日々雑記 in哲学板 その5
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
「知性とは、方法や手段に対して鋭い鑑識眼を持っているが、目的や価値に対して盲目である」
アインシュタイン
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1695621500/ 清潔で綺麗な心はどうしても嫌いにはなれない
不潔で醜悪な心はどうしても好きにはなれない 善を不当化する人を好きにはなれない
悪を正当化する人を好きにはなれない 人類が善を悪だと言えば君は善を悪だと言うのか?
人類が悪を善だと言えば君は悪を善だと言うのか? 長続きする人間関係は、双方が長続きさせたいと思うから長続きするのだ。
長続きしない人間関係は、双方が長続きさせたいと思わないから長続きしないのだ。
人間関係は両想いを旨とすべし 貴方の世界観と現実の世界が同じなら貴方は世界に驚くことは無いはずだ。
貴方の人間観と現実の人間が同じなら貴方は人間に驚くことは無いはずだ。
貴方の周囲の世界が貴方の世界観を作る。
貴方の周囲の人間が貴方の人間観を作る。
貴方の世界観は貴方の周囲の世界によって作られたものに過ぎない。
貴方の人間観は貴方の周囲の人間によって作られたものに過ぎない。
貴方の世界観は貴方の脳内に有る世界だ。
貴方の人間観は貴方の脳内に居る人間だ。 正しいと思って自己犠牲をする人は正しいと思って他人にも自己犠牲をさせる人である。恐るべし。 悪党という自然物が悪事を行うのは自然現象だし、正義の味方という自然物が悪党を罰するのは自然現象だ。 肉食獣が草食獣に勝つのではない。強い者が勝つ。
草食獣が肉食獣に勝つのではない。強い者が勝つ。 人類よ、俺に反抗するがいい。できるものならな。
人類よ、俺に反論するがいい。できるものならな。 就活生にとっては入社はゴールだが、社員にとっては入社はスタートだ。
婚活者にとっては結婚はゴールだが、結婚した人にとっては結婚はスタートだ。
自分にはどうしようもないことは人類に委ねよ。
人類にはどうしようもないことは自然現象に委ねよ。 革命はアクセル
反革命はブレーキ
The revolution is Axel.
Counter-revolution is a brake. 人と人以外の生物の違いは身体の違いだけだ。魂は変わらない。 自然現象に普通も普通でないも無い。自然現象はただ自然現象だ。
プライドとは幼児性全能感のことであり、学習性無力感の欠如である。つまりそれは学習の欠如であり、人生経験の欠如だ。 つまりは、世代交代としての生物の個体の誕生は、命をつなぐことが経験の欠如という幼児性を必要とするということかな 学習性無力感に陥った個体は、もはや生きようとすることができないからね 過剰適応はnihilismの欠如であり、nihilismの欠如は知性の欠如である。よって、過剰適応は知性の欠如である。 コミュ力やたら押すやつって知能ないんでそれしか僕できませんって言ってるようなもんやしなあw
小学生と変わらん能力やんコミュ力とかいう謎能力w
そら日本どんどん衰退しますわ、能力しか求められない外資に面接行ってコミュ力あります!!ってアピールしたら鼻で笑われて門前払いやでw 人は、世の中に完全に適合しようとすると人工知能的に無能になる 経験を積んでも賢くなるとは限らない。
とくに、経験を積むことができるという幻想に浸っている場合がそうさ。
経験を積んだと感じていても、諸行無常であり、その上に積み上げてきたと思ってきた土台について何も知らない。
例えば、年を重ねて、いろいろ分かったつもりでいても、いままで日常的に普通にできていたことがある日、急にできなくなる。
年齢を重ねると、いろいろ経験するだけでなく、消耗や劣化が蓄積され、気づかないうちに不可逆的に老化も進む。
経験を積むことでできるようになったと思っていたことが、その土台に支えられていたことに急に気づかされる。 自然とその土台を築きながら、経験を積んでできるようになったことについては、それができるようになる「近道」を次の世代に教えてやることが可能である。
それにより、次の世代は、土台をより発展させて、その上で経験を積んで、前の世代ではできなかったことができるようになることも少なくない。
すると、今度は、自分が知ることになった「近道」を次の世代に教えてやることもできる。
それでも、そのような発展が、全体にとって、よりよい結果をもたらすかどうかは、旧世代にも、現世代にも、次の世代にも、本当のところ、不明なのだ。 そこで、正当化の論理として働くのは、単に、自分が積み重ねて、さらなる発展につなげることに貢献したことは、「正しかったに違いない」と思い込みたいという願望だけである 場合がそうさ。×
場合がそうだ ○
隣り合っているDとSのキーを打ちそこなっただけで、他意はない。 将棋の藤井くん見れば分かるけど、コンピュータで学習して名人になった。
現代なら子供はAIで学習して賢くなるだろうから、先人の局限的な経験論とかは使われない、重宝されないのではないかい 将棋を指すのが楽しいというのなら、それはそれで本人の勝手で好きにすればいいと思うけど、重量挙げが楽しいというのと同様で、私にとっては何の参考にもならず、ゲームとして何をしているのか私自身が認識できるようにしようとすることすら、私には認知能力の無駄遣いにしか感じられない。 バスク地方伝統の石上げ競技だって効率的に力を使う高い技能を要するだろう。
それが高度な技能を要すること自体は、その技能が私にとっても役立つものでないのなら、私にとっては特に意味があるとは感じられない。 AI将棋からの連想なら、プログラミング、数学、STEM教育、それに関連した理系の仕事及び事務など
仕事もゲーム理論的な要素があるだろうから、AIによる学習で、経験値が凌駕されるかもよ、
という観点だ。アート、サブカル関係も然り。 何の罪も無くてもいくらでも天罰が下るのに天罰を防ごうとするなど滑稽にも程がある。愚の骨頂だ。
労働など単なる延命であり、そんなことに躍起になるなどバカバカしい。もっと言えば、延命に必死になる命への執着は見苦しいとさえ言える。
善行をするのが自己責任なら悪行をするのも自己責任だろ。アホか。
薄っぺらい人間の薄っぺらい正論で世の中が変わるなら、何故地球はこんなに悲惨なのだ?バカバカしいにも程がある。
悪行は地球を無視することが原因で行われ、善行は地球を無視しないことが原因で行われる。
私は生まれたくて生まれて来た記憶はございません。そして、生きたくて生きて参りました。人生に何の悔いがございましょうか。何の悔いもございません。
上級国民が国の意識なら、下級国民は国の無意識だ。
力を持たない愛は身体を持たない精神(幽霊)と変わらない。できることと言えばせいぜい祈ることと呪うことくらいだろう。
認識が甘い人は精神ではなく脳に問題がある。それがわからない人は明らかに脳に問題がある。
quality of life ぶっちゃけ未来ってどこまで変えられるんだ?
努力すればマジで本当に金持ちになれるのか?
努力すれば本当に上級国民になれるのか?
努力すれば天皇にもアメリカ大統領にもイギリス王にもなれるのか?
努力すれば女が男になれるのか?
努力すれば有色人種が白人になれるのか?
努力すれば絶対健康で長生きできるのか?
努力すればいい人間関係が本当にマジで手に入るのか?
努力すれば幸せになれるのか?
努力すれば地球環境問題を解決することができるのか?
努力すれば戦争や犯罪や虐待や虐めやharassmentをなくせるのか?
ぶっちゃけ未来ってどこまで変えられるんだ? 絶対的無能でも相対的有能なら優越感を持つ
絶対的有能でも相対的無能なら劣等感を持つ 自身に使うことのできるリソースは限られている。
そのリソースの使い方が他人により限定されればされるほど不自由な生き方になる。
その他人がそれなりの報償を支払ってくれるとしても、他人に指定されるとおりに自身のリソースを使い切ってしまうなら、受け取る代償は宛行ぶちの性格を帯びるしかない。
さらに、その報償をどのように使うことができるかまで他人により限定されるなら、もはや単に他人に操られているだけである。 法律が間違っているから犯罪が起きるのだ。
政府が間違っているから革命が起きるのだ。
倫理観の違い
ヴィーガン(菜食主義者)とヴィーガンでない人は倫理観が違う。不倫した人を石打ち刑にするイスラム教徒と不倫した人を石打ち刑にしないイスラム教徒でない人は倫理観が違う。奴隷制度や生贄が有った古代人と奴隷制度や生贄が無い現代人は倫理観が違う。国や地域によって倫理観は違う。宗教や文化によって倫理観は違う。人によって倫理観は違う。自分より緩い倫理観を持つ人を人は悪人と呼び、自分より厳しい倫理観を持つ人を人は正義マンと呼ぶ。しかし、それはただ単に倫理観の違いに過ぎない。そして、倫理観が人それぞれ異なる以上、法律や文化が自分の倫理観にピッタリ当てはまる人ばかりではない。むしろ、全ての法律や全ての文化が自分の倫理観に完全にピッタリと当てはまる人の方が少数派ではないかと思われる。
倫理観はいかにして形成されるのか?おそらく、本人にとっての必要悪を正当とし本人にとっての不要悪を不当とする形で倫理観は形成されると考えられる。フォアグラ製造の残酷さに生理的嫌悪を催す人はフォアグラ製造を許すことはできないので、フォアグラ製造を不当化する。農業に適さない土地で家畜を食べるしかない遊牧民がヴィーガンになることは不可能なので、肉食を正当化する。このようにして倫理観は形成されるのであろう。
間違っているから謝る人は間違っていなければ謝らない人だ。実に幼稚で愚かである。人を不快にさせてまで貫かなければならない信念が本当にあるのか?その信念を貫くためにどこまでの犠牲を出す覚悟があるのか?
正義を実現するのにどれだけの代償を支払う覚悟があるのかね?まさかとは思うが何の代償も無く赤子の手を捻るように正義を実現できると本気で思っているのかね?笑えるのう。
キリシタンにだけ信念があって徳川には信念が無かったと思うか?目に見える信念だけが信念じゃない。人は多かれ少なかれ信念を持っている。その信念に強弱が有りその信念を貫く能力に強弱が有るだけさ。
心に思うことを実現する能力が高い人の心は重視される。
心に思うことを実現する能力が低い人の心は軽視される。 八つ当たりを強制容認させた人は八つ当たりを容認しないとね?
ババ抜きでjokerを引くのが嫌ならババ抜きに参加しなければいい。例え強制参加でも死ねば参加せずに済むだろう。
地球ではリアルデスゲームが行われている。
人類は阿弥陀仏ではない。何をしても許されると思うなよ? ゆるすかゆるさないかは都合による
それがフィルターの役割
例えば、植物を食べる
それは植物細胞が、それ自体の生命活動にとって都合の悪いものが内部に入り込むことを相対的に許さないからだ
植物を食べることは、そのゆるす/ゆるさないというフィルタリング機能を利用している 味覚は、そのためのセンサー
不味いと感じられるものは、体内に取り込むと有害である場合が多い 「唾棄すべき」とはそういうこと
体内にとりこむことをゆるさない
自身が都合よく利用できるものだけが、喉を通ることをゆるされる 自己洗脳ができない奴が人類を洗脳できるわけがない。
self mind controlができない奴が人類をmind controlできるわけがない。 >させられたのか?したのか?
沁み込む。沁み出る。 善人は上品。美男美女と変わらない。
悪人は下品。醜男醜女と変わらない。 そうだと言えるほどそうでもないが、そうでないと言えるほどそうでなくもない。
承認欲求を0円で満たそうとする人は食欲を0円で満たそうとする人と変わらない。ただのドケチ野郎だ。
くだらないことをしてくだらない欲望を満たす人は、ホストに貢いでホストに「愛している」と言わせて承認されたい欲望を満たす人や統一教会に一億円貢いで文鮮明に「貴方は天国に行けます」と言わせて天国に行けると信じて安心したい欲望を満たす人と変わらない。言うまでもないことだが、もちろん私は一生そんなくだらないことはしない。
人を怒らせたくない人は人に対して怒らせないというmind controlをする人だ。そしてそれは決して悪いことではないのだ。
間違った努力は時間やら金やら労力やらありとあらゆるものの無駄遣いという罪であり、そのような罪を犯せば当然のことながら天罰が下る。そのような罪を犯して「罪だとは知りませんでした」などという闇バイトレベルの馬鹿げた言い訳をしても当然のことながら天には一切通用しない。 人類に支配されて人類を論破するよりも人類に論破されて人類を支配する方が良い。 事後法がダメなら、現時点で合法であれば好き放題何をしていいし、現時点で違法であればどれほど正しいこともしてはならないということだ。現時点で合法なことは好き放題何もかもさせてもらおう。現時点で違法なことはどれほど正しいことでも何一つさせるまい。
広島長崎の何の罪も無い女子供が原子爆弾で焼き殺された一方で、原子爆弾で何の罪も無い女子供を焼き殺したアメリカ合衆国の戦争犯罪人は全員不起訴だ。
これのどこが信賞必罰なのだ? minusを減らせ
minusを0にしろ
0をplusにしろ
plusを増やせ 悪人「これには事情がある。」
人類「奇遇だな、俺らもだ。」 負けた奴はただ単にそこまでの奴だったというだけのことさ。 自分自身を支配できない人が人類を支配できるのかね?w
生きとし生けるものを不幸にしないために自然現象を支配する
生きとし生けるものを幸せにするために自然現象を支配する
troubleの無い所にわざわざtroubleを拵えてその被害を受けたと言って発狂する人は何なのでしょうか?被害を受けたくないならそんなくだらない子供みたいなことはしなければいいと思うのですが。
触らぬ神に祟り無し。触らざるを得ない神に触って祟られるなら仕方が無いが、触らなくていい神に触って祟られるのは自業自得以外の何物でもない。
余計なことをしない能力の欠如によって不幸になる人は自滅しない能力が無いということだ。実に気の毒である。
必要なことをしないで自滅するのも余計なことをして自滅するのも自業自得だし自己責任だ。
何が必要なことであるかがわからずに必要なことをしないで自滅するのも何が余計なことであるかがわからずに余計なことをして自滅するのも自業自得だし自己責任だ。
この世は自滅しない能力を持たない者の存在を許さない。
最善を尽くしても死ぬ
最悪を尽くしても死ぬ 悪事を行わず天罰を免れるのは先払い
悪事を行って天罰を受けるのは後払い 不幸にならないことは可能だ。可能な限りはね。
幸せになることは可能だ。可能な限りはね。 それをすることができない人がそれをすることができなかったことを失敗とは言わない。むしろ、それをすることができない人がそれをすることを望んで無駄に努力をしたことが失敗だ。できないことをすることを望んで無駄な努力をするよりもできることをした方がいい。さもなくば気づいた時には一生は過ぎ去っていることだろう。 過去もさらなる過去から見れば未来だ
未来もさらなる未来から見れば過去だ 自分視点よりは国民視点
国民視点よりは人類視点
人類視点よりは生物視点 自分視点で善悪を語るより人類視点で善悪を語ろう
人類視点で善悪を語るより生物視点で善悪を語ろう 少し気分がいい、元気だ、勇気だ、どれが一番いいのか。
アリストテレス「勇気が元気より優る」
ソクラテス「元気があればなんでもできる」
プラトン「超勇気があるとしたらどうじゃ」 善人は益獣。益獣は善行の報いで幸せになるのか?
悪人は害獣。害獣は悪行の報いで不幸になるのか? 善人即ち益獣が人に好かれるは天命即ち自然現象
悪人即ち害獣が人に嫌われるは天命即ち自然現象 善人という自己認識を持つ人ではなく益獣たる人が善人
悪人という自己認識を持つ人ではなく害獣たる人が悪人 romanticistにrealismは無い
realistにromanticismは無い 原石が磨かれて宝石になるように、romanticistが磨かれてrealistになる。 過去の人類はどれほど互いを騙していたのだろうか?
現在の人類はどれほど互いを騙しているのだろうか?
未来の人類はどれほど互いを騙すのだろうか? 小人の真似をして小人になるか?
大人の真似をして大人になるか? 小人になりたい人は小人になれ
大人になりたい人は大人になれ 小人を見て小人の真似をするか?
大人を見て大人の真似をするか? 悪行をして後悔することもある。して後悔する悪行をするな。
善行をして後悔することもある。して後悔する善行をするな。 生きとし生けるものを不幸にするのは得か?
生きとし生けるものを幸せにするのは損か? AをしなければBができないというより、そもそもBをする必要があるか? 自分が正しく人類が間違っているわけではない。
人類が正しく自分が間違っているわけではない。 何とかなるならそれ以上のことはない。何とかならないならそれはもう天命即ち自然現象だ。 久しぶりにやらかした。
といっても、グラスをキッチンの床に落としただけだが。 キッチンの上の吊戸棚に買い物をしまい終わったと思った瞬間になにかがゴツンとフロアに落ちてガラス音が響いた。
ナイロンの買物袋の長い肩掛け紐がキッチン・カウンターの上のグラスにひっかかっていて、それに気づかずに買い物袋を片付けようとしたからだ。
いつもは、買い物をそんなところにしまわないのに、たまたま、他の場所がいっぱいになっていた。
普段と違うことをすると、思いもしなかった事故が生じる。 過去に支配される者は未来に支配される
未来に支配される者は過去に支配される
過去を支配する者は未来を支配する
未来を支配する者は過去を支配する とはいえ、グラスは割れなかった。
特別に底の分厚いグラスでキッチン・フロアの表面が衝撃を吸収して凹んだからである。
フロア表面に凹み傷ができてしまったことは残念だが、グラスが割れなかったことは不幸中の幸いで、フロアの表面は最適にその機能を果たしたとも言える。
また、その程度の事故が残念に思えること自体が、他に思い悩むような支障が生活にないことの証でもある。 なぜ、そのようなミスを自分が犯したかを俯瞰、分析し、同じミスや類似性のあるミスを再度繰り返さないよう企図し、その対策をする方が、思考停止のポジティブシンキングよりは生産的になる したいことをすることができるからしたいことをする
しなければならないことをするしかないからしなければならないことをする >>184
このような一見すると日常的なつまらない「事故」/「出来事」にも哲学的に物事を考へる重要な手がかりがある。 例えば、今回、キッチン・フロアに落ちたグラスは、幸いなことに割れることがなく、フロアに凹み傷を残しただけで済んだ。
したがって、フロアに凹み傷が出来てしまったことは、もはや取り返しがつかないものの、大局的に見れば、誰にでもよくある「小さな『事故』」に過ぎない。
グラスを落とすだけでなく、調理と片付けの作業にともない、キッチンのフロアに不可逆的な汚れや傷がついてしまうことは確率的によくあるであると言える。
だからこそ、フロアを保護するためにキッチン・マットを敷くのである。
自宅の場合、使っているキッチン・マットが小さく、その範囲外にグラスが落ちたからフロアに凹み傷が残ったのだ。
では、仮に、今回、キッチン・マットが十分に大きく、その上にグラスが落ちていたとしたらどうだろうか。
おそらく、同様にグラスが落ちても、やはりグラスが割れることはなかっただけでなく、フロアに凹み傷がつくことさえなかった可能性が考へられる。
すると、どうだろう、同じようにグラスが落ちるという現象が生じたにもかかわらず、それは、「小さな『事故』」とすら認識されず、単にグラスが落下したという「出来事」として捉へられただろう。
この「事故」と「出来事」の対比は、哲学的にとても重要である。 というより、モノ、システムは、いずれ壊れる、という理解が仏教の無常観になる。我々は、物事を注意深く丁寧に扱うことで、それらの壊れの速度を減速させることが、場合によっては可能になる
SMAPは解散し、阿倍は射殺され、日本もいずれは無くなるだろう つまり、モノやシステムを扱い、設計するときは、それがやがて壊れたとき、どうなるかを想定してから作るべきである。これをやらないのがジャップであり、地震自然災害大国にもかかわらず原発を作りまくり、海洋放射線汚染、放射線土壌汚染をして、後世にツケを作り平気な顔をしている
こうした哲学ゼロの国、それが日本である 「時刻」、つまり、「時を刻むこと」とは、対比によ(依)り相対化されて、数量的に繰り返される「出来事」/"happening"と見做されるようになった、小さな「事故」/"accident"である。 >>191
誤:確率的によくあるであると言える。
正:確率的によくあることであると言える。 【地球ヤバイ】専門家「このままだとシンギュラリティ(AI・人工知能が人間を超える)は2045年ではなく5年後には起きてしまうだろう」 [895657114] >まわるまわるよ時代は回る
喜び悲しみくり返し
今日は別れた恋人たちも
生まれ変わってめぐり逢うよ
中島みゆき - 時代 歌詞
時がめぐ(巡)ることは、「ふ(古/経/故)るとき」とともに刻み込まれる「いた(傷/痛/悼)み」をやは(柔/和)らげる「なぐさ(慰)め」とはならない。 万葉集 第15巻 3621番
和我伊能知乎 奈我刀能之麻能 小松原 伊久与乎倍弖加 可武佐備和多流
我が命を長門の島の小松原幾代を経てか神さびわたる
わがいのちを ながとのしまの こまつばら いくよをへてか かむさびわたる
(出典 万葉集ナビ)
「かむ(神)さび」とは、比べようもないほど長い間にわたって刻まれた「ふ(古/経/故)るとき」を感じさせることを伝へようとする表現である。 見ての通り、哲学をするきっかけ/手がかりは、誰にとっても、いつでも、どこにでもころがっている。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています