>>741
>我を思うその何かが「我"である"」という保障は1つもないからだ。
それについては同意します
>それは別に「神」であっても良い。我思う故に神ありである。
これは違います
「我思う」の前文で「我思う神」を除いてた上で「私というものを"思う私"」です
すみません方法序説のこの部分引用しようと思ったのですが本棚を整理しておらず少し漁ってみたのですが見つかりませんでした
>「我(意識)」や「神」などは哲学の内輪ネタである。不確定なものを独自に「我である」としている。それが通じる仲間内だけでやっているゲームである。
「我」はともかく「神」はそれを「科学」によって哲学の内輪ネタにならぬよう「神とは何か?」と疑問を呈していますし又それを"どのように説明するか"として進めています
「仲間内だけでやっているゲーム」こそが「科学」です
数学も物理学もその「仲間内だけでやっているゲーム」です
それを覗き見た他者が自身の目的に使用しています
アインシュタインの相対性理論は日々を生きる私達にとって「仲間内だけでやっているゲーム」以外の何でしょうか?
結果としてそれを覗き見た誰かが誰か自身の目的によって結果GPSなどに活用されているだけです