えば、米国の教育研究機関の学部制度における「哲学」と「比較文学」の分離がその代表例だ。 このスレに分析哲学を自称する人々も、教育研究機関において制度的なリソースの管理権限を実際に握り、自分たちが「哲学」に属さないと恣意的に判定する活動を実際に制度的に排除してきた人もいないからねぇ。
なんか具体例がスレの書き込みと解離してるんじゃない。 >>608
この手法がなにかにとてもよく似ていることに気づくだろう。
そう、それは、SNSやこの掲示板における「不適切な書込みを排除する」ことを名目にした、かなり頻繁に行われる書込みの規制である。実際に、例えば、この掲示板において、そのような規制により、不適切な書込みが減るのを見たことのある人がいるだろうか。規制が行われて、大多数の人々が書き込めない間も、荒らしのような、どう見ても無意味な書込みは、延々と続けられるのを目にしたことのある人も少なくないだろう。
実際、私自身、不明な理由で、2年以上にわたる書込みアクセス禁止により、この板に書き込むことはまったくできなかった。無論、ここにその実例が示されるような私の書込みこそが、一般に無意味な「荒し」と判定されるような書込みであり、そのことについて私に自覚がないだけであるということもあり得ないわけではないはないだろう。そこで私は、こう問うことができる。では、私がまったく書き込むことができなかった2年以上にわたって、この板では、私による「荒し」を排除することによって、自由で活発な哲学的な意見の交換により、なにか有意義な哲学的な議論の展開が見られてたのか?その間に行われていたのもやはり、メディアに登場する個人に向けられた、何か意見めいた書込みばかりだったのではないか。 わけではないはないだろう。×
わけではないだろう。〇 有意義かどうかは目に見える書き込まれた部分だけで判断するのは難しいのよ。誰かが見た書き込みがあらしのような無意味でくだらない書き込みにしか映らず、目に見える範囲でそう感じることしか残っていなかったとしても、頭のなかで思考したことを論理的に書き込める人の方が少ないでしょう。そういう目には見えない、具体的な思考活動の経験から論理的な哲学的思考と判断が発達し、具体的に身に付いていくというものでしょう。 中には、何年たっても同じことを主張し続けて成長していなさそうに感じた人もいましたけどねw 「分析哲学によって、すべての哲学的問題は解けた」
とWittが宣言したのだから、「分析哲学は何の成果もない」という主張は間違えているよ。
こういう人たちは論考を読む哲学的実力がないだけだな。ツベコベ言わずに論考を理解してから
5chに書き込みをしてもらいたい。 >「ひょ(っ) 」は、「運(うん)」の「予測のつかない出方」を表現し、やはり、その「予測のつかない出方」に対応しているのが、»Glück«の»lück«であり、英語の"luck"なのだ。
何らかの口実を使って他人の書込みを阻害しようとする人々を相手にしていても、埒があかないので、検討を進めることにしよう。
その発音から判断して、ドイツ語の»Glück«の»lück«や、英語の"luck"が表現として伝へようとしているのは、
それを日本語で記述しようとするなら、「ひょこっとぬ(脱)けだ(出)す」(この場合、「だ(出)す」と表現するより、「いづ(出)る」と表現した方が、さらに「しっくり」くる)感覚だろうと思ふ。
英語を利用するなら、"loophole"を「ぬ(脱)けだ(出)す」」ような"a narrow escape"もしくは"a lucky escape"の感覚であると説明することもできるだろう。
そうであるとすると、日本語の古語にも、ちょうどこれに対応するが、ただし、それをその裏側から伝へる表現があることに気づく。
それは、現代の日本語であれば、「つつが(恙)なく」という、やはり化石化した表現に対応させられる「つつみなく」/「つつまはず」という表現である。
この対応関係は、「つつみなく」/「つつまはず」と表現する場合の「つつみ」が、ちょうど、"hazard"に対応するような「さし(差)つか(支)へ」や「さ(差)しさは(障)り」に対応することからも容易に確認することができる。 >»Glück«の»lück«であり、英語の"luck"なのだ。
この»lü-«の発音の用法は、実のところ、「ラ行」の発音が語頭に立たなかった古代の「(形成期の)日本語」においては、"l"の発音が"n"に移されるため、ちょうど「ぬ(脱)け」の「ぬ」に対応している。 >Lücke
Etymology
From Middle High German lücke, lucke, from Old High German luccha, related to Loch.
(出典 en.wiktionary.org/wiki/Lücke#German)
loophole (n.)
also loop-hole, mid-15c., from hole (n.). + Middle English loupe "narrow window, slit-opening in a wall" for protection of archers while shooting, or for light and ventilation (c. 1300),
(出典 .etymonline.com/search?q=loophole)
>have a lucky escape
To barely avoid danger or problems. That guy's so lucky to be alive—his car got stuck on the train tracks, and he had a very lucky escape! The police were hot on our tail, but we had a lucky escape after making a sharp turn on the highway!
See also:
have a narrow escape
(出典 idioms.thefreedictionary.com/they+have+a+lucky+escape) 万葉集 第20巻 4408番
我が来るまでに 平けく 親はいまさね つつみなく 妻は待たせと 住吉の 我が統め神に 幣奉り 祈り申して 難波津に 船を浮け据ゑ 八十楫貫き 水手ととのへて 朝開き 我は漕ぎ出ぬと 家に告げこそ
万葉集 第20巻 4514番
青海原風波靡き行くさ来さつつむことなく船は速けむ
万葉集 第13巻 3253番
しかれども 言挙げぞ我がする 言幸く ま幸くませと 障みなく 幸くいまさば 荒礒波 ありても見むと
万葉集 第6巻 1020番
着きたまはむ 島の崎々 寄りたまはむ 磯の崎々 荒き波 風にあはせず 障みなく 病あらせず 速けく 帰したまはね
万葉集 第18巻 4138番
薮波の里に宿借り春雨に隠りつつむと妹に告げつや
(出典 万葉集ナビ) >何らかの口実を使って他人の書込みを阻害しようとする人々を相手にしていても、埒があかない
何で分哲スレにまで来るのだろう
分析されて文句垂れるぐらいなら意識のハードプロブレムのスレから出てこなきゃいいのに。 >分析されて文句垂れるぐらいなら
で、分析の結果の提示はまだですか? あなたの意見を分析して掲示してあげるよ。あなたが提示できればだけどw >この»lü-«の発音の用法は、...古代の「(形成期の)日本語」においては、"l"の発音が"n"に移されるため、ちょうど「ぬ(脱)け」の「ぬ」に対応している
「思ひがけない」という感覚とこの»lü-«の発音の用法を結び付けてイメージするには、日本語の「だ(出)し『ぬ(抜)』けに」という表現を想起してみるといいかもしれない。 分析哲学の成果は
1にゲーデルの不完全性定理
2にラッセルの確定記述ですね >この対応関係は、「つつみなく」/「つつまはず」と表現する場合の「つつみ」が、ちょうど、"hazard"に対応するような「さし(差)つか(支)へ」や「さ(差)しさは(障)り」に対応することからも容易に確認することができる。
このように見ると、それぞれの言語表現において用ゐられる表向きの発音は異なっていても、表現の論理は、そのまま直訳してもただちに伝はるほどよく似ていることに気づく。例えば、この場合、現代の日本語では、「さし(差)つか(支)へ」/「さ(差)しさは(障)り」と言ひ換へることができる「つつみ」が表現しているのは、英語で直訳を当てるなら、"つ"が表現しているのは、"halting"であり、その繰り返しが伝へるのは、その様態が継続すること、つまり、"continuous"であり、「み」が表現するのは、その累加性、つまり、"cumulation"である。したがって、「つつみなく」を直訳するなら、"without cumulation of continous halting"ということになる。
>halt (n.)
「止まること、休止すること」は1590年代にフランス語の halte (16世紀)またはイタリア語の alto に由来し、最終的には古高ドイツ語の halten 「持つ」( hold (動詞)を参照)の命令形であるドイツ語の Halt から来ています。16世紀にロマンス語に借用されたドイツの軍事命令です。
最初に記録された年: 1590s
>hold (v.)
中英語の holden 、以前の halden 、古英語の haldan(アングロサクソン)、healdan(ウェストサクソン)から派生し、「含む、把握する、保持する(液体など)、観察する、守る(習慣などを果たす)、自分自身のものとして持つ、考えを持つ(意見など)、所有する、制御する、支配する、拘留する、閉じ込める、育てる、大切にする、見守る、存在や行動を続ける、行動から引き止める」という意味を持つ、第 VII 類の強動詞(過去形 heold 、過去分詞 healden)であり、古ゲルマン語の *haldanan(オールドサクソン語 haldan 、オールドフリジア語 halda 、古ノルド語 halda 、オランダ語 houden 、ドイツ語 halten「保持する」、ゴート語 haldan「世話をする」)から派生しています。
(出典 .etymonline.com/jp/word/halt) >>626
では、尋ねますが、その成果を応用すると、
「宇宙際タイヒミュラー理論は、ABC予想を証明した」という言明の真偽を判定することができますか? 分析哲学は数学ではありません
数学などの論理的思考を養うのが哲学です というか宇宙際タイヒミュラー理論でABC予想を証明したかどうかの真偽に
ゲーデルの不完全性定理で応用可能な因果関係の確定記述がないのに
どうやって応用できないんだけど、どうやって応用するつもりなの? 〇応用できないんだけど、どうやって応用するつもりなの?
×どうやって応用できないんだけど、どうやって応用するつもりなの? >>627
「とどこほ(滞)り」なく難局を「きりぬ(脱)ける」ことが善いこととして暗黙の前提とされているから、「つつみ」がそれを妨げる、「さし(差)つか(支)へ」/「さ(差)しさは(障)り」を表現することになる。 >>628
>>628
哲学的に分かりやすく言うと、宇宙際タイヒミュラー理論でABC予想を証明したかどうかの真偽にゲーデルの不完全性定理で応用可能な因果関係の論理的思考がないまま応用するつもりになって、では尋ねますがって他人に尋ねる前に自分の認識がおかしくないか論理的思考を確認して、自分の認識で理解している言葉を使ってものを尋ねようねってこと。 >>629-630
では、尋ねますが、分析哲学の成果とされるものは、具体的に何にどのように有効性/効力を発揮するのですか? >>634
逆に尋ねるけど、理解できていない認識について論理的に分析して具体的に教えてもらえる事が有効ではないのですか? 「宇宙際タイヒミュラー理論は、ABC予想を証明した」という言明の真偽を判定するのに、「ゲーデルの不完全性定理で応用可能な因果関係の確定記述がない」から分析哲学を応用できないというのであれば、同様に、「○○という記述は、日本語の『みどり』の元の意味が、「み(身)ど(獲/取)り」であることを証明した」という言明の真偽の判定にも応用できないことになり、さらには、「○○という記述は、××という文の意味が▲▲であることを証明した」という言明の真偽の判定にも応用できないことになりませんか。 >論理的に分析して具体的に教えてもらえる
どこにも論理的な分析が提示されているように見えませんが さらに具体的に尋ねましょう。
では、「日本語の古語の『つつみ』という表現は、『差し障り』を意味する」という文の真偽を判定するのに、分析哲学の成果を応用することはできますか。できるとすれば、「つつみ」が「差し障り」を意味する/しないことは、分析哲学の手法では、どのように示されるのでしょうか。また、 >>637
え?じゃあどういう因果関係があるかあなた認識できてて尋ねたなら、因果関係を説明しないと。 >>638
あなたの言う分析哲って似非じゃなかったっけ? そうですよ。私には、>>0633のような発言をするのに、どこに哲学が必要なのか、その発言のどこにゲーデルやラッセルの論理学的な研究が関係あるのか、その発言をするのにどこに分析哲学ならではの効用が発揮されているのか、さっぱり分からないのです。 >>641
それは、あなたの論理的思考が及ぶ限りの認識能力で生活に具体的な差し障りがあるわけでも、その認識能力が必要になるような生活環境で生きてるわけでもないから、さっぱりわからない認識能力で事足りるというだけですよ。 「何故"それ"が"そう"なのかというと、"それ"は"そう"だから"そう"なのだ。」
「周りが私に賛成する時は当然私が正しい。周りが私に反対する時はつまり私が正しい。」
こんな人が多すぎる。 >>643
人の多さは問題じゃなくて、論理的思考力の違いでしかないんじゃない。 「論理を知らないで哲学をやろうとするのは、フランス語を知らないでフランス文学をやろうとするようなものだ」
って、論理を知らない人の言葉だよね。 で、分析哲学の門をくぐることを認められた、分析哲学をしていると認められるようになったとして、それによってなにが変わるんでしょうか。
門をくぐる前と比べて、何がどのようにできるようになっているのでしょうか。
このスレに書き込まれた言葉を見て、だれが分析哲学をしていて、だれが分析哲学をしているように成りすましているに過ぎないか判別することのできる人はいるでしょうか。
また、判別できると主張するのであれば、その基準はどのように明示できるのでしょうか。 >>646
論理的思考力が低いと哲学と文学を並べて論理を比較するのが論理的だと思えるんだろうね。 >>647
分析哲学の門ってどこにあるんですか?そういう作り話を真に受けて基準を明示できる可能性があると思ってるんですかー?
そう判別できた論理的根拠はどこにあるんですかー?w 分析哲学をやっていると自称するのは、自らをフレンチ・セオリーの体現者であると称するとした場合と同様に、哲学の営みとしてはまったく無意味。 だーかーらー、分析哲学をやっていると自称する分析哲学をやっていると自称する分析哲学をやっていると自称すると言ってる人はあなた以外いないんです。
まず現実を受け入れた認識を書き込みましょうね。 もしかして分析哲学のカキコで分析されたレスは全て分析哲学だと認識してるとか? 人生哲学としての思想に寄り添い理解を深めるための分析は哲学と言っても思想哲学、心理哲学の分野で、分析哲学は論理学的に分析力を学ぶことを重視するものなんじゃないのかね? 暇潰しにもなるし認識分析はそれ自体面白いね。
自分にとっては論理学的というよりは認識論的分析が分哲の真価かもしれない。 分析哲学の「分析」とは、動くという一点において「赤」と「青」をもって分けられる別のパターンを一回一回収集すること。またはそのパターン化 >この»lü-«の発音の用法は、...古代の「(形成期の)日本語」においては、"l"の発音が"n"に移されるため、ちょうど「ぬ(脱)け」の「ぬ」に対応している
このような対応関係について意識することは、哲学をするのにもとても役立つ。
例えば、プラトンの『クラテュロス』においてソークラテースは、ギリシア語において"λ"の発音が伝へる「『な』め(滑)らかさ」の感覚について語っているが、その感覚は、日本語では、そのまま語頭の"n"の発音により伝へられるように、つまり、「ナ行」に移されることが分かる。
そのことは、「『な』めらか」という表現そのものにおいても、また、「〜を『ぬ(塗)』る」、「ぬかるみ」、「ぬるぬるする」といったような表現においても、すぐに確かめることができる。
このため、その対応関係を意識するだけで、古代ギリシアと現代の日本という大きな隔たりがあるにもかかわらず、ソークラテースのその発言がどのようなことを伝へようとしているのか、さらなる説明を要することなく、そのまま感覚的によく分かるようになる。 さらに、例えば、ドイツ語の»Lust«は、「意欲の働き」を意味するものとして、
>zu et Lust haben\…をする気がある
>die Lust an et verlieren\…に対する喜びを失くす
>die Lüste des Fleisches\肉欲.
>nach Lust und Laune\気の向くままに.
(出典 プログレッシブ 独和辞典)
のようにつか(使/仕/遣)はれるれる表現だが、»Lust«の»Lu«を日本語の「ぬ」に対応させてみれば、万葉集の歌で多用され、その意味が不詳とされている、「ぬばたまの黒髪」、「ぬばたまの夜)」といった表現に用ひ/ゐられる日本語の古語の「ぬばたまの〜」が、「『たま(しひ)/魂』を『ぬ(脱)』けだ(出)させる」ように「自ずと意欲を働かせる」という意味において、ちょうど、ドイツ語の»Lust«によって伝へられる「意欲の働き」の感覚と対応していることが分かる。 誤:つか(使/仕/遣)はれるれる表現
正:つか(使/仕/遣)はれる表現 このような言葉の感覚を磨くことは、世の中にうまく適応するように生きるのに必ずしも役立つことではない。
例えば、様々な食材の質や調理の火加減、使われている調味料などの細かな違いにすぐに気づくように味覚が洗練されたとしよう。
しかし、そのように味覚が洗練されたとしても、収入が増えるわけでも、安い料金で質の良い料理を提供してくれる店が増えるわけでも、自分でよい食材を手に入れて、自分の気に入るように料理をすることの時間が増えるわけでもない。
すると、味覚が洗練されることは、むしろ、不満に感じることを増やすことにすらなるだろう。
だが、その一方で、味の違ひなどほとんど分からず、何を食べても同じというのであれば、本来、働くはずの感覚を鈍化させ、麻痺させて生きているようなもので、そのことは、何を見ても灰色にしか見えないのと同様に、生きることの「あたらしさ」(古語において「本当の価値を顕現させる」を意味する)を損なひ、生きることの豊かさも薄れさせ、忘れさせ、見失はせる。 誤:料理をすることの時間
正:料理をすることのできる時間
書込み枠が奇妙な形で制限されるから、全体を見渡すことができなくて、書込みに抜けや誤りがないか確認するのがとても面倒。 ドイツ語の»Lust«が表現しているのは、それを日本語で説明するなら、「さそ(誘)ひに応じるように心が動く/動かされる」という感覚であり、
そこには、英語で言い換えるなら、"lose control"に近いが、"lose control"という表現は、"control"する主体があることを意識させる。
それは、日本語で「こころうば(奪)はれる」という表現において、この「うば(奪)はれる」を「奪ふ」(能動態)と「奪はれる」(受動態)として捉へるような意識の働きである。
ここで、「ぬばたまの」は、「魂をうば(奪)はれるような」と言い換へることもできるが、しかし、「ぬばたまの」は、魂が「受動的に奪われる」ことを伝へているのではなく、»Lust«の場合にそうであるように、「魂がさそ(誘)ひに応じて自然にぬ(脱)けだ(出)す」感覚を「ぬば」という発音により伝へようとしているのである。 様態のこのような関係性は、例えば、
>zu et Lust haben\…をする気がある
「〜する気がしない」のに、意志の力により、「〜する気になる」ことはできないことからも分かるだろう。 例えば「みどり」は「身取り」であるということはまったくありそうでありません。
(ちみなに「みどり」の「み」は時に「霊(み)」だとされますがこれもあやしい)。
せいぜいそれは、ハイデガーの「アレテイア」がそうであるように「創造的誤解」としての評価に
耐えるかどうかですが、今のところお説に納得する人は少なそうですよ。ちなみに「意味とは
用法である」の一つの含意は、語源からの説明は有意味とは限らないというものです。 「分析哲学」という多義的な命名が失敗のもと。これだとなんでも「分析哲学」で勘違いのスレが続出する。
もともとの「論理実証主義」とか「科学哲学」で、間違いを指摘されて、「私は科学哲学なんてやってませんよ」と言って、
「分析哲学」という名前に飛付いた連中ばかりで情けない。 どのみち5ちゃん哲学板ってどこのスレもこんな感じの人ばかり
みたいだな鞍替えしたわ、バイバイ >>665
では、尋ねますが、次に引用するシェークスピアの台詞に出てくる"verdure"とは何ですか?
0187"verdure"/「みどり」/「緑」/「身獲/取り」
2023/07/24(月) 10:48:40.92ID:dv/45Ds2
>PROSPERO
Being once perfected how to grant suits,
How to deny them, who t'advance and who
To trash for over-topping, new created
The creatures that were mine, I say, or changed'em,
Or else new formed'em; having both the key
Of officer and office, set all hearts i'th'state
To what tune pleased his ear, that now he was
The ivy which had hid my princely trunk
And sucked my verdure out on't ― Thou attend'st not.
出典 J. Bate & E. Rasmussen (eds.),
"RSC William Shakespeare Complete Works 2nd edition", p. 8 それが何を意味するか?という問題は文学の問題でしょう
作者は言葉にたくさんの意味を込めるわけですね
分析哲学では意味を明確に主張できるということです
哲学の議論では言葉に「たくさんの意味を込める」ことなどは混乱のもとです >>668 「緑」。引用部分では「活力」といった意味のメタファーですかね。で、それが何か? 万葉集 第18巻 4122番
>安米布良受 日能可左奈礼婆 宇恵之田毛 麻吉之波多氣毛
安佐其登尓 之保美可礼由苦 曽乎見礼婆 許己呂乎伊多美
弥騰里兒能 知許布我其登久 安麻都美豆 安布藝弖曽麻都
>雨降らず 日の重なれば 植ゑし田も 蒔きし畑も
朝ごとに しぼみ枯れゆく そを見れば 心を痛み
みどり子の 乳乞ふがごとく 天つ水 仰ぎてぞ待つ
(万葉集ナビ) 見てのとおり、「分析哲学」をやっていると自称する人々(実際に、制度的に「分析哲学」の研究者を自称する立場にあろうと、ただの「成りすまし」であろうと関係なく)を相手に何かを議論して理解を得ようとすることは、まったくの無駄である。
そのことを私は、最初からよく知り抜いている。このスレでも明確に述べたとおり、「分析哲学」をやっていると自称するような人々には、何を言ったところで「既に手遅れ」なのだ。
だから、私は、ここに「分析哲学の立場」からレスをしていると自称するような人々を、いかなる意味でも説得しようと思って書き込んでいるわけではない。
ここで、私が「分析哲学」に対して批判的な言葉を向けているからと言って、私が「分析哲学」を批判の対象としていると考えることも思い違いである。
なぜなら、そもそも、「分析哲学」と称されるものには、それを明確に規定できるような実態がなく、ただの言論統制のための口実に過ぎないからだ。
そして、別に「分析哲学」を称するということではなくても、別の名称を利用して(それは、「哲学史研究」であっても、「哲学者研究」であっても、「ギリシア哲学」であっても何でもいい)同様に言論統制をする手法は至る所に仕掛けられているのである。 >>668に引用したシェークスピアの台詞に見られる"verdure"に関する表現と、>>671に引用した万葉集の歌の「みどりご」という表現が並べられ、
日本語の古語の「みどり」が「み(身)ど(獲/取)り」を表現していたであろうと考えられる理由が、他の用例も参照しながら、詳しく説明された後に、
>「みどり」は「身取り」であるということはまったくありそうでありません
と感想を抱く人に、それ以上何か説明することに意味があるとは、私は思わない。
ところが、「分析哲学」をやっていると自称する人々に限らず、誰かがそのような感想を「意見」として表明すると、その「意見」にすぐに賛同するような人々は、世の中で名の通った学術研究機関に所属する「学者」とされる人々にも大勢いる。
そのようにして、他人の「意見」に賛同してみせる人々は、別に自分の考えとしてなにか確かな根拠をもっているわけではなく、まずはとにかく他人を「非難できる」という自分の優位な立場を確認させてもらえる機会が得られたことで「悦に入っている」のである。 私は、そのような人々が常套手段として使うありとあらゆる手口をそれなりの年月の実体験を通じてよく知っている。
それは、何を説明されたところで無視する、無理解を示すといったことには到底とどまらない。
議論とは何の関係もない、根拠すらない個人攻撃を執拗に繰り返す。
わざと不可能な条件を仕掛けたうえで指示を出して、その不可能な条件を満たすことができないことを落ち度として非難し、責任を追及する。
嘘の噂を流す。所有物を盗む。それが犯罪行為として明るみに出ることがない限り、ほとんどどのような手段でも使う。 どれだけ手の込んだことをするか、一例を挙げると、それがどのような体験であるのか分かりやすくなるのではないだろうか。
自分のパソコンが利用できない環境で、共用のパソコンを利用してメールを送る必要が生じたことがあった。
そのパソコンのメールでは、下書きのメールの文面を消去することができない設定になっており、
書き損じたメールは、ゴミ箱に捨てるようになっていた。そこで、何度か書き直して最終的にメールを送信したのだが、なんと送り先に届いたのは、最終的なメールだけではなく、ゴミ箱に捨てたすべてのメールも一緒に送信されていたのだ。
そのことを私は後から確認して知ったので、私の操作の間違いや、勘違いによるものではない。
ゴミ箱に捨てたメールの文面を書いたのは、確かに私だが、ゴミ箱からメールを送ったのは私ではない。
なぜ、そのような不可解なことが生じたのか、その原因の説明は一切得られなかった。 それが、ごく稀に生じる事故のような出来事であれば、偶々、そんな奇妙なこともあるだろうくらいに受けとめるだろうが、そのようなとうてい考えられないような奇妙な「偶然の出来事」が休む暇もないほど執拗に繰り返される。 それを個人的な特殊な体験と捉えているうちは、まだまだ未熟なのだ。
それなりの経験を積んでようやく、世の中は、そもそも、まったく「真に受ける」べきものなどではないことにようやく気付く。 「奇妙な「偶然の出来事」が休む暇もないほど執拗に繰り返される。」というのは、その人の観測選択効果だと思われます 世の中を「真に受ける」方が、「正常化バイアス」と呼ばれる、観測を選択的にきわめて強力に過剰補正しようとする効果なのですよ。 「緑」が「身取り」に由来すると見る根拠を、概略だけでも教えていただけませんか。
哲学、まして分析哲学とはかかわりのないことですが、いきがかり上ここでどうぞ。 見てのとおりで、何をどう説明して提示したところで、>>681と同様の感想を意見として返してくるだけのことであり、言葉を費やすことは一切徒労に終わることに相手ついて相手が自分で諦めてしまうようになるまで、これを延々と繰り返す。
そのことを知りながら、なぜそれでもここに書き込むのか。
それは、「分析哲学」を自称する人々(「分析哲学」そのものに、それを自称する行為以外に実態がないので、「成りすまし」かどうかは関係ない)がどのような振舞いをする人々であるのかが、そのような人々自身の言葉により可視化されるからである。哲学をするという目的で「分析哲学」の門をくぐることを許されたなら、そのような人々の仲間として受け容れられてもらえるという訳だ。私は、それを望むような人々も、別にそうしないように説得しようなどとは思っていない。ただ、その類の人々がどのような人々であるのかが、密室を離れて、可視化されることが望ましいと思っているだけである。 誤:終わることに相手ついて相手が
正:終わることについて相手が 「連続して起きる奇妙な出来事」は、正常化バイアスによって補正された後の常識からあまりにもかけ離れているので、他人にそのことを話しても、それを話す本人の方が「おかしな人」と思われることになるので、本人が黙り込むしかなくなる状況に追いやられる。 実体はどうあれ「分析哲学」が 「big name」であることは事実だと思う。
そうならば、それを利用しようとする者が出てくることは防ぎようがない。
「俺の親類には一流会社に勤めているのがいる」みたいなことを平気で言える奴がこのスレで蔓延してしまったのは残念だが、
分析哲学の効用は今のところこれしかない。 >>682 >>602に「以前」とありますがこのスレッドですか?
標準的な判断力を持っている人で「緑」は「身取り」だと説明されて「なるほど」と思う人は
まずいないと思います。するとそう説明したい人は、自説をなるたけ分かりやすい言葉で
述べなくてはなりません。それは例えば「みづみづし」と関係あるかとする広辞苑の説明よりも
説得力がありそうでしょうか。例えばbeget(産む、父になる、作る)ことと「身を取る」ことは
類比的だとすることは、貴殿の知識の広さを披露するものではあっても、お説の説得力はむしろ
そこなわれると思います。 >>682 >>602に「以前」とありますがこのスレッドですか?
標準的な判断力を持っている人で「緑」は「身取り」だと説明されて「なるほど」と思う人は
まずいないと思います。するとそう説明したい人は、自説をなるたけ分かりやすい言葉で
述べなくてはなりません。それは例えば「みづみづし」と関係あるかとする広辞苑の説明よりも
説得力がありそうでしょうか。例えばbeget(産む、父になる、作る)ことと「身を取る」ことは
類比的だとすることは、貴殿の知識の広さを披露するものではあっても、お説の説得力はむしろ
そこなわれると思います。 >馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない
という諺があります。水辺まで連れていかれても、そこに水があることが分からない、その水が飲めるとは感じない、その水を飲む気になれないということであれば、それ以上にしてあげられることはありません。
あなたが一頭の馬であることに違いがないとしても、私が、私自身も馬であり、その水辺で水を飲むことになんの支障もないなら、あなたを馬の代表と見做すべき理由も私にはありません。 「緑」は日本語の古い意味からすると「美止利」と考える方がしっくりきますね たとえ、あなたが正直にそのように感じているとしても、私があなたに言ってあげられるのは、「それなら諦めなさい」、または「自分で何とかするしかありません」ということだけです。
人は、それぞれに適性も能力も違うので、自分には無理であるなら、自分に無理を強いる必要はないし、それが自分には無理であるからといって、他の人にも無理に違いないなどと決めつける必要はないのです。
例えば、私には、音楽のリズムを把握する感性が欠けている、または平均的な人より大きく劣っているので、音楽の演奏のリズムが狂っていて、他の多くの人がそのことに気づくとしても、私はそれに気づくことができないでしょう。
だから、他人が演奏のリズムが狂っていると指摘したとして、私がそれでもそのリズムの狂いをまったく把握することができないとしても、他の大多数の人々も私と同じようにそれに気づくことができないはずだなどと思ったりはしません。
私には、それを把握する適性が欠けているので、指摘のとおりに演奏のリズムが乱れていることも有り得るのだろうと思うだけで、それについて判断を下したりはしません。 あなたは哲学とは遠いところの方のようですね
哲学は対象を追及する学問です
「諦めなさい」などとは言いません 自分から諦める必要はありませんよ?
私にさらなる説明を要求して、私に依存しようとするから、「(私に依存しなければならないなら)諦めなさい」と言っているだけで、これは命令ではありません。
諦めずに自分で追求を続けるのは自由です。 0964ウィズコロナの名無しさん
2023/10/27(金) 14:46:58.15ID:vnoPaRtR0
生活保護のままでいたい…「月22万円」の受給に頼る28歳・シングルマザーが働かないワケ
よーけ貰ってるなーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー僕!14万円!!
そりゃ!働きたくないわな!22万円貰えるなら!また!10万円ーーーーーーどこかおかしいと思うが?ジャップはジャップは!働いたら負けなんて!! 「『緑』は『身取り』に由来します」とおっしゃっるがそうお考えになる根拠を人が了解できる言い方で
示していらっしゃらない以上、貴殿は馬を水辺に連れて行っていないわけです。 では、さらにその喩えで説明しましょう。
私としては、水辺まで連れて行っている。
しかし、水の周辺は足場が悪く、水を飲みたいと思っても誰もが水面までたどり着けるわけではなく、下手をすると、足を滑らせて転落して大怪我をしたり、場合によっては、命を落とす可能性さえあるかもしれない。しかし、他人にはともかく、私自身には、そのようなことは一向に気にならない。私は、そこに飲むことができる水があるとが分かり、水を必要としているので、注意深くそこまで水面に届くところまで降りて行って、水を飲んでいるだけだ。水自体は豊富にあり、誰の所有物でもないので、他にも水を必要としている人々がいるだろうから、私は、何一つ隠し立てすることもなく、自分がどのようにして水を得ているか、その様子を他人にも示して見せている。周辺の足場がとても悪いので、そこに人々が近づこうとせず、「そんなところに水があるはずがない」とか、「そんな危険な場所に他人を誘導すべきではない」と主張したところで、そのように判断するのであれば、それはその人々の自由だが、私自身の振舞いがそのような主張によって縛られる必要性は、さらさらないと私は考えている。 古文で「身」とは、む−くろ 【身・軀】からだ。 胴体。 死骸。の意味があるから、木にとって身である幹を取ったら緑の葉っぱしか残らない、そうなると木は死骸と化す。で緑の由来が身取りだと思うってこじつけてみた。 そういうしらじらしく、わざとらしいデタラメはやめましょう。
「み(身)」は、「むくろ」でもなければ、「からだ」でもない。
「身を切る思ひ」は、「むくろ/からだを切る思ひ」ではない。 そもそも、言葉の表現の論理を捉へようとする気がない人に、言葉の意味を説明しようとすることは無駄だ。 私が日本語の古語の「み(身)ど(獲/取)り」に対応するものとした英語の"begetting"という表現にも見られる"be-〜"の用法については、この掲示板でも以前から詳しく検討して説明してきたので、それをここで最初から繰り返すことはしないが、既に何度も指摘しているように「臨在」を表すようにつか(使/仕/遣)はれている。
ところで、日本語において名詞として用ひられる「み(身/実)」とは何だろうか。私は、それを端的に表現するなら、「み(身/実)とは、臨在の累加的な具現化である」と云ふことができるだろうと思う。
例えば、「みどり(嬰)ご(児)」、「みどり(緑)」、「みの(実/稔)り」といった表現だけではなく、「み(身)おも(重)になる」、「み(身)を切る思ひをする」、「み(身)の置き場がない」、「み(身)づから」、「み(身)うち(内)」、「みなし(孤)ご(児)」といった表現を想起してみるといい。 >>695
誤:水があるとが分かり
正:水があることが分かり >>699
さらに、古語辞典を引くと、古語には、「交互に」や「各自がそれぞれに」を意味するように用ひられる「かた(片)み(身)に/かたみ(互)に」という表現があることが分かる。 分析哲学がだらしないから、こんな寄生虫みたいな奴か湧くんだよ 「身(み)に覚えがない」は、「むくろ/からだに覚えがない」ではなく、
「身(み)に染みて分かる」も、「むくろ/からだに染みて分かる」ではない。 https://kobun.weblio.jp/content/%E8%BA%AB#:~:text=%E3%82%80%EF%BC%8D%E3%81%8F%E3%82%8D%20%E3%80%90%E8%BA%AB%E3%83%BB%E8%BB%80%E3%80%91&text=%5B%E8%A8%B3%5D%20%E9%A0%AD%E3%81%AF%E7%8C%BF%E3%80%81,%E6%AD%BB%E9%AA%B8%EF%BC%88%E3%81%97%E3%81%8C%E3%81%84%EF%BC%89%E3%80%82 分析哲学の特徴
哲学の問題を考察する際に、言語の働きにとくに注目し、言語の分析を通じて哲学の問題を解決(あるいは解消)しようとする「方法」、および、バークリーやヒュームに起源をもつ経験主義的な考え方を受け継いでいる点が、その特徴である。
あくまで哲学の問題を考察する際の分析なので、分析哲学に緑の由来が哲学的に身取りだというろんきょがないならただの恣意的な解釈による私的な想像ということです。 あくまで哲学板にお書きなら、ハイデガー・スレなどがよいと思います。坂部スレがあるならそちらでも… 「み」というのは「美」の略字です
「と」は「止」の略字です
「り」は「利」の略字です
つまり日本語では「みどり」は「美止利」という意味になります >>704や>>708のようなレスが、分析哲学による考察の成果ですね。
まさしく、見てのとおりとしかいいようがない。
特に前者のレスなどは、私がしばしば辞書などの記載を引用して貼り付けるのを見て、それを私が自説の「権威づけ」のためにやっているとでも思っているのでしょうw
これを見て、どっちもどっちと思うような人々に、私は救いの手を差し伸べるような立場にはなく、どうぞご自由にと言う他ない。 私は、害を被っているとは少しも思っていませんよ。
むしろ、自傷行為でしょう。 >>705
そう言っているだけで、なにもしてないでしょう >>707 >>706はむろん「身取り」論者さんにです。確認するまでもなく、分析哲学における
言語分析は語源の探求ということではありません。マルティン氏や恵氏は哲学的語源探求
ないし語源俗解をなさいましたね。 >>699-701
「かた(片)み(身)に/かたみ(互)に」が、「たが(互)ひにそれぞれが」や「か(代)はるが(代)わるに」を意味するように用ゐられたことからも、「み(身)」が「反転可能な臨在性の具現化」、つまり、「『たが(互)ひにゐる』ことのあらは(顕/現)れ」を伝へる表現であることが分かる。 >>713
私が単に通常に辞書に説明されるような仕方で、つまり、その言葉が「古くは〜を意味するように使われた」という意味で語源を探求しているとするのであれば、私がこれほどまで執拗に、語源的には互いに何の関係もないことがあらかじめ前提とされている外国の言語表現との対応関係を探っていることは意味不明でしょう。例えば、ハイデガーであれば、その語源的な記述において、ドイツ語とギリシア語の親近性を強調するとしても、私のように逆に、日本語と印欧諸語のように互いに疎遠であると考えられている言語の間で表現上の対応関係を追求して、それを明示しようなどとするようなことはまったくありませんね。
考えてもみてください。ハイデガーがドイツ語の表現を説明するのに、米大陸の原住民の言語における表現との対応関係を提示しようとするようなことが考えられますか。
私の場合、そのような例を参照しないのは、私がそれらの言語を知らず、また、仮に、それを知っていたとしても、他の多くの人が自分にも親しみのない例を多く引用すれば、各自が自身でその説明の妥当性を確認することができないことになってしまうので、説明が他の人々にとって役に立たなくなると考えているからに過ぎません。 私が「こころ(試)み/心観」ているのは、つか(使/仕/遣)はれる言葉の表現にそれが反映されながらも、
それが通常はわす(忘)れられていて、その違ひ気づくことはあっても、明確に意識されて言語化されて(つまり、メタ言語により記述されて)
提示されることのない「意識の働き」を「明示し」/»deutlich machen«ようとすることです。 >>714
>wechselseitig
Bedeutungen: [1] unter Mitwirkung der Beteiligten erfolgend. Synonyme: [1] bildungssprachlich: mutual, mutuell.
>Beispiele:
„Völlig fremde und gegeneinander gleichgültige Menschen, wenn sie eine Zeitlang zusammenleben, kehren ihr Inneres wechselseitig heraus, und es muss eine gewisse Vertraulichkeit entstehen.“
(出典 de.wiktionary.org/wiki/wechselseitig) ところで、このスレでも見られる「分析哲学」をやっていると自称する人(それが「成りすまし」であるかどうかにかかわらず)の振舞いは、研究機関に務める「学者」一般が他人を「指導」しようとする姿勢として、かなり典型的なもので、なんら特別なものではない。
私は、それを、それなりの年月、実際に経験してきているので、それは何ら驚くようなものではない。
大きな違いは、そのような人々の発言が、このような匿名の掲示板では、私に対して人事権上、影響力を及ぼすことができず、いくら個人的な誹謗中傷を向けようとしても、無効となってしまうことだけである。 今では忘れられてしまっている古語の「かた(片)み(身)に/かたみ(互)に」という表現が伝へる感覚を知るには、例えば、現代語における「私の身(み)にもなってみろ」とか、「人の身(み)になって考えてみる」と表現する場合などの「身(み)」の用法を考察してみることが役に立つだろう。 >いくら個人的な誹謗中傷を向けようとしても、無効となってしまう
実名の個人に対しては誹謗中傷として向けられる言葉が、匿名の人に対してはその効果を十全に発揮することができないので、それがこの掲示板に蔓延してみられるような、不特定の相手に向けられた「汚言癖」に変換されて現れる。
こころが、そのように実名の相手に対しては誹謗中傷を、不特定の相手に対しては「汚言」を好んで向ける人々こそが、他人に対して「べき論」/「倫理」を高説することによって自らの優越性を示そうとするのである。 誤:こころが、そのように
正:ところが、そのように 「かた(片)み(身)に/かたみ(互)に思ふ」ことの少ない人ほど、「か(変)はりみ(身)」がはやい。
このことは、その振舞ひが、その人の»wechselseitig«な性質を示すものであるどころか、
むしろ、その人が、つねに自動的に/機械的に»einseitig«に振る舞ふ性質の持主であることを示しているだろう。 リンゴがミカンに変化することはないが、リンゴをミカンで置き換へることは容易である。 「みづ(瑞)ほ(穂)の国(くに)」という表現があるが、「『み(身/実)』を『たも(保)つてゐる(»behaltend«)』」のが「みづ(水)」である。
万葉集 第20巻 4494番
>水鳥乃 可毛<能>羽能伊呂乃 青馬乎 家布美流比等波 可藝利奈之等伊布
>水鳥の鴨の羽の色の青馬を今日見る人は限りなしといふ
>みづとりの かものはのいろの あをうまを けふみるひとは かぎりなしといふ
(出典 万葉集ナビ)
この歌に詠まれた感性が分かるだろうか。
「みづとり(水鳥)」には、「みづ(水)*と(獲/取)り」≒「『み(身/実)』を『たも(保)つてゐる(»behaltend«)』」」*「と(獲/取)り」が掛けられていると見ることができるはずだろうと私は思ふ。
「鴨の羽の色」について検索すると、Wikipediaには、次のように記載されている。
>鴨の羽色(かものはいろ)は、青緑色の一種。マガモの雄の、頭から首にかけての羽色に由来する。
緑みがかった色から青みがかった色までさまざまあり、それらの色を持つ染物も出回っている。『万葉集』にも、青緑形容のために鴨の羽色を喩えにした短歌が2首収録されている。ただしこの呼び名が、当時から色の固有名として広く使われていたものなのかは不詳である。 <
また、以下のサイトには、写真が掲載されている。
chubu.env.go.jp/blog/2017/12/post-528.html 「あを」は、以前にも説明したとおり、「不特定に離れた空虚」を表現しているだろうと私は考へている。 >水子・稚子・若子(読み)みずこ
精選版 日本国語大辞典 「水子・稚子・若子」の意味・読み・例文・類語
みず‐こ みづ‥【水子・稚子・若子】
@ 生まれてから、日のたっていない子。あかご。
※文明本節用集(室町中)「若子 ミヅゴ」
※浄瑠璃・国性爺合戦(1715)一「女房柳歌君、水子を肌に抱きながら、后の御手を引立」<
「若子/稚子」の本来の表記は、「みづこ」であって、「みずこ」ではない。
「づ」を「ず」と互換であるものとして扱ふことによって、「みづこ(若子/稚子)」と「水(すい)子(じ)」の混同が生じ、その混同が維持される。 「『臨在("to be")』の累加的な具現化」のプロセスである「み(身)ど(獲/取)り」/"begetting"の「結果/結実」としてあらは(顕/現)れるのが「み(身/実)」であるとすれば、「『臨在("to be")』の累加的な具現化」の「うら(裏)」/»die Kehrseite«が「き(消)えう(失)せる」こととしての「死」/"not to be"である。 「実体変化」がもたらす「新約」という関係性とは
>transsubstantiation [女]
〖カトリック〗 実体変化:聖体の秘跡で,パンとぶどう酒がキリストの肉と血に変わること.
>Sur le plan religieux, l'Église catholique (dont les maronites et les arméniens catholiques) emploie le terme de « transsubstantiation » pour expliquer que, dans l'Eucharistie, le pain et le vin, par la consécration de la messe, sont « réellement, vraiment et substantiellement » transformés ou convertis en corps et sang du Christ, tout en conservant leurs caractéristiques physiques ou « espèces » (texture, goût, odeur : les apparences) initiales. La conséquence en est la « présence réelle » du Christ dans les espèces consacrées.
(出典 fr.wikipedia.org/wiki/Transsubstantiation) NOVA VULGATA
EVANGELIUM SECUNDUM MATTHAEUM
26 Cenantibus autem eis, accepit Iesus panem et benedixit ac fregit deditque discipulis et ait: “ Accipite, comedite: hoc est corpus meum ”.
27 Et accipiens calicem, gratias egit et dedit illis dicens: “ Bibite ex hoc omnes:
28 hic est enim sanguis meus novi testamenti, qui pro multis effunditur in remissionem peccatorum.
(出典 vatican.va/archive/bible/nova_vulgata/documents/nova-vulgata_nt_evang-matthaeum_lt.html) 万葉集 第20巻 4494番
>水鳥乃 可毛<能>羽能伊呂乃 青馬乎 家布美流比等波 可藝利奈之等伊布
>水鳥の鴨の羽の色の青馬を今日見る人は限りなしといふ
>みづとりの かものはのいろの あをうまを けふみるひとは かぎりなしといふ
(出典 万葉集ナビ)
このような歌を見ると、その「青馬乎(あをうまを)」という表現が、ニーチェが批判した
「何も欲しないよりは、いっそむしろ虚無を」を彷彿とさせながらも、かへ(却)って私には、ディオニューソス的な「みづみづ(瑞々/水々)しい」(「みずみず(水々)しい」ではないので、念のため)感性の働きが感じられる。
「青馬乎(あをうまを)」と「限りなきこと」を欲しながらも、その呼びかけの力点は、むしろ、「鴨の羽色」/「みづみづ(瑞々/水々)しい・み(身)ど(獲/取)り」を「ひと(人/一)」が「今日(けふ)見る」ことの「限りない大切さ」に置かれているからである。 >>729
主の晩餐
26一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 27また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。 28これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。 29言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
(出典 マタイによる福音書 26 | 新共同訳 聖書 | YouVersion) 私は、キリスト教徒ではなく、キリスト教についての教育を受けたこともなく、キリスト教神学の論争について何の知識もないが、このような一節を読むと、ニーチェが、歴史上、実在したものとされるキリストその人については、むしろ、好意的に評価しながらも、なぜあれほど激しい言葉でキリスト教を批判したのかよく分かる気がする。 >わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。
この言葉は、万葉集 第20巻 4494番の「青馬乎(あをうまを)」という表現が想起させるのと同様に、現世ではない「限りなき世」を志向しているだろう。
しかし、ここでキリストが自らの身体について言ったと伝へられる言葉は、「水鳥の鴨の羽の色」として詠まれている感性とは、まるで逆のものを感じさせる。
なせ私がそのように感じるのか説明しよう。 カトリックの教義では、「実体変化」とは、教会で執り行はれる儀式において「パンとぶどう酒がキリストの肉と血に変わること」であるとされると説明されている。
「主の晩餐 」では、キリストは、パンについて、「取って食べなさい。これはわたしの体である」と言ひ、また、ワインについて、「この杯から飲みなさい。これは、[...] わたしの血、契約の血である 」と言ったと伝へられる。
この発言からは、キリストは、自らの体をパンとして、また自らの血をワインとして与へると表現しているようにも思えるが、教会の儀式における解釈では、それとは逆に、パンを自らの体として、またワインを自らの血として授けていることになるだろう。
いずれにせよ、それを受け取る側からすれば、パンを食べることが、キリストが自らの体を犠牲にすることと同義であり、ワインを飲むことが、キリストが自らを犠牲にして血を流すことと同義であることになる。 ところで、「実体変化」は、「パンとぶどう酒がキリストの肉と血に変わる」秘跡であるとされるが、この表現において、「キリスト」の代わりに「人」を代入すると、それは何の神秘も感じられないごく自然な認識となる。
>「パンとぶどう酒が人の肉と血に変わる」
パンやワインなどの人が食料として飲食するものが、消化されて、人の身体の「血と肉」(つまり、「身(み)」)になることは、むしろ、常識である。 さらに、「パン」は「ワイン」について考へてみると、これらが
「みづみづ(瑞々/水々)しい・み(身)ど(獲/取)り」がもたらした成果により作られていること、つまり、パンは、麦の「稔/実(みの)り」が、また、
「ワイン」が葡萄の木の「果実」がめぐ(恵)みとして、それぞれ、もたらしたものであるという認識もごく普通のことである。 誤:「ワイン」が葡萄の木の「果実」が
正:「ワイン」は、葡萄の木の「果実」が
書込み枠の上下左右の見える範囲が狭く制限されて、全体が見渡せないから著しく書きにくい。 言ひ換へるなら、穀物や果実などの「みづみづ(瑞々/水々)しい・み(身)ど(獲/取)り」がもたらした成果を飲み食いして、それが自身の「血と肉」に変化しているというのは、もともと、人にとって当たり前の認識であり、そのようにして身を保つことができることを、人は「めぐ(恵)み」であると感じているのだ。 では、「主の晩餐 」において、パンとワインについてキリストが弟子たちに言ったと伝へられる、
>「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
>「この杯から飲みなさい。 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」
という発話行為は、どのような意味をもつだろうか。
それは、人がパンを食べ、ワインを飲み、それが恵みとして各自の身体の「血と肉」となることに、
「人の『罪』を贖ふものとされるキリストの身体の犠牲」を介在させることである。
その介在により、パンを食べ、ワインを飲むことができることは、「恵み」であることから、「代わりに支払われた犠牲」に対する「負い目」/「負債の意識」に変わるのだ。
しかも、その「負い目」/「負債の意識」を認めることにより、果たされるべき契約が結ばれたものとされるのである。 極めて単純化して言へば、これは、私には、「恵み」を「負い目」に変質させる非可逆変換操作のトリックにしか見えない。 1 名前:名無しさん@涙目です。(Unknown) [US][] 投稿日:2023/10/27(金) 23:50:28.13 ID:/jtTzq7u0 ?PLT(15000)
漫画家・やしろあずき氏が25日、自身の公式X(旧・ツイッター)を更新。運転免許の筆記試験で直面した“性格が悪い問題”について描いた漫画が注目を集めた。
やしろ氏は「免許取るときの試験、マジで性格悪い」とつづって漫画をアップ。運転免許の筆記試験に向けて猛勉強していたときのことを回顧。
「やしろの通うところは基本人と会わず免許を取れる場所なので勉強は独学でするのだ!!」と意気込む。
いざ筆記試験を前にしてみると「えーと… なんだこれ簡単やんけ」とつぶやく。「問1 公道を一般自動車で
運転する際には必ずシートベルトを装着する必要がある。正か誤か」といたって常識的な問題だった。
この問いには「当たり前じゃん… 正に決まってるでしょ」と自信。しかし、回答は「誤」で、
「一般自動車でなくてもシートベルトをしなくてはならないから」と解説されていた。
不正解となったやしろ氏は「いや性格悪」と嘆き、用紙を引き裂く様子がコミカルに描かれている。
さらに「経験者はわかると思うがこの問題、めちゃくちゃ捻くれているのである!!」と運転免許における
筆記試験の難解さを伝えていた。
やしろ氏のポストを見たユーザーからは、「マジで問題の性格悪すぎますよね」「免許語マジで嫌い」
「運転免許の筆記は全部捻くれてる」と共感の声が寄せられたほか、「この問題のせいで本免6回落ちました」
「これのせいで一生免許取れません」との声など、実体験を交えた投稿もあった。
なかには、「必ずって入る問題はほぼひっかけ」「問題に必ずって書いてたら大体×だよなぁ…」と
その特徴を捉えるユーザーも見られた。
https://sirabee.com/2023/10/27/20163186656/ >>742
米国の教育機関が実施する共通試験で論理的な思考力を問うと称する文章問題はそんなのばっかりだよ。
そんな「読解力」を磨いても階層組織で上からの指示に従順に屁理屈を捏ねる弁論術を身に付けることになるだけだろうと思う。 >>743
自分の考えを整理するのには、そのような言葉を使ってみることが役に立つのかもしれない(この場合、発言者にどう役に立っているのかは、私には不明である)が、相手に何かを伝えようとする言葉としてはまるで用をなさない。
誰かが使った用語として「代補」という「用語の使用法」に基づいて、それをそのような「概念」として参照しているのかもしれないが、私はそのような枠組みとは関係なしに思索しているので、私には何も伝わらないし、わざわざそのような枠組みに取り込まれようとも思わない。 「かた(片)み(身)に/かたみ(互)に思ふ」ことに気づくこと、»wechselseitig«に考えてみること、「人の身になって」みることは、
「云ふは易く行ふは難し」である。むしろ、人は、すぐに他人のことまで「分かったつもり」になってしまい、自分が「分かったつもり」になっているだけであることに気づかない。 公道を一般自動車で
運転する際と指示してるのに、
一般道以外についても含めて回答
しないと誤りになるって問題文の論理形式誤ってない 先日、一年ぶりに換気扇のファンを洗浄した。それなりの油汚れがついていたので、マジックリンをかけ、中性洗剤を入れた湯に入れて、歯ブラシを使ったりしてかなり入念に洗おうとしたが、現在、主流のドラム型ファンは、金属の羽が狭い間隔で斜めに並んでいて、歯ブラシも入りにくく、手間取ったわりには、隈なく完全に汚れが取れたとはいえず、もっと効率的な洗浄方法があるはずだろう、今度は、バスタブにバケツを置いて、かなり熱い湯に中性洗剤を入れ、そこにファンを浸けておこうと思案するところまでで終わった。だれにでもある日常的なことだが、こんなことからも哲学的な気づきは得られる。 >「問1 公道を一般自動車で運転する際には必ずシートベルトを装着する必要がある。正か誤か」
答えは正です
「公道を一般自動車で運転する」は、「シートベルトを装着するする必要がある」に含意するからです
警視庁に抗議します 先日、換気扇ファンを洗浄してから、それほどの期間が過ぎたわけではないので、まだファンの羽はそれほど汚れていない。
それでも、思案したやり方でうまく行くか試してみようと思い、ファンを外して見た。だが、やはり、それほど汚れていないので、大量の湯を沸かしてバスタブで大掛かりに洗おうとするのは労力が無駄だ。
そこで、ゆで卵を茹でた湯をそのまま使って素手で中性洗剤だけで洗いはじめ、ヤカンの湯を足してみたが、やはり、ファンの羽の間隔が狭く、金属の羽が鋭く、角度をつけて取り付けられているので、指もスポンジも間に入りづらく洗いにくい。
ところが、考えるともなしに、ふとあることをしてみた。それは、自分の利き手である右手の代わりに左手で洗ってみることである。
すると、なんのことはない、指は狭い間隔で取り付けられた羽の間にも容易に、羽のエッジに指が当たることもなくすっと入り込み、簡単に指をその間で滑らせることができる。
つまり、シロッコ・ファンが洗いづらかったのは、単に利き手である右手を使う角度が、ちょうど羽の取り付け角度と対抗することに起因するに過ぎないことに気づいた。
仮に、もともと私が左利きであったとしたら、最初からまったく非効率なことを試行錯誤するまでもなく、難なくファンの羽を洗浄できただろう。 左利きの人が、右手の人が大多数であることに合せてさまざまな設備や道具が設計されていることに日常的に不便を感じるというのを話には聞くことがある。
ただ、自分が、左利きの人々のために設計された設備や道具を使う機会は、日常生活ではほぼないので、左利きの人に「人の身にもなってみろ」と言われたとしても、不便はあるのだろうと思うくらいのもので、それが実感として分かることはない。
ところが、このように換気扇のファンを洗浄する場合のように、実際に、左利きの人であれば、何の困難も感じずに自然に扱うことができるような設計になっているものを自分が扱う必要に迫られると、左利きとして日常生活をするというのは、こういう状況にしばしば遇うことなのかと「我が身の感覚として分かる」。
それが、「かた(片)み(身)に/かたみ(互)に思ふ」ことに気づくこと、»wechselseitig«に考えてみること、「人の身になって」みることであり、その感覚なしに、単に「考えて見ろ」と言われて考えてみて「分かる」ようになることではない。 >「わかる」を貰おうとする人は哲学に向かない
哲学の言葉は、「自分で分かるように人に気づかせてしまう」のですよ。
他人に「思ひ知らせてやろう」などと考へるような人は、そもそも哲学することができない。 このように、なんのことはない日常生活の作業においても、哲学することは役に立つのである。 世間の人々は、哲学することは、自分の日常生活とはかけ離れた、何か雲をつかむような話について夢想することだと思い込んでいることがよくある。
それは、哲学をしていると自称する人々や、哲学を研究していると自負する人々が、なにかよく分からない日常の生活ではまったく使いようのない言葉ばかりを、さも大切なことを言っているかのような態度で話ばかりしているからであり、なおかつ、そのことで自分が他人より知的/道徳的に優位な立場にあるかのような得意げな態度を見せることも少なくないからだろう。
しかし、私にとって、哲学をすることは、ゆで卵を茹でた湯を使うのと同程度に、何ら日常生活と離れた特別なことではない。
それは、私が自分の金融資産を管理することと、哲学することがまったく切り離されたことなどではないと感じているのと同じである。 押してもだめなら引いてみな、は哲学ではないと思うぞ >肩身が狭い(読み)かたみがせまい
精選版 日本国語大辞典 「肩身が狭い」の意味・読み・例文・類語
かたみ【肩身】 が 狭(せま・せば)い
他の人や世間に対して面目が立たない。世間体をはばかる気持である。
※曾丹集(11C初か)「あふ事のかたみをせばみはるの野にわかなにつけてとしを摘みつる」<
この「かたみ」の用法から見て、「『かたみ』が狭い」の「かたみ」は、本来は、「肩身」ではなく、「かた(片)み(身)に思ふ」の「かた(片)み(身)」であったのだろうと推察される。 >>758
言ひ換へるなら「かた(片)み(身)」として「『臨在』して『ゐる』」ことが忘れられて、「存在者」、つまり、「『存在』する『もの』」としての「肩身(かたみ)」がそこに「あ(在/有/或)る」ことになる。
しかし、この言ひ換へを先に言ふと、世間一般の人々からは、「雲をつかむような話をしている」と思はれることになってしまうだろう。 >>756
人生哲学、真理の哲学一口に哲学と言っても人それぞれ 感覚のない哲学はないが、感覚の表現が哲学でないことを指摘したのがウィトゲンシュタイン 感覚のない哲学はないが、感覚の表現が哲学でないことを指摘したのがウィトゲンシュタイン >>1
ニュートン力学は「天と地を繋げる」というより
「地の連なりから天ができている」というものであった
万物は「地」からできているという諦念を持つことで
論理的思考が可能になる
天すらも地からできているという形而上学の計算式ができることになる
これこそ物理学の基礎となる哲学である
そして物理学の基礎の完成をもって哲学は完結する
哲学の役目は生物学や物理学の形式を問い質し完成させること
これによって現前の形而上諸学は淘汰吸収されるというポスト構造主義の最期を迎える
真理なき真理となる
論理的思考は鍛えるのではなく判別するためのもの
鍛えても筋肉ダルマになるだけ
論理的飛躍がないと判別したら謙虚さに代わって頭でっかちではなく手足を使うようになる
形式のみを語る僕の形式学は20講目にして完結してしまったが分析哲学はどうだろう
頭でっかちになって怒ってばかりいないだろうか
脳の筋肉ダルマになっていないだろうか
ソシュールから入るのがいいように思えるが >>758-759
現代の思想や哲学の分野の言説では、「分有」のような表現が使はれることがよくあるが、これは、やはり、存在者を前提とするからそのような表現になるのであって、日本語の場合、それぞれが「それぞれとして『ゐる』」ことそのものが「かた(片)み(身)として(『臨在』して)『ゐる』」こととして捉へられるのである。無論、欧米の思想や哲学においても「かた(片)み(身)」と同様の感覚について語られないわけではない。しかし、その感覚が語られる場合、モンテーニュやニーチェの例を見ればすぐに気づくとおり、その感覚について語ることは、「とも(友/伴)」という主題を通じて追及されることになるのである。したがって、「とも(友/伴)」の不在が「存在における欠落」としてあらは(顕/現)れることになる。ところが、日本語の場合、「とも(友/伴)」という表現は、それが存在者として捉へられる場合、随伴者や随行者のような主に従う関係において用ゐられるので、その違ひを意識せずに、友情や友について欧米の思想や哲学で語られているのを読んでも、表現されている感覚について大きく誤って解釈してしまう可能性が高いだろう。 また、欧米の言説においては、その不在が「存在における欠落」としてあらは(顕/現)れることにはならないような「友」、つまり、それぞれがまず何の欠落もなく孤立して存立しうる存在者でありながら、利害関係の共通性によって互いに「友」として結び合う関係は、そのことだけで、「陰謀的」/"conspiratorial"な性質を帯びることになり、そのようなものとして見られる。 >>730
>「鴨の羽色」/「みづみづ(瑞々/水々)しい・み(身)ど(獲/取)り」
私は、引用する歌に詠まれる「鴨の羽色」をこのように言ひ換へたが、「みづみづ(瑞々)しい」という日本語の表現に当てられる漢字は、
見てのとおり、通常、「瑞」であり、Wiktionaryでこの漢字を参照すると、その意味として、まず第一に、既に古語として使われなくなった用法として、それが"token made of jade"を表現したものと記載されている。
したがって、「鴨の羽色」/「みづみづ(瑞々/水々)しい・み(身)ど(獲/取)り」を英語で最も簡単に言ひ表そうとするなら、それを"jade green"と表現するのが妥当だろうと私には思はれる。
無論、"jade green"の「青馬(あをうま)」を実際に見たことのある人はいないだろうけれども。 「わかる」を与える人は気づいてほしいコミュニティ型。わかって貰おうという感覚の人。 とりあえず掲示するって行為自体公開したい欲求があるのは認めざるを得ないだろう 気づくかどうか、どこまでどのように気づくことになるのかを試しているのですよ >>758 ソタンさんの歌にある「かたみ」はさしあたり「筐」(カゴ)でしょうね。
そして「難(かた)み」(むずかしいので)が掛けられています。「肩身」はむろん
「相互に」も無関係。
>>770に関して、「ともに」は昔も対等の関係について言われたこと付言します。 こうやって、言っていることが伝はっていないことが確かめられる。 イイネを貰うSNSと同じ使い方ができるといっても得られる反応と求める水準で中身が変わる
いろんなもの(気づき)を>試していることになる 小さなことでも、気づいたことをいろいろ自分で工夫してみると面白い。
先日、小型のハンディ・クリーナーを買った。強力な吸引力でとても便利だ。
空気を強力に吸い込む機能は、逆から見れば、空気を強力に吐き出す機能でもある。
この頃のハンディ・クリーナーは、その関係をうまく利用していて、掃除機とブロアーの一台二役を兼ねている。
交換可能なフィルターは、水洗いもできるようになっている。
ただし、フィルターは紙製であるように見え、何度も繰り返して水洗いに耐えるようなものには見えない。
替えのフィルターは販売しているが、高い頻度で買い換えるのは金がもったいない。
そこで私が考えたのは、掃除機がフィルターに吸塵するように機能するなら、ブロアーとしての機能は、
フィルターからの排塵に使えるはずだということである。
さっそく、外したフィルターをブロアーにはめ込むことができるようにするアダプターをペットボトルの蓋から自作してみた。
すると、案の定、とてもうまく機能して、大きな塵を取り除いてから、小さなブラシを掛けながらブロアーで吹いてやると、フィルターから塵がきれいに除かれる。
こうして、掃除機を使うたびにブロアーも使ってフィルターをきれいにしてやると、毎回、吸引力の性能を最大限に発揮するとともに、フィルターを交換する必要性も最小限に抑えられることになるだろう。 >>772
"マガモ" & "頭部"で画像検索してみると、どういうイメージかよく分かる。 >>742
学校と職場とヤクザ界と免許試験では、「論理」は通用しないようですねwww >>742
伝統的古典論理学の第1章が通用しない!
ソクラテスは人間である。
人間はみないつか死ぬ。
ゆえにソクラテスは死ぬ。
これ↑は誤り!なぜなら、人間はソクラテスだけではないから(笑) ソクラテスは人間である、は人間なる集合がソクラテスを含意(→)するので正しいです
「1」は数字である、が正しいのと同様です
含意の特殊形態が等値(⇔、=)です
1→数字 は正しいが
1⇔数字、1=数字、は間違いです
「含意」は「等値」を含意します やっぱ、ソクラテスは三段論法でないみたいだな。
ここ( https://philarchive.org/rec/ISHHOW-3 )の119頁に書いてある 定言三段論法の簡単な例文
大前提:全ての人間は死ぬ小前提:ソクラテスは人間である結論:ゆえにソクラテスは死ぬ >>767
例えば、ニーチェは、互いに対等であると認め合ふ関係性を表現するために「友」/»Freund«という表現を使っているわけではない。
そのことは、ニーチェが、哲学する者のことを「孤独を友とする者」としている表現法からも分かるはずである。
»die gebornen geschwornen eifersüchtigen Freunde der Einsamkeit«
http://www.zeno.org/nid/20009255516
ここでまず自己を「存在者」として「人としてある」ことを前提にして、その人と対等の関係にある者を「友(とも)」/»Freund«であるとしたなら、
ここで、ニーチェが、哲学することをどのように捉へて、それを伝へようとしているのかうまく理解できない。
そのような前提では、哲学する者は、他人と一緒に居ることを嫌い、つまり、人嫌いで、自身の孤独を守ることにばかり関心のある偏屈な人であることにしかならないだろう。
しかし、私は、ニーチェがこのような表現法により伝へようとしているのは、そのようなことではまったくないだろうと思ふ。
というのも、私の理解では、ニーチェは、自身のことを「人としてあ(在/有/或)る『存在者』」であることを前提としてなどいないからである。
哲学することについての、上に引用したニーチェの言葉を、私なりに日本語として言ひ換へるとしたら、それは、次のようなものとなるだろう。
>哲学する者とは、生まれながらにして(「みづ(若)こ(子/児)」/「み(身)ど(獲/取)りご(子/児)」のごと(如)く)「かた(片)み(身)」としてひとりでゐる「もの/こと」をとも(友/伴)とするように「いは(祝/斎)は」れた/「のろ(祝/呪)は」れた者のことである。 万葉集 第14巻 3484番
>安左乎良乎 遠家尓布須左尓 宇麻受登毛 安須伎西佐米也 伊射西乎騰許尓
>麻苧らを麻笥にふすさに績まずとも明日着せさめやいざせ小床に
>あさをらを をけにふすさに うまずとも あすきせさめや いざせをどこに
(出典 万葉集ナビ) プロメテウス:
そこでおまえは心に感じるだろう、
まだおまえの知らない喜びや悲しみがいっぱいあるのだということを。
パンドラ:
ほんとうだわ!ほんとうだわ!私の胸はいつも憧れでいっぱい、
ああ何を憧れているのかしら、でもやっぱりすべてを憧れているのね。
プロメテウス:
すべてが充たされる瞬間があるのだよ、
われわれが憧れ、夢に見、願い、怖れたすべてが充たされる瞬間が。
いとしい娘よ、それが死なのだ。
ゲーテ、『ゲーテ全集4 戯曲』、「プロメテウス」、p.188 万葉集 第14巻 3484番
>安左乎良乎 遠家尓布須左尓 宇麻受登毛 安須伎西佐米也 伊射西乎騰許尓
>麻苧らを麻笥にふすさに績まずとも明日着せさめやいざせ小床に
万葉集 第20巻 4494番
>水鳥乃 可毛<能>羽能伊呂乃 青馬乎 家布美流比等波 可藝利奈之等伊布
>水鳥の鴨の羽の色の青馬を今日見る人は限りなしといふ
この2つの歌の明白な対照性を、それが明示的に指摘されて、説明されたとしても、なほ、まったく感じとることができないような言語感覚の人が、哲学することに向いているとは、私には思えない。 そのように言ったからとして、別には私は、「哲学することに向いて」いない人々を貶しているわけではない。
なぜなら、「哲学することに向いている」ことは、そのことにより、他人よりも世の中でよりうまく、より優位に生きることができるようになることをまったく意味しないからだ。 >>769
「馬」が日本語で「うま」と呼ばれることは、無論、中国語/漢字における「馬」の発音と直接につながっているだろうが、「馬」は、日本語で「うま」と呼ばれることにより/において、「うみ(海)」、「うま(旨)し」、「う(膿)む」などの一連の表現の系統に引き込まれて、英語で表現するなら"plenitude"(「いっぱいに満ちること」)を想起させるように用ゐられる。ただし、これが、日本語の形成において独特に生じたことなのか、もともと、中国語としての「馬」の発音にもそのようなイメージを想起させたものなのかについては、私は、その方面の専門家ではないので、知らない。
>馬
Short for 馬祖/马祖 (Mǎzǔ, “Matsu”).
>馬祖
After 媽祖.
>媽祖
媽祖 • (Maso)
Mazu (a sea goddess in East and SE Asia) 感性の働きは、どのようにしてうしな(失)はれる/忘れ去られるのだろうか。
それは、「みどり」を識別されて分類された色であるとし、「身(み)」を「体(からだ)」や「肉(にく)」と同一視し、「みづ」を「水(みず)」と互換であり、それを「化学式 H2O で表される、水素と酸素の化合物」と基本的に変わらないものと規定し、
「うま(馬)」を「ウマ」として分類された動物種としてしか認識しないような「物象化された物事の見方に拘る」ことによってである。
すると、言葉の表現が互いに違う「色」を指し示していれば、違う色について語られているのだから、そこで表現により伝へられていることは、直ちに互いに無関係であると判断されることになる。
ところで、上にも引用した万葉集の歌と、次に引用するシェイクスピアの台詞が並べられて、「みどりご」の「みどり」が、色としての「緑(みどり)」と表現として共通していると認識できたところで、他方のシェイクスピアの台詞で語られているのが、"rose"であるからといって、そこに同様の感性が働いていることに気づくことのないような人は、みづから(身づ柄/自ら)の感性の働きが麻痺していると言へるだろうと私は思ふ。
万葉集 第18巻 4122番
>雨降らず 日の重なれば 植ゑし田も 蒔きし畑も
朝ごとに しぼみ枯れゆく そを見れば 心を痛み
みどり子の 乳乞ふがごとく 天つ水 仰ぎてぞ待つ
(万葉集ナビ)
>LYSANDER: How now, my love! Why is your cheek so pale?
How chance the roses there do fade so fast?
HERMIA: Belike for want of rain, which I could well
Beteem them from the tempest of mine eyes.
(J. Bate & E. Rasmussen (eds.),
"RSC William Shakespeare Complete Works 2nd edition", p. 365) 模倣の表示感覚に流される人は「向き」が無い
従って「哲学」にも向いていないし、できない >>791
「ソクラテスは人間である、人間は死ぬ、ゆえにソクラテスは死ぬ」は三段論法ではなく、モーダス・ポネンスの変形である、という主張のようですね
三段論法 (A→B)⋀(B→C)→(A→C)
モーダス・ポネンス (A→B)⋀ A → B 変形 B ⋀ B→C → C
人間は死ぬ、というのは全称命題なのでソクラテスが含まれている
ゆえに、ソクラテス、ソクラテスは死ぬ、ゆえに、(ソクラテス)死ぬ、とモーダス・ポネンスになるという主張
ソクラテスの例が悪かったということで三段論法の否定ではないですね
日常言語での会話では揚げ足取りになりますね >>801
哲学することを始める手がかりは、いたるところに転がっています。
例えば、「流される」なら「向き」はあるはずでしょう。
風に「向き」があるのはなぜですか。また、「風が『吹く』」のはなぜでしょう。
ここで、私は、物理的な説明を求めているのではありません。
>>786で私は、ハンディ・クリーナーについて
>空気を強力に吸い込む機能は、逆から見れば、空気を強力に吐き出す機能でもある。
と書いていて、実際、そのハンディ・クリーナーは、一方の開口からは空気を吸い込む吸引機として機能し、その逆側の開口からは、それと同時に空気を吹き出す排出機として機能するわけですが、その時のモーターの回転がどちらの働きをしていると見るかは、道具としてどちらの用途で使っているかに依存しているに過ぎません。
であるとすると、風が「吹いて」いるならそれと同時に風は「吸っている」はずでしょう。
なぜ、風が「吹いている」と言うのに、風が「吸っている」とは言わないのでしょうか。 「運転免許の筆記試験の問題」のような例について哲学的に考えるときに大切なのは、「どちらが論理的に正しいか」などという「些事」ではないと私は思っています。
なぜなら、その特定の問題でどちらが論理的に正しいと判断されたところで、何も解決したりはしないことが明白だからです。
大切なのは、なぜそのような判断を惑わせる問題を意図的に設定しているのか、その設問の行為がどのような意味をもつのかを考えてみることでしょう。
というのも、受験者が、その問題にどのような判断を下したところで、それが交通安全を保つための運転における判断とは無関係であることが最初から明らかだからです。
では、いったい何を目的として、そのような問題を作成しているのでしょう。
それこそが哲学的に問ふ必要のある問題であると私は思います。 人々が、そのような「些事」にかまけることは、誰にとってどのように好都合なのか。 「向き」について考へることは、哲学においてつねに極めて重要なテーマでありつづけている。このことは、「向き」に対応するフランス語が《sens》であり、《sens》は、日本語にするなら、「向き」だけでなく、「感覚」にも、「意味」にも、さらには、《bon sens》として、「良識/公正な判断力」にも対応するようにつか(使/仕/遣)はれる表現だからである。 ここで、私は、フランス語の《sens》に通常、日本語として当てられる「意味」という訳語を用ひたが、「向き」としての用法との関連から考へるなら、《sens》を「意味」とするより、まずは「意向」という訳語を当ててみる方が分かりやすい。
さて、《sens》が、「風向き」などの「方向」と、「意に沿ふ向き」である「意向」のいずれの意味でも用ゐられる表現であるとして、「向き」と「意向」は、どちらが先だろうか。
このように問はれたなら、多くの人々は、「『意向』は、『意に沿ふ向き』を表現しているのだから、『向き』を「意の働き」に応用したもので、『向き』の方が先である」と応へるのではないだろうかと私は思ふ。
しかし、しかし、この一見すると当たり前のことに思えるこの判断は、あきらかに誤りであり、そのことは、明確に示すことができる。
ここでも、はっきりと示されるのは、「臨在なくして存在なし」/「『ゐ(居)』ることなしに『あ(在/有/或)』ることはない」ということであり、まず「意向を感じる」ことなしには、「向きがある」ことはあり得ないということである。
このことは、「風向き」を例にとって考えてみると分かりやすい。 >>803
>「流される」なら「向き」はあるはずでしょう。
>>801と正しく「向き合おう」
「向き」が無いのは、「流される」ことではなく「流される人」なのだよ。理性批判でもある モーターでファンを回転させて、一方の開口では、空気を吸引する働きをし、それと同時に、反対側の開口では、空気を吹き出す働きをする装置について述べたが、風の通り道にいる人は、単に物体として見るなら、ちょうど、その装置にとっての塵に喩えることができるだろう。
私は、「風が吹く」と表現するのに、なぜ「風が吸ふ」とは表現されることがないのかという問ひを示した。
ここで、「風向き」について考へてみれば、風の「向き」とは、風がどちらの側からこちらに「吹いて『く(来)る』」のかという方向を表していることにすぐに気づくはずである。
正面から吹いて来る風は、「向かひ風が吹いている」と表現される。では、その風向きが逆であった場合には、どうだろうか。
背後から吹いて来る風は、「追ひ風が吹いている」と表現されるのである。
つまり、風の向きについて表現する言葉は、吹いて来る風に「対面しようとする意向」と「追い立てようとする意向」を感じることを伝へているのである。
まず風に「意向が感じられて」、次に、それに対して、その「風の意向」が「風に逆らおうとする」または「風を利用しようとする」自らの「意向」の反映であるという反省が働いて初めて、
風が吹くことに「(風の)意向が感じられる」のではなく、風に「向きがあ(在/有/或)る」ことが意識されるのである。
したがって、この場合も臨在としての「意向」が忘れられることにより、存在としての「向き」が現れると説明することができるだろう。 >>767 >>770
ちょうど今、シェイクスピアの"A MIDSUMMER NIGHT'S DREAM"を読んでいるが、「友情」と「陰謀」の対比がまさしくここで述べたとおりに
そのまま台詞に出てくる。私は、シェイクスピアの作品に触れて、前掲の書込みをしたわけではないにもかかわらずである。
そのことは、この「友情」と「陰謀」の対比がシェイクスピアの作品のプロットによるものというより、より基本的な意識の働きの反映であることを示しているだろう。 まあ、気にくわないというのなら、「分析哲学ならでは」という成果を実際に示して見せることですね。それができなければ、いくら否定的に評価してみせる態度で優位を示そうとしたところで無駄ですよ。 >>812
myshakespeare.com/midsummer-nights-dream/act-3-scene-2-video-performance-helena-lines-192-219
A performance of lines 192-219 by Helena in Act 3, Scene 2 of myShakespeare's A Midsummer Night's Dream. では、どのレスが分析哲学を書いていて、どのレスがそうでないか、このスレで具体的に分類作業をして、提示してみせたらどうですか? バーグルエン哲学・文化賞受賞を取った分析哲学者はいるの? バートランド・ラッセルが 1950年にノーベル文学賞とってますよ スレの勢いが落ちてきているぞ。つまらん❗
見ていて暇潰しにならないじゃないか。もっと頑張れよ❗ 向きがあ(在/有/或)る」ことが意識されるのである。
したがって、この場合も臨在としての「意向」が忘れられることにより、存在としての「向き」が現れると説明することができるだろう。 臨在がなくなり存在が現れるのではないだろう
臨在より存在が先ですね >>826
一方で「『かた(片)』は(傍)らにゐる」ことを置き、他方に「『かた(肩)』がある」/「『かた(肩)』をも(持)つ」/「『かた(肩)』い(入)れする」ことを置いた場合、どちらの方が先だと思ひますか? だから文学ならば、どちらが先かとはヤボな話だが
ここは哲学なのでな
哲学ならば、その「かた」が方なのか肩なのか形なのか傍なのか〜〜〜を主張者が明示する必要がある
それが分析哲学の基本です では、英語で尋ねましょう。
"to stand by someone"の"by"と"to stand shoulder to shoulder with someone"の"shoulder"は、どちらが先なのか。"to stand by 〜"として「『かた(片)』は(傍)らにゐる」ことよりも、「『かた(肩)』」という「身体の一部分」の方が先に「あ(在/有/或)る」/「存在する」と考へるのでしょうか。 誤:「『かた(肩)』」という
正:"a shoulder"/「『かた(肩)』」という >バートランド・ラッセルが 1950年にノーベル文学賞とってますよ
分析哲学は、分析哲学としてではなく、文学としてしか評価に価しないということですねw 「根拠を示せ」、「証拠を示せ」と喚くのは、大抵の場合、ご主人様に忠実に仕へるただの門番か、悪くすると、言葉すらまったく通じないただの番犬であって、
そのような門番/番犬が要求している「根拠」や「証拠」というのは、人々の役に立つ用を済ませるためになぜそこを通ることが有効なのかを納得させる説明などではなく、
単に用件が何であれ、行先がどこであれ、そこを通ることの「許可証/お墨付き」をご主人様からもらって所持しているのかどうかだけである。
だから、門番/番犬になにをどう言葉を尽くして説明したところで、まったく無駄なのだ。
それどころか、番犬に言葉をかけたところで、一層激しく吠えたてて噛み付こうとするだけだろう。
ところが、そこを通って同じ用件で同じ行先に向かおうとするのが、ご主人様であれば、その門番であれば、丁重にお迎えして、お見送りし、番犬であれば、尻尾を振って喜んでご主人様に駆け寄り、門を通って行くご主人様の後を追いかけて行こうとするだろう。 ところで、そもそも、分析哲学のように周囲に壁も何もないとろこに門が建てられているなら、わざわざそのような門番/番犬を相手にする必要はさらさらないのだ。 >肩が先です
そうですか。では、まだ言葉らしい言葉を発することのできない幼児が「ママ」と発音するときも、「母親」、「乳房」の「存在」を示す言葉として「ママ」と発声していることが先であり、「お乳が欲しいという意」を声によって伝へようとすることの方が後ということになりますね。 別にこれは、「お乳が欲しいという意」として特定する必要はないのですよ。
何らかの欲求を伝へようとすることよりも、「母親」、「乳房」の「存在」を示す言葉として「ママ」と発声することの方が先なのですね? >>837
?
オッパイが先でママが後という話ですよ
肩が先で寄り添うが後
存在が先で臨在が後です
混乱してますか? それは身体の部分としての「『乳房』の存在」を指す言葉として「ママ」と発声していることをまったく意味していないでしょう。「乳房」という身体の一部分ではなく、「乳を与へられることによって得られる満足感を求めて」声を出しているのではないですか? >>840
>それは身体の部分としての「『乳房』の存在」を指す言葉として「ママ」と発声していること
だからそういう「ママ」はオッパイの存在より後です >オッパイの存在より後です
「オッパイの存在」が何を意味しているのかを先に説明する必要がありますよ? 「オッパイの存在」が何を意味しているのか?
生まれたての赤ちゃんが吸うのがオッパイです
ママと言葉を発する前でしょう 話をすり替えていますね。私は、言葉を話せない幼児が発する「ママ」という声について尋ねているのですよ? >言葉を話せない幼児が発する「ママ」という声について尋ねているのですよ?
言葉を発せなければ「ママ」と発せませんよ 中本さんへ
お薬が切れているのなら病院行きましょう
ほら、今日は休日ですから スレが活気を取り戻してきたな。
やればできるじゃないか。
飯を食べながらここを見物するのは良い暇潰しになるから、この調子で皆ずっと頑張れ。 >言葉を発せなければ「ママ」と発せませんよ
言葉が話せなくても「ママ」という声を発することは、できるでしょう。
ヒトの言葉を話せない鳥類でもヒトの話し声をそっくりに真似ることはできるのですから。
幼児が「ママ」と発する声が、言葉であると認められるかどうかは、それがどのように使はれていると認められるかに依存するでしょう。 私が尋ねているのは、幼児が発する「ママ」という声、その声をより正確に文字に移そうとするなら、"mamma"となるような声が、
名詞または名詞句のように使はれて「存在者」(それは、「母親」であっても、「乳房」であっても、「母乳」であっても構わない)を指し示すことが先なのか、
それとも、「乳を与へられることによって得られる満足感を求める」声として幼児の「意向」を伝へることが先なのかということです。 「仕事がなくては『お(御)まんま(飯)』の食い上げだ」といったような言い回しがあります。
この「おまんま」も、幼児語の"mamma"/「マ(ン)マ」と表現として共通するものでしょう。
別にそれが「乳房」や「母乳」を指すと限定しなくても、"mamma"/「マ(ン)マ」をより抽象的な「意味」を表現する名詞もしくは名詞句として捉へることは難しくない。
それを英語を用ひてメタ言語的に記述するなら、"mamma"/「マ(ン)マ」≒"satisfaction with plenitude"とでもすればいい。
すると、"mamma"/「マ(ン)マ」は、「母親」、「乳房」、「母乳」、「御飯」といったように別々に識別される対象としてではなく、「『まんま』と(/『うまうま』と)罠にひっかかりやがったな」と表現するような場合も含む(したがって、「『うま(旨)』し」まで含む)ような形で"satisfaction with plenitude"という抽象的な「存在者」を指し示す名詞句として扱ふことができることになる。
しかし、問題は、幼児が"mamma"/「マ(ン)マ」という声を発するときにその具体的な用例が示されると考へたとき、その発声はまず最初に、そのような名詞句として「存在者」を、つまり、"a being satisfied with plenitude"を指し示すようにつか(使/仕/遣)はれているとすることが妥当なのか、それともその声は、"to be satisfied with plenitude"という「意向」を伝へるように用ゐられることの方が先で、存在者を指し示す名詞的なの用法は後であるとする方が妥当なのかです。 スレが活気を取り戻してきたな。
やればできるじゃないか。
飯を食べながらここを見物するのは良い暇潰しになるから、この調子で皆ずっと頑張れ。 >>849
あなたはこういったのですよね
>「乳房」という身体の一部分ではなく、「乳を与へられることによって得られる満足感を求めて」声を出しているのではないですか?
これはオウムが「ママ」というのとは違いますよね
そういうママは、オッパイという存在がなければ発しないですよね
オッパイという存在が先だと分るはずです >Der Verkehr fließt zügig dank der Kreisverkehre und der zahlreichen Parktaschen.
「うまく(≒"satisfaction with plenitude"をもたらすように)・かむか(考)へ」られているのが「よ(善/良/好/佳)い・かむか(考)へ」であるが、哲学するとは、その都度、「うまく・かむか(考)ふ」ことができるように「よ(善/良/好/佳)く(≒「意にそ(沿/添)ふように」)・かむか(考)ふ」ことなので、哲学の営みに「を(終)はり」はない。 >当たり前のことです
だったら、「当たる」ことが先ではないですか? 当たり前というのは、わかりきった言うまで もないことです
「すべては存在が先」というのは当然のことだといったわけです
当然、当然が先であることも当たり前です 臨在が先のようですね
kotobank.jp/word/当前-2002410
@ 共同労働の収穫を分配するとき、一人あたりの受けるべき配当。一人前の分量
@ (副詞的にも用いる) 眼前にあること。また、当面している事柄であること。さしあたり。まのあたり。目前。
※俳諧・田舎の句合(1680)二四番「隣家の蛤より、当前のぬかみそを愛せんにはしかじ」
@ 目の前にせまっていること。さしあたってのこと。当座。 「分析哲学 これからとこれまで」を読んだ。
分析哲学はウィトゲンシュタインの頃が最高の盛り上がりで、だんだん薄まってきて100年経ったいまでは「分析哲学=哲学風」
となってしまった
と俺の考えと同じだ あの連投人ようやく意識のハードプロブレムの答えに帰った? >>860
「すべては存在が先」というのは当然のことだ
これは「すべては存在が先」は「当然」に含意するということです
一般に含意するものは含意されるものより先か同時です 向こう見てきたら戻ってた
もうこないでくれると助かるのだが 存在はオカルト
主客もオカルト
分哲はバカの暇つぶし しかし存在より臨在が先とは
何をどう誤解するとこういう考えになるのか
遁走したところを見ると、反論はできないが納得もできないということなのだろうね
困ったチャンはどこにでもいるようだ >>815
> まあ、気にくわないというのなら、「分析哲学ならでは」という成果を実際に示して見せることですね。
そうなんだけど、「カント哲学ならでは」とか「フッサール哲学ならでは」とかの成果ってあるのだろうか?
哲学って妄想のときは哲学で、成果を出してしまうと科学になってしまうのでは? スレの勢いが落ちてきているぞ。つまらん❗
見ていて暇潰しにならないじゃないか。もっと頑張れよ❗ ラッセルのノーベル文学賞は成果だと思うぞ
実際に確定記述は議論に有効だ 荒らしの書込みがなくなって、分析哲学本来の実力が遺憾なく発揮されている 3分でわかる! ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』 富増章成
君たちにはこれを勧めるよ。これを読んでからの質問ならば俺が教授してやるぞ カール・ポパー 対 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
第二次大戦直後のケンブリッジの密室で約三十人の聴衆で込みあった室内で生涯ただ一度対面したとき、ポパーの言葉を議長ウィトゲンシュタインが遮り、激しい応酬、興奮したウィトゲンシュタインが暖炉の火かき棒を振り回し、ポパーの痛烈な皮肉を浴びて部屋を飛び出していった ウィトゲンシュタインは「天才らしく振舞うことの天才」だから、 Tiktok LiteでPayPayやAmazonギフトなどに交換可能な4000円分のポイントをプレゼント中!
※既存Tiktokユーザーの方はTiktokアプリからログアウトしてアンインストールすればできる可能性があります
1.SIMの入ったスマホ・タブレットを用意する
2.以下のTiktok Liteのサイトからアプリをダウンロード(ダウンロードだけでまだ起動しない)
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3.ダウンロード完了後、もう一度上記アドレスのリンクからアプリへ
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家族・友人に紹介したり、通常タスクをこなせば更にポイントを追加でゲットできます wiki ウィトゲンシュタインより引用
命題 1.*-3.* とその補助命題の主要テーゼは、ウィトゲンシュタインの写像理論である。
・世界は相互に連結された諸々の原子的事実の総体からなっており、一方で命題群は世界の「像」を為している。
これは間違いです
世界は事実だけではなく虚像でも構成されています
小説などがいい例ですね >>884 いや。誰かが「メロスは激怒した」と書いたり、ほかの
誰かが「あメロス、激怒したんだ」と思うという事実があるんですよ。 >>885
そのメロスは虚像です
ウィトがいう「原子的事実の総体」などではなく虚構ですね >>>888 メロスという虚像を思い描くという現実の出来事がある。 メロスという小説は虚構です
その小説を読むという事実はある
これらは別のことですね
つまり、ウィトのいうこれ↓は間違いを訂正しなければならない
・世界は相互に連結された諸々の原子的事実の総体からなっており
↓訂正
・世界は相互に連結された諸々の(原子的)事実と虚構の総体からなっており
・ Wittは
The limits of my language mean the limits of my world
と言ってるでしょう。
だから、虚像が先なんだよ。 「世界は相互に連結された諸々の原子的事実の総体からなっており」という虚構からstartしよう 適当なポエムでごまかさないでくださいねw
>>892
The limits of my language ということと虚構はまったく別のことです
ウィトの言語の限界は語彙が足りないだけじゃないかなw
>>893
ウィトは事実としてその言明を発しているでしょう
ウィトは真面目すぎるような人ですからね ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は、その前提において事実のみを扱い、人類の思考に有用な虚構が欠落している
ゆえに結論も欠落したものになる アインシュタインの『相対性原理』は、その前提において事実のみを扱い、人類の思考に有用な虚構が欠落している
ゆえに結論も欠落したものになる オーベルシュタインの『ナンバー2不要論』は、その前提において事実のみを扱い、人類の思考に有用な虚構が欠落している
ゆえに結論も欠落したものになる 横だけど「事実のみを扱う」と前提として事実のみを扱うのは真であるが、そうでない場合、例えば虚構の意味を問いたいんじゃないかな。 >>896
相対性原理は事実についての原理ですよ
虚構を扱う相対性原理はありません
>>897
オーベルシュタインは虚構なので『ナンバー2不要論』も虚構ですね
ウィトには理解できないでしょう
>>898
ウィトに虚構に対する考察は無いでしょう
虚構を指摘すれば、火かき棒を振り回して暴れちゃうんじゃないかな >>899
考察は無いというか、独り言にされちゃうかもね
前期 >>894 「ウィトの言語の限界は語彙が足りないだけじゃないかなw」
ここは君の理解が完全に間違っているから、再考した方がいいよ。 エーディトシュタインの『十字架のヨハネに関する科学の研究』は、その前提において事実のみを扱い、人類の思考に有用な虚構が欠落している
ゆえに結論も欠落したものになる ベルンシュタインの『社会主義のための諸前提と社会民主主義の任務』は、その前提において事実のみを扱い、人類の思考に有用な虚構が欠落している
ゆえに結論も欠落したものになる >>901
「説明できなければ理解したと言えない」アインシュタイン
ウィトの「言語の限界」は、理解していないということですね
>>902
ヨハネはイエスと同時代の人なのでその研究が「事実のみ」ということはあり得ない
虚構を含んでいますね
>>903
誰であれ理論家の理論は実証されない限り事実だとはいえません 誰であれ理論家の理論は反論されない限り事実じゃないともいえませんけどね シャルロッテ・フォン・シュタインの『ディードー』は、その前提において事実のみを扱い、人類の思考に有用な虚構が欠落している
ゆえに結論も欠落したものになる ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタインの『10月勅命』は、その前提において事実のみを扱い、人類の思考に有用な虚構が欠落している
ゆえに結論も欠落したものになる 理論というのは実証されなければ事実ではありませんね
実証されない理論はたくさんある虚構の一つです
詩は芸術による幸福を目指すので事実か否かに意義がありません
政治は政策による幸福を目指すもので、虚構であれば意義がありません
事実のみを扱うのは当り前のことですね
哲学は真理を目指します
真理は事実、虚構に縛られません ローレンツ・フォン・シュタインの『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』は、その前提において事実のみを扱い、人類の思考に有用な虚構が欠落している
ゆえに結論も欠落したものになる スレが活気を取り戻してきたな。
やればできるじゃないか。
飯を食べながらここを見物するのは良い暇潰しになるから、この調子で皆ずっと頑張れ。 ホルスト・シュタインの『シューベルト:交響曲全集』は、その前提において事実のみを扱い、人類の思考に有用な虚構が欠落している
ゆえに結論も欠落したものになる 哲学は「通念吟味」の学問。
学界や世間では当たり前のこととして通用している常識を、本当にそれが正しいかどうか、俎上に乗せて検討する。 哲学=観念論、 物理学=実在論
どちらの世界観が勝つか? または両立するのか? 意味が観察可能な事実に準拠するのか、人間が恣意的に決めたルールに準拠するのかの違いでは? そうだとしても、線引きが難しいことも多々ある。
たとえば、ビッグバーンなんかは、観察可能な事実なのか?恣意的に決めたのか?は区別が難しい。 実験結果に基づいた予測は正誤は抜きにして観察可能な事実に準拠しているだろう >>924
逆に言語の意味がでたらめなら数記号も意味が通じやしないし、実験以前に理論上妥当な仮説なしに実現もしない。
数学もそれ自体で完全じゃないことは不完全性定理で証明済みだし。 >>927
前半は○だけど、後半は×だな。
素人が「不完全性定理」という語を発するとすぐド素人であることがわかってしまうよ。 同意
「不完全性定理」という言葉を適切に使えるのは、数学者のしかもその一部だけ
証明がすらすらできないのならば、使わない方がよい。 第一不完全性定理 とは、ある条件を満たす自然数論は、 どんなに工夫してもその中に証明も反証もできない論理式が存在するというものです。 ある条件とは、 感覚的に説明すると「コンピュータで扱えて矛盾がない」と思えば大体合ってます。 もし、全ての論理式が証明あるいは反証できるなら完全である。 >>931
突然、分析哲学と無関係なことを言われても、返す言葉がないよ。 数理論理学と理論物理学が無関係であるように、数理論理学と分析哲学は無関係という意見には賛成する。
そうだとしても、理論物理学は困らないけど、分析哲学は困るよね。
だから、大御所が「ちょっとは関係があるんだよ」と言ったのでは? 数理論理学はしばしば集合論、モデル理論、再帰理論、証明論の4つの領域に分類される。これらの領域はロジックのとくに一階述語論理や定義可能性に関する結果を共有している。
理論物理学は 計算や推論などの理論によって研究する、理論的な模型や理論的仮定(主に数学的な仮定)を基に理論を構築し、既知の実験事実(観測や観察の結果)や、自然現象などを説明し、かつ未知の現象に対しても予想する物理理論を扱う分野のこと。
関連性浅くはないよね 分析哲学では哲学的問題を表現する言語形式を分析し、意味を明確化することによって解明または消去されるべきだと主張する。
記号論理学を用いた論理分析を重視する人工言語学派(前期ウィトゲンシュタイン,カルナップなど)と日常言語の使用形態を緻密に分析する日常言語学派(後期ウィトゲンシュタイン,ライル,オースティンなど)とに大別される。
記号論理学と数理論理学は数学の分野の一つで論理の構造を研究する分野、記号論理学を用いた論理分析を重視する人工言語学派の文哲との関係は深い それ言ったら先人の知識はすべて人の褌にならないかw >>935 関連性浅くはないよね
分析哲学者は、素人相手に>>935のような偉そうなことを言っても上っ面しか知らないから、数学者や物理学者から逃げまくっているからね。
最近では、「科学哲学」というと科学者が興味を持つから困るという理由で、科学哲学という講座もほとんどの大学ではなくなってしまったよね。 >>940
別に偉そうなことでもなんでもないよ、Wikipediaに書いてるぐらいだから誰でも分かるでしょ。 そうかなあ?
ゼレンスキーをほっといたら、バイデンがウクライナを拠点にしてベラルーシを侵略したんじゃない?
北欧はとりあえずロシア圏の侵略はしないと思うな。 種苗法に反対した柴咲コウも頓珍漢な事言ってて蓋を開けてみたら中国の農業関係者とファーム経営してたのがばれてました。
小泉今日子もイメージアップの為のファッション左翼なんでしょう、というかこの人赤旗の常連ですね
共ン共ン. 能登災害では、ついに過疎地の社会インフラの放棄が始まっているみたいに見えてしまうね。
維新による効率重視政策の問題点だろうな。
老人や障碍者といった弱者は社会として切り捨てていくべきだ、という明確なメッセージにはなってる レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。