意識のハードプロブレムの答え40
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1の考え。
客観はある種の主観である。
脳神経系を含む客体は主観を精緻に表現=代表したものである。
他者の意識は存在しない。
仮に存在すれば、それは主体の意識の内側に存在する。
他者の意識と呼ばれるものは他者の声である。
それを他者の意識のように思うのは主体にとって声は極めて意識的であるからである。
あらゆる主観は客観化可能である。
例えば、クオリアは立ち止まりとして客観化可能である。
根源では主/客の関係は消失する。
例えば、どこかで雷が鳴ったとする。
その雷は独立性の高い形式での私である。
語り得ないことは語り得ないと語り得る。
無は無い。
意識のハードプロブレムの答え39
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1704062362/ 「我思う故に我あり」という話を上で見てきた。しかし「我あり」であるとするのは少し早計である。我を思うその何かが「我"である"」という保障は1つもないからだ。それは別に「神」であっても良い。我思う故に神ありである。
「我(意識)」や「神」などは哲学の内輪ネタである。不確定なものを独自に「我である」としている。それが通じる仲間内だけでやっているゲームである。
ゆえに偶然通じている言葉を仲間内で論議する意識のハードプロブレムは無意味な問題である。
そもそも「意識」を前提にする西洋哲学が無意味なものである。 「意識の主観性」をあがめるような学問は学問ではなく文学である。文化と文学の中だけで力を与えられたただの「意識」を崇めるのは悪質な「神」への信仰と同じである。
意識のハードプロブレムは無意味な問題である。 今何かしらを考えているもの・何かを行為するものが「自分・私・我」であるとするのは文学である。そして、その「我・我・自分」を操作する第三者がいるとするのも文学である。
無意味な文学の上に作り出されたものが「意識」の哲学=文学である。
意識のハードプロブレムを真剣に考えるとすれば、それは現実と虚構の区別がついていないのである 「意識」という言葉を崇める東洋的・西洋的な哲学や思想自体が終わっているのである
この悪質な信仰を全ての人が終わらせなければならない 「意識」とは「魂」と同じくただの文学的な概念である。文学上でしか力をもたない。「世界を作り上げる意識」は現実には存在しない。ただの文学上の英雄である。もし現実にそのような力を持った意識があると言うのならば、それは文学中毒者である。
文学から取り出された「意識」は現実ではただの「言葉」である。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています