>>556
同様のことを、より簡単なことばで説明することもできる。
しかし、すると、今度は、ことばがどのようなことを説明しようとしているのかについて、具体性が失われ、抽象的にしか感じられないことばがどのようなことを指しているのかが伝はりにくくなる。

臨在が意識されるとは、それが存在者の特性が顕現することの戻り、つまり、存在者の特性が消失することとして意識されるということである。
しかし、そのように説明することは、ことばにして説明しようとすることにより余儀なくされる倒錯である。
なぜなら、存在者の特性は、まず臨在が意識されなければ、「存在者の特性」として顕現することがないからである。
その特性がどのようなものとされるにせよ、それが消えることによって臨在が意識され、臨在が意識されることに対して、特性が存在するもの、つまり「存在者の特性」として顕現するのである。
さらに、「存在者」の「特性」は、その顕現が、「存在者」に帰せられるものとはっきりと認められることにより、今度は、臨在の方が意識されなくなり、臨在は忘れ去れるのである。
すると、円周率πは、いまだに計算し尽くされてはいないというだけで、あたかも、あらかじめ数値として存在する数であるかのような錯覚が生じるのである。
さらん、円周率πを近似値として便利に用いる数値計算が、その錯覚を強化することになる。