>>110
例えばウルトラマンは実在しないけれども、みんなで共有されています。
さて、ウルトラマンと富士山との決定的な違いとは何でしょう?
私はどちらも内面に現れているものとして、本質的な違いはないだろうとみています。

私が富士山(物質)が幻想であろうと考えるのは、意識のハードプロブレムに関わります。
例えばその富士山の観測は、認識上、富士山に反射した太陽光を網膜がとらえ、電気信号か何かが神経を伝って原子の塊である脳に伝わり、そしてその信号か何かがそのような脳で色や形に変換されるみたいなかんじだと思いますが、
ところが一般に、その変換がナゾとされています。いわゆる意識のハードプロブレムです。
そのナゾの解決にはいくつかのパターンが想定されるだろうとは思いますが、私が知る限りからの私の予想では、そもそもそんな変換は無い、そもそも物質としての脳は存在しない、富士山や脳などの物質とされているものは内面に現れているものに過ぎない、

で、そのように考える理由ですが、
物質は常に精神的なものとして現れ、物質そのものが観測されることがない、実在する直接的な証拠が無い、
世界が物質と精神との二重構造をもっていることに必要性とか必然性とかを感じない、むしろ不自然に思える、
物質が無かったとしても体験世界は成立する可能性がある、むしろ物質を想定すると理解が困難になる印象のものがある、むしろ無いとしたほうが整合する可能性を感じる、
物質という概念の発生起源が疑問、

物質が存在しないことを想定して考察した結果で物質の存在を結論付けたのならその考察の過程をお示しいただきたいのですが、その考察が無いのであるあらば「富士山は存在する」こそ思い込みではないですか?