>>244
我々は世界の内側に存在しているわけでは無いので、様々な現象を表層から見ていくしかないでしょう。
また自らが世界の一部であっても、中心(あるいは大半)ではない以上、自己の主観を軸に考える事は自己内を理解する事には大いに役立っても、自己外を理解するにはあまり役立たないと考えるのが妥当ではないでしょうか。
でこすけさんは自己(主観)を中心に世界がある。と、おそらく考えていて、私は世界の中心は自己外にある。(自己(主観)はあくまで世界の一部である自己の中心でしかない)考えているわけですよね。
これは何だか天動説と地動説に似ているかもしれません。

モノがあるか無いか?について、相対的にはあるだろう。
だが、あるモノが異なるスケールにおいても絶対的にそのまま存在するかと言われると、それは無いだろう。
けれども、それは主観や意識、クオリアも同じで分解(スケールを変えれば)していけば形を保てなくなるのでは無いだろうか?
(あるスケールで話す場合、別のスケールを持ち出して比べる事は実はナンセンスなのかもしれない)

もしかしたら物質と精神は対極と言う考え方自体が間違っているのかもしれない。(表面上は対極で間違ってないけれども)
根本では2つで1つと考えれば、無理やりどちらかを切り捨てるより自然であり、整合性がある。
つまり根源というのは物質的でもなく精神的でもなく中立的と言える。(これはゾンビだ)
そして、ゾンビは考えないしクオリアも無いがサイコロを振る。(意識のハードプロブレム問題の核心とはそう言ったものかもしれない。勿論そう結論付けるのはまだ早計だとは思うが)