「我思う故に我あり」という話を上で見てきた。しかし「我あり」であるとするのは少し早計である。我を思うその何かが「我"である"」という保障は1つもないからだ。それは別に「神」であっても良い。我思う故に神ありである。
「我(意識)」や「神」などは哲学の内輪ネタである。不確定なものを独自に「我である」としている。それが通じる仲間内だけでやっているゲームである。
ゆえに偶然通じている言葉を仲間内で論議する意識のハードプロブレムは無意味な問題である。
そもそも「意識」を前提にする西洋哲学が無意味なものである。