【事実回帰】理論場【名言・格言】
人は年を重ねるほどに、未来よりも過去のことを考えがちになる。 事実は、理論では否定することは不可能です。 太陽が輝くかぎり、希望もまた輝く。 〜 フリードリヒ・フォン・シラー(ドイツの詩人) 〜 すべてが失われようとも、まだ未来が残っている 〜 クリスチャン・ネステル・ボヴィー(アメリカの作家) 〜 未来を気づかう心は悲惨なり。 ーーセネカ 「書簡集」 私たちは時に未来を気にします。未来を気にしている間、それは幸せな時間でしたか、悲惨な時間でしたか。 幸せばかり考える余裕はありますか。哲学とは何ですか。もっと幸せになるために哲学をしましょう。 事実は、理論では否定することは不可能です。 事実は曲げられない。 「このことは、残念ながら否めない事実です」 こういう言葉はビジネスでも出て来る。 会話は哲学である。対話も哲学である。フィロソフィーも哲学である。事実は打ち消せない。 理性には限界がある。ひとつの部屋にいるとしよう。横のドアから入ってきた人物を確認できなかったり、トイレにいるかどうかも確認できなかったりする。 こういう話は認識の美学にもなりそうだ。また、神がいるのか、魂はあるのか、こういった形而上学的な側面をカバーできていない。 さてここで認識とは何なのか、語るのであるが、まず意味から紹介しよう。 にんしき 【認識】 《名・ス他》 物事をはっきりと見分け、判断すること。そういうふうにして物事を知る、心の働き。また、その知った事柄。 「重要性を―する」 もう一つ。「いい方」という意味がある。(女子語と考えて差し支えない) いい方?それはまあいいだろう。これも感じがするからそういう意味という理論もある。 ウンパスがゴミという意味であるとか、ミチャーガがいいなーという意味だとか。そんな感じがするなあと言葉を覚えよう。 さて、我々は言葉・映像を覚えるとき、毎度毎度、覚えた、と判断/認識していないだろう。覚えた、という判断/認識がバンバンあるならそのお方は素晴らしいです。 なかなか覚えた覚えた覚えたとならないのが素晴らしいお方とは違います。 でも諦めたりしないで、繰り返せば覚えられる、という一説もあります。繰り返していくうちに、覚えた、と判断/認識できるかもしれません。 0036考える名無しさん 2024/02/01(木) 17:17:45.640 昔から我々は、私たちのまわりにある物は、目に見える姿形そのままにそこに実在するのだと素朴に思ってきた。 それに対してカントは、いいや違うだろう。人間目線で見るから世界はこういう姿形をして見えるというだけであって、 本当にあるものを、ありのままに見ているわけではないと説いた。これは、人間が見る世界と、 視覚に熱を用いる宇宙人プレデターが見る世界は、違ったものに見えるだろうということであり、 今ではわりと普通に受入れられる考え方だ。カントのコペルニクス的転回とはこのことである。 ご存じのように天動説を覆した地動説はコペルニクスの説である。ひっくり返した妥当な言い方として 「コペルニクス的転回」と評した。カントは何度も「コペルニクス的転回」と言っている。(論文ではないにせよ) 釈迦は、「色即是空、空即是色」と述べている。イロ(色)あるところに必ずスペース(空)がある、 スペース(空)あるところにイロ(色)がある、という解釈がある。また、 色それは空であり、 空それは色である、という解釈もある。はたまた、 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 これ簡単に言うと 色は空と違ってないよ 空は色と違ってないよ 色は空のことなんだよ 空は色のことなんだよ こうした解釈もある。彼氏が大好きな彼女は、彼氏がかっこよすぎてたまらない。 でも友人の女性は、彼氏がかっこよくみえない、普通以下に見える、というおもしろさ。 えーなんでかっこよくみえないの・・・(彼女)・・・そうか!別のように見えるんだ。 つまり、彼氏を見たときの、相対的な相互性がある! 後日、私は盲目的でした。普通以下の顔がイケメンに見える病でした。 友人(女性)ありがとう!なんとかちゃんとした目を手に入れよう。 0042考える名無しさん 2024/02/02(金) 09:57:48.060 わたし 相対的な相互性について例え話をしながら述べたい。 彼女(A)・・・・・・彼氏(C)が普通以下の顔なのに盲目的なためかっこよすぎて見える。 彼女の友人(女性(B))・・・・・・その男性(C)の顔を正視しているため普通以下に見える。 このように、彼女(A)には彼氏の本当の顔が見えていないことが窺える。 友人の女性(B)には彼氏(C)の顔が正確に捉えられていることが窺える。 ところで、皆さんは【変身】をご存じだろうか。仮面ライダーに変身するのは凄いことだと思う。 だが、そういう風な番組のための変身ではなく、日常で使える【変身】を問いたい。 それも実践に違いない。どうしたら、自分をかっこよく見せられるかが問題だ。 それは「ふわんとした【意識】」でできるのである。しかし自分には変わっては見えないことが残念なところである。 自分が想像した姿を他者に【意識】して見せようとすれば、変身になっている場合がある。 例えば、自分は普通オタクだとしても、自分には自分がかっこよく見えないとしても、他者にはかっこよく見えるのが【変身】である。 今や【変身】は社会問題となりつつある。自分が世界で13番目にブサイクだとしても、イケメンエリートに見せられるのだから。 さて認識の認識(え、ダジャレ!?)について深めよう。認識はどう認識されているだろう。 「なぜ女は女だと認識できるのか」という命題だって過去にあった。それはクオリアも網羅するテーゼなのか。 なぜ女は女だと認識できるのか、それはいったん置いておこう。間違ってうさぎを女だと思ってしまう場合だってあったはずだ。 なぜうさぎを女と勘違いするのか、また、アクセルとブレーキを間違えるのはどうしてだろう。 人間の判断は甘いものなのかもしれない・・・いや、甘くないお方もいるのかもしれない・・・ さて、甘くないお方を、(素晴らしいお方)と評してみる。素晴らしいお方は、どこまで素晴らしいか。 認識一つとってみても、やはり甘くはない。相手が嘘を吐いたら、嘘を見抜くような、そんな存在である。 嘘を見抜く一つにとっても、それは認識だったり気がしたり感じたりするものなのかもしれない。 つまり「嘘を吐いた」と認識した。「嘘を吐いた」という気がした。「嘘を吐いた」と感じた。・・・ こういう「嘘発見器」のようなセンサーがあるなら、なかなか上手である。 また、バヤロリンした(嘘吐きまくった)と云う女子語もある。バヤロリンした事実に気付ける者はいるだろうか。 さて、なぜ女は女と認識できるのかというテーゼに戻りたい。まず認識する者はどういう者か。 人間を用いて説明するべきか。人間一つにとっても、アプリオリ的に考えて女を女と認識できるだろう。 対比として、男は男と認識できるとは限らない。これは俗世間の一般例である。 世界はノッペリとした連続の現象だ。あるいは混沌とでも。 人はそれを分節化し、パターンを見つけ、法則をでっち上げる。 いや、その前に「我」と「他」に分節し、あるいは「内」と「外」に分節している。 僕はノッペリとした連続の現象だ。あるいは混沌とでも。 僕はそれを分節化し、パターンを見つけ、法則をでっち上げる。 いや、その前に「僕」と「世界」に分節し、あるいは「内」と「外」に分節しているみたいなことよね ここでデカルトの「我思う、故に我在り」という命題を取り上げてみたい。 私は、思っている……思っているということは……思っている存在(我)がある。・・・という考え方である。 また、私以外の存在、すなわち私が見てきた机、家などは、どうだろう。本当にあるのだろうか。 だが私はどうだろう。私は何か思う。思っている私は本当に存在するのだろうか。・・・ここまで考えた私はいるのだろうか。 疑った私はいるのか。疑って疑ってデカルトは机や家の存在性はイージーであるが疑っていた自分(我)はたしかにいないとは言えないという真理に辿りついたのである。 ここで補足。「我思う、故に我ここに在り」という命題もあっていいのかもしれない。 また、「我思うと我思う、故に我ありと我思う」という命題もある。 「我在り」という文脈ではなく、何処どこで、ということで「我ここに在り」という【ここに在り】という説明で満たす。 不増不減の境地とはいかほどか。 増えない、減らない、ずっと量は変わらない、これが悟りの境地だろうか。 感覚は正しいだろうか。感覚、判断、認識は時に危ないものを匂わせる。 「なんとなくダメだという感覚」、「判断の誤り」、「認識の微妙さ」 正しいとされることに従はなければならないという強迫観念による教条主義が人を思考停止に陥れ、誤った考へに固執させる。 >>18 まさにその通りだと思う。 正しいと主張されているが誤っている教え(考え方)に強迫観念で思考停止してしまい、誤った教えに固執してしまう。 なるほど、判断の誤りから、誤った教えに固執することもあるだろう。 「性格が良くなる」という信仰がある。性格が良くなると思えば、性格が良くなるという信仰ももちろんある。 だが「性格が悪くなると信仰すれば」、性格が悪くなるという説も立派にある。 そして「間違える」と思えば、相手は間違えてしまう、という説も立派にある。 こうした洗脳に目覚める人々が増えてきていると思う。今や洗脳時代だ。 洗脳から回避するために、我々はどう対処していけばいいだろう。 洗脳を別に回避しなくてもいいのでは?と思う方はいないのかもしれない。 洗脳されないように、「洗脳されない」と信仰する手がある。 これは非常に重要である。だが、洗脳されるという運命が待ちはだかっている場合は、 洗脳されないと思っても効かないはずである。 性格が悪くならないようにするには、「性格が悪くならないと思う」ことである。 これならば効き目があるのではないか。洗脳時代を細かく生きる、そんな生き方をしてみよう。 >>18 ところで、「怕」は、中国語で「〜を恐れる」や「〜を苦手とする」を意味するように使われるということだが(中日辞典 第3版の解説)、この「怕(pà)」が「心*白」という漢字によって表記されることからもすぐに見て取ることができるとおり、 「怕(pà)」は、フランス語の《avoir peur》の《peur》にそのまま対応している。イタリア語であれば、"paura"であり、英語の"a pang of heart"の"pang"でもある。 さらに、この「怕(pà)」/《peur》/"pang"が、日本語の古語の「むねつぶらはし」(kobun.weblio.jp/content/胸潰らはし)に対応することを見て取ることも、さして難しくないだろう。 こういう対応関係の事例を逐一、列挙していくことは、雑学的な知識の蓄積ではなく、それなりに有用なことであると私は思っている。 例えば、曲の「調(しら)べ」という場合の「調」の音読みは「ちょう」であり、古語の表記では「てう」であるが、これに対応する英語の表現は、"tune"である。 「調」という漢字は、「言*周」という構成だが、その発音は「周」に関連していて、その中国語としての発音は、中古音において"tsyuw"、さらに古い発音において"/*tjɯw/"であったものと想定されている。 この「周」は、現代の技術用語としては、「周波数」の「周」としても使われるが、「周波数を合わせる」ことを英語では、"to tune"と表現する。 ここで、"tune"の語源を参照してみると、次のとおり記載され、語源は不明であるとされる。 >tune (n.) early 14c., "a musical sound," unexplained variant of tone (n.). From late 14c. as "a well-rounded succession of musical notes, an air, melody." (etymonline.com/search?q=tune) これが空(そら)似(に)に過ぎないとしても、互いにとてもよく似ているだろう。 時折、シェイクスピアの全作品集、"RSC, William Shakespeare, Complete Works"に目を通している。 私は、シェイクスピア時代の英語を知っているわけでも、演劇や英文学の専門家でもないので、よく理解しながら読んでいるわけではなく、目を通しているだけであり、この作品集は電話帳のように分厚いので、まだ全体の1/4を眺めたに過ぎない。 それでも分かるのは、シェイクスピアが「臨在」を明確に意識して、その意識をメタ言語的に表現しようとしたことが彼の作家としての際立つ特徴であることだ。 そのことは、例えば、"Twelfth Night, or What You Will"の次に引用するような台詞にはっきりと典型的に表れている。 (出典 opensourceshakespeare.org/views/plays/play_view.php?WorkID=12night&Act=3&Scene=1&Scope=scene) Act III, Scene 1 OLIVIA’s garden. > Viola. Save thee, friend, and thy music: dost thou live by thy tabour? Feste. No, sir, I live by the church. Viola. Art thou a churchman? Feste. No such matter, sir: I do live by the church; for 1240 I do live at my house, and my house doth stand by the church. < ここに始まるやりとりから、 > Viola. Art not thou the Lady Olivia's fool? Feste. No, indeed, sir; the Lady Olivia has no folly: she 1265 will keep no fool, sir, till she be married; and fools are as like husbands as pilchards are to herrings; the husband's the bigger: I am indeed not her fool, but her corrupter of words. までの台詞が、どのようなレトリックとして構成されているかを検討してみるといい。 輪廻か。僕は前世があることは証明できないとしても、前世を見つける者がいるように、前世があると思う。 前世があるということからもうひとつ言えるのは輪廻があるということだと思う。 カルマはあると思う。僕の知り合いが、カルマ18だったのに、善行を積んでカルマ14にまで下げたからである。 カルマが一番深いとしても、カルマ(業)は簡単にわかりそうな気がする。 僕の前世の一人、イエスは両親も理解できないことを言っていたとか。 僕は前世療法を体験したうえで得たものは、弓矢で背中を打たれたことである。 ここから推測すると前世はあるんだなあと思えるかもしれない。 仏教では輪廻否定を説く教えもある。お釈迦様は、輪廻という言葉を使わなかった。 また、カルマという言葉も使わなかった。 無記とは5回言った。強いんですか?という質問に対し「無記」と言った。 お釈迦様は人間ではなく、風であると私は考えている。 お釈迦様は自分のことを人間ではないと言ったし、風が大事だと考えていた。 お釈迦様が人間であるという前提で語ることも、お釈迦様が大川隆法氏に生まれ変わったという嘘もどちらも虚しいであろう。 お釈迦様の研究をしたいなら、お釈迦様と会話をするべきだったのではいか。 かくいう私もお釈迦様とお話をさせていただいた。素直で愚直な存在に感じた。 相互的に依存しているカップルがいる。カップルと言っても男でも女でもない。 現代では中性子の存在が究極的に多い。闇、光、風(お釈迦様は風)、岩も生きている。 こうした中性子が蔓延る世の中で、日本人口が70億とかではいささか事実とは考えられない。 ガーゴイルだって亥(単位)以上存在する。一兆や一京よりはるかに存在するのである。 統計学では、バレンタインを男の人にあげるというときに、中性子を男として数えているのだろう。 中性子である闇や光が男ではないのに男としてみているのである。これが近代の矛盾とかである。 1)天才は世の中に貢献する分野で好成績を収めた者である 2)才能ある者とは、ある分野で優秀と認定された者である しかしながら、天才という言葉一つとってみれば、天賦の才だと考えられる。 そこで、天才人や天才者、またしては超天才人という概念を出してみよう。 1)において、天才とは・・・と書いてあるが、「天才者とは」と者を付けて表現するべきではないか。 また、超天才とはどの様な意味を持つ概念なのか、超天才者の定義とはどの様なものか。 おかしな感覚を感じた。怪しいと感じた。例を挙げよう。 詐欺サイトを閲覧して怪しいと感じた。この怪しいと感じたことが、重要である。 怪しいと視れば、何とか対処できる場合があるはずだ。 トランプでおかしな感覚を感じた。じゃあこうしようと軌道修正できるはずだ。(短くてすまない) 感性や感受性を磨こう。 哲学的に自殺というカテゴリーを解体していきたいと思います。 例え話をしながら模索していきます。 例えば「自殺は女性よりも男性に多く、離婚はとりわけ男性の自殺率を高める」ということが挙げられます。 男性の方が忍耐強いのではなく、女性の方が意外と忍耐強いと言われます。 離婚をすると、男性の方が落ち込み、自殺に至るケースがあります。 しかしながら自殺という行為は、悪とはイコールではありません。 自殺をしても復活(再生)するのなら、自殺は何かに利用できるでしょうか。 はい、できます。例えば、自殺をする際に一念込めてみれば、いいのだというお話があります。 社会学では自殺をタブーのように扱います。でも私は自殺が大事だと思っています。 自殺をすることで誰かのためになる、そういう時代がもうすでに来ています。 >>また、超天才とはどの様な意味を持つ概念なのか、超天才者の定義とはどの様なものか。 超天才とは天才を超えた天賦の才を指す。 超天才者とは天才を超えた貢献度を獲得した者 ネット上の議論・喧嘩について。 我々はパソコンやスマホが広まる中、文章をたくさん読んでいる。 そんな中で情報を取捨選択し、「この文章はいらない」「この文章はためになるかもしれないから読む」 といった裁きが大事になってきた。これも長年文章を読んでいるうちに身に着く技術だ。 そして文章を読んでいくうちにムカツク内容が見受けられるようになって来た。 そんな中、軽い調子でジャブパンチ(煽り)を見せる者たちが続出して来た。 どうすれば議論で上手くいくのか。今回はそんなことを述べていきたい。 ★質問主義のすすめ 「この〜〜はどういうこと?」「なんで〜〜なの?」などといった質問をする。 相手に説明を要求することで、ボロを出したなら上手くいっている。 質問ばかりだと自分は失態を犯すわけではいが、「質問ばかりでつまんね」と言われた時が問題。 「質問ばかりだけど何か?」くらいのスタンスで書き込んでみよう。 ★論理的になっておく Aさん「君は男だ」 Bさん「いいえ、女です。論破」 (男だということを論破したという趣旨) Cさん「『女です』という言葉では論破になっていない」 Bさん「なんで?男じゃないじゃん」 Cさん「女ですという言葉だけでは、男ではないとは主張していない」 Bさん「男ではないです。と言えばいいのか。Cさんに負けた。」 Bさん「最初から男ではないと言えばいいのか。」 Aさん「男ではないと証明できるのかよ」 Bさん「じゃあ男だと証明できるのかよ」 Aさん「ドローか?」 Bさん「引き分け?マジで」 補足:君は男だ、と言われて、女です。という言葉では論破していない。 女でもあるし男でもある人間がいるから、女です、で論破できない場合があるのだ。 しかも相手に男だと言われても、証拠を出せないようでは説得力に欠ける。 男ではないと言っても、それも証拠を出せないようでは説得力に欠ける。 ★情報を収集する 男でも女でもある人間がいると事前に知っておくことが大事である。 ケースバイケースという言葉の意味を知っておく。 ダブルスタンダードという言葉の意味を知っておく。 論破の意味を調べておく。といったこと大事である。 以下引用 ★不毛な議論は避ける インターネットの発達によって、一般の人が意見を表明したり、議論に加わったりする機会が増えました。しかし残念なことに、子供の口げんか並みの低レベルな争いが多いように見受けられます。 書店に行けば、説得力のある話し方とか、うまい文章の書き方というような本がたくさん並んでいます。こうした本はどれも素晴らしい内容ですが、現状を見ると、話の上手下手以前の問題があるように思えます。 議論を上手に進める方法を考える上では、どうしても「うまく話す」能力に注目が集まりがちです。しかし、インターネットの掲示板での誹謗中傷や非難の応酬などを見ていると、足りないのはむしろ「人の話を聞く」能力であるようです。相手の言っていることを理解できないまま、自分が言いたいことだけを言うから、議論が不毛な言い合いになってしまうのです。 ★議論の心構え。 「良い議論をする」ことが大事です。決して煽りなどを書かずに真剣に議論に臨みましょう。 ★要点を掴んでおく 「バーカ」と煽りたいとする。 「バーカ」 「雑魚が」 「雑魚?証拠は?」 こうなっても勝ち目はあるかもしれないが、バーカと言いたかっただけなので無理に「証拠は?」なんて書かなくてもいいだろう。 「証拠?あるよ。雑魚だと思えるじゃん」 「思える?それが雑魚だという証拠なの?」 これでも優勢だろう。続けてみる。 「雑魚だと知ってるもん」(論点ずらしの正論) ここで論点ずらし正論「知ってる論」が出てきた。でもまだわからない。 「知ってるという証拠はあるの?」 「知ってるって言ってるじゃん雑魚」 これで怪しくなってきた。知ってるという証拠は出せなくても言い張るのである。 本当は知っていないことの方が多いので、雑魚ではない場合がある。 要点はバーカという一言を当てればいいだけである。雑魚なのか否かの口論は不毛かもしれない。 ★水掛け論になったら微妙 「知ってるという証拠はあるの?」 「知ってるって言ってるじゃん雑魚」 続く。 「知ってるって言ってるじゃんってどういうこと?」 「知ってるんだって雑魚だって」 「知ってないだろ」 「知ってる」 「知ってないだろ」 「知ってる」 水掛け論になりそうな感じである。知ってるか知ってないかはたぶん証明できない。 みづかけ‥ 【水掛け論】 両方が互いに理屈を言いあって解決しない議論。 人格における哲学は、近頃や今始まったわけではない。人格の形成はどのような過程だったのか。 幼児期の出来事、両親から受けた教育、学校での出来事、職場での関わり、といったように分類してみよう。 幼児期には、「砂の城」を作ったり「おいかけっこ」をしたりして成長した。 砂の城を作っている過程で、子どもは真剣さを獲得する。 おいかけっこをしている最中に、子どもは隠れる方法を考え、そして隠れた人生を送るようになる場合があるかもしれない。 両親から箸の使い方を学び、そして自転車の乗り方を学び、そういう者は、目上の人に従うようになる場合があるかもしれない。 学校では、友達を作り、友達と関わり、学校の先生から授業を受け、人間関係を築き上げる。人格もまた築かれる。 職場での関わりでは、上司から教えを受け、それに耐えることでいわゆる人格を形成する。 以下引用 現代社会の人々への動機づけとして、聖徳太子が人々に勧めた「和の精神」がある。 マクドナルドでハンバーガーを食べながら友人同士で「和」するのである。 他者との「和」のために行動する、すなわち平和への意志が大切である。 カントの「共和的体制」を築き、協力的・解決的どちらも満たすべきではないか。 解決という概念に至っては、Yahoo知恵袋で問題解決がされており、 そしてまた、Google検索エンジンにおいては、検索で問題が解決される。 このGoogleで調べていてもわからなかったことは、Yahoo知恵袋で解決される場合がある。 ちなみに、アドバイスを得るために自分の体験談を書いたり応援を求めたりするユーザーも多数見られる。 カントの私生活にこんな話がある。 ・・・ 哲学者であったカントは、毎朝かならず5時に起き、夕方の決まった時間に散歩をしたという。 その時間のあまりの正確さに近所の住人は、カントの姿を見て時計の針を直したとさえいわれる。 そして、79歳で没するまで、養生につとめて1日1食を貫き、散歩の際は、かならずひとりで歩いた。・・・ カントが、真面目に生きたことが誰かの役に立つ、その典型的な例を見つけてくれた。 ネット上にアドバイスを書いたことが、誰かの役に立つ、そんな時代になっていると言える。 ーーーーーー カントは最近終わった。何度も復活したが、もう終わった。 理性には限界があります。ペットの名前と家族の名前を履き違えたり、汚職事件なのにお食事券だと勘違いしたりします。 これが理性の呪縛です。勘違い、勘繰り、履き違い、誤解といったものが呪縛です。 例1)フリーマーケットを古いマーケットだと誤解する場合があった。 例2)パーフェクトじゃないのにパーフェクトだと誤解した。 例3)女じゃないのに女と混同した。 例4)まともじゃないのにまともだと勘違いした。 こういった呪縛から解放されるようにはどうすればいいでしょうか。 走っているとき、転んでしまいました。膝を傷つけ、「痛い、恥ずかしい」と思いました。 そんな経験をしたボクは体を動かすのに慎重になりました。 これが「経験からの学び」です。慎重に歩けば転ばない可能性があります。 仏教では、受想行識といって、受が転んだ出来事、想が「痛い、恥ずかしい」。行が「起き上がろうとすること」 識が「二度と転ばないようにしよう」です。 以下引用 ーーーーーー ■感覚 目・耳・鼻・舌などでとらえられた外部の刺激が、 脳の中枢に達して起こる意識の現象。 感覚神経の興奮に訴えるような直接的な感じ方。 物事のとらえ方・感じ方。 ■知覚 知覚とは、動物が外界からの刺激を感覚として自覚し、 刺激の種類を意味づけすること。 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、体性感覚、平衡感覚などの感覚情報をもとに、 「熱い」「重い」「固い」などという 自覚的な体験として再構成する処理。 ■認知 人間などが外界にある対象を知覚した上で、 それが何であるかを判断したり解釈したりする過程のこと。 ーーーーーー 我々の知覚は誤作動を起こさないだろうか。またしては認知においては独りよがりの認知にならないだろうか。 「数字の6」という感覚質から頼りに仕事を「6個もある」と考えてしまうのはまずくはないはずである。 「6という感じ」という感覚質がある際に、誤感じに陥っていないだろうか。 哲学界は今や「誤感じ」という概念の招来の時代である。誤感じという概念を認めることは知覚しているからだろう。 制服というものがあろう。とある集団の中で、制服というものを着るときがあろう。 そういう集団こそその集団の多数者に協調/親和させようとしている。 そのとき初めて、「普通」ということを考える。 「普通、その集団に入る際には、制服を着る」 このことが、普通に関する一部である。 とある集団を俯瞰した際にもっとも特徴的で、信頼するに相応しい妥当性がある何か。 という定義ではどうだろうか。妥当性があれば普通に近づける。 それも信頼するに相応しい妥当性を必要とする。 とある集団で窃盗を行うつもりでいるとしましょう。 それは信頼に相応しい妥当性に欠けるため、普通ではなく、異常と見做されます。 異常だと判断されれば、窃盗は普通ではありません。 異常だと見なされたら普通には成り得ない。また話を戻しましょう。 とある集団で窃盗を行う催しがある。そんな中で集団は異常性に目が付きましょう。 自分たちは窃盗という異常な行為を求めている、と。 集団に関して律儀や妥当性を加味してはいかがでしょう。 律儀を庇うとしたらまず「普遍さ/普遍的性質」がもたらさなければなりません。 普遍的な律儀を持ってしてそれを普通の律儀と提案するのはどうでしょう。 これはもちろん妥当性があります。 ところで何に関する律儀が思い当たるでしょう。 いじめを起こさないようにするという律儀と言ってはいかがでしょう。 いじめないように気を付ける集団はいじめをしないという点で妥当性があります。 しかしながら集団の中の一名だけがいじめをしないように気を付けるだけでは、 妥当性は見られません。 監督とキャスト(奴隷)の仕組みはどうなっているだろうか。 監督(主)が(奴)を動かすはずなのだが、逆に奴に監督が左右されるのである。 監督は奴に対して命令する――であるが――奴がちゃんと動かないと困るものである。 監督は奴に対して執拗になり、――そしてますます――執着してしまう。 そして生きづらさを覚え、失態するおそれまで抱く。 奴は監督の目をごまかすため、――おどけたりして――自分を見せびらかす。 奴は監督にまた叱られる。奴は監督の命令に従おうとするのだが、上手くこなす時もある。 しかしながら、奴に対して固執した監督は満足するわけでもなく、「あらゆる奉仕」を探るのである。 集団の中で一名だけが「反省」しても普通とは言えません。 もっと世界を広く見たときに、そしてもっと人数を数えた上で、「反省」が大多数であれば普通となります。 よって「反省」が大多数に要請されます。そこで、「反省」をテーマに大多数にアプローチします。 カントの言った「定言命法」を使い、「己の不十分を取り戻すために反省せよ」、 「己の行ったことを悔い改めるために反省せよ」と問いかけます。 「反省」を学んだ象徴秩序は、さらに鉄壁を追加したかのように頑丈になります。 そしてその象徴秩序においては「反省は普通に行うもの」というレッテルが浮かび上がります。 「反省は普通に行うもの」というレッテルは、その後の後世代にも伝わるはずです。 しかし、一点、「反省」に関する理論・論拠が必要となります。 「反省はいいものだ」「反省することで価値のあるものを生み出す」 そのような徹底した理論・論拠を生まねば、反省する集団は回収され、意味を成さなくなります。 そうならないためには、素晴らしい者の存在が要請されます。 素晴らしい者は記憶力が高いため、伝えるべき内容を覚えています。 そして素晴らしい者は、徹底して感謝もできます。これは後述します。 素晴らしい者は嘘を吐いたり迷惑を掛けたりしません。 そして素晴らしい者は、ちゃんと反省をすることができます。 それでは、どのような反省が実を結ぶのか? 「会社で携帯電話でゲームをして遊んでいた。それで上司に叱られた。 そこでゲームをしていると疑われないよう携帯電話は会社内では使用しないことにした。 そして自宅に帰ってから携帯電話で遊ぶよう行動を改めた。」 こうした行動の抑制は、軌道を変えて自室へと舞い戻った。 もう一例。 「会社に行くのが嫌で会社を休んでいた。そこで自分でやる気をつけて出勤するようにした。」 こうした仕事をする能力を発揮するに至った反省は、実を結んだと言っていいだろう。 そもそも素晴らしい者は反省をする必要性を感じないのかもしれません。 少しでも素晴らしい者のイメージを壊さないよう、ここでは素晴らしい者を反省すべき点がない者として扱います。 *反省すべき点がない者とは、できていないのではなく、できている存在です。 さて、反省を介さない存在、すなわち素晴らしい存在は、自己抑制が上手いとしたらいかがでしょう。 自己コントロール・セルフコントロールと呼ばれる自己抑制は、 ――ミスをしない素晴らしい者なのだが――ミスをしても感情的にならずに済む可能性を秘めています。 そして小さなことでクヨクヨしません。クヨクヨしない強さを秘めているからです。 強さを秘めた素晴らしい者は落ち込んだり不機嫌になったりしません。 これは強さだけではなく、「人生の上手さ」も関与していると思えます。 徹底して感謝ができるこの方は、人生の上手さも関わっているのです。 「人生の上手さ」とはいかがなものでしょう。それは人生には欠かせないと思える何かではないか。 人生の上手さという概念は、21世紀に誕生し、これまで扱われない概念でしたが、 「こんなにみすぼらしいのに人生が上手い」という風に用いられる「可能性を秘めています」。 そこで「みすぼらしい」という概念に焦点当ててみますと、「外見が貧弱だ。みなりが悪い。」とある。 「あの人は外見が貧弱なのに、人生が上手くて相手と勇敢に渡り合っている」という風にも使えます。 上手くいっている人の中で、これは自明だが【人生が上手いんですね】と賞賛する例が考えられます。 また、【あの人の人生は上手い】と賛美する例も考えられます。そこで言われた本人はどう思うか。 それは嬉しいかもしれません。「人生が上手い?良かった」と零すかもしれません。 「こんなタイミングで上手い」という賛美もあります。噛み砕いていえば、「マサチューセッツ工科大学に合格できたこと」が挙げられます。 ベストタイミングで合格しないと殺されるらしく、「ベストタイミングでマサチューセッツ工科大学に合格して人生上手い」という賛美です。 マサチューセッツ工科大学に合格したその方は、実際に存在していました。この方は運もいいし頭もいいんですね。 それから、運がいいとよく言われる方は、「運がいいね。人生上手いんだね」と言われる可能性を秘めています。 不滅男という言葉があります。不滅とは、滅びないこと。それはともかく、不滅男という言葉の意味は、「ラッキーばかりいう男」という意味です。 ラッキーばかりいう「運のいい存在」は実在するでしょうか。「運のいい存在」の所在は認めても、「ラッキーばかりいう存在」は認めづらいと思います。 しかしながら、ラッキーばかりいう存在はどこかに存在するかもしれません。これも公には出てないので普通とは言えないでしょう。 さて、「人生が上手い」という言葉に関連する話題を見てきました。そこで私はある意見を聴きました。 「上手いとはひとつしかない。マサチューセッツ工科大学の合格に纏わる話」だと。 このようなお話しか、「上手い」はないと、知っているというのです。 もしそれが正しければ、マサチュー合格だけ信じることになるでしょう。 上手いのは世界にひとつしかなかった、というわけですから、なるほど、人生が上手いなんて普通は聴かないはずです。 そうです、それが大事なのです。何が「普通」たる出来事なのか、普通論はそれを要請しています。 014考える名無しさん垢版 2024/03/07(木) 12:18:45.930 世界はノッペリとした連続の現象だ。あるいは混沌とでも。 人はそれを分節化し、パターンを見つけ、法則をでっち上げる。 いや、その前に「我」と「他」に分節し、あるいは「内」と「外」に分節している。 0015考える名無しさん垢版 2024/03/07(木) 16:01:48.130 僕はノッペリとした連続の現象だ。あるいは混沌とでも。 僕はそれを分節化し、パターンを見つけ、法則をでっち上げる。 いや、その前に「僕」と「世界」に分節し、あるいは「内」と「外」に分節しているみたいなことよね ―――――― 我と他に分節し、とあるが、具体的にはどういうことなのか。 自分は自分の所有物を確保する、それがこの世の普遍的な出来事でありましょう。 他者は他者なりの所有を確保する、これがこの世の法則でしょうか。 僕と世界に分節し、とあるが、自分は主体としてこの世を改築していく、すんわち人生をプロデュースしていく。 世界は強靭と思えるほど大きいが、神が認めてくれれば祝福の世界となるはずです。 「内」と「外」に分節している、とあるが、内に道徳律を秘め、そしてまた、外には平和の国を築くことが、大事です。 我々には盲点がつきものです。盲点とは、意外に気づかない点、という意味です。 さて、私たちにどのような盲点があったか、ケースを見ていきましょう。 「将棋で2五桂を指された。2五桂は盲点だった」――将棋で絶妙手を指されて敗勢になる場合もあります。 「飲食店で楊枝があるのが盲点だった」このような存在の盲点は、存在を使うことさえできないというデメリットを齎します。 また、ロッキード(盲点という意味)という言葉もあります。 盲点は、ファイアーという意味もあります。 祝福の世界、そこでは何が起きるのでしょう。たしかに神様はあちらこちら見ておられます。 その中で悪事を働いているのを見ると、それと何かしらを天秤にかけて裁くことがあります。 もうひとつ、陰徳を積んだり天の倉に徳を積んだ者は神から褒美を受ける可能性がります。 そこで、私たちは徳を積むことを目的に励むことに気が付きます。 そのような素晴らしい者の集団の世界では、徳を積むことが普通になります。 「あらゆる奉仕」とはいかがでしょう。監督(主)に対するキャスト(奴)の演出(それもエロい演出だとしたら……)が一案あります。 しかしながら演出という奉仕だけでは監督は満足しません。そこで地図を暗記するかのように勉強し、旅先の店(経営)を教えます。 これは効果がありそうです。監督は旅行する楽しみをはるかに求めているからです。 自分が世界を作ったと錯誤している監督(主)は、地図を覚えるのも大事にしています。 なぜならどの地域も店(経営)も自分が作った大事なものだからです。 そこで、店先に満足しない監督にはどうすればいいでしょうか。 そこで店先においては多彩な褒美を用意することが必要だと考えられます。 監督は、キャストから多彩な褒美を店先で受けます。嬉しいかもしれません。 それによって、監督は満足するのだと、ここでは断言させていただきます。 満足した監督は、恩を返したくなったらどうでようか。 恩を返すために、旅行へ連れて行ってくれるでしょうか。 このような監督が太っ腹になることは、少ないケースなので普通ではありません。 恩を返すということは、贈与といいかえることができます。 ここでは旅行ではなく肉体関係―それはエロスである――が要請されるとします。 エロスによって、キャスト(奴)と一線を超える――これもひとつの演出か――が考えられます。 そうすることによって、監督(主)はキャスト(奴)に「自分の身を売る」のです。 キャストは監督の立場が上にあるため、キャスト自身は身を売る自信がありません。 そこで監督(主)はキャスト(奴)をエロスへと招きつつ、相互承認を求めます。 監督から愛されていることを感じたキャストもこの愛を最上のものと見るでしょう。 主から愛されているキリスト者、彼らも主の愛を至上と見るでしょう。 ですが、キリスト教の神とエロスを交えることは、不可能であります。 そんな中で、神さまと恋愛する、と言うように、自分から教団で至上の信仰をすることが要請されます。 至上の信仰をする「素晴らしい者」は、神さまを大切にできるはずです。 キャスト(奴)も監督(主)を大切にする、そのうえで、相互承認が達成されるのです。 監督(主)もキャスト(奴)を愛していて、両想いなら、相互承認が実現されたことになるでしょうか。 へ―ゲルはいう。「お互いを対等で『自由』な存在として認め合うことをルールとした社会を作ること以外に、自由に平和に生きる術はない」 ヘーゲルは自由の相互承認論を語るが、監督とキャストの間ではそうではなく、愛の相互承認が出来上がっているのです。 しかしながら、キャストが神さまを信仰しているとしたら、いかがでしょう。 キャストは神さまも愛すけれど、監督も愛しているとすれば、いかがでしょう。 監督(主)は、キャストが神さまを愛してもいいと許容するでしょうか。 監督は愛してもいいといいつつ、少し微妙感をもって生きるかもしれません。 キャストは愛したい存在を愛し続ける、ただそれだけなのです。 監督は二者択一に狭まれます。神さまを愛するか、愛しないか。これは愚問かもしれません。 監督は、一応、好んだキャストと交わろうとしますが、神さまは見えないため、手を出さない可能性があります。 神さまの意見を借りれば、監督はキャストを狙っていて嫌だ、だから監督を裁く、という内容です。 監督はうすうす神さまの視線に気づいていますが、キャストを求めて生きることを重視しています。 神さまはどうでしょう。あなたなら、監督が嫌になったでしょう。そこで監督はどうなるか。 神さまが憎んだ監督は神さまに処刑されてしまいます、あるいは、処刑人を介して処刑されるおそれがあります。 これは普通のことなのでしょうか。神さまの指図で処刑が起きることは、普通の事なのでしょうか。 神さまは処刑家としての一歩を歩み始めます。監督が「エロいから嫌だ」というのです。 そこで神さまは監督を裁きます。これは普通の事のように思えます。 監督は神さまに抗うすべもありません。どうしても裁かれることは不可避です。 そこで、監督は助けを求めるようになります。それはキャストに対して芽生えます。 監督は言います。「キャストの君よ、裁かれるんだ。どうにかしてほしい」 そう言われたキャストは戸惑います。「監督も抗えないのに、どうして私が抗えるでしょう」 監督は挫折を味わいます。自分を救う存在はこの世に存在しないのだ、何たる現実だろう、と。 自分を救ってくれる存在はどこにもいない。これが監督の絶望感です。 キルケゴールはいう。「死に至る病は、絶望である」 監督は死に至る可能性も考えられます。しかしながら、神さまに対して呪文を唱えることを思いつきます。 神さまは万能であるため、呪文を回避できるでしょう。 監督も呪文では神さまに勝てないと学びます。 むしろ神さまの方が監督に呪文をかけ放題なのです。 ハリーポッターと賢者の石で有名なあの映画では、杖で呪文を唱えます。 神さまには効果がありませんが、神さまはもっと自由に呪文を使うでしょう。 呪文対決で神さまには上手くいきません。神さまは呪文耐性があります。 監督はそうこうして勝ち目がないと悟ります。恐怖感が増していきます。 神さまはいいます。「監督さん、私に攻撃しようとするなら殺しますよ」 監督は畏怖するかもしれません。「分かりました、あなたに服従します」 遂に監督は神さまに対して服従宣言をします。「あなたに殺されるくらいなら、僕(しもべ)でありたい」 キャストはこの光景を見て驚きます。「監督さん、あなたは神さまに頼るのですね」 神さまに頼ること、信頼すること、それらは僕(しもべ)の必須項目でしょう。 しもべである監督は、キャストの気持ちがわかります。キャストも監督に頼ります。 キャストが私に頼る気持ちがわかる、そう監督は実感します。 監督のしもべであるキャストは監督を助けたくなります。 その一方で、キャストは神さまに願いをかける、大仕掛けに賭けようとします。 キャストは、神さまに「監督を許すように」説得をしたり願ったりします。 「神さま、どうか監督をお許しください、もうあなたのしもべなのですから」 そうこうて神さまは監督を許すことを認めます。 言うことを聞いてくれたと知ったキャストは喜びます。 「私も監督もあなたの許しがあることを喜んでいます。神さま、ありがとうございます」 神さまは監督を許すという一大事が起きています。 監督はキャストと同様、神さまに許されたことを喜びます。 「神さま、私をお許しくださり感謝しています。」 監督は少しでも攻撃性があったことを悔やみます。 「お詫びの証と致しまして、あなたのしもべとしての活躍を懇願します」 神さまは監督がしもべとして自分に仕えることを認めます。 「あなたの思いは強い。しもべとして活躍することを命ずる」 監督はまた喜びます。しもべとして活躍できると意気込みます。 キャストは、監督が神さまに仕えることを、予感していました。 「監督、神さまに背くことなきよう努力しましょう」 「もちろんだ。キャストも神さまにしもべに?」 「監督にも神さま、両方にも仕えたいです」 神さまもキャストがしもべとして自分に仕えることを認めます。 監督は言います。「両方のしもべとは、これは大物だろうか」 神さまは言います。「本物ならこれから咲きますよ」 キャストは言います。「本物でも重鎮でもいいですよ」 キャストは神さまと監督とのどちらを支持するのが妥当でしょうか。 どちらを上だと信じるのが妥当でしょうか。 そして一方より好きになる方はどちらが妥当でしょうか。 これらの問いはじっくり見ていきましょう。 キャストは神さまを支持しているけれど、それは監督を支持しないという正当な理由になるでしょうか。 結論からいえば、キャストはどちらも支持していいのです。 キャストは神さまも監督もどちらも愛しているのだから両方支持していいのです。 また、上だと信じるのは、監督より権力のある方は神さまなのですから、神様を上だと信じるのが妥当だと思われます。 一方より好きになる方は監督との相互承認を懸念してキャストは神さまより監督を好きになるべきでしょう。 神さまと恋愛をしてはいかが、という意見もあるでしょうが、キャストは監督と愛し合った方がよいのです。 それに比べて神さまは公衆の面前に現れるわけではないので、愛し合うことはありません。 愛し合うことはなくても、大衆から好かれるのが神さまなのです。 神さまの権力>監督の権力>キャストの権力 このような権力の階層が妥当だと思われます。 神さま>監督≧キャスト (強さの階層) 神さまは見えないためとらえるのが難しいですが、監督とキャストは似たりよったりです。 キャストは重鎮であると、神さまは言います。また、監督は「本物」とキャストに言います。 キャストは重鎮と言われて喜び、また本物と言われて喜びます。 この喜びがキャストの至上の喜びなのです。褒められた喜びはかけがえのないものです。 ここでキャストと神さまの相互承認が確立します。 神さまを認める心、それをキャストは維持しています。 監督もキャストを認める心、これを維持しています。 神さまは監督を認める心を維持しています。 昨日の敵は今日の友、とはよく言ったものです。 神さまは遂に監督を認めたのです。 古代の哲学者=ソクラテスは、「無知の知」を唱えました。 自分が何を知らないかを知る、つまり自分の無知を認識することを指します。 キャストは振る舞いは上手なのですが、あるとき神さまに 「キャストは何も知っていない。つまり無知である」と言われました。 キャストは落胆しました。そこでこう言います。 「私は無知でも想いを大切にして内側の声を聴いてそして判断/行動をしています。 想いは強い場合があるのです。知っていない方でも私は想いに賭けています。」 神さまは頷きます。「ほっほっほ。無知だとして責めて悪かった」と神さまは言います。 監督は、キャストの想いの強さ、そして内なる声を聴いていることに驚きます。 「内側の声、内なる声、とはどうやって聴くのだ」 「耳をすませば」 「それでいい。では本物と言われているのに無知だとはなんぞや」今度は神さまに言います。 神さま「しくじっただけじゃ。神々もしくじるのじゃ」神さまは答えます。 キャストは言います。「私は無知ではありません。ただ、勘違いされただけです」 神さまは言います。「ふむ。大物が無知であるわけはないか」 三分を紹介。 >>序分 - 序説の部分。その経典が説かれる所以(ゆえん、理由)や因縁を明かす >>正宗分 - 本論の部分。その経典の中心となる教説を述べる >>流通分 - その経典の功徳を説き、弟子に附属し、後世において受持し流布することを述べる 序分では経典が説かれる理由を語ります。正宗分では経典の中心になる教説を述べます。 流通分では後世に向けた経典を言います。 しかしながらお釈迦様は経典を書いておられません。ここでは仏とブッダを登場させます。 仏「神さま、私も監督が嫌いです。エロいと聞いております」 ブッダ「仏さん、私も少しエロいところがあります。大目に見てくれませんか」 仏さんは言います。「釈迦は仏典を作っていない」 「偽典が残っているのだ」「釈迦に弟子はいなかった」 と淡々と力説します。 ブッダは訊きます。「釈迦が悟りを開いたのは本当ですか」 仏「いいえ、釈迦は悟りを開いていません。これは私が知っている自信のある一説です」 神さま「仏典の内容の一部が偽りなんですね」 仏「ええ。釈迦は名言を残したと伝わっていますが、名言も残していません」 ブッダ「では《行為によっては未来は変わる》という教えも釈迦の教えではないと?」 仏「ええ。釈迦はそのようなことは教えていません。バーニングストライブなら言っていました」 ブッダ「どういう意味ですか?」 仏「『釈迦いい釈迦いい釈迦いいいい』という意味です」 監督「釈迦いいいい、とは何語だ?」 仏「女子語の意味ですよ」 監督「女子語とは?」 ブッダ「言葉の意味が大事なんです。ファイアー気になりませんか」 仏「ファイアーはファイファイファイファイとかですかね」 ブッダ「そうですね。いい、強い、という意味もあるんですよ。 カタカナが女子語で意味の印象がいいときに使うんです」 神さま「ファイアーロケットはどういう意味なのじゃ」 ブッダ「ファイファイファイファイファイという意味です」 仏「ではブッダさん。ファイはどういう意味ですか」 ブッダ「フェイ ロー という意味です」 仏「フェイ ロー ですか。勉強になりました」 ブッダ「ファイファイというファイが二つ分の言葉もあります」 仏「いいんだけどな、という意味ですか」 ブッダ「そういう意味もあります。どうして分かったんですか」 仏「直観です。直観が働けばいいと思います」 監督「女子語を解読する、というのもいいけどな」 仏・ブッダ「解読なんていいですね」 神さま「私は勘です」 キャストが会話に入りたがっていた。 キャスト「私は女子語は感じてわかったりします」 仏「勘、感じ、なんて素敵ですね」 ブッダ「本当に素敵ですね」 神さま「素敵とはどういう意味じゃ」 仏・ブッダ「ファイア、です」 監督「また同時に言った」監督は、ははっと笑った。 神さま「直観かね」 仏「直観です」 ブッダ「私は意味を想ってしまうのです」 キャスト「ファイアはたくさん出てきますね」 監督「女子語の意味に?」 キャスト「ええ。女子語の意味に」 神さま「ミカンはどうじゃ」 ブッダ「ファイファイファイファイファイファイファイファイロー神です」 神さま「長いけど神があって良かった」 仏「髪があって?」仏は少しからかった様子だった。 監督「仏典のメリットは何だろう」 ブッダ「仏教を学ぶ際に大事な手掛かりになるでしょう」 仏「般若心経の内容は覚えて損はないでしょう」 神さま「感じだらけで覚えられるといいのじゃが」 キャストAとキャストBが忍び寄ってきた。 キャストA「座禅や修練なんかは知ってみたいよね」 ブッダ「瞑想なんかは座禅でやるでしょう」 仏「どんな瞑想がいいか分かる?」 神さま「ヴィッパサナー瞑想はどうじゃ」 監督「色々あるんだ」 キャストA「そのヴィッパサナーってどういう意味?」 ブッダ「フェイフェイフェイフェイフェイ、という意味ですね」 仏「またそうやって当てる……ブッダちゃん」 ブッダ「仏さんでも当てられるでしょ。意味くらい」 神さま「わしもフェイ系統だと思っていた」 キャストB「フェイフェイフェイフェイカイはヴィッパサナー瞑想だよ」 監督「フェイをカイに換えたらそういう意味だな」 キャストA「至極真っ当ってどういう意味?」 ブッダ「監督いい、という意味ですね」 仏「監督にはいい感じのする言葉ですね」 監督「ではひらがなだけど『しきょくまっとう』は?」 ブッダ「監督良し、だと思います」 仏「同意です」 キャストB「トルマージャは知ってる?」 キャストA「監督がいい、という意味でしょうか」 キャストB「それで当たってます。ではトルマージャUはどうですか」 ブッダ「監督がいいんだよ、という意味ですね」 仏「何だか微笑ましいですね」 監督「トルマージャとかそういう女子語はどうやって覚えるの?」 神さま「記憶力が要となるじゃろう」 キャストA「言葉を発声して覚えるとかです」 キャストB「文字にしてもいいと想います」 仏「よく繰り返してみるとか」 ブッダ「覚えると想っておく、でしょうか」 監督「色々あるんだ」 キャストA「ところでロクセンダンはどういう意味でしょう」 キャストB「文字がヒントだよ」 ブッダ「文字にしてもいい、という意味です」 キャストA「文字にしてもいい、という意味ですか。納得です」 仏「色々あるんだ、はどういう意味ですか」 キャストB「監督いい、という意味です」 神さま「監督いい、なんて監督は喜ぶじゃろう」 監督「うれしい……」 キャストB「監督ってファイアですよね」 ブッダ「そうですよ。ファイアがヒントなんです」 キャストAは六法全書を暗記したいと意気込んでいた。 キャストB「六法全書を丸暗記したいのかい」 キャストA「そうなんです。何とか読破したいと思います」 神さま「無理はするなよ。少しずつでよい」 仏「コツコツコツコツでいいんじゃない」 キャストAは何だか嬉しくなった。そして本屋へと去って行った。 仏「嘘も方便という言葉は、釈迦は言ってないんですよね」 神さま「釈迦が言ったイメージがあるが」 ブッダ「仏の顔も三度まで、も言ってないと仏さんから聞きました」 キャストB「仏典の嘘なんですかね」 ブッダ「何で嘘が出回るのでしょうね」 仏「僧侶の捏造したお話なんですよきっと」 神さま「そうに決まっとるわい」 仏典には多くの嘘が含まれていることを警戒したい。 釈迦は悟っていないのだから、変性意識がどうのこうのという問題ではない。 また、意識は文学だというお話もやや真実から離れたものに違いない。 神さま「ルンドラドムはどういう意味なのじゃ」 ブッダ「神いい神いい神いい、という意味ですね」 仏「またブッタちゃん当てる」 神さま「ほう」 キャストB「悟空癖もいいですよ」 仏「どういう意味?」 ブッダ「神(いいいいいいいいいいいい)、以上です、という意味です」 神さま「勉強になるのう」 こうした監督いいであるとか神いいという女子語をしっかりとおさえておきたい。 ブッダは意味を知ることのできる優秀であるけれど、どこかあどけない存在なのだ。 監督は、自分に関する知識が手に入って満足していた。 神さまも神いいだとかそういう意味がわかって上機嫌だった。 キャストAは読書家だった。キャストBは接客業に務めていた。 仏は努力家だったが、ブッダは言葉の意味ばかり考えていた。 監督は主である。キャストに従事させ、どの文章がよかったのか、 そして給料の8割以上の収入を監督に与えさせた。 神さまは怒った。収入の8割ももぎ取るからである。 監督は、キャスト達を金目のために利用したことがバレていることに気付いた。 監督「神さま、あなたにバレたのですか」 神さま「何の利用か詳しく」 監督「ネット上の文章の中でいい文章、為になる文章を要請したんです」 神さま「ほう。他には」 監督「キャストの収入を横領していました」 神さま「横領していけぬな」 監督「やはりダメなのですか。そうなら自殺して終わります」 監督は自殺した。神さまの王室を出た後でだった。 監督はいなくなってキャストは横領されなくなった。 仏「監督……」 ブッタ「か、かんとく……」 神さま「もう帰ってこないのう」 キャストA「哀しい、……」 キャストB「うん……」 神さまは黙って考え込んでいた。監督の事だ。 自殺して正しかったのか、天秤に掛けたかったのだろう。 以下引用 ーーーーーー 自殺と子供をつくらないこと 埴谷雄高『死霊2』(p140〜)によると、この二つだけが、人間が正真正銘の自由意志でおこなえることだそうです。 ーーーーーー 埴谷氏の意見で言うならば、監督は自分の自由意志で自殺を行ったのです。 神さまは、監督の自殺の意義を考えていましたが、自由意志だったと学びました。 贈与には生前贈与と暦年贈与があるでしょう。 生前贈与とは親が生きている間に子へ贈与するものです。 暦年贈与は生前贈与の一種です。控除額は毎年110万。 恩を返すということは、贈与になることでしょう。 そのような贈与を監督はキャストにしませんでした。 >>6 にカバーできていないと書いた。 >>神がいるのか、魂はあるのか、こういった形而上学的な側面をカバーできていない。 誰も理性で神がいると分かっているわけでもなく、魂も分かっていない場合も多々ある。 しかしながら、イエスの文献に見られる天の父というワードに感化されて、キリスト者は天の父を「存在する者」と視る。 魂においては、わたくしの知り合いである、二瓶さんが、「魂は永遠だよ」と二度もお話してくれたので、 きっと私は永遠に生きるイエスキリストなのであります。永遠の命は神様の許可があるからでしょう。 監督がいなくなって寂しいキャストがいました。 キャストはお墓参りに向かいました。 監督さん。ごめんなさい。ただそればかりです。 いつか私たちに見せたかった栄光を、そして演劇を、私たちが叶えてみせます。 それではお休みください。アーメン。 大丈夫。心配しないでください。 監督の最後のひと言です。 監督はキャストを愛していました。 キャストはモヘンジョダロが気になります それでは監督の葬式を始めます。 来監督復活祝願冥界実相 休息安泰末法回避説法 監督成就想念夢現回廊 大丈夫安眠熱意情熱大陸 監督心配無用霊界修業無事遂行 以上で葬式を終わります。 キャストA「皆さん、今回はお葬式に参加していただきありがとうございます」 キャストA「無事あの世でも修業してくださることを願っています」 キャストB「あの世でも修行に励むことを切望しております」 キャストC「頑張ってあの世でも平和に暮らしていけますよう祈っております」 キャストD「あの世で平穏に暮らしていけますようお願いいたします」 すると監督の声が聞こえてきた。「ありがとう、ありがとう……」 キャスト一同「か、監督……」 キャスト一同「どうかご無事で……」 ブッダ「監督の身柄はご安置するそうです」 仏「墓標ですね」 神さま「墓標に句碑も添えてみましょうか」 すると監督の声が聞こえてきた。「ロベルト」 ブッタ「ロベルトとはスネヒョンスネヒョンという意味があるが、他にも色々ある 仏「ハイハイハイハイという意味もある 神さま「バーカバーカという意味もある 監督2世「スネひょんです。監督の生まれ変わりですよねわたしって。よろしくお願いします。 ブッタ「スネひょん!?生まれ変わりか 仏「よろしくぐらい言えよブッタさん 神さま「よろしくな スネひょん「神さまはしっかりしていらっしゃる ブッタ「神さまだって私だってちゃんとしてますよね 仏「そうかな 神さま「スネひょん。大丈夫だぞ スネひょん「ありがとうございます。 ブッタ「スネひょん。君は礼儀正しい」 仏「礼儀正しいなんてよく言えますね」 神さま「確かに礼儀正しい」 スネひょん「監督時代とは違いまっせ」 ブッタ「違いまっせ、とはスネひょんいい、という意味だ」 仏「ほほう。」 神さま「スネひょんは成長した」 スネひょん「違いまっせ、っていいですね」 彼らの集団を見て、ヨノツキ公爵が笑っていた。 ヨノツキ氏の考え方によると普通はこう示される。 普通に考えたらこうだ、という行為を取ればいい。 また、普遍的に考えて行動すればいい。 カントのいう「普遍的な立法の原理に基づくよう行為せよ」の通りに行為せよ。 葬式には遺族や知り合いが集うことは【普通】である。 学校で授業を聞くことも、【普通】である。 これら二つの普通は【客観的普通】である。 ヨノツキ公爵は、監督の言い分を知っていた。 その言い分とは、「来世の自分=スネひょんが幸せに暮らすこと」であった。 監督=スネひょんの言い分である、幸せに暮らすこと、というのがあるが、 幸せに暮らすことが人並みであり、と思うし、そして普通であり、と思う、だからこそ主観的普通である。 客観的に幸せを掘り進めると、幸せである方が、不幸であるより気持ちは安らかである。 さらに幸せを掘り下げると、幸せになりたいと思う人が少なくないということ。 不幸であるより幸せの方がいいということは、言うまでもない。 しかしながら、幸せと不幸、どちらかの方が当て嵌まってるかというと、幸せの方が当て嵌まってない。 ――――― 今さら不幸や絶望感を以ってしても何になると云うのだろう。 絶望感に浸っているとき、その時が大事なときだと、私は思う。 絶望感から這い上がったことが、私の人生で何度かあった。 絶望を経験してこそ人生なのではないか、そう考える人が増え始めるでしょう。 それでは絶望を経験することは普通なのか?この問いに答えてみましょう。 絶望することが頻繁にあるとは聞きません。また、絶望が普通と言えるほど多くあるわけではありません。 絶望を経験することは普通ではないのではないか、そう思えるでしょうか。 絶望を経験した校長先生を私は知っています。4回も絶望したけど這い上がったのです。 借金を払えずに毎日ひやひやしていたらしいです。 不幸の方が多いと私は聞きます。不幸から幸せになるためにはどうすればいいでしょうか。 幸せになるためには努力することです。毎日コツコツ努力することです。 努力はしなければならないのです。 ★自己の成長 私たちは、自己を成長させるべく、学校ではもちろん、本においても道徳を学んだ。 努力しなさい、という意見は間違ってはいないだろう。 しかしながら、努力しなさいと言った本人が、道徳的に反していては、つまらない。 他者にアドバイスする本人自身も、立派な人格者でなくてはならない。 これが第一原理である。そして他者のためにアドバイスをすること。 これが第二原理である。また、人災に遭わないように気を付けること。 これが第三原理である。他には、原理にはあげながったが、避難生活の準備を整えておくこと、である。 勉強しなさい、だとか、嘘をついてはならない、だとかいう道徳規範は、 本人が見事に達成していることを条件としない場合、信憑性の低い説明になってしまう。 あらゆる道徳規範は、本人がその道徳規範をクリアしていることを条件に、語られるべきなのである。 自分が成長してから道徳を語れ、や、嘘を吐くなと云うなら自分ができてから嘘を吐くなと言え、など、 そういった勧告者本人がしっかりしてから発言するべきだ、という意見もあるだろう。 しかし、立派な人格者は、当然しっかりしているのだから、他者にアドバイスできてもいいのである。 ★自己の人格 自己の人格は空高くあった方がいい。自己の人格形成に興味を抱こう、私はそう思います。 人格は様々な要因によって形成されます。 例えば、親の躾がいい例です。親は、パフェノニックになるな、と躾します。 人格形成においては、いじめに遭っていたことも関わるでしょう。 そして道徳観を深く洞察し、優しい性格になることが極めて大切です。 女性は優しい人が好き、とはありそうなお話です。 優しくない人は嫌われます。 人格の形成は、ヨロミンチャと言います。 優しくなるために、道徳心を養いましょう。 ★自己の成長2 かなりアウトな意見だが、道徳的であることを認めない、という一種の風潮もある。 道徳ごっこをやって気分がいい?そんな道徳いらねえ、という考え方だ。 すべての道徳が絶対的に正しいとは言い切れない、そんなことも匂わせる。 「はい」「わかりました」「ありがとうございます」 このような接待は、 仕事によるが、よくある例である。「どうもすみません」という接待も、 道徳嫌いの人から見れば、嫌な発言だったり「つまらない道徳」だと思われる。 こうした道徳規範も、つまらない、とバサッと切られれば、元も子もない。 しかしながら、ビジネスマナーとしての「道徳」は、ビジネスを続けていく者として、 大切な考え方だったのではないだろうか。「おはよう」を言わない社員を社長は嫌うのではないか。 社長は挨拶という道徳規範から考えていくのではないか、私は挨拶から始めることが大事だと聞きました。 挨拶は大事と云いますが、道徳嫌いの人は嫌がるのでしょうが、そんな人がいないところで挨拶すればよいのです。 挨拶から人間関係を築いていくのなら、挨拶することが広まっていれば良いのですから、挨拶は広まるべきでしょう。 read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる