意識のハードプロブレムの答え40
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1の考え。
客観はある種の主観である。
脳神経系を含む客体は主観を精緻に表現=代表したものである。
他者の意識は存在しない。
仮に存在すれば、それは主体の意識の内側に存在する。
他者の意識と呼ばれるものは他者の声である。
それを他者の意識のように思うのは主体にとって声は極めて意識的であるからである。
あらゆる主観は客観化可能である。
例えば、クオリアは立ち止まりとして客観化可能である。
根源では主/客の関係は消失する。
例えば、どこかで雷が鳴ったとする。
その雷は独立性の高い形式での私である。
語り得ないことは語り得ないと語り得る。
無は無い。
意識のハードプロブレムの答え39
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1704062362/ 100年前に哲学が死んだ経緯
・ラッセルのパラドックスが発見され通常の論理学では回避できないことが判明
・ラッセルはパラドックスは論理学の仕組みに問題があることを見抜いてパラドックスがそもそも起こらない論理学の仕組みを構築(自己と自己言及を明確に区別して混同しないルール)
・ウィトゲンシュタインはラッセルの弟子であり論理学の仕組み追求しようとした
・ウィトゲンシュタインは新しい矛盾のない論理学で何を言えるのか研究したところ形而上学や哲学を論理的に扱うことは不可能であることが判明
・形而上学や哲学は論理学を誤って用いたことから生まれる全く意味のない妄想であることを指摘した
・このプロセスは論理哲学論考において数学の証明として掲げられている
・現在までにこの証明に反証出来た人間は歴史上1人も居ない
つまり100年前から哲学者を名乗った時点で不勉強な無知または詐欺師であることは確定している
賢い哲学者というのは論理的に存在不可能
低学歴すぎて証明の意味すら理解できないのかwwww
数学で証明されたことは本人の希望で撤回したりできないぞ?
自殺したら?脳障害
ウィトゲンシュタインが泣いて謝っても哲学が無意味であるという証明を変えることは不可能
撤回も転向も全く不可能
死んで詫びても無意味 中国語の部屋→中国語を理解しない人たちを部屋に閉じ込めてマニュアルに従って作業させたら中国語を理解してないはずのシステムなのに中国語を理解しているかのように見せかけられるため機能を模倣しても真の理解や知能を作ったことにはならない
これサールという知恵遅れの妄想
無知なので計算量理論を知らない
計算量理論の世界ではノーフリーランチ定理というものが証明されている
これは「あるアルゴリズムが全ての問題について得意ということはあり得ず、アルゴリズムによって得意な問題と苦手な問題に別れる」ということを証明している
つまりあらゆる問題を与えたときに処理を終えるまでの時間がアルゴリズムによって異なるため
あらゆる問題を与えたときの処理時間が全く同じなのにアルゴリズムは異なるという状態は論理的に存在出来ない
よって「中国語の部屋」はあらゆる問題を与えたときの処理時間で測れば良い
それが中国語を理解する中国人を全ての問題について上回っていれば、中国語を理解する中国人のアーキテクチャ・アルゴリズムを真に上回っているということでありより深い理解をしていることになる
サールの知能ではこういう計算をできないのでバカを晒したってだけ
つまり意識のハードプロブレムなど存在しない
哲学者の思考能力にハードプロブレムがあるだけ 哲学的ゾンビ→物理状態が同じなのにクオリアの有無とやらの違いがある哲学的ゾンビなるものが想像可能という主張
「クオリアの有無」は少なくともの1ビットの情報記録を必要とする
チャーマーズは知能が低すぎるから情報熱力学を知らない
1ビットの情報の違いがあるのに物理状態が全く同じなどということはエネルギー保存則に反する
同じ物理状態なのに「クオリアの有無」なる1ビットをさらに書き込めるという想像は物理状態を変えずに1ビットの情報を書き込めるという主張そのものになり情報熱力学から1ビット分のエネルギーを物理状態を変えずに取り出せると主張したことと等価になる
つまり何もないところから無限にエネルギーを取り出せるという主張と哲学的ゾンビは等価であり
そのようなことは想像すら不可能
つまりチャーマーズは生きてて恥ずかしいレベルの低学歴脳障害 つまり科学なんて知らない無知が「俺の妄想する科学では解明できない」と吠えてるだけだからなんの価値もない妄想 脳障害チャーマーズの知ってる「俺が妄想する科学」と
人類にとっての科学は全く異なるものだからチャーマーズは科学に対して何も言及してない
顧みる価値すら無い無意味な妄想
哲学は人間の愚かさのショーケース 情報熱力学は想像すら物理変化を要求する
物理的に同じなのに想像するのとしない両方の状態を取ることは不可能
クオリアなる妄想を想像するだけで物理変化するから哲学的ゾンビなど想像すら不可能
想像可能性論法とか自殺しろ
そもそも論理的に想像不可能だから
そんなことすらわかってない時点で論理的思考力0 脳に電極刺して測ったり刺激するだけでは、捉えきれない、それがクオリア
クオリアは情報熱力学でも物理学でも、捉えきれない
クオリアは唯有る 脳に電極刺して測ったり刺激するだけでは、捉えきれない、それがクオリア
クオリアは情報熱力学でも物理学でも、捉えきれない
クオリアは唯有る 脳に電極刺して測ったり刺激するだけでは、捉えきれない、それがクオリア
クオリアは情報熱力学でも物理学でも、捉えきれない
クオリアは唯有る
ん? 世界を構成するものは、それがどのようなものであれ、互いに関係を持ちあっているわけですが、
そこで交換されているものはどのようなものなのか。
私は「情報」だと思う。
「エネルギー」は無いと思う。
エネルギーの交換にはハードプロブレムが生じる。気がする。 情報の交換とは、例えば「バーカ」
「バーカ」の意味は「氏ね」かもしれないし、「I love you」かもしれない。
交換しているのは「バーカ」の方ではなくて、「氏ね」とか「I love you」の方。
「バーカ」は違う表現でも可能。 人間は世界認識にバイアスをかける。
バイアスが多いと不安定になる。
バイアスが少ないと不幸になる。顔が歪む。 「現象意識」という概念は普遍だろうか?
1万年前も、1万年後も。 >>16
顔が歪むのはバイアスが多いときかな?
バイアスを減らすと表情が無くなるというかんじのような気もする。
いずれにしても検証が必要だろうけど (*ノω・*)テヘ 脳皺さんの基本は「世界をシンプルに捉える」とのことですが、
私の基本は「「私」とは何なのか」のようです。
どのような仕組みで成り立ってるのか、「世界を捉える」というのはどういうことなのか、
「世界」とは、多分、鏡像でしかない 「人生は夢」ではなくて、「人生(体験)は夢と同じ仕組みで現れる」です。
何なら「夢」も現実の一部です。 >>16
>バイアスが多いと不安定になる
バイアスが多いとアイデンティティの維持が不安定になる傾向がある こんなもんカネ払ってまでやるもんじゃねえな(前は払ってた) >>21
バイアスが多いと、安定するが、驚きに少ない人生になると思う 心身二元論は、伝聞と体験の二元論ではないかと思ったりもする でこすけ氏、前のスレッドで「富士山は在ると知っている」と書かせていただいた。
エネルギーは無い、とはどういう解釈ですか。富士山はどうですか? アホは意味も分からず似たような言葉をぐるぐる回してるだけだよなw >>11
情報熱力学は想像すら物理変化を要求する
物理的に同じなのに想像するのとしない両方の状態を取ることは不可能
クオリアなる妄想を想像するだけで物理変化するから哲学的ゾンビなど想像すら不可能
想像可能性論法とか自殺しろ
そもそも論理的に想像不可能だから
そんなことすらわかってない時点で論理的思考力0 >>12
情報熱力学は想像すら物理変化を要求する
物理的に同じなのに想像するのとしない両方の状態を取ることは不可能
クオリアなる妄想を想像するだけで物理変化するから哲学的ゾンビなど想像すら不可能
想像可能性論法とか自殺しろ
そもそも論理的に想像不可能だから
そんなことすらわかってない時点で論理的思考力0 世界認識にかけるバイアスが多くて自己認識が不安定な人間とバイアスに納得して安定を保つ人間がいるんじゃない。
バイアスが少ない世界認識を持っている人間なら現実を謳歌できる 脳に電極刺して測ったり刺激するだけでは、捉えきれない、それがクオリア
クオリアは情報熱力学でも物理学でも、捉えきれない
クオリアは唯有る
ん? 脳に電極刺して測ったり刺激するだけでは、捉えきれない、それがクオリア
クオリアは情報熱力学でも物理学でも、捉えきれない
クオリアは唯有る
ん? 脳に電極刺して測ったり刺激するだけでは、捉えきれない、それがクオリア
クオリアは情報熱力学でも物理学でも、捉えきれない
クオリアは唯有る
ん? >>33
>>12
情報熱力学は想像すら物理変化を要求する
物理的に同じなのに想像するのとしない両方の状態を取ることは不可能
クオリアなる妄想を想像するだけで物理変化するから哲学的ゾンビなど想像すら不可能
想像可能性論法とか自殺しろ
そもそも論理的に想像不可能だから
そんなことすらわかってない時点で論理的思考力0 >>34
>>12
情報熱力学は想像すら物理変化を要求する
物理的に同じなのに想像するのとしない両方の状態を取ることは不可能
クオリアなる妄想を想像するだけで物理変化するから哲学的ゾンビなど想像すら不可能
想像可能性論法とか自殺しろ
そもそも論理的に想像不可能だから
そんなことすらわかってない時点で論理的思考力0 >>35
>>12
情報熱力学は想像すら物理変化を要求する
物理的に同じなのに想像するのとしない両方の状態を取ることは不可能
クオリアなる妄想を想像するだけで物理変化するから哲学的ゾンビなど想像すら不可能
想像可能性論法とか自殺しろ
そもそも論理的に想像不可能だから
そんなことすらわかってない時点で論理的思考力0 低学歴が「神は居ます!」とか吠えてるのと同じ
全く意味がない >>014
何が交換されているかはその時の状況にもよりそうですが、質量もエネルギーも情報も等価と考えると、すべてを交換しているとも言えるのかもしれません。
>>019
私は主観的な世界観と客観的な世界は基本的に分けて考えるようにしています。(世界を自分と等価と考えるのは傲慢のように思います)
つまり世界を考える時、自身を基準にはしないと言う事になります。
人がバイアスを掛けるのは知らない事に対する不安からではないでしょうか?
そしてバイアスが多いほど固定観念が強い気がします。
バイアスが少ないと言う事は、物事をあるがままに受け入れる素直さや純粋さを有すると言う事だと思います。 脳に電極刺して測ったり刺激するだけでは、捉えきれない、それがクオリア
クオリアは情報熱力学でも物理学でも、捉えきれない
クオリアは唯有る
ん? 脳に電極刺して測ったり刺激するだけでは、捉えきれない、それがクオリア
クオリアは情報熱力学でも物理学でも、捉えきれない
クオリアは唯有る
ん? 脳に電極刺して測ったり刺激するだけでは、捉えきれない、それがクオリア
クオリアは情報熱力学でも物理学でも、捉えきれない
クオリアは唯有る
ん? >>42
低学歴が「神は居ます!」とか吠えてるのと同じ
全く意味がない >>43
低学歴が「神は居ます!」とか吠えてるのと同じ
全く意味がない >>44
低学歴が「神は居ます!」とか吠えてるのと同じ
全く意味がない 脳に電極刺して測ったり刺激するだけでは、捉えきれない、それがクオリア
クオリアは情報熱力学でも物理学でも、捉えきれない
クオリアは唯有る
ん? 脳に電極刺して測ったり刺激するだけでは、捉えきれない、それがクオリア
クオリアは情報熱力学でも物理学でも、捉えきれない
クオリアは唯有る
ん? 脳に電極刺して測ったり刺激するだけでは、捉えきれない、それがクオリア
クオリアは情報熱力学でも物理学でも、捉えきれない
クオリアは唯有る
ん? >>53
>>43
低学歴が「神は居ます!」とか吠えてるのと同じ
全く意味がない >>54
>>43
低学歴が「神は居ます!」とか吠えてるのと同じ
全く意味がない >>55
>>43
低学歴が「神は居ます!」とか吠えてるのと同じ
全く意味がない 富士山とは、"sky-high mounting"の象徴である。 「富士山は在ると知っている」というコメントを、でこすけ氏はどう考える? >>55
>>43
低学歴が「神は居ます!」とか吠えてるのと同じ
全く意味がない >>55
>>43
低学歴が「神は居ます!」とか吠えてるのと同じ
全く意味がない >>55
>>43
低学歴が「神は居ます!」とか吠えてるのと同じ
全く意味がない 脳に電極刺して測ったり刺激するだけでは、捉えきれない、それがクオリア
クオリアは情報熱力学でも物理学でも、捉えきれない
クオリアは唯有る
ん? 脳に電極刺して測ったり刺激するだけでは、捉えきれない、それがクオリア
クオリアは情報熱力学でも物理学でも、捉えきれない
クオリアは唯有る
ん? 脳に電極刺して測ったり刺激するだけでは、捉えきれない、それがクオリア
クオリアは情報熱力学でも物理学でも、捉えきれない
クオリアは唯有る
ん? >>67
>>55
>>43
低学歴が「神は居ます!」とか吠えてるのと同じ
全く意味がない >>68
>>67
>>55
>>43
低学歴が「神は居ます!」とか吠えてるのと同じ
全く意味がない >>69
>>68
>>67
>>55
>>43
低学歴が「神は居ます!」とか吠えてるのと同じ
全く意味がない 脳に電極刺して測ったり刺激するだけでは、捉えきれない、それがクオリア
クオリアは情報熱力学でも物理学でも、捉えきれない
クオリアは唯有る
ん? 脳に電極刺して測ったり刺激するだけでは、捉えきれない、それがクオリア
クオリアは情報熱力学でも物理学でも、捉えきれない
クオリアは唯有る
ん? 脳に電極刺して測ったり刺激するだけでは、捉えきれない、それがクオリア
クオリアは情報熱力学でも物理学でも、捉えきれない
クオリアは唯有る
ん? とすれば、クオリアは位相であって、記憶がなければならない。
哲学的ゾンビがクオリアを持たないのであれば、記憶も持っていない。
ただ反応するだけだとしても、学習できない。
哲学的ゾンビはオラクル付きチューリングマシンだ。
神託機械でないということが、クオリアを持つ、ということであり、
学習する。
そうると、哲学的ゾンビでないということは、不完全な神託機械であるw
ええと、単純な答えを出すのであれば、
神は哲学的ゾンビだ。神はクオリアを持たないw クオリアが脳の作用により発生している、と言う事を前提に考えた場合。
クオリアの発生メカニズムはおそらく解明できる。
脳の量子状態すべてを観測出来るくらいの科学力があれば、今何を考えているのか、現在どんな感情を持っているのかも計測出来るはずだ。
問題はクオリアの中身の方になる。
なぜ脳で発生した信号がそのように変換されるのかは恐らく解明されないだろう。
哲学的ゾンビなるものを少し分解するとするなら、刺激に反応し脳で信号を発するが、それがクオリアに変換されない人間?と言う事になる。
事実上そんな人間は存在出来ないだろうし、計測できる信号上は感情があると判断できるから哲学的ゾンビと普通の人間は等価(判別不能)と考えることが出来るかもしれない。
これは脳のような組織が信号を発するなら、それは必然的にクオリアを伴うと考えられると言う事だろう。
ただし、私個人は意識やクオリアというモノにさほど重要性を感じていない。 その哲学的ゾンビの中身を人は現状人工知能と認知し呼ぶ AIに神性を求めるのでなければ、代わりにクオリアの論理性を何等かの方法で示す必要がある
ガブリエルかデネットか、現象の入口探しだ しぶき氷という看板が道路沿いにある。それを見た人は、しぶき氷があるのではと考える。
この時のクオリアはどのようなクオリアか。しぶき氷を感じるか。(そのしぶき氷は具体的に何なのかが大事)
具体的にどういうしぶき氷を感じたのか。
氷の芸術であるしぶき氷は温度が高い季節では姿を形成していないことがある。
しぶき氷と書かれた看板があっても、一年中しぶき氷があるわけではない。(看板は一年中あるが)
そうした中、しぶき氷が無くても、しぶき氷の看板を見たら、どう感じるか。
そしてまた、しぶき氷があるときに、しぶき氷の看板を見たら、どう感じるか。 >>82
しぶき氷の看板そのものの感覚質はいかほどか。 いか‐ほど【如何程】
@ 物事の分量、程度、価値、値段などを疑い問う意を表わす。 どれほど。 どのくらい。 A 物事の分量、程度、価値などの数値が、限度のわからないほど多い意を表わす。
しぶき氷そのものの感覚質との差ほどじゃないか オラクル付きAIが入っていれば哲学的ゾンビといえるのだが、
オラクル付きというものは存在しない。
オラクル付きでない機械はクオリアを持っているかもしれないw
バイメタルも意識やクオリアを持っているかもしれない。 話したいことは山ほどあるんでやんすがね、世界、宇宙、意識、物質、科学、論理…
アタシは14時間拘束の肉体労働者なもんで、迂闊に呉ちゃんなんか開こうものならソッコー寝落ちするんすよ、
滞っているいいわけです。
それにしてもあれだね、景気が良いみたいだね。
いよいよ30年続いたデフレからの脱却という噂は本当のような気がするね。
物価が上がっているけれども、おかげさまで、収入も増えた。気がする。 >>23
バイアスを増やすのは、いわば低エントロピー状態を維持するためだと思う。
つまりバイアスは、維持できているうちはいいけれども、いつか解除される。
すると哲学者みたいに眉間にシワがよるイメージがあります。
なんか知らんけど、世界中の不幸を背負っているような表情になる。
何故か闇雲に腹が立ったりする現実に直面する。
>>24
率直に、ちょっとピンときません。伝聞は体験のひとつというか、
しかし背景にもうちょっと微妙なニュアンスがありそうな気もします。
いかがでしょうか。
心の方も、身の方も、体験でわかるものだと思いますし。 >>25
>「富士山は在ると知っている」
じつはちょっとピンときません。
例えば「神は存在するということを知っている」と主張する人もいらっしゃることでしょう。「神は存在しないということを知っている」と主張する人もいらっしゃるかもしれません。
あるいは「神は存在するということを知っている」と主張する人にも、じつは根拠もないままそのように思い込んでいるだけの人もいれば、真偽はともかくながらも何らかの根拠を示すことができる人もいることでしょう。
私が関心を持つのは、そのように考える理由です。そこをご説明していただかなければ、つまりどのような背景があるのかわからない、コメントのしようがないというのが率直なところです。 >>25
>「富士山は在ると知っている」
じつはちょっとピンときません。
例えば「神は存在するということを知っている」と主張する人もいらっしゃることでしょう。「神は存在しないということを知っている」と主張する人もいらっしゃるかもしれません。
あるいは「神は存在するということを知っている」と主張する人にも、じつは根拠もないままそのように思い込んでいるだけの人もいれば、真偽はともかくながらも何らかの根拠を示すことができる人もいることでしょう。
私が関心を持つのは、そのように考える理由です。そこをご説明していただかなければ、つまりどのような背景があるのかわからない、コメントのしようがないというのが率直なところです。 知っているといっても認知と認識では異なるということなのでは
認知は思い込みで構わないでしょうがいうまでもなくどのように認知したのか認識出来ているという場合の「知っている」じゃないと他人の意識には判断不能だからね
他者にも知っていると認められるだけの判断可能な識別情報がなく知っているいうだけでは信じるか信じないかでしかないですからね >>92
富士山が在ると知っている、という文からピンと来ないかぁ。富士山が在るというのが正しい、事実というのが普通の思考だわな
でも何も知っていないでこすけ氏にはこんなことも思考しない。あまいんじゃねーのかよ >>41
世界がどのような仕組みのものなのか、前提として、最終的な答えはわかりません。
ただ、とりあえずながら印象があります。
しかもそこには一貫性がある気がします。
まず、とりあえず「自分」なるものがある気がします。
あるいは「自分」は幻想かもしれません。
しかし印象として、とにかくこの世界には「自分」と「自分以外」とがある気がします。
例えば私は色や音を体験しています。そして私以外の人も色や音を体験している印象を受けます。そして他者の体験には永久に到達できない印象があります。「自分以外」というのは、「自分」が永久に到達できない領域のことです。
さて、私は漠然と「自分」なるものがどのようにして成立したのかに関心を持ちます。
そしてそれは「自分以外」が関わっているという印象を持ちます。「自分」だけで完結できる印象がないのです。あるいは世界は私が成立する前から成立していた印象があったりもするわけです。
すると次に「自分以外」とはどのような仕組みで成り立っているのかという疑問を持ちます。
さらにはそれが成り立っている仕組みには、一貫した構造があるのだろうという印象があります。それは、たまたまではなく、そのようになるべくしてなったのだろうということです。
あるいは言い方を変えると、「主観」は「主観以外」によって成立しているのだろうということです。
ただ「主観以外」が必ずしも「客観」とは限らない、「間主観」というものもある、と私は考えます。
ただしこの場合の「客観」は「間主観」ではない、どの視点でもない視点のことのつもりです。
そしてそのような「客観」は架空というのが私の印象です。 例えば学術研究なり芸術作品なりに対する客観的な考察とか客観的な評価とかはあっても良いとは私でも思いますよ。
しかしその客観は言うほど客観ではないでしょう、
どこまで行っても客観は主観のひとつに過ぎない、これは断言できる
かもしれない >>95
自分は幻想か これはアンケートを取ったりすれば解決するのでは >>25
私としてはまず、「エネルギー」とは何なのかを徹底的に追究していただきたいです。
私たちがいなくても、あるいは私たちの認識とは関係なく成立している、つまりクオリア的なものに依存していないエネルギーとはどのようなものでしょう。
あるいは完全に客観化したエネルギーのことです。
屏風の中の虎を縛るにあたっては、まず屏風の中から虎を引っ張り出していただきたいのです。 >25でエネルギーは無い、とはどういう解釈ですか
と聞かれているってことは「エネルギーはない」といったのはあなたでしょう、あなたが徹底的に追及して意見するのが筋じゃない
>つまりクオリア的なものに依存していないエネルギーとはどのようなものでしょう
クオリア的なものとはなんでしょう?そのクオリア的なものに依存しているエネルギーがなぜ客観的なエネルギーの前提になったんでしょう?
完全に客観化したエネルギーなら文字通り物理学的な仕事に換算しうる量の総称。位置・運動・熱・光・電磁気など。でよろしいのでは?
単語の意味以外に完全に客観化したエネルギーが存在するというんですか?存在するなら是非教えて頂けないでしょうか。 Do you think the high priest, who always keeps a seven-year-old boy nearby, could become their oracle if they had any concern? >>89
旅行先の都市でも日が昇るというのは、ある種のバイアスかもしれません。バイアスがあるから、平静に日々を過ごせるという側面はあると思います
伝聞と体験については、単純な思い付きです。例えば、電車に乗って移動するということ自体は体験的知識ですが、電車の構造、電気を利用するモーターなどに関しては、伝聞的知識でしょう >>99
私からエネルギーとは何かを解説してもいいんですけど、おそらくいつものように右から左になるでしょう。
そこで今回は趣向を変えて、質問者さんにお考えいただこう、するとエネルギーという概念が虚構であることにお気づきいただけるだろう、というのが私の意図です。
ここで取り上げているエネルギーは物質に働いているもののことですが、おそらくそれは観測者がいなくても成立しているのが前提でしょう。
すると例えば位置、運動、光などは視覚、熱とか電気のビリビリ感などは触覚を通して意識にあらわれているもので、甚だ主観が混ざっている印象です。
そこで私が伺いたいのは、観測者がいなくても成立している感覚器官を通す前のエネルギーとはどのようなものなのかです。
例えば光波の振幅よりも小さいものに映像情報はありえません。しかし技術的には光波の振幅よりも小さい電子の振幅を利用して疑似映像をつくることができるとのことです。電子顕微鏡というのはそういうもののようです。
このことから察するに、素粒子の塊である宇宙には本来は映像情報はないはずです。私たちが見ている世界はもともと疑似映像ということにもなるでしょう。
さて、映像情報のない世界で光エネルギーとは何なのか、
あらかじめ言ってしまうと縦横高さも映像情報ですけど、
そのような概念抜きでエネルギーなるものを解説しようとするとどうなるのだろう、
ということです。
じつはエネルギーなるものは、客観的には語れない、主観が生み出した幻想なのではないかな、というかんじもチラつく気がするんですけど、いかがでしょう。 >>94
みんなで共有している富士山はあるでしょう、
しかしそれは富士山を共有する仕組みがあるということであって、
その仕組みは富士山の実在一択ではない。
例えば一万円札の価値をみんなで共有しています。
しかし一万円札の価値は実在するものではありません。ある種の幻想です。
構造的には富士山もある種の幻想だろう
というのが私の予想ということです。
その実在を想定すると、矛盾が生じるためです。 >>103
ここの矛盾というのは意識のハードプロブレムのことです。
私は意識のハードプロブレムは、もの自体が実在するという世界観の破綻だろうと考えています。
答えがわからないどころか、答えの解き方さえわからない、
答えの解き方さえわからないのであるならば、問題文を疑うということはそれほど掟破りでもないと思いますけど、
むしろ問題文は絶対に正しいという信念が何処から来たのかが私には謎です。 >>101
なるほど「身体」は伝聞的知識かもしれない。少なくとも臓器とか神経物質とかは伝聞的知識です。
むしろ個人的には近代というローカルな世界固有の幻想のような気さえします。 >>102
そもそもエネルギーがなんなのか全く知らねえくせに >>76
哲学的ゾンビは情報熱力学を破るので想像すら不可能
バカすぎるから自殺しろ 定義すら知らん言葉を知ったかぶりして並べてるから低学歴低収入なんだろwwwwww
自殺しろ >>103
富士山は幻想である、とでこすけ氏は考えるんですね。
でも富士山は存在すると私は考えます。標高3776メートルの富士山は在る!
これではいけないでしょうか。
富士山がある、という簡単なお話がなぜ受け入れられないのですか?
富士山は無い、とでこすけ氏は仰るのに、
みんなで共有している富士山はあるでしょう←とはどういう意味なんですか?
富士山は無い、たぶん幻想だ・・・となぜでこすけ氏は思うんですか。思い込みも激しいですよ。
自分だけ富士山に対する想いが違うことが誇らしいんですか。
富士山が無い、というのは思い込みだと思いますか?
思い込みっていうのは色々な方々にあるんですよ。常識知ってます? そもそも「無い」という言葉をどういう意味で用いているのか本人も説明できないと思うけど。なぜなら世界に対する不信や不安が心の底にあるから論理では説明できない。
彼には辞書とメンタルヘルスが必要だ
https://i.imgur.com/fZbtnhK.jpg >>111
ほほう。「無い」という言葉をどう捉えているか。とかか。
富士山はあるよ!と大多数の意見があっても信じない場合があるのかなあ。
それも大多数の意見を聞いた、という保証がないといけないんでしょうか。やっぱそうなんでしょうか。 >>95
私の考えとしては総体としての世界(客観)と総体の細分化としての主観(主観群)と捉えた方がよりシンプルに感じます。
前提として主観は単独では存在できない。(でこすけさんの主張するように主観は自己完結出来ない)
と言う事は、反対に客観は単独で存在出来ると言う事です。(客観は主観群を有するので自己完結出来る)
主観と言うのは客観のある一面、位相の様なものではないかと考えます。
つまり自分も他者も元々素は同じであり、現時点は見かけ上(表層的に)分離しているに過ぎない。(一応分離されているので主観上では通常他の主観とはリンクできない)
自分や世界がどのようにして成立したのかと言うのは、確率が絡む問題になるので必ずそうなるわけでは無いように考えられますね。
主観群の中に主観と間主観があり、総体に客観があるとイメージ出来ます。(でこすけさんの主観中心の考え方でも主観の集合体はどの視点でも無いと言えるので客観と表現出来る)
主観や客観と言うのは、ある種相対的なモノなので主観視点からだと客観が主観の一部(主観的な解釈は自由)のように見えてもおかしくはないでしょう。(自分の中の客観的感覚が主観に起因するからと言って自分以外の客観を否定する事は出来ない) >>102
勘違いするなアホw
おまえの話は右から真ん中を通らずに右に帰っていくだけだろw
誰の芯もくっていないw 単に情報処理するだけならマルガブで構わない。主観を含めて「存在する」と言えるから >>110-115
エネルギー知らん低学歴がエネルギーって文字を書いてなんか意味あんの? >>113
算数すらわからん低学歴に主観なんてものはねーよ知恵遅れwwwwwww
猿の妄想 >>113
いや確率なんか全く関係ないが
お前確率の定義すら理解してないだろ? 定義すら知らん言葉を知ったかぶりして並べてるから低学歴低収入なんだろwwwwww
自殺しろ 理解してすら無い言葉を並べて理解したつもりになってるだけ
その証拠に低学歴だろ? 理解してるから低学歴ではあり得ないからな
客観的に脳障害なんだよ
自殺しろ 理解してるなら低学歴ではあり得ないからな
客観的に脳障害なんだよ
自殺しろ >>113
お前客観の意味わかってねーじゃん自殺しろ
低学歴は客観的に無知なバカで脳障害
低学歴の妄想は意味がない 低学歴がエネルギーと確率とかいう文字を書いても1つも計算すらできない妄想に過ぎない
低学歴は客観的に無能 >>104
実在は低学歴の自白
量子力学に矛盾する妄想 >>102
エネルギー知らんバカがエネルギーって文字書くとなんか意味あんの? 知らん単語ググってコピペしても低学歴は低学歴だぞ
客観的にバカで無能 >>104
物自体が実在するとなんの世界が破綻するんですか?あなたの精神世界でしょうか?て机という物が物自体じゃないなら素粒子(物)の塊である宇宙とやらも破綻してるわけだけど。 >>130
エンタングルメント知らんとか中卒無職丸出しすぎる
実在とか口にした瞬間自殺するだろ普通 ノーベル賞とかニュースになってもその内容を全く理解してない自白だな
低学歴が知ったかぶりしても意味ないよ 2022年のノーベル物理学賞がなんに対して与えられたのか読めない知能で意識の謎とか考えちゃうわけ?
恥ずかしくて自殺するだろ恥があるなら 意識が謎なんじゃなくてバカだから何もわからんだけやんw お前らにわかることなんて一つもねーじゃん
小学校の算数すら出来なかったくせにwwww 分数の割り算間違える頭で意識の謎wwwwwwww
単にバカがバカなだけだぞ お前がバカだからわからないだけ
その可能性を検討できないから低学歴なんだろ >単に意識を生み出す脳が生存競争に有利だから生き残っただけだと理解する人がいますが、
マルガブのポモらしさは「イメージしてしまう物と意識」を表現に連れ戻すとこぐらいだな >>141
全ての哲学は論理学を破る妄想と証明済みだから低学歴が何をコピペしても意味ない >>141
存在とか言ってる時点で科学を理解できない脳障害だと自白してる >>141
882 考える名無しさん[] 2024/01/31(水) 14:52:47.39 0
自然科学で「存在」と言った場合は
・その式が成立する
・個数が0より大きい
などの状況を比喩的に表現してるだけだから存在という言葉を使わずに必ず言うことができる
つまり自然科学ではバカ哲学者が妄想するような存在という概念を認めてない
低学歴はこれがわかってない 存在とか吠えてる時点で自殺するべき
発達障害丸出し つまり他人が比喩で使ってるだけなのにそれを読み取れないアスペだと自白してる
死ぬほど恥ずかしいだろ脳障害低学歴って 科学者は存在という言葉を使用禁止にされても全く困らない
ノリで比喩してるだけなのでw 文脈読めないアスペは科学者が「存在そのもの」なんて一言も言ってないのに勝手に妄想してる
だから低学歴なんだろアスペ 631 考える名無しさん[] 2024/01/25(木) 20:47:21.76 0
発達障害は以下の文章を理解できない
「美味すぎ!味付けが神がかってる!!」
と書かれたら健常者は発言者が神信じてるとは限らないと理解できる
発達障害は発言者が神と言ってるから発言者は神を信じてると妄想する
つまり脳障害 味付けが神がかってる=エネルギーは存在する
健常者はこのような比喩が理解できる
神などどうでもよいし存在などどうでもよいとわかる 脳障害は病気じゃないから治療など不可能
殺すしかないぞ 存在論とフラットアーサーが違うものに見えているならそいつは猿の知能しかない >>141
882 考える名無しさん[] 2024/01/31(水) 14:52:47.39 0
自然科学で「存在」と言った場合は
・その式が成立する
・個数が0より大きい
などの状況を比喩的に表現してるだけだから存在という言葉を使わずに必ず言うことができる
つまり自然科学ではバカ哲学者が妄想するような存在という概念を認めてない
低学歴はこれがわかってない 要するに知能が低過ぎて論理的思考力が無いから哲学なんかやっちゃう
その証拠に算数すらわかってない 論理的思考力があるのに物理や数学のテストすら解けないなんてことがあり得るわけねーだろ
単に脳障害が「自分は頭がいい」と思い込んでるだけ
客観的にバカだから正解のある物理すら解けない 下手の考え休むに似たりとか聞いたことすらねーんだろうな低学歴ってw そもそも低学歴は客観的にバカなんだから論理的思考力0なわけ
低学歴が哲学とか最高のお笑いよwwwwwww
客観的にバカであることをわかってない脳障害が客観的とか言ってんのよwwwwwww 原因:頭が悪い
結果:低学歴
もうここからしてわかってないwwwww 低学歴=客観的バカ
低学歴「主観!客観!存在!哲学!!!!」
このコントが無料なのすげえわwwwwww 脳に電極刺して測ったり刺激するだけでは、捉えきれない、それがクオリア
クオリアは情報熱力学でも物理学でも、捉えきれない
クオリアは唯有る
ん? 脳に電極刺して測ったり刺激するだけでは、捉えきれない、それがクオリア
クオリアは情報熱力学でも物理学でも、捉えきれない
クオリアは唯有る
ん? 脳に電極刺して測ったり刺激するだけでは、捉えきれない、それがクオリア
クオリアは情報熱力学でも物理学でも、捉えきれない
クオリアは唯有る
ん? >>107
学問的にどのようなものなのかは存じません。
しかしそれが、例えば意識や消化などと同様のある種の虚構だということが分かっていれば、意識のハードプロブレム云々の場面では十分だと考えます。
そもそもエネルギーなるものを本当に理解している人などいないだろうと認識しています。それは実在する根拠の希薄な虚構だからです。
ためしにエネルギーとは何なのか、解説してみて下さい。私が微妙なところを指摘して差し上げましょう。 ある種って何の種だよアホw
おまえの種なんて誰も知らんぞw 人によっては意識や消化などを虚構と認知するようにエネルギーも虚構であるということに脳力(エネルギー)を物理的に使うことも可能なのがエネルギーの特徴です。従って、どのように意識が生じるのかという問題に費やすエネルギーを脳は節約することになるため、頭を使う意識を持たない者の脳機能は自然現象としてコスパがいいほうを採用するというわけです。
エネルギーは、その脳機能など形態によってさまざまな物理現象や変換が起こります、つまりそこら辺に常時実在しているのではなく、観測者が物理的に関与して初めて力の現象は生じ得るのです。
そもそもエネルギーなるものを説明する根拠の希薄な能力の人の言い分も指摘も、気のせいで成立させる虚構のストーリーなので、面白いか面白くないかでしかありません。 自然科学はwhyの質問には答えられない。
whyをhowにズラして答えようとする。
しかし、whyもhowも、さらなる質問は永久に続く。
究極の答えは得られない。
whyに究極的に答えられるのは宗教のみ。 >>108
「科学的に観測できない部分も含めて全く同じ状態の人間が二人いるとして、片方には意識があるけれども片方には意識がないということはありえない」と言い切るためには、観測に基づかなければならない、つまり直観や論理や既存の観測事実だけでは結論付けられない、というのが光速度不変の法則の検証から得た教訓だと思うんだけれども、なんで情報熱力学なるものが絶対だと言い切れるのかな
私も哲学的ゾンビはウルトラマンのような空想の産物で、検証するまでもなく却下でいいと思うけれども >>110
例えばウルトラマンは実在しないけれども、みんなで共有されています。
さて、ウルトラマンと富士山との決定的な違いとは何でしょう?
私はどちらも内面に現れているものとして、本質的な違いはないだろうとみています。
私が富士山(物質)が幻想であろうと考えるのは、意識のハードプロブレムに関わります。
例えばその富士山の観測は、認識上、富士山に反射した太陽光を網膜がとらえ、電気信号か何かが神経を伝って原子の塊である脳に伝わり、そしてその信号か何かがそのような脳で色や形に変換されるみたいなかんじだと思いますが、
ところが一般に、その変換がナゾとされています。いわゆる意識のハードプロブレムです。
そのナゾの解決にはいくつかのパターンが想定されるだろうとは思いますが、私が知る限りからの私の予想では、そもそもそんな変換は無い、そもそも物質としての脳は存在しない、富士山や脳などの物質とされているものは内面に現れているものに過ぎない、
で、そのように考える理由ですが、
物質は常に精神的なものとして現れ、物質そのものが観測されることがない、実在する直接的な証拠が無い、
世界が物質と精神との二重構造をもっていることに必要性とか必然性とかを感じない、むしろ不自然に思える、
物質が無かったとしても体験世界は成立する可能性がある、むしろ物質を想定すると理解が困難になる印象のものがある、むしろ無いとしたほうが整合する可能性を感じる、
物質という概念の発生起源が疑問、
物質が存在しないことを想定して考察した結果で物質の存在を結論付けたのならその考察の過程をお示しいただきたいのですが、その考察が無いのであるあらば「富士山は存在する」こそ思い込みではないですか? >>49
「影響」のほうが良かった「交換」よりも
世界は複数の内部(外部をもつもの)の集積として解釈が可能で、
それらは互いに影響を与えあっているというイメージ
そこで影響を受けているのは、エネルギーとか運動量とかではなく、情報 >>111
私は「物質なるものは存在しない」と考えています。
私は物質を霊魂に例えてきました。「霊魂が存在しないように、物質も存在しない」
霊魂が錯覚であるように、物質も錯覚だろうと考えます。その程度の意味です。 >>113
主観の集合体を「客観」と表現するのはアリだと思います。
ただ、私が問題にしたいのは、この世界から全ての主観を取り除いたとき、何かが残るのか?ということです。
私は残らないにとりあえず500円BET
魚にも主観(てか内面?)はあると思うけれども人よりも原始的なものではあるだろう、
微粒子にも内面はあると信じるけれども人よりも超絶原始的
脳は内面を複雑にする器官であって、内面の生成は生命現象とは関係ないというのが私の印象です 荒氏によると、電磁波が潜在空間に投影されたものが色。
そこで私が勝手に空想するんだけれども、
おそらくそのような現象は宇宙に始めからあったと思うんだ。
そういうことが無限に繰り返されいるうちに、その一部が人間のようなものにまでなったのだろう、
潜在空間(内面)でミームを進化させたのが私たちだと思う。 >>130
その通り、私は素粒子の塊としての宇宙というものを幻想だと考えています。
(私は宇宙という言葉と世界という言葉とを使い分けています)
私たちは宇宙を見ているわけではなく、電磁波とされているものを感じているだけだということ、
では、電磁波とされているものの本質は何なのか、
いずれにしてもそれもまた内面に現れているものに過ぎません >>169
物理の物は物質のことだと思いますが、物質が存在するのかどうかは微妙なところです。
エネルギーというのは、そのような微妙な前提のうえにあるということです。
物質の存在を証明できるのならば別ですが。 >>177
なるほど精神が破綻しかけているから幻想に逃げてしまうのですね、それぞれの言葉も幻想に従う意味に変形させて辻褄合わせないと納得いかなくなりますしね。 >>178
おまえの生命活動も物理のたまものだろアホw 今や、究極の物理学的エンティティは「情報」ということになるようだ。
そして、そこにある究極の法則は「ランダム性」となる。
「情報」と「ランダム性」から、我々に親しい「空間」や「物」や
「物理法則」が立ち現れる。 >その通り、私は素粒子の塊としての宇宙というものを幻想だと考えています。
素粒子の塊としての宇宙なんてない幻想だと考えていることは>>104と何の関係があって言っているんですか?
>(私は宇宙という言葉と世界という言葉とを使い分けています)
そもそも違う言葉だからだれでも使い分けるんじゃないでしょうか。
>私たちは宇宙を見ているわけではなく、電磁波とされているものを感じているだけだということ、
そもそもだれか電磁波(光)を感じて電磁波に宇宙を見ているといってたわけじゃないし、意味がわからないんですよね。
>では、電磁波とされているものの本質は何なのか、
電磁波に本質はないんじゃない、すべての波長を含む電気的エネルギーのことを電磁波と呼んでるだけなんで。
>いずれにしてもそれもまた内面に現れているものに過ぎません
マイクロ波は電磁波だけど電子レンジにこのエネルギーが現れ(笑)てるからレンジ調理できるんだけどね。 >>175
その場合、主観がすべての物事に対する不変不滅で絶対的な根源と定義される事になるでしょう。
と言う事は、主観=原理と言う事になり、でこすけさんの過去の発言(最初は原理などなかった)とは矛盾する事になります。
ある時、突然主観が(無より)発生したという説を取る場合は神を持ち出す事になる為、論理性を失います。
個人的には原理があり、原形が作られ、そこに主観が生まれる。と言うのが自然な流れでしょう。
原理が情報とランダム性ならば、これを客観と訳せるかもしれない。
そして、その客観から生み出された限定的客観(限定される事で客観性を失う)、それが主観なのかもしれない。 >>175全ての主観(その人ひとりのものの見方)が取り除かれるだけだからそれ以外残ってることになる >>179
物質が存在する証拠を出せば終わるはなしです。
お願いします。 >>166
いや普通に理解してるし実在じゃないから
怠け者は死ね >>180
たとえて言うならば、生命活動も物理現象もいわば形而下でのことです。それらは相関関係があるにしても、因果関係があるわけではありません。問題はそれらの背後にあるものです。
かと言って、形而上が存在するわけではありません。形而上が存在する気がするとするならば、それは錯覚です。 >>181
物理的者たちの主流が例えばコペンハーゲン解釈をどうとらえているのかなど、一介の街のチンピラである私には知るすべもありません。
ただ本から得られる表層的なものかもしれない情報によると、物理は観測という一般的にいって物理学の研究対象にはならないものを取り込まなくてはならなくなっているという事態になっていて、実際に観測というのが何なのかは今もってわからないという噂を最近聞いた気もします。
宇宙の仕組みは物理学だけでは解明できないということだと理解します。
その先にあるのは、じつは意識のハードプロブレムだと私は思います。
この問題は物理学の延長上で解明できるのか、それとも既成のものとは違う新しい世界観なり学問なりをひらく必要があるのか、お祭り好きの私としては無責任に後者を推すわけですけど、無責任ついでに言うと、ここでたぶん必要になるのは天才です。物質の二重性とか不確定性原理とかのようなインパクトのある発見をしてくれる人。
そこでベルの不等式の破れはきっかけになる可能性を感じたりもするわけですけど、
なにしろ私が言っていることですから、ほとんどアテにはなりません。 >>182
素粒子の塊としての宇宙を想定するとハードプロブレムが生じる、
素粒子の塊としての宇宙を想定しなければハードプロブレムは生じない、
ということです。
私が宇宙と世界とをどのように使い分けているのかに着目してほしかったです。
ようするに宇宙はフェイクで世界はリアルということですけど。
私たちは物理学的に言っても存在している宇宙を見ているわけではないということです。
電磁波の本質というのはわかりにくかったかもしれません。
リンゴで例えましょう。リンゴの本質とは。
ヒトにとってリンゴは赤くて甘くて香しい的な物体です。
しかし感覚器官が異なる構造をしているチョウにとっては、リンゴにヒトとは異なる印象を持つことでしょう。あるいはコウモリにもコウモリなりのヒトともチョウとも異なるリンゴがあることでしょう。
ここでポイントになるのは、ヒトだけが完璧な感覚器官をもっていてチョウやコウモリの感覚器官が不完全なわけではないということです。この場合同じひとつのリンゴがそれぞれに異なる現れ方をしているわけですけど、すべていわばリンゴの側面であって、リンゴ自体の本質というわけではない。私たちが認識しているリンゴはその仮の姿に過ぎない。
同様に私たちが認識している電磁波なるものも、それ自体の側面に過ぎないもののはずです。チョウにはチョウなり、コウモリにはコウモリなりの電磁波があることでしょう。
私が問題にしたいのは、普遍的な電磁波と言い換えることができるかもしれません。 >>183
ご指摘のとおり、それは矛盾になりかねないものです。
そこで私は私の世界観を解釈と言っています。
この世界がそのようなものとして成立したのかどうかはわからない、
しかしそのように解釈すれば見通しがよくなるだろうというご提案です。
見通しがよくなるとうのは、意識のハードプロブレムや量子や生命や無意識などについてです。
もし私の提言が工学技術や医療技術の進歩に寄与するようなことがあったとしても、将来また未知の現象が確認され、私の世界観も改める必要が生じる可能性はぬぐいきれません、あくまでもとりあえず的なものに過ぎないということです。
私はむしろファイナルアンサーは無いと予想しています。世界はあらかじめ存在するものではなく、こちらからの働きかけに応じて相応に現れるものに過ぎない、
ファイナルアンサーが客観的に成立する構造がある気がしないのです。 その理解は人間の限界の範囲に限られたものであって、それを超えたものではないでしょう。
と私は予想します。 >>185
あなたがいう存在しない物質は私にはなんの物質の存在のことか知らないですけど、お願いされたので考えてみましたけど、その存在しない物質のはなしはあなたがこれまで「存在しない物質」のはなしとして出してる存在ですよで終わるはなしでしかない質のものでいいんでしょうか? >>192
このレスは>>186でした。
最近は左手で歯を磨く練習をしています。 >>191
私には主観的な解釈はむしろ矛盾だらけになり見通しが悪くなるように感じます。
現代科学というのは客観性を重視して来た結果、発展したと理解しています。
一方、主観重視の界隈は宗教やオカルト、疑似科学の領域と言えるでしょう。
私は、それらが科学技術の向上に貢献したという話は聞いたことがありません。
世界を矛盾なく説明しようとすれば、宇宙は不滅で無くとも世界には不滅性を繰り込む必要が出て来ると予想します。
私から言わせると働き掛けているのは、こちらからだけではなく、あちら側からとも言える、と言う事です。
世界には不可知性があると仮定しているので、人がファイナルアンサーに辿り着くことは無いと考えていますが、根源以外の世界の筋を予想する事は可能でしょう。 二元論は一元論の積み重ねではない。
一とか二とかの数字に意味はない。
二元論は「互いに折り合わない、全く違うものが存在する」と言っている。
禅坊主のように「すべては一に帰する」などと安易には言えない。 >>以下自分のコメント
>>富士山は幻想である、とでこすけ氏は考えるんですね。
でも富士山は存在すると私は考えます。標高3776メートルの富士山は在る!
これではいけないでしょうか。
富士山がある、という簡単なお話がなぜ受け入れられないのですか?
富士山は無い、とでこすけ氏は仰るのに、
みんなで共有している富士山はあるでしょう←とはどういう意味なんですか?
富士山は無い、たぶん幻想だ・・・となぜでこすけ氏は思うんですか。思い込みも激しいですよ。
自分だけ富士山に対する想いが違うことが誇らしいんですか。
富士山が無い、というのは思い込みだと思いますか? もし富士山が幻想だとしたら、なぜ皆が同じ幻想を見るのだろう。
富士山の性質、標高や位置関係、富士山の天気などなぜ共通して同じ幻想なのか?
「たしかにみんなと共有してる富士山はあるけど、個人的に秘密裏に思っている富士山があって、それは標高は二万メートルの富士山なんだよね」という第2の幻想(個人的な幻想)をみる人間がなぜ常人のなかにはいないのだろうか?
つまり仮に皆が共通して見る幻想を第1の幻想だとして、なぜ1番目の幻想は皆と共通しているのだろうか?プラトンの『イデア』のような共通の本質的存在があるからだろうか?
そしてなぜ第1の幻想と性質の異なる第2の幻想(個人的な幻想)を多くの人は持たないのか?『イデア』のような幻想の型が実は無いからだろうか? 矛盾になりかねない主観的解釈だと、矛盾する世界とは別に観念として矛盾しない世界観が成立していて、物質という意味の共有可能な言葉一つとってみても、そこから意識のハードプロブレムと掠りもしない解釈の世界観といえる、感覚器官が朽ちる死と同時にその世界観を成立させた価値観もろとも消滅するというファイナルアンサーになるんじゃないかな。
とりあえず的に彼が主観的に予想している疑似問題の意識のハードプロブレムをはじめ、量子や生命や無意識と彼が呼ぶ事柄の感覚ついて、論理的に矛盾していようとも、独自に納得できると思える素質があれば棚上げでき、見通しはよくなるという解釈も世界観的にはなるほどそうなんだろうと思う。将来再び、素粒子のように新たに世界観と相容れない現象が物理学的に観測・確定されたとしても、このままその都度疑似問題と理解するための講釈を上書きしていけば済む世界観になっているのでその意味で見通しは明るいですね。
哲学的な一定の秩序をそなえた世界としての宇宙を矛盾なく解説しようとすれば、わたしとしても宇宙は不滅でなくとも、理論上では後50億年後太陽が寿命を迎えるといったことが現実に起こるような天文学的な構造変化の働きかけがあちら側から生じれば、現代科学の観測結果から推測するに宇宙のパワーバランスが根本から入れ替わり、本質的に矛盾なく通用している古典力学の自然法則が日本円の紙屑化同様、現代科学の知的情報が到底通用しない法則性の根源をひっくり返す世界が現象する確率は天文学的規模のエネルギーを考慮すれば起こり得るでしょう。 いわゆる「観念論者」は、いわゆる「外界」の存在を、
すべて否定できるだろうか?
モノや三人称の人は否定できるかも知れないが、二人称は難しい。
二人称の人は私に侵襲してくる。他者であり本物の異物だ。敵と言ってもいい。 「多重人格」は自分の中の他人ではない。彼らはみな「私(一人称)」だ。
「自分の中に善人と悪人がいて葛藤する」などは、しょせん喩えにすぎない。
二人称は絶対的な他者であり、観念論では排除できない「存在」だ。 先ずその外界の存在を観念論が観念に取り込んで、その存在を否定する何らかの意を表した観念が観念論者の主観に生じるから
理論的にそれですべて否定しているという解釈で観念が創られるんでは? 純粋な観念論者は、そもそも外界を認めない。非観念論者との議論において、
彼らが仮定するものとして使うだけだ。体験はすべて観念の産物。
そういう(外界を一切認めない)観念論者にとって、二人称の存在が脅威なのだ。
二人称(の人)からの侵襲は、唯一、観念論者を戸惑わせる。 >>76
「情報」と「ランダム性」を原理と仮定した場合、原理はクオリアを持つだろうか?
持たないのならば、それは神託機械と呼べるかもしれない。
と言う事は、この世は哲学的ゾンビと解釈する事もできる。
だが、そうなると不思議な事が起きる。哲学的ゾンビは内部(あるいは創り出したもの)にクオリアを持つことになるからだ。
神や魂というオカルトを排除した場合、哲学的ゾンビと言う本質的にはクオリアを必要としない存在がクオリアを生み出すメカニズムとは一体どのようなものだろうか?
ゾンビが生み出すクオリアは幻想か、あるいは本質的価値を持たないようにも見える。 哲学的ゾンビは、ほぼ存在する。通常の人との差分は、もちろん、
意識とか精神とかの有無だ。
その差を生むためには、「物理的/肉体的」差は存在する。だから
「"ほぼ"存在する」だ。
このようなシンプルな説明で一向にかまわない。
AIとロボットを開発する仮定で、その差が解ってくるだろう。 「情報」とは、精神的なものと物質的なものの融合であり、
その自体に意識の萌芽を含んでいる。
ライプニッツの「モナド」は、それに非常に近い。 哲学的ゾンビはいないな。いるんだったら既に「哲学的ゾンビ見つけた!」と評判になるんじゃねえの そうです、安西の大悟を超越した目には「存在は存在しない」、「幅」を持つ言葉は無ですね 自分が哲学的ゾンビかどうかすぐに見分ける方法を教えてあげようか。
とても単純なんだ。
身も蓋もないのだけれどね、自分が哲学的ゾンビなのかどうかわからない存在が哲学的ゾンビということ。
現実世界の圧倒的マジョリティが哲学的ゾンビ、これが現実。
哲学的ゾンビは自分は人だ人間だという感覚しかないからね!
哲学的ゾンビには哲学的ゾンビというクオリアがないんだから当たり前だよねw
214とか215とか211とか209とかね、哲学的ゾンビが哲学的ゾンビじゃない人間についてコメントしてるわけ、面白いよね。 >>217
ということは私は私であると確証できない私は哲学的ゾンビと私は思うわけですね
さて私は私が哲学的ゾンビであるとするとその哲学的ゾンビは私であるなら哲学的ゾンビという言葉は私は人間であるという事の違いは何なのか?
クオリアがあるとかないとか誰がどのように言うのかは分からないけど私は私なんだけど 「我思う故に我あり」みたいな動物的な発言はどうでもいいんですよね
>>217さんは「私」が論理的に説明できるという「論理的」を万人に説明可能という素晴らしい発明をしているようなのでぜひとも「万人に理解できる説明」を期待します 「私は思う」が形而上では無いという事をどのように伝えるのでしょうか? 「クオリアはある」と言って良いと思う
「これは赤色に見えると思う」と「これは苦い」は「同じ」でしょ? 「「赤色に見える」と「これは苦い」は「同じ」」を否定することは「私は私」を肯定するための根拠を持っているよね? 「根拠」って言葉で理解できるだろうと期待するけど「根拠って何?」と「私が思う私」は「同じ」という言葉で説明するこの「同じ」に対して「根拠」なくして
「説明」という行為を行う時の「説明」の根拠とともに「説明」をよろしく! 目の前にいるペットにクオリアについて話してみて自身が納得できる返答があればそれがクオリアだと思うよ 人々の世界の理解は逆転していて、客観物が第一のもので、意識は第二のものと
捉えているようだ。
しかし本当は逆で、意識が第一で、客観物とは意識が想定したものに過ぎない。
そのことをキッチリと理解している人は少ない。 意識が第一とはどの意識が第一なのだろう
書いてる本人の意識が一番優先的なのか、私の意識はそれより劣るのか。
どの意識も一番だとするなら第二の客観物も複数あることになりそうだ。
真や善の複数性の問題をどういう感じに考えてるのかなあ? 地球平面説
Flat Earth
지평설
これ見せればクオリアなんて答え出るでしょ >>230
いちおう説明しとくと普段使用してる言語で見え方が違う事と理解した上で納得できるかどうかという話
地球平面説という文字を読んだ日本人は肯定や否定をして他の2つについては分からないという
Flat Earthという文字を読んだアメリカ人は肯定や否定をして他の2つについては分からないという
지평설 という文字を読んだ韓国人は肯定や否定をして他の2つについては分からないという
この時点でクオリアが何なのかは理解できてると思うけど更に地球平面説がどうかって話になる
肯定否定の根拠は?その根拠の根拠は?etc...
根拠は「私はそのことについて知っているから」以外にある?
ガソリンに火が付くことを知ってることとアクセルを踏んだら車が進むことを知っていることの「知っている」が比較できる?
「できる」という人もいるし「できない」という人もいるだろうけどその根拠の根拠は?
同じだとも違うとも言えないものを断定しようとするのはなぜなんだろうね 見分け方を教えてるんで断定しようとしたいかどうかは見分け方の説明には関係ないのに何故断定しようとすると断定してしまったのかしら 「教える」と「断定」について「関係がない」とするあなたが考えた上で発する言葉が誰にどのように伝わるかについては
>ガソリンに火が付くことを知ってることとアクセルを踏んだら車が進むことを知っていることの「知っている」が比較できる?
で書いたよね ガソリンに火が付くことを知ってることとアクセルを踏んだら車が進むことを知っていることの「知っている」が同じだとも違うとも言えない比較できるかを書いてる当人がわかってないことを聞いてるけど、それは哲学的ゾンビかどうかをクオリアの有無で見分けることとどういう関係性があると思えから書いてるんでしょうからどういう関係を意図できて書いてるのか論理的にまずは解説してもらいましょう。 私の書き方が悪いな
貴方が私に伝えたかっただろう「教える」という文字と印象と私が貴方に伝えたかっただろう「断定」という文字と印象について貴方のその後の行為によって私は貴方が比較できなかったのだろうと私は理解はできたと貴方に伝えることができる
しかしこれでは互いに意思疎通が取れない
私は貴方が>>217と推測することで私はそうであるという前提とするつまりそうであることを私は納得して書く
こういうことです 解説はいつでも構わないし、こちらもそれにレスするかどうか気分次第だから >>235
何言ってるかわからないんで悪いけど失礼する >>235が>>217と同じ人として書くけど
>自分が哲学的ゾンビなのかどうかわからない存在が哲学的ゾンビということ。
と「人間」の違いって何?
それって示してるものを車とcarと表現するくらいの違いしかなくない? >>230を>>231で細かく書いたうえで単純に書いたのが>>235
すまぬ... よくわからないが217が効いたのは分かった
とりあえず、落ち着いて読解すれば大した話などしてないのだからドンマイ >>195
低学歴=客観的バカ
低学歴「主観!客観!存在!哲学!!!!」
このコントが無料なのすげえわwwwwww
不可知「性」とか言ってる時点で中卒無職バレバレ
そんな日本語ねえからwww >>195
脳皺さんは否定するでしょうけれども、つまり私の印象ながら、脳皺さんは世界を世界の外側から見ようとしていることになるのだろうと思います。自分が存在していなくても存在しているであろう世界を、自分が存在していないテイで分析しようとしているかんじです。
私としては、世界を認識する者も世界の一部としてあって、そもそも世界を認識するとはどういう現象なのか、そのような問題意識を持たなければ世界がどのようなものなのかという分析には意味がないと考える立場です。
じつは脳皺さんもそういうふうに考えているのではないかとも思うのですが、いかがでしょうか。
>>198
私個人は「認識の対象は存在しない」に確信を持っています。
しかし状況証拠しかありません。なのでもっぱら「存在しないと思う」とか「存在しない気がする」とか、断定しないように心がけています。
もちろん誰がどのような考えを持とうと、それは自由です。
ただ、198さんが「富士山は存在する」と主張するのであれば、そのようにお考えになる理由も添えていただきたいです。さらに富士山自体の存在は意識のハードプロブレムにも関わりますから、198さんがお考えになる意識のハードプロブレムの答えにも及んでいただきたいです。
いかがでしょうか。
>>200
結局ここにいる多くのひとも意識のハードプロブレムの答えは持っていないようです。のみならず答えの導き方さえお手上げの様子です。そして漠然と「いつか科学が進歩すれば自ずとわかる」と信じているかんじです。
しかしじつは物質としての脳が心を生み出しているという現象が、科学的に観測されたという事実はないはずです。それ以前に実体として心が観測されたということすらあるはずはないでしょう。
その意味で意識のハードプロブレムは、少なくとも科学ではない、じつは印象に過ぎないものということになります。このままでは永久に解明されることはないどころか、それ以前に解明に着手されることすらない、何しろ捌くべきサカナがそもそもいないのだから。
私としては、何故多くの人が漫然と状況を見ていられるのか、むしろその方が不思議なかんじがあるのです。 逆だよ。言葉により裁断された性質が同一性を帯びた物事として現れる。 「誂え向き」は、まるで注文して作らせたように、希望どおりにぴったり合っているような場合に用いられる。 「お誂え向き」の形で使われることが多い。 「うってつけ」は、それに合うものはほかにないほどぴったりであること。 良い意味で使われることが多い。
誂え向き(あつらえむき)の類語・言い換え - goo辞書
dictionary.goo.ne.jp › 類語辞書 「認識対象は存在しない確信」
これじゃあいくら「この世の証拠」を示したとしても仕方ないよね。だって証拠や証明は「この世」にしかないから。だからいくら証明してもこの世にある限りそれらは嘘とか偽として扱われる。意味ないじゃん。
メンタルヘルスをおすすめします🤗 >>243
明日セカイが滅ぶとしても、ボクはリンゴのタネを蒔くだろう、
収穫どころか芽が出る確率さえ天文学的に低かったとしても、タネを蒔くことに意義がある、
そのように思うことにしています。ダサいけど。 >>248
そこで私がいつも引っ張り出すのが「盲人象云々」です。
私の断定は私が見た世界の一部に基づくものにすぎません。
そこで私に見えていない部分をご指摘していただきたいのです。 >>250
え?
認識対象の一部分しか分からないときは「認識対象は存在しない」ということで、逆に認識対象の全体が分かるときは「認識対象は存在してる」ということなの? ウルトラマンは実在しない、探すまでもない。
物質は実在しない、探すまでもない、と私は思うということです。 ウルトラマンは実在しない、探すまでもない。
物質は実在しない、探すまでもない、と私は思うということです。 >>200
とりあえずあなたに見えていないというか見ようとしていないのが、物質および電気的・化学的反応の集合体である脳から、どのようにして主観的な意識体験(現象意識、クオリア)というものが生まれるのかという問題のことを意識のハードプロブレムというんだという定義を共有しようとする意思だと思うよ。
物質およびの時点で物質は存在しないという前提の人が意識のハードプロブレムは疑似問題だそんな問題は存在しないと漫然と断定してるその意識について考えるのが大前提のスレなんだけど。
そういう人に何故意識のハードプロブレムについてあなたの知らないだろうと思えて、他の人が考えぬいた意見をご指摘するサービスを提供しなくちゃいけないのかという気持ちになるでしょう。
あなたにこれは見えていないよねというと、それはわからない懐疑的ではあるけど根拠はない、あるいは私がこう思うだけだ、代わりに証明してくださいといい出すのが常だから誰にも手に負えない、そこであなたの主張の非論理性を否定されるという流れになる。
この状況を認められないあなたの方が不思議なかんじがあるんだけど。 もしあなたが認識の対象なり物自体なり物質なりが存在するとお考えになっているのであるならば、そのようにお考えになる理由をお伺いしたいのです。
できればあなたがお考えになる意識のハードプロブレムの答えについてもお願いします。これは答えそのものではなくても、予想でかまいません。
もちろん私はケチをつけることになると思いますが、ケチのつけようがないということになればさっそく改めようと思っているショゾンです。 >>255
私もサービスしていただけるとは思っていません。
ただ、それぞれのなかで、ではもし物質が存在すると考える理由を誰かに説明するとするならば、どのように説明するのか、そういうことをお考えいただきたいのです。
するとじつは説明できないということに気付くでしょう。
問題意識を持っていただきたいのです。
さて、それ以前ですけど、あなたにとって物質の定義とはどのようなものでしょう。
たいていの人にはこの問いにさえ答えていただけませんが、内容によっては私もそのようなものの存在を認めるかもしれません。(実際にスレ主がいうところの物質は実在すると言い得るものだと考えています)
もちろんお答えは気が向いたらで結構です。 ただしみんなで考えたというのは根拠としては弱いですね。
みんなで間違えるというのはよくあることです。 >>244
多くの方々が「富士山を思っている」と思います。いちふじにたかさんなすび っていうように、ふじさんはあるのではないか。
ウルトラマンは実在しないって、納得いきません。でも、ウルトラマンは実在するって私は知っています。
富士山はあるという知識を持っていることを、どうしてでこすけ氏にうまく伝えられようか。
富士山に登ったことがある、こういう方はいらっしゃると私は思う。
例えば、富士山がないとします。で、富士山がないというのに「富士山に登った」と誰かが言います。
いいや、富士山はないのだから、登ってないと主張します。すると「富士山に登った」と先に言った人は、「「あれ〜さっき富士山に登ったんだけどな〜〜登ってないじゃなくて、登れてよかったなってほめ言葉くれないんか〜」
もう一例。「ウルトラマンは実在しない」とします。ウルトラマンを見つけた!
ウルトラマンは実在しないから見つけてないでしょ。・・・
そうなの〜ウルトラマンって実在しないの〜じゃあ僕何見てたの〜。
富士山の写真もウルトラマンの写真もあるんじゃねーの。 >>255
あと、これは重要なことですけど、
私の主張は根拠が弱いかもしれないけれども、まったく無いわけではありません。
私が物質は存在しないと考える理由は最近もどこかに書いたはずですが、それについてのあなたのご意見も伺えればと存じます。 、そのように考える理由ですが、
物質は常に精神的なものとして現れ、物質そのものが観測されることがない、実在する直接的な証拠が無い、
世界が物質と精神との二重構造をもっていることに必要性とか必然性とかを感じない、むしろ不自然に思える、
物質が無かったとしても体験世界は成立する可能性がある、むしろ物質を想定すると理解が困難になる印象のものがある、むしろ無いとしたほうが整合する可能性を感じる、
物質という概念の発生起源が疑問、 >>252
いきなり「盲人象云々」と言われても話の流れに合ってないと思うんだけど
それに「見えていない部分」が何を指しているのかも分からない。
・認識対象→見えている部分
・認識対象(物自体)→見えていない部分
こういうこと? >>259
私が言っているのは着ぐるみのウルトラマンのことではなくて、光の国からやってきたという設定の架空のキャラクターのことです。
しかし番組の制作者がフィクションのつもりだからと言って、実在しないと断定はできません。ウルトラマンは実在し、自分たちの存在を主張するために円谷プロにテレパシーメッセージを送って番組の制作を促したのかもしれないのです。
さてあなたはテレパシーメッセージ説をカンペキに否定できますか?
私はカンペキに否定する必要は無いと思ってます。 >>262
「盲人象」でググると「群盲象を評す」が出てきました。私の記憶違いだったようです。
しかしまさに「群盲」つまり私の確信は私が触った世界の断片に基づくものかもしれないが、事情はみんな一緒です。みんな世界のすべてを知り尽くして言っているわけではないはずです。
みんなで富士山に登って、みんなで富士山に登った思い出を共有しているから、富士山は存在する、
私はそうは考えません。思い出などを共有する仕組みは他にも考えられるからです。 >>256
>もしあなたが認識の対象なり物自体なり物質なりが存在するとお考えになっているのであるならば、
などと思っておられるあなたの気持ちは、あなたがそういう感覚を意識出来ている対象が存在しているからで、その証拠に文章という形で表現されているから私は存在を認識できると考えられるという理由ですね。
>できればあなたがお考えになる意識のハードプロブレムの答えについてもお願いします。
私の考える意識のハードプレブレムは>>255の意識のハードプロブレムの定義を前提にした答えです。
>もちろん私はケチをつけることになると思いますが、
ケチをつけたいというなら仕方ありませんが、私の答えの前提となる意識のハードプロブレムの定義は、あなたの意識に認識として理解できていない存在なので、あなたが認めていない存在を対象にケチをつけるだけなので、単に文句を並べる愚行にしかならないことは予め忠告させていただきましょう。 >>266
心で確信したとしても存在する訳では無いとするなら、デカルトの「我思う故に我あり」についても同意しないということだろうか。
「自分を疑っている自分」は「存在しない」
いやそんなことは無いだろう
存在と認識は関係する。だから「富士山の存在」と「富士山が存在するという認識」も関係する。 >>265
「見えていない部分」というのは、見えていないことが分かっている部分です。
私が気にしているのは、「見えていないということさえわからない部分」 >>267
ではどのようにして脳は心を生み出すのでしょうか? >>263
テレパシーかい?私の知っているテレパシーなら実践する場合があるよ。
遠くの者に電話をかけなくても話せるけどな、こんなの色々な方々がやってたはずだけれども、なんで知っていないのかな >>269
『ジョハリの窓』の類型だろうか。
それが「認識対象(富士山)は存在しない」という話とどう接続するのか?それでも富士山の「誰からも見えていない部分」はあるし、それによって富士山は存在する。
もし富士山の誰からも見えていない部分が無かったら、富士山は存在しない。
https://i.imgur.com/Mj803sV.png >>268
私は以前から、「我思う云々」は間違いだと言ってきました。
「何かが考えている、故に何かが起こっている」
ちょっと違う気もするけれども、とにかく「私」なるものは錯覚だと考えます。 >>273
「自分のことを錯覚だと思う認識(自分)」は「存在する」
このように、どのような懐疑論もデカルトの分析を覆すことはなかなか出来ないと思うが。 >>270
ですからね、ではどのようにして脳は心を生み出すのかと聞かれてもわたしはそんなこと考えていないんです。
それがあなたの意識のハードプロブレムなんですか?
それならあなたの脳があなたの心から生み出せないというだけで、あなたの心とあなたの脳は、私の定義する意識のハードプロブレムとは別の疑問ですし、ご自分で考えてください。んですよ。 >>267
私としては認識の対象を「ある」と表現してもかまいません。むしろあるという趣旨のことを言ってきたつもりです。
ただ、そのようなものは物質として客観的に存在しているのではなく、情報として主観のネットワークに流通しているものだろうというのが私の予想です。
対象は、存在はしていない、しかし無いわけではありません。
あなたがこの考え方を正しいと思うかどうかはともかく、まずは私の言っていることをご理解いただきたいです。 >>276
ではあなたの意識のハードプロブレムの答えに話題を変えましょう。
脳はどのようにしてクオリアを生むのか、ということで良いですか? >>244
おまえが能書きを垂れるのはおまえが思うからじゃないのかアホw
そもそもでこすけなんて糞ネームで登場し続けるということ自体おまえの思考ゆえの承認欲求があるからだろカスw
ちなみにおまえの思考は飾りが多すぎるから根本的な思うという行為から分解できていないのだろうなボケw >>272
富士山の映像は、それを見ている意識の中にだけあるのであって、誰も見ていない角度からの映像は、この世界に客観的には存在していないだろうと私は考えるし、一般的に哲学者にはありがちなことだと思います。
むしろどのようにして誰からも見られていない映像が成立しているのか、解説をお願いしたいところです。 >>279
君が私を論破してしまえばそれではなしは終わるんですよ
何故やらない? テレパシーメッセージ説 って何だったの?知ってるのはいつから? >>244
我々は世界の内側に存在しているわけでは無いので、様々な現象を表層から見ていくしかないでしょう。
また自らが世界の一部であっても、中心(あるいは大半)ではない以上、自己の主観を軸に考える事は自己内を理解する事には大いに役立っても、自己外を理解するにはあまり役立たないと考えるのが妥当ではないでしょうか。
でこすけさんは自己(主観)を中心に世界がある。と、おそらく考えていて、私は世界の中心は自己外にある。(自己(主観)はあくまで世界の一部である自己の中心でしかない)考えているわけですよね。
これは何だか天動説と地動説に似ているかもしれません。
モノがあるか無いか?について、相対的にはあるだろう。
だが、あるモノが異なるスケールにおいても絶対的にそのまま存在するかと言われると、それは無いだろう。
けれども、それは主観や意識、クオリアも同じで分解(スケールを変えれば)していけば形を保てなくなるのでは無いだろうか?
(あるスケールで話す場合、別のスケールを持ち出して比べる事は実はナンセンスなのかもしれない)
もしかしたら物質と精神は対極と言う考え方自体が間違っているのかもしれない。(表面上は対極で間違ってないけれども)
根本では2つで1つと考えれば、無理やりどちらかを切り捨てるより自然であり、整合性がある。
つまり根源というのは物質的でもなく精神的でもなく中立的と言える。(これはゾンビだ)
そして、ゾンビは考えないしクオリアも無いがサイコロを振る。(意識のハードプロブレム問題の核心とはそう言ったものかもしれない。勿論そう結論付けるのはまだ早計だとは思うが) ベルの不等式の破れというのは、ようするに、素粒子というのは観測するまで存在しない、これはわからないだけなのではなくて、存在しないのだということが確定したということだと私は理解しました。ただ、この考え方は私のイメージと合致するので、自分勝手な解釈をしているだけのような気もしています。
にしても、客観的な世界が主観による観測と無関係に存在していると考えている人は、量子論をどう思っているのでしょう。
アインシュタインのように、認めないのでしょうか。 >>282
テレパシー的なものはあります。
しかしウルトラマンはいません。 >>281
アホがおるw
ゆえにいつまでもアホな講釈が続くw ウルトラマンは実在する ←これを私は知っています。
私はウルトラマンが別の星にいることに賭けます。 あくまでもどこかの星にいるんじゃないかな >>283
私は自分が世界の中心にいるとは思っていません。そもそもこの世界には、例えば球面に中心が無いように、幾何学的にも構造的にも中心は無いというのが私の予想です。
世界はそれを認識する人の認識能力相応に現れるというだけであって、認識者は世界をまるっきり創造しているわけではありません。
世界はどのようにして創造されたのか、多くの主観によるいわば共同幻想として創造されたのであって、何らかの主観的なもの(複数)と関わりがなければありえない、
というのが私の予想です。 富士山はないなんて誰も言ってない。でこすけ氏の説明完璧じゃない。 >>287
私はバルタン星人だったら会ったことがあるんですが、ウルトラマンに会ったことはありません。
バルタン星人はめちゃめちゃ恐かった、しかし彼は私をスルーしました。 >>289
私も富士山は無いとは言ってない
存在しないと言っているだけ >>291
君のレスにはオチがないな
私は>>290では出落ちを漂わせつつ普通にオチもつけてみせた。
すべっているかもしれないが。
まあボケなんだろうと思うのでツッコませてもらったよ >>283
ところで主観や意識やクオリアのスケールを変えるというのは、具体的にはどういうことでしょう?
少なくとも物理空間的な大きさは無い印象です。
なお私の主張について、私としてはそのすべてを正確に系統立てて理解している人はいない前提です。繰り返すことに意義があると思ってます。 >>294
おまえほんとキャラが変わったな時計よw あいかわらず根拠の弱いはなしなんですが、
私たちはいろいろなことに関心を持っています。
それで私は今までいろいろなことを語ってきたわけですけど、例えば意識のハードプロブレムの答えとか、進化のメカニズム、二足歩行の起源、言語や貨幣の起源、シュレーディンガー方程式の意味、意識が生成するメカニズム、
しかし、なにひとつ覚える必要はないと思うんだな。
というのは、そういうことというのは何かのひとつのきっかけで、同時にすべてが分かるものだと思うんだ、見通しが良くなるというか、少なくとも私はそうだったし、そういうはなしを聞いたこともあったはずです。
あるいは推理小説を始めたエドガーアランポオがすべての推理小説のパターンをやっているとか、手塚治虫がすべてのパターンのマンガをやっているとか、ビートルズがすべてのパターンのロックをやっているとか、ダウンタウンがお笑いのすべてのパターンをやっているとか、あるいはカンブリア爆発ですべてのパターンが云々とか、知のビッグバンで云々とか、得てしてそういうものだという印象があるわけです。
私としては、きっかけをつかんでいただきたい、
ただしこれはロムっているだけの人に対する希望です。 >>273の
「自分そのものが錯覚」
という話は
哲学的ゾンビのウィキペディアに書いてある 「全人類哲学的ゾンビ」 の事を言ってるのか?
(一般人が受け入れることは難しいが)
意識とは錯覚であり、自我を持つ誰かなどはおらず、
「私」が存在するような気がするときはいつも、その「私」は一時的な虚構にすぎず、
また脳を構成する物質は物理法則に縛られているので私たちに自由意志はない。
もしこの仮定が正しいものであれば、
人間は生まれた時からの環境外部の入力とその反応の出力の積み重ねによっていまここに生きている
哲学的ゾンビの存在そのものである。 >>280
「誰からも見られていない映像」のことなど言っていない。「誰からも見られていない部分」がなければ「富士山は存在しない」というそれだけの話である。
それは富士山の各部分があって富士山の全体が成り立っているということだ。そして逆に富士山の全体が成り立つということは富士山の各部分があるということだ。各部分は見えようが見えまいが存在する。各部分が存在するから全体は存在している。各部分が歯抜けの状態であれば、たちまち富士山は富士山ではなくなる。富士山は存在しなくなる。 >>296
一個の人間に一個の人格が対応しているという認識は、哲学者としてはいかがなものかね。
たいていの人間は状況に応じて複数の人格を使い分けているものなんじゃね。 このスレで最も面白い書き込みは>>28だが
>>172の主張は何が言いたいのかよく分からない
「そもそも物質なんて存在しない」というのは
宇宙の本質は意識だけがあって
素粒子で構成される全ての物質は存在しないと思ってんの? >>295
意識を意識未満の集合体とするならば、その未満を取りだして意識の基準で比較(その逆も然り)しても、未満をうまく捉える事は出来ないだろうと言う予想ですね。
それが量子力学と、この世界にも当てはまりそうだ、と言う考えでもあります。 物質は一切存在せずに精神だけあるというのは
夢みたいな事だよな
いわゆる「現実世界」は存在しない
「全ては夢の中の世界」という主張なのかな >>298
「「私」は錯覚」と表現した意図の半分は、ウケ狙いで、正解であろうとなかろうとインパクトさえあれば良いという程度のアジテーションにすぎない側面があります。
しかしもう半分は、けっこう真面目なつもりの持論に基づくもののつもりです。
持論と言っても基本的にはパクリですが、これは意味の階層論のことです。
これを説明するのはややこしいし、一般的でないのでご理解いただきにくいかもしれません。
いずれにしても重要なのはどちらかといえばアジテーションで、私は煽るしかない、最終的な結論はそれぞれにお考えいただき、自分の中で出していただくしかない、答えは人に教わるものではないという考え方が背景にあります。
で、「「私」は錯覚」のリクツの上での解説ですが、これは私の個人的な世界観が前提になっています。
つづく… >初めに、神は天地を創造された。 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 神は言われた。 「光あれ。」 こうして、光があった。
このような二元論、最初に闇があって、次に光があったというような二項対立を前提とする見方が、物事の在り方を逆立ちして捉える錯誤なのです。
闇と光であれ、天と地であれ、まず二項対立があるのではない。
そうではなく、対比により限定されてどのようにか何かが認識される。
絶対的な「くら(暗)やみ(闇)」といったようなものは存在せず、絶対的な「あか(明)るさ」も存在しない。
あ(明/開)け/く(暮)れ
あか(明)るさ/くら(暗)さ
あか(明/赤)/くろ(黒)
と並べてみれば分かるとおり、
「く(暮)れる」ことにより「くら(暗)く」なり、「くらやみ(暗闇)」が現れ、
「あ(明/開)ける」ことにより「あか(明)るく」なり、「あか(明)るさ」が生じる。
「くらやみ(暗闇)」にも、「あか(明)るさ」にも絶対性はなく、そのいずれも対比により現れるものだ。
そのことは、光が「あか(明)るすぎ」れば、目が「くら(眩)み」、まぶた(目蓋/瞼)を閉じても、「くら(暗)く」はなるが、「あか(明)るさ」が感じられなくなるわけではないことからも分かるだろう。 端的に言うなら、対比することが限定することであり、対比することなしには、何物もあ(在)ると言うことはできない。 存在を先立てることに拘る人々は、それでもまだ、「差異があ(在)る」、または「差異しかない」と言いたがるが、「差異」が表れるのは、対比によってである。 なるほど
存在として認識するためには 『対比』 が必要か
なかなか面白い話だな で、「「私」は錯覚」のリクツの上での解説ですが、これは私の個人的な世界観が前提になっています。
私たちの体験世界は、物質が存在しようとしまいと、意味の階層構造をもっている、という説を私は支持します。
典型は言葉です。音節が単語をつくり、単語が文節をつくり、文節が文をつくり、文が文章をつくり、あるいは音節にもそれを構成する下位があるだろうし、文章の上位も無限に階層を重ねることができるかもしれません。
あるいは部品の集積がパソコンであり、パソコンやテーブルや椅子やいろいろなものの集積が部屋であり、部屋の集積が家であり、家の集積が町であり、
世界は意味の集積だという考え方です。
意味の階層構造にはいくつかの特徴があります。
上位が下位から独立した要素を持つということ。「リンゴ」という文字列があの果物を指していたとしても、「リ」にも「ン」にも「ゴ」にもあの果物を指す必然性がない、あの果物を指すためには「アップル」でも良かったということです。
それから上位が確立しているとき、下位に欠損が生じても、それが自動的に補われるという特徴もあります。例えば「リ◯ゴ」。「リンゴ」という言葉を知っている人と知らない人とでは理解が違ってくるでしょう。
逆に下位に着目したとき上位の消失が起こります。ゲシュタルト崩壊です。リンゴリンゴリンゴリンゴリンゴリンゴリンゴリンゴリンゴ「「リンゴ」て何?」てやつです。
あらゆる概念がゲシュタルト崩壊をすることでしょう、自我、意識、世界、空間、時間、存在、法則、論理、などなどすべては意味に過ぎないもので、上位が成立しているときにしか有効にはならないものです。それ自体で完結することはあり得ないという世界観です。
錯覚というのは私が理解するところによると、人間は何かを認識する際に、それをより効率的に理解するためにバイアスにかけていて、そのバイアスのいわば誤作動が錯覚というふうに聞きました。
なので「「私」は錯覚」という表現は適切ではないかもしれません。「私」という概念の生成は、何かのシワヨセというのはちょっとピンとこなかったりします。
「私」というのは体験世界に生じているいくつかの現象を統合する概念ですが、その統合が有効になるのは、そのさらに上位が確立されているときだけです。その意味では「幻想」の方がしっくりくる気がします。 上で言われてる
「自分」という存在が錯覚なのではないか、という件について
そもそも全ての人間に言える事だが
「自分」とは、「記憶の集合体」である
極端な話
今もし貴方が全ての記憶を失った場合どうなるか
部分的な記憶喪失ではなく本当に全ての記憶
過去の記憶だけでなく言語すらも全て忘れてしまったら
肉体として生きてはいても
「自分」は跡形もなく消えるだろう
記憶とは不思議なもので
いま自分が持ってる「記憶」すら疑い始めると
「世界五分前仮説」などという考え方まで出てくる >>240
すまぬと謝ったのは「あなたが理解できる範囲を私が見誤った」という事への謝罪
あの説明で十分とはならずとも一部は理解できると私は思っていたので
言葉は相手に理解してもらって初めて意味を持つと信じる私のこれは私の失態でしょ
改めてすまぬ… >>230で書いた通り「意識のハードプロブレム」という記号を視覚情報として受け取った時の”それ”を何かしらに当てはめるのはそれぞれの”私”にしかできない
上に書いたこの言葉を理解してもらうことを「私は期待する」というトートロジーだという話
意識のハードプロブレムは「"それ"をどのように伝えることが可能か?」を数学や物理学と同じように一定の制限下で可能なものであるのに日本語という言語で説明しようとすることについて>>230ではわたしなりに示したつもり
しかし理解してもらえないのであれば日本語による伝達に失敗したと"わたしが受け取った"という"感じ"によってわたしは経験によってその後に行う所作として「すまぬ」と書き込んだ
ということなんだけどこのスレにいる人達にここまで説明するのは逆に失礼なのか? そもそもスレのテーマ的に難解な文章になってしまうのは仕方ないんだけど
可能なかぎり誰にでも分かりやすいように書いて頂けると助かります >>313
申し訳ない
「意識のハードプロブレム」と「Hard problem of consciousness」は「同じ」という日本語で表現が可能か?という事です
逆に英語で前者を表現可能か?でもあります
この2つの記号(文字列)が既に「同じ"感じ"」が前提とされていること自体おかしいのではないか?という提言です
分かりやすいように言語としての違いを例に出しましたがこれが色であってもそうです
赤色を見たときに受ける"感じ"がどうであれ「赤い」という言葉で表現することで「同じ」だとするには「赤い」という日本語が前提になるわけです
「赤」と「red」が「同じ」という言葉で表現されることの前提は何か?
これが説明されていない状態で「意識のハードプロブレム」がどうであるかを"伝える"ことができるのか?
方言ですら伝わらないことがあるのになぜこれらが伝わるのかが説明されない限り"感じ"についての「意識のハードプロブレム」の説明はどのようなものであってもナンセンスである
という事をお伝えしたかった 今、あなたには意識がある。
でも、その意識は(あなたが昨晩徹夜していなければ)今日の朝から始まったものだ。
私たちは毎日のように眠る。
眠っていても、夢を見ているときなどは意識があるけれど、意識がないときもあるだろう。
つまり、私たちの意識は、ずっと連続しているわけではない。
眠っているときに、意識は途切れる。昨日の意識と今日の意識のあいだには断絶があるのである。
私たちは、死んだら意識がなくなる。そういう意味では、眠っているあいだは死んでいるのと同じである。
意識だけに注目すれば、眠るたびに死んで、起きるたびに生まれているといってもよいだろう。
しかし、私たちは、そんな風には感じていない。
自分という存在に連続性を感じている。
昨日も今日も同じ自分が生きている、あるいは、昨日の意識と今日の意識は同じ自分の意識である、そう感じているわけだ。
その理由は、昨日のことを記憶しているからだ。
寝ているあいだに意識がなくなっても、脳の物質的な構造は保存されており、その物質的な構造の中に記憶が蓄えられている。
そのため、朝がきて意識が生じると、昨日の記憶を意識が参照して、昨日も今日も同じ自分だという連続性を感じるのだ。
ある意味、私たちは毎朝、世界五分前仮説を経験していることになる。
したがって、連続性の根拠は、意識ではなく脳の物質的な構造にある。
それは少し想像を逞しくして、こんなことを考えるとわかりやすいかもしれない。
もしも、昨日のあなたの意識が、今日は私の体に飛んできて、私の意識になったとしよう。
でも、私の意識になった以上は、私の脳の記憶を参照するので、その意識は昨日も私の意識だったように感じるだろう。
そして、あなたの意識だったことは、きれいさっぱり忘れてしまうに違いない。
もちろん実際の意識というものは、こんな風に人から人へと移れるような、魂のような存在ではないだろう。
脳の物質的な構造が生み出すものだと考えられる。
ただ、ここで重要なことは、おそらく意識自体には連続性がなく、毎朝、新たに生まれてくるということだ。
それは、新しく生まれた生命に、新たに意識が生じるのと基本的には同じである。
私たちは、意識に関するかぎり、毎晩死んで、毎晩生まれてくるのである。 >>315
私たちという言葉を主体とした各々自己の体験に語り掛けるところから急に
>眠っているときに、意識は途切れる。昨日の意識と今日の意識のあいだには断絶があるのである。
他者の視点でのすり替えになってる
やりなおし! まぁ>>315の長文は
ネット記事をコピペしただけなんだけどね
でも今気付いたけど一番最後の行の
私たちは、意識に関するかぎり、毎晩死んで、毎晩生まれてくるのである。
これ原文が間違ってるけど正しくは「毎朝生まれてくる」だな 総体に対する対比は切り分け行為に過ぎないから客観を認めるとも取れそう。
意味の階層は有限の範囲であるだろうと予想。
そして下位の階層においても、そのスケールにおいて上位の階層と相互性を持つだろう。
と言うか下位の階層無しには上位階層は成立しないハズなので、上位が消失しても下位から上位を再構築出来るが、下位が失われれば上位は意味を成さなくなるのではないだろうか?
そう考えるとゲシュタルト崩壊という現象は、下位の階層が上位に負けないほど強い力を持っているとも言える。
例えばリンゴという認識を支えるリンゴ未満の情報はすべて下位の階層の情報と言える。
これらが失われれば上位のリンゴという認識は無意味な単語に帰してしまうだろう。
自己と言うのは自己未満の集合体と言えるかもしれません。
自己のスケールにおいては確かに存在すると言えるのですが、別のスケールにおいては存在しない幻想と言う事も出来るかも。 >>299
個人的ながら、このレスで気になるのは「存在」という表現です。
もちろん多様な意味がありそうですから一概には言えませんが、
例えば「富士山が存在している」というとき、富士山は誰からも認識されていなくても、つまり他者に依存せず、自己完結的に存在できている印象が私にはあります。
しかし自己完結は幻想ではないかというのが私の支持する考え方です。「何か」はそれ以外のものとの関係無くしては成立しない、完全な客観的存在は無い、
ただし、関係とか主観とかの意味は一般的なものより広げる必要があります。甚だ私個人の妄想が混ざるので要注意です。
例えば富士山には見えない部分もあるでしょう。しかしそれは視覚的なものとは別のタイプの関係で成立しているのだろうと考えます。それは五感のような生命的現象とは限らないと予想します。
さて、それでは何故自己完結は無いと私は(も)考えるのか、
それはそのようなものがイメージできないためです。自己完結も、それをイメージしている段階で完全な自己完結ではありません。イメージできないものは意味が無いという考え方です。
すると物理学的にもそのような方向で展開されているというのは個人的には心強いはなしです。量子は観測されなければ現れないことになっているようです。
また、私がもっぱら盾に使っていたのがマイケル・ダメットです。私は彼の本を1行たりとも理解できませんが、彼によると「生命が内在しない宇宙はあり得ない」。あるいは「認識能力のあるものを欠く世界はあり得ない」だったかもしれません。(うろ覚え) >>301
私は唯心論を展開しています。
ただし「心」は一般的なものより広げています。なので「唯心論」という表現は適切ではないかもしれないと考えています。とりあえず物質の存在を否定したいので、便宜的に「唯心論」と表現しているかんじです。
汎心論とも表現しています。 >>302
私には意識が集合体であるイメージがありません。むしろ「これ以上分解できないもの」のような気がしています。
脳皺さんはどのような事例から意識を集合体だと思ったのでしょうか。差し支えがなければお願いします。 >>307
対比とは何かの解説は期待してもよろしいでしょうか。
専門分野ではないかもしれませんけど、漠然としたものでも構いませんので、
気長にお待ちします。 >>312
失礼なやつはいくらでもいます。無料掲示板というのはそういうものです。
言いたいことを言ったもん勝ちの世界だと思ってます。
負けてはいけません。
私も失礼なやつと思われているでしょうけど。 >>323
>対比とは何かの解説は期待してもよろしいでしょうか。
自覚しようとすることを怠るなら、他人に説明を求めても無駄です。
例えば、「対比とは何か」の「か」は、対比を感じることにたいする「『か』へし」でしょう。 名前が感覚を指す裁断からのフランス哲学の解放に、目録作りの千葉も手をこまねいてるからな >>320
そう完全に独立した自己完結した認識対象というものは存在しない。デカルトの「我思う故に我あり」が「存在」の根拠であるから…存在と認識は関係しているから。
ここから始めるべきだよね🤗 「丸い四角形」や「黄色の青色」などの認識は(通常は)不可能なので「存在しない」
これもデカルトの原理的に正しい🤗 >>325
おそれいります。
私は私で答えを持っているつもりです。他所様の意見もうかがってみたいということのつもりでした。
確かに自分の考えを先に述べるのが礼儀です。
失礼しました。
しかし私のイメージはわかりにくいもののような気もします。「創発」という概念に関わりますが、私が理解していたものとググッて出てくるものとでは微妙に違っていて、説明がややこしくなりそうです。
また、対比というのはいわゆる意識に起こる現象だと私は考えますが、意識とされているものについての考察も必要になり、この点でもややこしくなるだろうというかんじがします。
ただ、私は難しく考えすぎなのかもしれません。あるいはもっと違う切り口があるかもしれません。
そこで他所様の意見をうかがってみたかったというわけです。
おそれいります。 いくら別の概念で置き換えて説明しても、どのようであるかが伝わらないなら無駄なんですよ。なぜなら、すると、置換えに用いた概念も別の概念で説明される必要が生じ、その必要性の連鎖に終わりがないからです。 >>327
おそれいります
すると疑問に思うのは、一般的には認識する主体がなかったとされるころ、例えば地球が生まれる前、素粒子や何かはどのようにして存在していたのかです。例えば互いに力などを及ぼし合うというのはどういうことなのか。
ボソンの交換が何故斥力になることもあるのか、というところにもつながる気がします。 >>331
「過去」は存在する。直接観察とかできる訳では無いから仮説としてだけど、人は今現在ある証拠から考慮して、仮説的・理論的に過去を思い描く。だから過去の素粒子などは仮説的に存在している。 そもそも、ひと(人/一)がことばによ(依)りなにがどのようであるかを
伝へようとするのは、を(折)りあ(合)ひをつけるためであって、伝達の効率化をはかるためではない。
だから、伝達の効率化を目的にして言葉をつか(使/仕/遣)おうとするなら、効率化を高めようとすればするほど、言葉遣ひは自動化/機械化されて、ことばを発することは不要となるのである。 そんなことは、ひと(人/一)を人工無能に変換して都合よくつか(使/仕)へるだけの存在にしようとしている側の人々には、最初からよく分かっていることなのだ。 >>322
例えば幼児退行などが意識が単一ではなく集合体である事を示唆する一つの事例かもしれない。
意識が単一であるなら、その成長と共に未熟な部分は書き換えられ強化されるのが自然だろう。
しかし、そう言った未熟な部分が保持されているのは、意識が入れ子のような構造を持っているからではないだろうか?
あるいは度忘れというものもある、ふっとある事が思い出せなくなる。しかしまた次の瞬間、意識したわけでも無いのにそれを思い出す。
これもまた意識未満の存在の示唆、意識が集合体である一つの例と言えるかもしれない。
それとは別にさらに分解できる可能性もある。
体の各部位、細部からの信号、これらもまた人の意識を形作る未満意識と言えるかもしれない。 >>259を書いた者ですが・・・。
Q.富士山はあるか?
A.富士山は在る B.富士山はない C.富士山は存在しない D.富士山という言葉があるだけ
さあどれだろうか? アンケートをたくさんとってみればいいのでは。 あるはあるのに存在するが選択肢にない
変だと思わないのかな? >>337
ないと思うタイプと存在しないと思うタイプに分けてみたい
たしかに根本は同じだろうけど、候補に挙げて違和感を感じなかった
存在する を加えてもよいかもな。変だと思うならそれでいいんじゃねーの 富士山の話をいつまでも続ける意図が分からないんだが
単なる地球の地形の一部分を
人間が勝手に「富士山」と名付けただけなのでそんな物は実在しない
こういう意味ではない?
それ言い出すと「日本」だとか全ての国なんかも存在しなくなるけどね そもそも正直言ってこのスレ分かりにくすぎるんだよな
書いてる本人しか意味わかってないレスがあまりにも多すぎる 世の中、あらゆるすべての状況・状態において不変、絶対なモノなどなく、世界は相対的であるという前提に立てば、あるスケールにおいては在り、あるスケールにおいては無い、と言える。 >>341
書いてる本人もわかってるわけがない
わかってたら低学歴なわけがないからな
わかったつもりになってるだけ
わかったということの基準が狂ってるから低学歴
わかってないことをわかったことにしてるからデタラメ 論は論理だろ?
デタラメな単語の羅列は論じゃねーよ脳障害
自殺しろ 「ほら、見てくれよこの富士山。すげーチョモランマだろ?」と聞いたときに脳裏に浮かぶ富士山が一致していれば存在や実在についても会話できるだろうと思うんだけどどう思う? 文章からすればここに書かれている「富士山」は「日本の活火山としての富士山」では無いことは読み取れるでしょう?
今あなたたちが話している富士山の「存在」って何のことを言ってるの? 「晴れている」という言葉にしてもそう
「(視界が)晴れている」のか「(青空で)晴れている」のか
これ住んでる人の場所によってこの後の会話の流れが変わるんだけどどう思う?
じゃあ逆に「存在」という言葉が人によって変わらないとするならその前提は何? 「我思う故に我あり」もそうなんだけどこれ「A思う故にAあり」としたときのさらに「猫思う故に猫あり」だったとしたら
「我」「A」「猫」はどのように解釈すればいいの?
数学なら「定理」として据えておけるからこれらの言葉にも定理が必要だと思うんだけどこれらの言葉を定理にできずに語ったところで相手に伝わるの? 「我は私なんだから私だよそんなのわかるじゃん」はただの気持ちの発露で「感じ」が不適切に使用された場合と同じく何の説明にもなっていないことはご承知おきを 単語の多義性については「明日は金曜日だけど祝日だよ休みだよ万歳!よっしゃ今から酒を飲んで寝る!」というこの文章の個々の単語についての解釈は多々あれどこれを発した私の気持ちは伝わるといいな ごめん書いてる途中に送信したわ「気持ちは伝わる」は単語の多義性の収束 >>348
存在って言葉を使ってる時点で低学歴無職だから意味ない 理解するという概念を理解してないから低学歴なのに
低学歴が理解したとか吠えてもなんか意味あるのか? 情報熱力学は想像すら物理変化を要求する
物理的に同じなのに想像するのとしない両方の状態を取ることは不可能
クオリアなる妄想を想像するだけで物理変化するから哲学的ゾンビなど想像すら不可能
想像可能性論法とか自殺しろ
そもそも論理的に想像不可能だから
そんなことすらわかってない時点で論理的思考力0 チャーマーズの妄言に何か意味があると思えている時点で脳に障害がある そもそも哲学に意味があると思えている時点で脳に障害がある
歴史を学ばない猿
ウィトゲンシュタインにより論理学的に哲学は論理を満たさないことが証明済み
論理ではないということは妄想
これは確定事項なのに不勉強だから知らない知ったかぶりwwww 難解な言葉を書いてる人たちよりも
無意味な暴言で他人を煽り続けてる人が最も知性が低い 暴言は30個くらい個別にNGしたら全部見えなくなったぞ
語彙が貧困で助かったわ >>363
難解でもなんでもない
バカが知ったかぶりしてるだけ >>364
低学歴だから難しそうな言葉を並べたら考えたことになると妄想してるだけ >>363
知性ってあるかないか
多いか少ないか
低いとか言ってる時点で低学歴丸出しすぎる
低いのはお前の知能な?
低学歴だから的とか性とかつけたら賢そうに見えると過学習してんのウケるwwwwww 小学生レベルの語法すら理解してないくせにwwwww >>363
知性がwwwww
低いwwwwww
そんな日本語ねえよ低学歴無職wwww
知能低すぎ自殺しろ 「知性が低い」と書けてしまう時点で脳障害
生きてる意味ないよ自殺しろ なんか懐かしいな2ch時代を思い出す
ガイジ釣って遊ぶスレになったのか
「低学歴」 ← これ連呼する奴はワクチン打ってしまった自称エリートだから完全に負け組 こんなガチの重度な精神疾患の人間にも「意識」がある
あえてそれを示すためにこのスレで暴れてるんだとしても目障りすぎる ちなみに知性とは
「知的作用を営む能力」
これを「低い」と表現するのは何も間違っていない
ガイジにはそれすら理解できないだろうけど ワイワイ楽しくやってるところに粘着してくるあたり精神異常者なんだろ。この画像と同じタイプの異常者。煙たがられて疎外されてるだけなのに、本人は会話の輪に入っているつもりなのかな?
本当にそう思ってたならキッショいよなぁ。
https://i.imgur.com/HRcchGk.jpg そもそも哲学に意味があると思えている時点で脳に障害がある
歴史を学ばない猿
ウィトゲンシュタインにより論理学的に哲学は論理を満たさないことが証明済み
論理ではないということは妄想
これは確定事項なのに不勉強だから知らない知ったかぶりwwww >>376
完全にあり得ない
低学歴無職丸出し
間違いしかない
妄想垂れ流しでも意味ない
知能は高い
知性はある
日本語すら知らないから低学歴無職なんだろ >>376
能力じゃないよ脳障害
能力がある性質
そこからしてデタラメで間違い
全てが間違いだから低学歴なんだよお前は >>377
そもそも哲学に意味があると思えている時点で脳に障害がある
歴史を学ばない猿
ウィトゲンシュタインにより論理学的に哲学は論理を満たさないことが証明済み
論理ではないということは妄想
これは確定事項なのに不勉強だから知らない知ったかぶりwwww
1921年以降に哲学とか吠えてる奴は
人工衛星打ち上げ後に「地球は平面だ!」と吠えてるのと何も変わらない
生きてる意味ないよ >>376
性って文字の意味すらわからない中卒無職
性は性質だぞ特性だぞ
能力じゃねえよ猿 小学生レベルの漢字の読み書きすら出来てない発達障害wwww >>363
知性がwwwww
低いwwwwww
そんな日本語ねえよ低学歴無職wwww
知能低すぎ自殺しろ >>376
性って文字の意味すらわからない中卒無職
性は性質だぞ特性だぞ
能力じゃねえよ猿
自殺しろ 知能はcapabilityだから量が多い・少ない レベルが高い低いというカテゴリ
知性はpropertyだから特性がある・ない 備わっている・いないというカテゴリ
そんなことすらわかってない低学歴無職wwwwww
「知性が低い」wwwwwwww
知能低すぎ知性無さすぎwwwwwww >>376
性って文字の意味すらわからない中卒無職
性は性質だぞ特性だぞ
能力じゃねえよ猿
自殺しろ
知能はcapabilityだから量が多い・少ない レベルが高い低いというカテゴリ
知性はpropertyだから特性がある・ない 備わっている・いないというカテゴリ
そんなことすらわかってない低学歴無職wwwwww
「知性が低い」wwwwwwww
知能低すぎ知性無さすぎwwwwwww
>>363
知性がwwwww
低いwwwwww
そんな日本語ねえよ低学歴無職wwww
知能低すぎ自殺しろ 能力と性質の区別すらつけられない猿が哲学とかウケるwwwww 能力と性質の区別すらつかない脳障害が「存在」とか吠えてんの
最高に笑えるwwwwwwwwwwwwwwwww
文字の読み書きすら出来ない猿の鳴き声でしかないwww
言語ですらない 同じことを何度となくレスする人は知性も知能もない。
おまけにだらしないw >>376
性って文字の意味すらわからない中卒無職
性は性質だぞ特性だぞ
能力じゃねえよ猿
自殺しろ
知能はcapabilityだから量が多い・少ない レベルが高い低いというカテゴリ
知性はpropertyだから特性がある・ない 備わっている・いないというカテゴリ
そんなことすらわかってない低学歴無職wwwwww
「知性が低い」wwwwwwww
知能低すぎ知性無さすぎwwwwwww
>>363
知性がwwwww
低いwwwwww
そんな日本語ねえよ低学歴無職wwww
知能低すぎ自殺しろ >>391
「何度となく」という日本語にそんな意味はない
なんで低学歴って賢く見せようとして知らん言葉使って恥晒すの?ん? 低学歴にとっては
「難しそうなカッコいい言葉を使うこと」=「賢くて物事を考えてること」
なんだろうなwwwwwwwww
バカすぎて笑えるwww
しかも意味デタラメで間違ってるから最高のコント 論理とか正しさとか証明という概念を理解できてないので
使う言葉が簡単だと正しいかどうかわからないと思ってるのなwwwwww 能力と性質の区別すらつかない脳障害が「存在」とか吠えてんの
最高に笑えるwwwwwwwwwwwwwwwww
文字の読み書きすら出来ない猿の鳴き声でしかないwww
言語ですらない なぜ繰り返し執拗に指摘されるかすらわかってないから低学歴なんだろうなあww
低学歴は都合が悪いこともやり過ごせば逃げられると思ってるんだろ?
そんなのわかりきってるからやり過ごすことを不可能にしてるんだよ脳障害wwwwwwww
能力と性質の区別すらつかない脳障害が「存在」とか吠えてんの
最高に笑えるwwwwwwwwwwwwwwwww
文字の読み書きすら出来ない猿の鳴き声でしかないwww
言語ですらない 低学歴は100%都合が悪いことから逃げるんだよ
逃げずに向き合ってたら低学歴になるわけないからなwwww
だから逃がさない 低学歴ってさ
「逃げグセのある嘘つきのクズ」であることが原因で
その結果として「知能が低い」ので
さらにその結果として「低学歴」なんだよ
そこからしてわかってねえだろ
まあわかってたらそんな状態にならねえよなwwwww そもそも哲学に意味があると思えている時点で脳に障害がある
歴史を学ばない猿
ウィトゲンシュタインにより論理学的に哲学は論理を満たさないことが証明済み
論理ではないということは妄想
これは確定事項なのに不勉強だから知らない知ったかぶりwwww
1921年以降に哲学とか吠えてる奴は
人工衛星打ち上げ後に「地球は平面だ!」と吠えてるのと何も変わらない
生きてる意味ないよ そもそもIDなしにするからキチガイが住み着いて延々と連投してるんだろ
この板ってID付けること出来ないのか? しかし今時こういうタイプ珍しいな
草生やしまくって同じことしか言わない荒らし
15年前くらいから時間止まってる そもそも哲学に意味があると思えている時点で脳に障害がある
歴史を学ばない猿
ウィトゲンシュタインにより論理学的に哲学は論理を満たさないことが証明済み
論理ではないということは妄想
これは確定事項なのに不勉強だから知らない知ったかぶりwwww
1921年以降に哲学とか吠えてる奴は
人工衛星打ち上げ後に「地球は平面だ!」と吠えてるのと何も変わらない
生きてる意味ないよ >>402
1921年に証明済みの定理すら知らんとか教養なさすぎ 低学歴ってさ
「逃げグセのある嘘つきのクズ」であることが原因で
その結果として「知能が低い」ので
さらにその結果として「低学歴」なんだよ
そこからしてわかってねえだろ
まあわかってたらそんな状態にならねえよなwwwww >>402
1921年に証明済みの定理すら知らんとか教養なさすぎ >>311
>「あなたが理解できる範囲を私が見誤った」という事への謝罪
それならそもそもあなたのミスで>>217のミスじゃないから>>217に謝罪する筋合いないよね?
他人の理解できる範囲を知ることはできないからそもそも見誤りようがない。 続き
謝罪したい気持ちが本心だったなら、あなたは他人の理解力をみくびっていた事の非礼と、
>>230の書き方がそもそも不十分だったこと、
すまぬと書き込んだことで理解力のある自分の責任だったと反省しているように見せかけ
>>312で>>217と違って理解力があるスレの人達に説明するのは逆に失礼なのか?とスレの人達を巻き込んでまで自己正当化して>>217の理解力のなさにしたいがために矛先を変えようとしたことを猛省してこのスレにいる人達を含めて改めて懺悔しては? >>217
自己言及パラドックスすら理解してない中卒無職 >>408
そもそも低学歴はバカに生まれてきたことを詫びて自殺するべき >>409
自己言及のパラドックスについての認識に
一言も言及できないミニマウスが
ビックマウスでワロス >>411
自殺しろ
2 考える名無しさん[] 2024/02/08(木) 17:24:05.03 0
100年前に哲学が死んだ経緯
・ラッセルのパラドックスが発見され通常の論理学では回避できないことが判明
・ラッセルはパラドックスは論理学の仕組みに問題があることを見抜いてパラドックスがそもそも起こらない論理学の仕組みを構築(自己と自己言及を明確に区別して混同しないルール)
・ウィトゲンシュタインはラッセルの弟子であり論理学の仕組み追求しようとした
・ウィトゲンシュタインは新しい矛盾のない論理学で何を言えるのか研究したところ形而上学や哲学を論理的に扱うことは不可能であることが判明
・形而上学や哲学は論理学を誤って用いたことから生まれる全く意味のない妄想であることを指摘した
・このプロセスは論理哲学論考において数学の証明として掲げられている
・現在までにこの証明に反証出来た人間は歴史上1人も居ない
つまり100年前から哲学者を名乗った時点で不勉強な無知または詐欺師であることは確定している
賢い哲学者というのは論理的に存在不可能
低学歴すぎて証明の意味すら理解できないのかwwww
数学で証明されたことは本人の希望で撤回したりできないぞ?
自殺したら?脳障害
ウィトゲンシュタインが泣いて謝っても哲学が無意味であるという証明を変えることは不可能
撤回も転向も全く不可能
死んで詫びても無意味 >>412
読んでないけど
自己言及のパラドックスについての認識に
一言も言及できないミニマウスのまま
長々投稿してもただのビックマウスw >>413
言及しかされてないのに脳障害だから文字が読めないのかwwwww
自殺しろ >>413
そもそも認識とか言ってる時点で中卒無職 自己言及のパラドックスについての認識に一言も言及できないビッグマウスがミニマウスでビビックマウスについての認識を言及させられてでワラタ >>408
やっぱり伝わってないのか
どこが伝わっていないのか教えてもらえないかな? >>408
あなたがそのように受け取るのは何故か?
何故あなたはわたしが自己正当化していると感じたのか?
まずわたしは自己正当化はしていないと言う
何故あなたはわたしが矛先を変えようとしていると感じたのか?
わたしは矛先を変えようとはしていないと言う
私がいくつかの言語で書いたことの"それ"は「矛先を変える」と「矛先」は相手に伝える印象が違うという事と同様であるということを示していたのですが
この時にわたしが「伝える」という行為をもって書いた文章が相手に伝わらないのであれば日常生活で行う行為をするのは自然だとは思いませんか?
わたしが自然に行った行為に対してそれは意図的に行ったと受け取ったあなたのその返答が>>230で書いたことを示しているように見えませんか? あなたが書いた「哲学的ゾンビ」や「存在」はきちんと相手に伝わっていますか?
それこそよく騒いでる彼がなにかと持ち出すウィトゲンシュタインが後期で綴ったことですよ >>419
どうしてビッグ知らなくてビックとか書いたん?
中卒無職だから? >>419
自己言及パラドックスのことしか書かれてねえよ脳障害
認識という単語が無意味なだけ >>421
脳障害中卒無職があなたとかわたしとか丁寧語並べてもバカはバカのままだぞ 口調や用語で賢さが決まると思ってるから低学歴なんだろwww >>419
自己言及パラドックスについての認識って何?
認識とか言ってる時点で脳障害中卒無職 >>411
自殺しろ
2 考える名無しさん[] 2024/02/08(木) 17:24:05.03 0
100年前に哲学が死んだ経緯
・ラッセルのパラドックスが発見され通常の論理学では回避できないことが判明
・ラッセルはパラドックスは論理学の仕組みに問題があることを見抜いてパラドックスがそもそも起こらない論理学の仕組みを構築(自己と自己言及を明確に区別して混同しないルール)
・ウィトゲンシュタインはラッセルの弟子であり論理学の仕組み追求しようとした
・ウィトゲンシュタインは新しい矛盾のない論理学で何を言えるのか研究したところ形而上学や哲学を論理的に扱うことは不可能であることが判明
・形而上学や哲学は論理学を誤って用いたことから生まれる全く意味のない妄想であることを指摘した
・このプロセスは論理哲学論考において数学の証明として掲げられている
・現在までにこの証明に反証出来た人間は歴史上1人も居ない
つまり100年前から哲学者を名乗った時点で不勉強な無知または詐欺師であることは確定している
賢い哲学者というのは論理的に存在不可能
低学歴すぎて証明の意味すら理解できないのかwwww
数学で証明されたことは本人の希望で撤回したりできないぞ?
自殺したら?脳障害
ウィトゲンシュタインが泣いて謝っても哲学が無意味であるという証明を変えることは不可能
撤回も転向も全く不可能
死んで詫びても無意味 >>348
>文章からすればここに書かれている「富士山」は「日本の活火山としての富士山」では無いことは読み取れるでしょう?
いや全く読み取れないんだけど…
じゃあ何なの???
「富士山」って、他の意味ある? 結局のところ
このスレは
「何が言いたいのかさっぱり分からない」レスが多すぎるんだよ
スレタイについて普通に議論できないのか? >>431
>>結局のところ
>>このスレは
>>「何が言いたいのかさっぱり分からない」レスが多すぎるんだよ
ほう。何が言いたいか分からないか。ふむ、たしかにそうかもしれない。
結局のところ、『てきとう』なんだな。でこすけ氏も脳皺氏も『てきとう』に書いてるようだ
まあ、超球面氏もそうだ。わかりずらいのはてきとうに書いた故かもしれぬ ①書き手が適当に書いている
②読み手の読解力がない
さあどっち?
両方かな >>433
両方の場合もあるだろう
でも前者だけのパターンが多く、後者だけのパターンは少ない >>434
ここのネームドキャラは昔からいるから
過去スレの文脈から辿ってないと理解できないこともあるかもしれないが >>230の見せれば分かるクオリアはあなたの見識では感覚の答えの出し方ではなくて、クオリアの答えの出し方だと認識してる前提なんだから、あくまでもあなたの感覚質と感覚がないまぜの答え。
>>230で出る答えがクオリアだけ出るなら、あなたの感覚であなたが感覚質を、あなたの感覚質であなたの感覚をそれぞれどうやって識別したのか、>>230の譬喩では比較対照になってない。
だから>>230でクオリアの答えでるというなら、論理的に文法使って客観的にクオリアを識別した実際の過程を文章で論証する他ないですね。
実際文法使って客観的に文章で、どうやって区別してクオリアの答えがでるでしょと考えられる認識を得たのか、クオリアの答えあれで出るというなら他者にも区別つくように識別プロセスを文章で明らかにすればいいだけだから、どうぞ。 >>430-436
中卒無職の妄想になんか意味あんの? >>436
哲学的ゾンビ→物理状態が同じなのにクオリアの有無とやらの違いがある哲学的ゾンビなるものが想像可能という主張
「クオリアの有無」は少なくともの1ビットの情報記録を必要とする
チャーマーズは知能が低すぎるから情報熱力学を知らない
1ビットの情報の違いがあるのに物理状態が全く同じなどということはエネルギー保存則に反する
同じ物理状態なのに「クオリアの有無」なる1ビットをさらに書き込めるという想像は物理状態を変えずに1ビットの情報を書き込めるという主張そのものになり情報熱力学から1ビット分のエネルギーを物理状態を変えずに取り出せると主張したことと等価になる
つまり何もないところから無限にエネルギーを取り出せるという主張と哲学的ゾンビは等価であり
そのようなことは想像すら不可能
つまりチャーマーズは生きてて恥ずかしいレベルの低学歴脳障害 低学歴の思いつきなんて100%デタラメ
だって低学歴なんだからw >>436
あなたの言う「感覚質」と「感覚」を貴方の感覚としてどのように識別しているかわたしには分かりません
>クオリアの答えの出し方だと認識してる前提なんだから
とあなたが認識することはなぜか?という話をしていることが伝わらないことは仕方がないという話です
あなたがいう「感覚質」と「感覚」が違うとはどのようにあなたは説明されますか?
またそれが相手に理解されたと"あなたが理解する"とする根拠はどのようなものでしょうか?
>比較対照になってない。
「比較する」とはどのようにして可能か?その説明がないことがないままにあなたが主張するという行為はどのような"感じ"によって行われたものでしょうか?
まずこれのコンセンサスが取れないまま各々が"感じている"だろう状態で意識のハードプロブレムについて語ることができるのか?
「感じるとはどういうことか?」は「比較する」ことができるのかという話を>>230でしたつもりなのです
しかしあなたの説明からするとわたしの書いたことは"わたしに伝わらない"とあなたは受け取ったようですがそれがどういうことかをあなたは理解しているという「わたしの理解」はあっていますか?
そうであればあなたは「あなたに伝わるであろう」説明を可能であるというわたしの理解は合っていますでしょうか?
>>430が「いや全く読み取れないんだけど」という主張がわたしの主張に対して彼がどのような主張をしたのかということは「比較対象」として可能なのでしょうか?
「比較」というものはどのようにして可能か?わたしが理解している限りでは「クオリア」は「感じ」というものだということなのですがこれはどのようにコンセンサスを取ることができるのでしょうか?
わたしが理解している限りで「コンセンサス」とは「感じ」が「合意」されることと理解していますがこの「コンセンサス」や「合意」はどのように"感じる"のでしょうか?
しかしわたしたちは日常で語を使用していて不便を感じることが少ない
音が言葉であると理解できるのは何故か?言葉が"伝える"という行為が可能であるとわたしが理解できるのは何故か?
そういう基本的な話をしたつもりです 一つ例を出しましょう
赤ちゃんが言う「ブーブー」とそれを聞いたわたしが「赤ちゃんは何を"言っている"のか?」
また私たちが言う「車」または「車両」は同じか?
そして赤ちゃんは自転車を「ブーブー」と言うでしょうか?
この時に「言う」と「言わない」に分かれることは何故か?という話をしています
赤ちゃんは「ブーブー」と言ったときにどのように"感じる"のか?またどのように「"感じた"と言う」のか? もう一つ
「正しい」が否定された場合に「間違っている」という言葉が使われることが多いように思うのですがその言葉はどのような根拠で発せられたものでしょうか?
"「正しい」の否定は「正しいでは無い」"という理解なのですが往々にして「間違っている」という言葉で説明されるのは何故か?
また「間違っている」という言葉で日常の会話において成立するのは何故か? 二値論理ではTrue/ Falseであり、¬True=False , vice versa となる
つまり、そこに格段の問題はない >>446
無粋だとは思うのですが答えておきましょう
喃語という言葉で説明されるものは何か?の話をしています
つまり「喃語」という言葉が"伝わる"だろうというあなたの期待はどのようにして生まれたのか又あなたの言葉をわたしは"このように理解した"というのはどのようにして可能かという話をしています 言語はコンスタティブ/パフォーマティブの二項関係、あるいは、その関数やグラデーションとして表され、使用される >>448
ありがとうございます
「二値論理では」はわたしも"感覚的"にはそれに同意したいところなのですが「あなたが二値論理を前提とするのは何故か?」ということです
あなたは「二値論理」なるものを前提として相手に理解してもらうことを"期待して"話を行っていると思います
しかしそれを私が理解できなかった場合に「二値論理」なるものが貴方の説明する行為を私が理解するための意味をなさないという状況が発生します
これはわたしの経験上皆様も日常生活で往々にしてぶつかる問題かとは思いますがそこで「何故伝わらないのか?」という感じはどのようなものか?
わたしは貴方の書いたことに対して応えただけであって貴方が主張するという行為にに感謝します ウィトゲンシュタインが「それはどのようなものか?」と言ったその言葉をカントの「それは何故か?」という言葉で問うた場合にわたしたちはどのように”伝える”のか? 「意識のハードプロブレムについて語ることができるのか?」この疑問は意識のハードプロブレムを考えられる段階にないと判断しました。
諸々の?についてはあなたがクオリアは感じというものだと理解したように、あなたなりに解釈していただければ構いません。 ポストポスト構造主義を薄めて伸ばすと東らの政治的に柔軟で中立な、協同する視点になって 長文で言葉遊びしても全く話が進まないんだよ
スレタイに沿ったシンプルな話をしたいんだけど
人間が死んだ後
「意識」はどうなるのか
これについては色んな実例がある「臨死体験」とか「前世の記憶」などで
「肉体が死んでも意識が完全に無になる事はない」可能性が高いから
唯物論よりは唯心論が正しいかもしれない 我々が日常で「客観的」と思っているものは、実は心/精神/意識の
産物であるとの思いは、随分古い時代からあったと思われる。
墓に埋葬している旧石器時代には既にあったろう。
一方で、「客観的世界」が第一のもので、「意識」は第二のものだ
との思いも人々に根強いものだ。
「意識」が第一で、「客観世界」は意識が想定したものに過ぎない。
こんな当たり前のことすらキッチリと理解している人は少ない。 「客観的世界なるものは意識が生じさせた産物だ」
との理解が正しいとしても、不可解なのは二人称の存在だ。
「汝」は「私」に含まれていないように見える。
あれこれの風景や物を、私の意識の産物だと捉えることは
さほど難しくないが、「私」に迫ってくる「汝」を、
私の意識の産物とは捉えにくい。 「私」に侵襲してくる「汝」の感受を、すぐに「他我」の存在とするのは早計である。
「他我」は「客観物」と同様に仮定に過ぎない。
今のところ「汝」は「私」にとって「異物」、あるいは「他物」とでも言うしかない。 そういう私にとっては「意識のハードプロブレム」は存在しない。
この問題は唯物論者のもので、私には問題ではない。
その代わり「汝」のハードプロブレムが残る。 「無意識」は仮定の産物。その構成方法は「客観物」と同じもの。 実は「意識 = 現象」であって、全てが現象だ。
その現象になぜか「私」が潜んでいるかのように見える。
「現象 = 私の現象」のように思えるのだ。断じて「汝の現象」ではないが。
その現象世界を唯物的な仮定の下に理解しようとするから、
「意識のハードプロブレム」が生じてしまう。 しぶき氷という看板が道路沿いにある。それを見た人は、しぶき氷があるのではと考える。
この時のクオリアはどのようなクオリアか。しぶき氷を感じるか。(そのしぶき氷は具体的に何なのかが大事)
具体的にどういうしぶき氷を感じたのか。
氷の芸術であるしぶき氷は温度が高い季節では姿を形成していないことがある。
しぶき氷と書かれた看板があっても、一年中しぶき氷があるわけではない。(看板は一年中あるが)
そうした中、しぶき氷が無くても、しぶき氷の看板を見たら、どう感じるか。
そしてまた、しぶき氷があるときに、しぶき氷の看板を見たら、どう感じるか。 クオリアは現象の一部であって、ことさらあげつらうものではない。
すべては現象であって、現象にはクオリアが伴う。自然なことだ。
「脳の中でクオリアが湧いてくる」みたいに考えるのは間違い。 さしずめ「物」に対して独り言をしているという話か。壁に向かって話しかけてるように。
でもここに書き込む時点で、他者の意識の存在を意識しているし、それに対して自らの承認欲求を満たしてほしいと希っているものなのに。
それでいて他者、他我が存在しないと言うのは、私からするともう噴飯もの。
もしかして生成AIと他人の区別が無い人なのかと。つまり自分の欲求の種類について何も知らない人なのかと笑っちゃった。 ソクラテスの受けた神託に似てるけど『汝自身を知れ』ってことなんだと思うけどね。
他我は存在しない他物だなんてソフィストと同じタイプに見えたよ。 現象は直接体験であり第一義のものだ。
現象を理解しようとするとき「外界」とか「客観物」とかを
仮定するから意識のハードプロブレムが生じてしまう。
現象を現象のまま理解できればよいのだが、一切の現象を
定量的に把握したり、数学的記述をすることが難しい。
そこで意識のハードプロブレムは置いといて、外界や客観物を
仮定すれば、定量的な把握や数学的記述がやりやすい。
しかし世界の半分は理解できないままになる。 他我は存在しないと言っているのではない。
他我の存在は仮定に過ぎないと言っている。
しかし、現象の中に「汝」があるのは事実。
それがハードプロブレムだと言っている。 通常「仮定」しながら人(他人)と会話しないとないけどね。そういうことに「仮定」という物を持ち込む事自体が、不自然な行為あるいは作為的な行為あるいは自分の出したい結論に近づけたい行為あるいは論点先取だと気づいてほしいね 間違った仮定があるのではなく、仮定するのが間違い。
それを排除するのが現象世界を正しく理解する道だ。
それはそれとして、人と生活し、飯は食い、排便し、
セックスもするのだが・・・。
しかし、多分、死は自然に受け入れられるだろう。
死もひとつの現象に過ぎず、死後などという仮定はいらない。 不自然な「仮定」はあるが、そうやって仮定する行為も現実の一部。不自然な仮定行為も自然な行為だ。だから行為の善悪を議論すべきだと思う。その「仮定」は適切かどうか、とね。是非はあるだろうが。それに仮定行為を排除したら自然科学に発展はないだろう?…それはさておき、私は他我を仮定化することはふつうの人々が暮らす生活世界の観点から見ると不自然だと思った。それだけなんだけどね。行為とうまく付き合っていけるといいと思うけどね。ただ生きるのではなく善く生きるためには >>472
そうは思わんけどな
自分が死ぬと、自分の意識は完全に消えるのか消えないのか
本来これは万人にとって最も重要な問題なんだよ
学問とか一切興味ない人でも
「明日の予定どうするか、来週は、来月は、来年は、数年後は、」
という未来の事について常に考えながら生きているだろう
そして最終的には「死んだ後どうなるのか」
その明確な答えを誰も知らない
唯物論であれば完全に無になる、唯心論であれば意識は永遠に続く、もしくはそれ以外の答えかもしれないけど 量子力学の言う所の実在は相互関係無しには成立しない、という前提に立てば、今ここにいると言う事は他者が実在していると言う事に他ならないだろう。
しかし、この宇宙で生まれ、素を同じにすると考えると、ある辺りから自分と他者の境界は曖昧になるのもまた自明と言える。
また世界が絶対でなく、相対的であると考えるなら不変の法則を探すよりも、ある法則がどこまで通用するかを考える方が建設的だと考えられる。
死後どうなるか?いう問いは個人的にはナンセンスだと思うが、現実的に考えると意識はバラバラになり他者の一部になるか、消されてリセットされるではないだろうか?
ただし、主観的解釈は自由であり、事実とはかけ離れていても別に問題はなさそう。(それを吹聴しなければ) 宜保愛子「あなた(少女A)には、成仏出来ていない霊が見えるのね」 現象が第一義的な体験である。それ以外はみな仮定。
過去現在未来とい時間も仮定、三次元的な空間も仮定。
私の体験は「いま・ここ」にしかない。
「記憶」などというものも、「過去」という仮定を前提とした仮定だ。
現象的体験には「今」しかない。 過去も記憶もない。
もっとも多くの仮定は有用だ。そのような仮定を「現実」とすれば、
我が体験を安楽にすることもできる。それは躓きの石なのだが。 いま・ここしかない!?
素朴実在論クラブへようこそ🤘 解釈が及ぶ可能性の範囲ぐらい想定済みの考えを書けるようにならないと論点先取の虚偽
論理矛盾があれば指摘されるのは避けられないね、論点先取の虚偽
近所のおっちゃんおばちゃんとどうでもいい世間話してるわけじゃないからさ、まっ仮にも哲学の書き込みだからね デカルトの「コギト・エルゴ・スム 」にせよ、カントの「物自体」にせよ、
西欧の人々の「存在」に対するコンプレックスは酷い。
「存在」は仮定にすぎず、「現象」こそが現実だという、簡単なことを理解できない。 数学に存在証明というものがある。
しかし、これは「現実の存在」を証明しているのではない。
単にある公理系の中に指定席があることを証明してるだけのこと。 認知症患者の様々な記憶劣化や見当識障害を見れば、「いま・ここ」こそが
もっとも確かな認識であることが解るだろう。
また、脳へのダウンロードが実現したら、過去・現在・未来の形式は
どうにでもなることで、「いま・ここ」こそが安定的な認識であることも
解るだろう。 現象は現実。ならば①現実とは何であり、②それは意識(意識のハードプロブレム)とどう関連しているのか? 今日の私(と思われる)レスを読み直せ。全部書いてある。 どこに書いてあるかは本人ならすぐ分かると思うけど、どことどこ? >>481
存在が仮定でしかないなら現象こそが現実と仮定してる存在の仮想にすぎない、簡単なことを理解してない存在が存在に対するコンプレックスすらないっておめでたいなぁ 現象こそが第一義的な体験であることを理解していない。
様々な存在証明があるのに、現象には証明はいらない理由を知れ。
幻覚も錯覚も現象だ。 「胡蝶の夢」なるものがある。存在に拘るとこんな迷いが出てくる。
現象こそが第一義であることを知れば、蝶が夢なのか、自分が夢なのかに迷うことはない。
どちらも現象だ。 >>486
横槍で済まんけどその返しはさすがに馬鹿すぎるわ >>492
どこに書いてあるか分かる?
自分は分からなかった >「意識のハードプロブレムについて語ることができるのか?」この疑問は意識のハードプロブレムを考えられる段階にないと判断しました。
だからそのあなたが「判断しました」を貴方がどのように理解したかは問題ではなくてあなたが何故それを発したのかを問題にしていることについて話をしているのですよ
貴方がどのように思おうが自由ですがそれが相手に伝わるのは何故かという話をしています
>諸々の?についてはあなたがクオリアは感じというものだと理解したように、あなたなりに解釈していただければ構いません。
わたしがわたしなりに解釈したようにあなたがあなたなりに解釈したものをどのように"伝える"のか?という話をしていたのですが伝わらないのであればわたしの表現かあなたの解釈能力が足りないという"判断しました"と発するこれは一体何か?
そういう話をしていますが往々にして「それでは何も言うことができない」というようなことを言う人もいるかもしれませんが科学や物理学や数学の「1+1=2」は実際に伝わっているという"感じ"は果たして"感じている"のでしょうか?
わたしの主張が伝わらない事とあなたが何も理解していないという事と同じようようにあなたは受け取っているようですがあなたが主張していないという行為に違いがあることは理解されていますか? >>493
分からないなら分からないなりに自身の解釈を述べなさい
それが的外れであろうとも彼はあなたに説明をしてくれるでしょう
彼の言う「過程」に対して批判ができるほど読み込んでいませんので改めて伝えようと思いますが少なくともそういう姿勢をわたしが持っていると彼に示すことはできます
あなたがもし社会人であるならそれくらいはしなさい すみません>>493のレスは>>492に対してでしたね
>>496は>>486に宛てています何を勘違いしていたのか急ぎ書いてしまったためお恥ずかしいところをお見せしました >>495の言っていることを理解できる方、います? >>496
いや、いいって言えないなら
それに別にそこまで強い興味あるわけじゃないし
というかもう面倒だから言わないなら安価つけず黙っててくれ 『現象』
と連呼してる奴の主張は意味が分からん
とにかく話を終わらせようとしてるだけ
何も考えたくないだけだろ >>499
書いた本人も理解してないだろう
「スレタイについて何も分からない、探求する気も無い」
のであれば変な長文で誤魔化さずに黙ればいい >>499
オースティンの辺りで書いたという事で答えになりますか? >>318
>総体に対する対比は切り分け行為に過ぎないから客観を認めるとも取れそう
ひとくちに「客観」と言っても場合によって意味は微妙に変わってくるものでしょう。私が懐疑的なのは一切の主観と関わりを持たない客観のことで「自分以外の何か」をまるっきり認めないわけではありません。むしろ「自分以外の何か」こそが私の関心事で、私はそれを「本当の世界」と表現してきたかもしれないくらいです。
ただ、私が想定している「主観」は一般的なものではありません。それは例えば人間どころか生物でさえない可能性すらあったりします。もはや「主観」という表現は適切ではないかもしれないくらいです。 「主観」の説明ですが、私がもっぱら例にとるのは視覚です。視覚を体験している主体というか意識というか精神というか心というか実存というか、
すると漠然と空想するに、原始生物でも視覚器官を持っているものには主観のようなものが内在しているだろうと思うわけです。
で、生物は視覚器官をどうして獲得したのかというと、映像を体験するためではなく、映像をより鮮明にするためだと考えるのが妥当です。
映像を体験したことがない生物が、映像を体験するために有用でない段階の未完成の視覚器官を発達させるということは考えにくいように考えられます。例えば単細胞生物でも光を体験してはいて、おそらくそれは明るいか暗いかくらいだったろうけれども、その映像をより鮮明にするために視覚器官を発達させたという考え方です。
つまり原始生物にもすでに「主観」のようなものはあったのだろうということになります。(「主観」の成立に脳は必要がないということにもなります) では次に映像(表層意識)はどのようにして成立したのか、
もし意識が表層意識と深層意識とからなるものだとすれば、私は深層意識が先に成立したのだろうと推測します。むしろ深層意識から表層意識が萌芽したというイメージです。
個人的ながらかもしれませんが、私には表層意識の成立というのは、深層意識としてあったものの一部分を自覚できるようになることのように思えます。もともと深層意識とされるような現象があって、そこに「自覚」という効果が加わるイメージです。
とにかく「主観」のようなものは先ず深層意識から起こったのだろうという推測です(この段階でいわゆる「主観」ではなくなりますが)。
では深層意識は生物が初めて獲得したものなのか、あるいはそれ以前のウイルス、分子、原子、重粒子…、どこまでさかのぼるのか、
一般的に言って、生物には自らを維持しようとする能動性があると言えます。この能動性という性質は意識のデフォルト状態からあったもののように思えません、あとから獲得された機能のような印象があります、つまり、最も原始的な「主観」はウイルス以前にさかのぼることになるでしょう、
すると分子と原子と重粒子とで「主観」を生じさせるための決定的な差異がある印象がありません。重粒子の前までさかのぼることになるだろうというのが私の予想です。
最も原始的な主観は基本粒子の段階で、それはもちろん言語や感情どころか感覚さえないほどの原始的な意識であろうけれども、何なら素粒子は意識を内在させて生成されるとも表現して差し支えないかもしれないくらいです。
その段階のものを「意識」とは表現しづらいですけれども。
脳の中に意識はどのようにしてあるのか、私は何らかのネットワーク的なものではなくて、一個の素粒子に内在しているだろうと考えています。 私の記憶が確かならば、本来単細胞生物は不死だったと思います。環境の変化がない限り、死なない。
生体は絶え間なく代謝するわけですけど、そして細胞もどんどん交代するわけですけど、確か脳細胞は比較的寿命が長かったと思ったんだな。中には生まれてから死ぬまで維持される細胞があっても良さそうな気がする。
むしろ多細胞生物というのは一個の細胞が生きるために、それ以外の細胞が、例えば蜂とかの社会のように、つまり女王蜂ならぬ女王細胞がいるかもしれない、
その女王細胞も原子レベルではどんどん代謝しているだろうけれども、絶対に入れ替わらない素粒子がひとつあるかもしれません。
信じるか信じないかはあなた次第です。 てか、私には、複数の素粒子間に生じる何らかの作用によって、素粒子とは違うタイプの実態である精神なり何なりというものが生じるというようなことがある気がしない。
実際にそのような現象が科学的に観測された事実もないはずです。これは経緯を知らんけど、断言できます。 >>508
低学歴の記憶に意味はない
デタラメ
普通に死ぬ >>510
私の記憶が確かならば、確か宇宙空間に初めてできた物質は基本粒子であった。
それがやがて多様化し、重粒子、原子、分子、ウイルス、単細胞生物、多細胞生物へと進化したという流れです。
さて、あなたはどの段階で潜在空間との干渉が可能になったと考えますか?
私は基本粒子の段階ですでに可能だったと考えます。 ただ、私は物質としての素粒子の存在には懐疑的です。
物理学的にも物質というのは、少なくとも普通にイメージされているものとは違ってきているようです。
さて、私は例えば電子にもすでに超絶原始的ながら内面があるのではないかと妄想するわけですが、もし内面が無いとすれば、それはどのようにして成立するのでしょうか。
物理学的にもそれは観測されるまで存在しないかもしれないのごとしですが、もし他の素粒子と一切の関係を持たない状況であれば、それは自己完結できるものなのでしょうか。
できないと断言できるものではありませんが、できると断言できる気もしません。 「意味の階層」の続きですが、物質との関わりです。
その前にとりあえず「主観」「意識」「精神」「実存」のようなものを「内面」と表現することにします。世界を体験している体験者のことのつもりです。
また、内面の外側に想定されているものを「外界」とします。
外界がどのようなものであれ、内面にとって世界は意味の階層として現れている、と私は考えます。すべては何らかの意味であり、また、そこには意味媒体が見出せるはずです。何らかの要素に意味が生じることを「創発」と呼んでいます。
漠然と思うに、内面は成立した瞬間、外界からの影響を受けつつも、そこには「意味」というものは一切無い状態なのではないかという気がします。まったくランダムに情報があるだけのような気がするのです。例えば映像情報と音響情報とが混在していたとしても、光と音とさえ区別ができない状況です。
後からだんだんと、そういうものが内面で位置付けられて行くのだろう、意味が与えられて行くのだろう、すると問題は「位置付け」の仕組みですが、これは外界からの影響もある印象です。個体差は外界との関係性から生じるのだろうと思うのです。
さて、そうは言っても外界がどのようなものなのかは気になります。
もちろん私にも正解を提示することはできませんが、予想はします。
私は物質の存在に懐疑的ですが、しかしただちにトレンドになるとは思ってません。
ただ、科学と同じような歴史をたどる可能性はある気がしています。世界像と物質との関係は、自然法則と神の関係のようになっていくのではないかというのが私の予想です。
自然法則ははじめは神が決めたことだと考えられていたようです。しかし科学が発達するにつれ、自然法則の成立に神は必要無くなった、同様に、当面は内面が形成されていく過程で物質が考慮されるでしょう、しかしどのようにして外界からの情報が内面に位置付けられるのか、その仕組みが明らかになって行くにつれ、ことさら物質という概念は必要無くなるのではないかというのが私の印象です。
内面はネットワークを構成し、その全体はひとつの情報処理システムであり、そこで物質に当たるもの(情報)が生じ、共有される、何ならそれはミームとして進化をする。
物質は存在しなくても私たちが体験している世界とまったく同じものは生じ得るだろう、
むしろ物質を想定すると意識のハードプロブレムのような矛盾が起こるという考え方です。 >>505
完全に独立した客観と言うのは成立しない(少なくとも我々には認知できない)と考えられそう。
例えば色は単色なら何色なのかがハッキリ分かるが集合しグラデーションになると総体としては何色でも無くなる(何色でもある)これは色の客観と言えよう。
このような特徴、特性は素粒子から意識、宇宙、世界まで適用出来そうだ。(個の集合体である世界を認識するには世界を切り分けなければならないが、切り取ると総体としての意味は失われ、切り取らないと総体としては意味を持たないというジレンマに陥る)
そう考えると素粒子から宇宙(+世界)に至るまで、それらはある種の主観を持つと同時に客観(あるいはその一部)であるとも言える。
>>506
視覚は例えば触覚より後の可能性が高い、そしておそらく生物で考えるなら他者との境界、膜を手に入れた時に主観を獲得したのではないだろうか?
>>507
私的には深層意識などと言う仰々しいイメージや呼び方ではなく、意識未満の集合とでも呼ぶべきだと考えています。
意識も色とグラデーションの関係のように、体の様々の部分の小さな意識の集合なのだと、そしてそれが集合すると集合体として新たな意味を持つ。
なぜ相互作用するのか?(相互作用のメカニズムではなく、なぜそのような特性が備わっているのか)については現時点で(いや例え何百年何千年経とうとも)不可知であると私は考えます。
完全に想像の領域ですが、量子の特性と言うのは保存則に反しない形での世界のリセットに関係しているかもしれません。(これは私の個人的な希望)
そう考えると意識(相互作用)というモノは何かを続けながらも始めたり終えたりするために必要なのかもしれない。 >>516
理論が飛躍して実体のない情報だけで十分という結論に至っているようですが、情報が実体を持つためには媒体が必要になるでしょう。
実体を持たない情報それはランダムと表現できるかもしれません。
ランダムは意識とは言えないでしょう。
ランダムというモノに意味を持たせるモノが相互関係であり、相互関係の為にはエネルギー、そして物質が必要になる、と考えられるのではないでしょうか。
ちょっとスケールを変えますが、人が肉体(物質)を失ったらどうなるのか?(所謂SFの言う所の情報生命体のような)私には有機的な意識を失うようにしか見えない。
たしかに物質が無くても意識の様なものは出来るかもしれない、しかしそれは我々の意識とは別物になるだろう。(同じ素材でも違う工程を経れば違うものが出来る)
ただし、我々がネズミや猿、あるいは単細胞生物から進化してきたように、人から新たな存在に進化する(情報生命体のような)事は否定できない。(しかしそれは我々ではない)
逆に考えると情報伝達方法はその生物(存在)の在り方に大きな影響を与えるのかもしれない。 >>517
言い忘れたけど、基本粒子の段階ですでに内面があるだろうと考える私にとって、客観が一切の主観と関わらないという状態がどういうものなのかというと、つまり基本粒子とされているものとさえ関わらないということになります。
この世界から基本粒子を抜いて、何かが残るのか、何も残らないだろう、というくらいのかんじです。
個人的には残る予想ですけどね、ダークサムシングが。 意識のハードプロブレムって
そりゃ現代の神経科学が幼稚過ぎるか、アプローチを間違えてるんだから、当たり前じゃね? この宇宙に存在するすべての物体 : 生物 = ダークサムシング : 人間に観測可能な物質及びエネルギー
この世界の圧倒的大半がダークサムシング(人間に観測されないもの)(裸の単子)だと思う。 >>517
私の理解では、深層意識というのは人格形成や精神疾患などに影響を与える要素として想定された概念で、もちろんそのものが観測されたことのないものです。
そこでそれがどのようなものなのかについてはいろいろ憶測が飛び交うわけですが、ざっくり二通りに分類できる印象です。ひとつはアダム・スミスの見えざる手に通じるような実体のないもの、もうひとつはつまり実体のあるものです。
実体のあるものについて、それが実在するのか否かについては私は実在する派です。これはケン・ウイルバーのパクりで、意識のスペクトルという考え方です。
光のスペクトルに認識できない領域があるように、意識にも表層意識に上らない、潜在している実体部分があるだろうという予想です。個人的にリアリティを感じます。逆に意識のすべてが表層に上っているとは思えないほどです。
内面同士はどのようにして相互作用するのか、これについてはむしろ内面と外界とが表裏の関係にあるような気がしていて、片面しか無いコインがあり得ないように、内面しか無いというのはあり得ないというかんじです。内面と外界とはセットのものだと考えます。
では何故この世界にはそのようなセットとしてしか成立できないのか、
この問いについては私はウィトゲンシュタイン的な疑似問題ではないかと予想します。そんな問題はないということです。
そもそも「問題」とは何なのか、私はあらゆる問題は基本的には本質的な意味の無い錯覚のようなものだと考えます。シュールレアリスムの絵画に謎めいたものを感じたとしても、実際に謎があるわけではない、謎というのは突き詰めてしまえば突き詰めてしまえば「気のせい」だと思うのです >>518
「ランダム」という表現は適切ではなかったかもしれません。
例えば言葉はゲシュタルト崩壊します。ランダムというのは、すべての意味がゲシュタルト崩壊している状態のイメージです。
内面は生成された瞬間に一気に外界から膨大な影響を受けるだろうと予想します。しかしそこにある情報はすべてフラットだろうと思うのです。むしろ区別する仕組みがある気がしません。
例えて言うならば、どこに霊が写っているのかわからない心霊写真を見せられたもうな状態です。
しかしそこに霊能力者が現れて、「ここが目、ここが口、」と言われてみると確かに顔に見える、それどころかそこに顔があるようにしか見えなくなったりします。
ところで脳皺さんは「物質」をどのように定義しますか?
私は情報が媒体なしでも成立すると言っているつもりはありません。その媒体が物質である必要はないと言っているだけです。
そして物質がどのようにして精神に反映するのか、その仕組みを提示できなければ物質という概念は仮説に過ぎなくなるというのが私の考えです。 でこすけ氏へ 。脳皺氏とお話の途中すまない。内面と外界を追及したい。
自分という存在から、潜在意識を介してモナリザ(絵画)を見ている。モナリザは実在するだろうか。幻想の可能性(実在の懐疑)を考慮して、存在するとは言えない気がする。(でこすけ氏の一説)
また、時計氏の「他者の意識は存在しない」という説をでこすけ氏なりに展開する仮設を提示したい。
自分の意識は目に見えない、また、心も目に見えないと考えられる、あれが意識だ、これが心だと断言できない、おそらく断言できない可能性ばかり残りそうな気がする・・・そうならばいっそ自分の意識は無いこととして解釈し、他者の意識も存在しないと解釈する。
意識ハードプロブレムなんて分からなかった私だが、クオリアの発生は、脳が出所か心が出所かが問題。クオリアはあの感じといった感じだろうが、クオリアは目に見えない、でもクオリアは意識ハードプロブレムやらなんやらの考え方の中に存在する。つまり解釈では色々語り得る。
数学の証明はできるけど、クオリアの証明は難しい。以上です。考え方違かったらごめんね。 >>337
少なくとも「ある」と「存在する」とは別だと考えます。
例えば1万円札には1万円の価値があります。しかしその価値は存在というイメージとは違うものです。
例えばファッションリーダー的な人が着ている服をみんなが真似て、同じ服が爆売れしたとします。そのような経済効果をもたらした本体(?)は実在する物理的実体のような印象がありません。いわば見えざる手による誘導です。
見えざる手はある、しかし存在しているわけではないだろう、
富士山とされているものはあるだろう、しかしそれは存在しているわけではない、みんながその認識能力相応に認識する仕組み(情報の流通)があるだけ
というのが私の予想だということです。 >>524
外界とされるものも私にとっては私の内面に現れたものから予想したものであるという域を出ない、つまり確証のないものです。ただ、そのようなものを想定すると、体験上のあれこれにつじつまが合う気がする、むしろ私の内面が私の内部で完結するという印象がありません。
おそらく私と同じような体験をしている内面が私の他にもあって、そしてそれらは原始的なものから徐々に進化してきたのだろう、そう考えておくのが目下の私の知っている限りでは最も妥当な印象です。
いずれにしても予想とか解釈とか仮説とか、その程度であるというのが基本です。
時計さんの「他者の意識は存在しない」については「存在」がポイントのようです。
彼が言うところの「存在する」とは、彼の意識に現れることで、つまり「他者は存在するが、他者の意識は存在しない」ということになります。
ただ、一般的な感性では、意識に現れないからと言って存在しないということにはならない ということになるだろうと思います。この点については彼個人の思考過程があるようで、私も十分に理解できている自信はありません。
とにかく彼の日常的な感覚として、一方で例えばカーネルサンダース本人には意識があっただろうと考える私たちでさえも流石にKFC の店の前に置いてあるカーネルサンダースの人形には意識は内在しないように感じる、そんな感じでじつは彼は普通に彼以外の人間に意識の内在を感じないらしいです。しかも子供の頃から。
ただ、私が本当に他者に意識の内在を感じているのかというと、微妙な気もします。通勤電車のなかで目の前にいる人の頭蓋骨の中に意識があるという事実が本当にあるのかどうか、私は時々考えてみるけれども、よくわからない、というのが率直なところです。 もし精神的実態の生成が生命現象と関わるものであるならば、この宇宙は100億年くらいが唯物論的世界だった可能性のあるものです。私にはそれはとても不自然なことのように感じます。
それは例えば人間が進化するかなんかして複雑な精神現象が起こって、そうして物質でも精神でもない第三の実態が生成することがこれから起こることを想定するような、それくらいあり得ない、ほとんどSFのような気がするほどです。 >>332
私も過去は普通にあったと考えています。
ただ、存在が認識を伴うものであるのならば、地球が誕生する前は誰が世界を観測していたのかという問題です。
ところで私はシュレーディンガーの猫は生きているのか死んでいるのか、どちらかの状態に確定されているだろうと予想します。
その猫は箱のなかの素粒子や何かによって観測されているだろうという考え方です。 >>455
ちょっと前のコピペで、自分の意識は寝る前と目覚めてからとでは入れ替わっているのではないかというものがありましたが、さらにはデネットによると一晩どころかシナプスの発火がある度に刻々と意識は入れ替わる、記憶が継続されているので気がつかないけど、みたいな考え方がありますが、私はそうは考えない派です。
意識は素粒子とされているものに内在しているもので、私たちの意識もその原型はその素粒子が生成された瞬間に宿る、もちろんはじめはほとんど裸の単子のような状態で、それが生体に取り込まれてから様々な能力を獲得する、成長する、すなわちひとつの意識が終生ずっと維持されているというイメージです。
意識の原型の誕生は、受精よりもひょっとしたら何百万年もさかのぼることになる想定です。死後は肉体から解放され、また裸の単子に戻るわけですけど、その素粒子が消滅するまでふわふわしている予想です。
で、そのような話と意識のハードプロブレムとはどのように関わりますか?
意識は自然現象のひとつにすぎない、答えは残酷つながりでしょうか。 >>506
主観の説明についてよく使われるのが視覚なのですがこれは私達が行動する上で視覚が一番情報量が多いためです
逆に言えば盲目の人はそれがないのですが点字などで文字を読むことはできます
また視覚器官については「眼の進化(wikipedia)」を一読して頂ければと思います
「映像を体験するためではなく、映像をより鮮明にするためだと考えるのが妥当です。 」
これについてはより明晰に説明されているダーウィンの進化論をご参照ください
視覚器官が「主観」の前提になるのであれば盲目の人は主観がないという事になってしまいます
そうなると原始生物の視覚器官による「主観」と盲目の人の「主観」が異なってしまいます
また「「主観」の成立に脳は必要がない」は「今までの研究の結果どうやら主観の成立には脳が必要があるようだ」という研究の成果の否定をすることになります >>519
相互作用のないモノは存在はするけど実在しないという状態になるというスタンスを現時点では取りますね。
>>522
世界の本質には意味は無い、しかし実在しようとすると意味が必要になり、現在宇宙は一定の意味を持って実在している。
実在の意味は解けても、存在の意味は解けない。この辺りが人間の限界のような気もしますね。
>>523
物質の定義と言うのは難しいですが、個人的には相互作用を持つモノは広義の意味で物質と考えて良さそうと思いますね。
おそらく私の物質の定義だと、でこすけさんが物質ではないと思うモノも物質に含めてしまうでしょう。
結局、色のグラデーションが単色の集合体だとしても単色とは別の意味を持つのと同じように、我々の体をバラバラにして個別に調べてみても意識と言う総体を完全に把握する事は出来ないのではないだろうか。
それを把握するためには人の意識を内部に含む、もっと大きく高度な意識が必要になるだろう。 >>507
「もし意識が表層意識と深層意識とからなるものだとすれば」ということですがまず深層意識というのはどのようにして考え出されたのでしょうか?
これは対比として「私たちが感じられる意識」では説明ができないことによって考え出されたものではないでしょうか?
何故か?私は「深層意識」を「私は感じることはできないが私の行動の不可解なものについて説明できる原理」について説明が可能な”それ”に与えられた名と理解しています
「生物には自らを維持しようとする能動性があると言えます」
これもまた「維持しようとする」のか「結果としてそうなった」のかを何かしらの基準によって行われるべき区別がなされていません。
というのもその主張を正とした場合に「能動性」という言葉が「ブラックコーヒーに砂糖を溶かしたときに甘さが広がる」ことと同様に解されてしまうからです
ブラックコーヒーの件はエントロピーの簡易的な説明としてよく使われる説明なのですがこれに対して「能動性」という表現が使用されていることを私は見たことがありません
また「ウィルスは生物であるか?」については「生物とは何か?」の定義が定まっていません >>508
ロブスターも確か不死だったかと
生物としての「不死」であることと素粒子であることの「不死」という言葉ですがその「不死」とはどのような意味でしょうか
不死と言う言葉と存在と言う言葉の表現は既にテセウスの船で疑問が呈されており「同一性」の解釈の方法によるということになっていませんでしたでしょうか 生きることを動機づけているは、《besoin》(《be・sogne》であることに留意しよう)である。
その動機が働いていなかったとすれば、日々、《besogner》というおこな(行)ひにいそしむことなど放棄して、みづから(身づ柄/自ら)をそのまま捨て置くことになるだろう。 >>509
素粒子と言う言葉は物理学の素粒子と言う意味で使用されているかと思いますが物理学は実証主義ですので「素粒子」と言う言葉もそれを使うことで「説明ができる」ために要請されたものです
またそれを疑う数々の研究者の査読や実験に耐えたからこそ「素粒子」という言葉が共有されているという事実があります
「複数の素粒子間に生じる何らかの作用によって、素粒子とは違うタイプの実態である精神なり何なりというものが生じるというようなことがある気がしない」
「しない」という主張を行うためにはまず「複数の素粒子間に生じる何らかの作用」はその「作用」と「精神なり何なり」がどのような現象について説明されるために要請されたのかが説明されない場合この言葉が説明するものは何もないということになります
そうなるとあなたの「断言できます」は「私はそう思う」と何ら変わらず何ら説明がなされていない「私は思う」という主観の主張に留まることになります >>512
「宇宙空間に初めてできた物質は基本粒子であった」
違います正しくは「宇宙空間に初めてできたものが何かを考えた場合に基本粒子であるとすると説明がつく」です
基本粒子と言うのは素粒子と表現される全般のあなたが想定しうる限りの最小の何かであるという表現だと私は理解しますが物理学は「そうであれば説明がつく」という実証主義によって成り立っています
つまり「誰にも否定することができなかった主張が是とされる」です
「素粒子」というものが説明可能な範囲に「あなたはどの段階で潜在空間との干渉が可能になったと考えますか? 」は入っていません
素粒子と言う言葉はその目的導入された言葉ではないからです >>513
「私は物質としての素粒子の存在には懐疑的です」ですが物理学ではある現象に対してその現象の作用を物質としての粒子として扱った場合に「素粒子」と言う言葉を充てているだけです
私達が普段想像するような「物質」ではありませんしあくまで現象の説明に使用される言葉です
ですので「もし内面が無いとすれば、それはどのようにして成立するのでしょうか」に使われている「内面」がどのような現象かが説明されない限りあなたの言う「内面」に対して何も答えることができなくなります 素粒子でいうと電子を例に出しますがこれも「粒子と波動の二重性」と言う言葉がよく使われていると思います
この「二重性」は「二重性を持っている」のではなく「粒子としての説明」と「波動としての説明」の両方が矛盾なく説明できてどちらも否定ができなかった結果として生まれた言葉です >>516
「意味」と言う言葉が使用されていますがこの言葉は多義的に過ぎてあなたの言う「意味」が文脈も含め私には理解できませんので説明をお願いできればと思います
余談ですがこの意味と言う言葉に説明が付くなら意識のハードプロブレムも解が出せるだろうと私は考えています
「私は物質の存在に懐疑的ですが」ですがこれは「物質とは何か?」として物理学者も含めての広義の科学者が共有していることです
少なくない物理学者が言う「神が作ったとしか思えない」と言う時の「神」ですが私が思うに「私が想像することの限界まで行ったときに私が選択を決められない"それら"を私が知っている言葉として神と表現する」のではないかと考えています
これが賛同されるかどうかは分かりませんが「神」と言う言葉の一例として参考にしていただければと思います 今日の最後に一つ
私は貴方の主張を批判しますが貴方を非難していませんという事はご理解頂けますようお願い致します
というのも「私は貴方の説明をこのように理解してこのように疑問を投げかけ又それを批判する」という社会人として生活する上で重要なこれら会話の行為が成り立たないような方が散見されましたもので ネットには社会人以外の人間もいるのに。
社会人ごっこしたいのかな、かわいそ。 >>529
「死んだ後に意識がどうなるのか」
という話は意識のハードプロブレムに大きく関わっていて
それを知れば少なくとも唯物論の真偽を証明できる
机上の空論ではなく
意識の謎について、世界各国で実際に観測された複数の事象をまとめたレポートがあるんだが
これを全て読むと分かるけど唯物論は間違っている
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jmbs/11/2/11_KJ00005469558/_pdf/-char/ja
実体二元論、もしくは唯心論、この2つのどちらかの可能性が高いだろう 「主張」で埋め尽くすゲンロン空間を複雑にしていく解釈の場と考えると、解像度だけがある >「死んだ後に意識がどうなるのか」
簡単ですよ。
「死ぬと、意識は身体を介して働くものとして無効となる」のです。 寝てる時に意識がないのに死んだときのことを考えるアホw >>526 でこすけ氏へ 。 脳氏輪氏との対面中、すまない。
>>時計さんの「他者の意識は存在しない」については「存在」がポイントのようです。
解け胃氏は、独我論を抱えておるな。世界には自分しか存在していない、つまり他者も存在せず、ましてや他者の意識などないと主張してないとしてもそんな感じじゃねえの
「他者は存在するが、」←まずこういう存在を認めるような時計氏ではないのではないか。
他者の意識も他者の存在もない、という主張をしていないにしてもそう思ってるのではないか。
解け胃氏は胃である。時計氏は胃である。徒計氏は胃である。(対象はすべて時計氏) 人は睡眠中に毎日たくさんの夢を見るけど殆ど忘れる
「寝てる時に意識が無い」というより、「後から思い出せない状態になってる」だけ
眠りから目覚める直前に見ていた夢は思い出せる場合もあるけど 睡眠中に意識が働いていないわけがないだろう。
意識が働いていないなら、目覚まし時計が鳴っても目が覚めない。
死人や意識不明の重体の人と睡眠中の人が同じ状態にあるなら、死人や意識不明の重体の人でも目覚まし時計で目を覚ます。 >>549
私は他者は存在すると考えます。富士山も存在するように :) >>552
他者は存在すると考える、か。それでよい。富士山も存在するように、か。それでよい。
私たちは「富士山」の断片しか知っていない、であるが、富士山は在る、と知っている者がある、これを断片知と呼んでみる。
この断片知はまさしく知識であり、情報の真偽の拠り所である。知を愛する者が、なぜ知識を持たないでいよう、知識として確立している断片知が大事なのである。
私は富士山の何合目かなど知らずとも、学校で学んだ3776mについて断片知を持っている。というのも、富士山の標高は3776mという知識である。
あくまでも断片知は知識である。しかし、「何か」とする一部の「知識」があることが断片知である。だけど全体知ではないことは明らかだろう。 >>553
我々の知識は断片知に過ぎないが、初めて会った人に内蔵のあることは理解できる 断片無知を考慮したい。我々は、富士山が存在すると考える、しかしながら、富士山の情報すべてを知っているわけではない。
すると、富士山の断片と知っていない、すなわち富士山の知っていない情報があるのだ。
そういうことを考慮した上で富士山の断片無知を語る場合があるかもしれない。
無知とは、知っていないさま。で、無知の知とは、知っていないと知っている事。(無知だと知っていること)
富士山の断片を知っていない、と思うだけではなく、富士山の断片を知っていない、これを知っていると、無知の知ができている。(無知だと知っているから無知の知ができている。) >すなわち富士山の知っていない情報があるのだ。
では、その情報が、実は、富士山が存在すると人々が錯覚により思い込まされているだけであることだとしたら? >>>556
ほほう。
>>実は、富士山が存在すると人々が錯覚により思い込まされているだけであることだとした・・・・・・
これが事実なのであれば、知識として確立できるはずである。これを裏を返せば、知識として確立していない「誰か」がいると言える。
しかしながら、無知である存在もあるので、知識を持っていない存在もある。
この裏を返せばが正しくないなら申し訳ない。で、錯覚により思い込まされた、というお話を知っていない、これはあるはずだ。でも事実はどうだろう。 >‘Moon rock’ in museum is just petrified wood
nbcnews.com/id/wbna32581790
このような実例から考えてみたらどうですか。
米国の宇宙飛行士が月面から持ち帰った石が、実は化石化した木であることが分かったという事例です。
この場合にも、いくつも可能性が考えられるはずです。 1. オランダの首相が米国大使から、米国の宇宙飛行士が月面から持ち帰った石を贈り物として受け取ったが、実は、オランダの首相が米国大使に「かつがれて」そう思い込まされていただけで、それは地球上で拾われた木の化石だった。
2. 米国大使は、確かにオランダの首相に「米国の宇宙飛行士が月面から持ち帰った石」と米国国務省が請け合うものを渡したが、実は、米国大使が米国国務省に「かつがれていた」だけだった。
3. 米国国務省は、確かに米国大使に「米国の宇宙飛行士が月面から持ち帰った石」として米国宇宙飛行士から受け取ったものを渡したが、実は、米国国務省が米国宇宙飛行士に「かつがれていた」だけだった。
4. 米国宇宙飛行士は、確かに「月面で拾った石」を持ち帰って、米国国務省に渡したが、実は、米国宇宙飛行士がNASAに「かつがれていた」だけで、月面だと思っていた場所は、実は月面ではなく、地球の表面だった。
5. 米国宇宙飛行士は、確かに「月面で拾った石」を持ち帰ったが、これまでに他の証拠から信じられている月の環境についての専門家の知識は誤りであり、実は、月面にはかつて樹木が生い茂っていた。 せっかく、「現象(=体験)」が第一義であり、「外界、モノ、存在」などは
仮定の産物で第二義だと示したのに、理解できない奴が多いのは情けない。
不毛な議論に逆戻り。 物理学における「情報」には、文系的な「意味」や「価値」は附されていない、
つまり、理性とか意識とは無関係だ、と物理学者は主張する。
情報とは、ある変数aが別な変数bについて関わりを持っていることで、
端的に言えば、b=f(a)ならば、変数aはbの情報だ、と言うこと。
しかし・・、である・・。情報には最低限、「分節化」が必要だ。
この「分節化」に理性や意識は必要ではないのか? 「力が働く」という現象には、意識がかかわっているでしょう。
さもなければ、力が働いているのかどうか知りようがない。 例えば、何らかの「力が働く」という現象に関して、その現象が「『1つ』の力」(つまり、"1")として認識されるか、「『2つ』の力(の平衡)」(つまり、"2")として認識されるか、「『2つ』の力のうちの『1つ』」(つまり、"1/2")として認識されるかは、意識とのかかわりによ(依)るのではないですか? 実は、これが「心身問題」なのですよ。
日本語では、「たま(玉/魂)のを(緒)」という表現があるが、
「たま(玉/魂)」は、「を(緒)」によって「身体」に縛り付けられているのか?
「たま(玉/魂)」が「力の働き」を感じるとすれば、それは、「たま(玉/魂)」が「身体」を「引っ張ろう」としているからではないのか?
であるとすれば、「たま(玉/魂)」が縛り付けられていると感じるとき、その「縛り付ける働きをする力」は、「たま(玉/魂)」が「身体」を「引っ張ろうとする力」そのものではないのか? そもそも「力」が既に分節化されたもの。
また「力」が「働く」のか、「働く」から「力」なのか、は何とも言えない。 「力」や、力が働く「モノ」という分節化は、実は、意識以前の問題でもある。
単細胞生物もすでに「力」を体験している。
ヒトが「意識」によって把握する以前に、進化的な体験に取り込まれている。
「力も仮定」に過ぎないのだが、根深いものがある。 >根深いものがある。
既に「力」と「モノ」を前提としていますね。
つち(土)があり、ね(根)があり、重力が働いているから、「根深い」と言える。
根が空中に広がっていれば、「根深い」とは言えない。
ね(根)は、つち(土)の内に入って延び広がっていて、引っ張っても容易には抜けないからこそね(根)なのです。 ヒトの理解とは、しょせん理解できるものを理解することでしかない。
相対論までは何とか「理解」できても、量子力学の「理解」は、
果たして可能なのか? ましてや、それ以上の理論においておや。
ヒトが繊維質を消化できないように、量子力学を消化することは
できないのでは?
じっくり進化を待って、消化能力を待つしかないのか? >>559
流し読みしたが、地球という存在はない。月(つき)もない。月がどうしても必要なら、巨大なうさぎの形をしているそれを月と扱うしかない。
地球がある、と知っている存在はない。かくいう私は地球はないと知っている。これがコペルニクス転回である。
天動説から地動説へシフトした歴史があるが、地動説(地球の周りを太陽が回る)も嘘なのである。
では我々は地球で存在するわけではないことはうかがえる。我々は「平地」で生きているのである。
「平地」で生きている我々は、飛行機で地球を斜めに沿って行く(地球の軌道の解説は地球がないため絵空事)わけではない。
普通に直進すればよいと私は思います。 地球が太陽の周りを回っているのか、太陽が地球の周りを回っているのか、
地上からみたら、どちらも同じに見えるはずだ。
どちらが回っているかは座標系の取り方に過ぎない。
どの座標系を選ぶかは恣意的であり、とりあえずは、地球、太陽、惑星、
恒星、銀河の動きを、最も単純に理解できるものを選ぶだろう。
ヒトはそのように理解するほどには、世界を広く観察してきている。 >>558
私宛ではないでしょうから横槍になってしまい申し訳ありませんがちょっと面白そうだったので口を出してみます
5. 「実は、月面にはかつて樹木が生い茂っていた」ということは米国宇宙飛行士が「確かに「月面で拾った石」」の時点では「かつて樹木が生い茂っていた」という事が知られていなかったということですね?
4. 「NASAに「かつがれた」」という事が周知されたのはどの時点でしょうか?
3. この部分は辻褄が合いませんね米国国防省が米国宇宙飛行士に「かつがれていた」ということはこの時点で米国宇宙飛行士が「私が持ち帰ってきたものは地球の表面から採取したものだった」という事を理解した上で行為した」という行為でないと時系列からしてこの言葉の説明がつきません
2. これは特に不自然な点はありませんね米国大使がオランダ大使に「これは月面の石です」と言って渡すことに何の不自然もありません
1. 時系列が整理されていないのでいまいちピンときませんがおそらく「米国大使から渡されたこれは「月の石ではない」」と知った時の反応についてのことでしょうか?
この文での説明ではその語り手の視点があちこちに飛ぶせいで時系列の整理を行ってもらわないと上手く回答ができません 自然科学にせよ、哲学にせ、それらが世界について言及するなら、
分節化は必須である。
分節化は、恣意的かも知れないし、理由があるかもしれない。
いずれにせよ、分節化したら、もう分節化した世界についてしか語れない。
本当の世界とは違うものだ。 >>530
「主観」という言葉にもいろいろな意味があり得るのでしょうが、私が言いたかったことは上手く伝わらなかったようです。確かに私が想定している「主観」はあまり一般的ではなく、あるいは分かりにくかったかもしれません。
別の表現を考えてみようと思います。おそれいります。 意味の場。segmentation。セグメント化された世界。
syllable,mora,word.
言語的なものだけでなく、textureや量感(volume系だと大きいほうにひっぱられる、
量的なものを表現する単語をみつけられなかった)などいろいろある。
qualiaはこれらの集まりのようなものと考えられる。
qualiaもsegmentationであり、意味化であり、意味の場をつくる。 音だけでなく、見ているものも、うっかりと見えているままのものが存在する、と思ってしまうが、
視覚もsegmentationされている。
意味化されている。 混沌は混沌という意味を持っているけれども、無意味だとする。
だが、無意味だとすると無意味という意味を持ってしまう。
これは、「無」が「無」という有である、というのと同じ構造だ。
無意味も意味なのだ。
「有」だけでなく、「意味」からも逃れないw
主観の呪縛と同じように、有の呪縛、意味の呪縛がある。呪いなのだ。 となると、qualiaも呪いであるw
生命というものも呪いであるとすれば、モノも呪いなのだろう。
混沌であるということが秩序をうみだす。
混沌も秩序も呪いだw
そうなってくると☯も呪いだ。呪いの哲学。 規制を受けている端末で先ほどUPLIFEを買いました。
広告は無くなったんですが、書き込みができません。
運営はよっぽど投稿を阻止したい様子です。 言葉が意味するものからは逃れられないのは、なにかを指し示す機能のために言葉は存在するからでしょう。
呪いというかそれがどのように機能しているかの話じゃないでしょうか。 自然界の現象に「否定」はない。
自然現象はすべて「真」で「偽」は無い。
自然現象で使う「プラス/マイナス」「陰/陽」「正/反」は否定関係ではない。
否定は人が作ったもの。「分節化」すると「否定」も産まれてしまう。 「背理法」は「否定」を使って正しさを証明する。
人の世界ではそれが上手くいってはいる。
しかし自然界に背理法は通用しない。
背理法を使った数学では、自然界を正しく記述できない。 また、自然界に「矛盾」は存在しない。
しかし、人は「矛盾−パラドックス」を排除する。
よって、やはり矛盾を排除する数学では、自然界を正しく記述できない。 実は「意識」「クオリア」は否定を含まず、矛盾も排除しない。
しかし、数学/論理によって世界を認識、あるいは記述しようとすると、
否定を用い、矛盾を排除してしまう。数学/論理の限界だ。 >>580
最近は規制なんて少ないと思うんだけど意外だな
そういえばこのスレの荒らしも数日前から消えてるし
連投規制が厳しくなってるのか? >531
脳皺さんの物質の定義からすると、心同士が互いに影響を与えあっているものならば心も物質ということになりますが、そのような理解でよろしかったでしょうか。
そのような考え方は平均的な人々にとって一般的ではないだろうと思いますけど、哲学の界隈ではむしろメジャーかもしれないくらいで、つまりいわゆる唯物論だと思いますが、私も物質の定義によってはそれもアリのつもりです。
私が問題だと思っているのはじつは二元論です。二つの異なる実態を想定するから意識のハードプロブレムのような矛盾(それは問題ではなくて、ただの矛盾というのが私の予想)が起こるという考え方です。
私は唯心論とか言っていますが、それは物質という概念を否定するための便宜的な表現にすぎないつもりでいます。
で、私が想定している物質の定義は「物理学的空間に依存して存在するもの」です。
これは空間的な広がりを持っているものだけではなく、空間上の点も含まれます。物理学的な空間を前提にして成立しているものということです。
これは私の印象にすぎないかもしれませんけど、心は脳とされるもの中に空間的な広がりを持って内在しているような印象がありません。かといって数学的な点でもない気がします。心は物理学的空間に依存しなくても成立しているもののような気がするのです。
じつは私は物質以前に物理学的空間の実在に懐疑的です。ですから自動的にそれを前提にしている物質も存在しないことになります。
広がりや奥行きといったクオリアは、色や音などと同様に、意識の内部にしかない気がします。意識の外側にそのままがあるようには思えません。奥行きなどは、ステレオグラムから受ける印象により、錯覚だと考えます。
心のネットワークは数学的な空間として想定できるとしても、物理学的な空間とは違うものだと考えます。少なくともそれは三次元空間ではなさそうです。
物理学が三次元空間に疑念を持ちはじめているという風潮を、私は勝手に追い風だと思うことにしています。
>>582
確かに「肯定」に対して「否定」は手順が多いなと思っていました
自然界の現象をとらえる限り「否定」というものが生まれないのはその通りなので「何故「否定」という思考が可能なのか?」を考えてみたいと思います
面白いですありがとうございます >>587
>物理学が三次元空間に疑念を持ちはじめているという風潮を、私は勝手に追い風だと思うことにしています。
言葉尻をとらえるようなことで申し訳ないのですがこの部分だけはどのようにお考えか詳しくご説明をお願いします
物理学が次元をどのように扱うかですがこれは単に「それを説明するために新たな要素を定義した」というだけのことです
座標をどのように説明するかにおいて紙の上ではxyで良いのですが空間ではxyzが必要です
では「私が見た時そこに瓶があった」と「私が見た時そこに瓶は無かった」では空間を表すxyzでは説明がつきませんのでこれらの主張では瓶があったのかないのかを区別することができません
この時に導入される「次元」として時間を導入します
「私がtで見た時そこに瓶があった」と「私がtで見た時そこに瓶は無かった」はtが異なることにより説明が可能です
よく言う「時空」は空間3次元と時間1次元ということになるのですがあくまで「次元」とは区別を可能にするために必要とされるものであるという点です
「2次元」と言う言葉はありますが厳密には私たちはこれらを認識することができません
私が先ほど出した「紙の上」も便宜上2次元としましたが厚みがゼロという事は不可能ですので実際には次元を減らすことはできません
翻って空間のみで4次元という事は計算上可能ですがこれを現実に適用することはできません
「三次元空間に疑問を持ちはじめている」はあくまで「それを説明するために」必要なものとして「次元」という要素を使用しているにすぎません
上記はもちろん私が理解している限りの物理学の話ですがこれを含めた上であなたの「物理学」がなんであるかをご説明頂ければと思います >>541
私に対していくつかコメントをいただいているようですが、私は最近様々な規制をかけられていて思うように投稿できず、スルーしているかたちになっているのは申し訳ないかぎりです。私も嫌いじゃないもんで、いろいろ話したいことはあるんですが、残念なところです。
ところでこれは541さんに限りませんが、なるべくコテ的なものをお願いしたいです。できれば個性的なものが望ましいですが、レスの番号でかまいません。
同じ言葉でも言ったのが誰かによってニュアンスや重みが違ってくるものです。ご理解いただければと存じます。
なお、私も一応批判と非難の区別はできているつもりです。そもそも私ははじめから非難を受けることを想定して投稿しているので、お気になさいませんように。 >>549
私たちの感性で言うと時計さんは独我論ですが、時計さん自身には独我論とされることに違和感があるようです。彼は自分の意識が本当に存在しているのかどうかにも疑問を持っていて、そこでは逡巡しているようです。
ここでの課題はスレタイです。
彼の主張は>>1だとわかりにくいので僭越ながら解説させていただきますと、一般には脳が心を生み出すとされていますが、これは逆で、心的な作用が脳とされるものを生み出しているのではないかということです。「精緻に表現」と表現されています。
ちなみに私も同調してます。恐縮です。 >>591
解説、ありがとうございます
逡巡しているのは、我は存在するか、ですね 心脳問題は脳の変位とクオリアの関係でもある。よくある哲学的ゾンビの誤解は、その"変位"からクオリアが同定できるというものだ。
問題は変位そのものにあるのだから、この点はペギオ氏の「向こう」を判定基準にすることが可能だ。しかし、それは相対的な解である。 >>591
逡巡ですか。時計氏は独我論だったのが、脱独我論を抱いてしまったのではないかと私は思います。
他者の意識は存在しない、←これを主張したくなるのは独我論を信じていたからではないかと。
しかしながら、色即是空という風に、すべての存在は空であるとするので、意識は空なのだと推測できます。
「脳が心を生み出す」というお話は、プラトンのお話にも出てきます。
>>心的な作用が脳とされるものを生み出しているのではないかということです。「精緻に表現」と表現されています。
私は心的な作用が脳とされるものを生み出すという意見を支持していません。
また、脳が心を生み出すという意見も支持していません。
心と脳はどういう関係か?これについてですが、特に知らない私は、脳の働きのせいで心がどうなるかなど、提案するわけでもありません。
また、心の働きのせいで脳がどうなるかなど、提案するわけでもありません。 >>592
おそれいります。
「我は存在するか」というのは、「何かが存在している感覚があるが、それが「我」なのかどうかはわからない」という理解でよかったですか?
>>594
「脳とされているもの」は「脳として認識されているもの」に訂正したい気持ちがあります。
もしも願いが叶うなら「富士山は存在しない」も「富士山として認識されているものは存在しない」に訂正したい。 >>595
我は解体されるべきものではないか、ということです 量子論的コインを考える。0と1の面がある。
重ね合わせの状態が通常と考えるなら、
0の面を観測したときに1bitのエネルギーを得る。
多世界解釈すれば、1の面を観測した世界もある。
この情報が、重ね合わせに戻るような場合、情報はエネルギーに転換される。
観測することで観測者には1ビットのエネルギーを得るが、
その代償を観測者が払っているとすれば、そこには負の1ビット分のエネルギーがある。
結局、マックスウェルの魔物が1ビットのエネルギーを与えているのだ。 記憶とは、負のエネルギーだ、ということになる。
記憶が増えると熱死の逆で、凍死する?
すべての記憶を持つもの(すなわち(実在しない)オラクル装置)が哲学的ゾンビだ。 >>596
となると解体されるべきものが、何故あるのでしょう?
深い意味はない気もしますけれども。 >>596
>>「脳とされているもの」は「脳として認識されているもの」に訂正したい気持ちがあります。
第一認識と書いておきます。
脳として認識されているものがどうかしましたか。
>>もしも願いが叶うなら「富士山は存在しない」も「富士山として認識されているものは存在しない」に訂正したい。
第二認識でしょうか。富士山は在るということで、富士山は存在しない、という意見はどうなるでしょうか。 超球面氏、てきとうに書いていたと聞くが、終わってしまったか。ありがとう。 >>599
さて、どこから解体するべきか。まず、我というものは可変的だということは言えると思います。有ると言った途端に、何か別のものに変わるような。そういう意味で我は無いし、あるいは空であると言えるのかなと思います 追憶の日々、「今」が物理的に存在しないと考えよう、その場合、今は重ね合わせ状態なのか
誰かが確信を秘めたレスをする。そのエネルギーに解釈の重ね合わせが生じる。裏を返せば·· 以下引用
色即是空
「この世のすべてが空である」ということは、物質だけでなく、この世界にある現象すべてが空ということです。
空なる現象は、流動的だというだけでなく、本来それは「ない」ものだと受け止めてください。
ーー
色も匂いも感触もすべてがない、というのが仏教哲学でしょうか。
すべてに自性はなく無自性である。つまり実体が何もない。
仏教の一部を応用すれば、意識も心もないという結論に至ります。もしそれが正しければ、富士山はないでしょうね。以上です。 マックスウェルの魔物が量子コインを観測すれば、世界が2つに分岐する。
この分岐が記憶だとすれば、それぞれの世界はそれぞれに1ビットのエネルギーを得る。
分岐した世界が元に戻れば、記憶は消去される。
2つの世界は互いに反エネルギーの世界だ、ということになる。 >>605
>本来それは「ない」ものだと受け止めてください
あなたの言う「ない」ってこれ「ある」が前提にないと言えない言葉だと思うんですけどその辺りどう考えていますか?
それがあるかないかの話の前に「なぜそれを"感じる"のか?」が意識のハードプロブレムの話じゃなかったでしたっけ 色即是空は「それが何か」は変化するという理解ですが「"それ"を私が感じる」こと自体は否定していなかったと私は理解しています
そうなると色即是空は「実体のないもの」という「"感じ"がある」をどのように説明できるのでしょうか 「ない」と言う言葉が使用できるのは「ある」というものが前提になります
「ない」と言う言葉は単独で説明可能でしょうか
「"A"は"それ"ではない」と言う時に「A」という"それ"が前提とされていないと言えない言葉だからです
"それ"を"存在"と言い換えると「富士山は存在しない」は「富士山は"それ"ではない」ということになります
では「"それ"ではない」という主張の"それ"とは何か?
どのように"それ"を言い表しているのでしょうか? もしかしたら「言葉遊び」だという人もいるかもしれません
では「物理学」とは?「量子力学」とは?
これらは「数学」を土台にして構築されているものです
では「数学」とは?
数学の土台となっているものは「定理」です
では「定理」とは?
それらを伝えるための「語」とは?
これが言葉遊びであれば上記のそれら全てを否定することになります
では「日本語」と「英語」がどのように区別されるのか?
字や音での"表現が違う"という事で「区別される」とは何か?
"表現が違う"は"感じ"とどのように"同じ"なのか"違う(否定 = ない)"なのか? 「青」と「緑」は「色」として違うことは同意してもらえると思います
では「青信号」と「green signal」はどうでしょうか?
文字を分解すればそれぞれ「青」「信号」と「green」「signal」に分解できます
この際に「青」と「green」で比較すれば「青 = blue」「green = 緑」と言うように異なると思います
ですがこれらは日本語話者の「青信号」と英語話者の「green signal」は同じものを示しているように理解されます
そうであれば語の分解が必要以上に行われた場合に「青」と「green」は"感じ"としては果たして"同じ"なのでしょうか?
これはそれ自体提起したいものではありますが第一に言いたいのは私が上記の主張をした際に否定としての「ない」はどのように説明が可能か?です 私見を述べれば唯心論こそが答えというか、意識の発生を論じたりクオリアを語ることは問いの立て方がそもそも間違っているのです。
世界の偉大な唯心論者たち(バークリーやヴァスバンドゥなど)が述べたように、そもそも存在するのは心の要素(エレメント)だけなのです。
量子力学によって世界の因果律の決定性が破られ、非決定性が明らかになった今、もっとも合理的なのは唯心論、純粋観念論であると述べておきます。 >>607
>>あなたの言う「ない」ってこれ「ある」が前提にないと言えない言葉だと思うんですけどその辺りどう考えていますか?
そうですね、「ある」が前提になります。
>>それがあるかないかの話の前に「なぜそれを"感じる"のか?」が意識のハードプロブレムの話じゃなかったでしたっけ
「何かありそうだけど、空だからない」とする場合に、何かを感じる・・・これがそれを感じるという表現に使えたり、これを感じるという表現に使えるだろう。
>>色即是空は「それが何か」は変化するという理解ですが「"それ"を私が感じる」こと自体は否定していなかったと私は理解しています
そうなると色即是空は「実体のないもの」という「"感じ"がある」をどのように説明できるのでしょうか
「実体のないもの」という感じがもしあれば、それはそれでいい。 >>616
「途端」とはどういう意味ですか?
と‐たん【途端】 ① (「に」を伴うこともあり、多く副詞的に用いる) ほんの短い時間の経過を表わす。 ちょうどその瞬間。 はずみ。
引用例)
アホの時計は途端に鋭いレスを返すことがないのであるw
なぜならトタン製のやすものでさび付いて動かないためであるw
悲しいかな本人はアホだからそのことに気づいていないのであるw 以下引用
意識の主観性というものが、現代における先入観であり、科学的見地からは誤謬のひとつとして受け入れられるようになるのではないだろうか。それは、われわれが昔の人が天動説を当然のものとみなして地動説を受け入れることを拒否し、そもそもそうする理由もわからなかったという歴史的な事実を見るように、後世の人から見なされることになっても驚かない。われわれが今、意識を所与のものとして見ているさまを、将来に生きる人は、古く誤った考え方として見るようになるのかもしれない。そうなったときに社会や道徳や法はどのように変わるのだろうか。宗教がその座を奪われたときに社会と道徳と法が大きく変わったように、「人間」や「意識」というものへの認識が大きな変革を迫られた場合に何が起きるのか。過去の歴史上、大きく変わったことがあったことから、今後も何も変わらないという保証は当然のことながらないのだから。
ーーー
記憶は空であるから、記憶はない。ぜかひか。 >>620
>記憶は空であるから、記憶はない。ぜかひか
空であっても作用は否定されないから記憶は無実体かつ無常なるものとして存在することは世間極成の事実です。
意識も同様ですね。 記憶や意識の存在の証明。この「証明」という科学的手法が記憶や意識に対して有効な手法かどうかが問われるべきである。
そもそも、(自らの)記憶があるとか(自分の)意識があるとかいうときに「根拠」を意識していない。むしろ内省的にそれがあると「信仰」によって存在を認めている。
科学が自分の外に対しての専門だとすれば信仰は自分の内側に向かう分野だと言える。信仰には信仰対象としての「神」がある。
この「神」が「意識」とか「記憶」に取っ替わっても、信仰の性格は神に対するソレと変わらない。何らかのきっかけで人は無信仰から信仰者に跳躍する。
信仰者になった途端に「神」が世界を作ったとか「意識」が世界を作ったとか「記憶」が現在を作っただとか、そういう信仰が外側の世界を作り出したのだと無根拠に勢いづく
これらは「何かを作り出した」という架空の成果をもって「自らの存在」を証明する。
本当は神とは単なる「言葉」にすぎず、実際は何も作り出さないし、意識も記憶も何も作り出さない。そういう何かを作り出す「力」など無い、ただの「言葉」だから。 「意識」や「記憶」というのは他の現実的な力をもったモノと違って、架空の成果をもってしか自らの存在を形作りえない。そういう感じでただあるだけ、何かを作り出す力を持つことはない。
ただあるだけで、外側から力を受けることもない。「意識」はただあるだけなのに「信仰」と手を組むと、「意識への信仰」になり無根拠に外側に力を振るう。ただの「言葉」が急に勢いづく。
信仰などなくても力を受け渡ししているモノや力の影響を受けず停止しているコトこそが世界の本質なのに、一番優先的なものになったつもりなのか他のモノを押しのける。
直感的な信仰は世界の見方を歪める。 信仰対象になるような「意識」や「記憶」や「神」は全てフィクション、ただの言葉である。信仰対象にならないものこそが本当のものである。鰯の頭も信心うんぬんあるが、「信仰対象としての鰯の頭」ではなく「信仰対象ではない鰯の頭」こそが世界の本質、つまり本当に存在しているものである。
世界を作り出した意識とか神とかは架空の成果でまつりあげられたフィクションである。ただの言葉としての意識や神があるだけである。
本当の成果をもつものが(成果を持たないものもあるが)、第三者に評価されたものだけが、そして悪質な信仰と手をきったものだけが真の存在である。 言葉としてあるだけで、それを信仰する者の間だけで様々な性質が付与される。言語ゲームである。「意識」とは全く普遍的なものでもないし、その存在は所与のものでもない。あるゲーム体系の中で生きながらえているだけの「言葉」である。類する「魂」は輪廻転生の世界観・ゲーム体系の中で生き残っていただけのものであるが、昨今は「転生」というフィクション・ファンタジーのなかで生き永らえている。
実際にそれが大真面目に存在すると人々に公言するならば、失笑は免れないだろう。
それはもはや文学の中の概念でしかないのだから。
「意識」もいずれ盛者必衰の理によりどこかへ行くだろう 内側にこもって、外側からくる客人を追い返すようなゲームは低級の言語ゲームである。
内側でしか通用しない言葉を使っているからだ。どのゲームでも通用するような言葉こそ真の存在である。その言葉の用法と有用性は様々なゲームによって試されるだろうが、多くの言葉は真に存在する。一部の宗教的・信仰的な言葉は紛い物である。
「意識」は紛い物の存在である。「記憶」は紛い物の存在である。「神」は紛い物の存在である。なぜなら架空の成果をもって内輪でまつりあげられているだけの低級の概念だからである。これに対して自然科学の多くの言葉は真に存在する。なぜならどこでも通じるからだ。 現実と虚構(文学)の混同が意識のハードプロブレムという問題を作り出した。フィクションはフィクションだし、フィクションは現実には無い。意識は「単なる言葉」としてしか存在しない。本当は「世界を作り出した意識」という英雄は存在しない。それはフィクションの中の話だ。
「意識」という言葉は信仰のゲームに囚われている。新たな世界体系を打ち出してやればまっさきに消滅する。むしろ文学に抗う存在こそが真の存在である。文学や信仰は虚構を作り出すだけだ。意識のハードプロブレムも、ただの言葉としてだけあった「意識」が信仰の体系に組み込まれた為に起きた悪問である >>622-627
「意識」は単なる言葉。
歪な信仰・世界観・言語ゲームに組み込まれた為に言葉が問題になった
「意識」とは「魂」のように世界観が変われば消滅するタイプの「文学」である
文学と現実の混同が意識のハードプロブレム 「意識」・「記憶」は存在するか?
→その言語体系による。以上 >>620
天動説と同列に語るのは無理がある
「ものを考える主体そのものの在り方の認識」なんて一般的には変わりようがない 結局のところ
この3択だが
唯物論、唯心論、実体二元論
2つは天動説のように間違っている
どれが正しいのか答えを証明するのが非常に難しい問題だから
今から100年経とうが1000年経とうが
この問題は謎のままかもな 科学のオハコだった証明が、今は確定にシフトしてきているよね
証明は明らかにしないと正しさを認められないことだけど、一義的に確定してしまう事象こそ有無を言わさず自明だということ、信じる信じないの問題もない、信じようが信じまいがそんな恣意的な解釈とは別次元 >>633
証明を放棄する思考停止な概念なので除外
それよりは「シミュレーション仮説」の方がましなレベル 証明の放棄以前に論証すら放棄する思考停止のシミュレーション仮説がマシって思ってるだけじゃお話しにならない >>632
唯物論も唯心論も二元論も全部「証明」という手法を使ってるので無意味な思想
「意識」とか「心」とか「物」とか単なる「言葉」に過ぎない。わざわざ証明を要する点でそのものについての信仰に乗っ取られてる。それらは宗教とか文学と等しい。
無意味な思想 世界を作り出す意識は存在しない。それは信仰対象としての意識である。それは本当はただの「言葉」である
それは信仰の世界の体系の中で生き残っている「文学」である。「意識」は文学である。
体系systemが変われば世界を作り出したその偉大なストーリーは全て無になる。
「世界を作り出した意識」という英雄は局所的な存在である。 文系しか学んで来ないとこうなる、という典型例みたいな奴だな ニュースピークNewspeakが普及すれば、「意識」というマガイモノは真っ先に消え去る。
「意識」の概念が言語体系から追い出されたなら、誰もその存在を見つけることは出来なくなる。他の実物的なものとは異なり現実にその位置を持つものではないから。
ある言語体系の中で偶然生き永らえているだけの「言葉」である。 「力をもった意識」は存在しない。本当は単なる「言葉」としてのみ存在する
力をもつ意識が本当にあると思うのは文学をやりすぎて現実とフィクションの区別がつかなくなっているだけである。意識のハードプロブレムは現実と虚構の区別がつかなくなっただけである。 誰も否定することはできない。
「意識」という概念のない言語体系の民族に「意識」の存在を証明させられないことに。
当然のことである。凡人は言葉の一つ一つが差異の体系に支えられていることすら理解することすらできない。そもそも「意識」は文学的な概念であるし、その文化を人々が共有しなければ存在が不可能な存在である。 「意識」の存在に「証明」など必要ない。
言語体系にあるか無いかだけを見ればよくて、有るなら有り、無いなら無いのである。
有と無の中間こそが文学と現実の混同であり、現実と虚構を区別できない意識のハードプロブレムである。唯心論も唯物論も証明など不要である。それらの思想は言語体系が変われば消えてなくなるような不毛な思想であるからだ。それらをもって論戦する意識のハードプロブレムも無意味である。 肩こりという言葉がない国の人は肩がこってないみたいなこと? >>655
その通り。「肩こり」という言葉がないのに「肩こり」の存在を証明することはできない。「肩こり」という言葉があるならその存在を証明することができる。
しかし「肩こり」と「意識」は異なるものである。肩こりは肩という現実的な位置にあるが、意識はその位置を持たない。どこにもないものである。
意識は「言葉」としてしか存在しない。文学の中でしか特別な力を得ることができない。現実的なものではない。 はじめに形ありき後に音になり
言語記号と化しようやっと言葉 意識は脳にあるのでは?
脳が機能してない状態に意識はない、が普通の見方では? もう少し正確に言うと、脳の機能として意識は生じるので、所定の脳の機能を損なえば、意識は消える、なくなるのでは? >>659
脳にあるかどうかが問題ではない
言語体系にあるかどうかが問題である
意識の存在は脳を切開しても無いことは脳外科医なら誰でも知っている。 >脳にあるかどうかが問題ではない
そんなことはない。意識や心が脳の機能と無関係なら、脳がない生物や機械に意識が宿れることになるからな
AIが心を持つと同じだ >>663
そもそも外科医の専門は意識じゃないからね >>665
意識は現実的な位置を持たない
脳のある人間のなかにも脳のない生物の中にも機械の中にも意識は無い
意識とは文学である。意識が現実にあると考えるのは虚構と現実の混同である。 >>667
では、君は意識を持たないで、どうやって書き込みしたり、自己を認識しているの?自意識もないんだろう? 「魂」と同様に「意識」はどこにもない。
「魂」は輪廻転生という世界観・世界体系に因る。その体系ありきの存在である。
意識も神を信仰するという世界観に類するものとしてある。意識への信仰によって意識は特別な力を得ているのである。
しかしそれは文学的な出来事である。本当は「意識」は単なる「言葉」である。 >670
だから、そういう独自の書き込みも意識があるからこそ可能になるのであって、意識のない植物状態の人には不可能な行為になる >>669
「意識」という言葉のある文化の中にいるから「意識」を批判している。
それに意識を用いずとも書き込みはできる。そもそも思考するのに文学的な「意識」が必要だと考えるのも悪質な信仰によるのである。 >>670
魂は迷信、意識は覚めるし失う
言葉なら消ゴムでけしてごらんよ、意識失うかもよw >>672
君のアプローチは禅問答に近いから、君の方が文学的だよ >それに意識を用いずとも書き込みはできる
どうやって?機械に書かせても、それを設計している人間の意図や意識はあるけど 「意識が世界を作り出す」「意識が行為を可能にする」
このような迷信こそが意識を現実にあるものとして考える信仰である。まだ言葉を覚えていない子どもや動物を見れば、「意識」という言葉は無くとも生きることはできるし、食べ物を食べたり寝たりすることはできることは明らかである。 >>672
意識に限らず言葉を使ってる時点で文化の中。意識の批判になってない、意識したらどうですかね? 私達は「意識」という言葉がある言語体系を偶然得ているだけであり、本来そのような言葉は無くても世界は成り立つのである。
しかし文学や悪質な宗教が言葉を悪用することで、さも「意識」がなければ世界はあり得ないというように吹き込むのである。 >>676
>>679
・「意識」とは「魂」のように文学的な言葉であり、現実に存在するものではない
・「意識」が無くとも世界は成立する
・しかし文学や宗教が言葉を創造&悪用することで「意識」が無ければ世界は成り立たないという迷信を作り出す 意識、心、ラッセルの言うセンス・データが無ければ、世界は表象し得ない、認知出来ないので、その暁には事実上、世界は存在しないと同じになるのでは? >>682
「意識」という言葉は無くとも自然界は成立する。しかも「意識」がなければならないと言いながら、自然を見るときは「意識」という言葉を用いていない。「見る」だけの行為に「意識」が必要だとするのは意識という言葉の悪用である ヘレン・ケラー見れば分かる通り、意識があれば、たとえ目が見えず、耳が聞こえなくても世界や自然を表象、感受することは可能になる センスデータ
何のデータだろうか
光のデータを見るときの光は心ではない
光は光、自然光である。光は心という文学表現に属するものではない
文学がなくなろうとも自然光は無くならない。
そして「世界の表象」という概念そのものが「心」とか「意識」を前提にしたものである。
本来そのようなものは無くとも、自然光と同様に世界は成り立つのである。
世界は心の表れでなくてもよいのである。むしろそうでなくては困るのが「世界の表象」であり、非現実的な文学なのである。 センス・データがすべて無ければ、カントの物自体しか残らなくなるので、その時、人は何も認識出来なくなるはずだが。時空の把握も意識や心、表象機構の存在に依存して共起するものだろう >>686
「意識」という言葉が無くとも世界を認識することはできる。
「意識」という言葉が言語体系にあるかないか、それがその存在・非存在を決定する。
そういうことだから、物自体とか認識とかいうのは「意識」が言語体系にあるうえでの話であり、本来は「意識」は単なる言葉であり、世界に影響を与えるような力を持たないということで結論付けられる。 「意識」という言葉が言語体系にある故に、意識の存在とか表象の存在とかセンスデータの存在が成り立つのであるが、そもそも「意識」という言葉が無い言語体系や言語そのものを持たない生物の場合であっても世界は成立する。
特別な「意識」の力が無ければ世界は成立しないと考えるのが悪質な信仰である。 >>687
意識を使わないで済むお喋りで世界に影響を与える力はないでしょそりゃ 「魂」と同様、文学的概念である「意識」が現実的に存在するかどうか、それは「意識」の文学・文化を人々が共有して体系化しているかどうかによる。それはどの時代にも通じるようなものでも普遍的な概念でもない。
さらに意識の存在の「証明」というのは虚構と現実を混同したものである。
そもそも非現実的な文学だから「意識」を信仰する者たちは証明を必要とするのである。 意識のハードプロブレムは現実と虚構を区別できない無意味な問題である。 生物として世界は人間とは異なる状態で表象出来るだろうが、意識が無ければ、人間の認識に上るような世界は無くなるだろう。こうした認識不可能な世界をカントは物自体と呼んだ
君がゴキブリなら、ゴキブリとしてならば世界は表象、感受可能になるが、数式や言語、コンピュータなどは扱えなくなるし、そうした枠組みで表象される世界は人間的な意識が無くなれば、それと同時に消えるのだ 「世界を可能にする意識」という類の主張は迷信である。 誰の言葉かは知らないが>>620の引用に多いに同意する
すでに私は「意識」は先入観であり誤謬であり文学であり信仰であると思っているが。
───────────
意識の主観性というものが、現代における先入観であり、科学的見地からは誤謬のひとつとして受け入れられるようになるのではないだろうか。それは、われわれが昔の人が天動説を当然のものとみなして地動説を受け入れることを拒否し、そもそもそうする理由もわからなかったという歴史的な事実を見るように、後世の人から見なされることになっても驚かない。われわれが今、意識を所与のものとして見ているさまを、将来に生きる人は、古く誤った考え方として見るようになるのかもしれない。そうなったときに社会や道徳や法はどのように変わるのだろうか。宗教がその座を奪われたときに社会と道徳と法が大きく変わったように、「人間」や「意識」というものへの認識が大きな変革を迫られた場合に何が起きるのか。過去の歴史上、大きく変わったことがあったことから、今後も何も変わらないという保証は当然のことながらないのだから。 全ては言語ありき、などという考え方は完全に間違っている
言語を持たない犬や猫などの人間以外の動物にも意識はある 量子コインと記憶を考える。
なぜ考えるのかというと、メモリを消去するのにエネルギーが必要だ、とか
おかしな話を聞くからだ。
メモリは情報であり、エネルギーであり、ほっておけばたいていは勝手に
消去されて熱になる。
マックスウェルの魔物だけが、負エネルギーの記憶を持つw だから、そういう意識に対する変更を呼び求める意識改革自体も、意識によって為されているのが現実である
そうした論を立てたいなら、人は意識や心などに依らず、何によって企図、判断、思考、意思決定、行為をするのかを明確化しないと駄目だろう。本能も無意識だから、そこには、いわば意識の存在が前提されている >>696
「意識」という言葉のある言語体系を持つ人間が犬猫を見て、その中に世界を表象する意識があると信仰しているだけ。 意識の主観性というものが、主観における先入観であり、客観的意識の見地からは誤謬のひとつとして受け入れられるようになるのではないだろうか。それは、われわれが昔の人が天動説を当然のものとみなして地動説を受け入れることを拒否し、そもそもそうする理由もわからなかったという歴史的な事実が客観的意識であるように、後世の人から意識の主観性は恣意的な観念と見なされることになっても驚かない。われわれが今、科学を所与のものとして見ているさまを、将来に生きる人は、古く誤った考え方として見るようになるのかもしれない。そうなったときに社会や道徳や法はどのように変わるのだろうか。宗教がその座を奪われたときに社会と道徳と法が大きく変わったように、「主観」や「科学」というものへの認識が大きな変革を迫られた場合に何が起きるのか。過去の歴史上、大きく変わったことがあったことから、今後も何も変わらないという保証は当然のことながらないのだから。 >>698
「何が企図~行為を為させるか」
こうしたものに「意識」と名付けて体系化したから「意識」は存在する。しなかったなら存在しない。それ故に「意識」は言語体系にあるかどうかで存在するかどうかが決まる。
上の問題は「意識」の存在を前提にした問題である。意識のハードプロブレムも同じような問題である。全く普遍的な問題ではない。
自然物のように現実的な位置を持たない非現実的・文学的存在が「意識」である。
それら誰でも知り得るものではなく、文学を共有しているものの間でしか通じない内輪ネタである。 「意識の存在証明」など不毛である。その言語体系にあるかどうかさえ見れば良い。 また意味不明な長文の言葉遊びでスレが埋まってるけど
そもそも意識の問題の本質は
宇宙が始まって最初に生物が発生する前
その時点では「意識」はどこにも存在しなかったのか?
これを知ることが出来れば答えは見えてくるんだけどな 君は言語をすぐに文学へと短絡化するが、科学的で客観性があるとされる数学の公理、論理学、コンピュータ言語、化学式、物理法則も一種のリテラルであり、言語システムの中に内包されるであろう。
それらが他の生物と共有出来ないからと言って、即主観と呼ばれないように、意識を単なる主観とみなすのは、短絡なのではないか 宗教も物理学も言語ゲームなんですが何故宗教は紛い物と主張しているかがよく分かりませんでした
それぞれがその範囲の中でゲームとして規定されていれば真偽の話にはならないですしましてや宗教ではなく信仰という言葉を使っているのでその主張は「物理学への信仰」という言語ゲーム内では適用可能でしょうけどその範囲外にまで適用させようにもゲームとして成立していないんですよね
あと「どのゲームでも通用するような言葉こそ真の存在である」から始まる文言はとても形而上的な表現だなと思いました
「真の存在」というものはその言語ゲーム内で適用着るものであって「どのゲームでも適用するような」という拡張は神を想定していることと変わりません
神の想定はもう「神の要請」で話がついているように人がその言語ゲーム内に対応できないものに対して表現する名だというのはここにいる皆様ご存じの通りです >>704
「言語を文学へ短絡化」
そんなことは一切言っていない
自然の中に位置を持つものが現実に存在するものであり、そうでないものを文学的な存在と言ってるだけ。文学的な存在を現実にあるものとして教え込むのが悪質な信仰。言語体系には様々な文学的・自然科学的な言葉がある。「数学等々がリテラル」という批判もズレている。「意識を単なる主観とみなす」…意識は単なる主観だ!とはいっていない。意識は単なる「言葉」だとは言った。 >>706の意識は頭の中で意図できる
位置には存在していないというなら
どうやって意識という言葉の意味を使って
書き込みをしているのか言ってごらんよ >>705
物理学への信仰ではない。自然という共有可能な地平では誰しもが言葉が通じるようになる。それ故に自然科学的な言葉は真に存在するものである。地に足のつかないゲーム、文学や宗教とは異なる。「神」も地に足のつかない言葉であり、普遍的な言葉ではない。 >>707
全く論点がズレている
私が意識を持つかどうかということと、意識がいかに存在するかということが頭から抜けているようだ。それでは全く議論にならない。 >自然という共有可能な地平では誰しもが言葉が通じるようになる
なんで「自然」と言うものが「共有可能」な前提におかれているのですか
その辺りはもう富士山の話で終わっているでしょうに
>それ故に自然科学的な言葉は真に存在するものである
何故誰もかれもが科学が実証主義に基づいているのにその前後の文を入れ替えるのでしょうか
自然科学は「真に存在する」のではなくて「説明が可能なそれを"今のところ真に存在する"」と定義しているにすぎません
あなたの「真に存在する」は何を以て相手に伝えようとしているのが"伝わっていない"という話です >>709
論点になるような意見はそもそもきちんと意識して
論理的な根拠のあるコメントが対象
そもそもあなたの言葉に意識が働いていないのに
論点があると思う方がおかしい。
>意識がいかに存在するかということが頭から抜けている
君の頭から抜けているのが意識なんだけど?w
いかに存在するかって前提がそもそもなかったんじゃ? >>710
なぜ自然が共有可能という前提なのか?
それは自然を共有しながら人は生活しているから。人はそれぞれ大地と海を共有している。共有された土地から見えるものは異なるかもしれないが、見え方の違いは同じ土地の 分割から始まる。これが共有の前提である。
つまり見え方が違うということは、逆説的に共有しているモノがあるということである。
自然が共有不可能なものだとするならば、それぞれの視点は逆に同一になるのである。 >>708
「普遍的な言葉ではない」というのは物理学でも同じなんですよ
相対性理論を構築したアインシュタインは「神は賽を振らない」と言いましたがこれは普遍的なのでしょうか?
これ量子力学で否定されてるのであなたの「普遍的な言葉」って何ですか? >自然という共有可能な地平では誰しもが言葉が通じるようになる
言葉を聞かずに育っても自然という共有可能な地平で誰しもが
言葉が通じるようになると思ってる時点でヤバい >>712
「自然を共有しながら人は生活しているから」
少なくとも私は南半球の人と自然は共有していませんよね
だって私は寒いというし向こうは暑いと言ってますし
>つまり見え方が違うということは、逆説的に共有しているモノがあるということである
意味が分かりません
私は「私は南半球というものを理解している」ということで初めて「南半球は今は夏である」ことを理解可能です
でもこれって地球の公転と地軸に対する理解がない場合に何も分からない話ですよね
地球の公転と地軸に対する理解がないまま生きてきた私が何らかの手段で南半球の人と連絡が取れたとしましょう「こっちは今は暑い」と言われたところで「何言ってるの寒いでしょ」と言う以外にありますか?
主観による神の視点みたいなのを説明に用いらずにこれらが「共有しているものがある」と言う根拠はどのようなものでしょうか? >>713
>>714
同じようなレスなのでまとめて。
「普遍的な言葉」
「自然という共有可能な地平では誰しもが言葉が通じるようになる」
これらに言えることだが、つまり言語体系が存在を可能にするということである。普遍的な言葉とは修正可能なもののことである。これは自然という地平に現れる。人々がある物について議論する際に、その物を「A」だと考える。しかし、時代が経るごとにその物の別の側面が明らかになると今度は「B」と考えるほうが良いことに気づく。
この種の言葉は普遍的な言葉である。
対して文学的な言葉というのはその内実は変わらない。「神」は全く普遍的ではない。内輪でまつりあげられる不変の存在であるからだ。外部からの影響を受けるかもしれないが、自ら受けようとしない。このような物は普遍的ではない。
前にも言ったが「意識」とは架空の成果でまつりあげられた言葉である。「世界を作り上げた」という架空の成果をもってまるで現実的に存在しているように振る舞う。
こうした概念は自らを変えてしまうと、存在価値が消滅する。故に変わろうとしない。変えてしまうと都合が悪いからだ。
こうした概念は全く地に足のつかないものだと言える。 「意識が世界を作り上げた」
これは迷信である。世界を作り上げたのは意識を操る神かもしれないからだ。世界を作り上げたのは意識か神か。はたまたべつの第三者か。こうした問題が出てくるのはそもそも「意識」が文学であるからだ。無意味な前提から無意味な結論を引き出しているだけに過ぎない。「意識」は単なる文学的な「言葉」である。現実的に存在するかどうかも分からない。ただ言語体系の力で存在しているだけである。これは全く地に足のつかない信仰の問題である。 >>716
>つまり言語体系が存在を可能にするということである
分かります
>普遍的な言葉とは修正可能なもののことである
これも分かります
>「神」は全く普遍的ではない
これが分かりません
あなたのいう「神」は分かりませんが私がいう「神」はネットでもたくさん見てきました
あなたのいう「神」はある特定の言語ゲーム内での用語を他者もそうであろうと想定しているものではありませんか?
つまりここでいう「神」という語がどのように相手に伝わるか?それは"普遍的に伝わる"言葉なのか?
おそらくあなたは"あなたの思う"「神」について語っていると私は理解しますがそれが「共有可能」だとは思いません
何故なら「共有とは何か?」という問いを続けることで形而上の「神」に辿り着くことを回避することの説明がされていないからです
>>705で書いたようにその「神」は「言語ゲーム」内で適用されると「あなたが期待する」という行為がわたしにとって「それはこの言語ゲームにおいて適用されない」ということです 「意識」とはそもそも単なる言葉としてあるだけだ。そこに文学的な特別な力を付与するからそれが現実的に存在するとか、世界を作り上げたとか私の行為を可能にするとかいうファンタジーになる。
なんなら「意識」という言葉を「神」という言葉に変えても問題ないのである。 >「自然という共有可能な地平では誰しもが言葉が通じるようになる」
>これらに言えることだが、つまり言語体系が存在を可能にするということである。
そもそも自然界は言語体系がない時代の方が長いけど?
存在という言葉すらまともに使えない人が議論は無理ですよ。
意識が架空の成果でまつりあげられた言葉であるといってる意識をまつりあげてるのは誰かって話でしょ
自分の世界観を作り上げてる架空の成果をもってまるで現実的に存在していないようにふるまうのは誰かって話。
意識を使わないひとに意識のおはなしが不可能なんですよ。
あなた自らの概念を変えてしまうと、存在価値が消滅するわけじゃないんで
変化を恐れず意識を働かせて生きた方が都合がいいですよ。 >>720
「自然界は言語体系がない時代の方が長い」
→時間の長さが今の話に関係してるの?
「意識をまつりあげてるのは誰かって話」
→誰のこと?
「意識を使わない人に意識の話は不可能」
→確かに。しかし最近のAIは意識の話をしてくれるかもしれない。君の言に従うならば、AIは意識を持っているのだろう。 >>718
すみません書いててすっ飛ばしていてわかりにくいところがありました
彼の言う「神」とわたしがネットで見てきた「神」が同じまたは違うとするなら「自然」や「修正可能」という言葉をあなたはどのように定義していますか?
ということです 「神」と言う言葉で受け取る印象が宗教的なものに絡むのでややこしくなっているように思いましたので身近なところで問いたいと思います
「幽霊は存在するか?」は「自然」という言葉でどのように説明されますでしょうか?
「感じるという印象がある」はそれを感じないなら否定ができないことから否定自体ができません
ではなぜ「否定」というものができるようになるかと言えば「"それ"を感じる」という「それ」を指定して発せられたものに対して否定をすることができるようになります
肯定はともかく否定については「それ」がどうしても必要になります
幽霊が見えている人が指をさして「それ」と言ったときに「それ」が見えない私はそれを否定します
では彼は「それ」を肯定としてまた私は「それ」を否定としてどのように説明するのでしょうか?
では「自然」とは? >>475
そんな前提ねーよ低学歴無職知ったかぶり >>705
言語ゲームなど無い
無意味な妄想
証明されてない 私は幽霊という”それ”が見えたと「感じた」けれど私は何も言わなかったときに彼は"それ"を感じたのだろうか?
私は"それ"を指さして「幽霊がいる」と言いましょう
彼はいつ「幽霊はいない」というのでしょうか?
私は"それ"について黙っていましましょう
彼はいつ「幽霊はいない」というのでしょうか?
この2つの問いは前者と後者の前提が異なっています
前者は私が感じたことを彼に伝えるよう行為したという状態です
後者は私が感じたことを彼に伝えるよう行為しないという状態です
行為した結果「幽霊がいる」という「感じ」はどのようになりましたでしょうか?
また行為しなかった結果「幽霊がいる」という「感じ」はどのようになりましたでしょうか?
行為しない場合については「私はそう感じたと"思う"」に留まるのでこれで止めておきます
では行為した場合に起きた彼の「幽霊はいない」という私が示した行為を受けた私と彼で"感じ"は通じているのか?
「自然という共有可能な地平では誰しもが言葉が通じるようになる」への批判となります >では行為した場合に起きた彼の「幽霊はいない」という私が示した行為を受けた私と彼で"感じ"は通じているのか?
では行為した場合に起きた彼の「幽霊はいない」と発した行為は私が「幽霊がいる」と示した行為の間で"感じ"は通じているのか?
に修正させてください
「自然」は共有可能だという前提は何か?というのは古典的な問いだと思う方もいるかもしれませんが念のため 主張することに前提がない場合は無限後退により説明が不可能になること
公理を置くことは言語ゲームにより「真」が不可能になること
これらは過去の哲学者が既に"説明"してきたことなのでこれらの説明を前提として意識のハードプロブレムについて話をしていきませんか? またやってしまいました申し訳ありません
>公理を置くことは言語ゲームにより「真」が不可能になること
「真」はナンセンスになること
に訂正でお願いします >>659
クラゲに意識はないのですか?心はないのですか?
クラゲはロボットなのですか? >>730
”私は幽霊という”それ”が見えたと「感じた」けれど”という表現には、すでにこれは現実のものではない、幻覚である、
他人は”それ”を見ていないという予断の相貌があります。
この問いはナンセンスであり、ある種の誘導尋問に近い。
意味のない自問自答。
意識のハードプロブレムとは何の関係もない、言葉遊びです。
ヴィトゲンシュタインが老境に達していたら、再び彼はこう述べたでしょう「ナンセンス!」 >>735
>私は幽霊という”それ”が見えたと「感じた」けれど
の部分ですね
>でにこれは現実のものではない、幻覚である
「幻覚」だとあなたがいうことはいいのですが何故厳格だというのですか?
>他人は”それ”を見ていないという予断の相貌があります。
ああ失礼「感じる」に訂正させてもらいますそのう上で予断としたことの説明をお願いします >>736
「厳格」は「幻覚」に訂正ください
またそこに書いた通り「感じた」の部分は「感じる」に訂正ください >>736
「彼は"それ"を感じた(or る)のだろうか?」とだけ述べて「彼は"それ"を感じなかった」とは述べていないことや
「彼はいつ「幽霊はいない」というのでしょうか?」という自問ですべて露呈しています
この手の哲学的自問は、自分語りであるがゆえに発話者の思想性が色濃く表れています。 >>738
>「彼は"それ"を感じた(or る)のだろうか?」とだけ述べて「彼は"それ"を感じなかった」とは述べていないことや
「彼は"それ"を感じなかった」というのはどこから出てきたのでしょうか?
>「彼はいつ「幽霊はいない」というのでしょうか?」という自問ですべて露呈しています
>この手の哲学的自問は、自分語りであるがゆえに発話者の思想性が色濃く表れています
これは私の主張に対して何も説明がされていません
発話者の主張でいうならヒュームとカントとウィトゲンシュタインとオースティンが思想の元になっていますのであなたの別の思想での説明を期待します >>739
「彼はいつ「幽霊はいない」というのでしょうか?」という問いはどうして現れたのでしょうか? 「我思う故に我あり」という話を上で見てきた。しかし「我あり」であるとするのは少し早計である。我を思うその何かが「我"である"」という保障は1つもないからだ。それは別に「神」であっても良い。我思う故に神ありである。
「我(意識)」や「神」などは哲学の内輪ネタである。不確定なものを独自に「我である」としている。それが通じる仲間内だけでやっているゲームである。
ゆえに偶然通じている言葉を仲間内で論議する意識のハードプロブレムは無意味な問題である。
そもそも「意識」を前提にする西洋哲学が無意味なものである。 「意識の主観性」をあがめるような学問は学問ではなく文学である。文化と文学の中だけで力を与えられたただの「意識」を崇めるのは悪質な「神」への信仰と同じである。
意識のハードプロブレムは無意味な問題である。 今何かしらを考えているもの・何かを行為するものが「自分・私・我」であるとするのは文学である。そして、その「我・我・自分」を操作する第三者がいるとするのも文学である。
無意味な文学の上に作り出されたものが「意識」の哲学=文学である。
意識のハードプロブレムを真剣に考えるとすれば、それは現実と虚構の区別がついていないのである 「意識」という言葉を崇める東洋的・西洋的な哲学や思想自体が終わっているのである
この悪質な信仰を全ての人が終わらせなければならない 「意識」とは「魂」と同じくただの文学的な概念である。文学上でしか力をもたない。「世界を作り上げる意識」は現実には存在しない。ただの文学上の英雄である。もし現実にそのような力を持った意識があると言うのならば、それは文学中毒者である。
文学から取り出された「意識」は現実ではただの「言葉」である。 >>741-745
・「意識」を崇めるのは文学中毒である
・意識のハードプロブレムは無意味である 唯心論や唯心論を隠れ蓑にする唯物論は出鱈目であり相互作用というものは最高の出鱈目である。なぜなら文学的概念を用いて現実に適用して居るからだ。
これらの思想を大事に持つのは、文学と現実の区別がついていない文学中毒者のナレハテなのである。 文学と現実の区別がついていないナレハテいうか文学中毒者って印象でしか判断基準がない知能のナレノハテなんじゃないの 「他者に意識は存在しない」
と一口に言っても、「私」は他者を語るのか、意識を語るのかで、その中身が変わってくる
日常の"出逢う他者"に「私」が要請される時、他者として、どのように呼びかけるだろうか
明らかに、変わってくる事を止めようがない >>749
「他者に」の時点で、他者に意識の存在を無意識に容認してる「私>>749」の主張でしかない
既に「他者に意識」ありきだから他者を語りたいわけでも、他者の意識を語りたいわけでもなく、「他者に意識は存在しない」と語っている私の自己分析を語り聞かせたいだけではないかな。 『他我』が本当に存在するのか調べる方法は無いし
『独我論』を否定できる根拠も無い そういうつもりだったのか?
どっちでも構わないけど。 >>752
他我が本当に存在するのか、自分の中にある個体意識の統一体としての自我に対して、他人の中にも同じくあると考えられる我がないなら調べるまでもなくないし考えられるならある。
自我とその意識だけが実在し、いっさいのものは、自我の意識のなかに存在するにすぎないとする立場を否定できる根拠がないなら独我論者というだけだな。 何をもって自分にはあって他人にはないといえるのかが一切語られていないけどな 統一感覚としての自我はまやかしである。
様々な感覚を一つにまとめる「何か」がすなわち「我」である根拠は何一つ無いからだ。
それは「我」でなくともよい。なぜならそれは文学上のフィクションだからである。そのような意味では無限に自由なのである。
「我(自己意識)」を「神」にしてもよい。様々なデータを取りまとめるように「意識を操作する神」こそが本当の存在だと文学上では言いうる。
しかし「意識」や「神」は文学=「意識」を崇める西洋・東洋思想を偶然的に共有したものの間のみでしか使えないものである。文学は非現実的なものである。非現実的なものは学問に値しないと言えるだろう。
意識のハードプロブレムは無意味な問題である。現実と虚構の区別ができない倒錯である。 そう、様々な事情で感覚を一つにまとめる何かが我である根拠は何一つ無い、自我の解離は誰にでも起こり得る。
そう倒錯したアイデンティティーにとっては文学上のフィクションだからである、こうして現実と虚構の区別ができない意識レベルは特に稀な例でもない。 悪質な「信仰」に対するならば、意識を文学とする立場は悪質な「解離」だろう。
ただし「信仰」と「解離」は等しい立場ではない。なぜなら信仰より解離のほうが現実的だからである。
つまり文学を学問とみなして弄んで無邪気に現実と虚構を区別できない文学中毒は解離よりも非現実的なのである。意識のハードプロブレムは無意味な問題である 「意識のハードプロブレムは無意味」とか言う人は、端的にハードプロブレムを理解していない。
ハードプロブレムからの提言は「意識を物理学のエンティティに加えよ」ということだが、
それは現在の物理学を根本から再編成することでもある。 ニュートンまでは、意識のハードプロブレムは、あえて言挙げすることはなかった。
なぜなら、ニュートンまでは(ニュートンを含めて)、意識は当然、自然科学で扱う
対象だったのだ。ニュートン力学で世界の半分を解明したが、あとの半分は未解決
と思っていたのだった。
しかし、ニュートン力学の圧倒的な成功を見て、後の科学者たちは、残りの半分を
無視するに至った。 >>759
悪質な倒錯に対するならば、意識を文学とする立場は解離からくる自己防衛反応、ただし倒錯と解離は等しい立場ではない。なぜなら倒錯より解離のほうが現実的だからである。
つまり分子がその成分原子や原子団またはより小さい分子に分解し、しかもその分解が状況によっては可逆的に進むような、分解を示す解離は文学を学問とみなして弄んで無邪気に現実と虚構を区別できない文学中毒に倒錯した解離はより現実的なのである。問題のな意識を無意味なハードプロブレムにしてしまうほど。 異なる立場から提言するだけで発狂する人間がいる。そうした人間はそもそもレスを読まない(読めない)。日常生活すら危うそうで哀れである。 異なる立場から提言するだけで発狂する人間がいることにする人は日常生活ではさぞひっそりと暮らしていそうで滑稽である 論議の趣旨に何も言えないから今度はつまらない悪口をいう方にシフトするのか。荒らしだな、来なければいいのに。 >>732
無限交代とか自殺レベルの恥ずかしさ
お前クソみたいな低学歴だろ >>732
説明とか言ってる時点で低学歴がバレバレになる
間違いなくこいつは証明の意味すらわかってない >>732
無限後退とか自殺レベルの恥ずかしさ
お前クソみたいな低学歴だろ
無限の意味すら理解できてない低学歴 >>744
>「意識」という言葉を崇める東洋的・西洋的な哲学や思想自体が終わっているのである
>この悪質な信仰を全ての人が終わらせなければならない
これ
意識という言葉は意味がない妄想 >>732
言語ゲームとか言ってる時点で低学歴無職だろお前
何の証明もない無意味な妄想 >>732
公理の意味すらわかってない知ったかぶり低学歴は自殺しろ >>740
>「彼はいつ「幽霊はいない」というのでしょうか?」という問いはどうして現れたのでしょうか?
彼が「幽霊はいない」と"行為する"という事がどのような場合に起こり得るかという説明ですので問いではありません
>「自然という共有可能な地平では誰しもが言葉が通じるようになる」への批判となります
ここで書いてあるように批判をしているのであって問う事はしていません >>772
脳障害同士が会話してなんか意味あんの? 脳に障害あるから低学歴なんだよ
それを測ってんだから学歴は 算数すらわからん脳障害=低学歴が問う?批判?
最高のコントやんwwwwwwwwwww >>738
低学歴に思想なんてあるわけねえだろ脳障害がよ
思想の意味すら理解してないwwwwwwwww. いつからインコが人の言葉を真似するだけのものを思想と呼ぶようになったんだ?ん? 知らん音声と文字を並べてるだけだから低学歴なんだよお前らは 低学歴は客観的にバカなんだってことすら理解できてない >>741
>我を思うその何かが「我"である"」という保障は1つもないからだ。
それについては同意します
>それは別に「神」であっても良い。我思う故に神ありである。
これは違います
「我思う」の前文で「我思う神」を除いてた上で「私というものを"思う私"」です
すみません方法序説のこの部分引用しようと思ったのですが本棚を整理しておらず少し漁ってみたのですが見つかりませんでした
>「我(意識)」や「神」などは哲学の内輪ネタである。不確定なものを独自に「我である」としている。それが通じる仲間内だけでやっているゲームである。
「我」はともかく「神」はそれを「科学」によって哲学の内輪ネタにならぬよう「神とは何か?」と疑問を呈していますし又それを"どのように説明するか"として進めています
「仲間内だけでやっているゲーム」こそが「科学」です
数学も物理学もその「仲間内だけでやっているゲーム」です
それを覗き見た他者が自身の目的に使用しています
アインシュタインの相対性理論は日々を生きる私達にとって「仲間内だけでやっているゲーム」以外の何でしょうか?
結果としてそれを覗き見た誰かが誰か自身の目的によって結果GPSなどに活用されているだけです >>512
潜在空間との干渉?
低学歴何言ってんだ
生きてる意味あんの?
インコの知能しかねえよお前は >>780
お前は知能がないから人間じゃないよ
そもそも人間社会に参加してない >>780
どうして自殺しないでいられるんだ?
自分が人間じゃないことは自覚してるだろ?
自殺しろ 難しそうな言葉並べたら考えたことになると思ってそうwwwww
低学歴の妄想ってすげえなw
学問の世界では難しい言葉なんて誰も使わないのにwwww それ親戚や知り合いに低学歴しかいないって自白よ
本物を見たことがない >>742
あなたの主張を理解するために「「文学」は「科学」である」かについて擦り合わせてからでないと会話ができないように私は考えます
この言葉の困ったところは「文学」と「文芸」の差異をどのように説明するかが難しいところではあります
「神」という言葉は文学か言語学かというところに焦点を当てるとすれば貴方は前者で私は後者となるのだろうと思います
意識のハードプロブレムで説明されるクオリアがこれらの"感じ"の違いについてこの概念を提起した方がどのように説明しているのかは気になるところです >>780
同意した箇所の次から
「「我思う神」を除を除いた上で」
→「何か」が「神」であることや第三者の自己意識を操る存在であることは文学の上でしか成立しない。
「数学も物理学も「仲間内だけでやっているゲーム」です」
→非現実的な哲学のゲームは「意識」を崇めるゲームである。対して非哲学的なゲームは日常生活ではその有用性ゆえに「意識」を用いているだけである。哲学の「信仰」のゲームとは違って「意識」にこだわりは無いので有用性さえあれば「意識」が「神」などの別の概念に変えて用いられてもよい。だから意識を純粋に崇拝するような仲間内だけでやっている文学中毒としての哲学の「信仰」のゲームと現実のゲームは違う。 >>743
これは言葉尻で揚げ足取りと非難されてもしかたないかもしれませんが「自分・私・我」と言う言葉の使い方についてです
「自分」は相手を示す言葉でもあります
「私」は最も"私"を示す言葉と"私は理解"します
「我」もまた相手を示す言葉でもあります
"あなたの主張を汲み取りたいと行為する私"は内心にありますがあなたの主張を私が"理解する限り"に対して"私はそれを主張する行為"があなたに伝わるかどうかについて"私は疑問に思うと発したい"と思い現にそれが伝わるであろうことを"期待して"これを書いています >>791
レスは1つにまとめて
時間は有限だから 哲学はそれの明晰化をするために語を厳密に扱う必要があるという事を理解した上で伝える行為としての日常の言葉で言うなら「貴方の言ってる文学って一体何のかよくわからない。感情の表現であるポエムのようなことを言ってるの?」
あなたのいう「文学」が"どのようなものであるか"の説明を頂けませんか?
そうでないとあなたのいう「文学」を"わたし"が"理解"と言う言葉で表現することができません >>789
科学知らん低学歴が科学という文字を書いたとして
それはインコが人間の発する音を真似て鳴くのと何が違うのか言ってみろよ脳障害が
自殺しろ知ったかぶり >>790
ゲームの意味すら知らんなら自殺しろ知ったかぶり低学歴無職 >>791
猿に理解なんかねえよ嘘つき
低学歴は理解という能力が無いから低学歴であることすらわかんねえのかwwwww >>792
低学歴は無意味な文字を並べることを「考える」ことだと思い込んでる そもそも哲学に意味があると思えている時点で脳に障害がある
歴史を学ばない猿
ウィトゲンシュタインにより論理学的に哲学は論理を満たさないことが証明済み
論理ではないということは妄想
これは確定事項なのに不勉強だから知らない知ったかぶりwwww
1921年以降に哲学とか吠えてる奴は
人工衛星打ち上げ後に「地球は平面だ!」と吠えてるのと何も変わらない
生きてる意味ないよ なぜ半世紀も前に可能であった人類の月面軟着陸が今ではほとんど不可能に感じられるほど困難になってしまったのか、哲学的に考えてみる必要があるのでは? 観測すると情報を得る。観測とは情報を得る行為であり、それは、
エネルギーを得る行為でもある?!
われわれは観測することで無尽蔵のエネルギーを得ることができるw
そんなわけはないので、どこかに貸し借りがある。
意識は流れであり、情報によって駆動されている。
すなわちマクスウェルの魔物が棲み着いているのだ。 猿は、人の猿真似をしたりはしない。
猿真似をし、猿芝居をするのは、人間である。 たとえば青葉真司被告が京都アニメーション放火殺人事件を起こしたとき、
彼の状態としては
「他者の意識は存在しない。
仮に存在すれば、それは主体の意識の内側に存在する。」
という部分に該当しているといえます。
その部分を青葉被告自身が哲学として持っているわけではなく、
長年生きてきた彼の人生をもって肉体がそのように反応するようになった、と考えられます。
他人が信用できない状態の人間は、表面上の他人の姿を真に受けるようなことはしません。
だからといって他人を解釈しない、ということはないわけです。
彼が生きてきて得た知識、経験、感覚でもって他人を解釈し、その人なりの答えを出します。
その答えはその人にとって感覚的なものです。
答えによっては感情をコントロールできなくなる可能性もありえます。
現に青葉被告はそうであったろうと思っています。 差別であれ、反差別であれ、カテゴリーを利用するのは、そうすることが自身の恣意的な振舞いを正当化するのに好都合だからである。 差別発言、差別行為の常習と差別発言の糾弾、反差別を掲げる被差別カテゴリーの積極的な活用は、互いに矛盾せず、共存しているだけでなく、協働関係において顕著な有効性を発揮するものとして積極的に活用されている。 >>801
>>789
科学知らん低学歴が科学という文字を書いたとして
それはインコが人間の発する音を真似て鳴くのと何が違うのか言ってみろよ脳障害が
自殺しろ知ったかぶり >>805
低学歴は差別じゃないよ
だって低学歴は生まれつき低学歴なわけじゃない
怠け者が自らの責任で行った選択の結果 >>804
単にマトモな人間は低学歴と関わりたくないだけ
だって人間の知能無いから そんなにお高い知能の持ち主ならサクッとニューカム問題解いてみな、どうせ解けないだろうけど
問題がおかしいとか言いそう低能が低能低能言ってるだけでみっともない 低学歴には解けないけど、高学歴でも解けないらしいよ
人様に低学歴連呼してる人には当然答え解けるだろうけど 唯心論=一切は精神活動であり、物質はその所産にすぎないとする世界観。
唯物論=宇宙の本体は物質であり、精神活動も物質的条件によって決定されるという立場をとる世界観。
汎神論=神と宇宙は一体であるとする哲学、宗教観。 唯心論=一切は精神活動であり、物質はその所産にすぎないとする世界観。
唯物論=宇宙の本体は物質であり、精神活動も物質的条件によって決定されるという立場をとる世界観。
汎神論=神と宇宙は一体であるとする哲学、宗教観。 自己言及パラドクスでマウントする悪い癖は直したほうがいいよ
それはロジックしか操れない哲学の限界でしかなく
あるいは高尚なつもりのポエムを撒き散らすだけで何かを理解したつもりになっている衒学趣味
ただ君の脳が見せている自己陶酔の幻影でしかない
まあ論理を弄んで遊んでるぶんには無害かもしれんがね >>817
被害妄想起こす惨めな癖をどうにかしろ
それよりさっさと知能を使ってニューカム問題ぐらい
解け、論理すら使えない頭くっつけてて何の意味があるんだ?
知能高いつもりなんだろ?ん?ただの思い込みか。 >>772
問いではないとしても形式上の不備があります
自問を用いない形式でやり直すべきです
それができないのならその思考は飛躍がある可能性がある >>803
>その部分を青葉被告自身が哲学として持っているわけではなく、
>長年生きてきた彼の人生をもって肉体がそのように反応するようになった、と考えられます。
身体的(?)独我論ですか?
身体に哲学的態度が備わり(!)しかもそれが独我論として抽出できるというのはどのようにして知られるのでしょうか?
身体が思考するのでしょうか?身体には霊魂が宿るのでしょうか?
流行りの「身体論」は文学的散文としては面白いでしょうが、哲学的には問題含みだと思われます 前に掲出した時には流したけど、まず矛盾か無矛盾で分かれているとして、前者とするなら、期待値より因果の問題で、大澤真幸の「因果関係がない」という予見を無視した時系列は違う ニューカム問題というのを初めて聞いたので調べてみたのですがこれの何が問題になっているのかがわかりません
私が見たサイトでの説明を見て理解したかぎり透明なAの箱に100円が入っていたら迷わず不透明なBの箱を選ぶのですがAの箱に9億円入っていてBの箱に10億円入っているなら迷わずAの箱を選びます
これは私がAの箱の100円を得たところで私の生活が何ら変わることないので預言者がどうかなどは考えずギャンブルとしてBの箱を選びます
逆にAの箱に9億円入っていればこれで私の生活は一変しますので9億円確実に得られるAの箱を選びます
金額によって変化するような問題ですのでまったくこれが何を問題としているのかがわかりません 自○しろ低学歴連呼野郎が
教えてくれるから期待して
待ってればいい
あいつが試されることに
意味がある。
まぁ急に大人しくなってて草
だけどな >>745
>「意識」とは「魂」と同じくただの文学的な概念である。文学上でしか力をもたない。
その通りだと思います
>「世界を作り上げる意識」は現実には存在しない。ただの文学上の英雄である。
この場合の「現実には存在しない」はどのような学によって言っていますか?
文学として「この世界を作り上げる意識」は"存在"という言葉が適切かどうかはわかりませんがまだ説明されていなかったかなと思います
>もし現実にそのような力を持った意識があると言うのならば、それは文学中毒者である
この言葉はレトロニムとしての「文学」が前提にあるように読めましたのであなたは科学から文学が文化した後の何かの学でもってあなたの思う文学なるものを否定しているようですが何故その"あなたの思う何かの学"でどのように文学を否定することができるのですか? >>757
>様々な感覚を一つにまとめる「何か」がすなわち「我」である根拠は何一つ無いからだ。
根拠はあります「私は私であるという」です
これがあなたに"伝わる"かどうかではなく私が思う限りにおいてわたしにとってそれは根拠となりえます
>「我(自己意識)」を「神」にしてもよい。様々なデータを取りまとめるように「意識を操作する神」こそが本当の存在だと文学上では言いうる。
これはおかしいですね「神は神であるという」は「"私"ではない"何か"」として「神」という文字があるとわたしは理解しています
「"神"と書いて"わたし"」と読むのなら「神(わたし)は神(わたし)である」に問題はありません
文字として読めば「神」という字になりますが音声であれば「わたしはわたしである」となりますので
ですがここでは文字でやりとりをしていますので「"我(自己意識)"を"神"にしてもよい」は当てはまりませんね
当てはまるというのであれば「"何によって"当てはまる」のかの説明が必要になりますがその説明の"その感じ"は果たして伝わるのでしょうか? >>760
この主張に全面的に同意します
わたしからすれば物理学は意識を扱う学ではないと考えています
だからと言って物理学が正しいとも思っていません
わたしが「私はこれを正しい言う」という言葉を発するときは何かを根拠にし又それを使用することで不都合を感じず又それによってそれを信じるという言葉で「正しい」と説明をします
意識のハードプロブレムは「意識は既存の学で説明することはできるか?」に帰結するように思えますのでやはりこれは哲学が示してきたように明晰化こそできますが「正しい」は人によって異なるだろうと思いますし「クオリア」はその派生であるでしょうから意識のハードプロブレムに説明がついて初めて解決される問題だと思います クオリアはわたしが「これは赤いでしょ?」と尋ねて「これは赤いね」という返事をもらった時点で"同じ"なんです
その"同じ"を何の根拠で説明しようが結局のところ"同じ"の定義を公理として止めない限りいくらでも明晰化できます
「なぜ私は私なのか?」は「"あなた"が経験して納得して信じたものが"あなた"」であって物理学にその説明を負わせるのはナンセンスです 人の素朴な欲求を満たす手段としての科学、つまり「未来を予測し、それに対応する
手段を持つ」ということでは、現在の科学(量子力学)でも、そこそこ行けるだろう。
しかし「世界を理解したい」という欲求に対しては、現在の科学は対応できない。
どんな物理学者も「量子力学を理解した」と断言できていない。
相対論ではそんなことはなかった。 >>790
>→「何か」が「神」であることや第三者の自己意識を操る存在であることは文学の上でしか成立しない。
「何か」を「神」と表現することはできますが"それは何であるか?”は説明されていませんしこれは"文学上"があなたが文学をどのような理解をしているを説明してもらわない限り反論ができません
>→非現実的な哲学のゲームは「意識」を崇めるゲームである。対して非哲学的なゲームは日常生活ではその有用性ゆえに「意識」を用いているだけである。
これはその通りだと思いますがしかし
>哲学の「信仰」のゲームとは違って「意識」にこだわりは無いので有用性さえあれば「意識」が「神」などの別の概念に変えて用いられてもよい。
>だから意識を純粋に崇拝するような仲間内だけでやっている文学中毒としての哲学の「信仰」のゲームと現実のゲームは違う。
この部分は意味が分かりません
哲学は意識を崇拝していません「意識とは何か?」を説明するための学ですもちろん「仲間内だけでやっている」というのは物理学と同様です
得られた"それ"を使った誰かが「正しい」というにすぎません
ですので「哲学の「信仰」」はあなたがどのように感じているかわかりませんが「現実のゲームとは違う」は「あなたのいう「現実」とは何か?」と文学で問いましょう 「神」は世界の理解に有効な概念ではない。それどころか有害なものだ。
さっさと捨てるべき。いや、賢明な人々はとっくに「神」は眼中にない。
信仰の世界でさえ「神」は無用なのだ。 「幽霊を見たから幽霊はいる」という主張をあなたはどのように否定するのでしょうか?
「物理学」という仲間内のゲームで説明してもそれは伝わりません
何故なら彼は現実として「幽霊を見た」をからです
物理学は彼が「幽霊を見た」を何ら説明していません
「物理学によって幽霊を"否定"する」ということはできるでしょう
そこで彼が「私が見た幽霊を否定する根拠として物理学などと言う仲間内だけで通じる話で安易に否定せずにきちんと理解してください」というならばどうでしょう?
会話が成立しませんよね
ここで「物理学」を「神」に置き換えて読み直してみてください
これが「"わたしが理解する"言語学」です
では物理学ではこの"会話が成立しない"をどのように説明するのでしょうか? 「意識を物理学のエンティティに加えよ」とのことだが隗より始めよハードプロブレム論者本人が「拡張物理学」でも提唱すればいいではないか 「幽霊を見たから幽霊はいる」と主張する人がいたら、
それを観察した方法と、観察の再現性を確認します。
その確認ができれば、幽霊は存在するとします。
それが既存の物理学に適合しないならば、物理学を改変します。
神についても同様。曖昧なことは何もありません。 >本人が「拡張物理学」でも提唱すればいいではないか
当然です。
しかし、それが困難な道なのは明らかで、だから賛同者を募っているのです。
その中には天才がいるかも知れないし。 批判してばかりで申し訳ない気持ちもありますが同時にわたしの主張に返してもらえるのはとても嬉しいです
こういう話はそもそも日常生活で誰かに言うこともできませんし言ったところで「そうですね」で終わってしまうので
肯定否定その他で「貴方はそう主張するが私はこう主張する」というような反応は時にイライラもしますが喜怒哀楽の感情を持てるだけでとても幸せなことだと感じています 世界の現象は外延として観察される。人はその外延をコード化し内包的理解を求める。
それが科学の営みだ。内包的記述が可能かは不明だが、それに挑戦しているのだ。
神の設定は、答えの存在が不明なのに、答えの存在をあらかじめ仮定してしまっている。 >>832
同意した箇所の次から
・「「現実とは何かか?」と文学で問いましょう」
→まだ理解されていないようだから言わなければならないが『現実とは文学や非文学を問わない、意識や神や世界、非現実等々を含んだ総体』である。非現実的であり文学的な哲学の「信仰」のゲームとは、それに気づかず進行するゲームである。哲学(文学)とはすればするほど現実から遊離して象牙の塔と化すのである。哲学と現実のゲームの違いはこれである。 意識のハードプロブレムは無意味な問題である。文学中毒が陥る悪質な「信仰」でしかない。単なる「言葉」である「意識」を崇めるのをやめればまた別の「信仰」を始めるのである。こうした思想は全くの無意味なものである。現実から遊離した信仰は非現実的であるだけで現実的では一切ないからだ。全てがが現実的だったことを忘れてしまった愚者である。「意識」を所与のものにするのは油の凝り固まった不純物を崇めるようなものである。文学に陥る全ての者が解放されなければならない。 >>841-842
・「信仰」はただの非現実的なゲームである
・全ての者がこの無用な学問の皮を被った文学を捨て去らなければならない >>843
「現実とは何か」であるという文学だけでなく「意識とは何か」も文学的な質問であるが、それ自体ではただの文学趣味である。「何か」に解離されない限りただの信仰であり、現実的ではない。意識のハードプロブレムも文学を共有するものの間で「意識」を所与のものとして崇めるだけであり、それが解体されず「何かが即ち意識なのか?」という解離へ戻らないなら足元をすくわれる無意味な文学であり象牙の塔である。 >>844
あなた自身の「意識」はあるのないのどっちなの? 物理も数学も哲学も、文学ゲームの一種です。(断定w) 数学という文学ゲームは、異なるものを同じとみなす技術を競うものでw
新しいルールを作ったり、排除したりするのもゲームとなる。
基本的にはいかに早く、先に発見するかということ。
そしてこれらが文学ゲームとなるのは、表現しなければならないから。 文学ゲームの前段階として言語ゲームや生命ゲームがあろうだろう。
学問(あるいは文学)というものが始まって、
記述されるだけでなく出版されることになった時点で、
マクルーハン的に文学ゲームが成立したのかもしれない。
生命(存在)ゲーム、生物(生存)ゲーム、言語ゲーム、文学ゲーム。
そう考えると、自己同一性が始まりか。 文学ゲームなんかやらされる
嵌めになってるとこ悪いけど
ルールは哲学ですよ 「意識」は文学であり信仰のゲームであり、それは本来は単なる「言葉」である。
その有用性によって「我思う故に我あり」であるところの「我を思う何か」が「我(自己意識)」であるのであり、それによって「我の存在」があるのである。「意識の存在」とは物語的な存在である。物語上だけで力を与えられた文学的な英雄である。
デカルトの言葉を鵜呑みにする者は文学中毒者である。その文学中毒者からは最早「何か」を追求する情熱は失われている。悪質な「信仰者」の一員なのである。 >>821
体についた肉体的な傷は自動的に修復しようとしますし、寝ている間でも呼吸はします。
ほかにもいろいろあるでしょうけども、人間が意図しない反応を人間の体がすることは多々あります。
パブロフの犬のような条件反射は人間にもあります。
以下は引用ですが、
>「パブロフの犬」とは、犬にエサを与える時、ベルを鳴らしてから与えるという事を繰り返していると、
>ベルを鳴らすだけで犬がよだれを垂らすようになるというもの。
>この犬にとっては「ベル=エサ」という条件づけが出来上がったため、
>本来エサとは無関係の「ベル」の音を聞くだけで体が反応してしまうようになるというわけです。
>犬や動物だけでなく、我々人間も幼児期からこれまでに経験してきた様々なことから数多くの「条件反射」を持っています。
>パブロフの犬の実験に起因する「刺激と反応のモデル」にあるように、
>ある特定の刺激に対して特定の反応をするようように条件付けられているわけです。
>これらは、一度条件づけられたらその後は自動的に発動します。
>そして、いつも同じ反応を繰り返すときそれを習慣といいます。
>習慣とは固着化した反応のことであり、その人の人生を大きく左右します。
>つまり、いつの間にか条件づけられた反応によって我々の人生は大きく左右されるということです。
https://motivation-up.com/motivation/pavlov.html 言語ゲームでは古いのだ。publishが欠けている。いまは文学ゲームだ。
哲学という文学ゲーム。 「世界を表象する何か」は意識の物語に有用であるときに「意識の主観性」を崇める。人々がどの物語を支持するかは偶然的なものである。「意識の主観性」よりも「何かしらの神」よりも不透明な「何か」が上にあるからだ。どの文学にもチャンスがある。それゆえに>>620に同意する。
「意識の存在・主観性」の偶然性はそれに都合のよい物語によるのだから、別の物語が創出されれば「意識」はもはや単なる「言葉」になる。
意識のハードプロブレムは、そのときにはもはや無意味な問題どころのものではない。 だから、それに都合のよい物語の「それ」は何を指してるの? 文学ゲームやらされてる時点で「哲学という」だけの決定論のルールに従ったただの思想ゲーム >>821
青葉被告がなぜ妄想性障害とされているのかは、
彼が他人の意識のことまで自分で総合性がつくように処理しなければならなかったから、といえます。
自分で総合性がつくように処理しなければないと感じるのは理性だけの問題ではなく、
肉体的な条件反射的な部分もあるのだろう、ということです。 与えられたものが同質か異質かを決する「正しさ」の基準を求め始めることがソーシャルであるなら、哲学では論理の純化が要請されており
しかも「私」と「他」の絶対的な矛盾を抱えて 「意識不明の重体」…ニュースでよく聞かれる定型文である。それは「意識」がない最悪の状態である。しかし、いずれにしろこうしたものは語り方の都合の良さや有用性の問題であり、本質は文学である。なぜならその状態は「神的な第三者が肉体を操っていない状態」であるとも別の世界観では説明できるからだ。「意識」を崇拝して「神」を見下すものは、偶然的に神を崇める世界観のある時代と国に生まれなかっただけであり、そんな人間がもし「神」を崇拝する時代に生まれればどうなっているかは明白である。「語り方・文学」が変われば存在するものも変わる。それだけのことである。 与えられた条件が同質か異質かで「正しさ」の基準を求め始めることは
そもそも哲学ではない、正しい論理的思考は哲学をする上で最低限必要な
前提ですよ。 「意識不明の重体」…ニュースでよく聞かれる定型文であるという語りの本質は情報である、ところが
それは「意識」がない最悪の状態である。しかし、いずれにしろこうしたものは語り方の都合の良さや有用性の問題であり、本質は文学である。
などと恣意的に都合よく主観で解釈してしまい、自分の意識を客観的に扱えない問題こそ本質なのだよ。
なぜならその状態は「神的な第三者が肉体を操っていない状態」であるとも別の世界観では説明できるからだ。「意識」を崇拝して「神」を見下すものは、偶然的に神を崇める世界観のある時代と国に生まれなかっただけであり、そんな人間がもし「神」を崇拝する時代に生まれればどうなっているかは明白である。「語り方・文学」が変われば存在するものも変わる。それだけのことである。
などというどうでもいい話にすり替わるのが常なのだ。 分かり易いがこのレス>>863は「意識」という物語の崇拝を前提にした批判である。「主観」や「恣意」や「客観」といった言葉を重視した悪質な信仰によってなされるものであり、その用いる語彙に対する懐疑もないのである。これが偶然的に「意識」を崇拝する時代に生まれただけの人間である。 分かり易いのが>>864の「意識」を物語の崇拝を前提にした>>863批判である。
「主観」や「恣意」や「客観」といった言葉を重視した悪質な無意識によってなされたもので、その用いる語彙に対する懐疑も意識していないのである。
これが必然的に「自己主張」を崇拝する信仰に至った
成れの果て 意識のハードプロブレムを甘く見てはならない、肝に銘じよ この世界で一番強い原理は「熱力学第二法則」と「進化論(ほぼダーウィン的)」だ。
これら二つの原理は「意味」と「価値」を生みだす原因となっている。
すなわち、
「意味」とは「局所的なエントロピーの減少」であり、
「正しさ」とは「存在し続けること」である。 人は世界を分節化する。そもそも生命は世界を分節化する。
分節化は恣意的で、様々な分節化があり得る。
我々地球上の生命は、たまたまある分節化を選んだ。
それが上手くいったので、今日まで生きながらえている。
しかし、今後も上手くゆく保証はない。 世界は現象だ。我々は混沌とした現象を勝手に線引して囲い、
その一つを「存在(実在)」と呼んでいるのだ。
実在と呼んで孤立化させる、これが分節化だ。
ある一つの文節は、現象の一部であり他の線引したものと
関係なくしては「存在」し得ない。
かくして、混沌とした現象世界は、分節化された「存在」の
ネットワークとなる。これは幻想/錯覚の世界だ。 ps://www.youtube.com/watch?v=snZyXjMKINE&t=309s
みんなで同じ時刻に祈って「個人的な願いを叶える」というイベントが2024年3月20日の春分で開催されるみたいです
「htt」をURLのタブから省いたのでコピペするときに入力してください ある行為や反応があった時に「悪意」を認定せずに社会が成り立たないとしたら観念的である
物を介在する「意識」なるものを哲学で扱う絶対的な悪意は善悪を抹消することにあるだろう ある行為や反応があった時に「悪意」を認定された
からといっていきなり社会が成り立たないという
前提を持つ者がいるなら観念的である
物質としての脳を介在する「意識」を自らの知能で扱う絶対性に悪意や善悪が関係するはずもない
まるでお話にならない のっぺりとかつ混沌とした現象世界を分節化したのが我々の世界だ。
それは幻覚/錯覚の世界でもある。
そうなったら、どんなゲームも文学も作りたい放題だ。勝手にどうぞ。 のっぺりとかつ混沌とした現象世界を分節化したのが我々の世界だ。
それは幻覚/錯覚の世界でもある。
そうしたらどんな物理理論も作り放題。
ただし、ケームや文学と違い、現象とのある程度の整合性は必要だ。
でも完全である必要はない。それが現在の物理理論。 意識をただの言葉だと勝手に思うのはいいけどしゃしゃり出られると邪魔でしかない ユネスコは2025年に量子力学100年を記念するイベントをする。
しかし、量子力学は100年経っても、世界の科学者の共通理解は
得られていない。
(一方、相対論は、今や共通理解を得られている(正誤とは別のこと))。
量子力学が「理解」できないのは、現象の分節化が誤っているから。
今の分節化では量子力学は整合しない。 現象の分節化が今の分節化のここで誤っているから量子力学が整合しない
どこでどう誤ったのか示せないならどうしょうもない。 ヒトは光の周波数を「赤・緑・青」で分節化する。
図形の把握も「水平、縦、斜め」を感受する細胞で分節化される。
分節化は進化的な歴史を持つ根深いものだ。
だから生得的ともア・プリオリとも言える。
分節化は原理的には恣意的だが、ヒトにとっては違うのだった。 量子力学の第一の「躓きの石」は、粒子と波動の両義性だ。
つまり、ヒトは「粒子」という分節化と、「波動」という分節化で
世界を理解しているのだ。
この分節化では量子力学を理解できない。 量子力学の第二の「躓きの石」は、近接作用と遠隔作用だ。
ヒトは「距離」という分節化で空間を把握しているので、
アインシュタイン等の「EPRパラドックス」に象徴的な、
「量子もつれ」を理解できない。 量子力学の第三の「躓きの石」は、観測問題だ。
コペンハーゲン解釈、多世界解釈、その他あれこれの解釈・・、
の観測問題に顕われる解釈の迷走は、「観測」という分節化の
不適合を示している。物理現象と意識という分節化の問題でもある。 文学ゲームの原点となるのは存在ゲームであり、自己同一性をめぐる物語である。
そう考えてみると、意識のハードプロブレムには、マクスウェルの魔物が棲み着いているw
観測とは自己同一性を「与える」ことであり、そこで得られる情報としてのエネルギーの
代償は記憶である。
この記憶によって宇宙(という記憶)が形成される。
ここまでを存在ゲームとすれば、それが維持されると生命(あるいは意識)ゲームとなり
(既存の生命概念とは異なるが)宇宙が生命であり意識となる。
うっかりと観測してしまい記憶をつくってしまうマクスウェルの魔物がいる。
この魔物は、無秩序あるところに必ず存在する。 意識のハードプロブレムは、誤った分節化の最たるものだ。
「モノと意識」という分節化が、根本的な誤り。
これがある限り、意識のハードプロブレムは解決できない。 そう、つまり物質であり、電気的・化学的反応の集合体としての脳から
現象的意識がなぜ生まれるのかという問いに問題が存在しない脳の持ち主に
意識のハードプロブレムを意識の問題として扱うこと自体不可能なんです。
よくできました。 無秩序を、何世代目かの熱死状態であるとすれば、そこから新たな宇宙の物語が始まる。
最も基本的な無秩序として0次元球面を考えたいが、それより基本的/根源的なものはあるのか? 分節化はウィトゲンシュタインの言語ゲームより根源的だ。
ウィトゲンシュタインは分節化の後のことを語っているが、
問題の本質は言語ゲームに先立つ分節化なのだ。 しかし京兄にも等価意識はあったろう、物質的だとしても、危害が加えられた可能性なんだしさ:-) segmentationとは自己同一性を与えることである。
「観測」も同じことであり、segmentationであるといえる。 分節化は本来は無用で余計なことだ。分節化しても何も変わらない。
分節化そのものがゲームと言えるかも知れない。
しかし生命としての世界は分節化から始まるのだ。
キリスト教に言わせれば原罪であり、仏教に言わせれば無明の始まりだ。 世界は「在る」から始まったのか? それとも「在る」は我々が始めたのか?
その機微を捉えたの釈迦だ。彼は「在る/無し」問題を解決した。
かくして彼は現象そのものとなったが、それは現象の「在る」を意味するのか? 物語性は頂けないっていま論破されたばかりですよ
物語の崇拝を前提にした意識に対する印象や世界観で
しかないってこと。
全ての人間の意識を現象させた唯一無二の
オリジナル問題が意識のハードプロブレム。
つまり存在論や時間の本質と相関する
哲学の本質的なアプローチ方法なわけ。 物語性がいけない、といっても、無秩序による自己同一性の物語が、
この宇宙なのであるw
物語られ方が異なれば、異なる宇宙になる。ま、同じ宇宙になることは「ほぼ」無い。
何者が「語る」のか、という数年前からの問題は、「無秩序」が語るのだ、
ということになる。おもしろくするために、無秩序に必ず潜んでいる
マクスウェルの魔物が語るのである、としておこうw 不完全性定理の数学でできている世界で妥協しとけば? 仮想粒子がひとつだけ。
これは無秩序になりうるか? 時空間などは無く、それ自身しかなく、観測者もいない。
ふたつ、でも足りない。
みっつ。やっと無秩序が現れる。それと同時に3+1次元も現れる。 >>821
人間の身体が…たとえばゲーム機やPCなどでいうハードウェアとしましょう。
そのハードウェア自体は、もともと「意識」を生成するわけではないです。
ただ、「意識」を生成できるポテンシャルがある高性能なハードウェアです。
そして、そのハードウェア自体に細工や機能を加えても「意識」自体は生成できません。
そのハードウェアは、ある反応によって「意識」を生成していきます。
ある反応とは「ことば」です。
「ことば」ですが、そのハードウェアはもともと「ことば」自体を発するように仕組まれているわけではありません。
そして、そのハードウェアによって「ことば」のようなものが発せられていたとしても、
その「ことば」のようなものに反応する対象がなければ、
そのハードウェアに「意識」は生成されません。
また、そのハードウェアは「意識」なしでも行動できます。
行動できるとはいえ、もともと仕組まれた行動パターンを逸脱するものではないです。 さて、ハードウェアが複数あって、
そして「ことば」の効果によってもともと仕組まれた行動パターンを他のハードウェアが逸脱してしまう、としたらどうでしょう。
「ことば」が他のハードウェアに影響を与えるということを自機が感応(フィードバックを受ける)すること、
これがもともと仕組まれた行動パターンに従って動くことよりも機体が激しく反応してしまう場合、
そのハードウェアは「ことば」自体に意味を持たせていくことになるのではないかと思います。
抽象化、つまりXをYに例えるようなことです。
原初はソナーを撃って反応を待つようなやり取りから、ソナー自体の強弱、モールス信号の連続性、
そして音自体を変化させ他の音と差別化する、などというようなやり取りの末、「ことば」が生まれていったのではないかと思います。
そして…
>身体に哲学的態度が備わり(!)しかもそれが独我論として抽出できるというのはどのようにして知られるのでしょうか?
という問いに対して説明するにはまだまだ長いプロセスがかかりそうです。
端的にいえば、通常は人間同士のコミュニケーションによって世界の同期が図られると思っていますが、
他人を受け入れない身体になっている人は世界と同期しづらくなるのではないか、と思います。 >>813
それ問題として成立してないから
知能低すぎ >>813
現実世界ではあり得ない前提を導入してるので現実世界と関係ない
低学歴はそんな事すらわかんねえから低学歴なんだよ >>880-883
流石に知能低すぎ
自殺しろ >>867
低学歴丸出し
熱力学は成立しないこともあることすらわかってない
熱力学の意味すらわかってない自白
自殺しろ知ったかぶり低学歴 何で知りもしない言葉を並べたら考えたことになると思い込めるんだ?
何一つわかってないのは低学歴であることから明らかだろ
低学歴ってのはバカの客観的証明だぞ?ん?
自殺しろ低学歴 >>867
これは自殺ものの恥ずかしさ
熱力学の定義すら理解してない低学歴の自白 低学歴は定義すら読まないから
熱力学には仮定があり
この世界にはその仮定が成り立たない状況がいくらでもあることがわかってない
熱力学がこの世界の法則だと思ってること自体が自殺ものの生き恥 ある前提が成り立つときだけの近似理論が熱力学であることすらわからない低学歴脳障害が
熱力学が宇宙の仕組みを決めてるとか思い込んでるの
最高に笑えるわwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww つまりお前らの妄想は全く意味がない
価値がない
無駄 >>904>>905
実は僕の知能は低すぎてどういう問題なのか
さっぱりわからないので、問題として
成立していないという事にします。
知能低すぎて申し訳ございません、恥ずかしさは
すべて暴言に変わってしまうのです。
本当に自分でもどうしていいかわかりません。
現実問題として、どういう問題なのか前提
からして推測不可能なので、僕のIQでは関係
を持つことすらできませんでした。
低学歴の現実世界を生きているので
あり得ない前提が導入されているとしか
思えません。すみません馬鹿で。
高学歴ぶることしかできなかったのです。
と正直にいえよバーカw低能恥知らずぼんくら
マヌケ、問題も解けない馬鹿の癖に偉そうに
御託並べてんじゃねーよ雑魚が >>915
問題になってないので解かなくて良い
バカは自殺しろ >>915
そもそも低学歴すぎて物理学の知識0という自白wwww
あまりにもバカすぎる
あんなもんが現実世界と関係あると思ってる時点で低学歴確定 >>915
問題ですらない無意味な戯言に意味があると思い込める時点で人間の知能ねーよお前
人間じゃない
猿
自殺しろ低学歴脳障害 雑魚は相応しい池沼に逝けよ
邪魔でしかないんだよ
馬鹿でもそれぐらいわかれよ 雑魚
問題ですらない無意味な戯言に意味があると思い込める雑魚
人間の知能ねー
おまえだよw >>919-921
低学歴は人間じゃないから人権ないよ
その証拠に収入ねえだろ? 低学歴は人間ではないゴミを人間が排除するためのシステムで排除された欠陥品 低学歴は社会からお断りされた人間ではないゴミ
不良品そのもの 低学歴が死んでも自業自得
低学歴を雇わないことは合法・合憲
だって低学歴は生まれつき決まってることじゃないからな? 低学歴が低学歴なのはそいつ自身の怠惰が原因
だからこの世界に学歴差別というものは無い
怠け者の怠けっぷりが正当に評価されただけ いやクソですら肥料になるんだから
低学歴はクソよりも無価値 低学歴が低学歴なのはそいつ自身の怠惰が原因
だからこの世界に学歴差別というものは無い
怠け者の怠けっぷりが正当に評価されただけ
低学歴が死んでも自業自得
低学歴を雇わないことは合法・合憲
だって低学歴は生まれつき決まってることじゃないからな? 低学歴が低学歴なのは自らの意思による自らの選択の結果
故に低学歴に対する待遇は差別とはなり得ない
怠け者が正当に評価されただけ 低学歴が死んでも自業自得
低学歴を雇わないことは合法・合憲
だって低学歴は生まれつき決まってることじゃないからな? 低学歴を雇わなくていいことは憲法によって保障されている基本的人権 職業選択の自由な?
低学歴と一緒に働きたくないという自由
これが人権な? 障害者は怠けて障害になったわけじゃないけど
低学歴は怠けて低学歴になったんだから
そら自業自得よw
救済措置なんてあるわけねえだろ脳障害がwwwww ここで雑魚を自由に泳がせておいてもいいかもね。
語録少ない小魚がなんかいってるだけだから
このスレで飼っておくというのも一興じゃないかな
メダカを飼っているということで。
意識のハードプロブレムの餌にならないように
頑張って泳ぐんだよ小魚ちゃん。
ランチいってこよ いろいろ拗らせて馬鹿の一つ覚え繰り返すしかできなくなってるなら可哀想な人かもしれない。 >>944
語録wwwwww
低学歴って語彙すら知らんの?
ガチで低学歴って低学歴なのなw
人間の知能がない 現象が全てである。
そして「我」は現象の外にあるのではない。
現象の中にあり、現象の一要素である。 現象に「部分」があるだろうか?
現象に部分はない。しかし「分節化」が部分を生みだす。
分節化が始まれば、現象世界は幻覚世界となってしまう。 また「分節化」が始まれば「意識のハードプロブレム」も生じうる。
この問題が生じない分節化もあり得るだろうが、発見されていない。 >>951
分節など存在しない
低学歴無職の妄想だから自殺しろ >>950
知能が低すぎるから現象を分解できない
低学歴無職だと自白してる >>949
現象などどうでも良い
低学歴無職の空想に何の意味がある? 間違いなく義務教育すら受けてない不登校ニートwwwww 分節とか言ってる時点で中卒無職確定
自殺しろ中卒無職脳障害 >>949で
>「我」は現象の外にあるのではない。
と言った。しかし分節化によって「我」が「外」に押し出されてしまうのが、
「意識のハードプロブレム」の始まりだ。
この分節化を止めないかぎり、「意識のハードプロブレム」は残り続ける。 一方、>>879で述べた通り、分節化は進化的な起源を持つもので、
簡単には再編できない根深いものだ。器質的/生理的根拠を持つ。 我々は既に「ある分節化」された世界を生きているので、
「分節化されていない世界」あるいは「他の仕方で分節化された世界」を
想像するのは難しい。普通には、我々の分節化を通したものになってしまう。
しかし、それを克服するのは不可能ではない。 >>958-960
分節とか低学歴無職の妄想
全く無意味 >>962
熱力学第二法則は限定された条件の元でしか成り立たないし
Fluctuation Theoremはそこから外れた条件の元で確率を具体的に計算できるので
熱力学第二法則は全く関係ない
素人のよくある思い込み
無知すぎる記事
そして中卒無職は無知すぎる記事であることに気づけない
つまり中卒無職チェッカーwwww 分節とか知能がカケラもない証拠
いくらなんでもバカすぎる 新しい文節化が必要だ。
今の分節化では「意識のハードプロブレム」は解決できない。
新しい分節化は新しい物理学を生みだすであろうが、それ以前に、
新しい世界の光景が現出する。 決定的に新しい分節化を目指すなら、人の肉体改造も必要となる。
まずは、空間とか時間とかで世界を認識するのを止める。
色もRGBで感受するのを止める。いや、色という分節化すら止める。
つまり、人は感覚器や認識能力から異なるサイボークと化する。
様々なサイボークを試し、最適解を得ることになる。 >>970
分節とか低学歴丸出しwwww
一切の教育を受けてないことバレバレ >>971
自殺したら?
全く意味ないよ
デタラメ >>970
そもそもお前物理どころか小学校の算数すらわかってねえじゃん嘘つき
自殺しろ >>962
熱力学第二法則は限定された条件の元でしか成り立たないし
Fluctuation Theoremはそこから外れた条件の元で確率を具体的に計算できるので
熱力学第二法則は全く関係ない
素人のよくある思い込み
無知すぎる記事
そして中卒無職は無知すぎる記事であることに気づけない
つまり中卒無職チェッカーwwww
理解してないから反論不可能だろ? 量子力学は100年経っても、世界の科学者の共通理解は得られていない。
現状の分節化では「理解」は不可能なのだ。しかし、その分節化は進化的
なもので、単細胞の時代から始まる根深いものだ。
つまり、新しい分節化には感覚器を変更し、進化を再体験する必要がある。 新しい分節化では、新しい数学と新しい物理学が生まれるであろう。
まずは「数(自然数〜複素数)」という分節化が無くなるだろう。
また、圏、集合、連続、無限、次元などいう概念も無くなるだろう。 AIも現在のように人の分節化を用いている限り、行き詰まってしまう。
AIが新しい分節化を始めるなら、そもそもデータを掬い上げるところ
から変えねばならない。 この宇宙のどこかには、世界を理解するに十分な分節化を
実現している知性が存在するだろう。
人はその知性を理解できない。あるいは、その知性も人を
理解できない可能性がある。 世界を完全に理解するには、全ての現象の中から、
@どのような情報を取得し、
Aどのような分節化を実現するか、
が問題となる。@とAは不可分だ。
もともと世界は未知であるから、正解を得ることはできないから、
偶然や試行錯誤で正解を得るしかない。
しかし残念ながら人は、正解を得るための情報と分節化を得ていない。 3つあれば無秩序になるので、マクスウェルの魔物が現れるだろうと思ったのだが、
そもそも3つを仮想粒子としてしまうと、仮想粒子としての自己同一性を持ってしまう。
自己同一性をめぐる物語でなくては2-3チューリングマシンにはならない。
仮想粒子ではなく、もっと別のもので考える必要がある。
とりあえず、このなんだかよくわからないものをダダと呼んでおこう。 >>982
今さらこの話に戻るのマジかよって思ってはいますが一応
「世界を完全に理解する」というよくわからないことを言っていますが「私は世界を完全に理解」しています
ただそれを貴方に説明してもあなたに伝わらないことも理解しています
ここで矛盾が生じるようにあなたは感じるかもしれませんがあなたが理解できない事もまたわたしは理解しています
ということで他者に理解されず明晰化せずに語るわたしのそれに妄想という名がつくわけです
ではあなたは? >>892
>もともと世界は未知であるから、正解を得ることはできないから、
だから「それは何故?」って話を今までしていませんでしたでしょうか?
その「何故」が説明されない限り「あなたが思うのは自由だしそれが貴方の世界で構わないがそれは「私の世界と違う」ということをどのように説明可能か?」って話だったのに何で巻き戻してるのか
自身の主張が「「妄想」ではない」とされるためにはどのようなことが必要かまたそれは何故かのところに立ち戻ってもう一度説明をお願いします わたしが「私は世界を完全に理解しています」という時に「あるXについて」などと問う人もいますが「それをどのように説明したところで貴方が理解できない事も知っています」という言葉で返して終わりです
これ宗教とかわらないんですよ
「もともと世界は未知であるから」あなたが信じるかどうかはどうでもいいんですよあなたのいう「もともと」とは何か?「世界」とは何か?「未知である」とはなんであるか?
を「それは何か又は何故そう思うのか?」の話ではありませんでした? 「何故」のためにカントが形而上を引っ張り出してきてハイデッガーが現存在引っ張り出してきたのは何故かってことをウィトゲンシュタインが語の場合について語ってオースティンが発話という行為について説明したそれらについて全部に辻褄があうように説明してもらえますか? 彼らは明晰化のために新たに語を作って説明してきてますよね
では「語を作る」行為はどこまで行けば意識のハードプロブレムの解決は可能なんでしょうか?
「感じ」は何を物理学や料理力学と「同様」に何を「基準」にしているのでしょうか? 打ち間違いついでに「料理力学」について語りませんか?
「それは学ではない」というならその後あなたが語るすべてに「それは何故?」と答えましょう
これ18世紀に既に話が終わってるという事について「今さらこの話に戻るのマジかよ」と言っています >>990
それを言ってはダメですよ
まず「五重の意味で」とは何か?
そしてまたこれを説明しないといけないのが悲しいのですが「なぜ反論が必要なのだ?」とあなたが「"感じる"のは何故か?」という話のところに進んでいるように「わたしが"感じて"いた」から「戻るのか」という言葉につながりました
あなたのいう「反論」なるものに期待するわたしが愚かですね >>990
必要ないですよ、ただの掲示板なので意見を掲示するのが自由なように
返信を強要しててても強制力はないので、気にくわないレスはスルーで
OK、いろんな人がいますから 砂に混じる砂金をザルで掬っても取り逃がす。
バケツで掬っても選り分けることはできない。
分節化も同様で、現象を選り分けて正しいパターンを
掬い取るには、正しい分節化が必要であり、
現在の物理学はそれを実現していない。
さらには、その前に妥当な数学が必要だ。 数学はパラドックスを排除する。自然現象はパラドックスを含む。
パラドックスを許容する数学が必要だ。とりあえず排中律は採用しない。 妥当性は、妥協の産物であり、数は、折り合ひをつけることにより近似される 近似を忘れた数学は、絵にかいた餅を食べようとするようなものだ 実は、分節化を自在にすれば、還元論を駆逐できる。
異なった分節化には、異なった理論が存在しうる。
それらのいずれもが現象と整合することは有り得る。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 37日 14時間 18分 54秒 5ちゃんねるの運営はUPLIFT会員の皆さまに支えられています。
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