統一感覚としての自我はまやかしである。
様々な感覚を一つにまとめる「何か」がすなわち「我」である根拠は何一つ無いからだ。
それは「我」でなくともよい。なぜならそれは文学上のフィクションだからである。そのような意味では無限に自由なのである。
「我(自己意識)」を「神」にしてもよい。様々なデータを取りまとめるように「意識を操作する神」こそが本当の存在だと文学上では言いうる。

しかし「意識」や「神」は文学=「意識」を崇める西洋・東洋思想を偶然的に共有したものの間のみでしか使えないものである。文学は非現実的なものである。非現実的なものは学問に値しないと言えるだろう。
意識のハードプロブレムは無意味な問題である。現実と虚構の区別ができない倒錯である。