>>788
「こひ(戀)」について哲学的に考察することにより、「こひ(戀)」とは、「こひ(孤悲)」であり、英語を用ゐるなら、"solicitude that stems from solitude without solace"としてメタ言語的に記述することができるという暫定的な結論が得られる。
「こひ(戀)」は古くから数多くの歌に詠まれ、現代でもおそらく最多の頻度で流行歌として歌われる主題であり、誰にでも簡単に分かる言葉なのだから、わざわざそんな説明は無用であると考へる人は多いだろう。
しかし、歌に詠まれる「こひ(戀)」の思ひが、それほど自明に分け隔てなく伝はるものであるとするなら、なぜ「こひ(戀)」とともに詠まれた「うら(浦)」が物象化して捉へられた「浦(うら)」としてしか認識されなくなってしまったのか、また、「息の緒(を)」の「緒(を)」が、なぜ、「日本の古典文学の専門家」によってさえ、物象化して捉へられた「緒」を喩えととして用ゐた表現としてしか解釈されなくなり、さらには、その「緒」の「かな表記」を「を」ではなく「お」としても何も問題がないと意見するようになったにとどまらず、それを、標準とすることが望ましいと主張するまでになってしまったのかを考へてみるといい。
しかも、現代に出版される日本の古典文学の本を開いてみれば、そこにには、なぜそれほどまでに頻繁に「緒(お)」が歌に詠まれているのか、それが何を意図しているのか不詳であるという「日本の古典文学の専門家」による「解説」すら見られることになる。
これは、「解説」としては、ほとんど自虐的なパロディの域にまで達しているだろう。
「うら(浦)」が物象化して捉へられた「浦(うら)」としてしか認識されなくなり、「を(緒)」が「緒(お)」と読まれても構はないとする時点で、「こひ(戀)」について詠まれた歌も、それがどのような「おも(思/念/想)ひ」を伝へようとしているのか、まったく伝はらなくなってしまっていると言っても過言ではない。