外界がどのようなものであれ、内面にとって世界は意味の階層として現れている、と私は考えます。すべては何らかの意味であり、また、そこには意味媒体が見出せるはずです。何らかの要素に意味が生じることを「創発」と呼んでいます。

漠然と思うに、内面は成立した瞬間、外界からの影響を受けつつも、そこには「意味」というものは一切無い状態なのではないかという気がします。まったくランダムに情報があるだけのような気がするのです。例えば映像情報と音響情報とが混在していたとしても、光と音とさえ区別ができない状況です。
後からだんだんと、そういうものが内面で位置付けられて行くのだろう、意味が与えられて行くのだろう、すると問題は「位置付け」の仕組みですが、これは外界からの影響もある印象です。個体差は外界との関係性から生じるのだろうと思うのです。

さて、そうは言っても外界がどのようなものなのかは気になります。
もちろん私にも正解を提示することはできませんが、予想はします。
私は物質の存在に懐疑的ですが、しかしただちにトレンドになるとは思ってません。
ただ、科学と同じような歴史をたどる可能性はある気がしています。世界像と物質との関係は、自然法則と神の関係のようになっていくのではないかというのが私の予想です。
自然法則ははじめは神が決めたことだと考えられていたようです。しかし科学が発達するにつれ、自然法則の成立に神は必要無くなった、同様に、当面は内面が形成されていく過程で物質が考慮されるでしょう、しかしどのようにして外界からの情報が内面に位置付けられるのか、その仕組みが明らかになって行くにつれ、ことさら物質という概念は必要無くなるのではないかというのが私の印象です。
内面はネットワークを構成し、その全体はひとつの情報処理システムであり、そこで物質に当たるもの(情報)が生じ、共有される、何ならそれはミームとして進化をする。

物質は存在しなくても私たちが体験している世界とまったく同じものは生じ得るだろう、
むしろ物質を想定すると意識のハードプロブレムのような矛盾が起こるという考え方です。