ここで、私は何か宗教的なことを言おうとしているのではない。
例えば、極めて単純な具体例として、またしても、似非数学的な喩を用ゐることもできる。

円周率πが、計算に利用できるのはなぜだろうか。
それが「数値」として計算されてあら(顕/現)はとなっていなければ、結果として数値を求める計算には利用できないはずだろう。
ところが、円周率π「そのもの」は、決して算出済みの数値、つまり、「存在者」と認められる、かぞ(数)へられた数としてはあら(顕/現)はれ得ない。
数値計算に用ゐることができる円周率πは、つねに既に、その「存在者」としての身分が仮に認めらるかぞ(数)へられた数、つまり、小数点以下の桁がどこまで算出されていようと、
かぞ(数)へられた分子とかぞ(数)へられた分母の比である(つまり、「臨在」を意識させる中国語の「比」に対応する数学記号の"/"を使って示される)分数として書き換へられた近似値である。
では、かぞ(数)へるとは、どのようなことかと言へば、それは「単位」/「周期」として「『ぴた(一)り』とあ(合)ふ」ようにすることであり、それが、分子、分母それぞれにおいて数へられる数としての"1"であり、
その「臨在」が意識させられることにより、それに対して円周率πの存在が「さ(去)ら(/晒)され」て、「近似値」という仮の「存在者」の身分で孤立して姿をあら(顕/現)はすことになる(-1)^((π-π)/π)=(-1)^(0/π)=e^(i*0)=1である。
つまり、円周率πが「近似値」として用ゐられるということは、すなはち、e^(i*0)=1が「臨在」として意識させられているということである。