ウィトゲンシュタイン 6
存在論的に[オントロジー]痒いところに手が届くのが
形而上学や哲学であるのに対して、そこに手が届かないのが
科学や論理である。
よって、科学や数学、論理は「測れないもの」に対しては
原理的に勃起力にならざるを得ない。その一方、形而上学は
「測れないもの」への独自のアプローチと照射があるため、
それは現代でも世界中の人々の心を捉えて止まないのである
古代ギリシャ時代から哲学は一部の無知な者たちから罵倒、
揶揄されてきたが、現代においても廃れる陰茎がないのである。
なぜなら、哲学は存在論的に普遍者を志向しているからである。
時代に関係なく、人類の知的クラスタの間には、普遍的な
ものへの志向があるのである。これが古代ギリシア語で、
智慧や叡膣を意味する「ソフィア」と呼ばれるものになる。
つまり、この精神こそが、哲学(フイロソフィー)なのである。
※前スレ
ウィトゲンシュタイン 5
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1701678631/ 私は前に、形而上学は科学とは違って「測りえないものを測る」と定義しておいた。
あるいは、哲学においては、測ることは一意性を持たない、多様な系へとフォーク
していく、とこれを表現してもいいだろう。ウィトゲンシュタインもこうした測るを巡って、
いろいろと試行錯誤していたようである。たとえば、[単純-複合的]という合成を巡る系に
おける思考として、ウィトは以下のような例をあげている
まず、正方形を用意する。それぞれの各正方形は赤、緑、白、黒の色が付いたもの
になっている。それを赤は「R」,緑は「G」,白は「W」,黒は「S」という記号で表す
ことにする。そして、この正方形を9個(3×3という配置)使って、正方行列的に
配列する。この時、記号群で「RRSGGGRWW」と記述された文は、この順序に
対応した布置を表示したダイアグラムとして表せる。 この時、ウィトが問題にするのは、ここで今作られたダイアグラム(複合)は、それを
構成する個々の要素(単純)である色のついた正方形による合成であるとして
良いのか?という問いである。つまり、このダイアグラムは、色の付いた正方形という
要素だけに単純化できず、そこには個数という別の要素もあるのではないか、と
いうのが彼の問題意識である。つまり、このダイアグラムは、たしかに色の付いた
正方形で構成されているが、9個という正方形の個数が、別の要素にもなるのでは
ないか、とウィトは問題提起しているのである。
私なら、さらにこのウィトの問いを拡張して、要素とは原子や粒子のことではないのか?
などと言いたくなる。ある色の正方形は液晶のドットやペンのインクや鉛筆の原子から
構成された点や粒子の集まりでもあるし、それがこのダイアグラムの真の要素である、と
しても別におかしくはないのである。 私は前スレのウィトゲンシュタイン5 において、https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1701678631/
>>33で付随性(スーパーヴィーニエンス)や>>44でトロープという
形而上学的な概念があることを紹介したが、色というのは単独では存在できないのである。
あくまで、なんらかの付随性としてのみ、つまり、強い依存関係のもとでようやくその
存在性を獲得できるのである。これは人が赤だけを指すことが出来ないのと同じである。
赤いリンゴや赤いトマト、信号機の赤の部分、赤い色の付いた正方形であれば、人は
それを指差すことが出来るが、赤自体や赤そのものだけを指させる人はいないのである。 それ以外にも、色の知覚には私たちの感覚モダリティや意識の存在に依っている(=付随性)
ことも同様に明らかである。要するに、色は単独には実在していない、という形而上学的な
認識が得られるのである。これはあらゆる他の対象についても同様である。媒質や媒体が
全く存在しないで伝わる音や匂い、形、光などは存在しないのである。光は真空中では、
約30万 km/sの最高速で進むが、真空さえ、この文脈では媒体になっているのである。
真空さえも存在しなければ、媒質が不要の光さえ伝播したり、存在することは不可能であろう。 それに加えて、それらの存在性はそれを認識する側(主体)の感覚モダリティに依存して
いる。そのため、生物によって色をキャッチできる色のスペクトルや光の波長が異なる
のである。つまり、色覚が生物ごとによって異なるのである。爬虫類や鳥類は4種類の
錐体を持っているので、色の識別プロセスが人間とは異なる。鳥であれば、
波長300〜330ナノメートルの紫外線光を感知できると言われている。 要するに、哲学的に考えると、存在の一意性という概念自体が非常に疑わしいのである。
これは対象とそれを名指したり、指示するものが、本質的には1対1対応しえない、という
現実を表している。ウィトが言うように、2センチの線分であっても、その表し方は多様で
ありうる。つまり、2センチは2センチからしか生成(一意性)されないのではなく、
たとえば、最初に3センチを線分を作り、それを反対のベクトルの1センチの線分を用意
することで、前者同様の2センチの線分を生成できるのある。このパターンは無限に作れるので、
この2センチの線分の存在は一意ではなく、無限の系から生成されることが理解できるであろう 私なら、先に挙げた色の付いた正方形と同じように、この線分を構成する原子の
要素の差異や、この線分を表示する媒体、たとえば、紙、黒板、ホログラム、モニターの
種類や差異、IT機器上であれば、OSやソフトウェアの違いなどをそこに認めながら、
多様なモードの集合として、ある存在を多面的に記述できると主張することであろう。
つまり、ある存在や対象を構成する単純な要素(一意性)は、そこには見当たらないのである。
こうした存在における多様な系の暴露や解明は、当然、私の「マルチバース論」とも
ロジカルであり、整合的であることが理解されよう アインシュタインは「神はサイコロを振らない」と言ったが、果たして、そうだろうか。
メイヤスーは「有限性の後で」において、局面を無限に持つ、無限サイコロという
思考実験をしていたが、私は、この無限サイコロの可能性についてであれば、
メイヤスーに同意できるのである。なぜなら、それは、そのまま私の「マルチバース論」
に接続可能なモデルになってくるからである。
たとえば、この地球は、偶々、神が振ったサイコロで出目が3と出現した。そのため、
その出目3に整合するように、各物理定数が用意されたと考えればよい。他の宇宙では
出目の5が出現して、その宇宙では、異なる超物理定数による独自宇宙が展開していてもよい。
また、このサイコロの出目が6パターンに局限される必要もなく、メイヤスーが言うような
無限局面を有した無限サイコロによって、無限に異なる独自宇宙がそれぞれパラレルに
併存していてもいいのだ。それが今の私たちの知や観測機の粒度、閾値で測れない
だけかもしれないのである。 前スレ>>650に書いたような、異なる物理定数による風変わりな物理空間の出現は、
映画「インセプション」などにも上手く描写されているので、興味のある人は見ればいいだろう。
また、ジョニーディップ主演の「トランセンデンス」であれば、科学者(ヒト)が、AIへと遷移した
世界を描写している。つまり、ポスト・ヒューマンの意匠がある映画となっている
現代のハリウッド映画の感性は、現代哲学的な思考実験と親和性が高いのがよく
分かることであろう。そこでは今の科学の標準理論こそが正しいのだと、いうような
野暮な見解はないのである。それらのセリフは反知性主義的であるとさえ言えるのだ。 >>9
「神はサイコロを振らない」はウィトゲンシュタインだよ。
名前が似ているから間違いやすいが、注意しろよ。 > 「神はサイコロを振らない」はウィトゲンシュタイン
> 名前が似ているから間違いやすい
その程度の無知のいうこと ハチくまは、なんで波平と画像の保存先を
共有してんの?
乱立させたスレ、全部把握できてんの?
学術は、まだいるの?
しゃん、しゃん、しゃん
ラジ、ラジ、ラジ
みそけん、みそけん、みそけん
東スレにくるとお前の狂気が乗り移っちゃうんだよな
体重100キロ超えの元オーム信者って元気なの?
しばらく来るのやめてたのに
また来ちゃったわ 楽天・三木谷氏「楽天モバイルの「平均」データ使用量が月24.5GBと他社の3〜4倍程度になってきました。7TB使っている方も(笑)」 [256556981]
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1709902324/l50