【事実回帰】理論場【名言・格言】
人は年を重ねるほどに、未来よりも過去のことを考えがちになる。
事実は、理論では否定することは不可能です。
太陽が輝くかぎり、希望もまた輝く。
〜 フリードリヒ・フォン・シラー(ドイツの詩人) 〜 以下引用
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■感覚
目・耳・鼻・舌などでとらえられた外部の刺激が、
脳の中枢に達して起こる意識の現象。
感覚神経の興奮に訴えるような直接的な感じ方。
物事のとらえ方・感じ方。
■知覚
知覚とは、動物が外界からの刺激を感覚として自覚し、
刺激の種類を意味づけすること。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、体性感覚、平衡感覚などの感覚情報をもとに、
「熱い」「重い」「固い」などという
自覚的な体験として再構成する処理。
■認知
人間などが外界にある対象を知覚した上で、
それが何であるかを判断したり解釈したりする過程のこと。
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我々の知覚は誤作動を起こさないだろうか。またしては認知においては独りよがりの認知にならないだろうか。
「数字の6」という感覚質から頼りに仕事を「6個もある」と考えてしまうのはまずくはないはずである。
「6という感じ」という感覚質がある際に、誤感じに陥っていないだろうか。
哲学界は今や「誤感じ」という概念の招来の時代である。誤感じという概念を認めることは知覚しているからだろう。 制服というものがあろう。とある集団の中で、制服というものを着るときがあろう。
そういう集団こそその集団の多数者に協調/親和させようとしている。
そのとき初めて、「普通」ということを考える。
「普通、その集団に入る際には、制服を着る」
このことが、普通に関する一部である。 とある集団を俯瞰した際にもっとも特徴的で、信頼するに相応しい妥当性がある何か。
という定義ではどうだろうか。妥当性があれば普通に近づける。
それも信頼するに相応しい妥当性を必要とする。
とある集団で窃盗を行うつもりでいるとしましょう。
それは信頼に相応しい妥当性に欠けるため、普通ではなく、異常と見做されます。
異常だと判断されれば、窃盗は普通ではありません。 異常だと見なされたら普通には成り得ない。また話を戻しましょう。
とある集団で窃盗を行う催しがある。そんな中で集団は異常性に目が付きましょう。
自分たちは窃盗という異常な行為を求めている、と。 集団に関して律儀や妥当性を加味してはいかがでしょう。
律儀を庇うとしたらまず「普遍さ/普遍的性質」がもたらさなければなりません。
普遍的な律儀を持ってしてそれを普通の律儀と提案するのはどうでしょう。
これはもちろん妥当性があります。
ところで何に関する律儀が思い当たるでしょう。
いじめを起こさないようにするという律儀と言ってはいかがでしょう。
いじめないように気を付ける集団はいじめをしないという点で妥当性があります。
しかしながら集団の中の一名だけがいじめをしないように気を付けるだけでは、
妥当性は見られません。 監督とキャスト(奴隷)の仕組みはどうなっているだろうか。
監督(主)が(奴)を動かすはずなのだが、逆に奴に監督が左右されるのである。
監督は奴に対して命令する――であるが――奴がちゃんと動かないと困るものである。
監督は奴に対して執拗になり、――そしてますます――執着してしまう。
そして生きづらさを覚え、失態するおそれまで抱く。
奴は監督の目をごまかすため、――おどけたりして――自分を見せびらかす。
奴は監督にまた叱られる。奴は監督の命令に従おうとするのだが、上手くこなす時もある。
しかしながら、奴に対して固執した監督は満足するわけでもなく、「あらゆる奉仕」を探るのである。 集団の中で一名だけが「反省」しても普通とは言えません。
もっと世界を広く見たときに、そしてもっと人数を数えた上で、「反省」が大多数であれば普通となります。
よって「反省」が大多数に要請されます。そこで、「反省」をテーマに大多数にアプローチします。
カントの言った「定言命法」を使い、「己の不十分を取り戻すために反省せよ」、
「己の行ったことを悔い改めるために反省せよ」と問いかけます。
「反省」を学んだ象徴秩序は、さらに鉄壁を追加したかのように頑丈になります。
そしてその象徴秩序においては「反省は普通に行うもの」というレッテルが浮かび上がります。 「反省は普通に行うもの」というレッテルは、その後の後世代にも伝わるはずです。
しかし、一点、「反省」に関する理論・論拠が必要となります。
「反省はいいものだ」「反省することで価値のあるものを生み出す」
そのような徹底した理論・論拠を生まねば、反省する集団は回収され、意味を成さなくなります。
そうならないためには、素晴らしい者の存在が要請されます。
素晴らしい者は記憶力が高いため、伝えるべき内容を覚えています。
そして素晴らしい者は、徹底して感謝もできます。これは後述します。 素晴らしい者は嘘を吐いたり迷惑を掛けたりしません。
そして素晴らしい者は、ちゃんと反省をすることができます。
それでは、どのような反省が実を結ぶのか?
「会社で携帯電話でゲームをして遊んでいた。それで上司に叱られた。
そこでゲームをしていると疑われないよう携帯電話は会社内では使用しないことにした。
そして自宅に帰ってから携帯電話で遊ぶよう行動を改めた。」
こうした行動の抑制は、軌道を変えて自室へと舞い戻った。
もう一例。
「会社に行くのが嫌で会社を休んでいた。そこで自分でやる気をつけて出勤するようにした。」
こうした仕事をする能力を発揮するに至った反省は、実を結んだと言っていいだろう。
そもそも素晴らしい者は反省をする必要性を感じないのかもしれません。
少しでも素晴らしい者のイメージを壊さないよう、ここでは素晴らしい者を反省すべき点がない者として扱います。
*反省すべき点がない者とは、できていないのではなく、できている存在です。 さて、反省を介さない存在、すなわち素晴らしい存在は、自己抑制が上手いとしたらいかがでしょう。
自己コントロール・セルフコントロールと呼ばれる自己抑制は、
――ミスをしない素晴らしい者なのだが――ミスをしても感情的にならずに済む可能性を秘めています。
そして小さなことでクヨクヨしません。クヨクヨしない強さを秘めているからです。
強さを秘めた素晴らしい者は落ち込んだり不機嫌になったりしません。
これは強さだけではなく、「人生の上手さ」も関与していると思えます。
徹底して感謝ができるこの方は、人生の上手さも関わっているのです。 「人生の上手さ」とはいかがなものでしょう。それは人生には欠かせないと思える何かではないか。
人生の上手さという概念は、21世紀に誕生し、これまで扱われない概念でしたが、
「こんなにみすぼらしいのに人生が上手い」という風に用いられる「可能性を秘めています」。
そこで「みすぼらしい」という概念に焦点当ててみますと、「外見が貧弱だ。みなりが悪い。」とある。
「あの人は外見が貧弱なのに、人生が上手くて相手と勇敢に渡り合っている」という風にも使えます。 上手くいっている人の中で、これは自明だが【人生が上手いんですね】と賞賛する例が考えられます。
また、【あの人の人生は上手い】と賛美する例も考えられます。そこで言われた本人はどう思うか。
それは嬉しいかもしれません。「人生が上手い?良かった」と零すかもしれません。 「こんなタイミングで上手い」という賛美もあります。噛み砕いていえば、「マサチューセッツ工科大学に合格できたこと」が挙げられます。
ベストタイミングで合格しないと殺されるらしく、「ベストタイミングでマサチューセッツ工科大学に合格して人生上手い」という賛美です。
マサチューセッツ工科大学に合格したその方は、実際に存在していました。この方は運もいいし頭もいいんですね。
それから、運がいいとよく言われる方は、「運がいいね。人生上手いんだね」と言われる可能性を秘めています。
不滅男という言葉があります。不滅とは、滅びないこと。それはともかく、不滅男という言葉の意味は、「ラッキーばかりいう男」という意味です。
ラッキーばかりいう「運のいい存在」は実在するでしょうか。「運のいい存在」の所在は認めても、「ラッキーばかりいう存在」は認めづらいと思います。
しかしながら、ラッキーばかりいう存在はどこかに存在するかもしれません。これも公には出てないので普通とは言えないでしょう。 さて、「人生が上手い」という言葉に関連する話題を見てきました。そこで私はある意見を聴きました。
「上手いとはひとつしかない。マサチューセッツ工科大学の合格に纏わる話」だと。
このようなお話しか、「上手い」はないと、知っているというのです。
もしそれが正しければ、マサチュー合格だけ信じることになるでしょう。
上手いのは世界にひとつしかなかった、というわけですから、なるほど、人生が上手いなんて普通は聴かないはずです。
そうです、それが大事なのです。何が「普通」たる出来事なのか、普通論はそれを要請しています。 014考える名無しさん垢版
2024/03/07(木) 12:18:45.930
世界はノッペリとした連続の現象だ。あるいは混沌とでも。
人はそれを分節化し、パターンを見つけ、法則をでっち上げる。
いや、その前に「我」と「他」に分節し、あるいは「内」と「外」に分節している。
0015考える名無しさん垢版
2024/03/07(木) 16:01:48.130
僕はノッペリとした連続の現象だ。あるいは混沌とでも。
僕はそれを分節化し、パターンを見つけ、法則をでっち上げる。
いや、その前に「僕」と「世界」に分節し、あるいは「内」と「外」に分節しているみたいなことよね
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我と他に分節し、とあるが、具体的にはどういうことなのか。
自分は自分の所有物を確保する、それがこの世の普遍的な出来事でありましょう。
他者は他者なりの所有を確保する、これがこの世の法則でしょうか。
僕と世界に分節し、とあるが、自分は主体としてこの世を改築していく、すんわち人生をプロデュースしていく。
世界は強靭と思えるほど大きいが、神が認めてくれれば祝福の世界となるはずです。
「内」と「外」に分節している、とあるが、内に道徳律を秘め、そしてまた、外には平和の国を築くことが、大事です。 我々には盲点がつきものです。盲点とは、意外に気づかない点、という意味です。
さて、私たちにどのような盲点があったか、ケースを見ていきましょう。
「将棋で2五桂を指された。2五桂は盲点だった」――将棋で絶妙手を指されて敗勢になる場合もあります。
「飲食店で楊枝があるのが盲点だった」このような存在の盲点は、存在を使うことさえできないというデメリットを齎します。
また、ロッキード(盲点という意味)という言葉もあります。
盲点は、ファイアーという意味もあります。 祝福の世界、そこでは何が起きるのでしょう。たしかに神様はあちらこちら見ておられます。
その中で悪事を働いているのを見ると、それと何かしらを天秤にかけて裁くことがあります。
もうひとつ、陰徳を積んだり天の倉に徳を積んだ者は神から褒美を受ける可能性がります。
そこで、私たちは徳を積むことを目的に励むことに気が付きます。
そのような素晴らしい者の集団の世界では、徳を積むことが普通になります。 「あらゆる奉仕」とはいかがでしょう。監督(主)に対するキャスト(奴)の演出(それもエロい演出だとしたら……)が一案あります。
しかしながら演出という奉仕だけでは監督は満足しません。そこで地図を暗記するかのように勉強し、旅先の店(経営)を教えます。
これは効果がありそうです。監督は旅行する楽しみをはるかに求めているからです。
自分が世界を作ったと錯誤している監督(主)は、地図を覚えるのも大事にしています。
なぜならどの地域も店(経営)も自分が作った大事なものだからです。
そこで、店先に満足しない監督にはどうすればいいでしょうか。 そこで店先においては多彩な褒美を用意することが必要だと考えられます。
監督は、キャストから多彩な褒美を店先で受けます。嬉しいかもしれません。
それによって、監督は満足するのだと、ここでは断言させていただきます。
満足した監督は、恩を返したくなったらどうでようか。
恩を返すために、旅行へ連れて行ってくれるでしょうか。
このような監督が太っ腹になることは、少ないケースなので普通ではありません。 恩を返すということは、贈与といいかえることができます。
ここでは旅行ではなく肉体関係―それはエロスである――が要請されるとします。
エロスによって、キャスト(奴)と一線を超える――これもひとつの演出か――が考えられます。
そうすることによって、監督(主)はキャスト(奴)に「自分の身を売る」のです。
キャストは監督の立場が上にあるため、キャスト自身は身を売る自信がありません。
そこで監督(主)はキャスト(奴)をエロスへと招きつつ、相互承認を求めます。
監督から愛されていることを感じたキャストもこの愛を最上のものと見るでしょう。
主から愛されているキリスト者、彼らも主の愛を至上と見るでしょう。
ですが、キリスト教の神とエロスを交えることは、不可能であります。
そんな中で、神さまと恋愛する、と言うように、自分から教団で至上の信仰をすることが要請されます。
至上の信仰をする「素晴らしい者」は、神さまを大切にできるはずです。
キャスト(奴)も監督(主)を大切にする、そのうえで、相互承認が達成されるのです。 監督(主)もキャスト(奴)を愛していて、両想いなら、相互承認が実現されたことになるでしょうか。
へ―ゲルはいう。「お互いを対等で『自由』な存在として認め合うことをルールとした社会を作ること以外に、自由に平和に生きる術はない」
ヘーゲルは自由の相互承認論を語るが、監督とキャストの間ではそうではなく、愛の相互承認が出来上がっているのです。
しかしながら、キャストが神さまを信仰しているとしたら、いかがでしょう。
キャストは神さまも愛すけれど、監督も愛しているとすれば、いかがでしょう。
監督(主)は、キャストが神さまを愛してもいいと許容するでしょうか。
監督は愛してもいいといいつつ、少し微妙感をもって生きるかもしれません。
キャストは愛したい存在を愛し続ける、ただそれだけなのです。 監督は二者択一に狭まれます。神さまを愛するか、愛しないか。これは愚問かもしれません。
監督は、一応、好んだキャストと交わろうとしますが、神さまは見えないため、手を出さない可能性があります。
神さまの意見を借りれば、監督はキャストを狙っていて嫌だ、だから監督を裁く、という内容です。
監督はうすうす神さまの視線に気づいていますが、キャストを求めて生きることを重視しています。
神さまはどうでしょう。あなたなら、監督が嫌になったでしょう。そこで監督はどうなるか。
神さまが憎んだ監督は神さまに処刑されてしまいます、あるいは、処刑人を介して処刑されるおそれがあります。
これは普通のことなのでしょうか。神さまの指図で処刑が起きることは、普通の事なのでしょうか。 神さまは処刑家としての一歩を歩み始めます。監督が「エロいから嫌だ」というのです。
そこで神さまは監督を裁きます。これは普通の事のように思えます。
監督は神さまに抗うすべもありません。どうしても裁かれることは不可避です。
そこで、監督は助けを求めるようになります。それはキャストに対して芽生えます。
監督は言います。「キャストの君よ、裁かれるんだ。どうにかしてほしい」
そう言われたキャストは戸惑います。「監督も抗えないのに、どうして私が抗えるでしょう」
監督は挫折を味わいます。自分を救う存在はこの世に存在しないのだ、何たる現実だろう、と。 自分を救ってくれる存在はどこにもいない。これが監督の絶望感です。
キルケゴールはいう。「死に至る病は、絶望である」
監督は死に至る可能性も考えられます。しかしながら、神さまに対して呪文を唱えることを思いつきます。
神さまは万能であるため、呪文を回避できるでしょう。
監督も呪文では神さまに勝てないと学びます。
むしろ神さまの方が監督に呪文をかけ放題なのです。
ハリーポッターと賢者の石で有名なあの映画では、杖で呪文を唱えます。
神さまには効果がありませんが、神さまはもっと自由に呪文を使うでしょう。
呪文対決で神さまには上手くいきません。神さまは呪文耐性があります。 監督はそうこうして勝ち目がないと悟ります。恐怖感が増していきます。
神さまはいいます。「監督さん、私に攻撃しようとするなら殺しますよ」
監督は畏怖するかもしれません。「分かりました、あなたに服従します」
遂に監督は神さまに対して服従宣言をします。「あなたに殺されるくらいなら、僕(しもべ)でありたい」
キャストはこの光景を見て驚きます。「監督さん、あなたは神さまに頼るのですね」
神さまに頼ること、信頼すること、それらは僕(しもべ)の必須項目でしょう。
しもべである監督は、キャストの気持ちがわかります。キャストも監督に頼ります。
キャストが私に頼る気持ちがわかる、そう監督は実感します。 監督のしもべであるキャストは監督を助けたくなります。
その一方で、キャストは神さまに願いをかける、大仕掛けに賭けようとします。
キャストは、神さまに「監督を許すように」説得をしたり願ったりします。
「神さま、どうか監督をお許しください、もうあなたのしもべなのですから」
そうこうて神さまは監督を許すことを認めます。
言うことを聞いてくれたと知ったキャストは喜びます。
「私も監督もあなたの許しがあることを喜んでいます。神さま、ありがとうございます」 神さまは監督を許すという一大事が起きています。
監督はキャストと同様、神さまに許されたことを喜びます。
「神さま、私をお許しくださり感謝しています。」
監督は少しでも攻撃性があったことを悔やみます。
「お詫びの証と致しまして、あなたのしもべとしての活躍を懇願します」
神さまは監督がしもべとして自分に仕えることを認めます。
「あなたの思いは強い。しもべとして活躍することを命ずる」
監督はまた喜びます。しもべとして活躍できると意気込みます。 キャストは、監督が神さまに仕えることを、予感していました。
「監督、神さまに背くことなきよう努力しましょう」
「もちろんだ。キャストも神さまにしもべに?」
「監督にも神さま、両方にも仕えたいです」
神さまもキャストがしもべとして自分に仕えることを認めます。
監督は言います。「両方のしもべとは、これは大物だろうか」
神さまは言います。「本物ならこれから咲きますよ」
キャストは言います。「本物でも重鎮でもいいですよ」 キャストは神さまと監督とのどちらを支持するのが妥当でしょうか。
どちらを上だと信じるのが妥当でしょうか。
そして一方より好きになる方はどちらが妥当でしょうか。
これらの問いはじっくり見ていきましょう。
キャストは神さまを支持しているけれど、それは監督を支持しないという正当な理由になるでしょうか。
結論からいえば、キャストはどちらも支持していいのです。 キャストは神さまも監督もどちらも愛しているのだから両方支持していいのです。
また、上だと信じるのは、監督より権力のある方は神さまなのですから、神様を上だと信じるのが妥当だと思われます。
一方より好きになる方は監督との相互承認を懸念してキャストは神さまより監督を好きになるべきでしょう。
神さまと恋愛をしてはいかが、という意見もあるでしょうが、キャストは監督と愛し合った方がよいのです。
それに比べて神さまは公衆の面前に現れるわけではないので、愛し合うことはありません。
愛し合うことはなくても、大衆から好かれるのが神さまなのです。 神さまの権力>監督の権力>キャストの権力
このような権力の階層が妥当だと思われます。
神さま>監督≧キャスト (強さの階層)
神さまは見えないためとらえるのが難しいですが、監督とキャストは似たりよったりです。 キャストは重鎮であると、神さまは言います。また、監督は「本物」とキャストに言います。
キャストは重鎮と言われて喜び、また本物と言われて喜びます。
この喜びがキャストの至上の喜びなのです。褒められた喜びはかけがえのないものです。
ここでキャストと神さまの相互承認が確立します。
神さまを認める心、それをキャストは維持しています。
監督もキャストを認める心、これを維持しています。
神さまは監督を認める心を維持しています。
昨日の敵は今日の友、とはよく言ったものです。
神さまは遂に監督を認めたのです。 古代の哲学者=ソクラテスは、「無知の知」を唱えました。
自分が何を知らないかを知る、つまり自分の無知を認識することを指します。
キャストは振る舞いは上手なのですが、あるとき神さまに
「キャストは何も知っていない。つまり無知である」と言われました。
キャストは落胆しました。そこでこう言います。
「私は無知でも想いを大切にして内側の声を聴いてそして判断/行動をしています。
想いは強い場合があるのです。知っていない方でも私は想いに賭けています。」
神さまは頷きます。「ほっほっほ。無知だとして責めて悪かった」と神さまは言います。 監督は、キャストの想いの強さ、そして内なる声を聴いていることに驚きます。
「内側の声、内なる声、とはどうやって聴くのだ」
「耳をすませば」
「それでいい。では本物と言われているのに無知だとはなんぞや」今度は神さまに言います。
神さま「しくじっただけじゃ。神々もしくじるのじゃ」神さまは答えます。
キャストは言います。「私は無知ではありません。ただ、勘違いされただけです」
神さまは言います。「ふむ。大物が無知であるわけはないか」 三分を紹介。
>>序分 - 序説の部分。その経典が説かれる所以(ゆえん、理由)や因縁を明かす
>>正宗分 - 本論の部分。その経典の中心となる教説を述べる
>>流通分 - その経典の功徳を説き、弟子に附属し、後世において受持し流布することを述べる
序分では経典が説かれる理由を語ります。正宗分では経典の中心になる教説を述べます。
流通分では後世に向けた経典を言います。
しかしながらお釈迦様は経典を書いておられません。ここでは仏とブッダを登場させます。
仏「神さま、私も監督が嫌いです。エロいと聞いております」
ブッダ「仏さん、私も少しエロいところがあります。大目に見てくれませんか」 仏さんは言います。「釈迦は仏典を作っていない」
「偽典が残っているのだ」「釈迦に弟子はいなかった」
と淡々と力説します。
ブッダは訊きます。「釈迦が悟りを開いたのは本当ですか」
仏「いいえ、釈迦は悟りを開いていません。これは私が知っている自信のある一説です」
神さま「仏典の内容の一部が偽りなんですね」
仏「ええ。釈迦は名言を残したと伝わっていますが、名言も残していません」
ブッダ「では《行為によっては未来は変わる》という教えも釈迦の教えではないと?」
仏「ええ。釈迦はそのようなことは教えていません。バーニングストライブなら言っていました」
ブッダ「どういう意味ですか?」
仏「『釈迦いい釈迦いい釈迦いいいい』という意味です」 監督「釈迦いいいい、とは何語だ?」
仏「女子語の意味ですよ」
監督「女子語とは?」
ブッダ「言葉の意味が大事なんです。ファイアー気になりませんか」
仏「ファイアーはファイファイファイファイとかですかね」
ブッダ「そうですね。いい、強い、という意味もあるんですよ。
カタカナが女子語で意味の印象がいいときに使うんです」
神さま「ファイアーロケットはどういう意味なのじゃ」
ブッダ「ファイファイファイファイファイという意味です」
仏「ではブッダさん。ファイはどういう意味ですか」
ブッダ「フェイ ロー という意味です」
仏「フェイ ロー ですか。勉強になりました」 ブッダ「ファイファイというファイが二つ分の言葉もあります」
仏「いいんだけどな、という意味ですか」
ブッダ「そういう意味もあります。どうして分かったんですか」
仏「直観です。直観が働けばいいと思います」
監督「女子語を解読する、というのもいいけどな」
仏・ブッダ「解読なんていいですね」
神さま「私は勘です」
キャストが会話に入りたがっていた。
キャスト「私は女子語は感じてわかったりします」
仏「勘、感じ、なんて素敵ですね」
ブッダ「本当に素敵ですね」 神さま「素敵とはどういう意味じゃ」
仏・ブッダ「ファイア、です」
監督「また同時に言った」監督は、ははっと笑った。
神さま「直観かね」
仏「直観です」
ブッダ「私は意味を想ってしまうのです」
キャスト「ファイアはたくさん出てきますね」
監督「女子語の意味に?」
キャスト「ええ。女子語の意味に」
神さま「ミカンはどうじゃ」
ブッダ「ファイファイファイファイファイファイファイファイロー神です」
神さま「長いけど神があって良かった」
仏「髪があって?」仏は少しからかった様子だった。 監督「仏典のメリットは何だろう」
ブッダ「仏教を学ぶ際に大事な手掛かりになるでしょう」
仏「般若心経の内容は覚えて損はないでしょう」
神さま「感じだらけで覚えられるといいのじゃが」
キャストAとキャストBが忍び寄ってきた。
キャストA「座禅や修練なんかは知ってみたいよね」
ブッダ「瞑想なんかは座禅でやるでしょう」
仏「どんな瞑想がいいか分かる?」
神さま「ヴィッパサナー瞑想はどうじゃ」
監督「色々あるんだ」
キャストA「そのヴィッパサナーってどういう意味?」
ブッダ「フェイフェイフェイフェイフェイ、という意味ですね」 仏「またそうやって当てる……ブッダちゃん」
ブッダ「仏さんでも当てられるでしょ。意味くらい」
神さま「わしもフェイ系統だと思っていた」
キャストB「フェイフェイフェイフェイカイはヴィッパサナー瞑想だよ」
監督「フェイをカイに換えたらそういう意味だな」
キャストA「至極真っ当ってどういう意味?」
ブッダ「監督いい、という意味ですね」
仏「監督にはいい感じのする言葉ですね」
監督「ではひらがなだけど『しきょくまっとう』は?」
ブッダ「監督良し、だと思います」
仏「同意です」
キャストB「トルマージャは知ってる?」
キャストA「監督がいい、という意味でしょうか」 キャストB「それで当たってます。ではトルマージャUはどうですか」
ブッダ「監督がいいんだよ、という意味ですね」
仏「何だか微笑ましいですね」
監督「トルマージャとかそういう女子語はどうやって覚えるの?」
神さま「記憶力が要となるじゃろう」
キャストA「言葉を発声して覚えるとかです」
キャストB「文字にしてもいいと想います」
仏「よく繰り返してみるとか」
ブッダ「覚えると想っておく、でしょうか」
監督「色々あるんだ」
キャストA「ところでロクセンダンはどういう意味でしょう」
キャストB「文字がヒントだよ」
ブッダ「文字にしてもいい、という意味です」 キャストA「文字にしてもいい、という意味ですか。納得です」
仏「色々あるんだ、はどういう意味ですか」
キャストB「監督いい、という意味です」
神さま「監督いい、なんて監督は喜ぶじゃろう」
監督「うれしい……」
キャストB「監督ってファイアですよね」
ブッダ「そうですよ。ファイアがヒントなんです」
キャストAは六法全書を暗記したいと意気込んでいた。
キャストB「六法全書を丸暗記したいのかい」
キャストA「そうなんです。何とか読破したいと思います」
神さま「無理はするなよ。少しずつでよい」
仏「コツコツコツコツでいいんじゃない」
キャストAは何だか嬉しくなった。そして本屋へと去って行った。 仏「嘘も方便という言葉は、釈迦は言ってないんですよね」
神さま「釈迦が言ったイメージがあるが」
ブッダ「仏の顔も三度まで、も言ってないと仏さんから聞きました」
キャストB「仏典の嘘なんですかね」
ブッダ「何で嘘が出回るのでしょうね」
仏「僧侶の捏造したお話なんですよきっと」
神さま「そうに決まっとるわい」
仏典には多くの嘘が含まれていることを警戒したい。
釈迦は悟っていないのだから、変性意識がどうのこうのという問題ではない。
また、意識は文学だというお話もやや真実から離れたものに違いない。 神さま「ルンドラドムはどういう意味なのじゃ」
ブッダ「神いい神いい神いい、という意味ですね」
仏「またブッタちゃん当てる」
神さま「ほう」
キャストB「悟空癖もいいですよ」
仏「どういう意味?」
ブッダ「神(いいいいいいいいいいいい)、以上です、という意味です」
神さま「勉強になるのう」
こうした監督いいであるとか神いいという女子語をしっかりとおさえておきたい。
ブッダは意味を知ることのできる優秀であるけれど、どこかあどけない存在なのだ。 監督は、自分に関する知識が手に入って満足していた。
神さまも神いいだとかそういう意味がわかって上機嫌だった。
キャストAは読書家だった。キャストBは接客業に務めていた。
仏は努力家だったが、ブッダは言葉の意味ばかり考えていた。
監督は主である。キャストに従事させ、どの文章がよかったのか、
そして給料の8割以上の収入を監督に与えさせた。
神さまは怒った。収入の8割ももぎ取るからである。 監督は、キャスト達を金目のために利用したことがバレていることに気付いた。
監督「神さま、あなたにバレたのですか」
神さま「何の利用か詳しく」
監督「ネット上の文章の中でいい文章、為になる文章を要請したんです」
神さま「ほう。他には」
監督「キャストの収入を横領していました」
神さま「横領していけぬな」
監督「やはりダメなのですか。そうなら自殺して終わります」
監督は自殺した。神さまの王室を出た後でだった。 監督はいなくなってキャストは横領されなくなった。
仏「監督……」
ブッタ「か、かんとく……」
神さま「もう帰ってこないのう」
キャストA「哀しい、……」
キャストB「うん……」 神さまは黙って考え込んでいた。監督の事だ。
自殺して正しかったのか、天秤に掛けたかったのだろう。
以下引用
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自殺と子供をつくらないこと
埴谷雄高『死霊2』(p140〜)によると、この二つだけが、人間が正真正銘の自由意志でおこなえることだそうです。
ーーーーーー
埴谷氏の意見で言うならば、監督は自分の自由意志で自殺を行ったのです。
神さまは、監督の自殺の意義を考えていましたが、自由意志だったと学びました。 贈与には生前贈与と暦年贈与があるでしょう。
生前贈与とは親が生きている間に子へ贈与するものです。
暦年贈与は生前贈与の一種です。控除額は毎年110万。
恩を返すということは、贈与になることでしょう。
そのような贈与を監督はキャストにしませんでした。 >>6にカバーできていないと書いた。
>>神がいるのか、魂はあるのか、こういった形而上学的な側面をカバーできていない。
誰も理性で神がいると分かっているわけでもなく、魂も分かっていない場合も多々ある。
しかしながら、イエスの文献に見られる天の父というワードに感化されて、キリスト者は天の父を「存在する者」と視る。
魂においては、わたくしの知り合いである、二瓶さんが、「魂は永遠だよ」と二度もお話してくれたので、
きっと私は永遠に生きるイエスキリストなのであります。永遠の命は神様の許可があるからでしょう。