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意識のハードプロブレムの答え40

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0001時計 ◆1z400PXZnw
垢版 |
2024/02/04(日) 10:40:17.680
1の考え。

客観はある種の主観である。
脳神経系を含む客体は主観を精緻に表現=代表したものである。

他者の意識は存在しない。
仮に存在すれば、それは主体の意識の内側に存在する。

他者の意識と呼ばれるものは他者の声である。
それを他者の意識のように思うのは主体にとって声は極めて意識的であるからである。

あらゆる主観は客観化可能である。
例えば、クオリアは立ち止まりとして客観化可能である。

根源では主/客の関係は消失する。
例えば、どこかで雷が鳴ったとする。
その雷は独立性の高い形式での私である。

語り得ないことは語り得ないと語り得る。

無は無い。

意識のハードプロブレムの答え39
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1704062362/
0622考える名無しさん
垢版 |
2024/03/06(水) 03:00:56.280
記憶や意識の存在の証明。この「証明」という科学的手法が記憶や意識に対して有効な手法かどうかが問われるべきである。
そもそも、(自らの)記憶があるとか(自分の)意識があるとかいうときに「根拠」を意識していない。むしろ内省的にそれがあると「信仰」によって存在を認めている。

科学が自分の外に対しての専門だとすれば信仰は自分の内側に向かう分野だと言える。信仰には信仰対象としての「神」がある。
この「神」が「意識」とか「記憶」に取っ替わっても、信仰の性格は神に対するソレと変わらない。何らかのきっかけで人は無信仰から信仰者に跳躍する。
信仰者になった途端に「神」が世界を作ったとか「意識」が世界を作ったとか「記憶」が現在を作っただとか、そういう信仰が外側の世界を作り出したのだと無根拠に勢いづく
これらは「何かを作り出した」という架空の成果をもって「自らの存在」を証明する。

本当は神とは単なる「言葉」にすぎず、実際は何も作り出さないし、意識も記憶も何も作り出さない。そういう何かを作り出す「力」など無い、ただの「言葉」だから。
0623考える名無しさん
垢版 |
2024/03/06(水) 03:47:11.040
「意識」や「記憶」というのは他の現実的な力をもったモノと違って、架空の成果をもってしか自らの存在を形作りえない。そういう感じでただあるだけ、何かを作り出す力を持つことはない。
ただあるだけで、外側から力を受けることもない。「意識」はただあるだけなのに「信仰」と手を組むと、「意識への信仰」になり無根拠に外側に力を振るう。ただの「言葉」が急に勢いづく。
信仰などなくても力を受け渡ししているモノや力の影響を受けず停止しているコトこそが世界の本質なのに、一番優先的なものになったつもりなのか他のモノを押しのける。
直感的な信仰は世界の見方を歪める。
0624考える名無しさん
垢版 |
2024/03/06(水) 04:00:19.020
信仰対象になるような「意識」や「記憶」や「神」は全てフィクション、ただの言葉である。信仰対象にならないものこそが本当のものである。鰯の頭も信心うんぬんあるが、「信仰対象としての鰯の頭」ではなく「信仰対象ではない鰯の頭」こそが世界の本質、つまり本当に存在しているものである。
世界を作り出した意識とか神とかは架空の成果でまつりあげられたフィクションである。ただの言葉としての意識や神があるだけである。
本当の成果をもつものが(成果を持たないものもあるが)、第三者に評価されたものだけが、そして悪質な信仰と手をきったものだけが真の存在である。
0625考える名無しさん
垢版 |
2024/03/06(水) 04:16:08.600
言葉としてあるだけで、それを信仰する者の間だけで様々な性質が付与される。言語ゲームである。「意識」とは全く普遍的なものでもないし、その存在は所与のものでもない。あるゲーム体系の中で生きながらえているだけの「言葉」である。類する「魂」は輪廻転生の世界観・ゲーム体系の中で生き残っていただけのものであるが、昨今は「転生」というフィクション・ファンタジーのなかで生き永らえている。
実際にそれが大真面目に存在すると人々に公言するならば、失笑は免れないだろう。
それはもはや文学の中の概念でしかないのだから。
「意識」もいずれ盛者必衰の理によりどこかへ行くだろう
0626考える名無しさん
垢版 |
2024/03/06(水) 04:30:36.980
内側にこもって、外側からくる客人を追い返すようなゲームは低級の言語ゲームである。
内側でしか通用しない言葉を使っているからだ。どのゲームでも通用するような言葉こそ真の存在である。その言葉の用法と有用性は様々なゲームによって試されるだろうが、多くの言葉は真に存在する。一部の宗教的・信仰的な言葉は紛い物である。
「意識」は紛い物の存在である。「記憶」は紛い物の存在である。「神」は紛い物の存在である。なぜなら架空の成果をもって内輪でまつりあげられているだけの低級の概念だからである。これに対して自然科学の多くの言葉は真に存在する。なぜならどこでも通じるからだ。
0627考える名無しさん
垢版 |
2024/03/06(水) 04:48:23.170
現実と虚構(文学)の混同が意識のハードプロブレムという問題を作り出した。フィクションはフィクションだし、フィクションは現実には無い。意識は「単なる言葉」としてしか存在しない。本当は「世界を作り出した意識」という英雄は存在しない。それはフィクションの中の話だ。
「意識」という言葉は信仰のゲームに囚われている。新たな世界体系を打ち出してやればまっさきに消滅する。むしろ文学に抗う存在こそが真の存在である。文学や信仰は虚構を作り出すだけだ。意識のハードプロブレムも、ただの言葉としてだけあった「意識」が信仰の体系に組み込まれた為に起きた悪問である
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