>>195
脳皺さんは否定するでしょうけれども、つまり私の印象ながら、脳皺さんは世界を世界の外側から見ようとしていることになるのだろうと思います。自分が存在していなくても存在しているであろう世界を、自分が存在していないテイで分析しようとしているかんじです。
私としては、世界を認識する者も世界の一部としてあって、そもそも世界を認識するとはどういう現象なのか、そのような問題意識を持たなければ世界がどのようなものなのかという分析には意味がないと考える立場です。
じつは脳皺さんもそういうふうに考えているのではないかとも思うのですが、いかがでしょうか。

>>198
私個人は「認識の対象は存在しない」に確信を持っています。
しかし状況証拠しかありません。なのでもっぱら「存在しないと思う」とか「存在しない気がする」とか、断定しないように心がけています。
もちろん誰がどのような考えを持とうと、それは自由です。
ただ、198さんが「富士山は存在する」と主張するのであれば、そのようにお考えになる理由も添えていただきたいです。さらに富士山自体の存在は意識のハードプロブレムにも関わりますから、198さんがお考えになる意識のハードプロブレムの答えにも及んでいただきたいです。
いかがでしょうか。

>>200
結局ここにいる多くのひとも意識のハードプロブレムの答えは持っていないようです。のみならず答えの導き方さえお手上げの様子です。そして漠然と「いつか科学が進歩すれば自ずとわかる」と信じているかんじです。
しかしじつは物質としての脳が心を生み出しているという現象が、科学的に観測されたという事実はないはずです。それ以前に実体として心が観測されたということすらあるはずはないでしょう。
その意味で意識のハードプロブレムは、少なくとも科学ではない、じつは印象に過ぎないものということになります。このままでは永久に解明されることはないどころか、それ以前に解明に着手されることすらない、何しろ捌くべきサカナがそもそもいないのだから。
私としては、何故多くの人が漫然と状況を見ていられるのか、むしろその方が不思議なかんじがあるのです。