>>230で書いた通り「意識のハードプロブレム」という記号を視覚情報として受け取った時の”それ”を何かしらに当てはめるのはそれぞれの”私”にしかできない
上に書いたこの言葉を理解してもらうことを「私は期待する」というトートロジーだという話
意識のハードプロブレムは「"それ"をどのように伝えることが可能か?」を数学や物理学と同じように一定の制限下で可能なものであるのに日本語という言語で説明しようとすることについて>>230ではわたしなりに示したつもり
しかし理解してもらえないのであれば日本語による伝達に失敗したと"わたしが受け取った"という"感じ"によってわたしは経験によってその後に行う所作として「すまぬ」と書き込んだ
ということなんだけどこのスレにいる人達にここまで説明するのは逆に失礼なのか?