記号論的に言へば、まず「ひと(人/一)」が存在して、つまり、「ひと(人/一)」が存在者として「記号を媒介する働き」をする/"semeiotic mediation"を行ふのではない。
そうではなく、「記号を媒介する働き」/"semeiotic mediation"があらは(顕/現)れることが、「ひと(人/一)」が「ゐ(居)る」ことであり、それをひるがへ(翻)して「概念化」して捉へようとするなら、それが「臨在」なのだ。