>>552

他者は存在すると考える、か。それでよい。富士山も存在するように、か。それでよい。
私たちは「富士山」の断片しか知っていない、であるが、富士山は在る、と知っている者がある、これを断片知と呼んでみる。
この断片知はまさしく知識であり、情報の真偽の拠り所である。知を愛する者が、なぜ知識を持たないでいよう、知識として確立している断片知が大事なのである。
私は富士山の何合目かなど知らずとも、学校で学んだ3776mについて断片知を持っている。というのも、富士山の標高は3776mという知識である。

あくまでも断片知は知識である。しかし、「何か」とする一部の「知識」があることが断片知である。だけど全体知ではないことは明らかだろう。